子規は、脊椎カリエスを患い、ほとんど寝たきりの生活を送りながら、俳句や短歌の革新を遂げ、わずか35年の生涯を終えました。
その闘病生活を綴った「仰臥漫録」にうかがえる子規の食いしん坊ぶりには、思わず笑ってしまいます。延々と食べたものの記録が続きます(時にはスケッチ付き)。例えば、死の前年の明治34年の9月13日、
便通及繃帯取換
朝飯 ぬく飯三碗 佃煮 梅干 牛乳五勺紅茶入 菓子パン二つ
便通
午飯 粥三碗 堅魚(かつお)のさしみ みそ汁一椀 梨一つ 林檎一つ 葡萄一房
間食 桃のかんづめ三個 牛乳五勺紅茶入 菓子パン一つ 煎餅一枚
夕飯 稲荷鮓(いなりずし)四個 湯漬半碗 せいごと昆布の汁 昼のさしみの残り
焼せいご肴古くしてくわれず 佃煮 葡萄 林檎
食べすぎでは…? 案の定、翌14日、
午前二時ごろ眼さめ腹いたし 家人を呼び起こして便通あり 腹痛いよいよ烈しく苦痛堪へがたし この間下痢水射三度ばかりあり 絶叫号泣 (中略)
氷片をかむ あるいは葡萄酒に入れて 牛乳 葛湯 ソツプ 飴湯
翌15日には回復!と思いきや…
昨夜疲れて善く眠る
牛乳 葛湯
昼飯 粥三碗 泥鰌鍋 牛乳 菓子パン 水飴
午後二度便通あり
夕飯 粥二碗 佃煮 味醂漬 飴湯
大阪青々より奈良漬を送り来る
加藤義叔母飯田町まで来たるついでなりとて来らる 土産味醂漬と薩摩流あげ蒲鉾
夕暮前やや苦し 喰過のためか
そこまでして食べるか!?と言いたくなりますが、全身の痛みに耐え、背中に開いたいくつもの穴を覆う繃帯を呻きながら取り替えてもらうという日々の中で、食べることは唯一の楽しみだし、執念でもあったのでしょう。
でも、だんだん笑えなくなります。10月13日、同居の妹も母も外出して一人になります。
…自殺熱はむらむらと起つて来た… しかしこの鈍刀や錐ではまさかに死ねぬ 次の間に行けば剃刀があることは分かって居る その剃刀さへあれば咽喉を掻く位はわけはないが悲しいことには今は匍匐(はらば)ふことも出来ぬ… 死は恐ろしくはないのであるが苦(くるしみ)が恐ろしいのだ 病苦でさへ堪へきれぬにこの上死にそこなふてはと思ふのが恐ろしい… 考へて居る内にしやくりあげて泣き出した…
あの食いしん坊記録も途絶え、明治35年6月からは「麻痺剤服用日記」に変わります。1日1回だったモルヒネ服用が、昼夜問わずで2回、3回と増えていきます。
その子規が、死の3か月ほど前の6月2日、「病床六尺」にこんな日記を残しています。
余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
と言いながら、決して「平気で」いられたわけではなかったようです。
誰かこの苦をたすけてくれるものはあるまいか。誰かこの苦をたすけてくれるものはあるまいか。(原文傍点あり)
そして、「五体すきなしといふ拷問」をかこちつつ客人を迎え、俳論を展開し、句作を続け、最期の日を迎えたのでした。
寝たきりの子規にとって、「病床六尺」とそこから臨める小さな庭が世界の全てでした。子規は赤が好きで、妹の律は、どの季節でも赤い花が楽しめるようにその庭を造ったとか。
鶏頭の十四五本もありぬべし
実は私は、俳人の端くれの端くれです。今は忙しくて句作からは遠ざかっていますが、この時期になると身が引き締まります。根岸の子規庵は私にとって聖地だし、正岡子規という存在は、俳人としてだけではなく、人間として、一つの魂として、ある指標を示してくれます。「悟り」とは、悟るとか悟れないとかの意識を超えたところにあるのでは、と思わされます。
子規の見し一坪ほどの秋の空 ごてごての庭こそよけれ鶏頭花 (拙句)
心理面接室TAO 藤坂圭子
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