Tatsuのウェリントン便り Tatsu' Life in Wellington

仕事を捨て(?)、家族を日本に残して一人で海外にやってきた謎の男が、博士課程で研究生活を送りつつ、息抜きに近況を綴るページです。

研究・教育 Research and Education

Zipf, Shewhart and Demming

IMG_3184Stir-fried chicken with cashew nuts and capsicum

Zipf's Law (ジップ/ジフ の法則)で有名なZipf の本を借りてみた。法則自体は非常にシンプルなものなので,その部分だけはなんとか理解できそうだったが,そのほかの部分は悔しいけれどもほとんど理解できなかった。言語学者の本だというのに,あまりにスケールが大きすぎて,議論についていけないという感じだった。1949年に出ている本である。この法則は現在非常に多くの分野で応用されているのだが,もともと言語学の,それも語彙の法則として発見されたものだというところがおもしろい。いまこれほどのスケールで他分野を侵食する言語学者がいるだろうか。

PDSA (Plan-Do-Study-Action) サイクルで有名な Shewhart や Demming にしてもそうだ。日本では経営や教育などの世界で,どちらかといえば質的な論じ方をされていて,ときには人道的あるいは精神主義的な色彩さえ感じるが,実はこの二人が統計学者だということは意外に知られていないように思われる。そもそもこのサイクルを持ち出すのに原典に当たっている人のほうが少ないであろう。その著作には数式やグラフが頻出するが,それをかなり哲学的な内容と結びつけて論じているところが現代の学者とは違ったスケールを感じる。これもShewhart の初出は1930年代で,その後のDemmingの著作も20世紀の半ばから後半にかけて記されたものだ。

またこれも少なくとも私は知らなかったのだが,実は Demming サイクルは日本で先に広まったものらしい。私はてっきり最近のアメリカの経営学から入ってきたものだとばかり思っていた。大学経営の世界では目標設定やその達成度を測ることなど,みなアメリカの大学改革モデルから来ているからだ。アメリカから入ってきたものには違いないが,実は先に日本で広まった考えであるところがおもしろい。当初アメリカでは注目されず,その後,日本で受け入れられて広まり,日本的経営が注目を浴びることによってアメリカでも80年代以降注目されるようになったということらしい。

もっともこのような大学者の論じ方が現代でどこまで通用するのかはわからない。スケールが大きすぎて,よく考えたり調べたりすれば飛躍や穴がいっぱい見つかるのかもしれない。しかし,構想の立て方の段階であまり小さな既存の枠組みにまとまっていては新しい発想は出てこない。これらの古典的著作は −ボクにはよく理解できないけれども− そんなことを教えてくれるような気がする。

日本の強さ Japanese Strength

IMGP0129Autumn leaves at a park close to my home in Nagoya, Japan

日本では国の長期的なビジョンがないということがよく言われる。国家主義的な考え方はしたくないが、やはり具体的な未来図がないとどんな組織もコミュニティも衰弱していくとは思う。

経済が大きく成長する時代が終わって30年以上もたつのに、どのような社会にしていくのかという展望が開けず、よく言えば社会が成熟してきているのであろうが、若者に夢や希望がない、社会に活力が欠けているとよく言われる。


しかし私は中国、オーストラリア、ニュージーランドなどで生活してきて、また日本国内で留学生などと交流してきて、日本の社会や自然、人や組織が相対的に持っている利点には、世界に向けてポジティブに発信していける部分がたくさんあると思うようになった。(こういうことを言うと国家主義と結びつきやすいので注意深く発言しなければならないが。)


日本各地でおもにボランティアの人たちが地方自治体などと協力して支えてきた日本語学習の場には、いくつかの意味で日本的な特徴がある。いろいろ問題はあるにせよ、細やかに、組織的にサポートを提供し、それが国家政策や宗教などとはかなり離れた形で「自主的に」進んできたというのは(国家政策のこれまでの怠慢は非難すべきであるにせよ)立派なことである。よく考えるとこういう国は世界にあまりないのではないか。


移民の受け入れの先進国であるオーストラリアなどでも、結局は国家政策で、ボランティアの力は日本ほど強くない。日本は実はボランティア大国である。家庭や社会における男女の役割について保守的な部分が、優秀で時間に余裕のあるボランティアの女性を大量に生み出した側面があることには留意する必要があるのだが。


まじめで丁寧で組織だった面や、自己主張の強すぎない当たりの柔らかさ、微妙な違いにも敏感な感性、先回りしていろいろ考える行き届いたサービス精神など、どれも世界で高く評価されていることであり、本当にレベルが高い。
コミュニケーションのスタイルに理解されにくい面はあるが、誠実で正直な人が多いとも思われている。これらの特徴将来の日本社会像を考えていく大きなヒントになると私は考えている。

同時にそれらが議論下手、堅苦しさ、働きすぎなどのマイナス面にもつながっているので、
マイナスを小さくしながら、長所を伸ばしていくことが必要であるが。

アニメなどの日本のポップカルチャーの人気も上述の長所と大いにつながっている。いま世界中で中国語学習者が増加し、日本語学習者はその影響で減少している部分も一部にはあるが、日本語学習者はある意味で(経済社会的な強者への憧れではない)コアな「ファン」に移行してきているのである。これはいいことではないかと思う。


敢えて国家目標風にこれらをまとめて書くと以下のようになる。


・四季折々の豊かな自然の変化が身近に感じられる国

・細やかで丁寧な感性を大切にする国

・豊かな感性が生み出す産業や芸術やサービスに恵まれた国

・多様な背景を持つ人々が自主的に協力し、調和している暮らしやすい国

誠実かつ正直で、議論しあうことを大切にする民主主義の国

多様な背景を持つ人々の共存を目指す社会を作っていく中では、日本社会が基層に持っている相対的な特徴に気づく機会も増える。日本語学習などの日本社会の多文化化を支える事業をシステムとして築いていく中で、少し大きな目で日本の将来像を描いて発信していくようなこともできるのではないか。これらの特徴は多文化化によって失われるのではなく、短所を改善しながら学ばれ、受け継がれ、広がっていくであろう。自然に学ばれるということであり、多数派による保守的な文化の強制とは根本的に異なる。


若い世代(私のまだその一端だと思っているが!)のリーダーには、上の世代とは違った、自然に世界の人々と交流できる感性が育っている。多文化化の政策に関しては、政治家や官僚の若い世代の中から感性のある人が少しずつ出てきていることが政策の転換につながっているという側面が確かにある。NPOや民間企業の関係者も含め、若い感性を持つ人々に日本社会の未来像を描いて発信する仕事もしてもらいたいと私は思っている。

日本語教育と国語教育の融合(3) Fusion of Teaching Japanese as a Second Language and the First Language (3)

IMG_2698A Beach on a River at Drummoyne, Sydney, Australia

ここまで述べてきたのは、実用のコミュニケーションと非実用/芸術のコミュニケーションをはっきりと区別し、実用のコミュニケーションにおいてできるだけ「やさしい」ことばを使うことを学ぶべきだということである。そしてそれが、国語教育と日本語教育の具体的な接点になるということである。

具体的な方法は考えればいくらでもある。難しく書かれたものをやさしく書き直す練習(リライト)、話を聞いてやさしいことばで要約する練習、よりミクロなレベルでは、例えば「延長」「延伸」などに対して「延ばす」を考えるというような語レベルでの言い換えも考えられる。語彙頻度のリストを使用して、それは2000番台、それは3000番台などと語彙頻度のレベルを当てるのもおもしろい。頻度は難易度や学習順序とおおよそ比例するので、少し例を挙げて慣れてくればけっこう当たるようになるはずだ。語彙頻度リストは以下のサイトからダウンロードできる。
http://www.wa.commufa.jp/~tatsum/ 

また、単なる書き換えや言い換えの練習ではなく、具体的な相手や場面を想定するとよい。「これ、どういう意味?」と子どもに聞かれたときに説明する状況、日本語が上手でない人に聞かれたときに答える状況、お年寄りに若者言葉の意味を説明する状況、専門用語を知らない人に説明する状況など、現実の生活の中で必要な場面は結構あるのである。現実に、日本語教育の世界では、役所の文書を初級程度の日本語で理解できるものに書き換えるという試みが始まっている。小中学校の教科書のリライトに取り組む人もいる。いずれも必要で意義がある。学校で子どもたちがそのような訓練をすればいいのではないだろうか。新聞や雑誌の記事はすでにある程度難解な語彙を避けるように書かれているが、それをさらにやさしく書き換えるのもいい試みであろう。大人の新聞と中学生新聞と小学生新聞で同じニュースの記事を比較してみるのもいい。ことばをやさしくする需要は、考えればまだまだあるにちがいない。

難しいことばが理解できればやさしいことばは当然使えるはずだという考え方もあるであろう。しかし、それが必ずしもそうでないことは、やってみればわかる。日本語教師になるための最も重要なトレーニングは、語彙を相手のレベルに合わせてコントロールしながら、学習者とコミュニケートすることだからである。このような第二言語教師のティーチャー・トーク (語彙や文法の簡略化に一定の特徴を持った第二言語教師の話し方、一種のmodified input=修正された入力) が言語習得に有効であることはわかっている。未知語を類推可能な形で少しずつ混ぜ、相手の理解を確認しながらコミュニケーションと学習を進めていくのは訓練の必要な技術である。

これまで国語教育の中では、より難しいことばを理解することが主要な課題であった。確かにある程度の語彙が要求されるコミュニケーションもあるし、芸術のことばである文学を学ぶこともよいと思う。しかし、ことばが理解しあうための道具であることを考えれば、いかにやさしいことばでコミュニケートするかということを、もっと国語教育の現場で考えなければならない時代が来たのではないだろうか。日本語が母語でない人が日本国内に増えたという状況もある。さらには、子どもたちが核家族化、少子化に伴って年齢や立場の異なる人々と接することが少なくなり、同世代とのコミュニケ―ションはできるがそうでない人々とのコミュニケーションが苦手な子どもが増えているという状況もある。限られた語彙でも、それを使いこなせればたいていのコミュニケーションはできるということを日本語教育は知っている。難しいことばを覚えるよりも、基本的な語彙を十分に使いこなしてさまざまな立場や世代の人々とコミュニケートすることをこそ、学ぶべきである。

そこではJSLの子ども(日本語が母語でなく、第二言語としての日本語の学習を必要とする子ども)を「取り出す」必要がないことは明らかである。正統な教室メンバーである彼らとコミュニケートしながら何かしらの共同体を作り上げていくことそのものが目的になるのであるから。

これこそが国語教育・日本語教育と共通する課題であり、日本語教育の知見が国語教育に生かせる場でもあり、英語などの外国語の学習・教育とも共通することである。相手が大臣でも乞食でも学者でも芸術家でもやくざでも子どもでもお年寄りでも田舎の人でも都会の人でも世界中のどこから来た人でも、それなりのコミュニケーションがきちんとできる、それが民主的な市民社会の基礎である。私は野球が好きで、野球では変則的な球が飛んできてもうまく処理できることを「球際(たまぎわ)に強い」というが、ことばの「球際に強いコミュニケーター」を育てることが、いっそう多文化化するこれからの社会で必要な言語教育である。

日本語教育と国語教育の融合(2) Fusion of Teaching Japanese as a Second Language and the First Language (2)

IMG_3072A Slope to Gates of Houses, Hataitai, Wellington

授業で使われる言語が第二言語である子どもたち(JSL児童・生徒)にとって、それが未発達な段階ではついていけないのは当然である。ことばが「わからない」ことが問題なのである。しかし、国語の授業というのは、シンプルに考えれば「ことばを使って人と人がわかりあう」ための科目ではないのだろうか。にもかかわらず、その科目が他の科目以上にJSLの子どもたちにとって難しい科目になっている。通常、取り出し授業が最も多くおこなわれるのが国語と社会である。

私自身はことばの授業は基本的に人と人がわかりあうためだと思っているが、必ずしも現実はそうなっていない。「豊かな言葉」と言いながらわざわざ難しい表現を学び、わかりにくいところが定期試験や入学試験のポイントになっていたりする。私自身、国語教師としても日本語教師としても経験があるが、わかりやすい言語素材は試験の時に問題が作りにくい!「ひねり」のきいた素材でないといけないのである。もちろんことばは社会の共通の約束事であるから、ある程度の約束事を学ばなければ「わかりあう」ことはできない。

そこで浮かび上がる問いは「難解な表現でなければ理解しあえないことは何か」ということである。私自身の答えは、それは基本的に芸術レベルの言語だということである。非実用の言語と言ってもよい。(芸術が非実用的かどうかという議論は別のレベルの話なのでここでは触れない。)言語教育の目標設定に当たって、実用のことばと非実用のことばを分けるということは非常に重要である。

議論をことばのもつ機能に広げることもできる。ことばの代表的機能として指示的機能と感情的機能がある(ほかのとらえ方もあるがここでは触れないし、できるだけ専門的な用語は避けることにする)。“ことがら”と“気持ち”と言い換えても大きくは違わない。この二つの区別は、上述の実用、非実用と平行的に対応するわけではないが、大きく関わっている。ことばによって何かを指示する場合、通常は話し手/書き手が意図するとおりの内容が聞き手/読み手に伝わるということが目標になる。その点において、実用のことばを使うことと目標を共有している。

感情レベルへの訴えが実用である場合もないことはない。広告表現などはそのような側面を持っている。そう考えれば“正確さ”と“表現効果”の対立ととらえることもできる。これらの区別の相互のかかわりにはここでは触れないが、わかりやすさ、明確さを指向するコミュニケーションと、ことばの含み、表現効果、感情レベルの表現を指向するコミュニケーションの二つが別の方向を向いた二つのベクトルであることを確認したい。

ここで、国語教育と日本語教育の目標設定へと戻ってくるのだが、この二つがまず共有すべきなのは第一のベクトル、すなわち、いかにしてわかりやすくコミュニケーションができるか、ということである。そこでは母語のちがい、母文化のちがい、年齢や性別や立場のちがいなどは、すべて考慮されるべきコミュニケーションの要素となる。つまり母語の異なる子どもどうしがお互いに学びあう場を作り出すチャンスとなる。

文学教育はすべて第二のベクトルの問題である。文学は実用のことばではない。文学を題材にした入試問題などでしばしば「このときの登場人物Aの気持ちを表すものを選びなさい」のような問題が出てくるが、これは大きな誤りで、「このときの登場人物Aの気持ちの“最も一般的な解釈”を選びなさい」と言わなければならないはずだ。そのようなことを問うことに意味があるのかどうか、よく検討してみる必要がある。少なくとも第二のベクトルは言語芸術の科目(文学、古典など)として分けるべきだと思うし(大学ではそうなっているのに、高校まではそうなっていないことが多い)、ここでは第二言語の子どもが初めから同じスタートラインに立つことは難しいが、そもそも第一のベクトルが言語教育の最も主要な目標であるべきで、この点においては、国語教育は日本語教育とも英語教育とも他の言語の教育とも共通の目標を持てるのである。

では、具体的にどのような方法が考えられるであろうか。 (続く)

日本語教育と国語教育の融合(1) Fusion of Teaching Japanese as a Second Language and as the First Language (1)

IMG_2926A Tree Transplanted from Nagasaki to Wellington with a Wish for Peace

国語教育(ここでは典型的には日本で生まれ育ち日本語を第一言語とする児童・生徒の教育を指す)日本語教育(第二言語としての日本語教育)の連携、協働などのテーマは、私の知る限り、すでに20年ほど語られている。しかし、いまだにこの二つは、一部の必要に迫られている地域をのぞけば、ほとんど連携も協働もないように思われる。

80年代の後半ぐらいから日本語教育は急速に拡大し、90年代に入って移民や一時滞在者の増加により日本語を母語としない子どもの数も増えてきた。必要に迫られてか、教員養成系学部の中に日本語教育の専攻や科目を設置する大学も少しずつだが増えてきた。しかし、この二つの領域は依然としてかなり異なった文脈で語られ、研究者が形成するムラも異なり、お互いがお互いのことを知らない人が大半といってよい。第二言語としての日本語教育は、教える対象は日本語だが、むしろ第二言語教育
外国語教育という点で、英語教育との接点のほうが大きい。日本語を第二言語として学習する子どもがいる場合、多くはある程度のレベルに達するまで国語の時間には取り出し授業を受けさせるという対応をとることが多いが、このような児童生徒のうち約8割は加配教員のいない学校にいると言われており、そのようなところでは日本語教育を専門に学んだことのない教員が教えていることが多い。しかし、そのような対応で本当にいいのだろうか。実際には入試で国語を受験しなければ進学できない生徒もいる。可能な限り早く「取り出し」授業からメインストリームの教室へ戻してやるほうがいいことは多くの関係者から指摘されていることである。

このように同じ教室で日本語を母語とする子どもとそうでない子どもが一緒に勉強する状況が、小手先の対応ではままならなくなっている現状において、日本語を軸にして、第一言語教育と第二言語教育を同時に扱えるような理念と方法が求められているように思われる。では、どのような接点を見出していけばよいのであろうか。

この問いは、日本語を第一言語とする子どもと第二言語とする子どもの両方にとって、同じように必要で、同じように取り組める学習課題は何か、という問いに置き換えることができるであろう。それには、理念と方法の二つの側面から考えることができる。

理念の面では、言語コミュニケーション教育を通して、人間を育てる、あるいは言語や母文化を問わないコミュニケーションの基本を育てる、とったことが考えられる。しかし、それだけでは、子どもの持っている能力が異なる状況の中で、教師は現実に何をしたらいのかわからないケースが多いであろう。理念も大切ではあるが、やはり具体的な方法について考える必要がある。
(続く

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