永き日のにはとり柵を越えにけり 芝不器男

 私が一番好きな俳句です。
 春分が過ぎて日が永くなる。まだ草も萌えない原っぱに、一羽の鶏がひょいと柵を越えた。柔らかい夕空に包まれた、スローモーションのようなその一瞬の温かさ。たった一羽の鶏が命を持ったかけがえのない存在として、愛おしく思えてくる。
 一瞬の中に永遠を感じる名句です。芝不器男は昭和5年に26歳で夭折した俳人ですが、この句はずっと季題「日永」の代表句としてあげられています。私も、一生に一度でもこんな句を詠みたいと思っていました。 

 私は二十歳代の後半から俳句を始め、それから十年以上は本格的に取り組んでいました。所属する俳誌の巻頭に載せていただいたこともありました。
 俳句をやっていて一番楽しいのは「吟行」です。歳時記と句帳をもってぶらぶら歩きます。名所旧跡でなくても、その辺の田んぼ道や川原や住宅街など、どこでも俳句の種に満ちています。そして、ただじーっと見るのです。風に揺れる菜の花や、おたまじゃくしの蠢きや、駆け回る子どもたちなどなど。20分ほどもしゃがみこんだままのこともあるので、時々怪しまれますが。そのうち、自分の中で何かがはじけて言葉になる。その瞬間が、実に気持ちいいのです。
 カウンセリングと似ているな、とも思います。対象の中に入って、内側から対象をつかむ。自分と自分が繋がる、自分が他者と繋がる、そこに一瞬でも新たな別次元の世界が開ける。不思議な安心感を得られます。

 俳句はぐっと意識の深いところに入る時間が必要なので片手間にはできず、今はもう長いことお休み中です。「プレバト」を見るたび、俳句を再開しなくてはと焦ります。このままでは私の人生が不完全に終わる気がして。吟行に行けなくても、生活句も面白いもの。一日一句でも詠んで、自分の中に眠っている何かを呼び起こしたいです。このブログが、奮起のきっかけになるか⁉(多分まだムリ…)

  雲の上(え)を歩くがごとき日永かな
  猫の名はチビトラといふ遅日かな  
 すっと以前の拙句です。「チビトラ」は今家にいる猫ではなく、吟行のときに寄ったお茶屋さんの猫です。このころから、飼うつもりは全然なかったけれど猫好きで、よく詠んでいました。日もまだ残る春の夕暮れ、「チビトラ」と名付けられた猫の愛くるしい所作が心地よかったです。でも、不器男の句に比べると非常に甘ったるいです。

 厳しい冬も終わりが近づき、何となくいろんなことが赦される気がする優しい季節です(コロナからもそろそろ赦されたい)。  
 日没は冬至が一番遅いと思いきやそうではなく、それ以前から日は伸びています。岡山では12月8日まで16時53分、9日から54分。今はそれから1時間も伸びて、17時54分です。ありがたいです。
 日照時間が長くなると、脳内ではセロトニンという幸せホルモンの分泌が促されます。
 そう言えば今日は「猫の日」。猫といると、オキシトシンという愛情ホルモンも分泌されるようです。
 みなさまの気持ちも和らいで、何か新しい動きが生まれますように。

                           心理面接室TAO 藤坂圭子
                           HP:http://tao-okayama.com