2007年05月23日

眼鏡は心の窓、いや自意識の窓ってとこかな

というよりか雨戸?透明だからサッシ?

現在、アニメ放映中の「地球へ…」にやたら眼鏡をかけたサブ/モブキャラが出てくるので気になってます。舞台は世紀をまたいだ遠未来なのに。ちなみにSFにおける眼鏡描写の中ではル・グィンの短編「ニュートンの眠り」(絶版の『内海の漁師』所収)において“まるでスラムの貧しい子供たちのように近眼鏡を掛けていて”といったくだりが印象的だった。視力矯正を身体手術で治せるかどうかが経済格差証左の一角になっているというのがリアルでね。あと「ドラえもん」でものび太の孫のセワシの時代には視力矯正施術が当たり前になっているという台詞が。現実でも、10年ほど前から耳にしはじめたロシア発祥のレーシック手術(角膜にレーザーメスを入れて屈折率を直接に矯正する技術、だったと思う)は、これから受ける人の割合は更に増えていくだろうし。

で、話を戻すと「地球へ…」に眼鏡を掛けたキャラクターが描かれている点に関して原作者の竹宮惠子氏は『技術がたとえ進んだとしてもファッションとして眼鏡は残ると思います』と答えたのだそうで。これもまた、真実だと思うんですよね。

さて安部公房が書いた有名な「箱男」という小説で、主人公の箱男が少年時代に眼鏡を親に買ってもらった理由として“現実をじかに肉眼でみるのがとにかく嫌になった”と述懐するくだりがあるんですが、生来、神経質なところのある私は読んでいてかなり共感したのを覚えています。かつて視力が落ちはじめたころ、授業以外では眼鏡をかけずにすむようになるべく外して暮らした方がいいとは複数の人から言われたような気もするけど、あまり従う気はなかった。それにはおそらく箱男と似通った心証が働いていたと思う。ゆえに、眼鏡は未来でもなくならないかもと考える派に属するのです。

眼鏡を掛けることは、身体必要性や装飾行動性以外にもおそらくは更にナイーヴな側面もある習わしであるという仮説。

あと、粗忽な人間にとってはもうひとつメリットがあります。それは不意の物体との衝突から眼球が守られるという安心感。いやー、先日も仕事場で長い柄の付いた特大しゃもじを不用意にたてかけておいたらあやうく目元にぶつかりかかりまして。眼鏡という盾があって良かった…と思うことも多々だったりするのです。

地球へ… (2)


追記:そういえば、うちの仕事場では「コンタクトが体質的に合わなくて(粘膜に負担がかかるらしい)やむをえず眼鏡着用」という人がすくなくとも二人いる。そういう単純な理由-眼球に手術を受けることが感覚的に恐いというのも含めて-も未来においても決してゼロにはならないでしょうしね。…遺伝子操作はどうかな。角膜の厚みを遠近機能として調節する筋肉が固着しやすいかどうかには遺伝要素もあるとか小耳に挟んだことはあるけど。ま、後天的要素がゼロになることはたぶんあり得ないだろうし、うん。

tataki_noon at 20:44│Comments(0)TrackBack(0)その他諸々 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔