2013年10月
2013年10月31日 13:55
実は、OEDの校正ミスはいたるところに散見する。おかげで、英語を十分楽しむことができるから、小生にとって悪いことではないが、武士の情けである。
Being mistaken for Kate's mother didn't dent my ego tooo much. Huh.
正しくは、こうでなくてはならない。
Being mistaken for Kate's mother didn't dent my ego too much, Huh.
ケートのママと間違えられたけど、そんなにへこまなかったよ、ほんと。
こうした校正ミスを無視してして問題にしないのは、校正をしても利益に反映しないからである。ヴィトンのバックのばったものが出回るのは、大きな利益を生み出すからで、後をたたない。こころしなければならないのは、大阪東急ホテルなどのことではない。産地を偽装しても、中国産ではないのだから良心的でもある。困るのは福島である。安全対策は利益に反映しないから、まともに取り組まないというのが、昨今の東電のやり方である。つまり、電子辞書なんぞにクレームをつけること自体、時代錯誤ということかもしれない。小生は半ば諦めかけているのだ。
2013年10月27日 00:00
2013年10月26日 18:44
いま冬休みの勉強合宿の英語のテキストを作成している。というわけで毎日電子辞書を活用して英語という面白い言語と会話している。もちろん素人であるから、英語の体系は、小生の頭の中では依然としてカオス(渾沌)のままである。ただ、ところどころがかなり鮮明になってきたから、そのうち全体像が見えてくるだろうと思っている。
電子辞書の例文だが、終止符が落ちているものが目につく。ただ、次の例文は、どこかで触れたいから、終止符がついていないことを世間に知らしめることにする。それにしてもどうしてこんな初歩的なミスが散見するのだろう。OEDは本当に権威を疑っている。つまり、欧米人は、かつての日本人のように言語に対する敬意がないのだろう。われわれ日本人も、欧米人のように言語(文化)に関心をはらうことがなくなってきている。グローバル化ということは、経済が最優先されて、伝統文化を捨て去っていくことにほかならない。このところの式年遷宮に始まる右傾化は、われわれの生活の中に、この風土に培ってきた生活文化、伝統文化が消滅したことの現れのような気がする。
世界のあちこちで、ナショナリズムを声高に騒ぐのも、それぞれの民族の伝統文化が、世界経済の中で失われていくことへの危機感の表れであるとしたら、世界は必然的に戦争への道をたどるだろう。それは、軍事的な形をとらないとしたら、文化や経済の形での戦争が行われる。たとえば、アメリカ合衆国の同盟国の要人に対する盗聴が、それを象徴している。
Such a process is known as induction, in contradistinction to the deduction process.
そのような方法は、演繹法に対して、帰納法として知られている。
2013年10月23日 21:51
このところ英語の先生をしている。そのことで見えてきたのは、教科としての英語の難しさは、国語にはるかに及ばないということである。河合塾の英語の問題と国語の問題を比較しての結論である。考えて見れば、古文で扱うのは、源氏物語や大鏡であるが、英語でシークスピアーのリア王を読むことはないからである。
朝の英文整序の問題を10題課している。今日のテストに次のような問題を出題した。
( a / belt / everyone / has / seat / to / wear ).
中に、次のような解答があった。
Everyone has a seat belt to wear.
文法的には問題ないのは確かだけれど、次のような疑問が浮かんだ。誰もがシートベルトを持っているとして、そのシートベルトは、数学の時間はどうするか、トイレではどうするか、ということである。いま一つは、シートベルトは締める以外に何か用途があるのかということである。時として、こうした迷答・珍答に出会うと思わず笑ってしまう。いうまでもなく、正答はこれである。
Everyone has to wear a seat belt.
2013年10月14日 09:27
昨夜というより、今朝は客間で寝た。実は、昨日敷き蒲団を購入したのだ。ララポートへパンを買いによると、西川のふとんを販売していた。このところ睡眠がうまく取れないので、いよいよ寝具にまで言いがかりをつけるようになっている。販売員が勧めてくれた蒲団に横になる。確かにいい。ただ、S2000に蒲団が載らない心配があった。うまく載らなかった配送してもらうことにして、販売員に駐車場まで運んでもらった。幌を開いて、助手席にそれを縦に押し込んだ。左の視界がその蒲団で遮られるが、右折を優先して持ち帰ったらいい。髪の長い女を助手席に乗せて、ハイウェイを疾走するというのが小生の夢であるから、敷き蒲団を乗せて徐行するというのは何とも情けない。中天には、上弦の月が皎々と輝いていた。家に着くとそのまま客間に蒲団を敷いた。確かにいいのだ。
珍しくぐっすり眠って、8時近くに目が覚める。客間の窓の地袋戸棚の上に、ほぼ600枚のCDが二列に並べられている。それが目に入った。小生のジャズを中心にさまざまな音楽のCDを持っている。その中から選んだ一枚を、ボーズで聴きながら寐ることにしている。CDは3000枚あるから、長恨歌の
後 宮 佳 麗 三 千 人
後宮の佳麗三千人
という詩句が浮かんできた。あわせて、「西京雑記」に書かれた王照君のことも浮かんできた。そこには、次のようにある。
時に元帝、後宮 既に多く、其の状を図せしめて、毎に図を披きて召見す。
漢の元帝のころ、後宮に婦人が多く、その容姿を絵に描かせて、それを見ては婦人を召していたというのだ。寵愛を受けるために、婦人たちは画工に金品を与えたのはいうまでもない。それをしなかった美しい王昭君は、匈奴への貢ぎ物として差し出されるという悲話である。
小生のコレクションの中には、埋もれた名曲があるのではないか、それを聴かずに終わるのではないかという思いを強くした。それにしても、われわれの周りはこのように多くのものがあふれている。それはかつての王族の暮らしぶりに等しい。といってそれで幸せになれたかというとそうでもない。
このところ小生の町の秋祭りがあった。法被姿の子どもたちを見るにつけても、祭を待ちこがれた子どものころを懐かしく思い出す。いざ祭が始まるとたちまち時間がすぎて、空しく終わっていくというのが常であった。そうした居ても立っても居られないようなわくわくした思いは、今に至って、ふたたび小生の胸に去来することはない。
少し時間が欲しい。3000枚に及ぶCDを今一度聞き直して、その音楽にまつわる小生の物語をじっくりひもときたいと思うのだ。今夜は、マディ・ウォーターズのブルースを聴きながら眠ることにする。
2013年10月09日 22:32
JR北海道の実情が日本国営放送で報告されていた。慢性的な人員不足で、現場では場当たり的な対応しかできない。管理職が現場が分かっていない。管理職に将来の展望がない。組織の意思疎通が徹底されていない。現場に諦めが広がっている。
静岡県教委は、全国学力テストの結果をうけて、部内に学力担当を置くというのである。JR北海道で起こっていることは、福島原発で起こっているし、静岡県でも起こっているのである。もちろん、本校でもその例外ではない。
こうしてわれわれの国の労働現場は、労働の喜びを実感できないまま、労働そのものから疎外され、虚無と破廉恥と頽廃の中で消耗している。こうした社会の矛盾は、社会的ヒエラルキーの底辺にさまざまな現象となってあらわれる。ピザを被るバイトの行為がいかに馬鹿げたことであっても、そうしなければ馬鹿らしくて働いていられない現実があるのだ。
半沢現象というのはまさしくそれで、管理構造の反逆として、リベンジをしていく主人公に喝采するのは、こうしたフラストレーションを解消できない大人たちではなかったのか。このドラマが若者に受け入れられなかったのには、そもそも銀行で働くことができるなんぞは、ジャパニーズドリームであって、まさしく絵空事であるからだ。冷凍庫に入ったり、あるいはピザ生地を被ることぐらいしかできないし、それは反逆でないかもしれない。かれらに巣くっている破廉恥は、ある種の諦めかもしれないのだ。
たまたま小生は、例のドラマの最終回を覗いてみた。半沢は出向になり、なにもなかったように組織は維持されていく。そこに何かが展望されているとは思われない。
現実がかりにそうであっても、われわれは現場から組織を再生しなければならないだろう。上からの改革などもはや期待できないからだ。もうそろそろ幻想を捨てるべきだ。JR北海道は再生できないし、福島原発の廃炉はコントロールされないし、静岡県の学力の再生は難しい。それが出来るとしたら、現場で苦闘しているものたちの使命感と情熱とにかかっている。
縁あって本校の教壇に立っている。学力問題も、教育問題もそこにしかないし、教壇に立つ者だけがそれを解決する可能性を持つことを、使命感とともに引き受けなければならないだろう。
※ 先日、智くんが小生の源氏物語の「若紫」の授業参観に来てくれた。かれは、かつて小生の「若紫」の授業を受けたし、教育実習では、「若紫」を扱った。智くんには、小生の出来る最善のものを提示した。それが教え子たちのエールになると信じている。
※ 来週は、いま中学で英語を教えている教え子が授業参観に来てくれる。古典の授業になるが、それをもとにして英語の教授法について意見交換をしたいと思っている。
※ 本校でも小生の周りで若い先生たちが育ち始めている。内田先生の退職は残念であったが、その危機感が若い先生を鍛えてくれる。礼記に次のような言葉がある。
善 教 者 使 人 継 其 志。 (礼記)
善く教ふる者は人をして其の志を継がしむ。
※ あと何年やれるかわかないから、小生に興味のある方は気楽に本校までお越しください。いつも授業を公開しているから、電話をください。
2013年10月04日 00:00
静岡県は、全国学力テストの小学校の国語Aで、全国の平均点を大きく下回って、栄誉ある全国最下位にランクされたのはすでに書いた。川勝知事は、下位100校の校長名を発表すると放言し、一悶着あった。
実は、栄誉ある最下位はそれだけではない。ここに時事通信社の内外教育という冊子の10月号がある。そこに2011年度の地方教育費調査の概要が報告されている。それは生徒一人当たりの経費の年額が示されている。小学校の全国平均は898,918円である。
ランキング
高 知 1,274,350
島 根 1,240,353
新 潟 1,159,065
・・・
・・・
・・・
愛 知 768,039
神奈川 743,647
静 岡 742,684
静岡県の教育費は、情けないことにこれが実情である。ゆりキャラではないだろうというのはこのことである。小学校の教育を云々する前に、川勝知事はこの事実を真摯にうけとめるべきではないか。富士山にはしゃいでいる暇はないはずだ。
静岡県の教育が成果が上がらない理由の一つに、外国人就学者が多いことも見逃せないだろう。さらには、教員の人件費は、たとえば磐田市のように、派遣労働者のような待遇の講師に委ねることで抑えていることもあるだろう。そうしたことを前提に、それぞれの教師の教育力を養成するしかないだろう。学力問題は、教室の中にあって、教員の力をどう養成するかにかかっている。中日ドラゴンズならとりあえず落合前監督を招聘するしかないだろう。
2013年10月03日 00:00
2013年10月02日 08:00
昨日、東京からカシオの消費推進室の係長さんが、訪ねてきた。OEDなどの校正ミスについては、どのように解消していくか善処すること、さらには、苦情や問い合わせの窓口についても善処することなどを約束していただいたので、この騒動も一段落することになった。
ただ、OEDのデータはオックスフォード大学出版局が提供し、それをそのままカシオがコンテンツとして利用しているのだそうだ。どういうわけかわからないが、世界の権威であるOEDにしてあの体たらくである。日本の出版社のようなきちんとした体質でないのかも知れない。
多くの企業で窓口に派遣社員を使っている。言葉遣いは丁寧だが商品などに精通していないから要領を得ない。先日もベネッセに電話して、要領を得ないから電話を切った。そこがビザ屋ならビザ生地を被るだろうし、冷蔵庫があればその中に横たわるだろう。派遣労働が労働者の倫理観を育てないのがわかっているのに、この国はそうしたことを容認しているのだ。
神長さんにお願いしたのは、日本の国語教育のために、漢字源を搭載した電子辞書を発売することである。カシオが日本の教育を憂慮するならば、企業の良心として、つまり教育に関わる企業の倫理として、そうあってもらいたいとお願いした。
昨日、磐田市のマスコットのシッペイくんなるのものが来校して、ゆるキャラコンテントで一番をめざしているから投票支援してほしいというのだ。この磐周地区は、全国学力テストの国語Aの最下位の静岡県にあって、最下位の地区である。優先順位は、何を置いても教育だろう。漢字源の電子辞書があれば、三年のうちにこの地区を全国水準にすることができる。次の三年には秋田県を追い越すことも可能だろう。だから、神長さんにお願いしたのだ。それにしても、磐田市はこの現状をどのように改善するのだろう。
2013年10月01日 07:00
今日、小生に面会を求めて、東京からカシオの社員が訪ねてくる。ただ、小生にはカシオの社員と会う必要もないし、会ってもしかたがないと思っている。小生がカシオのアドバイザーを引き受けたのは、カシオの電子辞書に漢字源が搭載されているからである。
たとえば、月刊国語教育に「電子辞書は国語再生の切り札になる」という拙文を載せて、電子辞書の普及に力をかしたのも、漢字源が国語教育を変える可能性があるからである。
漢字源に部品読みという機能があって、これは学研が特許を持っているため、漢字源ではできても、漢語林ではできないのである。漢字の部品というのは、たとえば、「姑」という漢字は知らなくても、「女」と「古」の読みを知っていれば、「おんな」と「ふるい」と打ち込むと、たちどころに「姑」「嫡」という漢字がヒットする。このことは、「嫡」が知らなくても、その一部「女」と「古」の読みを知っていれば、「嫡」という字も簡単に引くことができるということである。
漢語林でも、手書き入力があるから引けるというかもしれないが、辞書を持つのは、困ったときにひくためであり、よく辞書を引いて身につけて引かなくて済むようにするためである。漢字を身につけるのには、書くことよりも自覚的にその字形を認識することが大切である。過日、現代文に、挨拶ことばの普遍性について述べた文があった。そこで、「挨拶」という漢字が書けない者が多くいることが分かったから、「てへん」に「ム」「矢」、「てへん」に「三く」「タ」と教えた。むかし、「分析節」というのがあって、「櫻」を「二貝の女が木にかかる」と部品に分けて覚えたようなものである。つまり、ひたすら書いても、あるいは、書かせても、漢字学の知見や部品の意識がなければ身につかないというのが漢字である。
したがって、漢字源があれば、司馬遷の「史記」が読めるのである。カシオの電子辞書の活用について書かれたもののなかに、「史記を白文で読む」という拙文にそのことは詳しい。ただ、漢字源の電子辞書のコンテンツは、書籍のコンテンツのままだったし、校正ミスも目立ったから、カシオから学研に申し入れていただいて、小生も参画して高校生の漢文学習にふさわしい電子辞書のためのコンテンツを作り上げた。ところが、カシオは、漢字源を捨てて、漢語林に乗り換えてしまった。これは、国語教育やこころある国語教師に対する背任である。
だが、漢語林はコンテンツもさることながら、カシオの検索エンジンにも大きな不具合がある。漢語林になってかれこれ六年になるがそれが問題にならないのは、国語教師が漢和辞典をまったくひかないからだろう。つかわれないものならば、わざわざ嫌われ者になることもないから口を閉ざしているまでである。
ただ、今回のOEDとロングマン現代英英辞典の校正ミスが我慢できなかったのは、英語教師に対するうらみつらみがあるからである。かれらは小生の前で、英英辞典でないと英語の本当のニュアンスはわからないとのたまったのだ。ところが、英英辞典をひたすら引いていたのは、故松井先生だけであった。英語を愛し、授業を愛し、厳しく生徒を指導した彼だけであった。
今回、必要もあって英英辞典を引いたが、畏友松井の魂が乗り移ったように英文が読め、校正ミスを探しあてた。松井が自殺して、十余年が経過した。あの年の秋、彼岸花が浅羽の田んぼに咲き誇っていた。それを見ながら、松井の無念をはらすために、小生は日本一の国語教師になることに決めた。そうして、多くのリスペクトの中で、一番すぐれた英語の教員は松井であると言う日が来ることを心から願った。それが、松井を救えなかった小生のせめてもの罪滅ぼしだと思ったのだ。
小生の家のまわりにも、あの日のように彼岸花咲き始めた。小生と松井の物語はまだまだ続く。この冬の合宿で、小生は英語の先生として教壇に立つ。本当は、カシオの電子辞書など、どうでもいいのである。小生の関心事は、魂の問題である。カシオが誠実に文化に関わるというのならば耳を傾けてもいいが、弁解をされてもこまるのである。羞恥心もなく、アンダーコントロールといわれても、返す言葉につまるだけだ。