2017年05月

 今、「働き方改革」が叫ばれています。法整備が検討され、労基の監督が厳しくなり、テレワーク等の新たな勤務形態も工夫され、長時間労働は少しずつ是正の方向に向かっていると思います。
 しかし、それで私たち日本人の生活や心は、本当に豊かになっていくでしょうか?
 
 そもそも、どうして日本人はこれまでこんな過酷な長時間労働をいとわなかったのでしょう。
 私の欧米人の友人は、日本人の働きぶりをよく「クレイジーだ!」と言います。県庁の明かりが夜遅くまで煌々と照っているのを見ても、決して「残業」をしているとは信じません。
 日本人にとって時間外労働は当たり前。定時にさっさと退社すると白い目で見られます。人と足並みをそろえて残業していないと、評価や帰属感が得られないのではという不安に駆られます。

 日本は「グレートマザー」の強い母性社会です。周囲を巻き込み一体感を重んじ、基本的に個人の自由や自立を好みません。日本人にとって一番大切なのは「空気」、一番怖いのも「空気」です。「みんなが残るなら残る」「みんながノーと言わないなら言わない」。
 そんなふうにして会社に身を捧げていると、家庭生活がおろそかになり、家族に疎まれ、「亭主元気で留守がいい」となります。家にいるより会社にいる方がマシで、ますます長時間労働が常態化していきました。
 でも、「終身雇用・年功序列」制度に守られているので、まあこんなものかと思うしかありません。
 
 こうして、戦後日本は奇跡的な復活を遂げ、世界第2の経済大国にまで成長しました(今は落ちましたが)。私たち現役世代はその恩恵に浴しているのですから、感謝しなければなりません。
 でも、現在、その世代の方々の老後はというとどうでしょう。子や孫の心配は絶えず、認知症、老老介護、孤独死は急増で、「下級老人」という言葉さえ生まれる時代になってしまいました。本当に残念です。
 戦後は「第2の軍国主義」とも言える時代だったと思います。暗黙の裡に「滅私奉公」が求められ、「出る杭は打たれる」とか「長い物には巻かれろ」というような風潮の中で、「自分」を作る余裕はなかったでしょう。意見を主張し、家庭を大切にし、人生を楽しむということができなかったばかりでなく、次世代がうまく育たず、社会全体が非常に不安定になっています。

 「働き方改革」に甘えてもいられません。働く世代が「空気」に流されない確固とした「自分」を作っていかないと、この連鎖は止められないのではないでしょうか。
 ネガティブな「グレートマザー」(女性や母親だけの問題ではありません)から心理的に自立し、自分自身を大切に生きることにもっと価値を置くべきです。そうしてこそ、他者を尊重でき、次世代を強く育むこともできると思います。
 個人と社会の幸せのための「働き方改革」ですから、「生き方改革」も伴わないと、この空転状態がさらにこじれることになりそうで怖いです。


                          心理面接室TAO 藤坂圭子
                          HP:http://tao-okayama.com

 今週日曜日は母の日でした。
 生んでくれ育ててくれた母親に感謝したいところだけれど、どうしても母親を許せないという中高年の方がたくさんいらっしゃいます。
 思春期の頃に「くそばばあ!」と吐き捨ててプチ家出でもできていたら、「あのころはお互いに大変だったけど…」と、今は笑い話にできるのかもしれません。
 けれど、その頃は特に母親のことなど意識せず、学生時代も無難に乗り切り、でも年齢を重ねるにつれて何だか生きるのが苦しくなり、どうしてこんなに息苦しいんだろうと問い続けて、はたと「母親だった」と気づくのです。
 「父親だった」ということもありますが、圧倒的に「母親だった」が多い、または強いです。

 小さいころから、「~しなさい」「~してはダメ」と支配され、人の目を気にすることを強いられ、自分を大切にすることなんてまったく教えてもらえなかった。あらゆることにおいて先回りしてお膳立てされ、自分の思うようにはさせてもらえず、いまだに子ども扱いをやめてもらえない。ちょっと反抗すると、「私がこれだけしてあげているのに」「どうして私が悪者にならなきゃいけないの?」と逆ギレされる…、などという話がヤマほどです。
 親が若ければともかく、もう高齢になった親をそう邪険にもできない。でも、私の人格を認めず、私の人生を奪った母親を、どうしても許すことはできない。
 切実な叫びです。

 母親にしてみれば、子どもは十月十日は自分のお腹の中にいて、間違いなく「自分の一部」だったわけで、分娩後も「子どもは自分のもの」という感覚をぬぐえないのは生理的に当然です。
 子どもが女の子の場合はより一体感が強く、母親は支配的になりがち。男の子の場合は、フロイトも言ったように異性愛的な要素も加わるので、過保護になりがちです。母親に取り込まれた男性は心理的に去勢されたようなもので、社会生活がかなり困難になる場合もあります。
 
 昨年6月のこのブログに、「グレートマザー」について書いていますが、「母性」にはポジティブな面とネガティブな面があって、やはりネガティブな面の影響は深刻なものがあります。特に日本においては。(ただし、グレートマザーは母親・女性に限る特性ではなくて、男性の中にもそして社会全体に潜んでいることは忘れてはなりません)
 でも、上記のような有形無形の母親の支配から逃れようとするとき、母親個人への憎しみだけにとらわれていては、傷つけ合って亀裂を深めるばかりです。その背後にある「グレートマザー」なるものの支配力と、それを育んだ日本の風土のことも考える必要があると思っています。

 それに、戦中世代と戦後世代の価値観や人生観のギャップもあります。
 日本の伝統的な社会ではもともと「個」という意識は希薄で、何より「家」を円満に維持することが重要とされました。女性に「自分の人生」なんてありません(実は男性にも)。ただ「家」の犠牲となり、子どもを「家」ひいては「社会」に奉仕する人材に育てることが至上命題でした。でも、それを地道に頑張ってさえいれば、子どもは順調に育ち、「いいところ」に就職し、結婚し、そしてかわいい孫に囲まれてのんびり幸せな老後を送れるはずだと信じていたことでしょう。
 それが、戦後の高度経済成長に伴って核家族化が進み、個性・自由・多様性が尊重される時代に移り、夢はかなわず、子どもになじられ、親世代からしてみれば悲劇です。
 民族の意識はそう簡単に変わるわけではないので、このズレはまだ何代にもわたって続きそうです。

 私たちは難しい時代に生きていると思います。「自立」というのは、親への裏切りでもあるのです。子にとっても親にとっても、お互いに生木を裂かれるように痛く、苦しいことです。
 それでも、私たちはもはや「自分の人生」を生きるしかありません。それを許さなかった親へのわだかまりは根深く刻まれ、簡単には消えません。が、「親の悲しみ」にも思いを致しながら、親と交渉し続け、丁寧に「自分」を作っていかなければなりません。その先に、親子の和解の時は来るし、こうして一人ひとりが真に「自立」していくことで、社会全体が成熟していくのではと思います。

 
                          心理面接室TAO 藤坂圭子
                          HP: http://tao-okayama.com

 ずっと以前の秋の終わりごろ、あるカウンセリングの研修会に参加しました。最初に小さな演習がありました。窓の外の木の枝を見て、感じたことを短い言葉で言ってみるというものです。
 「ああ、秋も終わりだなあ」、「木の葉が黄金色に輝いていてきれい」、「はかない感じがして淋しい」など、いろいろあったような気がしますが、私にはある女性の「葉っぱが頑張って木の枝にしがみついている」がとても印象に残りました。その女性自身が、いかにも「頑張ってしがみついている」といった雰囲気を醸し出していたからです。細身のしんどそうな方でした。
 講師の先生は、「同じものを見てもみんな感じ方が違いますね」というふうにまとめられましたが、後に心理学を勉強していく中で、あれはあの方の「投影」だったのだと気づきました。
 
 「投影」は自分の感情や欲望を、他者が持っているように感じることです。特にネガティブで認めたくない感情を抱えるのは苦しいので、人間は自分を守るために、それは自分の中にあるのではなくて人が持っているのだと感じるのです。フロイトが言った「防衛機制」の一つです。
 対象をありのままに見るというのは実はとても難しいことで、私たちは知らず知らずのうちに「私色のメガネ」を通して、「私色」に染めて見ているのです。
 
 自分が淋しいと、人も淋しそうに見える。自分の卑怯さを感じないようにしている人は、人の卑怯さに敏感です。甘えたい気持ちを抑圧している人は、甘ったれな人を見るとイライラします。
 自分と同類の人には「鼻が利」きます。それがその人をひどく嫌う原因になったり、反対に「類は友を呼」んで「傷のなめ合い」をしていることもしばしば。
 また、覚えもなく人から嫌われたり妬まれたりするときは、その人からの「投影」を受けていることが多いです。その「投影」が的外れなこともあります。だから、自分に何か悪いところがあるのではと反省して卑屈になるよりは、その人の問題として突き放して構える方が、よほど自分の身のためです。

 いつも怒りっぽくって人に当たり散らしていたり、何事も思い通りにならないと鬱屈した気分をため込んでいる人は、生きているのも本当に辛いと思います。でも、もともと捻くれて生まれついているわけではありません。きっと認めたくない自分の部分がたくさんあって、それをバラバラに「投影」して世の中を見てしまっているのだと思います。

 結局、ありのままの自分を認めるしかないのです。自分の心の見取り図のようなものが把握でき、「これが自分だ」と諦めがつくと、「投影」の必要はなくなります。「私色のメガネ」を外して、そのものの色を見ることができるのです。自他の区別ができるようになると、実に心が軽くなるものです。
 (ちなみに「諦める」の語源は「明らむ(明らかにする)」です)

 冒頭の研修会の場面、私がどういう感想を口にしたかは記憶にないのですが、明るい見方ができてたので、その女性をちょっと気の毒に思ったのを覚えています。けれど、何十年経っても記憶に残るほどの印象ですから、本当は私自身を彼女に「投影」していたのでしょうね。何かにしがみついていたい自分を押し殺して、一生懸命強がっていたのです、きっと。

                          心理面接室TAO 藤坂圭子
                          HP: http://tao-okayama/com
 

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