2020年05月

 もう一月以上前だったと思いますが、ロックダウンに入ったベルリン在住の日本人ピアニストの方が、驚くべきスピードで給付金を受け取れたという報道がありました。スマホで簡単に申請でき、数日後には日本円にして60万円ほどが振り込まれ、ご本人もビックリということでした。舞台芸術にかかわる他の日本人の方も、同様に支払いを受けたと聞きました。
 ドイツでは文化芸術の意義がよく理解され、いち早く手厚い保護措置が講じられました。しかも、国籍関係なくです。

 私はクラシック音楽が好きで、以前はしばしばヨーロッパ音楽旅行に出掛けました。中でも、ベルリンフィルをその拠点ホールのベルリンフィルハーモニーで聴いたときの感動は忘れられません。あまりの凄さに、瞬間瞬間、ひっくり返りそうになります。(どう凄いのかは、簡単には言い表せないので、今は割愛)
 音楽の凄さに加え、肌で感じるのは、ずっしりとした伝統の重みです。ホール自体の歴史はヨーロッパにしては新しいのですが(1963年~。斬新な設計で、当時は「カラヤンのサーカス小屋」と揶揄された)、すっかりベルリンの街に溶け込んでいて、楽団員、市民ともどもの誇らしい表情にも圧倒されます。一緒に芸術を作り上げて支えているという矜持があって、大げさかもしれませんが、ここにいれば人間の精神性を信頼できる、という気になれます。来日公演も素晴らしいですが、現地ならではの感慨でした。

 TAOにはいろいろな悩みを抱えた方がいらっしゃり、その悩みの大きさもそれぞれですが、どんな方が早く楽になっていかれるかと言うと、いわゆる知能の高さや学歴は、全くと言っていいほど関係がありません。
 音楽、詩歌、小説、映画、舞台、ドラマ、アニメ、絵画などのアートによく触れている方は、自分の心によく気づき、ますます人間性を深めていかれます。
 別に高尚とされるものでなくても、落ち込んだ時に聴く音楽、自分を支える詩の一片などを持っている人は強いです。明るく励ましてくれるものばかりではなく、どうしようもなくドロドロな叫びもありますが、深いところからの慰めを得られ、知らず知らずのうちに心は豊かに強くなっているのだと思います。
 
 人間社会はどの動物よりも複雑で、生きていくのは大変です。欲しいものが簡単に手に入れるわけでもなく、なりたい自分にもなかなかなれません。でも、その手に入らないものを、象徴的に心の中に形作ることはできます。それにはアートの力が必要なのです。
 恋焦がれる人に手が届かなくても、詩に詠んだり歌ったりして、涙しながらやるせなさに耐えることができます。自分の気持ちにピッタリの表現に触れて、人間だれしも同じような思いをしてきたんだと思えると、それも人生の味だと受け取れます。躓いても失敗しても乗り越えてきた主人公の生き方には、勇気づけられ、我が事として置き換えることもできます。
 自分一人はちっぽけでも、人間の奥深さや強さは、言葉や音や絵によって共有できます。思い通りにならない人生にも彩りを与え、虚しさから救ってくれるのです。

 コロナ禍は、飲食業や旅行業なども含め、人間が人間らしく生きていくための大切な営みを直撃しています。医療や社会経済、教育機会の保障など、今検討すべき課題は山積ですが、文化芸術活動を軽視すると、人の心を荒廃させ、国力を損ないます。日本もその重要性をもっと認識し、保護に努めるべきだと思います。
 先日、お気に入りのレストランのテイクアウトを利用しました。クライエントさんの中には、アーティストを支援するクラウドファンディングに寄付をされた方もいて、私も是非させていただきたいと思っています。

 今日は、本来ならば、東京オリンピックの聖火ランナーが、岡山を駆け抜けるはずでした。その感動を今は手にすることができません。
 でも、ないものをただないとして嘆くのではなく、心の中に描き、それを次の夢につなげていくことはできます。それは、アートに支えられてこその人間の強みではないでしょうか。

                            心理面接室TAO 藤坂圭子
                            HP:http://tao-okayama.com
 

 先日、心理・教育畑の旧友4人で、初の「オンライン飲み会」なるものを経験しました。
 以前は、県の臨床心理士会に合わせて年に数回集まっていたのですが(どっちが本番やら…)、ここのところみんな忙しくなり、ほとんどお流れ状態でした。
 TAOのオンライン面接の準備をしながら、これだ!とひらめき、招集をかけたところ、普段はあちこち飛び回っているお歴々も、さすがに在宅で大人しくしているので、無事開催にこぎつけました。多分5年ぶり以上くらいです。

 一人入るごと、パソコンに向かってちぎれんばかりに手を振って大歓迎。頭の片隅で、これってヘンな図だよなあと思いつつ、当人たちはいたって本気なのです。うちの猫たちは、今日の飼い主はいったい何やってんだ、ときっと呆れたことでしょう。
 ひたすらパソコンの前に座り込み、画面4分割の互いの顔を見ながら、でも不思議と臨場感があって、本当に会って話しているみたいでした。
 
 久しぶりだというのに、やはり話題はもっぱらコロナのことでした。
 息が詰まる思いで暮らしている子どもたちが多いことよとか、9月始業だなんていきなり何を言い出すんだ、現場のことを何にも考えていない、新年度からどんだけ苦労して進めてると思ってんだ! そうよそうよ、今は何よりコロナでしょ‼、とか。イロケのない話ばかりですが、GW中に手入れしたお庭のチューリップの写真なども見せてもらいました。私は、6.8キロに成長したうちのオス猫を、膝の上に引っ張り込んで披露したり…。だって、フワフワのお腹が気持ちいいんですもん。(*肥満ではありません。大柄なのです)
 面白かったです。普段会えなくてもこの手があったか!と、目からウロコです。
 
 TAOでもオンライン面接のご利用がちょこちょこあり、これも案外普通にできるものです。今まで度々膝を突き合わせて話してきたからかもしれません。でも、話すのが苦手な方などは、やはり同じ空気の中にいる必要があるかなと思います。
 ただ、嫌なのは私の顔が私にも見えること。ああこんなにフケたのね、と自覚せざるを得ません。でも、トシだから仕方ありません。

 「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」ということが言われて久しいですが、「ソーシャル(社会的)」とは、疑問です。人と人との距離は、社会文化によって適性があり、決して2メートルなどど規定されるべきではないからです。最近は、「フィジカル(身体的)ディスタンス」と言い換えるべきでは、との議論も出ています。
 どちらにしても、ディスタンスは、本来は縮めるべきではないです。文化風土に根差したコミュニケーションを軽く見てはいけません。人が健全に成長し、心穏やかに暮らしていくためには、肌と肌のふれあい、温もりの体感も絶対に不可欠です。
 マスクで表情が見えない、スキンシップができない、向き合って食事ができない、みんなで盛り上がれないなんて、やっぱり尋常ではありません。

 でも、コロナ禍の今は仕方がない。それを「新しい生活様式」などというキレイな言葉で括って、たぶらかさないほしいです。コロナとの共生のバランスが取れるまで、ヒトが我慢するしかないというのが本当ではないか。「不要不急」の法改正や、支援の輪などでもはや足りているマスクの配付などより、今、現状をクリアにし、必要な措置を講じ、苦しみを共有しつつみんなで凌げるよう勇気づけるのが政治の役割ではないか、などと私も憤っています。
 ポストコロナの時代も、オンラインで離れた人とも会えるし、無駄な時間も省けるでしょう。でも、それがあたかも普通になるように吹聴してはいけない。それに乗っかかりすぎると、「心の距離」を大きくしてしまいます。心がつながっていない人や社会は弱いです。
 オンラインも集い方の一つのツールとして、これからも上手に取り入れていきたいものです。

                            心理面接室TAO 藤坂圭子
                            HP:http://tao--kayama.com


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