さて、今日の晩ごはんはお決まりですか? と言うより、何が食べたいか、自分でお分かりですか?
仕事や学校で忙しかったり、何かが突っ掛かっていたり、どうせ一人なのだからと気楽なとき、何でもいいからとにかくお腹の中に掻き込んでおけ、ということになりがちです。そんな生活をしているうちに、特別な日を除いて、食べたいものに無頓着になってしまいます。
私たちの体は食べたもので出来上がっているのに、これでは自分を粗末にしているような気がしませんか?
ずっと昔、フォーカシングを勉強していた時、今食べたいものを考えるのは、自分の体の実感を知るいい訓練になると聞きました。
お昼ご飯は何にしよう? 定食か中華かイタリアンか。カレーか、ラーメンか、オムライスか、そばか、うどんか。うどんにするとして、今日の気分は? 熱いのがいいのか冷たいのがいいのか。おつゆは辛口か甘口か。てんぷらなのかきつねなのか山菜なのか。卵は? のりは? 付け合わせは何がいい? それはきっと、その日の気分や天候によって違うと思うのです。何でもいいやではなく、体の直観に従って食べる。すると、体が喜ぶし、心も喜ぶ。
私は、忙しくてなかなかまともに料理ができませんが、しょっちゅう次に何食べたいかを考えてしまいます。もちろん、冷蔵庫の中の余り物や身体的・経済的な事情もあるので、思い通りにはいきません。でも、スーパーで2割引きのお総菜を買うにしても、今の私の体が欲しているのは何だろう、って考えながら選びます。
よく、「最後の晩餐」は何がいいかというようなアンケートがありますが、私には何とも答えられません。そのときに食べたいものは、そのときにならないと分からないと思うのです。願わくば、欲しいものを一匙でも口から食べられたらいいなあ。
食いしん坊なので、いつも頭の中が忙しいです。面倒くさいですが、生きている実感につながっているような気もします。
クライエントさんの中には、食べ物に限らず、好みの色や服、趣味や休日の過ごし方などがなかなかつかめない方もいらっしゃいます。今まで自分を大切にする余裕がなかったのでしょう。そんな方に、まず食べたいものを食べるようにしましょう、などとお話しすることもあります。
無難で目立たない装いだった方が、自分と向き合う過程の中で、髪の色を明るくされたり、赤いバッグを買われたり、思い切ってツートンカラーの新車にしました、というようなことが起こります。照れくさいけれども、今の自分にしっくりくる感じが分かってこられるようです。
仕事や家事は、本当にこうでなければならないのか。趣味や勉強など、好きでやっていると思っていたけれど、本当にやりたいのだろうか、もしかしたら、やらねばならないと思い込んでいるだけではないだろうか、などと自問自答も始まります。
そのときそのときの選択の連続が、人生です。効率や常識にとらわれて、次に何をすべきか、と頭で考えて行動しがちですが、そうすると、空っぽな自分が空回りするだけの人生になってしまいます。世渡りには様々な心得や社会的スキルが必要ですが、究極の幸せ感は、何を為したかではなく、今どんな心持ちでいるか、に掛かっていると思います。
私たちは、この体とともに生き、他の無数の生命体と共鳴しあって存在しています。だから、体や気分の直観を尊重しながら、日々を営んでいくことも大切ではないでしょうか。
こだわりや好みを強く持つということではありません。「今」の感覚をつかみ、心地よい自分でいることを目指します。今までフワフワしていた自分が、ちゃんと芯を持って歩んでいると実感でき、自分のことを頼もしく思えるようになるでしょう。
自己理解というのは、抽象的な心の観念のことばかりではありません。自分にピッタリな生活感も、紛れもない自分自身です。
心理面接室TAO 藤坂圭子
HP:http://tao-okayama.com
仕事や学校で忙しかったり、何かが突っ掛かっていたり、どうせ一人なのだからと気楽なとき、何でもいいからとにかくお腹の中に掻き込んでおけ、ということになりがちです。そんな生活をしているうちに、特別な日を除いて、食べたいものに無頓着になってしまいます。
私たちの体は食べたもので出来上がっているのに、これでは自分を粗末にしているような気がしませんか?
ずっと昔、フォーカシングを勉強していた時、今食べたいものを考えるのは、自分の体の実感を知るいい訓練になると聞きました。
お昼ご飯は何にしよう? 定食か中華かイタリアンか。カレーか、ラーメンか、オムライスか、そばか、うどんか。うどんにするとして、今日の気分は? 熱いのがいいのか冷たいのがいいのか。おつゆは辛口か甘口か。てんぷらなのかきつねなのか山菜なのか。卵は? のりは? 付け合わせは何がいい? それはきっと、その日の気分や天候によって違うと思うのです。何でもいいやではなく、体の直観に従って食べる。すると、体が喜ぶし、心も喜ぶ。
私は、忙しくてなかなかまともに料理ができませんが、しょっちゅう次に何食べたいかを考えてしまいます。もちろん、冷蔵庫の中の余り物や身体的・経済的な事情もあるので、思い通りにはいきません。でも、スーパーで2割引きのお総菜を買うにしても、今の私の体が欲しているのは何だろう、って考えながら選びます。
よく、「最後の晩餐」は何がいいかというようなアンケートがありますが、私には何とも答えられません。そのときに食べたいものは、そのときにならないと分からないと思うのです。願わくば、欲しいものを一匙でも口から食べられたらいいなあ。
食いしん坊なので、いつも頭の中が忙しいです。面倒くさいですが、生きている実感につながっているような気もします。
クライエントさんの中には、食べ物に限らず、好みの色や服、趣味や休日の過ごし方などがなかなかつかめない方もいらっしゃいます。今まで自分を大切にする余裕がなかったのでしょう。そんな方に、まず食べたいものを食べるようにしましょう、などとお話しすることもあります。
無難で目立たない装いだった方が、自分と向き合う過程の中で、髪の色を明るくされたり、赤いバッグを買われたり、思い切ってツートンカラーの新車にしました、というようなことが起こります。照れくさいけれども、今の自分にしっくりくる感じが分かってこられるようです。
仕事や家事は、本当にこうでなければならないのか。趣味や勉強など、好きでやっていると思っていたけれど、本当にやりたいのだろうか、もしかしたら、やらねばならないと思い込んでいるだけではないだろうか、などと自問自答も始まります。
そのときそのときの選択の連続が、人生です。効率や常識にとらわれて、次に何をすべきか、と頭で考えて行動しがちですが、そうすると、空っぽな自分が空回りするだけの人生になってしまいます。世渡りには様々な心得や社会的スキルが必要ですが、究極の幸せ感は、何を為したかではなく、今どんな心持ちでいるか、に掛かっていると思います。
私たちは、この体とともに生き、他の無数の生命体と共鳴しあって存在しています。だから、体や気分の直観を尊重しながら、日々を営んでいくことも大切ではないでしょうか。
こだわりや好みを強く持つということではありません。「今」の感覚をつかみ、心地よい自分でいることを目指します。今までフワフワしていた自分が、ちゃんと芯を持って歩んでいると実感でき、自分のことを頼もしく思えるようになるでしょう。
自己理解というのは、抽象的な心の観念のことばかりではありません。自分にピッタリな生活感も、紛れもない自分自身です。
心理面接室TAO 藤坂圭子
HP:http://tao-okayama.com