去る8月13日、2年に一度のフルートの発表会に出演しました。毎回のステージでの緊張感と失敗はトラウマのように残っているのに、このトシになってよくも懲りずにチャレンジするものよと、我ながら感心です。

 今回先生から与えられた曲は、モーツァルトの「ロンドKV.494」(ピアノソナタ第18番ヘ長調の第三楽章、フルート編曲版)。前回もモーツァルトのコンチェルトで四苦八苦したのに、また身の丈に合わない難曲です。何が難しいかというと、まず指が回らない。それに、テーマが次々にリズムや音形を変えて登場し、どうしたら面白くできるのか、さっぱり見当がつかなかったのです。何とか通せるようになっても、吹いてて全然楽しくない。あるフルーティストが「モーツァルトは神経質で吹きにくくて嫌い」と言っていたのが、なるほどと思い出されました。
 ところが、ある時ふと、「あ、モーツアルトが遊んでる!」と、感じました。そして、次に浮かんだのは小さな女の子と母親が、無邪気にじゃれる様子。砂場で遊んだり、追っかけっこをしたり、滑り台を何度も行き来したり。遊び疲れた子どもは母親の子守唄を聞きながら、ゆったりと夢の中へ。…といったイメージが出来上がり、それからは下手なりに、ちょっとウキウキした気分で吹けるようになりました。

 そして、本番…!
 またしてもボロボロでした。あ~あ、情けない。
 けれど、今回は自分なりに音楽をつかめた感じがあって、まあまあの達成感はあります。天真爛漫で優しいモーツアルトの世界に遊ぶことができました。
 
 さて、この曲にどんなイメージを抱くかは人それぞれでしょうが、どうしてこういうイメージになったかというと、私には子どもらしさへの希求があるのだと思います。

 私は小さいころ、はしゃぐと母親に怒られたので、子どもらしさを抑えていたようです。小学校の担任に、鍵っ子でもないのに鍵っ子みたいと言われる縮こまった子でした。そのうち、「しっかりしたいい子」というレッテルができてしまい、ますます固くなっていきました。
 二十歳代後半、カウンセリングの世界に入っていろんな研修を受ける中で、私は本当は無邪気なんだと気付きました。それからはできるだけオープンに感情表現をしたり、好きなことを我慢しないように心掛けました。職員旅行の時、ふときれいな花が目に留まって駆け寄っていくと、あなたはきっと好きな人にもまっしぐらね! なんて言われたりして。
 心配性で人目を気にする母親には、きっと私のやんちゃは怖かったのでしょう。そんな母親の不安から解放されていくと、だんだん生きるのが楽になりました。

 TAOにいらっしゃる方の多くも、子どもらしさを失っています。エリック・バーンの「交流分析」で言うと、「FC(Free Chiid:自由な子ども)」が極端に低いのです。カウンセリングが深まっていくと、もっと「子ども」がしたかったという悔しさと同時に、自分の中の無邪気さにも気付かれます。だんだん表情が豊かになり、言葉が力強くなります。日常生活の中では、直観が生かされ、鼻歌や独り言が増えたりして、身軽な感じになられるようです。
 灰谷健次郎氏は、「子どもは本来、楽天的な存在だ」と言われました。確かに、個人差があるにせよ、子どもは本来楽天的で、自由で向こう見ずで、エネルギーに満ちています。迷惑を掛けるのも子どもの仕事です。そんな「FC(自由な子ども)」を取り戻しましょう。いくつになっても遅くはありません。

 さあ、2年後の発表会は何を吹こうか…? 正直、しばらくモーツァルトはご免こうむりたい。難しすぎる。でも、何にせよ、「音」を「楽」しまねば。
 カウンセリングも、遊び心も忘れずに、クライエントさんといいセッションを紡いでいきたいと思います。

                          心理面接室TAO  藤坂圭子
                          HP:  https://tao-okayama.com