野球のWBCが終わりました。大盛り上がりでしたが、正直なところ、私には鬱陶しかったです。
 私にはどうも「スポーツアレルギー」があって、ニュースも新聞もスポーツとなると、すっ飛ばかしてしまいます。ですので、この期間中はずっと耳を塞ぎたくなるほどでした。

 どうして「スポーツアレルギー」になってしまったかと言うと、教員になって部活動におおいに疑問を感じるようになったからです。
 生徒にとって部活動は学校生活の張り合いだし、貴重な人間関係訓練の場です。笑いや涙や感動に溢れています。でも、正規の教育課程に位置づけられているわけではないのに、どうして学校がそんなに抱え込まなければいけないのか。教員も生徒も、始業前の時間も縛られ、休日も返上して学校にべったりというのはどうなのか。本来は家庭や地域や学校外のコミュニティが負うべき役割ではないのか。(ついでに言うと、アルバイトやバイクの免許取得の許可制も。学校が校外のことまで管理する必要があるのか?)
 さらに、部活動の成績が点数化されて、入試に有利になるというのも解せない話です。プライベートで素敵な活動をしていたり、表面に現れなくても内面が豊かな生徒はたくさんいるのに。

 そして何より、部活動で人間性が高まるかと言うと、必ずしもそうでもないのが問題です。強くて厳しい部ほど、生徒の主体性や考える力を奪っていることもあります。顧問や先輩の言うとおりに動けば結果が出せ、協調性や忍耐力も身に付いたと評価されるのですが、悲しいことに、一歩部を出ると通用せず、もぬけの殻のようになってしまうことも。元オリンピック選手でさえ、そんな虚しさに陥ることもあるようです。 

 部活動で鍛えられた学生は、組織にうまく組み込まれて生産性を上げるので、かつての日本企業では重宝され、戦後の高度経済成長を支えたとも言えるかもしれません。が、それが上意下達・同調圧力の企業体質を強化してしまった面もあるのではと思います。
 いわゆる「体育会系」というのは、日本独特の集団主義の上に成り立ち、軍国主義の延長でもあるし、河合隼雄氏の説かれた「母性社会日本の病理」の現れとも言えるでしょう。

 辛口ですみません。不快に感じた方もいらっしゃるでしょう。
 もちろん、全ての部活動やスポーツに当てはまることではありません。素晴らしくクリエイティブな部活動もたくさんあります。

 さて、というわけで、私は教員時代のある時点から、スポーツ全般に嫌気がさすようになりました(フィギュアスケートやテニスなどは好きなのですが)。
 が、ここ10年くらいでしょうか、部活動の在り方が見直されるようになり、スポーツ界の闇が炙り出されることも増えました。青山学院大学の原監督の、部員に考えさせて力を引き出す指導が話題になり、スケートボードやブレイクダンスなどの部活動を活動基盤としない選手たちのおおらかな活躍ぶりも、清々しいです。サッカーの森安ジャパンも、昔の体育会系とは全然違うのですね。スポーツ界も変わってきたようで、やれやれ。
 日本の社会全体が、こんなふうに風通しがよくなっていくといいと思います。

 それでも、特に野球は一人の采配に全員が従うというイメージが強く、報道の過熱ぶりにも辟易で、私はWBCどこ吹く風モードを意固地に貫いていたのでした。しかし、優勝後の裏話やインタビューなどについ引き込まれ、一人一人が主体性と意志を持って取り組み、お互いを尊重して励まし合って、あの結果を出したのだと、遅ればせながら知った次第です。本当に大変失礼しました。

 「スポーツアレルギー」は私のコンプレックスでした。固い自分が気持ちよくありません。でも、マイナス面ばかりを見て意地を張るのはやめようと、やっと思えるようになりました。昔の思い込みにとらわれていてもいけない。好きか嫌いかは、現状を知ってみないと分からない。何事にも心を開いて知っていく方が、人間の幅も広がるというものでしょう。
 「侍ジャパン」、ありがとう。

                           心理面接室TAO 藤坂圭子
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