2007年09月
2007年09月30日 09:09
人は知っていることしか知らない。つまり、知らないことを、知らない。ここに知るということの難しさがある。人は出来ることしか出来ないから、出来ないことは、分からない。知らないということや出来ないということを、子どもたちに分からせるのははなはだ難しい。
どの民族でも、挨拶のことばがある。それは群の秩序を保つためのもので、猿の類に見られるマウンティングのようなものである。こうした挨拶の言葉が発達しているのは、人間が社会的動物であるからにほかならない。
宮崎県の幸島には、芋を洗う猿がいる。泥のついた屑芋を海水で洗って食べたというのだが、そこに原初的な料理を認めて、これをカルチャーとした。カルチャーは、本能的な行動様式でないから、他の群れには見られない。その群れに広がり伝わるのは、すべては学習による。
幸島の猿にまつわる話で、死んだ小猿をずっと離さなかった母猿のことが伝えられている。そこに猿の愛情を見るのは筋違いで、子を育てるという行動が、悲しいほどに本能的に続いているのにすぎない。動物の世界では、本能は完璧に機能する。
人間の本能は壊れている。そうした不完全な本能を補完するものとして、理性がある。したがって、学習しなければ、性も子育ても何ごとをもなしえない。人間の社会は、学習によってなりたち、ある程度のことを学習したものを、大人として受け入れてきた。そうしたことが通過儀礼として、多くの民族に存在していた。
社会的動物である人間は、対人性と身体性が問われる。小生の周りの子どもたちを見ていると、そのいずれもが育っていない。なにも知らないし、なにもできないということに気づかないまま、積み木遊びをしているような子どもたちばかりである。幼児のまま大人になったものたちが作る社会の兆しは、いたるところに見られる。
源氏物語の中で、母の更衣の葬儀に、無邪気に笑っている三歳の源氏が描かれている。こうした場面が読めない生徒が多くなった。子どもたちの幼児性が目立つ。それにたいして踏み込もうとすると、そんなの関係なえとくる。学習の成立しない時代になってきたのだろう。
※ 体調を崩した。S2000も温暖化を気にして乗らなかったら、バッテリーが壊れた。これも、ショックだった。今年は名月走りはなかった。
2007年09月25日 04:39
月天心貧しき町を通りけり 与謝蕪村
蕪村の名句である。天心とは、中天で、天のまんなかのことである。ところが、中秋の名月は、中天にない。月の形は、地球と太陽と月の位置で決まる。たとえば、新月の場合は、太陽と月は同じ方向にある。だから、地球から見ると月は太陽と同じ軌道をまわるように見える。したがって、太陽の高度の一番高い夏には、新月はもっとも高い高度をとる。反対に、冬は、新月がもっとも低い高度をとり、満月はもっとも高い高度となる。そうして、天心に高く高く輝く冬の満月は、雲がないことから、孤高の象徴ともなる。
寒月の砕けんばかり照しけり 川端茅舎
山門と寺のあひだの冬の月 渡邊白泉
蕪村の句の情景は、名月が貧しい村をやさしく照らしている。だから、月は中天からふりそそがなければならない。蕪村の詩ごころが、高度55度の月を、85度まで動かしたのである。
さて、お月見には、薄と里芋をお供えすることから、仲秋の名月を芋名月ともいう。できたばかりの里芋を、皮のついたままうでる。これを衣被(きぬかつぎ)と洒落た言い方でよぶ。考えたら、天ぷらの衣という言い方も随分気が利いている。
また、日本には十三夜といい、旧暦九月十三日のお月見もある。この時期になると栗が穫れることから栗名月とよぶ。江戸の吉原では、十五夜と十三夜とを併せて月見の物日とし、特別の日であった。だから、お金のかかる月見となる。江戸川柳の柳多留には、このことがよく詠まれている。
月二つ息子社稷をかたむける 一三
家内安全女房と月見なり 三四
家やしき傾くまでの月を見る 三四
滑稽文学だからといっても、社稷は少し大げさであるが、吉原の月見はそれだけの格式はあっだろう。十三夜の月見のことであるが、こうした風習は、おそらく吉原のような悪所で始まった行事が、しだいに庶民の暮らしに浸透していったものだろう。小生の生きた半世紀のうちにも、バースディー、クリスマス、バレンタインディー、ハロインなど、訳の分からないものが、気がつくとすっかり定着してしまっていた。金儲けのために仕掛けられて、まんまんと乗せられてしまうというのは、今も昔もかわらないもののようだ。
美しき雨ふりいでし雨月かな 倉田紘文
今夜はどうも曇るようだが、そもそも仲秋の名月は、秋雨前線の影響で見られないことが多い。だから、われわれの先祖は雨雲のむこうに月を思い、「雨月」という美しい言葉を生み出した。思うようにならないものをひたすら思いつづける。そのような思いに、表現を与えたのが、日本語であり、日本の詩歌でもある。
月を思ひ人を思ひて須磨にあり 高浜虚子
こうした俳句をみても、日本古典文学の影響がある。平家物語にも、都落ちした平家の人々が、名所の月を見ようと、あるいは、光源氏の昔をしのぼうと、須磨より明石の浦づたいを散策するのが書かれている。都の月を見ようと上京した左大将実定は、小待従を呼び出して、旧都の荒れ行くさまを今様にして謡う。
古き都をきてみれば
浅茅が原とぞあれにける
月の光は隈なくて
秋風のみぞ身にはしむ
今夜は雨月になるかもしれない。どのような月になるにせよ、今から愉しみである。
※ 樋口一葉の「十三夜」は、好きな小説である。意を決して実家に来たものの説得されて、阿関は俥に乗って原田の家へ帰る。乗り合わせた俥の車夫は、幼馴染みの録之助であった。たまたま時の悪戯で結ばれなかった幼い恋が、そのまま男にわだかまっている。十三夜の月が、録之助の取りもどせない時間を、阿関の過ぎ去ってしまった時間を、美しく切なく哀しく照らしている。
※ 煌々と照る明月を見たいと思うが、どうも今夜は見られそうもないが、曇りになら曇りで、それはそれで、愉しい月見になる。月に群雲、花に風、とかくこの世はままならぬ。
2007年09月24日 00:01
背戸の原っぱの彼岸花が、たった一輪咲いていた。彼岸に咲くから、彼岸花というのだが、彼岸というのに彼岸花が咲かない。ちらほら咲いているところは、日当たりの悪い場所ばかりである。この厳しい残暑に、自然の時計が大きく狂い始めているのだろう。
彼岸花は、飢饉のときの食糧として、中国から伝えられたものである。そうした背景から、死人花、捨子花などとも呼ばれる。里近く栽培されたため、いまでも田んぼの畦道や墓地などで多く見られる。彼岸に咲くことから、故人をしのぶ花として、俳句などにも読まれる。彼岸花は曼珠沙華ともいう。
曼珠沙華むかしおいらんなきました 渡辺白泉
この句を、若いころ見つけて、覚えていた。白泉の句は、曼珠沙華を、緋の単衣を着た遊女に見立てているのだろう。美しい花魁が、彼岸花を見て亡き父母を思って泣いた。哀しく美しい清元の旋律のような句であるとそのとき思った。
曼珠沙華抱くほどとれど母恋し 中村汀女
風音をかすかにつつみ彼岸花 松村蒼石
山頭火には、彼岸花の句が多い。
歩きつづける彼岸花咲きつづける
いつまで生きる曼珠沙華咲きだした
悔いるこころの曼珠沙華燃ゆる
お彼岸のお彼岸花をみほとけに
日本の文化の季節感は、食文化ではもはや失われている。日々の営みからも、次々に季節感が消えてゆく。自然の中から、このように季節感が失われていくとしたら、世界でも稀な日本の伝統文化は、すっかり消え果てることになる。地球を救うことは、とりもなおさず、われわれ日本人のアイデンティティを守ることでもある。
※ 稲科の植物のアレルギーで、頭痛、鼻づまり、炎症と最悪であったが、カメラを持って彼岸花を探しに出掛けた。どうしても、気になるのだ。
※ 彼岸花は、やはり遅れているような気がする。彼岸花の写真は撮るのが難しい。そのうえ、目がぼんやりしているから、なおさらのことである。
※ 冷暖房で、天候の異変はそれほど意識されないが、確実に進んでいるような気がする。十月の上旬に、伊良湖岬にサシバの渡りを見に行くつもりである。さて、どうなるものか。
2007年09月23日 04:57
ガキの頃から落語が好きで、五右衛門風呂を焚きながら、ラジオから流れる痴楽や金馬の声に耳を傾けてきた。あるとき、文楽の「明烏」を聞いて、郭話というものがあるのを知った。高校二年生のとき、お子さんは何人あるか聞かれたことがあるが、当時の若者というのは、随分大人であったような気がする。とはいえ、まだまだ幼いところがあるから、大人に随分騙されたし、いいようにあしらわれた。
大学生になって、人形町末廣で文楽を聴いた。「悋気の火の玉」であった。端正な芸をまのあたりして、いいなあいいなあとため息をもらした。志ん生には間に合わなかったが、幸運にも文楽には間に合った。そうして、落語という文化にふれ、日本文化の奥深さを肌で感じるようになっていった。五十駆出し、六十一人前、七十で名人というような文化は、そうざらにあるものではない。あるときテレビで、晩年の圓生の「火事息子」を見た。名人を意識して、名人芸を聴いた初めての経験だった。
大学を卒業して、教壇にたった。いつも自分の授業の拙さに苦しんだ。ガキの頃から、ラジオで親しんできた語りの名人たちの記憶に、いつもさいなまれていた。その意味では、いまだに勉強の毎日である。
達翁は、そうした日本の話芸への憧れであった。小生の持ち物には、いずれもtatsuohと記名してあった。親類の葬式があった折、香典の整理にために、ノート型パソコンを持ちこむことがあった。親類の元気のいいお兄ちゃんが、tatsuohという記名を見て、かっこういいとさかんに言う。競艇場の海王や松王といった予想屋の屋号と間違えていることはあきらかだ。実は、それに迎合して、達王にかえたというわけである。ちなみに、書では、「たつを」という名まえを用いている。
新卒で、沼津工業高校の教壇に立った。雑文を書く機会があって、駿河路をひっくり返して、路河駿をペンネームとしていた。そうした縁で、頭に遠州をつけて、いつのころからか、遠州堂達王を名のるようになった。だから、ある雑誌には、路河駿、遠州堂達王、本名で、筆者名が出ているのだ。
2007年09月22日 06:47
いいじゃないか
人間がぐずだもの
いいじゃないか
人間のくずだもの
花を支える枝
枝を支える幹
幹を支える根
根はみえなえねんだなあ
みえてりゃあ枯れる
あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気があかるくなる
そんな電灯にあたいもなりたい
ぐちをこぼしちゃいけねえ
弱音を吐いちゃあいけねえ
貧乏人だもの
ぜったい涙を見せちゃいけねえ
生きていけないもの
待ってもむだなこともばかり
待ってもだめなことばかり
待ってもむなしきことばかり
それでもあたい待つしかない
遠州堂たつを
※ 遠州堂たつを美術館を開設しました。
ART MUSEUM
東洋美術館
TATSUOH HOUSE
遠州堂たつを美術館
どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません
ことにお偉いお方やお金持ちは、大歓迎いたします
当館は注文の多い美術館、どうかそこはご承知ください
2007年09月21日 00:24
小生は旅好きである。生来わがままで、自分より気の合う者はいない。だから、いつも車にジャズのCDを何十枚も積み込んで、独りでふらりと旅に出る。47都道府県すべて歩いている。
ナビゲータはつけない。迷う楽しみがなくなるからである。計画も立てない。調べもしないから、出たとこ勝負である。何度も青森に出向いているのに、ついぞ寺山修司の記念館がある三沢を訪ねることはなかった。つまり、縁がなかったのである。
旅の途中で目的地が決まる。北海道を旅したとき、ばんえい競馬が見たくなった。当時は、旭川、北見、岩見沢、帯広に競馬場があった。北見を訪ねると開催していなかったので、そのまま岩見沢まで車を走らせた。4レースほど愉しんで車に戻ると、果たしてバッテリーが上がっていた。たまたまレースに来ていたお兄さんにお世話になってエンジンを始動した。
その前にも、バッテリーを上げたことがあった。四国のお遍路の途中、66番札所雲辺寺ロープウェーの駐車場であった。雲辺寺から帰るとバッテリーがあがっていた。山の上だから、売店のお兄さんに車を押してもらってエンジンを始動した。たまたま運が良かっただけで、トラブルにはならなかった。
先年、S2000に乗り換えるのをきっかけに、JAFに入会した。この夏、日本の近代化の跡を訪ねようと富岡製糸場を訪ねた。大宮から秩父を抜けて、早朝富岡に着いた。食堂の駐車場で、幌をオープンにしたまま仮眠をとった。目をさますと、エアコンがついていた。バッテリーをすっかりあげていた。
JAFに連絡をすると、直ぐに駆けつけると折り返しの連絡があった。しばらくすると、JAFのトラックが来た。清水さんという若者が降りてきて、小生に挨拶をしたあと、そのまま、食堂に入って挨拶をしている。その礼儀正しさに感心した。戻るとすぐさまケーブルをつなぐ。スタートボタンを押すと、S2000の低いエンジン音がたちまち戻ってきた。
実は、S2000は、ガス欠、パンク、さらには、京都大将軍の駐車場でもバッテリーをあげている。いつもいつもJAFのお兄さんには、気持ちよく作業をしていただいている。
この夏の終わり、八幡平を越えて、津軽の山に入った。深夜、津軽半島の小泊から竜飛岬に向かってマーチを走らせた。霧が出てきて、視界がまったくきかなくなった。JAFの清水さんの顔が浮かんだ。トラブルを起こして、来ていただくのも気の毒だから、道路脇の駐車場にとめて、そのまま仮眠をとった。
こうして、あるときはS2000で、あるときはマーチで、全国の清水さんに支えられながら、小生は旅を続ける。
2007年09月20日 06:20
● 動物園 江國香織
ほんとうは
動物園になんかいきたくなかった
ただ
動物園にいきたいといってあげるしか
なかった、あの日
父もたぶん動物園になんかいきたくなかったのだ
動物園はくさいし
歩きつかれるし
それにかなしい
ほんとうは
動物園になんか
いきたくなかった、あの日
黒田三郎さんの詩に、娘さんを描いた一連の作品がある。平易な言葉で、豊かな世界を描いた作品群は、なかなか気に入っている。この江國さんの詩は、小さなユリの視点から、お父さんを見ているような作品である。
時として、家族は、家族ゆえに家族を演じなければならない。ある意味で、滑稽で、なんだか悲しい関係を生きなければならないもののようだ。コンコルドのCMは、そうした家族の不協和音を見事に描いて秀逸である。
松田優作主演の「家族ゲーム」という作品がある。本間洋平の同名の小説を森田芳光が映画化している。松田優作が演じる吉本という三流大学の学生が、沼田茂之という中学生の家庭教師として沼田家に関わっていく。ただ、ここではゲームを演ずることで、家族は成立している。
われわれは家族ゲームというゲームを演じているとしたら、ルールを守らなければならない。この詩のように、ちぐはぐな思いのまま動物園に行かざるを得ないのも、実は家族というものだからである。
それぞれが共通の基盤に立って生きられない現代の家族にとって、家族は共同幻想としてあるだけで、実体はない。その極端な例が、単身赴任であり、熟年離婚である。そこでは、父親だけが幻想に生き、家族はそれぞれ勝手な現実を生きている。
江國さんの描くこの心のきしみが、家族のありようというもので、それこそが家族がまだ成立していたなりよりの証なのである。
※ ホワイト家族24というソフトバンクのCMがある。父親だけが犬であるというのは、示唆的である。あの家族のありようがそのまま、裕福な家族のメタファーになっている。現実を映すならば、薄汚い野良犬こそ、われわれ男たちにはふさわしい。
2007年09月19日 07:11
● ふらふら 江國香織
ばかだね
あたしが犬なら
飼主はあたしにそう言うだろう
いいからここでお寝み
あたしが犬なら
飼主はあたしにそう言うだろう
でもあたしは犬じゃないので
そう言ってくれるひとをさがして
ふらふら
ふらふら
してしまう
こんな女のこがどこかにいそうである。猫のような女のこは、やはり猫のままでいるのがいい。
かつて、トムというメスのシャム猫がいた。トムが死んだ後、ふたたびメスのシャム猫をいただいて、ジュリーと名づけた。なんのことはない、トムとジェリーの洒落である。ジェリーは可愛い猫であった。とりわけ居間の掘炬燵が好きで、覗くと仰向けに寝ていることがあった。
夜はどこかへ出掛ける。ミャアと鳴いて、縁側のサッシの引き戸を開けさせる。深夜、縁側の外からミャアミャアと鳴く。しかたなく起きて開けてやると、ミャーアーと長く鳴いて居間に入ってくる。そうして、小生の腹の上に腹這いになって眠る。
ところが、狩りに出るとジュリーは、豹変する。二階の窓から、その一部始終をたまたま見ることがあった。枯れ草に身を潜め、体を低くして風下から静かに近づていく。遠く風上にまわりこむと、一気に襲う。風に向かって飛び立とうした雀は、次の瞬間、地面にたたきつけられていた。
トムとジュリーは、子どもたちの少年期にさまざまな彩りを与えてくれた。小生は、いまでもジュリーが好きである。思い出の中のジュリーは、いまでも、颯爽と狩りをして、すりすりと小生の胸の中に潜り込んでくる。
2007年09月18日 22:21
携帯電話の料金は、アメリカの3倍だという。携帯電話は、通話のためのもので、メールの道具ではないのはもちろん、カメラでも、テレビでもないだろう。時間が貴重なのである。電話で済ますのが一番である。
割引制度というのがある。ただ、新しい機種にしないと、適用されない。そもそも、携帯テレビは高価だし、カメラも高価なものだ。テレビ、カメラ、コンピユータ、ナビゲータ、オーディオ付き、携帯電話が、2万円で手に入るのは、NTTなどの通信会社から、1台について5万円程度の販売奨励金が、販売店に支給されているからだ。そうして、シェア争いに狂奔しているのだ。
ただ、この5万円は、消費者が支払う毎月の使用料から拠出している。しかも、新しい機種は割引され、古い機種を使い続ける者には、割引の恩恵はない。つまり、古い機種を使用する者は、いわれのない高額な使用料を支払わされていることになる。といって携帯を持たないと、電話をかけることさえ出来ない。日本中の公衆電話は、その採算性から撤去されていくからである。
小生は、ドコモを使っていた。あるときauの小ぶりの薄い携帯電話が気にいって、乗り換えた。その黄色の携帯が好きだから、もう1台購入して、ずっと使い続けるつもりでいた。ものにはそれを作った人の思いがある。だから、大切に使ってあげたい。車ならどうだろうか、古い車を大切にしていれば、ディーラーでは歓迎される。ところが、auではけんもほろろなのである。
地球の温暖化を考えたら、地球の資源は大切に使うべきだろう。文明は、利便性を追い求める。ただそれは、それぞれの人間の生の営みにおける利便性が問題なのである。新しいからといって、必ずしも便利とは限らない。学校にコンピュータが100台以上あるが、ほとんどのコンピュータは、その機能のほとんどが使われないまま、廃棄されていく。だから、携帯も、メールと通話だけにして、安くすべきである。
携帯の出費は法外である。高校生はかつてより貧しい。本を買うという文化がなくなりつつある。9月に入って、わたしの近辺で比較的大きな書店が2つ閉店した。高校生の貧しさとは、実は精神的な貧しさのことである。
※ 携帯を持つのは、旅にでると困るからである。それだけのために6000円支払うのは残念だが、公衆電話が探しても見つからないからしかたがない。
※ 小生は、auのいきなり半額キャンペーンに出向いて、苦情を言った。その応対がなっていない。中小の食品メーカーの不行跡を鬼の首を取ったように責め立てたマスコミが、このベラボウを問題にしないのはなぜだ。スポンサーだからである。
※ ソフトバンクの白犬のCMも鼻についてきた。白犬でおもしろいという江戸の地口があるが、おもしろくない。
2007年09月17日 09:47
中教審では、47都道府県を覚えさせるというけれど、なんだか都道府県検定のような様相になることは想像に難くない。その土地その土地には、人々の生活があり、その生活を生み出してきた社会があり、文化伝統があり、それを育んできた風土というものがある。
風土とは、風と土と書く。その土地に立つということの意味はそこにある。小生は、この生きた時間に、47都道府県をすべて彷徨い歩いていた。その中で、特別印象に残る場所を書いてみた。
【北海道】
北海道 佐呂間 北海道北見市
【東 北】
青 森 小 泊 青森県北津軽郡大泊町
岩 手 渋民村 岩手県岩手郡玉山村渋民
宮 城 宮城野 宮城県仙台市宮城野区
秋 田 象 潟 秋田県由利郡象潟町
山 形 酒 田 山形県山形市酒田市
福 島 白河関 福島県白河市
【関 東】
東 京 末 廣 東京都中央区日本橋人形町
神奈川 鴫立沢 神奈川県中郡大磯町大磯
埼 玉 秩 父 埼玉県秩父市
千 葉 三里塚 千葉県成田市本三里塚
茨 城 弘道館 茨城県水戸市三の丸
栃 木 東照宮 栃木県日光市山内
群 馬 富 岡 群馬県富岡市富岡
山 梨 七面山 山梨県南巨摩郡早川町
【信 越】
新 潟 佐 渡 新潟県佐渡市
長 野 開 智 長野県松本市開智
【北 陸】
富 山 立 山 富山県氷見市
石 川 首洗池 石川県加賀市
福 井 気 比 福井県敦賀市曙町
【東 海】
愛 知 伊良湖 愛知県渥美半島伊良湖岬
岐 阜 飛 騨 岐阜県高山市
静 岡 冨士山 静岡県富士宮市
三 重 伊 勢 三重県伊勢市
【近 畿】
大 阪 交 野 大阪府交野市
兵 庫 須 磨 兵庫県神戸市須磨区
京 都 龍安寺 京都府右京区竜安寺御陵下町
滋 賀 余 呉 滋賀県伊香郡余呉町
奈 良 吉野山 奈良県吉野郡吉野町吉野山
和歌山 高野山 和歌山県高野町高野山
【中 国】
鳥 取 投入堂 鳥取県三朝町三徳山三佛寺
島 根 嫁ヶ島 島根県松江市
岡 山 閑 谷 岡山県備前市
広 島 浄土寺 広島県尾道市東久保
山 口 壇ノ浦 下関市御裳川町
【四 国】
徳 島 吉野川 徳島県吉野川市
香 川 白 峯 香川県坂出市青海町
愛 媛 道 後 愛媛県松山市
高 知 室 戸 高知県室戸市
【九 州】
福 岡 宗 像 福岡県宗像市田島
佐 賀 鏡 山 佐賀県唐津市 鏡山
長 崎 三井楽 長崎県五島市三井楽町
熊 本 水 俣 熊本県水俣市
大 分 富貴寺 大分県豊後高田市大字蕗
宮 崎 幸 島 宮崎県串間市幸島
鹿児島 桜 島 鹿児島県鹿児島
【沖 縄】
沖 縄 摩文仁 沖縄県糸満市摩文仁
心に鮮明に残る場所はいくらもある。ひとつの映像となって、例えば、触覚とともに、あるいは嗅覚とともに確実に残っている。ここに挙げなかったのは、地名が分からないものもあるが、地名は分かっても、話しても詮のないこともあるからだ。
2007年09月16日 10:00
仲秋の名月とは、陰暦八月十五日の月である。仲秋というのは、中国の文化が移植されたものである。秋の季節、つまり、七月、八月、九月を、孟秋・仲秋・季秋と呼ぶことから来ている。
孟・仲・季というのは、その構成を見ると、人と子がある。もともとは、子どもの順番を表すことばを文字にしたものである。そもそも、人類は猫と同じで、その親子関係は、母子という関係でしか確かめることはできない。
友人のT野くんの話である。職場に猫が住みついている。その猫の親子関係が複雑で、すこぶる不健全であるといっていた。人類もすこぶる不健全であるから、「姓」は、女編の文字である。その姓に斉の「姜」や周の「姫」が残るのも、母系社会の名残である。
古語に、「兄人」と書いて、「せうと」と読むことばがある。「兄人」は「背人(せひと)」で、「背」とは妹背とあるように、女が性の対象である男を呼ぶことばである。したがって、「せうと」は、女から兄や弟を呼ぶことばで、母系社会の影を色濃く残すことばである。
古代においては、経済力、軍事力は、ひとへに人数の多寡によるから、性は、きわめて政治的(呪術的)現実であったのだ。その具体的な現れを、土偶の形状に見ることができる。日本の天皇は、穀物神と考えられる。その即位式が、新嘗祭の形式を踏むのも、当然のことである。そこでは、宗教も、きわめて政治的なのだ。
さて、「孟」は年長の者、「季」は末の子を表す。季は、「禾」を含む。「禾」は、稲や稗のような植物の穂を表すから、農業と子育ての関連をかいま見ることもできる。
季節は、三か月である。その期間に穀物がなる。季節の末に収穫があるから、末の意に用いる。したがって、孟・仲・季は、子どもの順序をかりて、序列を表現する。それが、孟秋・仲秋・季秋というように、季節にも用いられる。
子どもは、四人のこともあるから、伯、仲、叔、季という序列もある。いまでも、伯父と叔父を区別する。長男と次男の力は、伯仲している。古今著聞集の筆者は橘成季とあるが、読み方は、たちばなのなりすゑである。橘成季が末っ子かどうかは、友人でないから知らない。
※ このところ夕月夜である。旧暦八月十五日は、九月二十五日である。京都では、月齢13.6の月が、夕方東山の峰からのぼってくる。この日、八坂神社、下鴨神社、平野神社など、多くの寺社で観月会が開かれる。
※ ことばならそのことばを発した人間を、文字ならその文字を作った人間を想定することが大切である。その人間の生活、その人間の生きた社会や時代の現実の中で、捉えなおすことが大切である。漢字は、それらを具体的に示している面白い文字である。
※ 47都道府県の名前と場所を諳記させるといっても、さまざまな困難がある。ひとつは漢字の問題である。中教審に漢字の分かる方がいるとは思えない。
2007年09月14日 05:01
小生は、業者が来るとよく授業を見ていかないかと誘う。三省堂の国語の編集に携わるTさん、学研のMさん、ベネッセのTさん、Iさんなど、教育現場に関心のある方は、見学してくれる。
若い者には、見学を押しつける。どうも、ベネッセでは、営業の引き継ぎ事項に、達王先生には近づくなというのがあるようだ。もう随分昔のことだ。いま中日ドラゴンズのフロントで仕事をしているIさんが、ベネッセにいたころの話である。
たまたま、研究授業があったから、いついつかにTさんと見学にくるようにメールをいれた。うかがうとすぐ連絡があった。ところが、当日、どういうわけか現れない。急用ができたのかと訝ったが、その日は忙しくて、別段気にもとめなかった。
彼らは、名古屋から出向いたから、時間に余裕を持って現れた。学校の中は森閑としていた。しばらく待つことにした。待てども、待てども、誰一人として、それらしき者は姿を見せない。そのうちおかしいと思い始めた。携帯のメールには、×月×日×時からと確かにある。
時間はとうにすぎた。果たして達王先生も姿を現さない。二人は、I田南高校のA美先生に泣きついた。あまりに気の毒だということで、A美先生が二人に酒を飲ませて、お帰りいただいた。
後日、そのことをA美先生にお聞きした。Iさんが本校を訪れたとき、そのことの子細を聞いた。小生のメールの日付が1日ずれて、土曜日になっていたのだ。土曜日に研究授業をやるか、おかしいと思ったら尋ねろと、一蹴されてしまう。盗人猛々しいにもほどがある。もちろん、いまでも反省はしている。それ以来、どうもベネッセの引き継ぎ事項になっているようなのだ。
さて、明日は、公開授業である。というわけで、土曜日でもやっているから、是非冷やかしにきてほしい。ただ、サッカーの公式戦があるため、1時間目2時間目に小生の授業がある。学力低下の中で、苦闘しているのを見ていただくつもりである。
参観などするときの小生の心得をここに書いておく。相手が、自分と同じぐらいだと思ったら、相手の方が上である。相手が上だと思ったら、かなり力の差があると思ったらいい。
学校で外部の講師が講演することがある。終わったあと職員室で、その講演をとやかく言う教員がいる。多くは、自分がその日授業をしたのを忘れている。教員は、あくまでも演者であって、評論家であってはならない。
※ ABE-syndromeが日本に蔓延している。力不足のものが、社会的地位を得て、跋扈(ばっこ)しているのが情けない。
※ 中央教育審議会の提案が、武道の導入や都道府県名の諳記など、漏れ聞こえてくる。ソフトボールの宇津木妙子さんや全日本自動車産業労働組合の加藤裕治さんやマラソンの増田明美さんが教育の現場をしるとは思えない。座長の山崎正和さんからして、教育の現場を具体的に知っているとは思えない。かれの評論を読む限り、そうは思えないのだ。
※ 力不足という認識を持たないから、こういうところに担ぎだれて、思いつきで発言して、どれほど日本の教育を壊してきたことか。少なくとも、スーパーサイエンスハイスクールなど、この数年の事業を見ても、成功したとはとても思われない。
※ 『ナボレオン言行録』には、次のようにある。
不道徳の最たるものは、自分の知らない稼業をすることである。
2007年09月12日 22:07
「達王の国語教室」をお読みくださいまして、まことにありがとうございます。いつもいつも心温まるお便りまでいただきまして、心から感謝しております。
さて、先日お話いたしましたように、この秋、自宅のコンピュータの新しいネットワークシステムをつくることを考えています。それにともなって、ブログの見直しもしていくつもりです。
現在、いくつかのブログをもっていますが、ジャストシステムのブログがわたしに一番あっているような気がいたします。つきましては、今後はジャストシステムのブログを加えて、展開していくつもりですが、それにともなって、現在あります「遠州堂達王の玩具箱」というブログを閉鎖する必要があります。
そういうことで、「遠州堂達王の玩具箱」をいずれ閉鎖するのですが、そのまま皆さんに見ていただけないのも口惜しく思いますので、アドレスを公開させていただきます。昨日、そのブログの写真を見てくれました友人のN田さんから、感想をいただきました。非常に参考になりました。そのことも公開に踏み切った理由です。
ブログは見られることを前提につくられるものですから、公にしないで閉じてしまうのは、「遠州堂達王の玩具箱」というブログがなんだかかわいそうな気がします。おかしな話ですが、愛着が生まれてしまったのです。
さて、9月15日は、本校の公開授業です。サッカーの公式戦もありますから、1時間目と2時間目だけ授業をいたします。いずれも古文の授業ですが、お時間がおありでしたら是非お出かけください。9月21日は、指導主事訪問で、研究授業をいたします。徒然草の聖海上人の話です。こちらもどうぞ。
10月13日には、国語教育研究会の「バサラの会」で、現代文の教材研究のやり方について、講演いたします。こちらも是非ご参加ください。
11月7日には、本校で西部国語研究会の公開授業をいたします。ここでは、電子辞書の使い方をお見せするつもりです。古文、漢文の可能性を、是非御覧ください。
というわけで、今学期もサッカーと国語教育で忙しくなります。その合間にコンピュータやブログの模様替えをいたしますから、ご迷惑をお掛けすることもあるかもしれません。なにとぞ、ご承知ください。
遠州堂店主 遠州堂達王
※ 「遠州堂達王の玩具箱」は http://tatsuoh.justblog.jp/blog/ です。
2007年09月10日 07:05
コメントにこんな記事があった。だから、スポーツを書くことにした。
僕は高校生ですが、中学までサッカーをしていました。海外の日本人学校だったので部活はありませんでしたが、休み時間はクラスメイトと格闘技なみのサッカーをする毎日でした。サッカーは世界の共通語というようにサッカーを通じて言葉は分かりませんが国籍の違う友達も出来ました。サッカーはなぜこんな凄い力をもっているんですかね。ただボールをゴールにいれるだけのシンプルなスポーツなのに。
スポーツは、擬似の戦闘である。したがって、戦闘の訓練や囚人たちの抑圧を解消するために生まれてきた。擬似の戦いも、時として本気になるから、殺し合いになったりする。だから、スポーツマンシップをいうのだが、それはスポーツにもともと欠如しているからである。
スポーツは管理されなければならないから、ルールを作る。制度やルールというものは、作る側の都合で作られる。たとえば、高さの制限は、低いものを排除する。バレーボールのネットの高さは、どんどん高くなってきたから、赤道近くの小柄な人たちはやらない。
球技の違いは、ボールの位置とも関係する。サッカーは手が使えないから、ボールは基本的に地面にある。プレヤーは高さから解放される。つまり、足が地面につけばいいのである。バスケットボールのゴールが、たとえば、地上にあれば、ハンドボールと変わらない。してみると、あらゆるスポーツは、隙間産業的であるとも言える。
さて、われわれは、スキーもやる必要はないし、泳ぐ必要もない。まして氷の上で踊る必要はさらさらない。やるとなったら、金がかかる。だから、やらない。すくない競技人口で、ワールドカップといったら茶番である。
昔、棒たおしというような野蛮な競技があった。これは、体育祭の花形で、攻撃と守備からなる。そこでは、システムが問題になるが、基本的には個々の走力や腕力が問題になる。
同じように、サッカーは、古代の戦闘にもっとも近いスポーツである。戦場に出たら、人は闘はなければならない。サッカーは、足でボールを蹴るということで、誰でも参加できる普遍的なスポーツになっている。その意味で、サッカーを戦争になぞらえるのは正しい。
サッカーボールは、一つで、ゴールも一つである。練習では見られるが、ゴールを二つにすると、サッカーの技術よりも、戦略が全面に出てくる。たぶん、ボールを一つ、ゴールを一つにすることで、サッカーはスポーツに踏み止まっているのだ。
ボールは一つである。あらゆる場面で、ほとんどの選手はボールを持たない。サッカーは、ボール持たないプレーによって成り立っているスポーツである。ボールを持たないから、はっきり分からないが、いつでも、守備が攻撃であったり、攻撃が守備であったりするのだ。そうした意味づけのできないものは、いい選手にならない。
直立歩行する人間に、手を使わせないことで、つまり、進化に逆行することで、誰でも参加可能にしている。しかも、11名でプレーすることで、個々のプレーは、チームの戦略に規定されている。それは、社会的動物であるわれわれが、生きていくのと変わらない。そこで求められるのは、体力、技術、戦略である。そうした人間の一つの理想を、中田英寿に見たとき、サッカーの広くて深いスポーツであるのに気づかされるのだ。
つまり、サッカーはルールを単純なことから、普遍的なスポーツになり得たし、その単純さゆえに、創造的なスポーツにもなりえたのである。缶切りは缶しか開けられないが、小刀なら缶を開けることはもちろん、美しい像を刻むこともできる。したがって、サッカーは、さまざまな愉しみかたを用意してくれるが、わざわざ缶切りを見ても面白くないだろう。それだけのことだ。
※ 世界陸上がなぜつまらないかというと、小生のS2000の方が速いからである。スキーやスケートが面白くないのは、寒いのがいやだからだ。ラクロス、見るもんではない。
2007年09月09日 18:44
安倍さんのようなリーダーをお上としていただいていると、日本の未来がますます混迷するような気がする。
安倍さんの「職を賭して国会に臨む」のは、大仰にしても、正しい日本語である。ただ、「職責」にしがみついてはいけません。職にしがみついても、職責を全うするなら、普通の日本人の言い方ですが、職責にしがみつくものではありません。
参議院選挙の敗北の責任をとって、総理をつづけるというのも実におかしい。生徒が、当番の仕事ができなかったから、当番をやめるというのがおかしいように、責任をとって、総理はやめ、責任をとって、当番は続けてやらなければならない。そういうのが、普通の日本人の感覚である。
小泉さんの場合は、日本語の表現は、品がないにしても、間違ってはいない。イラク侵攻の根拠とした核施設が見つからないことで追及されたとき、「今フセインがいなくても、フセインがいなかったことにならない」と答弁した。日本語として正しい。今小泉さんに奥さんがいなくても、結婚したことがなかったということにならない。小生は、バツイチであることを知っている。核施設はいままでなくて、今もない。それを普通「ない」という。日本語は正しいが、詭弁である。つまり、論理の問題である。
安倍さんの日本語は、日本語そのものがおかしい。職責にしがみつくというような日本語を発したら、慚愧に堪えないと反省してほしい。いずれにせよ、感覚が狂っていれば、日本語がおかしいのは議論を待たない。うん、困ったことだ。
昨晩、出掛けようと外にでると、西の空に星が3つ縦にならぶような不思議な光体を見つけた。松の木の陰になってよく見えないから、しばらく歩いて、見晴らしのいいところにくると、確かに3つに見える。さては、未確認飛行物体と見たが、飛行しないでそのまま留まっている。
ふとを天心を見上げると、わし座のアルタイル、こと座のベガ、白鳥座のデネブが夏の大三角を作っていた。しかし、いずれも三重ににじんで見えた。ぐっと目をこらすと、三重のにじみが消えた。乱視が進んでいたのだ。
年をとると、いろいろに乱れる。友人は、耳鳴りがすると行っていた。これを乱聴という。恥ずかしさがなくなるから、つまらないものを作る。これを乱作という。羞恥心さまざまなものにとらわれて、ものごとがしっかり認識できない。これを乱心という。
近くに公園がある。風がひどく大降りの日であった。予定していたサッカーの試合も中止した。朝早くそこを通りかかると、たくさんのご老人が、どしゃ降りの雨の中で、グランドゴルフをしていた。乱れているのは、小生の目ばかりではない。
目に不安をかかえると、写真を撮りたいという思いが強くなる。ガキのころカメラが欲しかった。子ども心にも撮りたい風景がいくらもあった。カメラを車に積んで出掛けても、道はガードレールに挟まれているし、山は送電線とその鉄塔が景色を分断する。それでも、撮り方によってはまだ絵になる。目が利かなくなる前に、宇佐八幡、富貴寺大塔、三佛寺投入堂、また、奈良や京都の寺々、石鎚山、瀬戸内海など、撮りたいところはいくらもある。
ということで、定年後をどうするか、考えてしまうのだ。家のコンピュータの不具合から、コンピュータの新しいシステムを作ることにした。教え子のMくんにそれを依頼した。このようにして、老いを迎える支度を始めなければならない。
※ 若いときにやるべきことをやっておかなければならない。老いたら老いたで、やることがある。人生で難しいのは老いることである。心のありようがそのまま外に出てくるからだ。
2007年09月08日 20:29
台風の日は、国語研究会があって、裾野市のまで出掛けることになった。遠州地方に暴風警報が発令されて、生徒たちは午前中で授業が打ち切りとなった。困ったことに、講師を依頼してあることから、研究会は実施するというのだ。
道路が混雑することは予測できたが、鉄道も止まることも考えられるので、マーチで出掛けることにした。スーツをきていたが、銀行のATMにたちよると、折からの激しい雨で濡れ鼠になってしまった。
さて、東洋大学の菊地義裕先生の『柿本人麻呂・時代と表現』という講演をお聞きした。大変明解で、緻密で、構成のきちんとしたお話であった。千葉大学での中嶋尚先生の授業を懐かしく思い出した。というのも、菊地先生の語り口は、そのまま文に起こせば評論になるほど、まったく無駄な語を発することはない。
中嶋先生の講義は、まさにそのようなものであった。早朝古谷乳業で積み出しのバイトをしていた小生にとって、8時30分からの「風土記」の講義は、どうしても間に合わない。毎回遅れても、顔を出した。しかも、一番前に席をとる。先生は随分不愉快な思いをなされたことだろう。それを思うと今でも汗顔の至りである。
さて、古代日本の近代化は、白村江の戦いの敗北に始まる。663年、百済を復興のために朝鮮に出兵した日本軍は、唐・新羅の連合軍に敗れる。アジアの覇権を握ろうとする唐から自国を守るために、大宰府が強化され、各地に山城がつくられ、律令制の新しい国家を作ろうという機運が一気に高まっていく。
律令制度は、701年に大宝律令として完成をみる。天皇を中心とするは、中央集権的な国家ができあがる。710年には、元明天皇は奈良に遷都し、長安の都にならって都城がつくられる。712年には、自らの政権の正統性を示すために、「古事記」の編纂がはじまり、713年には「風土記」の編纂の詔勅がくだる。
風土記は、元明天皇が諸国に命じて、郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進させた地誌である。完本に近いものは出雲風土記のみで、常陸・播磨の両風土記は一部が欠け、豊後・肥前のものはかなり省略されている。それは、岩波文庫で読むことができる。まだ日本語表記のない時代だから、国文体を交えた漢文体で書かれている。
小生は、風土記を編纂するにあたって、とりわけ、地名の表記が問題になっただろうと想像する。漢字で地名や産物を表記すると、漢文の文体にそれらは紛れてしまう。出雲の風土記を見ると、地名を二字の漢字表記に統一しているのが分かる。しかも、たとえば、「矢」はすべて「屋」に変更されている。ここで行われているのは、地名の整理であって、しかもそれは事務の合理化につながる。それが、風土記の本当の狙いのような気もする。
小生がそう考えるのは、年金制度における、基礎年金番号によるコンピュータ管理のことを考えるからである。コンピュータで管理するためのデータの形式をどうするか、徹底的に検討した形跡が全くない。人名に用いられる漢字の異体字は、多くは無知から生まれてきた。ひどい話だが、小生の生年月日は間違っている。間違っていも、コード番号のようなものだから、少しも困らない。少なくとも、もう少し賢い役人が社会保険庁にいたら、異体字の整理という大改革をなし遂げることもできたのである。しかし、これは、余談である。
人麻呂の活躍した時代は、7世紀後半の10年である。そこは、近代国家を作り上げようという機運が、都を中心に渦巻いていた。そうした機運に、下級役人の人麻呂が見事な表現を与えた。それが、万葉集に残された人麻呂の歌である。
小生は、万葉集を扱うことはほとんどなかった。菊地先生の講演をお聞きして、古代日本の近代化の歴史の整理がついた。菊地先生は、教材に対する3つの視点として、生活の視点、歴史社会文化の視点、表現の視点を上げていらっしゃった。現代文でも、漢文でも、大切な視点でる。この夏の漢字学のセミナーで、漢字を分析するための視点として、小生が示したものと符合するものであった。その意味で、大いに得心させられた。
裾野文化センターを午後4時前に出て、午後10時過ぎに家に着いた。それでも、菊地先生のお話をお聞きして、よかった。少なくとも、東洋大学を生徒たちに勧めることが出来る。
※ このような内憂外患は、幕末にも見られるし、戦後民主化の時代にも見られた。価値観が大きく変わるとき、新しく権力を手にする者が必ず生まれる。そうして、そうした者たちに、国の命運は託されるが、多くは上手くいかない。それは、制度の問題ではない。制度とは、人間が恣意的に作り出すものだから、どのようにもつくることができる。すべては、その時代の支配層の人間性の問題である。
※ 少なくとも、近代国家の成立を夢見て仕事をした、風土記を編纂した者のほうが、小生より幸せだったのではないだろうか。江戸時代の農民は不幸であったというのは、作り上げられた神話である。新しい携帯も、新しい車も、幸せをもたらさないだろう。液晶テレビになっても、いいことはない、演技の稚拙さが目立つばかりである。
※ 東名がとまり、国道が車線規制になって、すべての幹線道路は、車があふれていた。沼津から静岡にぬけるのに、8時間かかったというトラックの運転手の話を聞いている。小生が6時間で抜けたのは、ルール違反をしているからである。それでも、新聞は届くし、工場は何もなかったかのように操業していて、トヨタは生産台数が世界一になるという。ジャストインタイムというのは、こうした労働者の犠牲に上に成立している。曹松は、これを「一将功成りて万骨枯る」と表現している。ただ、死んだ兵は、少なくともその戦績に関わることができる。
2007年09月06日 00:05
先年、林家こぶ平が林家正蔵を襲名した。林家正蔵をついだからといって、噺がうまくなることはないから、噺家とは考えにくい。そのまま、こぶ平という芸名で通したほうが、かれの資質にぴったりしているような気がする。
さて、落語には落語口調といって、独自の話ことばのトーンがある。それができなければ、少なくとも落語は語れないし、そんな芸人を噺家と呼ぶわけにはいくまい。父親の林家三平の芸にしても、昭和の名人といわれた、志ん生、文楽、圓生、小さんなどの正統な芸が確かにあって、はじめて、その破格の芸が、高座に彩りを添えることができたのだ。
ところで、志ん生の「替わり目」がいいからといって、今聞いたらどうだろうか。文楽の明烏にしても、今の聞き手にその良さが分かるとは思えない。時代は、頽廃、破廉恥、無知蒙昧の極みである。大人がいなくなった社会では、成熟した大人の文化伝統は廃れるばかりである。こうした時代に、落語が成立するとしたら、落語の世界をそのまま語り出す芸の力がなければならない。志ん朝には確かにその力があった。しかし、そうした行き方は、落語を能や文楽のように、古典芸能のジャンルにおとしめ、閉じこめてしまうことになる。
立川談志は、もちろんそれが出来る。「小猿七之助」や「ねずみ穴」を聞いたら、談志流のリアリズムが超一流であるのがわかる。人ははからずも名科白をはくことがある。芝浜の勝五郎の女房の科白が実にいい。「勝っさん、おねがい捨てないで」という科白なのだが、「芝浜」という噺に流れるテーマはこれである。女が男に惚れるとはどういうことかということを、談志は見事に語り出している。それは、三木助の芝浜にはない。
このように、談志の噺は、きちんとした人間観察から生まれている。「芝浜」も「駱駝」も昔の噺であるが、その噺の今日的意味を掘り下げて、新たな噺として創造している。言い換えれば、人の孤独とか、恋情とか、吝嗇とか、人間であるかぎり逃れることの出来ない人間のさまざまな業を、そのリアリティーにおいて語り出しているのだ。そうして、談志は、落語の可能性を大きく広げてきた。しかし残念なことに、それは談志にしかできない話芸である。したがって、談志のこうした落語の完成は、そのまま落語の終焉を意味することになる。
数年前に、小生は「早すぎる追悼文」という拙文を、卒業生のために書いた。師匠が、「立川談志遺言全集」という本を出版したからである。
談志が死んだら、日本の話芸は終わる。千代の富士で、相撲が終わったようにである。朝青龍は、いい相撲取りに違いないが、日本人ではない。早晩、横綱の土俵入りは、モンゴル相撲のそれに変わるだろう。
千代の富士の横綱昇進が決まった日、九重親方(北の富士)が、辞めるときはあっさり辞めようなとつぶやいたそうだ。その言葉は、横綱に昇進した名古屋場所から、早くも重くのし掛かる。足の怪我で二日目から休場。その次の九州場所は、足の怪我をおして土俵に立ち、辛うじて決定戦に持ち込んで、優勝。そのインタビューの席で、千代の富士は嗚咽している。
もう一度、千代の富士が涙をこらえて言葉につまる場面を見たのは、平成五年九州場所、二日目であった。貴乃花に敗れた千代の富士は、一言、体力の限界と答えてあっさり引退する。そこには横綱の威厳と品位があった。その意味で、貴乃花を名横綱などと、わたしは言わない。
日本人は、どのような生き、どのように死んでいったのだろうか。その生き方は、古典の中にしか見いだせないとしたら、君たちは、古典から学ばなければならない。だから、わたしも教壇に立っている。
中野翠さんの『今夜も落語で眠りたい』という本がある。その本には、談志が出てこない。志ん生、文楽、志ん朝で、お茶を濁している。よく聞いたら分かるのだが、古今亭志ん生の話芸を正統に継承するのは、息子の志ん朝ではなくて、実は談志である。少なくとも、落語を語るとしたら、談志を無視することはできない。それが、分からないとしたら、見識がないと云われても仕方がないだろう。
※ ある友人の話である。教員は言語能力が乏しいというのだ。職員会議で発言した若い教員が、1分間の話で、「あの」と30回言ったというのだ。考えてみれば、落語家に落語口調があるように、教員には教員口調というものがある。それが身に付いていない教員が案外多いのだ。人間は、ことばで認識し、ことばで思考するのであれば、言語能力の差がそのまま教員の力量として現れるはずである。管理職に力があれば、教員評価など難しいことではない。
2007年09月05日 04:03
● 今月の歌 秋の夜の心をつくすはじめとて
秋の夜の心をつくすはじめとて
ほのかに見ゆる夕月夜かな (藤原実家)
午前二時過ぎに、目が覚めた。東の窓から、月の光が優しく差し込んでいた。眺めると、雑木の向こうに、昇ったばかりの有明の月が輝いていた。旧暦八月になると、どうしても月のことが気になるのだ。もちろん、こうした思いは若い頃にはなかった。
月は桜ととともに、人を思い出すよすがになる。かつてともに月を眺めた人たちが、いつしか離ればなれになっていく。人は、その生において、新しい日々を生きていくが、それは、かけがえない古いものを捨て去っていくことでもある。だから、月を通して、過ぎ去った時のはざまに、立ち去っていった人びとを懐かしく思い出すのである。
この夏、八幡平を下っていく途中、たまたま松尾鉱山の廃墟に立ち寄ることになった。かつて、その鉱山の町で生活していた何万という人々が、その建物群だけを残して、すべて消え去ったのである。小生は、夢中でシャッターを切った。
そのうち、小生はうっそうと茂る草木をかき分けて、ある建物に侵入した。どうやら独身寮らしい。草木に覆われた部屋もあれば、床の抜け落ちた部屋もある。鉄骨がむき出しになっていたり、水が滴り落ちていたりする。廊下の窓からは光が差し込んでいて、変色した廊下の壁に微妙な陰影をつくる。朽ちた窓は額縁のようにそのまま八幡平の風景を切り取って、荒涼とした美しい景色を見せている。いつのまにか、その光景を眺めた男たちの視線で、眺めている自分がそこにいた。
学生時代、千葉の古谷牛乳の独身寮で過ごした小生には、その空間がたちまち息を吹き返してくるのがわかる。食堂のカウンターごしに、まかないのおばちゃんたちの津軽弁が聞こえる。風呂場からは、男たちのざわめきが確かに聞こえてくるのだ。しかし、一瞬風が吹き抜けていくと、たちまち現実に立ちかえって、その不気味さに耐えた。
小生は、有明の月を眺めながら、この月に照らされている八幡平の廃墟を思い描いている。さらに、その八幡平の月を思い出しているかもしれない男たちのことを思い描いている。月とは、まさにこうした幻想を生み出す装置なのだ。
だから、西欧では、月は狂気をもたらすものとした。月(moon)のラテン語lunaの派生語lunacyは、狂気の意味である。
※ 八幡平のプレゼンを作成した。そのタイトルバックは、次のように記した。
八幡平の風の記憶
ひとが廃墟にひかれるのは、
心の片隅にうつろを抱えているからだろう。
この世に生をうけた瞬間から、
つぎつぎに何かが失われてゆく。
それを心にとどめようとしても、
記憶はつぎつぎに風化してやまない。
廃墟には、
そこに生きたものたちの記憶が固着している。
わたしが目にしたのは、
ここを通り過ぎた多くの人たちの記憶である。
2007年09月03日 20:50
近くの郵便局へ、生徒から集金した小銭を預け入れに行った。取り次ぐと、忙しいから出来ないとけんもほろろに答える。小生はキレた。言い方があるだろう。少し混んでいまして、30分ぐらいかかりますがよろしいでしょうかと云われれば、またお願いしますと大人しく引き下がる。小生は、恫喝した。それから、その郵便局の応対がよくなった。
本校でサッカーの公式戦があった。娘さんが有名なある監督が、グランドで煙草を吸っていた。数年前から学校の敷地内で喫煙が禁止されている。そうした状況で、彼が煙草を吸っている図はよくない。小生はお節介にも、煙草を禁止されている旨をお話した。彼はむっとしたまま、捨てぜりふをはいた。その愚かな対応を見て、サッカーは人を育てないと思った。
ことしのインターハイの県大会で、その監督の率いるチームの試合があった。小生は、そのベンチの一部始終を観察した。やはり、サッカーは人を育てないと思った。後日、そのチームスタッフが全員退場させられたと聞いた。
西部のあるグランドで、地元の高校と対戦した。監督が年甲斐もなく幼くていつも後味の悪い試合になる。聞くに耐えないようなやくざな言葉に辟易とした。こういう場合、審判の仕事として、たしなめなければならない。それをしない。ゲームが終わったあと、後輩の審判に注意しなかったことをたしなめた。これから自分のチームの試合があるのに、どうしてそういうことを云うのかと喰ってかかってきた。それ以来、小生はこの後輩を相手にしない。
人は注意されると、なぜキレるのか。理由は簡単である。本人が気にしていることだからである。人は注意して聞き入れられないと、なぜキレるのか。人のために叱らないで、自分のために叱るからである。注意して分からなければ、実はそれまでである。
概して、小生の前では、生徒たちはみんないい子である。今日、T志くんが挨拶に見えた。中国に留学するためである。かれは、お母さんの祖国で勉強する。上海の寄宿舎から学校に通うという。分かれしなに、どうしようもなくなったら、日本語で怒鳴れ、日本語なら勝てるとアドバイスした。先生も遊びにきてくださいと云うから、来年にも、上海を訪ねて、宮田雅之の切り絵を見に行こうと思った。
※ 故岩田先生は、こんなことをおっしゃった。
注意したからといって、直るものじゃない。本人が気づかなければ直らない。でも、それまで期待せずに、言うことだ。言葉は残るよ。
実は、年をとると、これがなかなかしんどいのだ。出来ない生徒を支えながら、授業をするのには、パワーが不足している。
※ サッカーは人を育てないが、サッカーで人を育てることは出来る。ようするに、人間の問題である。
2007年09月01日 15:34
● 朝三暮四 三木 卓
二十年後のわれらの生活はすばらしいか
しかりと 報告は返答する
ああ いつも未来はみずいろばらいろ
この現在だけを辛抱すればいい 簡単!
むかし漢文の教科書に朝三暮四というのがあり
あさましい猿はあざわらわれた
だがほんとうか あさましいか
なぜに家賃は前払い 手形は割り引かれ
日銭はつよく 貸売りお断わり?
ごらん この世界の法則を
未来のからくりを知るものの思想を
今月の末に、指導主事の学校訪問がある。そこで小生は公開授業をお見せして、指導主事から教えをこうことになる。五年前の四月、同じように公開授業をした。一年生の漢文で、故事成語として『朝三暮四』を扱った。この程度の漢文なら、誰でも白文で読む。しかも、自信を持って大きな声で朗読する。それくらいの授業なら、誰にでもできる。
この「朝三暮四」は、『列子』に出ている話である。『列子』だから、もちろん寓話である。春秋時代、宋の人に、猿を多く飼う者がいた、あるとき、生活が逼迫してきたので、餌を減らすことを考えた。木の実を与えるのに、朝に三つ暮に四つにすると云うと、猿たちは大いに怒った。朝に四つ暮に三つと云いなおすと、大いに喜んだ。
授業の検討会になった。その席上、指導主事が、この猿まわしは朝飯の前に話したんだろうと云うのだ。耳を疑ったが、冗談ではなさそうだ。寓話にリアリティーを求めると、ジョークになる。
男は、猿たちに芋を与えるのに、朝に三つ暮に四つにするという。猿たちは、ひどく落ち込んだ。すかさず、朝四つ暮に五つと言い直したが、ますます、落ち込む。中国産の芋だったからである。
寓話は、寓意にこそが意味がある。小泉改革が朝三暮四と分かればいい。このところの国民の税負担は論外である。ちなみに、小泉首相の座右の銘は、『論語』の「不信不立(信無くんば立たず)」だという。ここに、2005年の衆議院選挙のパンフレットがある。しかし、その表紙を飾る彼の写真は、数年前の写真である。彼の喧伝した、長岡藩の米百俵の話も、胡散(うさん)臭い。首相官邸のHP、小泉純一郎のプロフィールの信念の欄に、次のように掲載されている。
米百俵とは、明治3年、戊辰戦争で焼け野原となり、窮乏を極めていた長岡藩に、支藩の三根山藩から送られてきた百俵の米を、多くの藩士は飢えを凌ぐために使おうと考えましたが、大参事の小林虎三郎は学校設立の資金に充てたという故事です。
分ければ数日間で使い切ってしまうが、人づくりに使えば、将来、何万俵にもなって戻ってくるというのがその理由でした。
今の痛みに耐え明日をよくするために、現在の日本に必要なのは、この「米百俵の精神」であると小泉総理は語っています。
小生は、不況の90年代に、公共投資は、教育に向けられるべきだと考えていた。米百俵のことを教訓にするなら、それしかないだろう。小泉政権のやったことは、長岡藩の藩士の痛みだけを国民に押しつけて、大企業を救ったというそしりは免れないだろう。
改革の痛みに耐えて、この体たらく、列子の寓意はそのまま生き続けている。ただ、この寓意を教えるのは難しい。だから、「朝三暮四」は、難しい教材なのである。
※ 長岡藩の「米百俵」の故事は、学校を作る話で、忍耐の話ではない。少なくとも、政治家であるならば、そう考えなければならない。
※ 『フランクリン自伝』に次のようにある。
理性のある動物、人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理窟をつけることもできるのだから。
この「理性のある動物」を、「言葉をもてあそぶ動物」と置き換えると、人間の本質が見える。
※ 小生も含めて、人間は自分の都合でしか生きていないようである。その都合をこのように言葉を弄んで、正当化しているのだろう。
※ 他人から意見を求められることは、きわめて少ないが、信じられることは、もっと少ない。このように、モンテーニュも云っている。どうする、達王。