「あなたを愛している。あなたなしでは生きられない」というのは、果たして「愛」でしょうか? 
 不躾な物言いになりますが、「愛」と「依存」を混同している人がとても多いと思います。いくら素敵な思いであっても、自分がその人にぶら下がって生きているとしたら、それは厳密には「依存」ではないでしょうか?
 「愛」の定義は難しいですが、私は、C.ロジャーズの言葉で言うなら、「無条件の肯定的配慮」が「愛」だと思っています。(2018年9月のブログにちょっと書いています)「無条件」ですから、自分の好みには全然そぐわなても、これがこの人らしさなのだなあと肯定して、温かいまなざしを向けることです。そこに見返りは必要ないでしょう。

 さて、「恋愛と結婚は別」とよく言われますが、その通り。好みの人と結婚しても(そうではなく、妥協の末のこともありますが)、生活を共にすれば早晩、相手の思いがけない面が見えてきます。生活習慣の違いも顕わになります。お互いの性格ばかりでなく、育ってきた家庭文化のぶつかり合いでもあります。
 そのぶつかり合いの中から、新しい文化を紡いでいくには、ロマンチックな気持ちだけでなく、自分とは異なる存在への「愛」が不可欠になります。相手のありのままを尊重しようとする姿勢です。

 企業などの組織の中では、誰しも人間関係の大切さを認識しています。自分の意見を言い、相手の言い分も聞き、建設的な「対話」を続けながら、落としどころを見つけていく。そして、1+1を2以上のものにしていこうとします。
 「家庭」も人間の営みにとって、最小にして最重要の「組織」ですから、相手を尊重しつつ、あらゆる場面で「対話」が必要です。なのに、「結婚」に際しては多くの人が楽天的で、殊更向き合わなくても「愛」があればムードで何とかなる、いちいち言わなくても分かってくれて当然、という幻想の中にいます。

 その「愛」も、相手が自分の好みに合わなくなれば、早々に冷めてしまいます。そして、期待外れの相手を責める気持ちばかりが募ります。家事を手伝ってくれないとか、子育てをしっかりしてくれないとか、金銭管理が甘いとか、自分の親を大事にしてくれないとか。そして、箸の上げ下ろしすら、喧嘩の種になる…。その人を選んだ自分の責任を放棄して、相手に期待し続けるなら、それも単なる「依存」です。
 やがて、結婚生活が単なる惰性になります。お互いに背き合うか、誰かが誰かの犠牲の上に成り立つ家庭。
 その一番の犠牲になるのが、子どもです。

 エーリッヒ・フロムは「愛するということ」(原題はTHE ART OF LOVING)の中で、「愛は能力であり、技術である」と述べています。「愛」は感情ではなく、自ら磨いていくものなのです。「愛される」より「愛する」ことができる人になりたいものです。
 人は弱くて不完全なので、人に甘えずには生きていけません。でも、お互いに「愛する」努力があってこそ、温かい家庭が育まれます。そして、一人ひとりが個人として伸び伸びと生き、子どもは健全に育っていくのではないでしょうか。
 
                           心理面接室TAO 藤坂圭子
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