2006年09月05日

東武昌2

戦開始のために軍需品輸送を主としていたが,中国人旅客や民需品輸送をも
取り扱い一日三往復位の運転を想定していたが,運転器資材,線路通信線等の不良と夜間ゲリラ妨害があるため列車の運行には相当困難を伴った。

しかしわが国鉄派遣隊員は運営甚だ不容易と思われた前記,器資材不良,その他種々の悪条件を克服,一日二往復の運行は最大に能力発揮した状態にあった。

当時,派遣隊員は一般兵と同様に銃剣一丁に実弾を各自所持しており,市街郊外の中間駅では列車の発着時以外の昼間は閑散としているが,夜間に中国八路軍ゲリラの駅襲撃,地雷による列車妨害の防止と治安維持のため,派遣隊員の外,配属警備兵小隊「十二人」の二十名くらいで厳重警戒にあたる。

空襲は配属一ヶ月後あたりから米機P47,P51の少数機で日を置いての昼間爆撃で鉄道施設の被害もさほど大きくはなかった,唯,終点重要駅岳州(現,岳陽)だけは被害大きく昼間の作業も意のごくならなかったようだ。           

また,八路軍共産ゲリラによる駅中間での爆雷による夜間線路爆破,列車妨害等あるために保線隊員は線路の警戒巡視,工場隊員は損傷輪転器材の修理にあたり,警備隊は戦車に鉄道車輪を装着した高速戦車モーターカーによる巡回警備強化ををはかる。

通信関係は各駅、分区間がやっと通信しうる状態であったが,派遣隊員の配置により修復,東武昌,岳州間全線駅の直接通話可能となるも,その後通信施設に対する空爆の被害が重なり資器材の不足と復旧補強には相当困難をきたした。
  

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2006年04月11日

東武昌

昭和18年9月25日
古山武男駅長以下,私を含む13名の駅員は列車組成,始発拠点駅で機関区,保線,通信材料廠の各区を含む137名の派遣隊員を擁する最大拠点東武昌駅に配属となりました。
東武昌駅の業務は国鉄組成駅同様各担当部署に配置,私は列車運転通信閉塞掛と中国人職員の入換え作業指導に当たることになりました。
当時同線には各担当隊員528名に,華人従業員は約1千名程おり,運転方式は通信閉塞式とした,各駅共に構内が狭く,最も広い列車組成駅の東武昌駅構内でさえ,本線3本に入替線が9本しかなく,入換作業には苦労したものです。
機関車は日本製の名機9600型が6両に外国製ミカロ型押収機関車11両もありましたが,これは性能が悪く,構内入換え作業にしか使用できないものでした。
一方,客貨車は計500両程ありましたが使用可能車は約350両くらいだったと思いますが,いずれも相当傷んでおり,貨車は,エアブレーキ三動弁タンクの真鍮砲金が中国人の盗難によって,ブレーキ操作不能になっており,列車操作のブレーキは専ら機関車のエアブレーキの操作のみで行わざるを得ない状況でした。

  

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2006年02月26日

運転輸送と鉄道警備

9月5日札鉄局要員は京漢線(漢口〜信陽駅間)へ,
仙鉄局要員は粤漢線(東武昌〜岳州駅間,現,岳陽)
に配属のため,揚子江を連絡船で渡江 武昌市兵站宿舎へ移動する。
ここでは前任鉄道隊より軍事輸送業務の後任引継のため一般兵同様に新九九式歩兵銃剣一丁に実弾を支給され鉄道運転実働警備訓練を完全武装で特訓を受ける。
大陸の暑さは厳しく,特に真夏の中支武漢地区では常に四十度を超す猛暑のため雀も焼け落ちると云う「コトワザ」にもなってる程の酷暑である。

武昌市郊外の武漢大学方面の山岳地等一日約三十粁範囲ぐらいの強行軍も汗にならず
すぐ蒸発,塩になり肌がざらざらになる熱気と,二十日間に亘る長期訓練に若い私等はなんとか耐えることができたが,年のいった先輩達は相当にまいったようでした。          

この訓練を終了後,
9月25日
第十一軍司令部付呂5500部隊,
鉄道第一聯隊(原隊千葉県津田沼)所属第十二中隊(私等と任務交代後,桂林作戦輸送と鉄道施設復旧のため岳州前線の長沙〜桂林間鉄道に向かうも後に全滅したと聞く)と,粤漢線(東武昌〜岳州駅間)二二六,七籵区間の運転輸送任務を引継交代,
武昌駅に派遣隊本部を置き各駅区,保線機関整備,材料廠工場に配属,同聯隊第二大隊と共に同線の運転輸送と鉄道警備に従事することとなった。
  

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2006年01月13日

武漢へ

8月31日
浦口港より輸送船に乗船出港,対岸遙か南京を望ながら初めて目にする万年濁流の揚子江を遡航, 一路中支の要衝,武漢三鎮(漢口,武昌,漢陽,)に向かいました。
遡航途中九江港に接岸,南尋線(九江〜南昌駅間)着任の新鉄局派遣隊員下船と器材物資の積み卸しがあり,浦口出港して4日目の9月3日,派遣地であります武漢三鎮港の漢口時計台下埠頭に着岸上陸しました。
ここでは第三鉄道隊の指揮下に入り市内の兵站宿舎(旧外資系煙草工場跡)に入りました。
長途の疲労を癒す暇もなく諸般の連絡折衝,隊本部は漢口に,漢口市の江岸大通りは外国人,日本人租界商社,銀行等がありました。
この揚子江の川幅は約二千メートル余りの濁流で,増水期には一万トン級の船舶さえも遡江していました。
対岸遙かには武昌市蛇山公園,黄鶴楼が窺えました。  

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2005年11月28日

浦口

徐州を通過してから丸二日,車窓から見える中国大陸の風景は単調そのもの。
それまで経験したこともない列車の旅は,尻は痛くなるし,寝るにもことかき,体のやりばがなく座席の下や通路に交代しながらの辛い長旅,本当に身にこたえた一週間でした。

列車は8月26日の午後,中支終点,浦口駅に到着しました。
浦口は対岸に南京を望む揚子江川岸の駅で,ここから揚子江を遡る輸送船に乗り換えます。漢口向け輸送船舶の都合で同地宿舎(倉庫のような建物に)に6日間滞留することになりました。
浦口の宿舎では初めてキリンビールの大瓶と「ほまれ」という軍用の煙草が支給されました。まだ未成年の私は支給されたばかりのビールとたばこを口にして,ここ浦口まで来てやっと大人の仲間入りをしたような気がしたことを思い出します。
  

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2005年11月24日

徐州

満州に入ると,そこは8月の大陸,この時期の強烈な真夏の太陽が照りつける中,列車は大満州平野をただただ走り続け,満支国境を通過し中国山海関に着いたのは,釜山を出発して3日目,23日の夕刻でした。
ここで,学校の歴史の授業で習った「万里の長城」を目にしたとき,その感動はとても言葉に表すことができないほどでした。その光景は,今でも昨日のことのように思い出されるほどに強烈な印象があり,まさにに感無量でした。     

まもなく列車は,再び南に向けて出発し,北支を南下,北京,天津,曲阜を径由し,24日には,あの軍歌でも有名な徐州を通過しました。
徐州付近を通過する際,目にした一望に広がる麦畑の光景,それは,当時国内で盛んに歌われていた流行歌,「麦と兵隊」そのもの,見渡す限り延々と続く麦畑の光景でした。
  

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2005年11月19日

連絡船

下関に着くと,今度は下関と釜山を結ぶ関釜連絡船に乗船です。大陸との大動脈だった連絡船は,青函連絡船と同じくらいで4,5千トンほどの大きさだったと思います。
我々の乗った船は朝鮮釜山に向けて,夜半に下関港を出港し,およそ4,5時間の航程だったでしょうか,釜山港に入港したのは,翌日8月20日の早朝でした。
このとき,私ははじめて朝鮮半島に上陸,釜山の駅に向かい,ここで新潟鉄道局派遣隊員と合流し,釜山駅,広軌の線路上に待機していた列車に乗車しました。
列車は朝7時半釜山を出発,一路南満州に向かう,当時の朝鮮鉄道の客車は板桟敷腰掛け軟座車で,長時間腰掛けていると尻が痛くなるため,車内の床に交代で寝るという長旅でした。
途中,主要な停車駅で粟飯の炊き出しを受けながら朝鮮半島を一路北上,釜山を出発してから2日目の,8月22日の早朝,鮮満国境の街,安東通過し,列車は南満州に入りました。
  

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2005年11月16日

下関へ

津田沼では,軍事訓練の他に,戦場における鉄道運営に関わる必須の訓練を受けました。そこは真夏の関東,東北よりも格段に厳しい猛暑,くわえて津田沼の山間地特有の赤土埃りにまみれながら,なんとか一週間の軍事訓練を終えました。
一通りの訓練を終了後,8月18日に出発命令が下り,全隊員が千葉屯営地の津田沼駅から臨時列車に乗車しました,津田沼を発車したのは暗くなってからだと思います。
私たちを乗せた列車は,東海道,山陽本線を下り一路下関へ,明るくなってからも,途中市街地を通過するときには日よけを下ろさせられたので,列車がどの辺を走っているのかは全くわかりませんでした。
列車が下関港駅に到着したのは,翌日8月19日夜,20時か21時頃でした。  

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2005年11月15日

津田沼にて

私たちを乗せた列車が千葉,津田沼駅に着いたのは翌日の早朝でした。ここで,北海道からの札幌鉄道局派遣隊員と合流した後,千葉鉄道第一聯隊(津田沼)に入隊しました。
補充隊員として現役兵同様に身体検査を受け,軍服が支給されましたが,その軍服は15才の私にはダブダブでした。倉庫を改造した体育館のような広い仮兵舎がそれからの住まい,真夏の暑く寝苦しい一夜をそこで明かしました。
翌8月11日からの1週間は思ってもいなかった軍事訓練でした。まだ身長のない自分の肩と同じ丈の旧三八式歩兵銃に背嚢と,ゲートルを巻いて,まさに完全武装での行軍演習。さらには,戦闘実弾射撃訓練と,砂漠のような津田沼の山土で「きな粉餅」のようになりながらの猛訓練をうけることになろうとは思ってもいませんでした。
現役経験のある先輩はともかく,若年の私たちの身にはかなり応えましたが,この時の苦しい訓練こそが,後々の中国での行動には大いプラスになりました。
  

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2005年11月14日

見送りに感謝

仙台駅を出発すると,およそ5分で自分の所属する長町駅を通過します。
通過時には,駅ホームから大勢の同僚駅員から手旗を振っての見送りがあり,とても感激しました。
長町駅を通過しておよそ3分後,名取川を渡ると,陸前中田駅手前,町北の地蔵堂踏切。
そこには,遅い時間にもかかわらず,私の乗る派遣列車の通過を待ちかねていた隣近所の方々をはじめ,多数の同級生,友人達から松明を燃やしての見送りをうけました。
この時,列車のデッキに立ち,手を振り応え、お礼の菓子袋を投げおろして,その場を通過しました。
あの時はまだ十五才の未熟者,地元の皆様の暖かいお見送りにとても感動し,流れ出る涙を止めることができませんでした。
  

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