昔から「好きな季節は?」と聞かれると、「春」と答えていました。それも、ほんの春先の2月ごろ、まだ梅も咲かない「光の春」のころ。極寒ですが、「冬来たりなば春遠からじ」で、季節は確実に巡るものなんだとしみじみ感じます。
 でも、好きなくせに妙に心が疼いて、若いころは仕事帰りの車の中で、一人さめざめとよく泣いたものです。どうしてだかよく分かりませんでしたが、そのうち、この明るさに自分の心がついていかないんだ、と気づきました。

 その車の中では、たいていシューマンの交響曲第2番を聴きました(第1番「春」ではなく)。オーケストレーションが下手なシューマンの4つの交響曲の中でも、一番不出来な曲とされます。暗闇から光が差すように始まるのですが、ハ長調なのにくすんでいて明るくない。最後は華やかに締めくくるものの、ずーっとあいまいさが漂っていて、どこか救われない感じ。あまりに切なくて、愛しさまでこみあげてくるのです。今でも大好きな曲です。
 シューマンはとても繊細な人で、のちに精神を病んでライン川に身を投じて自殺を図ります。幸い助けられたものの、最期まで闘病が続いたと言われています。 

 大伴家持の、「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」(万葉集)も好きです。青空に吸い込まれるように雲雀が消えていく春光ののどかさの中で、一体何を悲しむのか。でも、悲しいんです。
 「かなし」の語源は「かぬ」という動詞で、例えば「我慢しかねる」のように、自分ではどうにもコントロールできなくて湧き上がってきてしまう感情を言います。(だから、子どもが可愛くて仕方ないという気持ちも、「かなし」と言いました)

 春に悲しいなんていう感性は、人間がもっと野性的でおおらかだった万葉初期の頃にはうかがえません。社会が近代化して複雑になると、心のコントロールが追いつかなくなります。「愁」という字は「秋」に「心」と書くのに、「春愁」という言葉が生まれるのも納得です。
 春愁のまぼろしにたつ仏かな(飯田蛇笏) 人の世に灯のあることも春愁ひ(鷹羽狩行)
 
 今年は冬が厳しすぎたので、春の訪れが格別です。でも、「春愁」真っ只中の方もたくさんおられることでしょう。
 私にも、「桜なんか咲くな!」と叫びたくなる春がたくさんありました。今だから言えますが、TAOを開室したばかりの2年前は不安でいっぱいで、とってもきつかったです。お陰様で、今年は心から桜を楽しみにできます。
 きつい春は、宮沢賢治の「春と修羅」の一節が頭の中で響きました。
 「四月の気層のひかりの底を  / 唾 (つばき)し はぎしりゆききする  /  おれはひとりの修羅なのだ」「ああかがやきの四月の底を  /  はぎしり燃えてゆききする  /  おれはひとりの修羅なのだ」
 なんだか戦士みたいですが、「春愁」を生き抜こうとする意地と誇りを感じます。
 みなさまも、どんな時も誇りを失わずにいてください。よければ、一緒に「春愁」を味わい乗り越えましょう。

                            心理面接室TAO 藤坂圭子
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