2017年08月

 先週末、3か月ぶりに東京に行ってきました。ここのところやることが多くて疲れていましたが、すっかりリフレッシュした気分で今週を過ごしています。
 
 富士見ユキオ先生・岸原千雅子先生主宰のインスティチュート・オブ・プロフェッショナル・サイコセラピー(IPP)の、解離についてのセミナーでした。大きなトラウマによる解離性同一性障害(多重人格)などよりむしろ、不適切な養育など小さなトラウマの連続から解離性障害やパーソナリティ障害を負ってしまった方々への心理療法について、微に入り細に入り検討し、例によってディープなセミナーでした。 
 セミナーが終わると、いつも頭はパンパン、体もクタクタです。でも、気分はスッキリ。どうしてだろう?

 TAOに来てくださっている方々がよくなってために私はどうすればいいのか、大切な示唆をいただけること。久しぶりに仲間(私のような地方からの参加者もいっぱいです)と会えて、いろいろな情報交換ができること…。
 いやいや、これらは二の次だ。やっぱり何より、家事からの解放です!
 食事の準備や片付けをしなくていい「上げ膳据え膳生活」。日ごろからずっと気になっている、あの片付いていないところとか、たまっている洗濯物とかも、ホテルにいる今はやりようがないのだから、ほっとくほっとく。こまごまとした雑事のことも、気づいたら忘れてしまっています。この時ばかりは無罪放免。
 それに、私は根っから子どもっぽいところがあって、飛行機が好きです。地上のしがらみから解放される気分です。いつも上野に宿を取ります。大きな蓮池のいい匂いの風に吹かれると、おおらかな心持ちになります。

 兼好法師が「徒然草」の中で、「いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ目覚むる心地すれ」(第十五段)と言っていますが、本当にその通り。どこへでも、ちょっとの時間でも、非日常の「旅」の世界に身を置くと、いろんなことが新鮮に感じられ、気分が入れ替わり、「明日からまた頑張るぞ」モードに入れます。
 こういう時間を意識して自分に与えないと、忙しい現代人は早晩つぶれてしまいます。

 そんな余裕は全くない、あったとしても全く楽しめない方もいます。何かに閉じ込められた気分で、欝々と日々を過ごすしかないこともあります。
 そういう時は、思い切って自分の内界を「旅」するしかありません。うずくまっている洞窟内の探索です。よく目を凝らし、そこにある小石を拾い上げて味わい、丹念に出口を探すのです。その過程で、宝物も見つかるかもしれません。
 兼好法師はこの段の最後で、「寺・社などに、忍びてこもりたるもをかし」とも言っています
 
 でも、苦しい時は、ややもすると宝物に気づかずに取り散らかしたり、さらにうずたかく積み上げて出口を塞いだり、地面を深く掘ってもぐりこんでしまったりします。つまり、ますます自分をいじめてグチャグチャにしてしまいがちです。
 「内界への旅」は一人では難しいのです。関係による傷つきは、関係によってしか癒されないということを、今回のセミナーでも教わりました。同行二人の旅の同行者となれるよう、さらに研鑽を積んでいきたいです。  


                           心理面接室TAO 藤坂圭子
                           HP:http://tao-okayama.com





 憚りながら申し上げますと、「晴れ女」を自任しています。
 10年以上前ですが、そう言えばあまり雨に遭わないなあ、と気づきました。そう気づいたのは、天気予報に敏感になったからです。
 あるときふとエコに目覚め、ゴミを減らし節電も心掛け、通勤も一念発起して自転車に切り替えました。その当時は車でたった10分足らずの学校に勤めていたので、一念発起も何もあったもんじゃないのですが、多くの岡山県人と同じく車に甘えていたので、結構大変でした。

 自転車は便利なようで不便です。夏は超暑いし、日に焼ける! 冬は指先がカチカチ、肌はパリパリになります。防御のためのいろんなグッズや服なども必要になります。それから、荷物をずっと携帯しないといけないので、帰りにちょっとスーパーに寄るにも、両手がふさがって苦労します。でも、何よりやっぱり雨が困ります。
 その頃は雨の日は車にしていましたが、最後の学校では駐車場を借りなかったので、激しい風雨の日もカッパで猛進です。カッパは着たり脱いだりそのあと乾かしたり、そんなことも手間なので、10分は早く家を出なければなりませんでした。
 よく頑張ったものです。今でもできるだけ車を使わないようにしています。

 で、天気予報を毎日チェックするようになったのですが、あれ?雨のはずだったのに…ということが結構あります。いつしか、予定と重なって台風などの予報になっても、きっと大丈夫だろうと楽天的に構えるようになりました。
 東京への研修によく飛行機を使いますが、台風直撃の予報だったのに逸れてくれたり、1週間ずれると雪で欠航だけど大丈夫だったということもしばしば。私が乗った次の便から欠航ということもありました。 
 旅行などでも。バスで移動しているときは降っていて、到着すると上がるとか。不思議なほど傘を差さずにすみます。でも、予報に反して何とか持ってくれたと思いきや、最後の最後に土砂降りにたたられたことも何度かあります。まだ「晴れ女力」が足りません。

 あるとき、どうしても抗議に行かなければならないところがあって、カッカしながら馳せ参じる途中、ポツリポツリと降り出しました。そして、モノ申している最中、物凄い雷雨になり、でもそんなことお構いなしに議論して、一件落着。帰る段になると、ウソのように雨は上がっていました。まるでドラマか映画のようで、面白かったです。

 思いあがってはいけないと思いつつも、何となくお天道様に守られている感じはあります。自然や地球とはやはり仲良くやっていきたいものです。雨は雨でまた一興。いつか、とてつもない天災に見舞われることがあっても、それは受け止めるしかないのでしょう。それが私にできるのかどうかはまだ分かりませんが。
 古代人的な感覚かもしれませんが、最近の異常気象は人間の不遜に対する天の怒りのような気がしてなりません。「北野天神縁起絵巻」のあのかわいい雷神のことなども、何となく恐々と思い起こされる今日この頃です。

                               
                             心理面接室TAO 藤坂圭子
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 「諦める」の語源は、「明らむ(明らかにする)」です。つまり、物事がよく見え、道理が十分に分かったというのが「諦める」なのです。「諦念」とか「諦観」といった悟りの境地とも通じるようです。
 (ちなみに「分かる」も、「分ける」と同源で、他から区別して分ける、他と違ってこれはこういうものなんだ、とはっきり理解して受け入れるということです)

 ある不登校の子どもの母親は、いくら焦らなくていいと言われても不安を拭えず、苦闘の日々を送っていました。ある朝も、子どもは行きたくないと泣きじゃくり、暴れんばかりの勢いでした。ふと母親は、「ああ、この子は私とおんなじだ」と気づきます。苦しいんだ、どうにもならないんだ、と心底分かった瞬間、「諦め」がついて、二人でお出掛けをしました。その日を境に子どもはウソのように元気になり、登校できるようになりました。

 ある大学生は、いろんなことが重なってストレスを溜め、学業も身の回りのことも何もこなせなくなっていました。生活は不規則、部屋は散らかし放題、そんな自分を責めてますます動けないという悪循環に陥り、将来を悲観し、体調まで崩してきたある日、「もう無理!」。そして、「何もしない」と「諦め」て過ごした数日後から、だんだん生活が整ってきました。

 事例なのでぼやかしてご紹介していますが、他にもこんな話はたくさんあります。
 今起こっていること、今の自分にできること(できないこと)が分かり、現実を見定めて受け入れ、等身大の自分で生きようとしたとき、力が抜け、硬直していた事態が展開し始めます。 
 でも、人間ですから、「諦めよう」と頑張って「諦め」がつくわけではありません。その前にいやになるほど「心で悩む」(7/6のブログ見てください)時期を経てのことです。
 「陰極まれば陽に転ず」です。「死と再生」のプロセスと言ってもいいかもしれません。

 とことん理想を追っかける思春期の頃、その理想に押しつぶされそうになって、疾風怒濤の混乱を味わうものです。私もそうでした。苦しかったけれど、その「純粋さ」こそが思春期の特権。振り返れば宝のような日々です。
 そのうち、人生はそう理想通りには進まないということが分かってきます。欲しくても手に入らないものもある。人間や社会には汚い面もある。自分自身だってどうにもならない凡夫で、限界があって、まあこんなもんかと「諦め」ざるを得ない時期が来ます。それが大人になるということなのでしょう。
 でも、こだわりやプライドを捨ててちゃんと大人になれたら、それはそれで身軽で楽で、やれることが増えます。

 人生を諦めてはいけない。でも、「人生諦めが肝心」。
 は~、生きるって苦しいですね…。


                        心理面接室TAO 藤坂圭子
                        HP:http://tao-okayama.com

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