2005年10月

2005年10月10日

攻め込まれたらどうするの?〜憲法9条〜

 これらの文章を読んでいるということを前提に書いています(クリック)。

 「攻め込まれたらどうするの?」
 憲法9条関連でよく受けるコメントです。
 「攻め込まれる」というのは、例えば日本が「侵略される」ということなのでしょうか?。
 僕は日本の島国という国土の特徴上、他国が方策として採用するとは思えないと思っています(一時的に国会・内閣府が占拠されるということはあり得るでしょうけど、それへの対処は9条は関係ありません)。

 ですから、それに対する答えは「攻め込まれない」です(ちなみにテロ部隊などには警察力の強化で対応することができますし、それ自体はやった方がいいと思います)。

 「攻撃を受ける可能性」と言う意味では、ミサイル攻撃を受ける可能性が一番高いでしょう。


 そして、違う質問だということにしましょう。
 「ミサイル攻撃を受けたらどうするの?」という質問。

 これは質問自体が、そもそもおかしいのです。
 「殺されたら、どうするの?」
 と言っているようなものです。

 殺されたら、どうにもなりません。
 死んでるんですから。

 だから、殺されないようにしましょう、と言っているのです。
 ミサイルを撃たせないようにしましょう、と言っているのです。

 そして、武器をちらつかせることが、殺される可能性を縮減するとは思えないと以前、僕は主張しています(クリック)


 これに関連して、「北朝鮮が核武装をしようとしている」というニュースに対して、日本人はどういう反応を示すのか?。
 そう、「北朝鮮が攻撃してくることに備えて、9条を改正して自衛できるように、自衛隊を軍隊として整備するべきである」という世論が高まります。


 ちゃんと、逆を想像してください。
 「日本が9条を改正して軍隊を持つことになった」と北朝鮮で報道があったとします。
 日本ですら、「軍拡」の意見が出るのです。
 「日本が攻撃してくるに違いない。核を装備して、早々に日本を叩くべきである」という意見が出てくる
 さすがに日本が先制攻撃するはずはないのですが、あの国に、そんなことが通じないであろうことは、日本人は誰でも想像できるのではないでしょうか。「日本が攻撃してくる!」「軍拡は急務である!」となるでしょう。こんなに穏やかな日本ですら「北朝鮮が攻撃してくる」「憲法改正、自衛隊の軍隊昇格は急務である!」なっているのですから。
 それでも、9条改正が「自らの安全のためになる」と言えますか?。


 北朝鮮を怖れているという意味では、僕は怖れています。
 あれはキ○ガイ国家ですよ。
 だからこそ北朝鮮ごときのせいで、死ぬなんて勘弁してください。

 僕は「平和のために死んでもいい」なんて理想主義者じゃないです。僕を知っている人であれば、僕が理想などよりも如何に合理性の方を重視するかを知っているはずです。
 僕は僕の命を守るために、僕が安全であるために、9条を改正するなと言っているのです。僕の(&周囲の人の)利益のために9条を守れと言っているのです。「現状では9条改正する方が危険が高まる可能性が高い、だからやめてくれ」って言う、僕が僕の利益のために語っている言葉です。世界平和のためとか言っていません。

 ですから、この点を勘違いされたコメントには、困ってしまいます。

2005年10月04日

算数・数学が得意な子

 自分は算数は得意な子だった。ただ、特別飛び抜けて数学に向いた「脳」をしていたとは思えない(計算自体は、それほど早く無かったし)。


 色々な子を教えていて思う。

 算数・数学に才能があるとしたら、
 「1時間は60分です。」
 これを聞いて、「そうかぁ、じゃあ、2時間は120分で3時間なら180分かな」と自分から考えるか否かにある。
 「3x=6の時、両辺を3で割るとx=2になる」と聞き、「なら、4x=12とかならx=3になるの?・・・試しにxに3を入れると・・・おぉ、4×3で12だ!」と、自分から試すか否か


 公式なり法則を聞くと、それを試してみたくなる。ちょっと難しい言葉で言えば演繹というヤツだが、これをやってみたくなる。もちろん具体例をいくつか聞いて「あれ、じゃあ、こういう法則なんじゃないの?」と思うこと・法則を見つけ出そうとすること(帰納法)も重要だが、算数・数学の授業レベルでまず必要なのは帰納法よりも演繹法をやりたがる体質だと思える。
 受験レベルの算数・数学で重要なのは、法則を「見つける」ことよりも法則を身につけることであり、演繹体質(演繹法をやりたがる体質)は法則を「身につける」のに有利だからだ(数学者になるのであれば、法則を「見つける」体質の方が向いているとも思われる)。
 もちろん教える方は、一つの法則を教えたら、それを身につけられるように同じ法則を使うものを何問かやらせてみるのだが、自分から好奇心で試した場合の方が吸収力は高い。


 演繹体質は法則が身に付く。前に習った法則を覚えている。そして、(多くの人は知っていることだが)算数・数学という科目は、既に習った前提となる法則を知らないと新しいことが分かりにくいという特徴がある。以前の内容が身に付いていないと、「何、これ?、意味が分からない・・・」という状態になる。
 逆に、それまでのことが分かっていれば、「なんだ簡単じゃないか」となり、問題演習もそれほど苦じゃなくなるため、数学は得意となる。逆に一度躓くと次の内容も分かりにくくなり、どんどん置いていかれてしまう。

 演繹をしようという意志があれば、もっと違ったはずなのに・・・。法則を身に付くまで試してみようということをしていれば・・・。
 実際、躓くタイプの子は、躓いたところまで戻って教えてあげても、法則を教えると「ふーん」で終わる子ばかりだ。せいぜい「それ知ってる」「知らない」という反応が返ってくるだけ・・・。


 法則・規則・ルールを知って試してみたくなる、道具を手に入れたら試してみたくなる、そういう演繹体質が数学に必要な「才能」だ。

 そして、これを「オ能」と呼ぶことには違和感が強い。何故なら、それは「能力」と言うよりも「意志」の問題だと思えるからだ。実は勉強には、そのような「意志」の問題に過ぎないものが多くある。算数・数学は最も露骨に「法則をあてはめてみる」科目だが、英語にも国語にも法則があり、それをあてはめてみることを自分でやる人間は吸収力が高い。それは記憶力ということではない、「やってみよう」という意志の働きなのだ。
 法則を探そうとする性質も勉強の能率を上げることに役立つ。これも「裏にどんな法則があるのだろう?」という意志の働きだ。「これ知らないなぁ、どういう意味だろう?」という単純な好奇心も、意志の働きだが、勉強には重要な要素だ。


 「能力」というよりも、「意志・意識」だということが分かってくれると、もっと伸びるはずなのに・・・・そんなことをよく思わされてしまう。