社会(少しカタい話)

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2011年03月14日

サスティナブルな救済のために

昨日の募金についての話はこちら
  ↓
http://blog.livedoor.jp/taro_scrambled_eggs_26/archives/52770823.html

 いまテレビでやっているような情報は、もうあまり要らない。関心が無くならないようにすることも重要だが、似たような情報でお腹いっぱいだと無関心どころか嫌悪する人さえ出てくるから。テレビはもっと寄付をよびかけたり、被災地の人にとって具体的に役に立つ情報を流すか、通常放送を織り交ぜるかにしたらいいのに。

===引用===
ごめんなさい。被災地から言わせて下さい。だから、原発の計測状況なんて聞いてても仕方ないんです。ひとつの放送局で結構です。被害の爪跡なんていうドキュメンタリーも結構です。 避難所の、炊き出しの、給水所の、被災者への情報を下さい。

全TV局へ。すいませんが被災者にインタビューとかしてる映像は今はいらないので、給水所が何処だとか給水所が今どんな状況だとか(待ち時間等)トイレはどこが使えるとか電気はどこに行けば使えるとか等々、そう言う情報をください。お涙頂戴の映像はいりません。そう言うのは後で流して下さい。
===引用終わり===
 また、テレビが見られる被災地の子供の精神安定のためにも、娯楽番組もやって欲しいという声も聞こえてる。
(とはいえ、テレビ批判のために声高に噴き上がるべきだと言っているわけではない。こういう時は何よりも、そういう噴き上がりは慎むべきだ)。


 一般人ができる救済としては、捜索や物資配給が終わった後、復興のために募金することこそ重要だ。一ヶ月後、三ヶ月後、半年後、一年後だ。
 しかし、その頃にマスコミと被災地外の人間は関心を失ってる。飽きっぽい忘れっぽいのは日本人の悪いところ。
 今は息切れしないよう、サスティナブル(持続可能・継続可能)な救済のために、通常運転にシフトしていくべき。「祭り」で終わらせてはいけない。
 通常の生活を楽しんだところで、ネット上で時折見られる「不謹慎」などということは考えなくてもいいだろう。助かった地域は、助かったことの幸運を大切に噛みしめて人生を謳歌すればいい。可能な限り日常生活に戻ろう。

 通常の生活をと言っても、関東は停電とか電車が動かないとか大変といえば大変。電車動かないとか、移動が混雑してるとか、イライラする原因かもしれない。
 でも気持ちを穏やかに保ちたいな。「世界にはもっと不幸な人がいるんだから」形式の物言いは大嫌いだが、さすがに、この地震の直後ぐらいは、自分の幸せを噛みしめて交通機関の乱れぐらいは面白がる余裕を持ちたい。

 現状で関東地方では節電(ヤシマ作戦)やマイカー利用自粛は重要だけれども、景気を冷やすことを推奨するべきでもない。ただ、景気を冷やさないでいようとすると、電気を使うことも多いのが難点だけれども。


 とりあえず、繰り返しになるけれども、今も、半年後も、最優先で一般人が具体的にできることは、
(1)義援金を寄付する
(2)寄付を周囲に呼びかける
(3)「寄付を呼びかけて!」と呼びかける
 という三つ。

 http://matome.naver.jp/odai/2129989217646489401
  ↑
 義援金まとめ ネット上でも簡単に寄付できます。

2011年03月12日

ポキン募金ぼきん

 先月の給料を、募金に まるっと寄付してみました。

 「やらない善より、やる偽善」(’◇’)。


 東北地方太平洋沖地震【支援方法・義援金・募金まとめ】
http://matome.naver.jp/odai/2129989217646489401

 一般人の僕らができること。
(1)寄付すること
(2)寄付を周囲に呼びかけること
(3)「寄付を呼びかけて」って呼びかけること

 (2)と(3)は、(1)より簡単にできます。

 情報拡散・節電・献血・祈るとかも重要ですが、とりあえず、誰でも簡単に効果的にできることは募金に寄付することではないでしょうか。
 それこそ、現地に赴くことはできないし、行っても役に立たない。
 一般人からの援助は物資よりもお金らしい。誰でも募金ならできる。
 そして、プロが活用してくれる。


 YAHOO、民主党、goo、mixi、nifty、24時間テレビ、ホリエモン、あちこちで募金に寄付できます。ネット上からカードとかでも。
 災害救助という意味ではホリエモンが呼びかけてるCIVIC FORCEが一番即効性があるのか?。与党なので民主党に寄付も即効性がありそうということで、僕は、民主党に寄付しました。あと赤十字に行くらしいyahooにも寄付しました。

 ただ復興にこそお金が必要なので、後に窓口が設けられてからの地方自治体への直接の寄付も必要でしょう。

 皆さんも、周囲に呼びかけを(’◇’)。


 あと、元気が出るtweetsまとめ
http://ideapad.jp/d9385fb4/show/
   ↑
 こんな時になんだけれども、いい国だな、と思えます。


 献血も必要らしいよ。
 でも、今、殺到するよりも、今後数週間日程をずらしての献血も重要らしい(保存が利かないから)。
 
 あと、全国の被災地外の病院から医師・看護師等が交代で派遣されるかもといことで、人員不足なので病院の御利用は控えめに、という情報も。

マイカーの利用も控えましょう。物流のガソリンが足りません。自衛隊などの移動の邪魔にもなりますから。

2008年02月25日

「郵便でーす」まで14日



(´ー`) 東芝がブルーレイン陣営に負けて、HDDVDをあきらめましたね。

( '◇') それはうちの母親と同じ間違いだ。レインじゃない、ブルーレイだ。雨が降ってどうする。どこのチェッカーズだ。

(´ー`) ドラマチックですね。

( '◇') 稲垣潤一は呼んでない。

(´ー`) うらんちゃんどうしてるでしょうね。

( '◇') クリスマスキャロルが流れる頃まで10ヶ月ぐらいあるが。

(´ー`) 最近は速さを求める風潮から、夜行列車も廃れてきてるらしいですよ。

( '◇') 勝手にブルートレインに乗っていけ。

(´ー`) ・・・なんでしたっけ?。

( '◇') ブルーレイだ。規格統一ではないところで競うのはいいが、規格だけは業界で話し合ってもらわないと消費者の自己責任の問題にするには負担が大きすぎる!。

(´ー`) 東芝が早くブルーレイ出すといいですね。というところで、全く関係ないニュースです。

====引用開始====

ポーランドの郵便配達、カタツムリよりも遅いと「実証」
1月25日12時19分配信 ロイター[ワルシャワ 24日 ロイター]

 ポーランドの郵便配達はカタツムリにも劣る遅さであることが「実証」された。IT関連の仕事に従事するMichal Szybalskiさんは、1月3日に速達扱いの手紙を受け取ったが、手紙が投函されたのは昨年12月20日。そこで、配達がどれほど遅いかを検証することにした。

 地元紙によると、Szybalskiさんは手紙が届くまでに要した時間を294時間、自宅と差出人との距離を11.1キロと算出、そこから手紙の届く速さが時速0.03775キロだったと割り出した。一方、カタツムリの「歩行速度」を測ったところ、時速約0.048キロだったという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080125-00000712-reu-ent

====引用終了====



( '◇') 「実証」とか言われても、そもそも、どういう経緯でこれが記事になったのかが不明だな。

(´ー`) いちいちそんな嫌みなこと測定しなくてもと思います。

( '◇') そういう業界の人なんだろ。

(´ー`) どんな業界ですか。

( '◇') IT業界。

(´ー`) 発言には気をつけてください。IT業界の人にIP抜かれてヤマのようにSPAMメールとかトロイの木馬とか三角木馬とかが届きますよ。

( '◇') 君のその偏見もな。




( '◇') 測りたくなる気持ちは分かるけどな。

(´ー`) 遅すぎますよね。

( '◇') 速達じゃないだろ、投函から14日もかかるって。ポーランド、どんだけ広いんだよ。

(´ー`) 速達でこれじゃ、通常郵便の速度が気になります。

( '◇') 三ヶ月ぐらいかかるの?。船旅で世界一周できるぞ。

(´ー`) あいのりだったら、その間に三組ぐらいカップルできますね。スーザンやヒデじゃなければ。

( '◇') 奴らは長く居過ぎた。




( '◇') しかし、遅いとやっぱりダメなんだな。郵便は「速い」ことが、何故価値があるんだろう。ゆっくりにだって価値はあるはず。

(´ー`) あれですね、明治時代とかに列車に乗った人が「短時間しか乗れないのに特急料金の方がなんで高いんだ!」と文句言ったとか言わないとか言う話。

( '◇') 人は速度への欲望に縛られているんだな。

(´ー`) 今日はヴィリリオですか。

( '◇') ヴィリリオでもビブリオでも人名はどうでもいいんだ。重要なのは思考の道筋なんだから。

(´ー`) ビブリオは腸炎です。




( '◇') 現代社会は、速度を支配することで政治的にも経済的にも優位に立てる。速度への欲望が交通の発達をもたらし、ネット社会も発展させた。

(´ー`) 電話やメールも、手紙とかと比べて素早く連絡できる点は重要ですよね。

( '◇') 速度への欲望は、時間への欲望でもあるな。待っている時間、苦痛な時間、無駄な時間を省こうという、時間を支配したい欲望でもある。そして、寿命は有限だから、待ち時間、苦痛な時間を減らすことで寿命は主観的・相対的には延びることになる。

(´ー`) 楽しく生きてる実感を感じられる時間が延びるってことですか。


( '◇') そういう時間の支配、速度への欲望に社会は乗っ取られている。この記事では郵便は速い方がいいという彼の価値観がカタツムリとの比較によく表れている。

(´ー`) カタツムリって、やっぱりポーランドでも遅い生き物の象徴なんですね。

( '◇') ポーランドでだけカタツムリがダチョウ並に速かったらビックリだろ。

(´ー`) じゃあ、フランスでは速いのでしょうか。

( '◇') なんでフランスでは速いんだよ。エスカルゴ食べらんないだろ。






(´ー`) 速度への欲望は究極まで行くとどうなるんですか。

( '◇') 「究極」は、まだ分からないが、速度を上げることを突き詰めると静止することになる。

(´ー`) え?。

( '◇') 自分が飛んでいくより、持ってこれるなら、持ってくる方が速いということだ。情報とか。ネットは、その典型だな。





( '◇') 速度への欲望で生まれたネット社会。速度が速くなり、主観的には物事同士の距離が近くなる。リアルタイムで世界の情報に接することができる。「リアルタイム」は、「リアル」という幻想としての「直接性」が高まっている。

(´ー`) 誰でもどこでもリアルタイムで情報を発信し、受け取ることができる社会ですよね。

( '◇') そこだけ読むと、理想社会の実現って思えるのだけどな。すばらしく自由な社会が訪れた気がするだろ。

(´ー`) 新聞やTVに情報を独占されていた時代と比べて、素晴らしく自由で平等な気がします。ダメなんですか?。

( '◇') 例えば、速度が上がれば上がるほど、脳や身体が持っている「距離」感覚が分からなくなる。アメリカも中国も日本も感覚的に同じ距離になる。

(´ー`) 遠くとか近くの区別がつかなくなる?。

( '◇') そう。遠くにいる人も近くにいる人も同じ距離で感じられる。もちろん、これは長所でもある。だが、下手をすれば、親しいのか親しくないのかの心的距離も分からなくなる。遠くも近くも全て「リアル」。そのせいで、逆に近くだけが「リアル」にもなる。そして全ての情報が「平等」に見えるから、知識や情報の上下・階層性も分からなくなる。

(´ー`) どっちの情報が重要かということですか?。

( '◇') 重要度が分からなくなるということでもある。ウソか本当か、大事なことなのか些末なことなのか、人間の言葉か、赤ちゃんの言葉か、猫の言葉か犬の言葉かも分からなくなる。

(´ー`) 比喩なんでしょうけど、ワンワン言ってるのが解釈できたら、それはそれでワンダフルです。ワンワンワンワン。

( '◇') ・・・・・。流してイイか?。




( '◇') そして、重要度に限らず、因果関係や時間関係も分からなくなる。例えば、「事故が起きた→規制を強めた」という因果の流れが分からなくなって、どっちの情報も並列に扱われるから、何故規制を強めたのかが分からなくなる、みたいなもんだ。

(´ー`) 時間軸といえば、このポーランドの郵便の記事、1月25日とかの記事ですよね。一ヶ月経ってますが。

( '◇') ・・・・カタツムリが届けてくれたんだ。




( '◇') 遠くの情報も近くの情報も全てが並列になるから、結局、「人が集まっている」こと以外に基準が無くなってくる。そうすると、情報の取捨選択もベキ法則とかパレート法則とかに支配される。

(´ー`) それ、なんですか?

( '◇') 一部分が極端に一人勝ちになりやすい、一カ所に集中しやすくなるってことだと思っておけ。

(´ー`) それなら分かります。炎上とか、ネットイナゴとかも同じですよね。突然現れるメガヒットとか。




( '◇') 実は他にも様々な弊害が現れる。

(´ー`) 速ければ速いほどいいってわけでもないんですね。

( '◇') そう。大体、この記事のポーランド人も余裕が無いよな。手紙が速ければいいなんて、そうとは限らない。ボトルメールを知ってるか?。

(´ー`) ビンに手紙を入れて川や海に流すポイ捨て行為ですよね。

( '◇') ポイ捨てって言うなよ。ボトルメールを流し、「遠くで誰かがいつか拾ってくれるかもしれない」、そんな想いを馳せている時に、ボトルメールを流して二分後とかに拾われてみろ。切ないだろ。

(´ー`) 悲しみが止まりませんね。

( '◇') 苦痛は短く、快楽の時間は長い方がいい。楽しみに待つ時間だと思えるぐらいに、時には悠長に構えないといけない。

(´ー`) ジェットコースターとかが速いのは、速度への欲望ですかね。

( '◇') あれは違う。速度への欲望は時間への欲望だ。3秒でジェットコースターが終わったら、ぼったくりだと思うだろうが。快楽の時間は伸ばしたいのだよ。

(´ー`) のぞみ並に2時間とかは?。

( '◇') 2時間ジェットコースターに乗ってたら死人が出そうだな。






===========
( '◇') ネットに話を戻そう。ネット社会では、静止した身体は無限の速度を手に入れる。さっき言った「リアルタイム」というやつだ。そこにいたままにして、世界中が自分に向かって飛んでくるのだから。しかし、情報を処理する身体や脳は遅いままだ。

(´ー`) (まだ続くのか、話長いなぁ・・・・・)情報全部を読んでる時間なんか無いですよね。

( '◇') それこそ、時間は有限だからな。そうすると、どうしても吟味する時間は無くなり、短絡化が進む。「思考よりも反射」になる。

(´ー`) 考えるよりも、情報を得ていくだけになるということですね。

( '◇') 結果、テクノロジーの進歩は身体だけではなく、脳も衰えさせる。

(´ー`) というと?。

( '◇') 車や電車などのテクノロジーが進むと身体を動かさなくなるから、身体が衰える。ほぼ同じ現象が脳にも起きる。テクノロジーの進歩で情報が飛んで来て、自分で考えなくても良くなって脳を動かさなくなるから脳が衰える。

(´ー`) それは、ますます短絡化が進みますよね。

( '◇') そう、だから、そろそろ、この会話をするのにも読むのにも耐えられなくなってくる。

(´ー`) (なんでバレたんだろ・・・・)今頃、なげーよって文句が出てるかもしれません。




( '◇') ネット上でだけ、そういうことになるならいいが、脳の衰えは生活全般に及んでいく可能性が高い。

( '◇') 「思考よりも反射」は短絡化への道であり、動物化・右傾化への道筋でもある。反射的、動物化、短絡化が進んだこういうネット社会で、既に少しずつ実現されている直接民主主義的なものは、より「民主主義的」というよりも、「逆らうことを許さないファシズム(全体主義)的」なものになりやすい。

(´ー`) みんな、リンチ大好きですもんね。「許せない、俺がこいつを正してやる」とか「溜飲が下がる」「ざまあみろ」とか、誰かが叩かれるのを見て、よっぽど気持ちいいんでしょうね。

( '◇') まあ、そこは短絡化という話だけではないし、イジメ問題にも繋がってる人間の性質の問題だがな。ただ「瞬間」的な「嫌い」という判断がまず先行しているから起きる現象なのは確かだ。

(´ー`) (やっぱり、話なげーな・・・・)





( '◇') 話題への反応速度も要請されているから、勢い、mixiやblogでも同じことに対する悪口が一斉に盛り上がっていたりする。

(´ー`) つまり、ここまでをまとめると、ネットはいけないってことですか?。

( '◇') そういう「昔は良かった」みたいな、しかも無茶な結論を出すな。ただ、個々人が、そういう危険を認識しておいた方がいいのは確かだ。




( '◇') まとめれば、ネットイナゴ現象、炎上、私刑バッシング社会も、実は、情報が伝わる速度が上がりすぎていて、人間の脳の速度が追いついていないせいだということ、さらに、速度が要請されて脳が衰えているせいでもあるということ。距離感を失っているから情報の重要度が判別できなくなってリアクションが集中的になってしまうということだ。


( '◇') ついでに言えば、テクノロジーの進歩によって身体・脳が衰えるのと同じように、社会の運動能力や反射神経も衰えていくということでもある。


(´ー`) どうしましょう。

( '◇') そこだ。今こそ、カタツムリを模範とするべきだ、社会のカタツムリ化こそ、今、求められているんだ。

(´ー`) なんか、ぬめぬめしそうでイヤですね。しかも、一気に胡散臭くなってきましたし。スローフードとかいうスローガンに似てきましたよ。

( '◇') スローフードは実は企業が推進している資本主義的な言葉だし、胡散臭いのは事実だ。だからこそ、私が言う。とりあえず、スローフードはカタツムリフードとか言い換えればいいんだ。カタツムリライフバンザイ。

(´ー`) カタツムリ化って、結局、抽象的過ぎて分かりません。じゃあ、どうすればいいんですか?。

( '◇') 話を聞いていたのか?、そういう反射で聞くのを短絡というのだ。まず考えろ。

(´ー`) そうですね・・・・えっと・・・・・ゆっくり噛んで食事しなさい?。

( '◇') 食い物の話は中心じゃないだろ。どうしてそういう結論になるのか分からない・・・・。が、「情報をよく咀嚼して考えろ」という意味では合ってる(苦笑)。どうしたらいいのかの続きは、またいつか。





(´ー`) 記事から随分遠いところまで話が来ましたが。

( '◇') 記事に話を戻そうか。実は、この記事の郵便局員が、こんなに遅かったことには心温まる理由があるんだ。

(´ー`) 聞きたくないんですけど、聞かないとダメですかね。

( '◇') というのは、実は、郵便局員とカタツムリとの競争だったのだよ。

(´ー`) 私が聞きたくないとか関係なく話は進むんですね。

( '◇') 郵便局員はカタツムリに向かって唄った。もしもしカタツムリよ、カタツムリさんよ、世界のうちでお前ほど、そんなにノロい者は無い〜♪

(´ー`) どこかで聞いたことありますよ。文字数合ってなくて微妙に気持ち悪いです。

( '◇') カタツムリはカチンと来て言ってやった。「それなら私とどちらが先に手紙を届けることができるか競争してやろうじゃないか!」と。

(´ー`) 意外と無謀なチャレンジャーですね。

( '◇') 郵便局員は、うまくいったと思った。実は、最近カタツムリは「ひきこもり」だった。そこでカタツムリをどうしても外に連れ出してやりたかったのだ。

(´ー`) ひきこもりだったのですか。

( '◇') そう、現代の病だな。『自分の殻』に閉じこもってしまったわけだ。

(´ー`) カタツムリだから、そこはしょうがないんじゃ。





( '◇') 競争にひっぱりだすことに成功はしたが、そこはカタツムリの速度。あまりにも遅い。急いではいるのだ。通常の3倍ぐらいの速度で急ぐカタツムリ。カタツムリの赤い彗星。それでも遅い。

(´ー`) この場合、速度への欲望に捕らわれたカタツムリは、我々は模範としていいんでしょうか?。かなり矛盾した存在ですよね。競争に駆り出す郵便局員も速度に捕らわれてますよね?。



( '◇') 競争が進み、カタツムリがくじけそうになる。そこで、トムは、さらに挑発をした。

(´ー`) 誰ですかトムって?

( '◇') この話の流れで、渋谷のカリスマ美容師とかカリスマ焼きいも屋とか出てこないだろ。郵便局員に決まっている。

(´ー`) 焼きいも屋にカリスマっているんですか。焼きいも包む新聞紙がNewYorkTimesとかなんですかね。トムって随分アメリカンな名前ですが。

( '◇') トムコロスキーは言ってやった。

(´ー`) 無理矢理名前変えないでいいですよ。大体、ポーランドでも「なんとかスキー」って名前多いんですか?。

( '◇') 記事をよくみろ、この計測をした受取人もSzybalskiって名前だ。

(´ー`) ホントだ。読めないけど、最後はスキーだ。

( '◇') 「お前のような遅さなら、しばらく寝ていたって負けやしない、カッカッカッ」。カタツムリに向かって挑発してトムコロスキーは道ばたで寝てしまった。もちろん寝たフリだがな。

(´ー`) カッカッカッて笑い声ですか?。トムコロスキー、水戸黄門見過ぎですよ。12月のポーランドの道ばたで寝るって、ほぼ凍死間違いなしなのでは?

( '◇') じゃあ、ネットカフェで。

(´ー`) じゃあって言われても。





( '◇') 配達スタートから既に10日以上経っている。それでも、この手紙をカタツムリよりも先に届けてしまうわけにはいかない!。カタツムリに自信を付けさせるためにも、彼は寝たフリを続けた。彼の誠実さの現れだ!!。

(´ー`) ・・・仕事への誠実さは?

( '◇') その後、見事にカタツムリはトムコロスキーを追い抜き、手紙を届けた。彼は自分に自信を取り戻し、ひきこもりを脱したのだ。

(´ー`) 良かったですね。

( '◇') うむ、とうとう自分の殻をぶち破ったのだ。

(´ー`) それ、命の危険が・・・しかも、ナメクジになります。





( '◇') この話を聞いた受取人は、郵便局員の思いやりとカタツムリの更正の過程に心打たれるに違いない。こう言って許してくれるだろう「今回のところは目をつむりましょう。片方だけ」と。

(´ー`) 片方だけなんですか?。

( '◇') カタツムリだからな。

(´ー`) ・・・・・オチたつもりかもしれませんが、ポーランドの話ですよ。

( '◇') ・・・・・。

(´ー`) ・・・・・・。

( '◇') ・・・・・・カタツムリだからな。

(´ー`) ・・・・・・。

( '◇') ・・・・・・。

(´ー`) ・・・・・(あきらめた)。

( '◇') ・・・・・(勝った)。



2008年02月04日

餃子は日本を救う(?)

 こちらのメモ書きの続きです(クリック)

 さて、事実が確定するにしても、その「責任」は、どこにあるのか。

 農薬の混入や穴の空いていたパックが、中国人がやったのであれ、日本人がやったのであれ、過失であれ故意であれ、まず悪いのは、それを混入させた「人物」である。
 なのに、(当事者が中国や韓国や北朝鮮になると)そこを飛び越えて、いきなり国家論になる傾向が強いのが最近の風潮。すぐにバッシングの過熱報道にもなるし。


 mixiやブログを見ていても、中国(韓国・北朝鮮も)をひとくくりに「嫌い」という人は本当に多いなぁ、というのが実感。だからこそ、こういう話になっちゃうのだろう。


 これが、日本国内産の食品で事件が起きた時、「わあ、もう日本食は食えない」「だから日本人はダメなんだ」「食料は全部輸入品にしろよ!」「日本人が何か陰謀を企んでいるに違いない」とか言うだろうか。「◎×社はダメだ」とかはあるだろうけど、民族否定には繋がらないはず。まあ、妄想癖の強い人(≒何でも誰かの陰謀に見えてしょうがない電波系の人)は、陰謀については思うのかもしれないけど(笑)。


 意外とマスコミの情報に踊らされてはいけないなどと言う人に限って、「ほら見たことか、だから中国は!」とマスコミの報道を鵜呑みに語ったりするのも面白いところ。「マスコミに踊らされるな」って言う人は「俺の嫌いな情報を流すマスコミは信用するな」って言いたいだけなんだな、というのがよく分かる。


 食の安全というのは、誰にとっても重要だから、「とりあえず」輸入禁止措置を採るというのも分かるには分かるのだけど、どうも十把一絡げに「中国は全部ダメなんだよ」みたいなことを言う人たちは、「危険な気がする」「不安」というだけで、「それっぽいものは全部連帯責任」「自分の利益だけが大事で誰かが冤罪で苦しむとかどうでもいい」という風に考えがちな体質なのがよく分かる。

 残念ながら、個別的に分析的に物事を考える習慣が少ないのだろう。


 マスコミという観点では、フジテレビは、基本的に東アジア大嫌いテレビ局なので、フジテレビは特にそういう報道はひどい。
 とりあえず、中国バッシングの材料を血眼に探している人たちがいるってことが、改めて分かる事件ではあった(苦笑)。


 前はちょっとアレげな人たちだけが、そういうことを言っていたのに、最近、一番怖いのは、世間話のように「中国はダメだよね」みたいなことを、さらりと言う人が増えてきたこと。
 民族や国をひとくくりに嫌う、蔑視する(しかも、それに気付いてすらいない)という傾向が強まっていくのであれば、いやな国になるなぁ、という風に思う。



 事実を確定していく作業が重要なのに、中国=諸悪の根源みたいな報道が多くなるのは、そういう傾向の現れなんだろうし、見る側としては、それを意識して報道は見ておかないといけないんだろう。


 個人的にできることは、日記やブログなどで、せめて知人達にだけでも「中国が嫌い」という一括りな言い方は、やっぱり良くないことだという意見を表明しておくことなんではなかろうかとは思う。ただ、オープンな日記だと、「お前は在日か!」「売国奴氏ね」とか、電波なコメントもやってくるので、なかなか大変(苦笑)。


=======
 今回、重要なのは、「誰もが安全な食品を食べたいと思っている」こと。
 とは言え、問題は、じゃあ、安全な食品を食べたいのだけど、「できれば安い方がいい」「安くないと生活が苦しい」「できるだけ労力はかけたくない」という、要求に、どう対応するのか。

 中国食品への拒絶が強まることで、中国国内の対応が変化してくれるなら、それはそれでいいことだ(日本商社にとって痛手なのであって、中国にとってはそれほど痛い話ではないという説もあるので、期待できないかもしれないが)。

 日本でも中国でも(←重要)、食の安全に対して生産者側で意識が高まってもらわないと困るし、そのきっかけになって欲しいのだがなぁ。
 また、中国にも日本にも存在している「良き生産者」が迷惑を被るというのはなんとかしないといけない。

 実際、「中国産食品の違反率は決して高くない」という読売新聞の記事もあります(中国国内向けはヒドいらしいですけど)。アメリカよりも違反率は低いとのこと。
 朝日・毎日は信用できないというアレな人たちに向けて言っておくと、読売新聞がソースですよ。

 こちらの記事です(クリック)


===========
 今回の問題とは直接は関係ないけれども、食の安全を考えるならば、消費者側としては、「安いから買う」という姿勢を改める必要があるのだろう。
 とはいえ、それは、かなり難しい話でもある。
 それは自己責任の強調で、自己責任の強調というのは、道義的とか倫理的な観点で捉えられがちなのだけど、実際上は経済的な話なんだ。

 結局コストを全体で払いたくないから、個人負担でということなのだけど、食の安全問題を自己責任と言い出すと、自分で商品の成分なんか調査できないし、国内産だって怪しいと思えば下手すれば全部自分で作らないといけない。そんなん金も時間もかかり過ぎる。それ、どんだけ美味しんぼ?。僕らは海原雄山ではない。

 基本的に食の安全は、誰にとっとも重要である以上は、全体でコスト負担した方が能率はいいわけで、少々コストがかかっても、マメで広範囲な安全検査を実施していくべきなんでしょう。規制を細やかに整備して、お役所や何かが活躍してもらうしかないわけだが、天下り先を増やすな!という公務員バッシングも最近はヒドイから、どうなることやら・・・・。



 対策として、なんでも自給しろという人もいるわけだ。
 国内自給率を上げること自体に反対はしないのだけど、「日本のものは安全で他の国のものは安全ではない」というのが前提となっている対策だよなぁ、と。そういうの聞くと、「自給なら大丈夫なの?」と思ってしまう。


 中国大嫌いな方々が大好きなアメリカ様のおかげで、日本には休耕田や放置された農地やらで自給率がえらい下がっているわけでして、だから、今回のこととは無関係に、自給率自体を上げることには地方再生の意味も含めて賛成ではあるのです。
 友人が言っていたことなのですが、今回のバッシングが原因で食糧自給率を上げることに繋がるなら、結果オーライでもあるのだが・・・・・(理性による発展を信じたい僕は、怒りや憎しみというルサンチマンでの社会改善っていう愚かさが嫌いなんですけど)。


 まとまりのない文章になってしまいましたが、とりあえず思うことは、こんなことです。

2008年02月02日

餃子問題メモ書き

 いくつか問題が絡み合ってるけど、ポイントはまず、

(1)「事実」が何なのか
(2)その事実があやふやなまま報道が過熱していること
 この二つとなるでしょう。

 事実は何なのか。この「事実は何なのか」の段階で、幾つも不確定なことがあります。

(a)今回のメタミドホス騒動が「残留」農薬のせいなのか<加熱処理によってメタミドホスは分解されるらしいだけに謎

(b)それとも、メタミドホスが(故意であれ過失であれ)包装段階で混入したものなのか

(c)穴が空いていた餃子パックは(農薬を故意に混入されたとして)どこで誰が混入したものなのか(日本なのか中国なのかすら分かってない)

(d)千人近くも「不調を訴えて」いるものの、その千人の不調は、本当に同じくメタミドホスが原因なのか(時事通信によると「4割強に当たる733人は有機リン系中毒と無関係の症状を訴えたり、国産のギョーザを食べていたりした人だった」とか)。

(e)新しい情報として、皮にメタミドホスが大量に含まれてたらしいが、それは何故なのか

 とりあえず、一応の事実として確定されてるっぽいのは
・明らかな中毒症状まで起きた人たちはメタミドホスが原因ということ。

・今回のメタミドホスが中国では農薬として使われているということ。

・中国国内でも問題視されるほど、中国では食の安全への対応が杜撰であること。

 そして、すでに三つ目の情報が漠然としたものになってるし(苦笑)。

 じゃあ、日本はどれだけ杜撰ではないのか?と。「中国」と一括りにできるのか?、していいのか?とね。

 とりあえず、ここまでで、皆さんは何を考えますか?。

 続きは後ほど。こちらが続きです(クリック)

2007年02月22日

【ニュース雑感】 死刑増加


 書く時間が無いけど、書かないとぼんやりと考えるだけで終わってしまうので、もう少し文を書いておきたいと思い、ニュースコメント。


戦後初の大台 死刑確定囚100人に 厳罰化の流れ…滞る執行に批判も 2月21日8時0分配信 産経新聞


 篠沢一男被告の死刑判決が確定すると、死刑確定囚は戦後初めて100人の大台に乗る。死刑判決は凶悪犯罪の多発や被害者・遺族感情を重視した厳罰化の流れをくんで近年増加しており、最高裁で死刑を言い渡された被告は昨年まで3年連続で2ケタに。一方で死刑を執行された死刑囚は毎年数人程度で推移しており、死刑確定囚の増加要因となっている。

 最高裁によると、記録が残る昭和55年以降、全国の地裁・高裁で言い渡された死刑判決は、平成11年までは年間2〜15人で推移してきたが、12年以降は年間20〜30人と急増している。最高裁でも15年まではゼロから7人だったが、16年=13人▽17年=10人▽18年=16人−と3年連続2ケタで推移している。

 一方、直近の死刑執行は昨年12月25日。長勢甚遠法相が死刑執行命令書に署名し、4人の死刑囚に執行された。前任の杉浦正健前法相が約11カ月の在任期間中、死刑執行命令書への署名を拒否してきたため、執行は17年9月16日以来、約1年3カ月ぶりだった。

 これにより年1度の死刑執行は維持されたが、執行される死刑囚は数人程度にとどまっているため、3年から15年まで50人台で推移してきた死刑確定囚の数(年末時点)は、16年=66人▽17年=77人▽18年=94人−と急増。さらに2審で死刑判決を受けて上告している被告は19日現在46人(最高裁把握分)おり、今後、死刑確定囚が常時100人台で推移することは確実な情勢だ。

 土本武司・白鴎大法科大学院教授(刑事法)は「死刑判決が出ても、死刑囚に死刑が執行されないままでは遺族にとって満足が得られるものとはならない」と指摘。その上で「捜査・起訴・公判・判決・刑の執行と一連の刑事手続きは一体化していなければならない。判決までは順調で、刑の執行だけ滞るのは正常ではない。死刑執行に向けた法務省内の手続きにも時間がかかりすぎている。死刑執行を含め、すべての刑の執行は検察官の責任の下に行わせ、法相には恩赦など受刑者や死刑囚にとって利益のあるものだけに関与させるのが適切だろう」と提言する。

最終更新:2月21日8時0分




 この記事では死刑執行過程が滞っていることが主題であるが、やはり死刑言い渡しの増加の方が僕には気になる。
 「世論の後押しを受けての死刑の増加」という事実に、うすら寒いものしか感じないのであるが、法治国家というよりは、さすがはリンチ国家万歳。


 死刑制度を廃止すべきか否かという点に対して、僕は 長い間 態度を決められずにいるのだけれども、冤罪可能性の観点からは ほぼ反対だし、「死刑に値する人間がいるのか」という問いに対しては「いる」と思ってしまうのも事実だ。

 ただ、リベラリズムの観点から「地位・立場の交換可能性」というのを考えれば、自分が(誰もが)死刑囚にならない生まれ方・育ち方をした理由は偶発的なものでしかないことは確かだ。世に溢れる人を責め厳罰化を叫ぶ人たちは、「自分は犯罪をしない」という無邪気な(想像力の足りない)気分から、あれだけ安易にモノを言えるのであろう。自己の正義感を振りかざして悦に浸る。「自己の正義感を制度レベルの話とすり替えてはいけない」と言っても彼らには通じないというのは分かるのだが、あまりにもそういう人間が多いというのも辛いものだ。


 死刑囚には更正のチャンスも償いのチャンスも全く無い。

 「人間は再生しない」だろうか?。

 僕は「暴力的な人間は」という条件付きでは、人間は再生しないということに賛同してしまう心性を持っているのだが、その考え方は、それはそれで非常に傲慢で恐ろしいものだという自覚は強い。
 そもそも(以前にも述べたかもしれないが)僕は「暴行でも傷害でも死刑でいいんじゃないの?」ぐらいの価値観なので、極論すると、暴力犯罪を犯した人間は未成年であろうと更生なんかさせずにさっさと殺してもいいだろ、という風にすら思ったりもするのだが(笑)、若かりし頃に「やんちゃ」をした人はどう思っているのだろうか。その辺りは僕には分からない。

 (冤罪の可能性はとりあえず無視して)死刑判決を受ける人は、人を殺しているわけで、上記の僕の価値観からは「そんな人は死んでもいい」と思うのだけれども、そんな自分の価値観から即、「死刑賛成、死刑増加賛成」などとは言えない。制度の問題は、そんな安易ではないし、そもそも自分に暴力的傾向が薄く、そういう価値観に育ったのも単なる偶然に過ぎないわけで、その立場から「彼らは死んでもいい」ということが、どれだけ正当性のあるor無いものなのかということを考えてしまう。

 人間は再生しないのだろうか?。
 更正のチャンスも償いのチャンスもない死刑の増加という現状。

 そして、そもそも、現政権が標榜する「再チャレンジ社会」は、いずこへ?。

 あー、なるほど、「さあ、来世で再チャレンジ!」ってことか(苦笑)。




 死刑にするしかない「誰もが(潜在的に)同意する殺人がある」という事実を否定するものでもないが、手放しで肯定したいわけでもない。
 厳罰化の流れ自体が抑止力として期待できるとしたら、死刑が増えることに「どうしても仕方ないのだ」という苦渋の選択として目をそらし俯きながら同意をしていくという人が多いのであれば せめて救いもある。そういう後ろ暗いところのある逡巡をしながらの同意という性質のものではないのだろうか、死刑執行って。

 にもかかわらず、現状の日本を見るに、むしろ、『国家による殺人』に対して、やんやの喝采を浴びせ快哉を叫ぶという傾向が強いのだ。その不埒さに、僕は「なんと美しき国かな、日本」とつぶやくことしかできない。



2007年02月05日

柳沢発言から飛躍してジェンダーフリーバッシング話

 柳沢大臣の発言、女性は「産む機械」である旨述べたということで批判されているが、言葉尻での批判には疑問が大きい。


 人間を機能に分けて比喩的に「機械」として表現したりということが、それだけでいけないというのでは、言葉狩りに等しい。

 もっとも、彼の「女性に頑張ってもらうしかない」という発言と相まって考えれば、「産む機械」が比喩というよりも、彼(かつ、自民党)の女性観なのだろうなぁ、と思われるのであり、そうであるならば、批判も致し方ないことではないだろうか。
 結局のところ、「女性は仕事なんかしないで家庭にいて子供を育てろよ」という自民党の価値観が見え隠れしてくるわけです。また、そうは表立って言わない場合でも、ここに「女性礼賛」的なフェミニスト(まがい)な発言が飛び出てくる構図。女性礼賛的発言は、結局、役割分担を強調し(意識的であれ無意識的であれ)封じ込めを狙うという意味で、よっぽど女性蔑視発言よりも危険極まりないのだけど、それに気付かない人も多数。


 まあ、言葉狩りという意味では、「ジェンダー」という言葉が使用されているだけで図書館などから本が撤去されようとする傾向を推進しているのは どこの党なのかとか考えると、まあ国会内でのやりとりにおける言葉狩りなんかは可愛い方だ。



 個人的には「機械」という表現などよりも、「女性に頑張ってもらうしかない」という、少子化をめぐる問題を全く理解していない彼の発言(自民党の女性観)自体こそ、もっと問題視されるべきと思う。
 大体、現政権が「格差を拡大していこう!」という中で、共働きをする以外どうにもならない層が増えていく状態で、「女性に頑張ってもらうしかない」ってのはどういうことなのだろうか。子供を産みたいと思える環境作り・子供を産める環境作りこそが少子化対策の急務であることを分かっているのでしょうか?(少子化対策が本当に必要なのか自体は、別問題として)。



 mixiやブログ界隈で、少々この話題について見て回った感じでは、機械発言に対する嫌悪もありつつ、「フェミがまた騒いでるよ」的な揶揄も多く見受けられます

 近年の酷い保守化の傾向の中、フェミニズムであったり、ジェンダーフリーであったりという運動に対する風当たりというのがかなり強いわけです。

 確かに、偏った強烈な人たちが男女の区別を一切なくそうという風に活動をしていたりして、一部には見ていて痛々しいことも事実ではあります。
 ただやはり、学問的知見としてのフェミニズムというのは、差別の目を暴くことに、かなりの貢献をしてきたことは否めないと思います。


 例えば家庭内奴隷として女性というものが搾取されてきた存在であるという観点は、一面では真実であって、そういう側面(パースペクティブ)を様々に与えてくれるという功績をないがしろにはできない。
 どういう言葉に差別的な無意識が隠れているのかを確認することができ、どんな価値観に権力的な共犯関係が隠されているのかをフェミニズムという学問は最も鮮やかに暴いてきたし、女性問題以外の無意識の構図を考える手助けとして多いに貢献してきたわけです。
 女性が搾取されていたというなら、「男性も金銭を獲得してくる労働力として女性から搾取されていた」という言い方もできるわけですが、こういう考え方はフェミニズムなどの社会科学が与えてくれる有意義な知見なわけです。


 確かに、(真実ではあるが、一側面に過ぎない)前述の「搾取」という構図ばかりを強調し凝り固まってしまっている人や運動も多く見受けられるのも事実です。しかし、それは「無意識」の構造に対して敏感でなければならないフェミニズムという学問からはかなり遠い態度であるという意味で、彼らは決してフェミニストではないと思うのです。




 フェミ叩きや保守傾向の中で感じる重要なことは、(生物学的なものとは思えないですし歴史的にもどの程度の歴史があるか疑問なので「いわゆる」という言葉を付けておきますが)「(いわゆる)女性らしさ」というものが、どこまで強調されるべきなのかという点でしょう。


 ジェンダーフリーという運動は、女性らしい・男性らしいというものを否定しようという動きです。個人的には、ジェンダーフリーに賛同はしていないけれども、現状の保守化傾向の中では、まだジェンダーフリーの方がマシというぐらいが、僕のスタンスです。


 ジェンダーフリーや、バッシング関連では、二点ほど重要な点があります。

 まず「女性らしさを消滅すべきor強制すべき」ということと、「仕事の機会均等」とは別の問題だということ。だけれども、時に密接な関係を持ってしまうということ。

 女性が資本・労働という側面での差別的待遇が改善されなければならないだろうということは、かなり多くの人が同意している「はず」です。
 にも関わらず、反フェミニズム・反ジェンダーフリーという人々の中には、この点から差別的な人がいるということが問題なのです。この流れに乗じて「女性は家庭にいりゃいいんだよ」という方向に持って行きたい人がいることが一つの大きな問題点となります。

 また、自分は差別主義ではないとして「女性」を礼賛する人たちは、もっとたちが悪くて、それは役割分担を強調することで「女性は家庭へ(≒仕事は与えない)」という動きと共犯関係にあるという点を隠す(もしくは気付いていない)ということなのです。
 最近はこの辺りの性差を強調する、「差別じゃないんだよ、区別だよ」という口当たりのいい言説が増えてますけど、こういうのを聞いて納得したり溜飲を下げたりする前に、まず、とりあえず眉唾と思っておくのが賢明。

 仕事の機会均等が達成されるためには「女性らしさ・男性らしさ」が消滅しなければならない、というのは確かに飛躍のしすぎだろとは思うのです。が、しかし、「らしさ」の強調が仕事での差別を産む可能性も否定はできないのであって、その辺りを、どれだけ意識してフェミ叩きが行われているのかは、興味深いところ。


 以上のような「女性らしさ」の強調が、資本・労働の差別につながりかねないというのは大きな問題なのですが、もう一つの内面の圧力の問題も、やっぱり重要な問題でしょう。


 「女性らしい」ことが明確に社会で打ち出されていることで楽になる人と不幸になる人がいます。その点について、ジェンダーフリー側も、フェミ叩きの側も、もう一度考えないといけない。


 女性らしさに限らない。人間らしさ、学生らしさ、社会人らしさ、日本らしさ、東京らしさ、昭和らしさ、などという、現在すさまじい勢いで起きている保守傾向へのバックラッシュというのは「らしさ」の復権、「らしさ」の回復ということなのだ。


 確かに、「らしさ」「枠組」は、そこに「はまる」人を生き生きとさせます。選択肢を考えたくない人にレールを与えます。余計に判断すべきパラメータが減るため思考ロスが減ります。
 しかし、その「枠組」がしっくり来ない人は追い込まれ、苦しむのです。「枠組」が自明と扱われることで、そこに「はまれない人」は抑圧され差別され、制度からもこぼれ落ちることが増えます。そして「枠組」が思考停止状態とこぼれ落ちる人たちへの鈍感さをもたらすのです。



 「(いわゆる)女性らしい」ことをジェンダーフリーのように強制的に消滅させることも奇妙ではあるのです。
 が、特定の時代の特定な社会状況下でしか成立しえないような「らしさ」(しかも、個人ごとに曖昧に異なっている)を、さも当然のごとく強制しようとする人たちにも、僕は強い違和感を持つのです。
 その「らしさ」の根拠が単なるノスタルジーや趣味であることに非自覚的な人ばかりが、(そういう鈍感な感受性だからこそ)そういうことを叫ぶので、やるせない気持ちになるのです。



 せめて、「『らしさ』は自明ではなく、それはある種の錯覚でしかないことを自覚した上で、よりマシな『らしさ』を呈示する」というスタイルが選択されないのだろうか。市民に、政治に、そこまで成熟することを期待はできないのでしょうか。僕は期待したいと思っているのですが・・・・。


2006年04月27日

裁判員制度が、あなたに不幸をもたらす(かも)

(2004年02月07日(土)の日記、再掲載)

 裁判員制度が実施されるかもしれないとのこと。
 何のため?。司法の民主的コントロールという観点から、実施されようとしている。すなわち裁判に市民意識を反映させよう、という趣旨がメインであろう。民主主義的な裁判の実現である(法学を勉強した人間には、「民主主義的な裁判」という言葉はかなり異様な響きを持っているのだが、そこに詳細に踏み込むことはしない)。


 「この制度は本当に必要なのか」ということよりも、「導入するのだ」というのが最優先で議論されてきたという経緯があるが、ここまで来ると世の中の人が全員興味を持った方がいい問題になってきた。

 なんと言っても、あなたの身に、いつ不幸が生じるか分からないからだ。



 不幸とは、一つは「裁判員に任命されてしまう」不幸だ。


 興味がないとか言ってる場合ではない。残念ながら、興味がなくても「裁判員になれ」といきなり言われる可能性があるのだ。デートやレジャーは当然、生活に必須のネットゲームや仕事までも減らさなければならないかもしれない(ネットゲームは生活に必須じゃありません)。


 ちなみに、この制度の趣旨として、「市民意識を反映する」という点以外に、「裁判に関わらせることによって、『市民』としての教育をする(啓蒙をする)」という、かなりおせっかいな目的が、大々的に主張されていることは覚えておく方が良さそうだ(って、僕の文章も、かなりおせっかいなのだが、まあ、そういうな)。



 民主主義というのは、議題に興味がない人間で検討された内容はろくな事にならないという、致命的な欠陥がある。
 そして、複雑な社会になっていくと、ある物事に詳しい人の数は当然のことながら減っていく(専門領域の細分化)。
 その意味については昨日の日記を読んでください。

 裁判員に任命される以上は、議題に興味がないとか言う状態では困るのだ。さすがに、任命された場合には「興味がないからどうでもいいよ」という態度で臨む人はいないだろうけど。いや、大抵の人は、どうでもいいという態度ではなく、たぶん、熱心に検討はしてくれるだろう。大変な負担である。かなり、深く いわゆる「罪と罰」について考えなければいけない。何が罪で罰なのかは、現在の複雑な世界では簡単に考えて済む問題ではない。


 さて、目的の一つが「市民の啓蒙」だと言う。が、人は果たして罪と罰について、誰もが深く考えなければいけないのだろうか?。

 『ごく普通の人が、裁判員という地位に立たされて一生懸命に罪と罰について考える」ことを「強制」する権利がある』と考えることは傲慢なのではないだろうか、と僕なんかは考えるのだ。

 僕が、裁判員に任命されたとしても、「興味のある」分野だからこそ、構わない。
 でも、例えば、「鉄道会社の経営のあり方について」とか、「フェラーリの車体の造形美について」だとか、「カノッサの屈辱の歴史的意義について」「どうやって安倍なつみとデートすればいいか」などを深く考えることを義務づけられるという状況は、興味がないだけに、僕は できれば勘弁してもらいたい(嘘つきました、安倍なつみとデートは興味ありますm(_ _)m)。



 人は誰もが自分が興味があることを、他人も興味があると思いがちだし、価値が高いものだと思いがちだ。
 自らを「市民」と自覚されている方々は、「市民」としての自覚が良き社会・良き民主主義のためには必要であると考えているのであろうし、それに、他人も価値を見出すはずだと信じていることであろう。鼻ちょうちんで眠っている人レベルに幸せそうな態度だ。額に肉とでも書いてもらおう。
 彼らは「市民意識」という「趣味(or娯楽)」を他人に強制することに、疑問を抱いていないという気がしてならない。



 翻って、実際問題、民主主義がうまく機能するためには、そういう「市民意識」を個々人が持つことを必要とするのであって、民主主義とは、実は個人にとって非常にコストがかかる「制度」なのだということを、改めて強く実感してしまう(苦笑)。



 皆、気付いて欲しい。まず一つ目の不幸に。
 裁判員になる「義務」が、あなたに降りかかってくる可能性があるのだ。
 市民として教育するという名目のもとに。



 その不幸を国民が検討していない状態で、この制度を導入することには、疑問がある。そこを皆が検討して、「うん、やっぱり、良いことだろう!」と判断するのであれば、その負担を『覚悟』するのであれば、まず、一つ目の不幸についての問題はクリアーされるであろう。まずは、知ってもらうこと、考えてもらうことである(結局、裁判員制度の「考えろよ」という啓蒙とベクトルが一緒になってしまうという、このジレンマ(苦笑))。

 もう一つの不幸については、後日。

2006年02月23日

犯罪者に甘い日本?

 オウムの麻原に訴訟能力が認められるという判断が出まして、それに関して知人が訴訟能力を認めるのはおかしいのではないかと述べました。死刑制度を存続させる以上(その人は死刑制度存続派)は冤罪の可能性がある死刑を実現しては死刑制度存続させることが困難になる、と。
 なるほど。死刑制度存続のために、反対派に付け入る隙を与えないためにも今回の麻原のようなケースで訴訟能力を認めてはいけないのだ、と。

 死刑制度について、僕は、現在どちらとも言えない立場で、まあ、存続反対派で、麻原の訴訟能力についても、どちらとも言えない感じなのですが、そのことは置いておくとして、別の知人が、そもそも犯罪の時に正常だったんならいいのではないのか?、日本は犯罪者に甘いということを述べていた。

 そのことについて、軽く述べます。

 「犯罪者には厳罰を」ということ自体には、どちらかと言うと僕は同意なのです。正直言うと、暴力犯罪とか暴行罪・傷害罪のヤツなんか即死刑でいいじゃんぐらいに感覚的には思っています(笑)。


 しかし、日本に限らず、先進国の法律というものは、極論すると「10人の犯罪者を逃がしても1人の冤罪も出さない」ということを目的にしています。
 世に恥じることのない生活をしていれば冤罪になどされないというのは、それは嘘です。全く悪いことをしていなくても何故か捕まってしまった。だからこそ「冤罪」なのです。何かのはずみで冤罪として捕まることは十分にあるのです。


 全くいわれのない理由で逮捕され刑に処せられることについて想像をしてみてください。
 自分が、もしくは自分の大切な人が、全く理由のないことで逮捕され、懲役もしくは死刑になる。恐ろしいことです。
 これを想像してみれば、冤罪を防止することが、どれだけ重要かが分かると思います。確かに犯罪者を逃がしてしまうことに忸怩たる思いをすることもあるかもしれませんけれども。


 ここで述べられている「訴訟能力」が重要なのは、「裁判は当事者が自らの無罪を主張する機会があってこそ、刑罰を与えることを正当化できる」ということにあります。冤罪防止のための、重要な制度なのです(犯罪を実行した時に正常な精神であることが必要な「責任能力」に比べて一般的には知られていませんね)。


 訴訟能力が無いということは、分かりやすく言うと「自分の裁判が、どう行われているのか分からない」という状態を意味します。
 これでは、当然、自分の無罪を主張する機会が与えられたとは言えない事になります。

 犯罪は憎むべき事ですが、「冤罪」は「国家による国民に対する犯罪」です。冤罪事件も憎まれるべきことなのです。「冤罪」の防止という観点を捨てることは、立憲主義からの、先進国からの離脱なのです。

 「犯罪者に甘い!」という今の風潮は、時に10件の犯罪があったら10人の冤罪事件が起きてでも犯人を1人も逃がすな、という傾向になりがちです。
 確かに、犯罪者を憎む気持ちは分かりますが、「冤罪」になることに対する想像力が足りません。後で補償すればいいじゃん?とか思ってるのだとしたら、一度、冤罪で10年ぐらい捕まってみるといいと思います。

2005年11月25日

将来の再生医療による治療に備えて

「羊膜バンク」でベンチャー・慶大連携 将来の活用期待
2005年11月17日

 赤ちゃんが大きくなって移植手術を受けなければいけなくなった時に備え、捨てていた胎盤の一部、羊膜を取っておきませんか――。そんな「羊膜細胞バンク」が登場した。体内のいろいろな細胞に分化する能力を持つという羊膜の幹細胞だが、現在の医療現場での実用はまだ。「将来の可能性に投資する」ビジネスで、慶応大の研究・診療チームから研究開発の協力も取り付けた。

 横浜市のベンチャー企業「バイオ・リジェネレーションズ」(坂上正行社長)が始めた。出産直後、担当医師は羊膜を名刺大に切り取って保存液が入った試験管に入れる。契約者がこれを宅配便で送れば、細胞は培養・増殖の後、冷凍保存される。保存期間10年、9万円(消費税別)で更新も可能という。

 同社は10月、慶応大医学部の研究・診療チームと羊膜の採取と研究開発の協力を取り付けた。大学側では来年から系列病院に採取の協力を呼びかけるほか、研究開発面でも支援していくという。

 親は赤ちゃん本人の代理人として出産前に契約を交わす。同社では悪用を防ぐため、細胞の使用は本人に限り、預かった細胞を返還する場合は担当医師に限るなど独自の規制を設けている。

 契約1号は今年8月。都内に住むバイオ・ベンチャー社長(34)の息子だった。社長は「将来、息子の役に立つならば」と話すが、大病院での採取の実績もなければ学会で太鼓判を押された技術でもなく、かかりつけの産科医はしぶったという。

 坂上社長は「慶大との連携が広まれば、一般の産院の理解も進む。将来、再生医療技術の恩恵を受けるには保存しておく必要がある」とバンクの意義を強調する。

 羊膜の幹細胞は、骨や心筋、神経などに分化する能力があることは知られているが、実用は発展途上の段階。慶大医学部の清水信義教授(ヒトゲノム解析)は「幹細胞がどんなタイプの細胞に活用できるかなどはまだ解明が進んでいないが、再生医療の将来性は十分に期待できる」と話している。

   ◇

 〈キーワード・幹細胞〉 様々な臓器や組織になる可能性を持つことから、失われた組織を再生するのに役立つと期待されている。受精卵から作る胚(はい)性幹細胞(ES細胞)のほか、骨髄などにもあることが知られ、再生医療の研究に使われている。



 胎盤の一部である羊膜をとっておきましょう、という話。
 羊膜を利用して、骨髄を作り出したり、臓器さえも作り出すことで、病気の治療を可能にする技術です。
 臓器移植では免疫の問題で拒絶反応が起こりますが、もとは自分と一体化していた細胞群である羊膜から再生した器官は、拒絶反応が起こりません(たぶん)。

 しかし、羊膜自体を保存しておかないと意味がないので、これを保存しておく制度なりビジネスが必要となります。


 これを読んで思ったのは、「とうとう実現に向けて動き出したか」と言う感想です。
 以前、大学の教養課程の授業で生物の授業をとっていたのですが、そこでバイオテクノロジーや再生医療についての最新技術の話が展開されていました。

 そこで、羊膜を保存していく制度が出来たら、将来的に、病気の治療がかなり楽になる、と。白血病なども容易に治せるかもしれないという話を聞いていた。
 そうか、そういう制度が出来たら、自分の子供には利用したいなぁ、などと当時考えていた。
 それが、とうとう実現しそうということです。


脱線)僕は教養課程の頃、趣味で理系の教養科目を多くとってました。その生物の授業は、そういう最先端のものを教えるという趣旨の授業だったのです。教養過程の理系授業は、なかなか先生達も教えることに熱心で面白いものが多かった気がします。専門になってからの法学部の授業は酷かったですが(-.-;)。


 いよいよ、再生医療の実現・・・かと思えば、羊膜を利用しての再生医療自体は、まだまだ発展途上らしく、将来への投資ということらしい。
 確かに羊膜を利用できる技術が10年後に完成しても、その時点で羊膜が保存されていなければ再生医療の恩恵を受けられる人がいないわけで、それに備えて羊膜バンクを作ろうということです。
 実現していない技術を下にビジネスをやるというのは、なかなか大変だなとは思いますが、価値の落差が利益と産むのですから、将来と現在の価値の落差にビジネスチャンスは転がってるということなのですね。

 もし、今後子供を産む予定があるのであれば、登録することをお薦めします。別にこのベンチャー企業の回し者ではないです。ただ費用は、それほど高いものでもないですし、労力も大したことがない(医者の労力は知らないけど)ので、やってみてはどうでしょうか。子供が将来、白血病にかかった時に後悔しないで済むかもしれません。
 この制度自体が、もっと普通にありふれたものになってくれることを期待しています。



 現時点では、あまり普通じゃないことですが、30年後ぐらいには、どうなってるでしょうか。

「え?、お前、羊膜保存されてないの?」というセリフは

「え?、予防注射してないの?」「保険入ってないの?」と言うセリフと、同レベルになっているかもしれません。
 保存されていれば当然治る病気が、保存されてないことで治療できないことになるなら、怖いことです。
 「昔の人は、治らなかったんだから」で納得できるはずはありませんし(今、結核で死ぬとしたら、あきらめきれないのが普通ですから)。
 どちらにしろ、この技術のおかげで「怖くない病気」が増えていくことでしょう。


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 人間の長生きへの欲望は止まりません。長生きというよりは、、病気で苦しむのは避けたいってことかもしれませんけど。

 欲望は、喚起されるものです。技術があれば、欲望が生まれます。長生きできる、治療され得る可能性があるからこそ、自分も、その恩恵に預かりたいという欲望が生まれるのは当然です。
 羊膜保存が当然の社会になれば、羊膜を利用して治療を望む人も増えることでしょう。
 羊膜のデータ次第では、移植に使うこともできるのかもしれません。


 羊膜を保存しておいて、その羊膜を元に新しい自分の臓器を作ると言うのは、パソコンのバックアップデータに似てる気がします。
 「リカバリーCDは捨ててはいけませんよ」という、ある意味で当たり前のこと。


 いつか、「記憶」が保存・バックアップされる時代になったら、いよいよ「永遠の命」という話になってきそうですが、そこに至るには、まだまだ遠い気がします。


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 さて、このような話が出てくると、必ず一方で、人間性を失うだの、自然に反する、神に対する冒涜であるというような話が出てきます。

 確かに、例えば、クローンで一人の人間を作り出すとした場合に、それによって幸せになる人間がいると思えないだけに僕は賛同できない。
 だが、病気を治療するための臓器のクローンや人工臓器を作ることが、自然に反すると言うなら、服も脱ぎ捨て、買い物もせず洞穴で狩りをして暮らして、30歳ぐらいで死ねと言いたい。
 「人間的」とは、文明によって、自然死に逆らっていくことなのですから。


 とは言え、この「羊膜バンク」というのは、意外と説得が楽なのではないか、と思える。

 この場合に、僕らの命を救うのは、「羊膜」である。

 母なる胎内である。

 母の胎内で育まれた僕たちの命が、再び、母のおかげで助かるのである。
 これが自然に反することであろうか、人間性に反することであろうか?。

 そう、僕らは、羊膜バンクのおかげで、再び母の胎内から生まれるのです!。









注)皮肉です。そういう「母性」ロジックごときで翻る人に対する。

2005年09月10日

選挙に行くなら

 書く気力が無いので、こちらを読んでください
 そして、こちらも読んでみてください

 今ここを読んでいるあなたが、社会の勝ち組であるという人ならば、読まなくても結構です。
 どちらかと言えば、ちょい負けぐらいかな、と思っている人は、読んでみてください。

2005年08月15日

同じ日本人として誇りに思う?

 日本のシンドラーとか、そういう人を題材にしたドラマがやるらしいんだけど、まあ、そういう人がいて、「その人が尊敬に値する」というのは否定はしないのだ。「自分も、危機的状況でそういう人でいたい」という憧れも良いことだと思う。
 でも、時折聞こえるコメントに「同じ日本人として誇りに思う」というのを聞いて、アホか?と。
 お前に誇りに思ってなんかもらいたくないだろ、って。
 「こういう人間でありたい」はベストで、「こういう日本人でありたい」も、まあ許容範囲だろ。
 しかし「同じ日本人として誇りに思う」って、それ違うだろぉぉぉ。日本人かどうか関係ないし、どうして他人の立派な行為をあなたが誇るわけですか?、単に人種が一緒ってだけで。意味わからないよ。

 いや、イチロー・松井の活躍とかでも同じね。イチローが活躍して喜ぶのまではともかく、イチローに対して「日本人として誇りに思う」って、そんなこと言われて、たぶんイチローは嫌がってるよ(苦笑)。

 イチローのファンがいけないというのではない。日本で活躍していた彼をしって、その「知っている彼」が、あのメジャーリーグで活躍をしていることに心が躍ることは、野球ファンであれば当然だろう。
 普通に日本人がオリンピックでメダルをとることに喜ぶことも、「祭り」なんだから別にいいんだよ。応援する国が偶然的に選ばれれば良くて、それがたまたま他に馴染みもないし、まあ、日本の応援がいいかなみたいなもので良いんじゃないの。実際、僕なんかも、普通に日本を応援しているよ。

 でも、そこで「彼らを誇りに思う」なんて傲慢なセリフは、全く吐けないね。何考えてるんだ、お前は。そんな日本人がいると思うと、日本人であることに僕は全く誇りが持てないよ(苦笑)<持たなくていいんだけど。

2005年07月21日

真光元とカルト、自己責任と信頼制度

 とりあえず、はれたまで紹介したが、記事は、こちら参照(クリック)

 「真光元」が真光教団と関係があるのか否かとか気になるものの、個人的な興味の域を出ない。テレビやワイドショーなどの取材力のある者達からの情報がどれだけ出てきても、それほど有意義なものは無い気がする・・・。
 カルト集団の話自体には、実は発展性は無いので、ちょっと違う話が後半でメインになることは言っておく。

 大筋で見えているものは、「医学に『不安がある・見放された』人が、それ以外の手段に頼って死んだ」というカルト系の問題では分かりやすい構図。


 この構図から分析なりされて出てくる言説は「不幸に追い込まれた時の人間の振るまい」についてであり、あちこちを見ていて出てくるのは、「自己責任」という類の言葉だ。


☆★☆
 現時点の情報では、もう香ばしい駄目駄目臭が漂いまくっている怪しい集団であることは確かだが、初期情報段階で、これはカルト集団っぽいと認定した人が相当数いるという点が興味深い(先見の明があるという意味ではない)。

 今となっては、菌うんぬんの説明が科学的ではないとか、教団の代表者の博士の学歴がどうのとか言っているが、僕や多くの人は、それらを知る前からカルトっぽいと判断していたので、もっと違う要素が、最初に怪しさとしてひっかかるのだろう。


 そう、厳密な(事実に基づく)カルトの定義ということではなく、人々の頭に「カルトっぽい」というフラグが立つ「条件」は、どんなものなのだろうか?。


☆★☆
 医学的なものではない健康食品が怪しい・・・とは言いつつ、自然食品はカルト?。無印良品とか、カルトとは認識されてはいない。プロテインとかブルーベリーが目に良いとか、漢方薬とかウコンが肝臓に良いとか、寒天で痩せるとか、そういうのと同列に見えると言えば見えるので、微妙。

 「次世紀ファーム研究所」という名前は、怪しい。
 パナ○ェーブとやらは、カルトと了解されるのは、やはり名前のせいかもしれない。カタカナが良くない?。
 ただ「見慣れないもの」であれば、全てカルトとなるかと言えば、そういうものではない?。
 集団で集まるとカルト?。
 ミクシィとかって、カルト?。まあ、老人から見れば、カルトと区別つかないかもしれないが、カルトではないよなぁ。
 じゃあ、アムウ○イは?・・・。
 自殺掲示板は?

 変な名前が正式にあって「次世紀ファーム研究所」、何かを売っていたりするのは怪しいよな。
 ついでに言えば、施設があるのはかなり怪しさが倍増する。「宿泊施設」は、かなり怪しい。
 とは言え、そう言ったら怪しいカタカナの宿泊施設ってパラメータだけだと「ユースホステル」も怪しくなるけど(笑)。



☆★☆
 収容施設があると怪しいと感じるとは言え、「病院」ならカルトとは言われないのだろう。

 いや、そう考えれば、「病院」って実は「カルト教団」みたいなものとも言えるわけで(病院批判・医学批判ということではないです)。

 「病気が治ると言われて収容され(入院して)、治らないこと、死んでしまうこともある」ということだけを言えば、カルトと区別が付かないわけです。

 その違いは何か?。
 「医学」が治療に一般的に役立つものと認識されていること、国家が治療のための学問として公式に認め、制度を作っていることだ。

☆★☆

 カルト集団の定義を色々と論じて、次世紀ファーム研究所がカルトにあてはまるのか否かについて語ることも可能だが、そこに実益を見出せそうもない。
 ちなみに、一般的には「カルト」ってのは、まあ「異常な集団」という感覚だろう。だとすれば「異常な人」の定義が難しいように、カルトの定義も難しいのだ。
 そして、大抵、そこで語られるものは「こういうカルトには気を付けろ!!」という自己責任的なものだ。
 今回の問題でも語られるのは、「なんで、そんな怪しいところに行くかね?」という疑問から「もっと自分でリスク判断しろよ、バカじゃねーの?」と言う展開など。
 「そこまで言うか、可哀想だろ。追い込まれると、そういうものじゃないの?」と、擁護意見も ちゃんと出るものの、そこでも語られるのは、やはり個人の責任みたいなものだったりする。「不幸な時でも、もっと冷静でいなければいけない」みたいな。


 確かに「藁をも掴みたくなる」のはわかるが、それでも、ワラをつかまないように個々人が成長するべきだという点に、僕も反対はしないのだ。

 が、どうも流布する意見として、そういう意見ばかりになっていくのは気持ち悪い。その意見に異議があるのではなく、「風潮」に異議ありということ。

☆★☆
 ちょっとカルトの話から、話が飛ぶように見えるけど個人の「リスク管理」を叫びすぎるのって、やっぱりどうなの?って思う。

 リスクを予想することって、結局、限界がある。
 僕らが彼らをカルトと認識し、そこら辺にある病院をカルトとは思わないってことは、治療が成功する可能性が高いことを制度が保証しているからだ。
 もし、制度の保証が無ければ、そこら辺の医者とカルト教団の治療を同列で判断しなければならない。そうだとしたら、それは辛いだろう。どこで治療を受ければいいのだ?。


 僕らが医者を信頼し、カルトっぽいものを避けているのは、「個人のリスク管理ができている」からではない。
 むしろ、社会制度の信頼性の問題。医学という信頼性の高いシステムがあるからこそ、そこに属しないカルトを疑えるわけであって、自己責任じゃないのだ。その辺りを勘違いすると問題が大きいだろうなぁ。

 「制度の外にあるんだから信頼するなよ」ということは言えるけど、「自己責任」が強調されていくと、(実際、ろくでもない医療を行う病院だってあるわけで、それは正しいのだけど)「制度の内側だからと言って信用はできない!!」という言説が出てきて、そこから「自分の目で判断しろ」という言説が出てくるのは分かりやすい。
 ここまでくれば「制度の内も外も関係ない。全ては自分の目で判断しなければならない」という意見まで、あと一歩だ。

 ここで言ってることは医療に限らない。むしろ、(貯金など)金融に関しては、そういう理屈がもう大手を振るって歩いているじゃないか。


☆★☆
 個人責任・自己責任・リスク管理を強調する風潮って、結局、「(個々人が出来る限り不幸にならないために)国家で信頼性の高いシステムを作っておこうよ」という傾向をスポイルしてしまうと思う。
 もちろん個人個人が、自己責任を重視する意見を持つことは構わないし、それは良いことだとは思う(何かあると、すぐに誰かの責任をやたらと追及したがるよりは、個人的にはそういう自己責任型の大人の方が好きだ)。
 ・・・そうなのだが、自己責任重視の風潮が高まれば、やっぱり立法者意識にも長期的には影響が出てきて、法律や制度を整備する時に「この程度は、自分の責任で対処するべきであって、規制しなくてもいいですよ」ってことになる。それは、社会制度の「信頼性」を下げることだと、僕は感じるのだ。

 規制すること・法制化することが全てではないけど、リスク管理を強調することは、むしろ「リスクは管理できない」んだよという限界性を分かっていないように思ってしまう。

☆★☆
 あえてエリート・非エリートという言葉を使ってしまうが、(非エリートに多い)「規律・規則」と聞くと拒絶反応を示す人と、(エリートに多い)そういう自己責任強調型の強者理論を述べる人達とが、よく分からない微妙な連携をして社会が変容していっているよなぁ、と・・・・。

2005年07月09日

「帝国」のラスト・サムライ・・・

 リンクを頂いたところで武士道の話が書いてあったので、ちょっと思い出して、過去ログを再掲載(深い意味はなく、そういえば、武士道について何か書いたことがあったなぁ、と思い出しただけ)。カテゴ分けが難しいな・・・映画の話なのだけど、ちょっと社会っぽくもあるし・・・。


2004.03.03
 ラスト・サムライの話です。ネタバレは後半にあります。
 ごく普通に受け止めれば、ハリウッド的要素のオンパレードで、いわゆるハリウッドが好きな人には面白いのではないか。僕にとっては、わかりやすく、ドラマチックで好きな映画だった。


・問題は映画自体ではなく、受容のされ方
 映画の内容についてよりも、むしろ気になったのは、その「受容」のされ方だろう。つまり制作側のことよりも、観客に問題ありだ。

  あそこに出ているのが、自分たち日本だという風に思って見ることができる人がいるだろうか?(笑)。「そう、昔の日本の武士道とはこうだったのだよ」とか脳天気に考える人がいるとしたら、それはそれで、日本の精神はどこにいったのだ?、というぐらいなんだろうけど(笑)。

 ・・・と思ったのだが、事は、そう簡単ではない。
 どうやら、あの映画を観て「日本の昔の人は、こうだったのだ、日本も伝統に立ち戻らなければ」などと思う人が結構いるらしいことが、ネット上のレビューを見ているうちに判明。
 あんな風(あの映画が言うところの「武士道」)に考えて、かつ実践していた人達も、少数はいただろうけど、「それが日本の精神だ」と言われてもなぁ。

 そもそも「武士道」なんて言葉がある時点で、おそらく「実践」されていなかったと思うのが道理だ。
 日本でも、どこの国でも、一部の人が、ある「お題目」を掲げるというのは、それを実践できてない人ばかりだからであり、だからこその理想像ってことだろう。


・精神性を大事にするのは構わないが
 あの映画で描かれる武士道は、昔の日本というよりも、今の日本人も好むであろう(かつ、ある時代以後の西洋人も、非常に好んでいる・・・それでいて、実践が非常に難しい)「精神性(物質よりも精神)」というのが骨子だ。
 それに共鳴して「物質よりも精神を大事にしよう!」と考えるのは構わないが、「昔の日本人のように」なんていう修飾語をつけて勘違いしてはいけない。



・「日本」と思わず、「ファンタジー」・「おとぎの国」
 「これは日本を描いている」なんて、そういう風には見ないで、むしろ、アメリカ合衆国日本州に住む僕としては、(おそらく)西欧人が楽しむように、西欧文明が発見・遭遇して、保護してやりたくなる少数民族の「悲壮さ」に、西欧人の立場から強く共鳴するという形で楽しむことのできる映画であった。
 日本というよりも、どこか架空の国、おとぎの国の物語。そう観るしかないと思うのだ(だからこそ、時代考証とか、そんなものは全て無視でよし。ただし、そういうのが気になるタイプの人は見ない方がいい。イライラするだろう(笑))。


 この辺りからネタバレかな。ネタバレがイヤな人は、読まないように。




・ザッツ ハリウッド  〜スゴイスゴイ〜

 さて、ハリウッド的要素のオンパレードな映画でした。
 大きく言えば、3つ。

 戦争帰りの飲んだくれ・・・ベトナム戦争帰りのアイデンティティ崩壊青年映画系とパラレルなモチーフ。ベトナムは今でも心の傷なのでしょう。

 少数民族に出会い異文化交流、ダンスウイズウルブス。
 そういった「文化・伝統」にだらしなく感動してしまうアメリカ人の性質が相変わらずよく見えていた(それでいて、アメリカ人の文化ってのは、そういう彼らの「憧れ」をどんどん消尽し、壊してしまう「文化」なのだけど・・・・・それはアメリカ人の責任というわけではなく、どうにも止まらない「現代社会」の性質なのだということが問題なのだが)。


 そして、「馬と弓と剣と大自然と、大スペクタクル」というロードオブザリング。
 ハリウッド的に撮影すると、時代劇もあれだけ迫力が出るのね、スゴイスゴイ。
 スゴイスゴイ。・・・・このカタカナで表現するしかない「スゴイスゴイ」という言葉は、まさしくハリウッドの映画を表現する上で最も的確な言葉なんだろうと僕は思っている。
 こう言うしかないんだからしょうがないんだよというぐらいにオツムがホカホカしてそうな語彙力不足な言葉だ(この「語彙」では表現できなく、「映像」なんだという部分がハリウッド的なのだ)。
 せっかくの迫力は、ビデオよりも映画館で観る方がお薦めかと思われる。



 ハリウッド映画が好きならば、問題ないです。楽しめるはずです。僕は楽しめました。
 僕の文章を読んでいると、なんだか悪口なのかと思えるかもしれませんが、映画を観ている時点では、楽しんでいました。思い返してみると色々と思うことがあるってだけです。


 男女平等の関連で労働問題として女性の活躍の場を必要とするというのも分かるし、ハリウッドらしいのだが、最後に「小雪のところへ帰る」というラブロマンスは不要だったなぁ、というのが率直なところ。




・どんな風に共鳴する? 〜怖い共鳴〜

 さて、全体的に見れば、少数民族の悲壮に肩入れをしていく映画か?。
 と思いつつ、この映画がアメリカで受けるのは、そこにとどまらないせいであろうし、そこが非常に怖いところだ。
 「肩入れ」・「同情」とか言うよりも、実は、あの彼ら「サムライ」の精神は、アメリカ人の今の精神状態そのものなのではないだろうかという点が恐ろしい。
 すなわち、信念・誇りを軸として、「自分の貫く正義のためであれば、たとえこの身が滅びようとも戦って散ってみせる」という気分だ。この気分で(世界の誰の話にも耳を傾けずに)イラクに攻撃をしかけた(これからもイスラム圏にいつ攻め入るかわからない)彼らの精神状態。
 悲しいかな、貿易センタービルを破壊されたという未曾有のテロに遭った彼らは、自分たちが「弱者」であるかのごとく、神経症的な精神状態に陥っている。圧倒的な軍事的・経済的強者でもあるにも関わらず、おそらく、ラストサムライにも似た「悲壮感」でアメリカ人の精神は満ちているのだろう。



・正義と誇りとサムライ達の未来
 正義と誇り。歴史上、この言葉のもとに、幾多の命が散っていったのか。「悲壮な決意」を固める前に、その決意を何に向けるべきなのか、その点を誤れば、怨嗟が怨嗟を呼ぶだけなのに・・・。

 ラストサムライの悲壮感に共鳴した「帝国」のサムライ達は、悲壮な決意で、正義感に駆られて、次にどこに攻め込むだろうか。劇中同様「刀を返すことは誇りに反する」と主張するニッポンのサムライ達は、これから何をする気なのだろうか。

2005年05月30日

堅い文章の読み取りガイダンス

 真面目な口調の文章は、それだけで鵜呑みにしてしまうという人がいる。それは、マジメ・小難しいことに免疫が無いということに尽きるのだけど、新聞であったり、ニュースであったり、堅い調子のblogであったり、そういうもの全てが「正しい」ものとして受容されてしまう。


 メディアリテラシーとか、そういう流れで それではマズイのだと そういうコ達に言うと、「じゃあ、どうやって読みとっていけばいいのか?」という質問を受けたりもするのだが、とりあえずガイダンスとしては二つある。


 一つは、(これは分かりやすいのだが)「自分の権利」について語っている文章は、正しさを割り引いて考えようということ。

 どこかの社員が、上司に文句を言いたくて自分たち部下の権利について語っている場合、商品を買った人間が消費者の権利を主張している場合、女性が男女差別を語る場合も、そこに入る。

 勘違いされても困るが、そういう場合には、「言ってることは一切信用できない」という意味ではない。ただ、どうしても自己(及び自己周辺)の権利を語ることは、自己の利益についての考察が中心となり、他者の利益にまで配慮が及ばないことが多いことは分かると思う。そこで、そういう文章を読む時には、言ってることの妥当性を疑いながら読む方が良い。
 そういう「言い分」に耳を傾ける姿勢は重要だし、当事者にしか分からない「不利益」というものもあるから、読む価値が無いということではない。
 また、だからこそ自己の権利について語りながらも、その反対側の利益にまで考慮されている場合には信用できるかもしれないということでもある。


 「権利ばかりが大事にされて、日本社会が駄目になった!」みたいな主張をする人が最近は増えているが(いわゆる戦後民主主義批判?)、彼らの言いたいことは、「自分の権利を声高に主張している言説が席巻していく世の中では、(慎ましくしている)他者の利益が侵害されていく」という意味において、一定の正しさを有している。


☆★☆
 ただし、もう一つの視点も重要である。
 「義務」について語っている場合にも、それは8割ぐらい正しさを割り引いて読まなければいけない。
 それは、実は上で言っていることの裏返しになっているだけで、同じことだからだ。

 誰かの義務を主張する人は、結局、(自覚が無い人が多いのが困りものだが)自分の権利侵害を防止したいということが動機の中心となっている。他者の権利が優遇されていることで間接的に自分の権利が侵害されている。だからこそ「義務」を主張する。

 自分の利益を主張するのではなく、他人の利益を削ることで自己の利益を保全しようということである。

 これは「自己の権利を主張する」ことと実質的に同一視できるものだが、「社会全体の利益」のために主張しているように見えるために、「隠れ蓑」としてうまく機能する。


 これは「他者の義務」を語っている場合に限らない。
 自分も所属する集団も含めて、社会全体の「義務」を語っている場合でも、あてはまることが多い。実は、その場合には、主張者にとってはその義務の負担が大したことではないことが多いからだ。
 結局、その義務が課せられることで他者が100の利益を失う時に、自分は5の利益しか失わないということが多いのである。


☆★☆
 「(戦後民主主義が生み出したと言われる)権利を主張する人達」を批判し、「権利ばかりではなく、もっと義務を!」と主張する人達こそ、ある意味で、僕には戦後民主主義の申し子に見える。表裏一体。
 義務を主張する人は、他者の権利が伸長していくせいで自己の権利が侵害されていくのを感じて、それ故に自分の権利を声高に主張している人達なのだ。「義務」を主張する人は、「権利」を主張する人なのである。つまり批判している対象と全く同じ存在であるし、それを自覚していない分だけ、より悪質だ。

 (昔っから、そうだったんじゃないの?と思いつつ)仮に、戦後民主主義が「権利を声高に叫ぶ人間を増やした」ということが事実であるとするならば、その対応策は、義務を覚えさせることでも、義務を増やすことでもない。
 「他人の権利」について検討する想像力を養うこと、「他人の権利」が侵害されていないかに気付くことができる注意力を養うことである。

☆★☆
 少し脱線したので、まとめよう。


 堅い文章を読む時のガイダンス。

・自分(&自分が所属する集団)の権利を主張している言説

・社会や他人の義務について主張している言説

 この二つを見た時には、その主張の妥当性を判断する時には、慎重に判断しよう。


 追加結論:義務を主張する人は権利を主張している人と同じである。

2005年05月25日

自動車という殺人兵器

(2003.10.02)
 自動車というのが、僕は、あまり好きではない。
 渋滞や、排気による大気汚染・温暖化などの弊害は よく言われていて、それらも理由で嫌いなのだが、僕が一番嫌いなのは、自動車が「殺人兵器」である点であり、また 世の中が割と その点に無関心な点である。


 世の中には、身の回りに人を殺せるものは溢れている。拳銃がなくたって、ロープや木刀や植木鉢や包丁で十分に人は殺せる。ただ、それらのもので人を殺すのは「殺そう」という意思がないと難しい。



 ところが、車は違う。
 「過失」で他人に重傷を負わせるのが簡単であり、容易に他人を死亡させてしまえる道具なのだ。車というのは、そういう兵器なのだ。

 車で轢いてしまう場合、衝突して同乗者を殺してしまう場合、追突して他車に乗る人を殺してしまう場合などなど。簡単に人殺しができるのである。お手軽である。


 その割には、身の回りに溢れていて、購入も免許取得も容易だ。そして、交通事故も当然のことながら大量に溢れている。
 電車事故、飛行機事故に比べて、新聞の話題にもならないほどに死亡事故が溢れている。


☆★☆
 「自動車をなくせ」と言っているのではない。便利さや産業の発展の点を考えれば、自動車文化のない状態に戻すことは不可能だろう。それはわかっている。当然、その便利さや経済に与えている影響もわかる。便利だから、僕だって車に乗せてもらうことはしょっちゅうである。

 ただ、それでも、「『殺人兵器』としての自動車」という認識が世の中には足りないのではないか、という風に感じるのだ。


 幸いにも、僕の周囲には、自動車で死亡した人間も死亡させた人間もいない。
 が、危険な事故の話は周囲にも多く存在している。大けがをしないで済んだという話は身の回りにも大量にある。

 誰かが殺される前に、誰かが殺す前にわかるのが、「想像」できるのが、人間の優秀性ではないだろうか。


 自分が殺されてしまえば、それはそれで、まあ、しょうがないと思えるのかもしれない(いや思わないぞ)。
 しかし、自分が「一生残る障害」を負ったりしたらと考えたらどうだろう?。

 自分の親しい人間が、愛する人間が一生の障害を負ったら?、死亡したら?。


 怖いのは被害者になる場合だけではない。
 反対に、自分が、誰かを殺してしまったら?、重傷を負わせたら?。
 自分の愛する人が、誰かを殺してしまったなら?。

 むしろ、こっちの方が怖いのではないか?。


 想像したことがあるだろうか?。僕は、何度か想像して、内蔵が持ち上がるような吐き気を覚えたことがある。
 たぶん、こういうことを想像していたら、安易に免許を取ろうとか思わないはずなのだが・・・・。


 国も安易に免許を与えるべきではない。なんらかの違反を起こしたら、免許を一生剥奪する、それ以上の厳罰を与えることも辞さないという姿勢も必要なのではないか、と思う。


 誰にでもある、溢れている、だから、しょうがない、という(そういう言い方はしないが、結局同じこと)理由で、車による事故などは起訴猶予になることも多い(起訴猶予=訴えられない、犯罪にならないということ)。誰にでもあるから、という理由でいいのか?。


 免許を取得して、自動車を運転し始めた人間は常に「殺人」(あえて「過失致死」ではなく、「殺人」と書く)の危険を認識していて欲しいものだ。


 想像してみてください。

 身の回りの誰かが殺されたら、どうするのですか?。

 あなたが、あなたが愛する人が、誰かを殺してしまったら、どうしますか?。

2005年05月09日

自由にものを言えない国

 とても怖い国になった話(是非、クリックを)

 僕は共産党支持者ではありませんが(もちろん、自民党は全く支持しませんけど)、本当に怖い国になった・・・・。


 愛国心が制度化される(クリック)こととは、どういうことかということを以前に書きましたが・・・・。

 アクセス数が大したことないから問題にならなくても、もしかしたら、僕なんかも弾圧を受ける可能性が高いわけです(自民党を支持することを全く書いてないからなぁ・・・)。このサイト自体がいきなり消されたりとかだって、将来的には無い話だとは言い切れない・・・・。

2005年05月08日

JR西日本とマスコミと

 めったに良いことを言わないサンケイですが(笑)、珍しく良いことを言ったのでリンク。
  ↓
サンケイ新聞記事

 つーか、皆が普通に思うはずのことだと思いたいのだが・・・。


 結局、これも、視聴者の声が聴こえてやっと気付いたという意味で、マスコミもJR西日本も「自浄作用が無い」って点が共通なのだよな。
 「自浄作用が無い」ってのは、日本の集団(日本に限らない?)に、よくある現象なので、常に気を付けていきたいものだ・・・。

2005年04月27日

尼崎脱線事故の報道に思うこと〜スキャンダラス?〜


 ・・・・・・・気持ち悪い。
 僕がニュース報道になんとなく思うのは、そんなところ。


☆★☆
 2005年4月25日午前、兵庫県尼崎市でJR福知山線が脱線・横転事故を起こした。死者は100名を越える可能性が高い。
 原因については、電車の遅れを取り戻そうとしたが故の速度オーバーが指摘されていると共に、運転手の未熟についても取りざたされている。また一部では「置き石」の疑いも出ている。

 と、ここまでが、報道から判明している要約事実。



 僕は、ニュースや事件を見る時に、「これは何の役に立つだろうか」という視点で見ることが多い。「自分にとって」でも「一般的に」のどちらでもいい。


 このニュースの役割は?
・一般論として「ヒューマンエラー」の発生過程と防止について考える機会が与えられたということ

・類似事故が電車及びその他の交通機関についても起きてはならないという警鐘になっていること


 ちなみに、僕の中では先日のトレンドマイクロの問題と類似にも見えた。その企業にとって「あってはならない」ヒューマンエラーであったという点で。


☆★☆
 が、しかし・・・・・このニュース、本当に役立つのか?。
 そして、死者にまつわるニュース、死者の家族のニュース、事故時の車内の情景について、運転手の経歴について・・・。


 例えば自分にとって役に立つ情報であるのか?
 「こんな事故にあったら、どうする?」・・・・これは、ちょっと考えても意味が無い感じだ(遭遇する機会は無さそうだ)。
 (自分が)その事故に遭わないためには?・・・これも意味が無い。


 地震のニュースであれば、もしもに備えて準備をするというような、僕個人への還元が期待できるが、今回のような惨劇に関しては、実は、個人への還元は、ほとんど無いと言える。



 この事件にまつわる報道は、ほとんどが「センセーショナルな退屈しのぎ」だ。「話のネタ」だ。事故原因追及の話にしたって、こんなに「嬉々として」報道するほどに社会的意義が本当にあるとは思えない。


 これらの報道は、僕らの「へぇ〜」という好奇心や「覗き見趣味」を満足させる、もしくは「セカチュー」みたいな悲劇に涙するカタルシスというような、娯楽としての側面が、とても強い。実際問題、芸能人の離婚報道や何かと大差は無いのではないか?、という疑問が拭えない。

 いや、「話のネタ」ってのは、ものすごく重要な要素なのだ。「知る」ことだけに満足を覚えるというのは、動物とは違う人間らしさの象徴であるのだから。

 だから話のネタであることが悪いと言っているのではない。

 文脈的に勘違いされそうだけれども、話のネタであることや、そのセンセーショナルさに対して「不謹慎である!」という(ナイーブでセンシティブな人にありがちな)批判を展開したいのではない。



 で、何が気持ち悪いのかというと、報道する側が、「話のネタ」であることに「無自覚」であるように見えることだ。いや、無自覚なフリをして自覚的にやっているなら、それはそれで構わない。その場合は、受け手側のリテラシーの問題となってくるだけだ。

 でも、僕には、報道する側は報道する使命に燃えている気がしてならないのだ。


 「このような悲劇が繰り返されてはいけない」という使命から報道をして、各企業が「これだけセンセーショナルな問題になってしまうなら、うちも気を付けなければ」という方向に動くであろうこと、その社会的意義を否定はしない。


 そうではあるが、スキャンダル報道と大して変わらないんじゃないの?という側面は否定しきれないだろうという点を、たぶん報道する彼らは一切自覚していない気がする。そこが、何か気持ち悪い。
 もう一度言うが、スキャンダル報道と変わらないことを批判したいのではない。スキャンダル報道と変わらないことに無自覚な感じが気持ち悪いと言っているのだ。


 「マスコミなんて、そういうもんだろ?。そんなこと言っていてもしょうがないじゃん」とか言われそうだが・・・・。


 もちろん、この僕の文章自体が、そういう「話のネタ」としての文章であることから逃げ切れないのは当然のこととして・・・・。

☆★☆
 「話のネタ」性から逃れられないことで開き直り、自分に引きつけて想像して「どうしよう・・・」と思ったことを二つほど挙げておく(あえて「被害者」の話は除外しています)。


・自分が運転手で生き残ってしまったら?(自分の家族が・知人が運転手だったら)

・(仮に置き石が原因だった場合)自分が6歳とか7歳とかで、置き石をしてしまったとしたら?(or自分の子供がしてしまったら)

 ・・・結構、エグいです。

 考えたところで、どうなるものでもないですが・・・・。

2005年02月28日

ライブドアとフジテレビ、どっちが汚い?

 堀江バッシングが盛んだ。

 とりあえず、今回は、(僕個人としてはどうでもいい)法律論から。どうでもいいなら書かなければいいのに?。書きやすい題材なので、書いてしまいます(笑)。相変わらず、「元生徒達にも分かりやすく」を目指しているので、議論が少々単純化されていることは承知の上で読んでください。


 今回、トラバってものを使ってみた(今更の実験)。僕の今回の文は法律論という観点からなので全然関係ないのだが、まあ、練習。無関係な感じのトラバだが、話を広げるためってことで大目に見て下さい。つーか、まあ、友人だし許してくれるだろう。

 トラバ先は、こちらのサイトの、こちらのエントリー
 このエントリー以外にも、是非、読んでみてもらいたい。
 法律論とは違う、今回のライブドア関連の、もっと重要な問題に触れています。

☆★☆
 さて、本論。

 そもそも株式取引のやり方に、倫理を持ち込もうという輩がいることには、辟易としてしまう。
 ビジネスや資本主儀に倫理がいらないとは、実は僕は思っていない。
 一対一の交渉事であれば、道義に沿ったやり方が必要かもしれない。モノを売る場合に消費者の立場を無視した販売が認められて良いとは思えない(「資本主義と倫理」なんてこれはこれで、話が長くなるので、ここで終わり)。



 しかし、堀江氏が批判されているのは株式市場の話だろ?。一番、魑魅魍魎が跋扈していておかしくない、数字だけの世界だ。そんな中での「振る舞い」について、とりあえず合法である(←重要)にも関わらず、道義がどうのとかいっている人間がいるとは・・・。


 もちろん、彼のことを全面的に擁護しようと言う気はないが、この点は別の発言で。



☆★☆
 とりあえず、「やり方が汚い」とかいう批判をしながらも、法律的によりダーティなのは、今回のフジ・ニッポン放送が採った措置だろうと言いたい。


 ライブドアもフジも、どちらも「グレーゾーン」かもしれない。が、法律業界で「違法」とされやすいのは、フジのやってることだ。もちろん、業界内にも争いのある論点だから真っ黒なわけではないけど。


 どういうことか?。

 新株発行に関して言えば、既に地裁レベルで「主要目的が資金調達でないならば違法」とされると判決が出ている(東京地裁・忠実屋事件)。


 今回のニッポン放送のやったことは?。
 今回は主目的が、資金調達ではない。
 「株主選び」である。「誰を株主としたいか」を主目的としている。
 今までの判例であれば、かなり明白に違法だ。

 最高裁判断が出ていない以上「真っ黒」ではないが、限りなく黒に近いグレーだ。

 違法に近いことをやっている連中がライブドアが倫理に反するとか汚いとか言っている姿は滑稽ですらある。


☆★☆
 ただ、あの判例は新株発行の話であって、新株予約権の話ではないという主張もあるらしい。

 ホントかよ?(苦笑)。
 ちなみに手持ち資料では、そういう説は見つけられなかった。
 普通に新株予約権にも新株発行の条文は準用されているので、その主張は苦しいだろうと思うのだが・・・。



 新しい事例の場合には、その法律の趣旨・理念に沿って考えるのが法律業界の思考。
 商法の思想は、株主と取締役の権限・役割を分担することにある(そして、その暴走を止める「監査役」。実は憲法の三権分立と似た発想)。


 (あくまで商法上の話だが)会社の所有者は株主であり、取締役は経営を「委託」されただけに過ぎない。
 あくまで取締役は経営を担当するに過ぎない。会社の所有者が誰であるべきかは、経営問題ではなく、当の所有者が判断することである。なので、「会社の持ち主を誰とするべきか」ということに関して判断する権限は取締役にはないとするのが商法の思想のはずだ。

 結論としては、ライブドアの差し止めは認められるはずだと思うのだが・・・。


 仮に今回の差し止めが認められない(=フジテレビの勝ち)となれば、今までの商法というものの自殺となってしまうであろう。

 会社が株主のものであるべきだとは僕個人は特に思っていないし、会社が株主のものだという商法の思想が日本の経済界には定着してないということなのもわかる。また、法を離れて日本の社会システムを考えれば、会社の所有者は、むしろ従業員とするべきだろぐらいに考えている。


 だが、それと「商法」の話は別だ。

 (いいか悪いかの議論は置き去りのままだが)会社は株主のものであるという思想を体現するために、いくつもの法改正もなされているのだ。
 ここで、それを根本から覆すような判決が出るはずがないと思うのだが・・・(それをやりたいなら、それは司法ではなく、国会がやるべきことだ)

 どちらにしろ、裁判を待つしかないが・・・。


 とりあえず、結論。
 汚いのは、どっちだ?という話からすれば、汚いのはフジテレビ側だ、ということ。まあ、そういう勧善懲悪で単純な話でもないが、法律論的にはってことで。




 そんなどっちが悪いかなんてどうでもいいことはさておき、次回は「堀江的 安易な合理性」とか、「目的なきメディアの行く末」とか、「世代間闘争と堀江支持若者世代の悲惨」とか書こうかしらと思いつつ、ザウルスでの長文作成に疲れたので、どうなるかわかりません(-.-;) (パソコンは明日から修理の旅に出ます)。つーか、トラバ先と思いっきり被ってるしね(-.-;)。

 ・・・・「どうでもいい」と思っていることに、これだけ長い文章を書いてしまう自分をどうにかしたいと思っている、今日このごろ(-.-;)。

 だから法律は嫌いなんだ(問題点がズレ過ぎです)。