2020年11月

 どうしようもなく「悲し」くなるときがあります。
 人生をどう振り返っても救いようのない気がして、自分の無力さにも愕然とし、お手上げ状態でうずくまるしかないとき。運命を呪いたい気持ちや怒りも通り越して、「悲しい」としか言いようがなくなります。
 流れる雲をふと目にしたとき、銀杏の葉がはらりと散ったとき、すやすや眠る猫を抱きしめたくなったときなど、何も嫌ではないのに、何かが心にずしんときて、「悲しい」気分になることもあります。

 「かなし」の語源は、動詞「かぬ」です。今では「~しかねる」と使います。「我慢しかねる」「同意しかねる」など。
 つまり、頭で分かっていてもどうにもコントロールできない、どうしようもない心の状態が「かなし」なのです。心の底がキュンとくる感じ、と言ったらいいでしょうか。だから、古語では、かわいくてしようのない気持ちも「かなし(愛し)」と言いました。
 「悲」という漢字の上の「非」は、背き合う鳥の羽をかたどっていて、これまたどうしようもない感じです。それを「心」が支えています。

 私は疾風怒濤の学生時代、若山牧水の「白鳥は悲しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」にとても引かれました。悲しいのに美しくて、何となくこれでいいんだと思える。種田山頭火の、「どうしようもない私が歩いてゐる」「分け入っても分け入っても青い山」などの自由律俳句にも、ずいぶん慰められました。
 定番の太宰治の「人間失格」も、主人公葉蔵と一緒にずぶずぶになりながら読み耽りましたが、救われなさにむしろ救われるような不思議な感覚でした。生誕100年の2009年に何十年かぶりで読み返したときは、もうずぶずぶにはなれませんでしたが、初めてこの小説を美しいと感じました。美空ひばりさんの、「人は可愛い、可愛いものですね♪」に似た感慨でしょうか。

 モーツァルトもよく聴いていました。モーツァルトの音楽の本質は「悲しみ」だとよく言われていて、有名な40番のト短調交響曲はまさにそうですが、小林秀雄が「モオツアルトの悲しみは疾走する。涙は追いつけない」と評した、ト短調弦楽五重奏曲もやり切れません。清明な長調の曲にも、ふと「悲しみ」が潜り込んでくる瞬間がたくさんあって、不意に闇に落とされたような感じがします。
 モーツァルトが大好きだった作詞家のなかにし礼さんのエッセイに、「モーツァルトは、のた打ち回りながら聴くものだ」という一節があって、思わず、その通り!と膝を打ちました。

 愛着の問題やらコンプレックスやら何やらで先が見えず鬱っぽかったあの頃に、「悲しみ」を分かち合える作品たちに浸れたのは幸いでした。
 浸りながら、「悲しみ」を、単に個人的な問題や弱みとしてではなく、人間に普遍の根源的な感情として受け止めることができた気がします。誰しも一人で生まれて一人で死んでいく。人生はままならない。けれど、どうあっても孤独な海を生き抜かねばならない。生き抜けないこともある。存在すること自体が、どうしようもなく悲しい。みな、「存在の悲しみ」から逃れられない。

 「悲」には、もう一つ意味があります。「情け深い」といった意味で、「慈悲」の「悲」です。
 悲しみを懐に深く抱えることができる人は、強いです。その強さと優しさをもって、人と繋がれます。深いところで孤独が癒され、人生に味わいが生まれます。
 「悲しみ」を恐れないで、浸ってみてください。自分を責めず、ただ存在している自分を慈しんでください。
 
                         心理面接室TAO 藤坂圭子
                         HP:http://tao-okayama.com 

 先日11月2日、TAOは開室5周年を迎えることができました。 
 開業カウンセリングという岡山ではまだなじみの薄い業界で、開室当時はどうなることやらと思いましたが、曲がりなりにもやってこれました。たくさんの方に来ていただいて、大切にしていただいたお陰です。本当に感謝しています。ありがとうございます。
 5周年の節目は、これまでより感慨深いものがあります。

 前回のブログで、25年間務めた教職を辞したいきさつを書きました。どんなに清々しかったか、伝わったでしょうか? でも、それから順風満帆とはいかなかったです。 
 1年間遊んだ後、2015年の4月からスクールカウンセラーなどを務めながら、TAOの開室準備をしました。起業や経営には無縁だった私にとって、何もかもが初めてでした。開業コンサルティングのお世話になりましたが、甘ったれた根性を叩き直さねばなりませんでした。
 どうにかこうにか11月2日にオープンしましたが、半年ほどはクライエントさんはなかなかいらっしゃらず、文字通り「食っていけるか」の不安に駆られ、シャンプーなどのちょっとした消耗品が切れるのも怖くなるくらいでした。クライエントさんがいらっしゃらない日は、寝込んだりもしていました。
 今思えば、それもいい経験でした。

 「雨降らし男」の逸話を胸に刻み、ひたすら自分を整えようと思いました。気力を振り絞って、PR・HPの改定・セミナーの企画などもいろいろ頑張りました。だんだんと新しいクライエントさんが増え、その方々が少しずつ苦しみから抜けていかれるのに、私も心から励まされました。
 そうやってがむしゃらにやってきた5年間だったように思います。年を追うごとに忙しくなり、嫌なことは何もないのですが、気づいたら教員時代よりもきりきり舞いです。体も大変で、これはちょっとやばいです。自分を損なわないように心掛けねば。

 5年目の今年はコロナに見舞われましたが、ありがたいことにほぼ影響はなく、毎日クライエントさんとお会いできています。セミナーを自粛しているのが寂しいですが、ちゃんと休める日曜日が増え、実はちょっと骨休めの感があります。エネルギーを蓄えてまた来年から再開しますので、関心のある方は是非いらしてくださいね。

 この5年間、生活が一変する中で、改めて自分自身がどう生きるのかを問い直すことができました。心しておくべきは、クライエントさんが楽になるためには、私自身が新しくなる必要があるということ。そして、クライエントさんが新しくなると、私がさらに力をもらえる。いい循環の中にいさせていただいている気がします。
 お役に立てなかった方もいらっしゃいます。申し訳なく思っています。でも、その方々から学ばせていただいたこともとても大きく、ありがたいことでした。

 人間は変われるし、人生には何度も転機が来ます。それは、変化とか成長とか言うより、「変容」と言った方がいいくらいの奇跡です。住む世界が変わります。人生を諦めないで、自分を信じて取り組み続けると、奇跡は起こります。私を含め一人でも多くの方が、そのように「『私』の人生を生きる」ことができるよう、一緒に歩んでいきたいと思います。
 まだまだ力不足ですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

                          心理面接室TAO 藤坂圭子
                          HP:http://tao-okayama.com
 

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