ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
有名な鴨長明「方丈記」の冒頭です。高校時代に暗記させられた方も多いのではないでしょうか。
私はもともと国文学出身で、「無常観」の研究をしていました。卒業論文は「徒然草」、修士論文は中世和歌を扱ったのですが、今になって「方丈記」も実に味わい深く感じます。
平安末期を生きた鴨長明の無常観は「消極的無常観」、鎌倉時代の吉田兼好のそれは「積極的無常観」と言われます。が、果たしてそうでしょうか?
(*「無常」とは「常」がないということ。何事も移り変わっていくという世界観です。「無情」ではありません)
兼好の「徒然草」では、「世は定めなきこそいみじけれ(無常であるからこそ、この世は面白い)」(第七段)と言い、随所に「今を生きる」ことの大切さを説いていて、「積極的」に無常を乗り越えようとしています。
それに比べて長明は、ただ流れていくはかなさを嘆いているようで、何だか弱っぽく見えます。でもよく読むと、淀に浮かんでいる水の泡だって、一方では消え、一方では結ぶと言っています。つまり、滅びるばかりでなく生まれてくるものもあるのです。「人」も「栖」も。
ここに、突拍子もなく「栖」が出てくるところがまた面白い。「方丈記」は実は、「住居論」なのです。
平安末期は天災人災が重なり、シッチャカメッチャカでした。大火事(京の3分の1が消失)、大辻風(竜巻が京の町を走り抜け、多数の家々が吹っ飛ぶ)、福原遷都(京は荒れ放題で犯罪も横行)、養和の飢饉(死者4万人以上)、元暦の大地震(阪神淡路大震災級、津波も伴う)。「五災厄」と言われます。
長明は、こんな不確かな世に、家も金も名誉も不要!と一念発起して、リヤカーに建築資材を積み込んで気に入った土地を探し回ります。そして京の郊外の日野山に「方丈の庵」(約四畳半)を組み立て(日本最古のプレハブ住宅⁉)、悠々自適の生活に移るのです。全然「消極的」ではありません。
経を唱え、琴を弾き、子どもたちと遊び、自然に親しみ、「心は濁りに染めり」と嘆きつつ、あとは西の空に紫雲(お迎え)を待つ。やっと自分の生き方を見つけた!という感慨があります。
最近、偶然にも複数のクライエントさんと、「変化」や「放浪」や「川を見つめる」などの話を交わす機会があり、「方丈記」を思い起こしたのです。
「無常」は平安にも令和にも平等です。科学技術が進んだからと言って世の中が安定するわけではなく、むしろ気候変動や世界情勢はますます不穏になっています。個人が生きづらく、さらに国家や国際協調のあり方も問われています。
令和の私たちも、長明と同じく、何を大切に生きるべきかを問い直す必要があると思います。「心」や「人生」も本来は「無常」です。それに抗って、こうでなくてはいけないと何かに執着していると、知らないうちに落とし穴にはまるかもしれません。
お金や学歴や持ち家は本当に必要か。人並みで普通に生きることに意味はあるのか。自分にとっての価値を探り、柔軟で融通が利く生き方を探りたいものです。
分からなくなったら、川に向かってボーっとするのもいいかもしれません。消える、結ぶ、流れる。この連環の中にうまく存在できるのが、真の「安定」なのでしょう。水には癒しのエネルギーもあります。
心理面接室TAO 藤坂圭子
HP:http://tao-okayama.com
有名な鴨長明「方丈記」の冒頭です。高校時代に暗記させられた方も多いのではないでしょうか。
私はもともと国文学出身で、「無常観」の研究をしていました。卒業論文は「徒然草」、修士論文は中世和歌を扱ったのですが、今になって「方丈記」も実に味わい深く感じます。
平安末期を生きた鴨長明の無常観は「消極的無常観」、鎌倉時代の吉田兼好のそれは「積極的無常観」と言われます。が、果たしてそうでしょうか?
(*「無常」とは「常」がないということ。何事も移り変わっていくという世界観です。「無情」ではありません)
兼好の「徒然草」では、「世は定めなきこそいみじけれ(無常であるからこそ、この世は面白い)」(第七段)と言い、随所に「今を生きる」ことの大切さを説いていて、「積極的」に無常を乗り越えようとしています。
それに比べて長明は、ただ流れていくはかなさを嘆いているようで、何だか弱っぽく見えます。でもよく読むと、淀に浮かんでいる水の泡だって、一方では消え、一方では結ぶと言っています。つまり、滅びるばかりでなく生まれてくるものもあるのです。「人」も「栖」も。
ここに、突拍子もなく「栖」が出てくるところがまた面白い。「方丈記」は実は、「住居論」なのです。
平安末期は天災人災が重なり、シッチャカメッチャカでした。大火事(京の3分の1が消失)、大辻風(竜巻が京の町を走り抜け、多数の家々が吹っ飛ぶ)、福原遷都(京は荒れ放題で犯罪も横行)、養和の飢饉(死者4万人以上)、元暦の大地震(阪神淡路大震災級、津波も伴う)。「五災厄」と言われます。
長明は、こんな不確かな世に、家も金も名誉も不要!と一念発起して、リヤカーに建築資材を積み込んで気に入った土地を探し回ります。そして京の郊外の日野山に「方丈の庵」(約四畳半)を組み立て(日本最古のプレハブ住宅⁉)、悠々自適の生活に移るのです。全然「消極的」ではありません。
経を唱え、琴を弾き、子どもたちと遊び、自然に親しみ、「心は濁りに染めり」と嘆きつつ、あとは西の空に紫雲(お迎え)を待つ。やっと自分の生き方を見つけた!という感慨があります。
最近、偶然にも複数のクライエントさんと、「変化」や「放浪」や「川を見つめる」などの話を交わす機会があり、「方丈記」を思い起こしたのです。
「無常」は平安にも令和にも平等です。科学技術が進んだからと言って世の中が安定するわけではなく、むしろ気候変動や世界情勢はますます不穏になっています。個人が生きづらく、さらに国家や国際協調のあり方も問われています。
令和の私たちも、長明と同じく、何を大切に生きるべきかを問い直す必要があると思います。「心」や「人生」も本来は「無常」です。それに抗って、こうでなくてはいけないと何かに執着していると、知らないうちに落とし穴にはまるかもしれません。
お金や学歴や持ち家は本当に必要か。人並みで普通に生きることに意味はあるのか。自分にとっての価値を探り、柔軟で融通が利く生き方を探りたいものです。
分からなくなったら、川に向かってボーっとするのもいいかもしれません。消える、結ぶ、流れる。この連環の中にうまく存在できるのが、真の「安定」なのでしょう。水には癒しのエネルギーもあります。
心理面接室TAO 藤坂圭子
HP:http://tao-okayama.com