2015年09月25日 00:00

進路講話  学習することの意味


進路講話「学習することの意味」


● 日常生活における科学

わたしは、寺田といいます。杉山先生に袋井高校で国語を教えたことが縁で、君たちに話をすることになりました。

教え子たちはわたしを達王先生とよびます。この七月二十日で六十七才になりました。東京に住んでいるわたしの息子は、七月の三十一日が誕生日です。ホダカくんという孫がいますが、ホダちゃんの予定日が七月の下旬でしたから、誕生日が同じ日にならないかとひそかに期待しました。残念ながら、七月十七日に生まれました。1年は365日ですから、誕生日が同じというのはなかなか難しいかもしれません。

ところで、杉山先生の三年三組の生徒数は32名です。杉山先生がわたしの教え子ですから、生徒のみなさんはわたしの孫みたいなものですね。そこで、問題です。三年三組の生徒の中に、誕生日の同じ人はいるでしょうか。

1年は365日ですから、誕生日が同じになるのはなかなか難しいかもしれません。でも、偶然ということもあります。でも、365日ですからね。

三年三組の生徒数は32名です。一年は365日です。同じ誕生日の人はいる、いない。どちらでしょう。

 (質問)

わたしはかならずいると断言します。ほぼ、80パーセントの確率でいるということです。

ちなみに、ここにほぼ200人の生徒がいます。それぞれが宝くじを1枚ずつ購入したら、一等三億円が当たることはあるでしょうか。統計学の教えるところによれば、それはないと断言できます。

でも、それ数学でしょう。わたしは数学嫌いだし、なによりも、勉強にうんざりしているし、どうせ馬鹿でいいし、人間が学習する動物であるなんて、どうでもいいじゃん。そのように考える生徒がいることも承知しています。


● ウナギの本能

実は、勉強など、しなくていいのです。ただし、あなたが「うなぎ」であったらという話です。「うなぎ」、馬鹿にしないでというでしょうね。浜松に「なかや」といううなぎ屋があるんですが、このうなぎが実にうまい。蒲焼きが美味しいだけではなく、「うなぎ」という魚も馬鹿にできない生き物です。それでは、うなぎの話をします。

わたしは太田川の河口に住んでいます。子どものころから、鯊釣りをしてきました。鯊釣りの名人と呼ばれています。先日、親指くらいの太さのウナギを釣り上げました。からまると困るから、糸を切ってバケツに入れました。蓋をするまえにバケツから飛び出していました。おそらく、そのウナギは針のかかったまま太田川で生きているだろうと思います。

そのウナギは、ある冬の夜、海から太田川をのぼってきたはずです。太田川では、「しらすうなぎ漁」が行われていました。カーバイトといってアセチレンガスの赤い灯をともして、そこに集まってくる「うなぎの稚魚」を網ですくうのです。その稚魚を養鰻業者が大きく育てます。それを「なかや」の大将が買って、美味しい蒲焼きにしてくれるのです。そのウナギは漁師の網をのがれたのです。そうして、先日わたしに釣り上げられましたが、かろうじて逃げ延びることができました。

幾多の難を逃れたそのウナギは、どこからやって来たのでしょう。日本から南に2500キロ離れた太平洋の真ん中に、グアム島がありますが、そのマリアナ諸島の近くで生まれました。生まれたばかりのそのウナギは、レプトケファルスと呼ばれ、葉っぱのような形をしています。黒潮にのって2500キロ離れた日本の近海に近づくと、そのレプトケファルスが変態して、シラスウナギとなって川をさかのぼります。このようにして、そのウナギは太田川にやってきたのです。

ここで問題になるのが、太田川にやってきたウナギは、どうして天竜川や菊川ではなく、太田川なのかということです。それはそのウナギの親が太田川で成長したからです。その親ウナギは太田川で10年過ごしたあと、産卵のためにマリアナ諸島をめざします。どうして、マリアナ諸島をめざすのかというと、マリアナで生まれたからです。その親も、やはりマリアナで生まれ、太田川で育ちました。そのまた親も同じことです。

この地球が誕生して46億年経っています。魚類が誕生したのが5億年前で、ウナギは1億年前に誕生したと言われています。今、太田川で生息しているウナギの祖先をたどっていくと、1億年前にマリアナの海と太田川を往復したウナギに行きつきます。かりにそのウナギをオオタガワ・イブという名まえにします。そのイブの記憶が、つまり、マリアナの海と太田川を往復するという仕組みが、引き継がれているということです。マリアナの海と太田川を往復するという仕組み、これを本能と言います。このように、ウナギの本能は完璧に働きます。ウナギは学習することなく、大変な能力を身につけていきます。したがって、あなたがウナギであったら、学ぶ必要はないというのはそのためです。


● 人間の学習

さて、人間の話をします。

ウナギの本能は完全に働きますが、残念ながら人間の本能は不完全です。したがって、生きていく能力は自ら学んで身につけるしかありません。つまり、その人の一生はその人が学習して身につけたものによって決まるということです。

君たちは日本語をたくみに話しますが、英語の苦手な人がほとんどでしょう。かりに君たちがアメリカの社会で生まれ、育ったならば、英語を日本語のように使っていることでしょう。

ここで、人間が言語を身につけることを考えてみましょう。動物は牛でも馬でも、犬でも猫でも、生まれて数分で立ち上がり歩くことができますが、人間はほぼ1年かかります。お釈迦さまは、お生まれになると、すくっと立ち上がって7歩歩いて、右手で天をさし、天上天下唯我独尊と言ったとされていますが、これは伝説(レジェンド)でしょう。

動物として人間の特徴は、直立歩行にあります。ヒトは直立歩行することで、前足が手になりました。犬や猫は口でものをくわえて持ちます。手が生まれたことで、手でものを持つようになります。人間の手にしたもの、それが石器に代表される道具です。口は持つことから自由になりますから、ことばという道具を持つことになります。

長男が、初めて立ち上がった光景をいまでもなまなましく覚えています。脱衣籠のところで、直立して、手にはスリッパを持って、左右に振りながら、奇声をあげていました。わたしは、その光景を見て人間が誕生したと思いました。このことは、お釈迦さまは別として、ふつう赤ちゃんは、人間になるために一年かかるということです。

赤ちゃんは一歳前後でことばを話すようになります。これは、人間がことばを身につけるのに1年かかるということです。その間、赤ちゃんは周りの人間の話すことばを聞いているのです。つまり、その子はお母さんの話すのを聞いているのですから、お母さんが英語を話せば英語を、日本語を話せば日本語を話すようになるのです。これを「母のことば」という意味で「母語」といいます。英語の「mother tongue」の訳語です。「mother」は「お母さん」で、「tongue」は、牛タンの「タン」で、舌のことです。

したがって、赤ちゃんは母親の話していることばを学んで、身につけていきます。日本語には、アイウエオの5つの母音があります。アラビア語には、アイウという3つしかありません。逆に、英語は、母音が8つありますから、日本人にとって、英語の発音は難しいということになるのです。

そうした日本人も、アメリカで生まれ育てば、英語を当たり前のように話すようになるのはどうしてでしょう。人間のことばに関わる遺伝子は、アラビア語でも、日本語でも、英語でも、身につけるようにできているからです。つまり、人間は言語を学ぶ潜在的な能力をあらかじめ持っているのです。それは犬や猫にはなくて、人間だけが持っているものです。その能力をつかうためには、まず、お母さんのことばを聞いてまねをすることから始まります。まねをすることを、古語つまり古いことばでは「まねぶ」といいます。実は、この「まねぶ」から「まなぶ」ということばが生まれました。

さて、このことから分かることは、人間は泳ぐことも走ることも話すことも、ありとあらゆることができるようになっているという事実です。ただ、できるようになっているというのは、人間は学ばなければなにもできないということを意味します。つまり、人間の生きる力は、学び、鍛えたものでしかないということです。人間は、身につけた技術しか使えない。できることしかできないということです。

さて、今から、達王先生が67年の間に身につけたものをお見せします。

 (コイン回し)

つまらないことですが、これを身につけるにはなかなか大変です。

 (天狗通)

このリングが抜けるのは、開空間であるからです。このブレスレットのように閉空間であれば、リングは抜けることはありません。ここからトポロジーという数学が生まれました。


● 可能性と学習

このリングを抜く手品は、天狗通とよばれるものです。皆さんは、そんな手品を身につけたからといって、意味がないと思うかもしれません。意味がないというのは、あなたが価値を認めないということですね。

イソップ寓話集に、「キツネとブドウ」の話が出ています。キツネが森にやってくると、熟したブドウがなっていました。キツネは何度か試みたのですが、ブドウを採ることができません。そこで、キツネは、酸っぱいブドウ sour grapes だと決めつけて、気休めをします。酸っぱいブドウ sour grapes は、負け惜しみという意味で使われます。

心理学では、合理化といいます。自分にとって都合の悪い現実を、自分に都合のいいように理由づけをして、気休めをすることです。たとえば、高校入試に失敗した人が、自分の学力が不足していたことに目を向けないで、あの高校の制服、かわいくないし、というように現実から逃避するようなものです。

人間の生きる力は、学習で身につけたものでしかないのですから、学習をないがしろにしてはならないはずです。しかし、社会に出て必要ないからとか、意味ないからと、学ぶことから逃避しているのが、社会の現状でしょう。

そろそろ結論に向かいましょう。

君たちは、大きな可能性を持っている。それは、可能性ですから、それが何なのか分からない。「できないことをやってごらん」と言われたら、大いにとまどうことでしょう。君たちは、できることしかできないからです。つまり、できることしかできないし、できないことがなんだかわからないわけですから、気持ちは、二つに分かれます。

ひとつは、できそうで実はなにもできないという不安に苦しむという傾向です。もうひとつは、できることはすべてできるのですから、根拠もなく自信を持つという傾向です。

こうした傾向は、人間は、身につけたものでしか生きられないということと、つねに新しいものを身につける可能性を持っているということから生まれます。人間の可能性は、できることとできないことの間にあるということです。したがって、できることは完璧にして、傲慢なほどに揺るぎない自信を持つことが大切です。一方、できないことには謙虚に愚直に努力することが求められます。

漢字の学習で説明しましょう。初代の内閣総理大臣は誰だか知っていますか。伊藤博文ですね。ところで、博文の「博」は点が付くかどうかということです。ちなみに、書取の問題としてよく出題される「専門」を正しく書くことができますか。

 専門  專 セン
 恩恵  惠 ケイ

「専」「恵」の旧字体は、それぞれ「專」「惠」ですから、点はつきません。それにたいして、「博」「薄」「簿」「縛」に点が付くのは、「博」の旁は「尃」だからです。「尃」は「甫」と「寸」でできています。

 博学  博 ハク
 薄暮  薄 ハク
 束縛  縛 バク
 名簿  簿 ボ

このように、音は「ハク」「バク」「ボ」であるのは、音符「甫」だからです。そういえば、つかまえるという意味の「捕縛」という熟語がありますから、これを公式にしましょう。

 捕縛は「点点」、専門は「点口無し」

これを繰り返せば、伊藤博文を間違えることはないでしょう。完璧にしたら、そのことに自信を持つことです。この次の学力診断調査では、「伊藤博文」と漢字でかきましょう。

 北京原人
 東京裁判
 京浜急行

この「京」には、「北京」「東京」「京浜」というように、どうして三つの音があるのでしょう。これはおそらく説明できないでしょう。だから、調べる必要があるということです。

このように、分かっていること、できることは、自信をもって取り組みましょう。分からないこと、できないことは、謙虚に、学ばなければなりません。生きていくことは戦いですが、他人と戦うのではありません。自分と戦うのです。

君たちは受験勉強をしなければなりませんが、たとえば、「成就」が読めるようにするというように、一つ一つ積みかさねていくしかありません。そうして身につけた一つ一つが、あなたの生きる力となるのです。そう考えれば、君たちの未来は確実に広がっていきます。そうして、わたしたちの生きる世界の広さを知ることができるでしょう。


● 送ることば

最後に、君たちに連帯と声援のことばを送ります。人は長く生きることはできません。たかだか生きて90年でしょう。それを踏まえて、次のことばを送ります。

 人は長くいきられない。だから、広く深く生きる。
                                                                 
( 2015 / 9 / 25 掛川市立掛川西中学校 講演原稿 )


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