2010年02月

2010年02月28日

配達されない手紙

時間にゆとりがある、と思って、ご案内のDMを少しずつ小出しに送っていたら、もう時間が無くなってしまいました。
これじゃ、お知らせしたい方の半分にもお送りできそうにありません。

DMはもちろんメール便です。便利です。

しかし、今回は年賀状とたて続けだったので、同じデータベースで発送したのに、『配達不能』で戻ってくるものがあるのです。 は何故だ!?

考えられることは、

1.郵便は、年賀状を配達したふりして配達してない。

2.ヤマト運輸は、配達先発見能力に劣る。

または、3. あの人が正月に夜逃げしたか、4.私を嫌いになったか…。

なわけです。
が、今までの傾向では、2.「ヤマトの探検力不足」が原因だと思います。

郵便なら、たとえばマンションの部屋番号忘れていても、融通利かせて届けてくれたりしますが、その情報力は郵便独自のものです、

ただし、ヤマトなら番号で追跡できるので「未配」がわかりますが、普通郵便だと、配達員がめんどくさくなって、捨てたとしてもわかりません。

やっぱりそう考えて見ると、電子メールで事足りる、というより電子メールのほうが便利なんですね。

紙の時代じゃないんかなぁ。

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2010年02月27日

他社製品のススメ

むかしむかしあるところ(奈良県ですけど)で、洋服の販売員のお手伝いをしていました。

当然、戦力としては期待されていないので、別場所の催事売り場をとりあえず任されて、ワゴンセールの店番をしていました。

時給700円前後だったと思います。もっと低かったかもしれません。相場が500円くらいの頃でしたので、ま時代はご推察ください。

平日はほとんど売れないというか、来客自体も少ないので、声を出していてもひとり言の発声練習みたいな感じでしたが、あるとき控えめな高校生の女の子が来店されました。

悩んだ挙句、地味めなシャツ一枚、3980円を購入いただきました。
当時は、消費税なし。 当然現金決済。 なのですけど、めったに売れないものですから、包装してお会計してお釣りを出してお渡しするまで、かなりグダグダしてしまいました。それはご愛嬌。

しかし、気になったのは、「この服でいいの?」ということ。

まず、大人向けの高級(風)のお店の、アウトレットですから、ちょっと地味というか、おとなしいこと。
それにしては、決してお安い買い物ではございません。

ユニクロもなかった時代ですので、地味な洋服でも、そもそも結構高かったとうこともありますけど、高校生が丸一日アルバイトする労力と、この地味なシャツ一枚の価値がどうも釣り合わない気がしました。

アドバイスしてあげるような立場でも根性でもなかったのですけど、その旨、隣のワゴンで販売していたマネキンさんに言ったら、「あれはたぶん制服の代わりにするのだ」と、教えてくれました。

制服を、内緒でちょっとバージョンアップをする、大変なオシャレなんだそうで、規定を破るスリルも内在している、とっても青春なものなのだそうです。

僕は、高校生でもなければ、婦人服を着る人でもないので、その辺のことはサッパリ情報不足だったわけです。

じゃ、そもそもどうして、男性がスタッフになっているのでしょうか。

モノを売るときや、紹介するときは、自分が使用した「主観的な意見」を言えることと同時に、それにたいして「客観的に見た意見」も大事になってきます。

その後流行った「ハウスマヌカン」は、思いっきり主観で、ディスプレイモデルと販売員の中間みたいな存在でした。

しかし、自社製品を使う専門家になることと同時に、他社製品を比較できる視野が必要になってきます。

洋服なら毎日取り替え可能ですが、住宅や車だとそうはいきません。

ロールスロイスやフェラーリのディーラーも日野自動車のセールスマンも、なかなか自分で購入はできませんし、有名タレントが軽自動車や大衆車のCMをしていても、なかなか主観的なメッセージとは受け取りにくいです。

自分で使用することと、その商品の良さを見つけることは別モンなのですね。
なのに、メーカーが社員に、自社製品の使用を義務付けていたりすると、これは1pcsの売り上げの代償に、情報財産を喪失の愚を行っているようなものです。

トヨタの社員が、インサイトに乗って出勤している風習があれば、フロアマットはそんなにアクセルに挟まらないもんだ、って気がついたかもしれませんし・・。


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2010年02月26日

ヨナ・マオ

「浅田真央、キム・ヨナ 雌雄を決する! 」
・・・とメディアが盛り上げてましたが、どっちも女じゃろ? もともと・・。

それはともかく、(わたしの好きな)安藤の扱いが小さすぎます。
個人的には、トリノからの(わたしの好きな)安藤の4年越しのストーリーが一番、関心が高いのですけど。

一回太って痩せた20代の女性アスリートの身体は、いろんなものを物語ってくれます。
ティーンエイジャー二人の身体は、まだまだ子ども。表現力のベースが違うんです。高く速くだけを争うなら、軽けりゃ有利、子どもが有利。
スポーツとはいえ、フィギュアスケートはそれだけじゃないから、スポーツウェアじゃなくて「衣装」だし、「曲」の選択まで、重要な要素になってくるんですね。

それに、日韓の国威競争のようにもなっていますけど、そういう芸術部分の指導は、どちらもヨーロッパの指導者なわけです。
オリンピック選手は、その国の国籍がひつようなわけですけれども、スキーのコーチやワックスマンなどのスタッフにしても、選手以外のスタッフは外国人だったりします。

国争い、にしてしまう意味があるんでしょうかね・・。
「Mao!」とコールされると、毛沢東の娘だと思ってしまう中国人もいるかもしれませんしね・・・そりゃないか・・・


それにしても、どうして、キムさんは「ヨナ」って表記するのだろう。
「ユナ」じゃないのかい?


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2010年02月25日

駅長さんのファインプレーなのか

2010022217260000
浅草から隅田川を渡ったところにあるのが両国なのです。

両国といえば、いまは国技と名乗る相撲の国技館で有名ですが、みどころ満載なのです。

江戸博物館、ねずみ小僧のお墓まである回向院、吉良上野介邸跡、シアターX、ちゃんこ料理屋、文豪の碑、エトセトラエトセトラ。

駅舎も、とてもクラシカルでおしゃれな外観を保っていて、通過する電車から眺めていても、結構趣があるものです。総武線の他の駅とは一味違います。

黄色い電車の総武線の駅なのですが、今は快速線は通過してしまうので、プラットホームは一つしか使いません。

そこで、現在休眠中の、ホームへ向かう回廊では、いつもいろいろなイベントを行っていたりするのですけれども、現在はこれ。

レッドカーペットを敷きつめた先、ホームに登る階段には、雛飾り。

両国駅、ナイス。
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2010年02月24日

怖い夢

悪夢というほどではないにしても、寝汗をかくような疲れる夢をみることがあります。

夢っていうのは、僕の場合は見るときは連日で、見ないときはサッパリお目にかかりません。 いつまでたっても初夢が見られなかったりもしました。

それは単純に、睡眠の質の違いだと思うのですけれども、あまり気持ちの状態が芳しくないときに、良く夢を見ます。
夢を見るのは、良い睡眠がとれている状態の時なのだとすると、かなり矛盾した体質だという事になります。

そして、夢に特徴があるのですけれども、一つは現在お付き合いさせていただいているみなさんではなく、20年以上前の学生時代あたりに、かなり苦手だった人たちがよく登場してきます。ただし、別キャラで・・・。

あらかじめ夢に出てくるとわかっていれば、それなりに仕返ししてやったんですけど、夢だとわかるのは、大抵の場合は目が覚めるときなので、無念。

ともあれ、やはり「嫌い」とか「苦手」とかという感情は、とても強いものなのかと思います。単純に、好感をもっていた人は忘れやすいですけど、ヤな奴は印象に残りやすい、ということかもしれません。

つまり悪役のほうが人々の記憶に残りやすい、ということかもしれません。
ま、嫌われて覚えられても悲しいばかりですけど・・。

もうひとつの、僕の夢の特徴は、「展開が恐ろしく遅い」ということです。
完全に間延びしています。
そして、ご多分にもれず、やっと、いざ、というときに目が覚めてしまいます。
そういう場合は、楽しい夢を見ているときがほとんどです。

問題は、嫌な奴が出てくる、あるいは好い奴が嫌なキャラで出てくる夢のときで、これは妙にリアリティがあったりして、目が覚めても、ぐったりしてしまいます。
ある程度、現実にリンクしている内容だったりしますから、余計に疲れます。

行き詰った時や、追い詰められた時に、夢だったらよいのに、と思うことはしばしばですが、考えて見たら、世の中そんなにうまくいくわけではないのです。

困難を抱えているのが当たり前のことで、人間生きているだけでも、ものすごく立派で幸運なことなんだと思います。

怖い夢が怖いのは、現実の生活が無事な証拠。
悪夢のような現実を生きていれば、夢ならどうなってもかまやしないし。


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2010年02月23日

初めてのオリンピック

スポーツの選手寿命、ということについて。

温歌華(バンクーバー)オリンピックの中継を見ていて、あっさりと聞き過ごしていたのですが、「○○○選手、初めてのオリンピックです」という実況。

そういえば、葛西や里谷は6度目、上村愛子も5度目のオリンピックになるのです。1990年代に、2年に一度という変則があったとはいえ、4年に一度の行事なので、5回出るには20年近くトップアスリートでいなければなりません。

昔は、オリンピックはは、選手生命のピークに一度、刹那的なイベントだったのですけど、今は何度も挑戦して結果を出すものになっているみたいです。

つまり、選手の寿命は延びたということなのですけれども、逆にいえば、若い選手への世代交代や、出場のチャンス、はたまた夢や希望を奪っていることも懸念されます。

実力のある選手が一旦誕生すると、20年もオリンピック代表の座が空かない、・・・とすると、10歳15歳の少年はそこに参入しなくなり、競技の底辺は広がらなくなり、弱くなってしまう。そういうことも懸念されます。

YAWARAさんの「お影」で、日の当たらなかった選手もいたのです。

ちなみに団長・橋本聖子は7度出場。 夏の自転車選手の領域まで侵犯してたましたけど。。。それはそれで、エライ。


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2010年02月22日

ツイッタらない

『本当は怖い童謡』のような話が大好きです。

表現の自由が保証されていなかった時代に、童謡の親しみやすいメロディーに乗せて、子どもをメディアに使って、抑圧された市民が圧政への批判や苦しみを、隠喩して、世間や後世に伝えようとした・・・と、考えるとそこから分析していろいろと想像してみるとすごくすごく面白いです。

一方、ITとは、インターネットとはなんぞや、ということを、ダイヤルアップ回線の時代にしっかりと勉強させていただきました。
といっても、理系の技術のことではなくて、きわめて概念的な、哲学的なものなのですけれども、いまだにその時勉強した定義が、時代から逸れたと思うことはないので、きわめて本質的なところを教わったのだと、感謝しています。

そのひとつ、インターネットで行われているのは、情報の「発信」ではなく、「公開」であるということです。自分の秘密、プライバシーの一部を公開するものであって、積極的に情報を創造して発信するものではないわけです。

そう考えると、きわめて芸術的ではないのです。
クリエイティブな作業ではないのです。

ここ数年、理系の技術と産業化によって、だれでも簡単にインターネットの利用者として、情報を公開だか発信できるようになってきました。

ホームページの作成の簡易化、ブログ、ソーシャル・ネットワーク・システム、そしていまはツイッターと、本当に簡単に、素早く、自分をアウトプットすることができます。

自分は、珍しいもの、新しいものが大好きなので、それぞれ飛びついて利用して見たりもしたのですけれども、最近はちょっと方向を修正中です。

というのも、もはやツイッターくらいになると、何かを感じたらすぐ発散してしまうわけです。面白かったり、悔しかったり、今どこで何している、、と。

ほとんど記録にも残らないことで、いろいろなトラブルも回避できて、余計なものを貯め込まなくて済むわけですから、現代社会としてはとてもよく出来た治療法だとは思うのですけれども、世の中って、『言いたいことが言えない』欲求が溜まって、何かを産む、表現するといエネルギーになるものではないかと思います。

芸術なんて、まさにそういうものだと思います。

個人的な日常の雑記程度なこと、アウトプットして出したいことを、出したいときに出すのでは、トイレと一緒。

自分の昔のブログなんて、そもそも推敲もろくにしていないし、早く消してしまいたいもので、嫌悪感さえ覚えます。
まあ、しかし、失敗も未熟も歴史。過程は自分の一つですから、それはそれで仕方ありません。記録が残っていることが、それなりに価値があるし、発言の重みにもなるわけですから・・・。消しません、今のところ・・。

ただ、今後の心がけとして、「今日は何があった」、知り合いの何がしさんがどうした、というような個人的な日記的のようなことよりも、ちょっと大きなテーマについて考えようと思います。

そういう年齢なんだということもあります。
それ以上に、身近の面白い事だけを話題にしていると、作品のスケールが小さくなってしまいます。
それでは、われわれの社会的な意義が小さくなってしまいます。

身内だけで喜んで励まし合って楽しんでいても、世間の関心事にはなりません。


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2010年02月21日

鉛筆が好きな国民らしい

自分の筆箱に、小型の鉛筆削り器が入っていて、つまり常時携帯をしているということに気付きました。

それが、「さくら水産」でオーダーを書くための赤鉛筆の芯が折れていたときに、とっても役に立ったのだという、ずいぶん可愛らしくも情けない話なのですが、この筆記用具としての「鉛筆と消しゴム」は、いまでも結構使います。

社会人になると、通常は鉛筆の使用率は減るのだと思います。
昔学んだ大学の教授が、そのまた昔学生だった頃、「大学生になった実感」こそが、万年筆で答案を書く、ということだったという話をしてくれました。

ぼくら、いまだ間違っても、テストの答案をインクものでは書く根性はありません。

なので、鉛筆を使わなくなることは、大人とか社会人の証でもあるのかもしれませんが、最近は大学の先生でも鉛筆の使用率が高いことに気がつきます。
愛用の鉛筆、ご用達ブランドをお持ちの先生もいらっしゃいました。年下ですけど・・。

そのとき、留学生の子が、「日本人は、鉛筆が好きだ」と言ったのが印象的でした。
そういえば、海外では圧倒的にボールペンなどのインクものでみなさんメモしてます。たとえ学生でも・・・。

ぼくは個人的には、鉛筆の薄さとなめらかさと、HBの硬さがちょうど、スムースに筆が運べて効率があがるのと、重要なことは強く書き濃く残す、軽いことは薄く書いておける優柔不断なアナログ感が好きなんです。
創作にはもってこいなんですね。

でもたしかに、あとで読み返す時には、薄いし、ごちゃごちゃだし、見づらいです。なので、ちゃんと頭の中でまとまっている人は、整理できたものをインクでしっかりかけるんでしょうね。

つまり、ぼくのバカと優柔不断が鉛筆を手放せなくしているのですかね・・。




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2010年02月20日

古の生活

実際、地球が温暖化しているということが疑わしいという説もあるらしいのですが、目の前の生活は寒さとの戦いです。
確かに寒いです。少なくとも、これまでの何十年と比べて、この数年の平均が暖冬であるとは絶対に感じることはありません。寒いです。

昔より、狭い家に住んで、暖房設備も充実しているはず、しかも密集している都会の事なので、本来は過ごしやすくなっているはずなのですが、自宅にいても寒いです。

昔、中高生のころ、教室で陽の当たる窓際の席の時は、汗ばむくらいに暑いのに、反対側の列に行くと、手がかじかんでしまった、そんな記憶があります。

自宅もオフィスも、南向きの部屋に居れば、天気のいい昼間はレンズ効果でそこそこ温かくなるのですけれども、自分の作業場はなぜかどこも北向き。
もう、暖房効果もあったもんじゃない寒さです。窓がそのまま、「冷房パネル」みたいになっているので、どうにもなりません。

最近は、暖房費の無駄を省くためにも、というかそもそも暖房しても効果がないくらい寒いということもあって、室内でも厚着。場合によっては、スキーウェアを着ていたり、マフラー、手袋は当たり前のように着用して作業したりしています。

でも、考えて見れば、寒ければ着ればいいんです。
夏は、裸になる以上には対応できませんし、室温を下げるための工夫、風通しなどが必要になりますので、古来の住宅は「夏の対応力」を基本に作られているわけです。
なので、冬は寒くなるのですが、それは着こむことのほかにも、囲炉裏で火を燃やしていれば、あたたかくなります。その上に鍋を置けば調理に使えます。そうでなくても、ずっとお湯を沸かしていれば、乾燥もしないので、身体にもよいです。

考えて見れば、とっても合理的になっていたんですね。これも、時間をかけて築いてきた生活の様式だったのでしょう。

その点、現代の施設は、とても温かいのですけれども、こちらは「乾燥」していて、かなり気持ち悪い、冬のカサカサ状態になってしまいますし、どうもエネルギー効率も悪い気がします。

中東から油運んで、ここで燃やして電気エネルギーに変うえなくても、裏山の木は、ちょうど乾燥していい薪になるんですけどねえ・・。

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2010年02月19日

逗留執筆術

全国に、あるいは全世界かもしれまんが、有名作家が逗留して、有名作品を執筆した宿、というのがあります。
宿自体の宣伝にもなっていたりして、それだけで価値を高めるものになることは間違いありません。
僕らが何泊しても、迷惑なだけでしょうけど・・。

さて、有名作家ともなれば、みなさんそれぞれ立派な書斎やアトリエをお持ちのことと思いますが、どうしてか不便な僻地へ移動して、費用を使ってでも滞留して執筆をされたわけです。

転地によるインスピレーションを得ることや、必要な発見もあるのでしょうし、気分転換や日常から逃れて集中するため、または、進まぬ筆への起爆剤としての効果があるものと想像できます。

それでも、近代的ホテルに缶詰、というのはほとんど出版社側の監禁交錯であり、放置しておいたらドンドンだらしなく締め切りを伸ばしてしまう作家の、24時間タイムキーピングをするためでしょう。
寝る、書く、くらいしか出来なくしてしまうことよりも、なんとなく見張られているプレッシャーのほうが、効果があるのかもしれません。

これが和風旅館の場合も、たとえばテレビもないような状況や、静かで阻害されない環境が筆を進める、ということだけではありません。

実は、とっても大事なのは、「規則正しい生活を強いられる」ことなんです。
これは、僕らがちょっとした雑務を片づけるときにも、実によく使えます。
「必要最低限のものしかない」ということよりも、キチンとした生活が前提となる環境が大事なんです。
ま、個人で長期滞在したら費用がもちませんけど・・・。

そうすると、長期の入院生活も、場合によっては仕事がはかどることになるかもしれません。費用は3割負担で済みます?
また、刑務所暮らしも、懲役では自由時間は少なくなりますが、禁固刑なら執筆に時間が使えます。さらに、死刑囚となった場合は、ずっと規則正しい自由時間のある生活が続きます。突然やってくる「締め切り」までは・・。
費用はたぶん国庫負担です。

というわけにもいかないので、今度締め切り仕事に困ったら、少なくともインターネットの通じない、色気も食い気も、とくに名所も名物もない旅館を選んで行ってみます。

つまり、文豪ゆかりの宿、というのはそこに別の目的がなければ、「なんにもない」つまらん宿、ということなのかもしれません。
特筆すべき特徴はないけれども、それこそ風水的なマジックパワーが漲っていますよ、という神秘的な空間だということなのでしょう。

それならまあ、自宅で規則正しい生活してりゃ、それで十分。
毎日、旅館の同じような料理じゃ飽きるし、そもそも塩分取り過ぎ。


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2010年02月18日

量と質

繊細で緻密な文化を誇る私たちは、何事もクオリティを追求して、高めようとします。
商品もパフォーマンスも、品質が最高点に到達することで完成品として、世に結果を問うわけです。

欠陥商品では発売できませんから。
そして公開後も、細かなバージョンアップや、欠陥の対応などによって、品質の向上に努めるわけです。

そこには、クラフトワーク、職人の匠のようなものを尊敬する背景があると思います。技術に対して誇りを持って、技術を売りにしてきた産業の歴史なのでしょう。

ところが、実は世に評価され、世に影響を与えることができるのは、「質」だけではなくて、「量」が必要です。

究極の品質よりも、絶対的な量がなければ、世の中は影響されません。

琵琶湖を赤く染めようと思ったら、高品質な赤インクよりも多量の赤インクが必要なわけです。

この「量」に対しての敬意が低いように思います。

信州・上田の刀屋さんは、いまや観光グルメスポットの蕎麦屋さんです。本番で美味しいことのなかに、一箸で底が見えてしまう東京の蕎麦屋とちがって、食べても食べても尽きそうにない「量」が、当たり前のように出てきます。

薩摩の旅館や居酒屋で焼酎を頼むとメニューの値段は東京と同じようなレベルなのですが、これまた「器」が違います。飲んでも、飲んでも、飲んでも、まだ残っています。

たとえば、自宅に招いて、あるいは招かれて蕎麦やお酒を楽しむ時、この「尽きない感」みたいなものこそが、もてなしの心だと思います。
一口ごとに追加オーダーの判断を迫られていたのでは、客はシラけてしまいます。

客が快適に食事ができた要素は、「味」よりも「量」がもたらす解放感だったわけです。

かといって、一日に限定数しか作れない職人製品を侮るわけではありません。
ただ、日本人の場合はそっちに傾倒しすぎている傾向があると思います。

量化することは、質の向上と同じくらい大事なことです。
芸術家のアトリエや、企業の研究所は、その中だけで回っている価値では何も残りません。

社会にさらされてナンボのものになるのだと思います。
社会に認知され、判断されるためには、「量」が必要です。

トヨタのプリウスも、ただ研究所で作られて、モーターショウで面白がられて、テーマパークの乗り物程度になっていたら、今のような車産業の変化はなかったわけです。

超スピードで市販化して、量産したことで普及しました。
多くのハイブリッド車が当たり前に道を走るようになりました。
完璧だと思っていた品質の欠陥も、それによって晒され、知ることが出来ました。

質を追求して、量を求めないのは、ある意味では作り手の臆病なのかもしれません。

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2010年02月17日

純粋に山崎

サントリー・山崎のCMです。

「何も足さない、何も引かない」

史上最高の広告コピーの一つだと思っているのですけれども、(失礼ながら)実力以上に商品の価値を良く見せることにかけて、この時期のサントリーは素晴らしいものでした。

並みよりちょっとよい商品を作っておいて、ものすごいイメージ戦略をかけ合わせれば、商品がその虚飾に耐えることができれば成功です。

もちろん、本当に良い商品を、ありのまま正確に紹介している、ということなのかもしれませんが、重要なのは商品、この場合「ウィスキー」がもたらしてくれる背景的やストーリーが大事になってきます。

大吟醸などの高級日本酒、ワイン、焼酎とブームになって、随分と普及しました。もちろん、ビールも健在で、発泡酒も含めればいまだに強い勢力です。
これにサワーだのカクテルだのも加えると、お酒の競争は半端ではありません。

しかし残念ながら、「水割り」を飲む機会は随分と減ってしまいました。
ウイスキーが美味しくないわけではなくて、たぶん流行っていなかったのだと思います。
酒場でウイスキーを飲むことが、スマートでもクールでもかっこよくもなく、「何ももたらさない」行為になってしまっていたのです。

このところ、「ハイボール」が元気です。
小雪さんの功績が非常に大きいのかもしれませんが、あんな飲みもの(重ねて失礼)に、少しばかりのロマンチックさと、ノスタルジックさが付随してきています。
すると、ハイボールで酔っぱらう、ことが、すこし意味を持つ行為になってきました。

ま、これで、本当に美味いウイスキーを、チェイサーを傍らに置いて、ストレートで味わうおしゃれ、あるいはロックグラスに氷の落ちる音と一緒に嗜む、そういうカッコよさが見直されてくれれば、山崎としてはうれしい限りです。

ちなみに女性は、ウイスキーで酔っぱらっているのが、一番色っぽい(そう)です。



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2010年02月16日

コミュニケーション力

今の子どもにはコミュニケーション力が欠けている、ということが前提のようにされてしまっています。
そして、最大の戦犯はゲーム器をはじめとした、電子機器類ということにされるのです。

しかしこれが結構怪しいと思うことがあります。
たしかに、今の子どもたちは『パーソナル』なゲーム器をもって遊んでいます。
各自、同じようなポータブルゲーム器をもって並んで、あまり会話をせずに遊んでいる風景、あるいは携帯電話いじり率がおそらく80%以上になっている電車の中の若者、PCを使った連絡や情報公開、i-pod,i-tuneそんな様を眺めていると、数十年前とは全く違う風景であることは間違いありません。

では、たとえば街頭テレビに群がっていた時代の人たちには、コミュニケーション力が養われていたのか、ということについても実は怪しいと思います。
もちろん、人と人の接触が多く、しがらみあって生活をしていたことは間違いありません。

ただ、人としてのコミュニケーション力、自分を表現し、他者を理解し受け入れ、問題を解決していたかというと、そういうわけではないのです。
社会の慣習や不便さに助けられて、押し切っていただけ、といことが多くあるように思います。

旧世代の人に、本当にコミュニケーション力が身についていたら、現代の子どもたちの姿を嘆きも悲しいもすることなく、異世代との対話をなんなくこなすことができるでしょう。

おじさんおばさんが、ゲーム器やIT社会にその責任を押し付けるのは、よくわからないから、把握していないからにすぎません。

映画がよくてゲームが駄目なのも変です。
どちらも同じような人たちが同じように才能を使って、シナリオを書き、音楽を作り、声や身体で演じて創作するソフトです。

読書がよくてゲームが駄目なのも変です。
どちらも一人で向き合って、想像力を働かせます。
ゲームはそのうえ、隣の友人と共有出来たりするわけです。

受け手の大人に、聞き取り能力が育っていないということのほうが、実は問題だったりします。

見事に空気が読めない人は、社会的地位のある人、といっても出世している人ではなくて、単に自分の話を弱者に押し付けて処理できてきた人のほうに多いのです。

頑固おやじが怒鳴っても、電子メールじゃ唯の文字ですから。



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2010年02月15日

制服を着る、ジャケットを着る

スノーボーダー・国母選手が、オリンピック代表のジャケットを「着崩して」いて、お咎めを受けて開会式は出席できないだのどうのという、これまたいろんな問題を内在している事例が出てきたもんです。

単純にいえば、「制服はちゃんと着ろ」という旧世代と、「自己表現できる」世代のよくある対立のようなもので、口うるさい親と生意気な息子の図式にまで落としてたとえることも出来るもので、そんなに珍しい問題ではありません。

ま、旧世代で口うるさいほうに、同学年同年齢の橋本聖子団長ちゃん先生がいるのが、個人的には複雑ですけれども・・。

制服というのは、悪い意味では没個性的なもので、集団の規模や構成人員の年齢や経歴の幅が広ければ広いほど、デザインは汎用的なものになってしまいがちです。
なので、その昔は恒例だった「森英恵デザイン」についても、そんな制約の中でh森英恵さん本来の仕事が出来ていた訳ではないので、評価するのが酷。
森さんの社会的な名声をお借りすれば、いろいろな文句は押さえつけられるわけで、それが実は森英恵デザインである大きなポイントだったのです。

そこで、今なら本来は、しっかりしたクリエイティブな若手デザイナーを抜擢して、選手がみんな着たがるような、世界の人たちが欲しがるような、そんな制服を作ればよかったわけです。レプリカを売ってもうけたいなら、そこまでやるべきなんですね。

それをもうフォーマル=ジャケットという旧世代の固定概念が前提となって、ジャケットならスーツ屋、スーツ屋ならタイアップしてくれそうな大手・・・となのかどうかわかりませんが、芸術性は放棄して、安易にありきたりのものを作ったとしか思えません。

オリンピックは、もともとは芸術の祭典でもあったのです。
開会式で、進歩も何にもない「ダサダサ」で統一するのは、愚の骨頂です。

さらに、制服のデザインには面白い特性があって、単体で格好いいものは向かないことと、どんなに極端な色やデザインでも成立する、ということです。
つまり、集団できることを前提に作れば、奇抜なものでも実用性がでてくるものなのです。

また、本来は制服には「機能的な特殊性」が求められます。スポーツウェアはもちろん、寒いところなら防寒対策、危険な現場なら安全対策と、これは専門性が求められて難しいのですが、今回はドームでの室内開会式。つまり、どんなんでもいいんです。

なので、ここは一発、日本がほこる現代クリエーターの出番だったのですが、そんな発想には、いまのオリンピック関係者のツラ見てたら、ならんだろうなあと思います。

そして、もっとも制服の価値が高まるのは、その集団にいることが許された者しか着ることができない、ということなのです。
オリンピック代表に選ばれなければ、その服は着ることができないわけです。
ナースやキャビンアテンダントさんの制服そのものに魅力があるのではなくて、その「職業の魅力」や「仕事の誇り」が付着しているから、憧れもするわけです。

就職活動のスーツや、入社数年の若者の見事なまでに着こなせていないスーツも、それらは没個性と集団への従属への誓いを表現しているにすぎません。
それによって、集団の一員でいることの安心感をもてるのかもしれませんし、周囲の人、上司、取引先なども、信用して仲間に加えてくれます。
つまり、不似合いなスーツは自分以外の集団への帰属を目指すことの表れにすぎません。

国母選手は、なんとかあの無策な赤ジャケットを着こなそうとしていました。
そもそも、ちゃんとスーツを着付けてもらったとして、ヘアースタイルや鼻ピアスでは、限界があります。どうせ、浮くか笑われ者です。

それを是として、オリンピック選手団のメンバーに加えても、誰が得をするのでしょうか。

国母選手のあれは、表現者であるスノーボーダーが、あの無策な制服を着るとしたら、という前提での『最高に工夫された着こなし例』だったのです。

そうされるのが嫌で、受け入れられないのなら、最初から『着崩しのできない仕様』に設計された、ガチンコのオリジナルデザインを作るべきだったのです。

ただし、生半可なデザイナーでは駄目です。
モーグルやスノーボードといった競技種目も増えた現在のオリンピックにおいて、それらにエントリーする選手たちの努力と世界的水準のレベルに相応しくなくてはなりません。
しかも、最も芸術性の高いであろうフィギュアスケートで、今や金メダリストを輩出した日本の、その芸術性を表現する、金メダルレベルのものでなければなりません。

それなら、国母選手に押し付けてもかまいません。
旧時代のままの、安直な魂の抜けたジャケットでは駄目です。


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2010年02月14日

列島改造

国境の長いトンネルを初めて抜けてみたときの感動は、なんとも劇的で印象に残っています。

雪をあまり見たことがない生い立ちでしたので、あの、いきなりの雪の支配にある世界の登場は、ほんとうにビックリしました。

分水嶺を越えて、日本列島の西と東、なのか北と南なのか知りませんが、ガラリと世界が変わってしまいます。とくに冬場は、天気もまるで逆になっていることが多いです。西高東低の気圧配置ですね。

まさに異国、トンネル自体も怖くなるくらい長いもので驚き、川端康成先生のフレーズに相乗して、忘れられない日本の風景の一つです。

当時は、高速道路も工事過程で、トンネルは片側一車線で、日によっては大渋滞。トンネルを抜ける長い時間が、その後の雪国の風景への移行をさらに感慨深いしてくれたものでした。
今は、ここに新幹線が通って、東京から1時間半もあればトンネル越えの体験が出来てしまいます。通勤だって可能な時間的な距離になりました。

ここに、トンネルを掘って。日本列島縦断(横断?)、目白から長岡までを最短距離でつなげるという発想と実行力は、やはり大したものです。
それによって、産業も人間の流れも、生活も、大きく変わることは間違いありません。変わることには、良化も悪化もありますが、とにかく現状を打破する突破力があります。

財政難で苦労した上杉鷹山の米沢藩も、交通の不便がとにかくの問題でした。
ことらも大変な厳しい雪国なのですが、「峠」の険しさが周辺の都市との往来も交流も邪魔してしまっていました。

いまでも、「峠」はかなり厳しい交通を強いられていますが、それでも新幹線も通っています。そして、その景色たるやまた、とくに冬場は荘厳的な美しさがあります。
米沢も、午後からでも日帰り圏内なのです。

バンクーバーでオリンピックが始まりますが、長野でオリンピックがあったのは、そんな昔のことではありません。
そのオリンピックの前と後では、長野市の環境は随分変わりました。
本当に便利になって、近くなって、立派な建物(ひとクラス上のホテル)が出来たことは間違いいありません。

しかし「近さ」「便利さ」は、志賀高原は長期宿泊するところでもなくなり、長野市は企業の支店を置かなくても対応できる処にしてしまいました。
こちらの「碓氷峠」も、簡単に越えられてしまいますので、そこで滞留する人の生んだ産業や文化は亡くなっていきます。名物弁当は残ってますけど。

それでも便利で快適は良いこと、それなりの新しい生活スタイルや文化が生まれれることを是とすべきだと思いますが、あの「国境の長いトンネルを抜けた」ときの感動は、薄れていくのかと思います。

その感情が体感できなくなると、小説を読んでも文字が軽く浮いてしまうのかと思えば、「改造前」を体験しておいたことは、情緒形成上はお得だった気がします。

今後は、「東京に近い」ことがすべての価値ではなくなると思いますが・・。


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2010年02月13日

就職氷河期

不況が続くと、就職戦線は大変です。
まじめな学生さんも、雇いたくても雇えない企業も大変です。

バブルの頃は、山瀬まみさんのCM「住友金属っ!」ってのがありましたが、あれも簡単にいえば「募集広告」みたいなもんでした。
とにかく人材、というか単純に人間集めに企業が大変な努力をしていた「売り手市場」の時期でした。

そんなころに就職できた人は、幸運かといえば、それはそうなのですが、半分はそうではないわけです。結局実力が伴っていないと、最初から就職できていないのと同じこと。
いったん就職すれば、定年まで安泰な時代ではもう、なくなってしまったのです。

そんな時代なので、今や学生さんは本気で勉強して成績を上げています。
就職浪人するわけにもいかないからか、大学院への進学率も、すごく高いです。

そんな中で厳選された人材が入社してくると、「住友金属っ!」世代の幸運な就職者は、なかなか立場が無くなってきます。

また、女性の社会進出が当たり前になった今も、まだまだ女性の就業条件は向上しきっていません。簡単にいうと、給料が安いです。
しかし給料は安くても、今や女性は高学歴はさておいても、スキルが高いです。
お茶くみっとコピーだけお願いしていたから、男性側にも仕事が回ってきたのですが、ほとんどの仕事やスキルは男女は問わなくなってきましたので、出来るだけ女性に委託すれば、男性社員は「作業」すらなくなってくるのです。

年代的なものもあります。
僕らの頃は、一つでも外国語が出来て、パソコンに精通していれば、それは立派なスキルとなっていましたが、今やそんなのは、出来て当たり前。
留学経験くらいあれば、「国際人」でしたが、いまや学位くらい取ってこないと意味をなしません。(取っててもあまりなしません)

就職するということについては、自分の相対的な価値の低下を思い知らされているのが、現社会人の現実です。
IT革命がもたらした情報の早さ、広さ、正確さも、それまでに蓄積してきた仕事の経験や情報の価値を、一気に下げてくれたようなものです。

では、自営業者いいのかというと、これは業務まるごと流されてしまうおそれがあります。事業や看板を受け継ぐというのは、中小零細のほうがもっと大変です。

そんな中でも、生き抜いて行けるくらいの実力をもった人がいて、そういう人は複数の企業から選択され、こんな就職氷河期の買い手市場のなかでも、『引く手数多』だったりします。

では、そういう『スター人材』が、どういう職業を選ぶのか、ということが気になります。

それでも安定を求めて公務員を選ぶのか、よさそうな民間企業に身を預けるのか、ベンチャーで起業するのか、さまざまでしょう。なにをやっても成功されるとして、それはそれで結構なことですが、我々としては、せっかくなら、『日本で一番優秀な人材』は、日本のために働いてもらって、我々にすこし才能の利益を還元してもらいたいものです。

いちばん、わかりやすのが、政治家であったり官僚であったりするわけですが、
『スター人材』にとってそれらが魅力的かどうか・・・。
これだけ世間からの視線が厳しくなると、ちょっと敬遠したくなると思います。

独裁者といわれる小沢一郎さんにしても、これだけ批判されるわけです。
もともと大金持ちの鳩山兄弟は、政治家やったために家の資産を放出してしまいました。
地元の名士でもあり、人気ものの麻生太郎さんは、屈辱的なレッテルを貼られました。

政治家は、儲かりもしなければ尊敬もされない職業になってしまいました。
これ自体が、国家の損失だと思います。
これじゃ、優秀な人が政治家を志しはしなくなってしまいます。

政治家を志す人は多くいると思います。しかし、日本一優秀な人が政治家を目指さなくなれば、その中から出てくるリーダーは当然レベルが疑わしくなります。

今の、地方も含めてですが、報酬が目当てで、「こんなにもらえる」とか「こんな待遇された」とか喜ぶような人が、たくさん議員になってもそりゃかまいませんが、トップを目指す人材は、オバマさんに負けないくらいの、『頭の良さ』と『バイタリティ』を兼ね備えた人であってほしいと思います。

就職難でどこも雇ってくれない、他に出来る仕事もない、だから政治家をやっている人ばかりだと、さらに就職氷河期が続いてしまいます。


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2010年02月12日

メディアの読み方

まずは『リテラシー』なんてもっともらしいネーミングは使わないことにしました。

カタカナにすると、あるいは翻訳をすると、どこかで概念が変わってしまっていたり、あるいは誤魔化しになったりするものですから。

『マニフェスト』というのも、僕らが最初に接したのは、産業廃棄物の処理についてのときで、その伝票綴りのような管理票のことをマニフェストって言いました。なので、マニフェストっていうのは、そういうものの類だと思っていたのですが、昨今では『政権公約集』のシャレた言い方、みたいな感じで使われています。

たぶん、進捗管理のほうに重きを置いているところに、従来の「守らなくたっていいんです」と、明言された『公約』との違いがあるのでしょう。
公約でもマニフェストでも、実現できたかどうか以上に、その経過を検証すること自体に、価値があるのだと思います。なので、『公約通信簿』とかなんとか、適切(かどうかは知らんけど)な日本語にしたほうがいいかもしれません。

また少し違いますが、このところ定着した『説明責任』という言葉も、逆の意味でおかしな感じがします。
もともとは、アカウンタビリティの訳だと思いますが、これが世間に浸透してきた今、どうも『説明する責任』をそのまま四字熟語にしたような使われ方をしています。
もちろん、大きい意味では間違はありませんが、原始以来の人間生活においての相手に対する『説明する責任』と、資金の出資者に対する『アカウンタビリティー』とはちょっと違うはずだと思います。

そこで、メディア・リテラシーならぬ、メディアの読み方という件です。
メディアは媒体ですから、媒体者の発信をどうとらえるかということです。

伝言ゲームをやると、単語だけならともかく、ストーリーをお題にしたときは、数人を経るとかならずかなり曲がって伝わります。
メッセンジャーボーイがインテリなら、そこでどうしても自分の意見や解釈が加わりますし、場を盛り上げるエンターテナーが伝えると、いろいろ脚色して面白おかしく伝えます。

問題は、それをどう真に受けるかという、受けての側の技術にあります。
「AさんがBさんと不倫して会社のお金を5000万持って逃げた」
と騒がれても、伝える人の人格から判断すれば、「不倫は面白くするための推測だろう」とか、「裏にはもっと重大な事実が隠れている」という判断もできます。
また、実際に知識があれば、「いまどき現金5000万も置いている訳がない」とか、クロスメディアで他の情報を知っていれば、「Aさんは海外出張に行っているだけだ」という答えも導けます。

実際、物事なんてどうにでも伝えることが出来ます。
メディアが伝えるものには、「事実」と「解釈」が含まれています。
この「解釈」は、本来「解説」または「解釈の一例」のはずが、どんどん親切とわかりやすさを装って、『余計な意図』を伝えるようになってきました。
なので、それを除去する能力が必要になってきます。

何に必要になってくるかといえば、だまされないためにです。
なので、人の言うことは斜めから聞いて、事実だけを抽出して、自分のフィルターに欠ける癖をつけるようにする。そうすると、、、

・・・確実に嫌われます。


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2010年02月11日

ルールを運用する

『オフサイド・トラップ』はサッカーの守備戦術になっています。
いまでは、ちょっと本格的に練習している小学生でもやっていますが、一応は高等戦術です。

しかし、もともとはFWの『まちぶせ』を卑怯なこととして取り締まるための、攻撃側の反則なわけです。これを、反則をとらせる罠を仕掛ける、という戦術に転用しているのですから、そのほうが悪質といえば悪質じゃないのかと思います。

この例はともかく、もともと決められたルールの背景と、それに沿った運用がなされているかどうかというのは、大変重要なことだと思います。

社会のルールである国の法律については、まさにそうあるべきだと思いますが、社会以上の変化の激しい昨今、なかなかルールを作るのも改正するのも追いつきません。

なので、既存のルールを上手に適用しようということになるのですが、ルールを曲げて解釈して、都合に合わせて使われたのでは、危険です。
それを『高等戦術』のように解説する専門家も、疑ってかかる必要があります。

そして、それに慣れてしまっていることも確認する必要があります。

野球の『フォアボール』は、(掛布式にいうとホアボールですけど・・)打てる範囲の投球(ストライク)が入らないピッチャーに対する罰なのに、敬遠のフォアボールなんてこともあって、損得勘定で罰を受け入れて、逆に利用することも出来るわけです。

≪禁煙・罰金10000円≫という場所で、我慢できなかったら「10000円払って吸います」というようものです。
それ自体、悪いこととも言い切れません。

問題は、『問題の解決法を明文化することの限界』にあるのだと思います。
物事に対して、細かくルールを規定することは、とても追いつきません。

そして、ルールを規定していない以上、取り締まることもできません。
また、道徳とか倫理とかに任せて考えればよいかというと、具体的な価値観の対立に対処しきれません。

ルールは運用の仕方にこそロマンがあるのだと思います。

殊に、文化に関することは、ルール化することがとても難しいものです。
街の景観を守ろうとして、京都見たいに建物の高さ制限をしたりして頑張っても、あの世界最悪のミスマッチな景観になってしまうのがオチです。

有楽町が秋葉原だかなんだかわからない場所になってしまっても、吊るしスーツの量販店が出店しても、消費者金融のネオンが点滅しても、個別にはどうすることもできません。

賛否両論があることは、道徳や倫理では対処できませんし、ルール化しても骨抜きにされてしまいます。
だからといって、その範囲でなにしてもいいかというと、それでは品格のある社会になりません。

有楽町に、ヤマダ電機はいりません。
秋葉原に、おしゃれなビルもいりませんけど。



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2010年02月10日

コメンテーター

テレビ朝日系『朝まで生テレビ』は、気がつけば23年の長寿番組なわけで、昭和の時代からやっているのです。

テレビ付けっ放しで就寝したい人種にとって、深夜番組であっても丑三つ時には放送を終了して、砂嵐になってしまう時代には、とっても有難い深夜の余興でした。

レンタル・ビデオ借りても、映画一本2時間で終わってしまいますから、朝まで騒いでくれる番組は、それだけで価値ありました。

この番組の一番の功績は、「コメンテーターの意見を真に受けない習慣」を、視聴者が身に付けたことだと思います。

だいたい、多くの報道番組の形としては、アナウンサーまたはキャスターがニュースを読む、それを受けて、どこかの教授だのが専門家として解説のコメントをする、というものでした。
すると、この専門家の「解説」は、絶対的なもんだ思いこまされてしまいますが、実際はかなり怪しいものだったりします。

それもそのはずで、ニュースが起きて、コメンテーターを探して緊急にコメントをとるわけですから、コメンテーターも大変です。しっかり調べる時間もなければ、概況から説明する余裕もありません。

なので、本当に実態に精通している適切な人が、専門家として登場していないケースもあれば、立場が偏っていることもあります。

そこで、『朝まで生テレビ』では、その専門家であり、当事者であり、が互いにコメンテーターとして議論します。
それまでは、オーソリティーとして解説をしていた先生が、真っ向から反論を浴びせられてしまいます。

その様を見て、「ああ、テレビの解説者の意見は、ワン・オブ・ゼムなんだな」と、絶対視してはいけないのだと悟りました。
メディアの権威を疑うことを覚え始めたのだと思います。

しかし、そうしてくると、今度はとてもアメリカ的な、「ディベート力」が重要になってきます。 議論の中身よりも、やり方の技術が重要視されてきます。

そして、コメンテータに求められる資質も、そういった「ディベート力」であり、「弁の立たたせ方」になってきました。
ルックスがそれに含まれることも否定しません。

いま、メディアに登場してくる解説者とか、コメンテーターは、「ディベート力」の高い人が中心になってはきています。
受け手にちゃんと意見をわかりやすく伝える、という意味では素晴らしいことなのですが、そればっかりでいいのか、という気がします。

あの、短い時間内に、見事に話をまとめて、しかも空気を読んだ受け答えができるとなると、これはもう相当なタレント(才能)です。
それが必要とされるようになったので、知識人よりもタレントや芸人さんたちがコメンテーターとして使われるケースが多くなってきました。

専門分野の詳しい立場からのコメントが必要な時に、演出的に見事に収まったヒステリックな反応は必要ありませんし、浮世離れしているタレントさんに、視聴者や市民の代表として語ってほしいとも思えません。

それよりも問題なのは、本当の専門家であるべき記者や編集者といったジャーナリストや、学者のもったいぶったコメントが、ほとんど酒場でサラリーマンみなさんが語っている内容と変わらないことです。
「その程度の事をもったいぶって言うな」というものが多いです。

コメンテーターは、メディアの演出的な意図をしっかり汲んでくれる便利な人が重宝されるのでしょう、そして「伝えるわかりやすさ」という点ではそれも重要なのですが、そんなことよりも、一般人が知らないことを、「専門家ならでは」んことをどれだけ伝えてくれるかだと思います。

テレビや新聞に向かって、「そんなことはねえーだろ」とか「それはわかっているよ」とか、巷でツッコまれるようでは価値ありません。

ま、僕にとっては、あんなに短くコメントをまとめる能力は、うらやましい限りですけど・・。



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2010年02月09日

窓際と瀬戸際

「忙しい」が口癖になると、イッチョ前な気がするのが社会人です。

これが引退すると、「いやぁヒマですから」と言えるのがステータスになるのかもしれませんが、とりあえず嘘でも「忙しい」と見栄張ってみたり、「お忙しいところ」というのを相手に対する敬意を表す表現として使うあたり、「忙しい=仕事ある=美徳」というのが定着しているのだと思います。

ちなみに、「いやぁ、貧乏ヒマなしで・・」というのは、謙譲的表現なのか、自慢なのか、それがちょっと微妙ですけど。

ところが、この「忙しい」というのも、実は本当に忙しいのかどうなのか、それぞれ検証してみる必要があると思います。

たった一日のことですけれども、先週末のある日、僕はとっても「忙しい」状態のはずだったのです。
スケジュールが重複して、時間を調節しながら移動時間も有効に使って、それでも無理なお誘いはお断りしたり、他の日に振り替えていただたいたり、と気合いの入る一日でした・・・予定では。

というのも、この天候のせいか、日常の行動が悪いからか、体調を少し崩してしまいまして、大事をとって休養することになりました。
すると、あれだけたくさん入っていたはずの「用事」のプライオリティが、一つずつ下がっていって、結局「ごめんなさい」と誤って、全部を再調整することになりました。

すると、何が困ったか、誰に迷惑をかけたか、というと、実は誰にもそう大して影響がなかったんですね。

大変な思いしてやるはずの仕事が、特に社会からは必要とされていないんだなあと思うと、気は楽になるのですけど、ちょっと虚しいです。

社会的に立場の高い人なら、一日休んだだけで社会が大変なことになるだろうと思います。大臣や社長さんでなくても、小さな商店の店主さんなんかも、同じです。

社会の端役でも「あんたがいなければ、どうにも始まらない」という必要にされ具合って、うれしいことです。
逆に、立派な肩書で「忙しい」と言いふらしえていても、実は不要役だったりします。

立派な役職の人ほど、実際は代替えがいくらでもきく仕事だったりします。
本当に必要とされている忙しい人って、実は少ないのだと思います。





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2010年02月08日

自殺衝動に届くメッセージ

寒いです。

自殺者の統計を見ていると、因果関係はよくわかりませんが、都道府県別でも寒い地方の方が多く、なぜか秋田県がトップ。国別にみても一位はロシアだったりして、逆に少ないほうには温暖な地域が多い傾向もみることが出来ます。

なので、もしかすると寒さとか、日照時間とかは、人の生きる「気持ち」に影響を与えるのかも・・・なんて、安易に考えるべきではありません。

そもそも、自殺なのかどうなのかも推測ですし、国によって判断も違えば統計の取り方や発表も微妙に違うでしょう。
ましてや、その原因なんて、もっともらしく公開していますが、本人に聞いたわけでもないので正確なところはわかりません。

それでも、統計の恐ろしいところは、ほとんど毎年同じように推移していて、そこからいろいろな傾向が読み取れてしまうことです。

理屈からしてみれば、自殺者も交通事故死亡者も、突然「ゼロ」になっても良いはずです。しかし、なぜか毎年同じような数字が上がってきてしまいます。

交通事故死者のほうは、それを見事に削減しました。
そもそも車社会の在り方にも問題はあると思いますが、それでも無理矢理にでも厳罰化して、「飲酒運転」や「シートベルト」を徹底して取り締まったことなどで、一定の効果が表れました。
もちろん、交通事故の場合は、因果関係がかなり明確になっていたので、そこに対策を施すことはやりやすかったのは間違いありませんが。

これに対して、自殺者は1998年頃に激増したまま高く安定してしまっています。25,000人前後から33,000人前後になったままです。この、自殺の防止はどうなんだろうと思います。

大きくいえば、この増加は経済との関係が深いのは間違いありません。
そして「基礎数」部分の、さまざまな現代社会の問題も解決していません。
寒さが影響するとしても、地球温暖化では対策になりません。

「それでいいのだ」と公共広告機構に言われても、本当に33,000人の人の救いになっているのかどうか・・・。

生きる「気持ち」の問題なのか、生きるための「現物」も問題なのか、それも不確かなのに、気持ちの問題にし過ぎている傾向があるように思います。
最終的に自殺のスイッチを押すことは、「気持ち」の問題で処理できるのかもしれませんが、本当の問題はそこに至る根本原因だと思います。
そこに、どういう対策が取れるかだと思います。

気持ちの問題だという扱いだけにしないことだと思います。

子どもも大人も男性も女性も、犯されたくない尊厳の問題。死んだほうがまし、あるいは得、な状況がそうさせるのだと思います。

これは現実的、物質的な問題です。

そこに届く対策が必要だと思います。

気候は寒くても雨が続いても、それだけで死にたくはならないでしょうから。





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2010年02月07日

公共事業と賄賂

賄賂と書いて「まいない」と読むのが大和言葉です。

これを「わいろ」と読み出した昨今(といっても随分前からですが)、それぞれの私利私欲のための「不正なお金」と定義されだしてからは、国家にたいする造反として、今では刑法の罪にまで問われる行為となっています。

しかし、国家公共が相手出なければ、これは罪にはならないわけで、当然ですが日常生活での「付け届け」やお歳暮もお中元、接待「ご祝儀」その他は「お付き合い」として社会に定着しています。

むしろ、人間関係を円滑にするものとして当然のものになっています。相手が公務員だと「犯罪」で、民間人だと「好意」になるというのも、道徳的にはどっちやねん、という気がします。ま、内容によるということでしょうけど・・・。


「まいない」だった頃を考えてみます。
公共工事、たとえば「どこかの川に橋を架ける」ことをしたいと思っても、資材も技師も職人も限りがあって、一年に一本しか工事が出来ないとします。
それに対して、橋を必要としている場所は全国にたくさんあって、それぞれ各地の領主は、「わが処こそ、一刻も早く橋が必要だ」と訴えます。

ある領主は、交通の重要地点であることを主張し、ある領主は利用人口の多さを主張し、ある領主は災害対策として、またある領主は伝統ある地域の美観維持のためと・・。

すると、為政者はこの優先順位を判断することは難しくなります。
それでは、どれくらい緊急に必要なのかを、「公正に」測定するために、各領主の熱意の数値化を試みます。

「この橋のために、いくら上納できるか?」と問います。

そして、一番金額の多いところから工事を優先するわけです。
つまり「オークション」ですね。

その上納金は、工事にも使えるし、余ったら他の事業にも使えます。不正どころか、公正なアイデアだったのです。

ところが、これだと貧乏な地域の領主は困ります。どんなに絞っても出せるお金がないと、いつまでたっても公共事業は施してもらえません。

さらに、為政者や官吏にも、だんだん私利私欲が入ってきて、「利権」が発生するようになってくると、もうどうにもなりません。
それも人間の弱さを考えれば、当然の堕落なのですけれども、そのうちだんだんと「公正」目的の行為が、そのまま「不正」な行為となっていくわけです。

賄賂は、熱心さのバロメーターだったと思えば、そんなに忌み嫌うものでもありません。

問題は、もらった賄賂の行き先ですね。



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2010年02月06日

サイレント・ビューティー

「お相撲さん」はその昔、寡黙なのが特徴(といっても人前では…なんでしょけど)で、だいたい聞きとれない壊れた声と、何言っても「ごっちゃんです」または、謙虚すぎるコメントしか出てこなかったわけです。

比較的よくしゃべる高見山や、話言葉で普通に答える二代目朝潮なんかは、その点で人気があったわけですよね。
ま、高見山のはハスキー過ぎて聞き取りにくかったですけど・・・。

お相撲さんだけに限ったことではないのですが、最近のスポーツ選手は、よくしゃべります。話も一般的には上手になったのは間違いありません。
王選手でさえ、現役時代はかなりガチガチでしたし、昔「話が上手で面白い」と言われて、引退後に重宝されたスポーツ選手も、今ならなんてことありません。

今は、だれでもみんな薄っぺらい喋りは達者です。これも、お笑いとバラエティ番組の影響なのかとも思いますが・・。

さておき、相撲の世界は変な世界で、引退した後の親方だの理事だのという協会役員のほうが、現役の力士や、神様の横綱よりもエライということになっています。
旧態依然といえばその通りですが、上手く出来た生涯雇用に都合のよいシステムだと思います。

そして元・高見山、元・朝潮、元・朝青龍はよくしゃべります。よくしゃべると周りは助かるし喜びます。
元・三重の海や北の湖は、ついでに小沢一郎さんも、しゃべらなければいけない立場でも、出来るだけ沈黙します。

そのほうが、本当は賢くて日本的な美徳でもあったのだと思います。
さらには、言質をとられたり、失言したり、災いの元になってしまいかねないので、渋く黙っているほうがよかったのです。

しかし、それではバラエティ慣れした近代メディアは不都合。具合が悪いのです。なので、よくしゃべる人のほうが重宝され、持ち上げられた上に奈落に落とされます。

ビデオ記録の時代ですから、一度発射した「発言」は、何度でも都合良く繰り返し使われてしまいます。
レンホーさんの「一番じゃなきゃダメですか?」みたいに、そこだけ切り取られて、なんども繰り返され強調されたりもします。

なので、悪用を避けるためには、「出ない、しゃべらない」のが一番です。

それでは面白くないのですけど、発言の軽さが許されない立場の人は、「説明責任」よりも、「下手に喋らない技術」が求められます。

そうしないと、発言に重みが出てきません。

ま、もっともいいのは、責任ある立場の人が、たくさん喋って、たくさん意義もあってくれることなんですけど・・。

日米の首脳、オバマさんとハトヤマさんの決定的な違いはここだと思います。


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2010年02月05日

不通販生活

ネットも普及して、ますます買い物が便利になったことは間違いはありません。

書店よりもアマゾン、ヤマダ電機よりもジャパネット、中村文具店(どこや!)よりもアスクルのほうを、結局利用しているような気がします。

まだ、ジャパネットは利用したことはありませんけど、商品説明だけはしっかりと伺って、購入の参考にさせていただいています。

比較的都会に住んでいる人も、若くて元気な人も、時間に余裕のある学生さんも、真剣勝負の企業も、今後とも通信販売の利用が増えていくのではないかと思います。

それは、結局のところ、既存の販売店が、いつのまにか陥ってしまった「不親切」に付け込んでいるのではないでしょうか。
お店に足を運ぶ以上のサービスや成果が、品ぞろえにしても、値段にしても、商品説明にしても、価格にしても、通販のほうが得られることで、いつの間にか通販の「不確性」という欠点を補ってしまったのだと思います。

非対面の欠点を補うために努力してきた通販は、客として気になっている店を、速やかに積極的に解決してくれて、提案までしてくれるのです。
なので、中村文具店(どこや!)の無愛想なオバサンの対応よりも、アスクルのほうがよほど快適な人間関係が気付けた気にもなります。

しかし、「足を運ぶ」ことの無駄さに、そもそもの価値があることがあるのです。
山形の山寺に、銘菓「円仁さん」というのがあります。
お餅です。美味しいです。
美味しいのですけど、生ものなので賞味期限が1日だけです。

なので、お土産として持ち帰るには、帰京日に買うしかありません。
そこで、山形空港の飛行機を一便送らせて、山寺にしか売っていない(はず)のものですから、買いに行きました。
そして、山形空港から東京行きの飛行機(今はたぶん廃止路線)に乗ろうとしたら、・・・売店で売ってました・・・。

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これ、山寺まで買いに行くことに、美味しい以上の価値があったんですけど・・・。

別件で、千葉の佐原に、ビートルズを聴かせながら作ったカステラがあります。
これも珍しいところで、話題としては十分、よいお土産ものだったのですけれども、近所の物産店で山盛売っていました。

近所で買えたら、ただの高いカステラです。
江戸情緒、異国情緒ある佐原まで行ったという旅気分が商品価値になってるんじゃないですか、ねえ。

「親切すぎて興ざめ」の例でした。

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2010年02月04日

西南西を向け

江戸時代には、クリスマスセールなんてものはなかったわけです。
当然、クリスマスケーキも予約しなくてもよかったのです。

その後、バレンタインデーはあったにしても、商人が根性を出さなければ、チョコレートを売る日にもならなかったし、ホワイトデーなんてわけのわからない日もできなかったわけです。

今や、バレンタインデーにチョコレート、ってのが、全く関係のない外国にまで普及し始めているそうです。
なんでも商売に結び付けるという、「流通の商魂」は見事なもので、それによって文化が出来たり、広まったりするわけです。


今年は「恵方巻き」の予約承ります的な広告が、1月中から各所で掲示されていました。 
節分は、「豆まき」の日で、巻き寿司をイッキ食べするのは、一部関西の風習だったのですが、いつの間にか全国区になってしまいました。
この仕掛け人は、やっぱり「流通の商魂」だったのです。

今年の恵方は、「西南西」だそうで、一応西南西を向いておきましたが、これってその方角って、起点はどこでもよいのか?、と整合性に問題を感じてしまいました。

北極点と南極点にいる人は、どっちを向いたらいいのでしょうか・・。





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2010年02月03日

さくらんぼ

子供より親が大事、と思いたい。(by太宰)

横浜の小学校で、児童の校内暴力など大変で、その対策云々に専門教師を充て云々・・・という記事がありました。

さすがに中高生になれば、体力的にもスゴイ奴が出てくるのですけど、小学生なら喧嘩しても負けねえぞ、という威嚇が出来たのもの過去のことみたいです。

下手すると「虐待じゃない。正当防衛だ」という暴力父母が出てきても御あしくありません。

それに、腕力云々という以前に、子供はお子「様」ですから、いわゆるリトル・ナポレオン。だれも叱ることさえ許されません。

むしろ、叱った殊勝な大人のほうが、周りから叱られるのですから、もうナポレオンは増長してしまいます。

しかし、大人が怯えちゃいけません。
虚勢を張って威張っても脅しても、だぶん効果は長続きしません。

親は、大人は、もっと自分らしく自分勝手にすればいいのではないかと、そういうことなのかもしれません。

大人が滅私奉公して、立派な大人をやろうとしすぎているのかもしれません。

立派なサクランボをもらったら、「子どもたちに食わせたら喜ぶだろう」とか思わずに、美味しそうなら自分で食っちゃっえばいいんです。
誰かが、子どもに美味しそうなサクランボを届けてくれたら、自分で食っちゃえばいいんです。

この親、この大人、自分勝手な極道につき、何するかわかんないぞ。と子どもに思わせることが大事です。

そしたら、自力でしっかりすると思います。処世術を身につkて、早くこんな大人たちから解放されたい、と考えるはずです。

子どもに、親や大人は、いつも自分たちを中心に考えてくれる、なんて思わせないことです。




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2010年02月02日

悔いは肥やしになるか

20年も生きてきたのに涙の止め方も知らない、と嘆いていた薬師丸さんも今や40年とsomething生きていらっしゃるわけです。
その薬師丸さんと同学年の40somethingな私ですけれども、いつもいつも反省と後悔ばかりです。

終わったことを検証して凹んで反省していると、とっても後向きな奴だと我ながら思うこともあるのですけれども、選択した路はどれが正しかったのか、ちゃんと検証して以後の人生の教訓として活用したいと思うのです。

過ぎたこと、やっちまったことは、さっさと忘れるか受け入れるのが正解なのかもしれませんが、実力以上のことは出来ないにしても、実力の範囲ではベストを
出せないと、悔いが残ります。

この数日も、全力を尽くしていれば避けられた、あるいはもっと良い結果を示すことが出来たということが、検証されてしまって、さらに凹みました。

でも大抵の場合、人間(というかワタクシ)は、「同じ失敗を繰り返す」わけです。40something年も・・・。

つまり、どんなに緻密に計画して、繊細に神経を働かせても、自分の作業は結局どこかに欠陥が出来てしまうものだ、そういうものだ、ということをそろそろ自覚して、失敗や反省は早めに埋め立て処分してしまうのが正解なのかもしれません。

理想の7〜80%くらいが出せていれば、それでよし。

出たものが実力、…か。

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2010年02月01日

脱帽

室内は脱帽が原則。

と、わかってはいても最近は帽子をそのまま着用させていただいたいることが多くなってしまいました。

この寒い時期はもちろん、去年のように、急に短髪にしたときとか、風邪でも引いたら大変ですから、頭が温かいのは助かります。

しかし、帽子を被ると誰しも確実に「御髪(ogushi)」は乱れます。
また、寝ぐせも含めてボロボロの御髪でも、帽子を被れば長髪不要、なのでとにかく便利なので、外出するときは着帽するような習慣になってしまいました。

世間でも最近は、若者文化の逆流なのか、室内での帽子着用が珍しくなくなりました。

しかしやっぱり、室内は脱帽するのが基本です。
室内着帽は、あくまで例外。医療目的か相当な主張あるファッションに限りましょう。

先日、初詣の神社の祈祷中も着帽のままの人が居て、神主さんから「神様の前ですから」とたしなめられていました。
それに対しては、子どもが「自分も被ってるじゃん」と突っ込み返していましたが・・・(烏帽子です!)

着帽の根拠を考えれば、室内は屋根があるわけですから脱帽が基本ということになりますが、脱帽の根拠を「敬意」において考えたら、帽子利用のTPOについて再確認が必要かと思います。

諸先輩に昔からよく伝えられることですが、劇場も原則脱帽です。
もちろんスタイルにもよりますが、伝統的な劇場は「そういう場所」として敬意を表さねばなりません。ただの屋内ということだけではありません。

去年伺ったフィリピンでは、小劇場でも、上演前に客席全員で起立して国歌斉唱していました。日本でもスポーツイベントなどでは、屋外でも起立国歌斉唱しますけど、そんな感覚なんでしょうか。

ま、そういう場所に限らず、最近は「楽」をしないようになるべく脱帽するようにしているのですけれども、すると

「髪の毛、あったんですね・・・」

という類のリアクションが多くて驚きました。
しっかりありますよ。ズラに見えても天然。


ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)