しばらく止まっていた「眼球細動と短い記憶」シリーズです。 野々宮幸雄さんの作品画像はT-BOXのホームページを作家名から検索してください。

眼球細動と短い記憶ー18 野々宮幸雄「清浄な光」

 野々宮幸雄の作品を眺めていると、清浄な光を感じる。光そのものは形が無く、ある物体に当たった時、光は初めて明確な陰影や輪郭になって存在を知ることになる。彼の作品は明確な形で表すところが非常に少ないのは、光そのものを表わそうとしたからなのだろう。
彼のシルクスクリーン版画作品は何度も繰り返す摺り方をし、色彩を少しずつ変化させている。見る側の無意識の僅かな視線の動かし方によって、イメージは少しずつ違って重ねられる。例えば風に揺れる大きな樹を見る時に、枝に付いているそれぞれの葉の形を認識しないのとよく似ている。 葉の一枚一枚の動きは明確に認識しないが、木全体が揺れ、枝葉も同時に動いているので暈(ぼか)された認識になる。眼が認識した動く全体像だけからも、そこに吹く見えない風を感じ取る事が出来る。 
 人間の記憶には長く留まるものと、短い時間だけ留まるものがある。 長く留まるものは子供の頃の思い出のように死ぬまで記憶の中に残る。 人間が不要と認識したイメージは短い時間だけ存在し、瞬時に消える去る記憶もある。 歩いていて置いてある看板や自転車を認識して、避けて通り抜けた後は、それらの事はほとんど忘れ去る短い記憶。 ほとんどの記憶は短い時間で消える。 繰り返し長い時間をかけて意識したイメージは残る。
 
 日本人が多く持っている習慣の中で、多くのイメージを重ねた記憶方法がある。 それは短い記憶の無数の少しずつ違った映像を、消え去る前に集積するとぼんやりとしたイメージになる。
清少納言は枕草子で「春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる・・・・・」ゆっくりと移り行く空の色を重ね合わす事で移ろっている色を愛でている。枕草子の文も移ろう自然の風景のような方法を使って生まれている。今、清少納言が山や木々の無い彼の暈かされた作品を見たら、何と言うのだろうか。
 
 私が高校生の時、美術の先生が外国のある油絵作家の話をしてくれた。その作家は木の在る風景画を細かく丁寧に描いていた。季節がどんどん過ぎて、余りに丁寧に細部まで描くので描き残しが出てしまった。季節が変わると若葉だった木が花を咲かす。その花を描く間に季節は秋となり、葉の色が茶色になってしまった。作品の緑の葉を茶色に塗り直されていく間に、冬が来て葉が落ち、木は枝だけが残ってしまった。再び春が来ると若葉が芽吹き、再び若葉を描き始めることになった。西洋の考え方は風景の「瞬間」をイメージとして明確に描き終えない場合、作品は完成しない。数10年経ち、やっと出来上がった作品は、絵具が積み重なり数センチの厚さになった。油絵具は被覆力が強いので、絵具を重ねることによって、下の色を覆い隠すことが可能だから、このようなことが起こるのだろう。明確な認識を重視する西洋の教育を無意識に前面に出した結果の授業だった。

 野々宮幸雄はシルクスクリーン版画の技術を使って、インクをゴムのスキージーで布目の間から紙の上に落として摺っている。さらに版を幾度も変えながら摺り重ねることによって、色の変化が無数に生まれる。明確でない暈かされた色面に、見た者は少しずつ色彩が変化する空間の中に何かを求めるかに依って、見えてくるものが違う。その不明確な部分は様々な時間を含み、長い時間も流れ込んでくる。
 モネはルーアンのカテドラル、睡蓮の池等の自然の「モネが見た瞬間の光」だけを繰り返しを描いた。野々宮幸雄は「連続した時間の光」の中で清らかさを表現している。無限と思われる重なり合ったイメージの中に何かを見ようとした時、野々宮幸雄と見る側が意識をやり取りする。無垢な意識のやり取りする内に「光」が心の中に浮かんでくるのは、作家から一方的に見る側に意識を押し付けるものではない。それ故に野々宮幸雄の光と見る側の光が重なり、心の中に満ちてくるのは「清浄な光」なのだ。      高橋盛夫