2017年02月

 親の愛は偉大です。
 名付けには、こんな風に育ってほしいという切ないまでの願いが込められます。
 我が身を犠牲にしても、子どものために多大な時間とエネルギーを割き、よかれと思われることを精一杯伝え、子どももそう生きられるよう最大限の配慮を払います。
 にもかかわらず、「どうしてこんなことになるの!?」と呆然としてしまうような事態に陥ることがあります。


 子どもが突然不登校になったりすると、親として焦るのは当然です。とにかく学校に行かせねば。それは無理でもせめて勉強だけは続けさせねば。この複雑な世の中を生き抜く大人になるためには、今躓かせるわけにはいかない。皆と同じように足並みを揃えさせ、間違っても「負け組」の子にさせてはいけないと思うのは、親だからこそです。
 けれども、焦れば焦るほど事態はこじれます。子どもの気持ちが置き去りにされるからです。
 
 人は自分の思い通りにはならないものです。たとえ我が子であっても。
 大人はそれぞれ、思春期の混乱を潜り抜け、頑張って今の生活を築いています。こうすれば上手くいくという成功哲学を子どもに引き継いでもらいたいのは当然です。が、子どものためを思う「親心」が、実は親の一面的な価値観の押し付けになっていることがよくあります。
 自分一代は成功しても、その理念が人に通用するとは限りません。基本的に、自分と人とは違うのですから。

 子どもが困難な状態に陥ったとき、自分自身を振り返ってみませんか? 自分もどこかで自分の気持ちを置き去りにしていなかっただろうか? そこから目を背け、封印しようとしていないだろうか? その親が封印した面を、図らずも子どもが引き受ける羽目になるということも、よく起こります。生き方の偏りは、世代間で補償されるのです。
 一個人としてのありのままの子どもを認められない、許そうと思ってもやはり腹が立つ、いけないと思ってもつい叱り飛ばしてしまう…。この背後に、未解決の自分自身の親との葛藤や、不安や恐れや淋しさが隠されていることも多いです。
 子どもの問題は、これらに気づかせてくれるための無意識の反乱かもしれません。「私はこのままでは息が詰まる。お父さんお母さんも、もっと楽に生きようよ」って。
 
 今の困難は、子どもが与えてくれたチャンスかもしれません。今一度、自分を振り返り、置き去りにされた自分の感情を癒し、十分に生きてこなかった面を生き直すことです。親がおおらかにトータルな人生を楽しめるようになると、子どもも確実に変わります。
 
                            心理面接室TAO 藤坂圭子
                            HP: http://tao-okayama.com

 前回に引き続き、言葉と心についてです。
 カウンセリングは、主に言葉によって進んでいきます。心情にピッタリの言葉、または言葉の奥にある実感を、クライエントとカウンセラーとで丁寧に辿っていく緻密な作業です。言葉と心情が一致したとき、不思議なもので、それがどんなに苦しいものであっても、スッキリした気分になるものです。時には涙があふれることもあります。
 自分が分かる、そしてそれを誰かと共有することで癒しが生まれるのだと思います。
 
 以下の文章は、以前に私がスクールカウンセラーとして発行した、保護者向けの「スクールカウンセラーだより」からです。
 一人でも多くの人が、心と言葉が豊かになって、自分の人生が生きられるよう願います。

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 最近の子どもは、なかなかうまく自分の気持ちを表現できません。
 「う~ん」、「別に~」、「うざい」、「やばい」など、単純な言葉ばかり。そもそも、表現しようにも自分の感情がよく分かっていないのです。なぜでしょう?また、どうしたら人は自分の気持ちをちゃんとつかんで、表現できるようになるのでしょう?
 
 人は、「オギャー!」と生まれたとき、恐怖の固まりです。この世が何であるかさっぱり分からないのですから。お腹がすいては泣き、おむつが濡れては泣きます。赤ん坊にとっては何が起こっているか分からず、生きるか死ぬかの恐怖です。
 それを大人が、「ああ、お腹がすいたのね」、「おむつが濡れて気持ち悪いのね」と言いながら世話をすることで、「ああ、自分はお腹がすいてるんだ…」と分かっていきます。
 もう少し大きくなって、子どもが友達と喧嘩して泣いて帰ったとき、「悔しかったね」と迎えると、「ああ、これが『悔しい』という気持ちなんだ」と初めて知ります。または、「腹が立つ」だったり、「つらい」だったりするかもしれません。
 つまり、世の中のことも自分のことも全然分からない子どもが、自分の気持ちをつかんで表現していくためには、大人が子どもの気持ちを想像し、それを適切な言葉で代弁してあげることが必要なのです。そうやって、子どもは「心の襞(ひだ)」を増やし(「感情の分化」)、それにふさわしい言葉を覚え、表現できるようになります。

 たとえば、「悲しい」にもいろいろあります。大切なペットが死んじゃって「悲しい」、友達がつらい目に遭っていて「悲しい」、自分一人だけうまくできなくて「悲しい」。はたまた、小林秀雄が「モーツアルトの悲しみは疾走する」と言ったり、大伴家持が「うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しもひとりし思へば」と詠ったりしたような、「存在の悲しみ」というのもあるかもしれません。「悲」がいいのか、「哀」がいいのかも、議論の分かれるところ(*「愛」もあります)。

 「心の襞」が多すぎるのも生きていく上では一苦労ですが、自分をよく分かってこそ、自分が望む生き方、自分にぴったりの生き方が見つかります。そして、他者への思いやりの心も育っていきます。「心が豊か」とは、こういうことだと思います。
 「心の襞」がうまくできず、感情を一つの固まりとしてしか自覚できない子どもは(「感情の未分化」)、簡単に「キレ」てしまいます。そういう子どもたちの腹立ちの奥には、本当は「悲しみ」や「寂しさ」や「切なさ」が、渦を巻いているかもしれません。


                          心理面接室TAO 藤坂圭子
                          HP:http://tao-okayama.com

 最近、若者言葉が乱れていると言われます。というより、いつの世も言葉は「乱れる」ものです。
 私は、言葉が変わることを問題だとは思いません。人の心情が変わると言葉は変わります。言葉はやはり、「身に馴染む」ものがいいです。どんな場面でも、借りてきた言葉ほど嘘っぽいものはないですから。嘘っぽい言葉では、人と人とはつながれません。
 
 高等学校で国語を教えていたとき、テストで「ら抜き言葉」に遭遇するたびに、1点引かなければならないのが苦痛でした。私だって「見れる」「食べれる」の方が、よっぽど言いやすい。「けど」とか「やっぱり」とかの俗語も、今書いた「とか」も、「~たり」を1回しか使っていない場合も減点です。日本語として正しくないのかもしれないけれど、こっちの方がよっぽど実感がこもっているのに、と思っていました。
 けど、これらの言い回しは、もうしばらくしたら「正しい日本語」として認められ、堂々と国語辞典に載る時代が来そうな気がします。 
 
 しかし、「ヤバい」はやばいのではないか、と思っています。
 おいしそうなケーキや素敵な服を見つけて、「ワー、ヤバい、これ」。アイドルの映像を見て、「ヤバい、ヤバい!」。愛くるしい赤ん坊の笑顔も、美しい夕暮の光景も、「ヤバい、ヤバい、ヤバい!!」
 もちろん、これらの「ヤバい」は、ポジティブで実感のこもった「生きた言葉」であるのは分かります。が、私はそこに「心を奪われることへの怖さ」を感じます。

 好きなものや自然や芸術に没入する、我を忘れるような至福の時間は、人間誰しもが求めるものですが、そこにいざなわれることへの一瞬の抵抗を「ヤバい」に感じます。「ヤバい、私が連れて行かれる…!」。
 その癖、本当に簡単に「私」を奪われて、そのものに飛びついてしまう。その時にも、その後にも「主体」がない。
 つまり、主体性なしに流されてしまう今日の若者気質が、「ヤバい」に反映されているような気がするのです。身近な恍惚体験のみならず、大いなるものと一体となる本質的な体験に対してもとても警戒心が強く、いつも漠然とした不安の中で暮らさざるを得ません。「主体(自我)」がしっかり出来上がっていると、怖いはずはないのですが。

 10年ほど前は、「ビミョー」が流行り、あの時もやばいと感じていました。「気に入らない」も「悲しい」も「表現できない」も、全て「ビミョー」。そんな単純な言葉に依存していると、いつまでたっても自分の感情の機微は認識できません。

 感情が未分化で、主体(自我)が育っていない若者が増えています。彼らがこれから大人になり、子どもを育て、社会を担っていくのですから、やはり日本の未来を危惧してしまいます。
 流行り言葉が問題なのではなく、その意味を問わないこと、安易な表現に逃げ込むことが、大きな問題だと思います。

                      心理面接室TAO 藤坂圭子
                      HP:http://tao-okayama.com 

     

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