どうしようもなく「悲し」くなるときがあります。
 人生をどう振り返っても救いようのない気がして、自分の無力さにも愕然とし、お手上げ状態でうずくまるしかないとき。運命を呪いたい気持ちや怒りも通り越して、「悲しい」としか言いようがなくなります。
 流れる雲をふと目にしたとき、銀杏の葉がはらりと散ったとき、すやすや眠る猫を抱きしめたくなったときなど、何も嫌ではないのに、何かが心にずしんときて、「悲しい」気分になることもあります。

 「かなし」の語源は、動詞「かぬ」です。今では「~しかねる」と使います。「我慢しかねる」「同意しかねる」など。
 つまり、頭で分かっていてもどうにもコントロールできない、どうしようもない心の状態が「かなし」なのです。心の底がキュンとくる感じ、と言ったらいいでしょうか。だから、古語では、かわいくてしようのない気持ちも「かなし(愛し)」と言いました。
 「悲」という漢字の上の「非」は、背き合う鳥の羽をかたどっていて、これまたどうしようもない感じです。それを「心」が支えています。

 私は疾風怒濤の学生時代、若山牧水の「白鳥は悲しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」にとても引かれました。悲しいのに美しくて、何となくこれでいいんだと思える。種田山頭火の、「どうしようもない私が歩いてゐる」「分け入っても分け入っても青い山」などの自由律俳句にも、ずいぶん慰められました。
 定番の太宰治の「人間失格」も、主人公葉蔵と一緒にずぶずぶになりながら読み耽りましたが、救われなさにむしろ救われるような不思議な感覚でした。生誕100年の2009年に何十年かぶりで読み返したときは、もうずぶずぶにはなれませんでしたが、初めてこの小説を美しいと感じました。美空ひばりさんの、「人は可愛い、可愛いものですね♪」に似た感慨でしょうか。

 モーツァルトもよく聴いていました。モーツァルトの音楽の本質は「悲しみ」だとよく言われていて、有名な40番のト短調交響曲はまさにそうですが、小林秀雄が「モオツアルトの悲しみは疾走する。涙は追いつけない」と評した、ト短調弦楽五重奏曲もやり切れません。清明な長調の曲にも、ふと「悲しみ」が潜り込んでくる瞬間がたくさんあって、不意に闇に落とされたような感じがします。
 モーツァルトが大好きだった作詞家のなかにし礼さんのエッセイに、「モーツァルトは、のた打ち回りながら聴くものだ」という一節があって、思わず、その通り!と膝を打ちました。

 愛着の問題やらコンプレックスやら何やらで先が見えず鬱っぽかったあの頃に、「悲しみ」を分かち合える作品たちに浸れたのは幸いでした。
 浸りながら、「悲しみ」を、単に個人的な問題や弱みとしてではなく、人間に普遍の根源的な感情として受け止めることができた気がします。誰しも一人で生まれて一人で死んでいく。人生はままならない。けれど、どうあっても孤独な海を生き抜かねばならない。生き抜けないこともある。存在すること自体が、どうしようもなく悲しい。みな、「存在の悲しみ」から逃れられない。

 「悲」には、もう一つ意味があります。「情け深い」といった意味で、「慈悲」の「悲」です。
 悲しみを懐に深く抱えることができる人は、強いです。その強さと優しさをもって、人と繋がれます。深いところで孤独が癒され、人生に味わいが生まれます。
 「悲しみ」を恐れないで、浸ってみてください。自分を責めず、ただ存在している自分を慈しんでください。
 
                         心理面接室TAO 藤坂圭子
                         HP:http://tao-okayama.com