昨年ノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラド氏の「THE LAST GIRL」を読みました。「私を最後にするために」という願いを込めてのタイトルだそうです。
 イラク北西部のヤズィディ教徒の小さな村コーチョに生まれ、イスラム国に連れ去られて性奴隷として転々と売られ、人間としての感覚を失いかけるなか、最後の力を振り絞って脱走し、スンニ派ムスリムの家族に助けられ、やがて平和活動に携わるようになるいきさつが、つぶさに書かれた自伝です。
 
 読むのは非常に苦しかったです。本の中のナディアと同じく、気分が悪くなってヘドが出そうでした。この感覚の中に留まるのは苦しく、早く読み終えたくて仕方なくて、睡眠時間も削って一気に読みました。ナディアがやっと脱出し、これで解放かと思いきや、その後難民キャンプに保護されるまでも、身も凍るような緊張で胃が痛くなりそうでした。
 しかしこれは、物語ではなく、実際に起こった出来事なのです。

 私は、虐待、迫害、ジェノサイドなどといったテーマには無関心ではいられなくて、アウシュビッツも尋ねました。その印象は、2016年8月のブログで3回連続で書いています。アウシュビッツを訪れた後、ホロコーストについての本も随分読みましたが、「THE LAST GIRL」は、それよりもうんと苦しかったです。
 それは、やはり第一に、性犯罪被害というものの耐えがたさです。それから、イスラム国の類を見ないのほどの非道さ、また仲間と接点を断たれたまま虐待され続けるという孤立の恐ろしさなどです。
 それでも、読んでよかったと思える本です。人間の尊厳や希望を十分に実感させられる、本当にいい本でした。 

 自分がもしも迫害されて残虐な仕打ちを受けたとき、果たして人間としての尊厳を保てるのかというのが、実はずっと私が自分に問い続けている問いなのです。「THE LAST GIRL」はいろいろな切り口で読むことができますが、この問いについても大きな示唆がありました。
 極限状態で人を支えるのは、信仰または精神性と、それに基づく家族やコミュニティの絆だと感じました。ヤズィディ教は経典を持たないゆえに邪教とされ、迫害され続けてきましたが、教徒たちの生活は愛にあふれ、心の潤いを失っていませんでした。それがナディアに最後の勇気を与えたように思えます。また、女性たちの解放に奔走し、解放後の女性たちを慈愛をもって受け入れる懐の深さにも心打たれました。命懸けでナディアの解放に尽力したスンニ派ムスリムたちも、同様に誇り高い人たちです。
 
 そう思うと、今の日本人は脆弱で危ういと言わざるを得ません。基盤とするコミュニティを持たず、拠り所とする思想もなく、それぞれが浮遊している感じです。私も、「愛」だの「絆」だのは胡散臭いと思った時期もありました。でも、それは生きるためのご飯と同じような滋養で、求め続けるべきものなのだと改めて考えさせられました。
 自然や大いなるものとのつながりと、人とのつながり。これを見失うと、仮に社会的には成功しても心はどこか餓(かつ)えたままでしょう。ましてや何かの困難に遭遇してしまうと、耐え切れずにすぐにボロボロになってしまいます。
 日ごろから心を開いて、おおらかに生きていたいものだと、切に思いました。平和だったころのコーチョの暮らしのように。

 
                            心理面接室TAO 藤坂圭子
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