私はもともと泣き虫で、小学校低学年の頃はしょっちゅう泣いて帰って、母に叱られていました。もらい泣きも悔し泣きもするし、感動屋で映画やドラマでもすぐ涙がにじむのでした。
 中学生のころ、家族で「宇宙戦艦ヤマト」のTV放送を見ていたとき、クライマックスに差し掛かると3歳下の弟が、「ねえちゃん、絶対泣いとるで~」と私の顔を覗き込むのです。嫌で涙も引っ込みそうでしたが、それでも泣きました。

 そんな私が、あまり泣くことがなくなりました。歳とともに涙腺が緩むと言われるのに…。
 クライエントさんが、さめざめと泣かれていても、時には鼻をジュッと噛みながら絞り出すように語られても、私は動じずに聴いていることが多く、傍からは薄情に見えるかもしれません。心にはずっしり響いているのですが。

 脳科学者の茂木健一郎さんが、あるラジオ番組で、「自分の感情が自分でよくつかめないとき、人間は涙を流すのだ」と言われていました。確かに、泣けてくるときって言葉にならないですよね。何だか分からないけど、こみ上げてくるのです。
 カウンセラーって、言葉にならない感情を明らかにして、それを愛おしみながら受け入れるお手伝いをする仕事です。そのためには、まず自分が自分に向き合って、今の感情を掴む訓練を経てきているので、一般の人よりは心のことを扱い慣れているのでしょう。結果、涙もあまり出なくなったのでしょうか。
 
 しかし、訳が分からなくても、「泣く」という行為は自分と大切に付き合う第一歩です。
 平安時代は、男も女も実によく泣いていました。「あなたと別れた後、淋しくて涙が溢れて、その涙を袖で拭っていたら袖がビショビショになって、ギュッと絞ったら大きな川になりました」というような和歌は、ゴマンとあります。
 韓国など、葬儀の時などに号泣して誠意を示す文化の国もあり、「泣き屋」という職業もあると聞きます。
 何だか、全身で生きているという感じです。
 
 けれど、軍国主義を引きずった根性論がはびこった昭和のころは、よく「男は泣くもんじゃない」とか、「女はすぐに泣いてごまかす」とか、「泣いてすむと思うなよ」とか言われました。だから、ぐっと涙をこらえるのが癖になった人も多いでしょう。 
 小さい子どもは、とても素直に泣きます。泣いてあやされて、心が丈夫になります。が、いくら泣いても放置され続けると、悲しいことに、泣かない大人になってしまいます。

 生きるのがしんどい人やパーソナリティ障害を負った人の中には、全く泣けないという方もおられます。泣けたら楽になるだろうと分かっていても、泣いたら自分が崩れるという恐怖心もあります。
 泣けないということは、自分で自分を引き受けることができないということです。だから、どうしても他者に対して要求が強くなったり、依存的になったり、不満がたまったりします。それで孤独感が強まって、さらにしんどくなるという悪循環に陥ってしまいます。

 みなさん、泣きたいときは泣きましょう。涙が涸れるまで泣いたら、自分の中の何かが洗い流され、リセットされて、ちょっと勇気も出てくるかもしれません。
 一番いいのは、人にも受け止めてもらうことです。そして、尊い涙の意味が納得されて自分の中に落とし込めたら、自分が確かになっていくと思います。

 カウンセリングを学び始めた若いころ、あるワークショップで、泣けて泣けて仕方なかったことがありました。よく覚えていないのですが、何か過去への思いに浸っていたように思います。そのとき世話人の先生が、「真珠の涙だね」と言われたのです。
 びっくりして思わず、「そんなきれいなものじゃないですよ」と言いましたが、後からジーンと沁みてきました。あんなに温かく私の涙を迎えてもらったのは、初めてだったかもしれません。とてもありがたい体験でした。

                          心理面接室TAO  藤坂圭子
                          HP:  https://tao-okayama.com