自分には気遣いが足りない、何の取柄もない、これしきの事ですぐに落ち込んでしまう…、などというところでグルグル回っていたその奥に、実は「怒り」があったのです。
それは、たいてい小さいころに遡り、自分のことを大事にしてもらえなかった、分かってもらえなかった、不当に差別された、納得できないことを無理やりさせられたなど、今となってはどうしようのないことでも、フツフツと湧いてくるのです。
その当時、ずいぶん心が傷ついていたであろうに、その「傷つき」さえ自覚できず、自己嫌悪に苛まれて長年過ごしてしまいました。存在を認めてもらうためには、我慢して周囲に従うしかなかったからです。または、「私は傷ついた!」と泣いても、誰も取り合ってくれないだろうと思っていたとか。ましてや、「それは許せない。もっと私を大事にして!」と怒りをぶつけるなどは、思いもつかなかったのでしょう。
あるいは、泣くのも怒るのも大人げない、人間我慢が大事、と思い込んで自制していたのかもしれません。他の人にも事情があったのだから仕方がないと言い聞かせて、自分の「傷つき」や「怒り」を努めて見ないようにしていたということもよくあります。
自覚できない「怒り」は、その人を反社会的な行動に駆り立てたり、反対に自分の方に向いて、うつや自傷行為や自殺の要因にもなったりします。
「傷つき」と「怒り」は表裏一体です。自分の尊厳を踏みにじられたら、傷ついて当たり前だし、当然「怒り」の感情が湧いてきます。理不尽な扱いは大きなことであれ小さなことであれ、許しがたいものです。
思春期の子どもの反抗は大いなる権利主張です。いじめやハラスメントに遭った方、犯罪被害者の方、差別や迫害を受けた方、元従軍慰安婦や徴用工の方などが、声を大にして抗議をされるのももっともです。心からの謝罪が得られたら、どんなに心が軽くなられるでしょう。
けれども、残念ながら「怒り」の受け皿が十分でない場合が多いのです。「やり場のない怒り」ほど苦しいものはありません。
それでも、逃げずに自分の「怒り」を受け入れ、うまい具合に表出できると、その後の人生はずいぶん変わってきます。カウンセリングでは、現実的な対応を考えたり、イメージワークや芸術療法によって昇華させたりします。
不当に怒っているように見える方々もいます。ちょっとのことで自分をないがしろにされたと思い込んで、キレている人たちです。逆恨みを独特の論理で正当化している場合もあります。その方たちの人生は悲しいことに、「お前もか!」「またか!」の連続でしょう。その心の奥にも、誰にも手当されなかった「傷つき」があります。「自己愛憤怒」です。
お互いがもっと誠実に向き合って、一人ひとりが「傷つき」を癒し、「怒り」を収めることができたら、世の中もどんなにか穏やかになるだろうと思います。どこかで悪循環を断ち切りたいものです。
心理面接室TAO 藤坂圭子
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