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I live in a room at a corner on the top level of this student accommodation (Te Puni), where I can enjoy the beautiful harbor view and the sunrise from Mt Victoria.

私が参加しているあるMLに幼稚園児が漢字を勉強しているという記事が紹介された。http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/196370/ 漢字の早期教育については賛否両論あり、私なりの考えもあるが、ここでは触れない。問題は記事の後半に引用されている藤原正彦氏のコメントである。悪しき平等主義をやめるということはともかく、「幼少のときから、漢文や和歌など美しい日本語を素読する習慣が、独創性や品格を身につけることにつながる。」という点には、大いに疑問を感じる。

 

漢文や和歌の素読で独創性や品格の身につく子どももいるかもしれないが、それはその子どもが好きだからであって、好きでもない子どもがそれをして身につくとは思わない。私の母親は国語教師で、私も子どものころから古典の音読の効用を聞かされ、実践し、それは教養の一部にはなったと思うが、それほどたいしたプラスになった気もしない。国語国文学科を卒業し、古典も勉強したが、ほとんど忘れてしまった。だから私には品格がないということかもしれないが・・・

 

私の娘も小学生のころは音読の課題が頻繁に出て、それはそれなりに意味があったとは思うし、百人一首や落語の寿限無の暗誦などを喜んでやっていたが、それで藤原氏のいうような独創性や品格が身についているようには(娘には悪いが)まったく見えない。ギャル語も百人一首も同じ感覚で楽しんでいるように見える。外国の歌やラップの歌詞を覚えたりするのと同じようなものではないだろうか。

 

人(子ども)によると思うのである。みんながみんな、音読をして独創性や品格が身につくなどというのは体育会的な発想であり、幻想である。何をしているのか理解できない子どもにとっては苦痛であり、時間の無駄である。

 

それよりも大切なことは、「本当に意味のあるいい言葉は、相手のことを考えながら使うところに生まれる」ということだ。齋藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』がベストセラーとなって以来、小中高校で朗読がカリキュラムや課外活動に盛んに取り入れられているが、ただむやみに声を出して言葉をなぞるだけでは期待するほどの効果は得られないだろう。

 

何よりも問題なのは、一方向的な音読をさせられることで、「言葉は相手のことを考えながら使うものだ」という本質を見失う恐れがあるということだ。今の日本のコミュニケーション問題も、学校における言語教育の問題も根本はそこにあると私は考えている。自分とは立場の違う相手に対してどのようにコミュニケートの場を共有して、自分の言いたいことを伝えられるか、ということが大切だ。 


さまざまな言葉の本が売れているが、私がその良し悪しを判断する一つの基準は、コミュニケーションの相手を意識するということがその本で意識されているかどうかである。意味不明の日本語ブームはこのような点でかなり問題がある。『日本語練習帳』(大野晋、岩波新書)などなど、言葉をstatic(静的)なものとして捉える本には弊害があると考える。

 

昨今の漢字検定ブームも同様だ。2級までは意味があると思うが、1級にはほとんど意味がない。1級に出てくる漢字や漢字語にはほとんど死語になったようなものが多いからである。使う相手がほとんどいないものを覚えてどうするのだろうか。もちろんそのような語が例えば近代文学の作品に出てくることはある。辞書を引けばすむことだが、趣味教養として勉強すること自体は悪くない。ただ、それがブームとなると気味の悪い感じがする。

 

数年前に世田谷区の教育委員会が日本語特区なるものを申請して採択され、現在は教科「日本語」となっているらしいが、http://www.city.setagaya.tokyo.jp/030/d00005808.htmlhttp://www.city.setagaya.tokyo.jp/030/d00020629.html これも古典の暗誦等々、私の考えからすれば(すべて誤りだとは言わないが)ややズレた内容で、困ったことだと思っている。このような言説や政策に対して異議を唱えるときに難しいと思うのは、古典の暗誦自体が悪いことなのではなくて、それがことばの力の回復の処方箋のように語られ、広く信じられていることが問題だということである。

 

品格はないよりあるほうがいいと思うが、日本の文化や伝統を知ることが、まるで教育を復活させる鍵であるというような言説にはまったく与(くみ)することができない。問題はまったく別のところ(一言で言えばコミュニケーション)にあるのである。