親の愛は偉大です。
名付けには、こんな風に育ってほしいという切ないまでの願いが込められます。
我が身を犠牲にしても、子どものために多大な時間とエネルギーを割き、よかれと思われることを精一杯伝え、子どももそう生きられるよう最大限の配慮を払います。
にもかかわらず、「どうしてこんなことになるの!?」と呆然としてしまうような事態に陥ることがあります。
子どもが突然不登校になったりすると、親として焦るのは当然です。とにかく学校に行かせねば。それは無理でもせめて勉強だけは続けさせねば。この複雑な世の中を生き抜く大人になるためには、今躓かせるわけにはいかない。皆と同じように足並みを揃えさせ、間違っても「負け組」の子にさせてはいけないと思うのは、親だからこそです。
けれども、焦れば焦るほど事態はこじれます。子どもの気持ちが置き去りにされるからです。
人は自分の思い通りにはならないものです。たとえ我が子であっても。
大人はそれぞれ、思春期の混乱を潜り抜け、頑張って今の生活を築いています。こうすれば上手くいくという成功哲学を子どもに引き継いでもらいたいのは当然です。が、子どものためを思う「親心」が、実は親の一面的な価値観の押し付けになっていることがよくあります。
自分一代は成功しても、その理念が人に通用するとは限りません。基本的に、自分と人とは違うのですから。
子どもが困難な状態に陥ったとき、自分自身を振り返ってみませんか? 自分もどこかで自分の気持ちを置き去りにしていなかっただろうか? そこから目を背け、封印しようとしていないだろうか? その親が封印した面を、図らずも子どもが引き受ける羽目になるということも、よく起こります。生き方の偏りは、世代間で補償されるのです。
一個人としてのありのままの子どもを認められない、許そうと思ってもやはり腹が立つ、いけないと思ってもつい叱り飛ばしてしまう…。この背後に、未解決の自分自身の親との葛藤や、不安や恐れや淋しさが隠されていることも多いです。
子どもの問題は、これらに気づかせてくれるための無意識の反乱かもしれません。「私はこのままでは息が詰まる。お父さんお母さんも、もっと楽に生きようよ」って。
今の困難は、子どもが与えてくれたチャンスかもしれません。今一度、自分を振り返り、置き去りにされた自分の感情を癒し、十分に生きてこなかった面を生き直すことです。親がおおらかにトータルな人生を楽しめるようになると、子どもも確実に変わります。
心理面接室TAO 藤坂圭子
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