2010年03月

2010年03月31日

プロの女

先日、キャバ嬢さんたちの団体が、職場でのセクハラ、パワハラに抗議するデモをしたとかどうとかというニュースがありました。

いまや、女子あこがれの職業でもあるらしいキャバ嬢さんについては、詳しい職能は存じ上げないのですけれども、いわゆる伝統的なホステスさんなど、夜の街で働く女性たちは、ただ美人なだけでは不足で、その包容力、聞き上手、気回し、頭の良さ、クレバーさ、体力・・・エトセトラエトセトラが求められるスーパーレディなわけです。

よくよく考えれば、世の男性が夜の街に通いつめ、高いお酒を飲む目的は、何がしたいのかといえば、「パワハラ」と「セクハラ」を堂々とやっることなのです。
で、それを美女に上手に受け止めてもらえうこと、に価値があるのだと思います。

職場でやったら、猥談はもちろん、性的なシモネタやからかいも、肩に手を触れるだけでも「ハラスメント」ですから・・。
馬鹿みたいですけど、そのハラスメント欲求を満たすことに、高いお金を払うんですね。

ところが、そのプロの女性たちも、お店は彼女たちの職場なわけで、そこでパワハラやセクハラを受けることは、容赦できないというわけです。

くれぐれも、プロにはちゃんとお金を払って仕事をしてもらわないといけませんよ。


ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月30日

コレドコダ?

東京の日本橋というところが、どうも昔から馴染めないのです。

逆に、馴染めるのは銀座。なぜか、昔から親しんでいたような温かさがあります。

近くだし、同じようにデパートがあったりもするのですけれども、どうも日本橋はその金融臭がいやなのかもしれません。
いや、たぶん明治屋にしても、丸善にしても、千疋屋にしても、店舗の敷居の高さやステイタスが問題なのではなくて、あの無味乾燥したコンクリートの街並みに、それらの店舗が収納されているのが、いかんのだと思います。

スタバとかタリーズも、立ち食いソバやさんもあったりするのですけど、どうもビルの中に引っ込んで、看板さえ通りに出ていないような、そんな冷たい整列感が、どうも外国にいるような心細い気持にさせるのかもしれません。

青山の紀伊国屋も、なんだか久しぶりに通りがかったら、ものすごい派手なビルに建て替わられていましたが、この日本橋にあった東急百貨店の跡地には、これまた立派な「コレド」という施設ができていました。

まあ、立派なんですけどね。

話変わって、中国の人が自国を「発展途上国だ」と都合によく名乗ることがありますが、中国の思う「発展」ってどうあるべきなんだろうと思います。

なんとなく、上海のような形を完成形として、これを世界に誇っても仕方なんじゃないのか、むしろかなり古臭い発展なんじゃないかと思うのです。あの高層ビル群というのは。

背の高いビルがたくさん並んでいる姿、ってのを、むしろ「古臭くて格好悪い」おのだと思わせるような「発展」があるのではないかと思うのです。
自然と調和したやさしい街並みで、かつ堅牢度がかたく防災にもライフラインも整っている近代都市。

そのほうがよっぽどいいです。
中国って、それができる歴史と環境があると思うのですけど、頭の中がまだロケットを飛ばしてオリンピックで派手な演出をして、という発想なのが、発想の古さを感じさせてしまいます。

今更、30年前の先進例を追いかけて、「途上だ」と言わないで、もっと現代的な価値観を発見してもらいたいもんです。

で、「コレド日本橋」みたいなものを、笑い飛ばしてやればいいのです。
平屋で木造の「白木屋」にすればよかったんだ、と。



ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月29日

回転すし的な満足と不満

高級料理なのに、格安で気軽に食べられると、とりあえずは嬉しいものです。

寿司屋はネタそのものはもちろん、「時価」も「カウンター」回転すしのおかげで身近になった気がします。

コストの裏では、どんなことが起きているのか、それを考えるとちょっと恐ろしくもなるのですけれども、とりあえずは嬉しいものです。

ところが、その次の段階として、じゃあ「本物のトロを」となって、頑張って頑張って、本格的なお寿司屋さんに行ったとしましょう。

その場合、値段は高いわけです。
そして当然、美味しいわけです。

すると、いつもの回転すしが、「安くていいな」とおもう反面、「安いのはいいけど、おいしくもない」という不満が生じて来ます。

寿司に限らず、なんでもそうなんだと思います。
回転すしの値段で、本格的な味とサービスは期待してはいけないので、とりあえず「まあ寿司だ、その割には寿司だ」で満足しないとけないんですね。
ある意味、マナーみたいなもの。

それ以上を期待するなら、昔のようにスペシャルな存在として、スペシャルな日の食事として考えないといけません。当然、おサイフにも根性が必要です。

たぶん、行政に対してもそうなんじゃないかと思います。

ted803 at 05:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月28日

我こそは公共の見世物

1447393527_209座・高円寺≪飛ぶ劇場≫初日
昔ながらの言い方なら、一年の成果発表、ってところです。

学校じゃない、自由奔放があって、知らない人種の大人がいる場所。
「公共劇場」に集まってくれている、こどもたちが受け取るもんはなんだろうと思います。

ここに来ればなにがある?って、遊び場と、遊び相手と、自分発見。

ハイテクや古いアイデアを駆使して、 大人が準備して与えた「おもちゃ」じゃなくて、時空間まるごと「遊び場」、すなわち創造の場所になるのだと思います。

そこにいる大人の立ち位置は、「共同作業者」なわけで、指導者ではないわけです。
なので、生まれる作品は、こどもも、大人も、女のこも、男の子も、おじさんも、お父さんも、おかあさんも、おねえさんも、市長さんもゴチャマゼにして、チャンプルーなわけで、予想通りにきれいにまとまったらxxx

とにかく、今日も「おいしそうな出来損ない」ぶりが、我ながら愉快でした。
かなり疲れましたけど・・。

初日は、いつもながら超ド元気な男の子たちに付き合っていたら、女の子たちからは総スカンでした。 スマン!(笑)

学校なら、我慢してでも参加するし、みんな気を使ってくれたりもするのですけど、ここは「おもちゃ」。つまらなきゃ、不参加も拒否ももちろんありです。
「やらされている」なんて子はまったくなし。

そこで、マイペースなこどもたちと対象的に、必死に進行しようとしている、僕ら大人チームの姿こそ、ハタカラ見ていると一番の「見せ物」。 それ含めたのが、劇場の風景ってなもんです。

ちなみに初日、お手伝いしてもらった、いずみひなさん(大女優)と美波ちゃん(桐朋学生)は、始めっから「こどもスイッチ」が入ってました。
芸能人ってのは、そもそもそういう大人のことなのかもしれません。

さておき、色々な意味でこの日曜日が最後、僕も最後。
また、見事みごとに出来そこなって見せます。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月27日

景気回復

景気が悪くなってからかなり久しくなってしまいました。
一部の大成功者と引き換えに、「総中流」からポロポロ脱落してしまって、いまや目標が中流。憧れが中流。普通のものが不通に手に入っていれば、それはもう憧れる身分です。

景気は、天気が晴れにかわるように、さあ回復したぞ、とわかりやすい分岐点に気付きつらいものです。なんとなく生活に余裕が出てきて、周りにも景気の良い話が聞こえてきだしたときに、「そういえば今、公景気だな〜」と感じるってもんです。

政府やらメスメディアが敏感に発言すればするほど、ムードは悪くなってしまいます。
20年もダメダメなのですから、ここまで来たら楽観するのも手かもしれません。

年度末の週末、都内の道路は大渋滞だったみたいで、首都高速の渋滞看板も久しぶりに真っ赤になっているのを発見しました。

政治は、自動車業界には手厚く、ずっと基幹産業としてエコ贔屓してきたにも関わらず、バブル崩壊後は自動車を利用する人が減ったのか、幹線道路は以前の殺人的渋滞がかなり解消されていました。

久しぶりに見た不愉快そうな道路の停滞。
もしかしたら、少しは雲がさっていっているのかもしれません。

まあ、晴れても、ソーラーパネルで発電して沸かしたお湯で作ったカップラーメンの食べ残し、位が僕にまわってくる恩恵の順番とないようなんですけど・・。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月26日

写真が見せるもの

2010-03-23-1309-04モノごとの本質を、漢字の構成や、英語の意味、語源から探るのは、知恵なし論者の常套手段。

ですけど、説明するには便利です。

たとえば化粧は「化ける…」ってことだろ、って納得できます。

すると写真は、「真実を写したもの」のはずなのですけど、デジタルの時代、加工しちゃうと「真」ではなくなりますね。

さておき、プロの写真家の方の作品は、真実を超えたものまで収めています。

いってみれば、写身であり、写心であり、写深であり写人。

被写体になると、化粧していてもレントゲン的素っ裸。

写真は酔っ払いのスカンピン。
今回もまた、中川さんの被写体になることができました。

(C)中川忠満

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月25日

トヨタのくせに

今回の車検はショックでした。

数年前に、ずっとこだわっていた欧州車をやめて、メンテナンスフリーのトヨタ車にのりかえて、浮かれたバブリーな世の中の名残も完全に断ち切れたくらいに思ったものです。

合理性を考えれば、どう考えても国産車がよいわけです。身の回りの物は、ビルから文房具に至るまで、丸いよりも四角い方が効率がいいわけです。

それがつまらないと思っていられたのは、まだまだ世間に余裕があるときのお話。ベル・エポックなときだけです。

今は、理屈が成り立たなきゃ肩身が狭いです。よってとにかく合理化。

さておき、史上最悪だった某フランス国の車に乗っていたときは、晩年はお金をばらまきながら走っていたような状態で、修理工場に持っていくごとに、はっきり言って、ボッタクられていました。

それを思えば、国産車の壊れないこと、部品や工賃の安いこと、とても満足していたのですけれども、このところTOYOTAはまさか例の事件で、収入を補完するためにこのあたりもガメているのではないか、と思うくらい今回は、「昔の車検」みたいな明細を提示されました。

ブレーキパッドとか、完全に減ってから交換すりゃいいじゃないのさ。
それに、驚いたことに、たとえば見積もりしてきたバッテリーやスパークプラグの代金が、単価も工賃もカー用品店のほうが、つまりはイエローハットのほうがはるかに安いんですね。

欧州社ならともかく、トヨタが部品と修理のピンハネで食っていくようになったらおしまいです。

ま、昔は「金利で食っていた」ような感じもしましたけど。。。

壊れない、メンテナンス費用のかからないいい車を作って、それを売ってい信用はできるもんです。

修理が多いのは、欠陥ってこと。
自動車に限らず、家電もパソコンも、修理受付で偉そうにされると、頭にきます。
修理に慣れているということは、欠陥が多いってことで、企業も販売店も恥ることなのさ。

しかし自動車税、と別に重量税、と別に取得税、とあってさらに、ガソリン代の半分近くがガソリン税、高速道路の通行料、とそれぞれに消費税。 
やはり税収には自動車は欠かせないみたいで、これなら全力で自動車業界の味方を政府がするのもわかります。

「減税、補助金もねっ!」

って、買わなきゃそのほうが絶対エコだよ。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月24日

指導者が大人である必要に疑問

春の選抜高校野球が始まりました。

というより、始まっていました。

娯楽の少ない昔ならともかく、いまやそこらじゅうにエンターテイメントがあふれ、しかもウィンタースポーツも盛んな今では、高校野球の盛り上がりも限定的なものになっているのは仕方ありません。

かといって、ノスタルジックなイベントとして眺めていられるかというと、そんなことはなくて、純粋に青春を野球に費やしているかどうかについて否定はしませんが、そんな虚像を利用して威張っている周囲の連中が臭いクサイ。

高校野球は、タテマエは「学校教育の一環」なのだそうで、なので文部科学大臣が始球式をするわけです。
しかし、その「学校教育の一環」を使って、宣伝をして経営をする学校法人という団体、そもそもイベントを主催して報道する自作自演の新聞社とメディアのビジネスモデル、都道府県対抗に相乗りしてギャラ不要の見事なコンテンツを作り上げたNHK、スター選手の最大の育成場として重宝しているプロ野球界、そしてそれらのシステムに乗っかって、野球だけで入学できちゃう高校生、とどう考えてもタテマエを超えている気がしてなりません。

そもそも、丸刈り、整列、足並みそろえて入場行進、役職者、目上には絶対服従、という様式が、どうも軍隊の名残りという気がします。
軍隊的な秩序が悪いわけではありませんが、学校やスポーツで再現しなくてもおいのではないかと思ったりします。

そういう「目上」のなか、たまに最悪な例になるのが「監督」という存在です。
見事に、学校教育から乖離したことろに位置しそうなものが、「特殊な専門職」として成り立っています。

そして、普段の技術指導にとどまらず、試合中もベンチに居座って、作戦から何から指示していますが、あれってNHK的にも不気味な画です。
一人だけ背番号のないユニフォームを着て、ひとりだけ明らかに崩れた体型をしたオッサンが、高校生たちに指示をしているというだけで、高校野球の魅力と、教育的な価値が半減してしまいます。

いつも申しますが、高校生が自分でやればいいんです。
いろんな職能を体験するこそ、教育的な価値があるのだと思います。
これじゃ、「上司の指示をまって忠実に従うだけ」が良しとされる教育になってしまいます。

もちろん、ボランタリー精神の良い指導者や人格者がほとんどで、それが想定されてるモデルなのでしょう。そして、そういった親でも先生でもない「大人」と、同じ目標に向かって生活する期間というのは、代えがたい教育的効果があるものだとおもいます。

どういう道に進んでも、将来にわたって、「師」と呼べるような人がいることは、高校で野球部に入ったことの大きな財産になることは間違いいありません。

どっちになるか、すべては、「指導者たる大人の資質」によるのです。

星陵・松井を全部敬遠させたマブチさんの例もそうですが、「特殊な専門職」として私学に雇われたら、どうしても結果を、つまり勝ち進みを求められるのは仕方ありませんが、それだけの価値感が横行している高校野球は、「学校教育の一環」ではなく、「学校経営の一環」です。

そんななかでドップリ育ってきた高校球児が、やがて指導者となっても、一般的な学生生活もしていなければ、一般的な社会人生活もしないままなった社会人ですから、「大人の資質」をもった指導者とはいえません。

昨日、島根開星高校の監督氏が、自分たちの負けを自虐するつもりで、相手チームを侮辱した発言をしたり、とても指導者として疑問な態度をとっていたとの話題がありました。

まったくもって、周囲が見えていない具合は、一般の社会人としても失格。これでは「野球●鹿」といわれても仕方ありません。
ちなみにこの試合、何を間違ってこの開星こうこうが優勝候補といわれたのかわからないほど、プレイが雑でした。
失点したイニングをたまたま見ていたのですけど、あれだけポロポロやっていて、よく甲子園に来たもんだとすら思いましたが・・・。

この、「指導者」という人は、全国区の高校野球だけではなくて、ちいさなこどもスポーツチームや、芸能の世界にもいます。

悪い例はどこでも、怒鳴って、従わせて、ご本人が良い気分になっているだけ。

そういう指導しか受けてこなかった連中は、それが指導だと思っているわけで、これは恒久連鎖してしてしまうのですね。


ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月23日

ファーストクラス

東京の石原都知事の「浪費」がよくよく指摘されます。

ま、たぶん負けると予想されるオリンピック招致に100億使ったわけですから、博打の才能としても疑わしいのは間違いありません。

指摘されているなかで、海外視察の贅沢さというのがあります。
規定以上のホテルのスウィートルーム、貸切の自動車、スタッフ、そしてファーストクラスが批判されたりしています。

たしかに派手で下手な無駄遣いの多い方なのでしょうけれども、東京都知事が格安でショボいのもなあ、とも思います。

確かに、途上国の為政者が、国民に負担を強いて、または圧政で苦しめて、国は貧しいのに豪華な旅行をしているケースと比べてみれば、かの「大東京」の知事さんが、質素な行動をしていると、それはそれで格好いいのかもしれませんけどね。

そういう質素さは「石原コード」に引っかかるのでしょう。
たしかに、ショボい石原慎太郎よりは、無駄遣いを指摘されても逆切れして居直るくらいのほうが、石原慎太郎らしいと思います。是非はともかく。

しかし、スイートルームもファーストクラスも、東京都知事が利用しないとなると誰が使うのか、ということになります。

民間企業が、それぞれの規定で使用するのはわかりますし、記念に自腹で旅行されるときもご自由なのですが、基本的には「お金を払えば」僕らでもだれでも利用できるもの、なのでそれらには金額以上のステータスはありません。

それじゃ、ただの成金の下品なものになってしまって、それじゃ売っている航空会社もホテルもたまったもんじゃありません。
そこに、一般人があこがれるステータスをつけるためには、「ふさわしいステータスの方」に利用していただくこと、が必要なのだと思います。

知事さん、どうぞファーストクラスで移動してください。
ただし、旅行(移動)する必要がそもそもあるのかどうか、そっちをしっかり監視させていただきます。

奥さんを連れていく必要があるのかどうかも含めて。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月22日

時価と乱獲

クロマグロの禁輸は、とりあえず見送りになったみたいです。

日本が、交渉事、ロビイ活動で予想外の勝利をしたことなんて、ほとんど記憶にないところなので、水産庁なかなかアッパレでした。

さておき、世界のそれらマグロの消費の80%が日本なのだそうで、日本人のマグロ好きはそりゃ認めるところです。

でも、日本だけが主要消費国だとしたら、この数十年でどうしてそんなに消費量が増えたか・・・と、考えるときに、やはり『回転すし』の功罪を考えないわけにはいきません。

僕らが少年だったころは、『寿司』は、おめでたいときの代名詞で、滅多に食べることができるものではなかったのです。
しかも、『トロ』なんていうと、名物の『時価』となっていて、恐れ多くて注文するなんてとてもとても・・・。
そもそも、お寿司屋さんに連れて行ってもら得る機会なんて、そうそうはなかったもんです。

今は、回転すしで売っていれば、江戸時代にもどったような寿司の原点であるところの『ファーストフード』感覚、気軽にてごろな価格で食することができます。

そして、どんな易いお寿司屋さんにでも、『マグロ』は寛らずおいてあって、それが明朗格安会計なのですから、これを食することは大衆の日常になっています。

そりゃ、消費量は増すし、需要は大量になります。そうすれば『時価』も下がりますね。

それだからといって、絶滅の危機まで根こそぎ獲ってしまうようになったのでは、文明社会とはいえませんね。

ところで、同じく昔は、ごちそう・贅沢食の象徴だった、『ビフテキ』も、いまや死後です。ビーフなんて、すごく安くて一般的に食べられるものになってしまいました。

これも、もちろん為替のこともありますけれども、大量消費と大量生産のおかげだと思うのですが、これは文句がないんですかね?

魚は海で勝手に育ってますけど、肉牛は餌になる穀物を消費します。
イルカは虐待で、牛はかまわない、というのも変な話です。

ぼくは、キャベツだけあれば幸せですけれど、いまや野菜の方がマグロやビーフより高かったりするんですよね・・。



ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月21日

ぶら下がり健康大学

学問、とまで高尚でなくても、勉強すること自体、知的好奇心を満たすことはとても愉快なことでもあります。
さまざまな知識を得て、それによって生活するための補助的な能力とすることもできます。
なので、「勉強すること」については、その価値も需要も減ることはありません。

ところが、それが「大学に行くこと」と直結しているかどうか、これが最近怪しくなっているように思います。
勉強すること、知識を得ること、友達を作ること、遊ぶこと・・・それらは、とくに大学に「入学」しなくても、別所で行うことができます。大学にも、オープンキャンパスもあれば、聴講制度もあったりしますし、専門的で即効性のある実用的な能力を身につけるなら、早期から現場で研修したほうが絶対に効果があります。

では、どこに大学に行くことの違いがあるのかと言えば、「学歴」と「学位」の有無ということになってしまうわけです。
つまり、大学を経営的に考えれば、「学歴」「学位」が商品なわけです。

そして今、この「学位」とか「学歴」とかの価値が、どんどん低下しています。
誰でも持っていて、世に溢れていて、しかも実際はほとんど役に立たない、しかしなんとなく「右へならえ」でもっているもの。これは、ほとんど「ぶら下がり健康器」と同じ状態です。

それでは、余裕のある時代ならともかく、今なら「仕分け」させられても仕方ありません。

大学の経営問題を考えるときに、市場が小さくなっていることはよく問題にされます。
つまり、少子化による受験者数の減少ということですが、商売的に考えれば、「商品価値 x 見込み客数」が市場なわけですから、見込み客数の減少よりも、商品価値の定価のほうが、実は問題なんです。

4年で数百万かけて、さらには大学院まで行っても、就職口すら危ういのが現状。
実社会とリンクしていいない学位があっても、それだけの時間とお金の投下効果があるのかどうか。
実際、東大でもなければ学歴も雇用の戦力にはならないし、起業して成功する確信がもてたら、東大でも時間の無駄。ホリエモンさんみたいに、中退しても平気なわけです。

65歳定年社会、大学生でいる期間が6年7年となれば、その分社会人として稼げる期間は減ります。労働可能期間の短縮になってしまいます。
その期間から働き始めたほうが、累計生涯収入はその分、多くなるかもしれません。学歴をもっていても、一般企業ではさほど優遇されるわけではないのですから。

それでも大学に通わせる魅力を、大学は提示しなければいけません。
「ぶら下がり健康器」が売れ続けつように。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月20日

中吊りの桜

まだまだ油断をすると、変な風邪を引いてしまいそうな、気候ではあるのですけれども、確実に少ずつ『春』を感じさせる空気になってきました。

巷では、ファーつきのコートやマフラーもまだ見かけますが、昼間はトレーナー一枚の人もいます。
個人的は、季節先取りがファッショナブルだという思いと、寒いのは嫌だという生理が戦って、歳とともに後者が強くなっています。よって、まだまだ防寒人です。

この13日に、JRがダイヤ改正を行って、また一部の列車が『サヨナラ』となったりしたわけですけれども、この数日でJRのポスターも大きく変わりました。

JR東日本は、同じ目的地でも、『雪』から『桜』へとシフトしています。
ああ、桜の季節かと思えば、たしかに春を実感させられます。
寒さが長引いても、カレンダーどおりに卒業式や入社式はやってきますが、桜の花は気温が上がらないことには開きません。

今年は、何月にどこで短命の桜に会えるのでしょうか?
高遠や弘前や角館の桜も見てみたいものですが、人混みには混ざりたくありません。

ましてや、花見の大宴会なんて、やりたくも見たくもないです。
景観の破壊、なのか、それも含めて日本の景観なのか・・。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月19日

爆笑できない法律

爆笑問題の田中さんの元・奥さんがご出産されるのだそうです。

昨年秋に離婚されたばかりで、今ご出産、ということは、普通の人体の構造からいえば、婚姻期間中に妊娠されていたわけです。

で、妊娠確定して離婚されたと。

余計なお世話ですが、現代的にはどう考えても、お二人はナニして子どもを授かることになったがそれを嘆いて離婚した・・・んな、わけないです。

実際、田中さんのお子様ではないことははっきりしているそうです。
こういう例は、全然珍しいことではないのですけれども、法律では離婚後300日以内に産まれた子は、前夫の子にとりあえずなってしまいます。

女性だけ、再婚ダメ期間が6カ月あるのと同じくなのですけれども、婚姻期間とナニを結び付けている考え方が、背景にあるのが古いです。

もっというと、結婚=婚姻届提出、離婚=離婚届提出 という考えで、お役所に届を出していない男女はナニしない、という素晴らしいモラルを前提にしているところが、滑稽です。

いまは、第一子の4人一人ができちゃった結婚。
厳密にはただの「妊娠後入籍」が多数なのでしょうが、じゃ、それらは全部誰の子やねんということになりかねません。

また、田中さんのケースとは違いますが、離婚後300日以内に産まれたとしても、離婚届けを出すに至るまでの数か月の夫婦の状態、を想像させていただくと、そりゃ、ナニするくらいなら離婚しないだろうとか、奥さんに他に男ができたのが原因だったりしたら、どう考えても書面提出のしばらく前からは、そっちのほうが主たる人になっているのではないかと思います。

ちなみにこの点については、すごく鋭い意見をいただいたのですが、破たんして離婚が決った夫婦でも、離婚するその日に、「最後の記念に」と、ナニすることが考えられるので、やはり300日ルールは価値がある、とのこと。なるほど・・・。

ともあれ、ナニと書類上の婚姻はとりあえずは関係ありません。

田中さんのケースもそのような感じなのですが、関係者のすべてが認めていても、とりあえず法律で前夫の子として産まれてくるというのは、ちょっと不都合な気がします。

たとえば、法律上の前夫が服役中だったり、海外に単身赴任中だったりしても、その人の子、ということになってしまうのでしょうか? へんな話です。

だれも父親を名のらなような状態なら、前夫を親として嫡出子にするのは、親の責任という点からもありだと思いますが、みんなが認めていて、名乗り出ているようなわかりきった状況なら、こんな法律は後回しでいいんじゃないかと思います。

そもそも、婚姻とナニを結び付けるような時代じゃないのです。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月18日

スーパーおケツ

沢尻エリカさんを取材して報道するに当たっては、守らなければならない6カ条の契約の締結が義務付けられているのだそうです。

報道には自由があり、その基には国民には、知る権利があります。
また、人間にはプライバシーを侵されない、尊厳を傷つけられない基本的人権があります。

芸能人が、どこまで一般人なのか、公人なのかはさておき、人権と表現の自由はそれぞれに保証されていることなのですけれども、その間で民事の契約となるとご自由に、ということになります。

が、この場合、沢尻エリカさんはスペインの会社のご所属ということで、この契約の条項には、なんでも違反の場合は「スペインの法律に基づき、スペインの裁判所で」争われるのだそうです。

そんな契約しちゃったら、スペインの法律は調べなきゃいけないし、スペインまで裁判に行かなきゃいけないし、たいへんなことになります。

日本で日本人が日本の(=以外では到底話題にならないような)出来事について報道するに当たって、スペインの法に従わなければならないという条項は、とても立派な契約戦略ではあるのですけれども、そりゃつまり外タレさんを扱うのと同じになるわけです。

そうまでして、広告してあげなくてもよいのではないかと思いますが、まあニーズがあるんでしょうね。話題がないと報道できませんからね。

そんなことはどうでもいいのですけれども、沢尻さんは、絶対に昔から美しかったと思います。それなら、「尻」が名前についていてもヘッチャラだったと思いますが、どうも珍名とまではいかなくても、「尻」がつくお名前は、子ども的には危機一髪です。

江尻さん、って子がいましたが、あだ名一発「エーケツ」って呼ばれるようになってましたし・・。

この「ケツ」というのは、なかなか強いネガティブな響きらしくて、小学生だった山中くんは、健康診断で「結膜炎」と診断されて、先生に告げられて泣いていました。
「ケツ、マクエン」という語呂が、屈辱的だったみたいです。
たしかに、先生の口から「ケツマクエン」と出たときには、なぜかみんな笑ってしまいましたので・・。

あと、バスの「運賃箱」と「運賃値上げ」を、ニュースでアナウンサーがまじめに読み上げると、これまた笑ったものでした。

さておき、「ケツ」のネガティブイメージについてですが、「補欠」という非常に実は重要な役割をもったポジションが、これによって屈辱的な響きをずっと持たされていたのではないかと思います。

これは、日本語による大きな喪失です。

そして、このところ出てきた「スーパーサブ」という言葉が、実に見事にこれを補ってくれています。
これが、言葉の持つパワーだと思います。

同じくベンチで控えていても、「ホケツ」と「スーパーサブ」では違うんですね。
虎視眈々とチャンスやピンチにそなえ、ここ一発で勝負するための準備をしている状態、実は格好いい「尻」なんです。

以上、沢尻エリカさんの話は、どうでもよかったことについては、触れないでください。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月17日

デフォルメしない文化

似顔絵でも、物まねでも、なんでも笑ってもらおうと思うと、対象をデフォルメしてしまう傾向があります。

目が大きい人なら、口より大きく表現すれば、それだけ似ていたり、可笑しかったりするわけです。

残念ながら、僕にはそういう才能はありませんが、コツとしては特徴を的確にとらえて、それを際立たせるのだと思います。

しかし逆に、省略することで強調されるもの、醸し出されるものもあります。

  古池や 蛙飛び込む 水の音

俳句なんてのはまさにそんな例で、貴重な日本文化だと思います。

表現したい対象を的確にとらえていれば、形を変えたり、表現手法を変えたり、極限まで削ぎ落としても、あるいはそれだからこそ伝わるものがあるのだと思います。

最近、とくにメディアの製作物が、とにかく「うるさい」「しつこい」気がします。
効果音とか、派手な色使いとか、わかり易すぎる演出はいらないんじゃないかなあ。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月16日

3月後半戦

一昨日までの《名作・・》の、もう一つのやりがいは、約60年前に、30代後半で亡くなった作家さんの作品の「初演」ってことでした。

この作品が、21世紀の東京で、脚色なしのオリジナルのまま上演されて、観客席から上品な笑いが起こる、というのは、作家さんとしてはうれしいんじゃないかな〜、t。

いつも、原作者に顔向けできないことばかりやっているので、とても清々しくやらせていただきました。

そんな近代文学との充実した日々が終って、昨日は3月15日、「さあ行こう」の日だと思ったら、朝から全然元気が出なくて、結局は確定申告の提出だけ済ませてダウン。
そのまま、のんびり過ごそうかと思ったら、気がつけば着信と留守電の嵐。

そうなんです。忙しいんですよ、3月はあれこれと。

面倒くさい時は、片っぱしから削除するか、全部引き受けるか。
今回は、全部引き受けてしまいました。ので、この後は積極的な残りの15日を過ごすことになりそうです。

そもそも、昨年末の大掃除ができていないのに。。。

それにしても、三月は移動の春。

名作のご案内をした方々からも、ご丁寧な「ごめんね」連絡を多く頂きました。
みなさん、いろいろとご自身の身の振り方に影響のあることが多い3月、それに伴っていろいろな業種にとっても大いに流動的な正念場、なかなかお時間を割いていただけないのも無理ありません。

そんな3月も後半に突入。
暇こそ敵。失敗も浪費も長い目で見れば貴重な資産。

で、次の業務。
座・高円寺《飛ぶ劇場》3/27〜28日。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月15日

金返せ、のボーダー

先日は、朝から強風で、湾岸の電車は毎度おなじみの低速運転でした。

遅刻を避けるため等々で、贅沢にも「特急」に乗ったのです。

各駅停車で39分の区間を、「特急」は、ノンストップ23分で運んでくれます。座席がベンチではなくて、机のある座席になります。ほか、トイレもあります。

が、基本は「特急」料金なので、強風で到着が50分もかかったら、その分の「特急料金」500円は、返してもらえないもんかと思いました。意味ないですから。。

フォローしておくと、JRの払い戻しは数値(時間)で「決め」があって、規定されています。たしかにそうしないと、際限がありません。
なので、以前に大雪の日に急用で新幹線を使ったときは、飛行機も高速道路も全部不通であて、一番早く安全に快適に目的地に運んでくれた新幹線に感謝していたら、さらに2時間遅れの特急料金払い戻し、まで受けました。
運行してしてくれただけでも立派で、僕は移動の目的を達成できたのに、なのに、ペナルティも払ってくれました。

しかし、たとえば「スキーツアー」で荒天でスキーができなければ、払い戻しになるのかどうか、移動した分の交通費はただの旅行分として価値を認めるべきなのか、というような問題があります。

で、昨日は花の舞両国店。

土俵見えない席だったら、ただの居酒屋チェーンじゃないか。接待価値がないじゃないか。と言いたくなりました。

ま、実際に飲み食いするものは同じなんですけどね。


ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月14日

俳優さんの自立

俳優さんの自立、といっても経済的な問題ではございません。

経済的な問題だと、かなり五感を鈍化させてしまいたいようなのが現状です。
それは仕事が少なくて収入が少ない、という俳優さんよりもむしろ、仕事に恵まれたことがあって、そこそこ人並みには稼げるようにんっティとのほうが、だらしないです。

安易なドラマだと、ギャンブル好きで借金を重ねる、なんて設定がありますが、本当にやっかいなのは「見栄」で浪費する人。
これが厄介で、そこそこ食えるようになった俳優さんには多いのです。

なので、有名になっても、収入があっても、地に足がついた控えめな態度の人をみると、本当に安心します。

さて、その仕事の依頼の多さ少なさが、技量とリンクしないのはある程度仕方ないとしても、技量についての自立がないまま、有名になってしまって、メディアに登場しだすと、それはとても社会的に危険です。

俳優がメディアとなって伝えるメッセージが、なにか世間の人に影響を与えるとすると、本来それについての責任を負うべきだと思います。

つまるところ、PやDや演出やスポンサーの言いなりになってしまったり、大衆迎合になってしまったりすることへの危惧です。
もちろん、俳優の独断だけというのも、説得力の厚みに欠けると思いますけれど。。。

自分の生身の身体を使っている以上、それに責任を持って、自分のメッセージや解釈も加える意思がないといけないと思います。

メイエルホリドは、スタニスラフスキイを「戯曲の(作家の)奴隷になる」と批判しながら、本人の手法は「演出の奴隷」と指摘されます。

戯曲に書かれているとこ、演出の方向性、それらを踏まえたうえで俳優さんが自分の責任で表現を作れてナンボだと思います。

指示待ち、ダメ出され好き、が多くなると、俳優さんの技量が限定されてしまいます。
そして、CGでもロボットにとって代わられてしまいます。

逆にいえば、俳優の自由度の高い稽古場で、どれだけいろいろな上乗せを提示できるか、他人が気がつかないものを作ってこられるか、そこが実力だと思います。

「指示に従う」のは、厳しいようで実は楽。
それは責任転嫁でしかないのは、どの世界でも同じだと思います。



ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月13日

笑い飛ばせ

「囲まれた女」は、作家・田口竹男の(結果的)遺作で、37歳かくらいのときに書かれた作品です。

その登場人物も、それを演じる役者も、ほとんどが37歳以上。
若い男、働き盛りの男、しかも全員ダメ男が、どれも30代の設定です。戦後間もないころの30代、いまならプラス10歳と考えれば、我ながらジャストミートです。

僕みたいないい加減なヤツでも、これくらいの歳になると、日々、たくさんの悩み事や問題が発生してきます。 何かに没頭することは難しくなります。 いろんなしがらみもあります。
現実はそんなもんです。

どんな男もそれなりには深刻に生きている訳ですが、まとめて笑い飛ばしてくれる喜劇のなかでは、それぞれの男が背負っている深刻さを、ずいぶん軽減してくれます。
不惑の40歳を前にして亡くなった作家さんが、「人生なんて、そんなもんさ」と勇気づけてくれているような気がします。

人間、深刻に悩んでいても、ハタからみりゃ喜劇の役者。
同情するなら笑っておくれ、もしくはほっといてくれ・・・。


ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月12日

ビジネスホテル

日本のビジネスホテルは優秀だと思います。

海外のホテルを利用するときに、いつも日本のビジネスホテルの偉大さを思います。

ホテル代の安くない国へ行った時、たとえばミッション的に軽い滞在とかの場合、とりあえず安いホテルを探します。

立派なホテルが3万円で、安いホテルが1万円だとすると、内容は1/3どころではない、古さや汚さや不便さが強いられることが多いです。

そんなところに1万円を払わなきゃならないほど、宿泊ってのは価値のあるものなのでしょう。

そこで日本のビジネスホテルはとてもエライ。

1万円以下であっても、基本的に快適さを提供してくれます。
安いのだから、(決して安くないのですけど)こんなもので当然だ、というた態度ではなくて、快適な本格的なホテルにできるだけ準じたサービスが受けられます。

ほとんど、部屋が狭くて豪華さがないだけです。
これは、ものすごい観光資源だと思います。

さらに、そこに付着している「刹那さ」がなんともロマンチックです。
深夜到着して、早朝旅立つまでの「戦士の休息場所」ゆえのホスピタリティ、それが味わい深いものになります。

あまり快適すぎると、戦い(仕事)に行きたくなくなります。
短い休息の時だからこそ、刹那的な快適を味わっておくことが許されるわけです。
「滞在を楽しむ」のであれば、またちょっと違うのでしょう。

所詮は、ウサギの仮の宿。

そこがいいのです。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月11日

月に吠えたい

保身に走る人は、まず弱点にたいして予防線を張る。
そういう人がはそういう人同志で徒党を組んで、慰め合っている。

これは『攻めの防御法』なのだけれども、あまり潔いものではありません。

真剣勝負の世界にいる本物を相手にして、亜流の積み重ねで勝てるわけがないのですけれども、弱い犬ほど、よく吠えるわけで、とりあえず上から議論を吹っ掛けています。

しかし、弱いい犬さんは、野に放たれたら吠えることさえできないのです。

一流の偽物は、三流の本物にも、どうしても敵わない部分があります。

だから芸術家も一流でも三流でも、本物であろうとする必要があって、そこに価値があるのだと思います。

たとえばダイエット目的でボクシングをするなら、 エアロビの先生と、ボクソサイズをやる方がスマートです。
しかし、弱くてもプロボクサーと拳を交えることは、結果的にダイエットになるかどうか以上の何かが残るわけです。

アーティストとして表現教育に携わる価値ってその辺ではないかなぁ。

エアロビのインストラクターにボクシングを語られてもなあ・・。


以上、独り言。


ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月10日

新聞記事

今回の名作劇場を紹介している新聞記事が、ずらりと並んでいたので、空き時間に読んでみました。

毎日、日経、東京・・主要紙は、面白いことに全部、夕刊。

だいたい、エンタメ・映画・演劇の扱いはこの枠が多いです。産経は夕刊がないので土曜、マリオンは日曜でしたっけ・・。

「こんな公演やってるよ」的な告知ではなくて、最近の記事はだれか個人、人物にスポットを当てて、そこから携わる公演を紹介するものなどあります。

東京新聞は、文学座「女の一生」に対する鋭く厳しい劇評が、隣枠で掲載されていましたが、芸術としての、あるいはエンターテイメントとしての的確な評価も、メディアの仕事として大事だと思います。

ほとんどの一般の人が、公演を紹介されても「どう見ていいものやら分からない」わけですから、紹介した公演についての「検証」が「告知」とセットになっているのは、興味深いところでした。

ちゃんと取材していただいて、インタビューされて、こちらが取りとめのないことを話しても、ちゃんと文章にまとめてくれる記者さんの技能と、専門知識は財産です。

夕刊の存在意義自体が問われる今日この頃ですけれども、こんな新聞社の能力の活かし所でもあると思います。

願わくば、この分野の評論がもっと多面からできる専門家が、もっと現れるとよいと望みます。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月09日

選択と決断

人間だれしも、毎日たくさんの「選択」をしながら生きているわけです。

それは二分法で右左、というものではなくて、玉虫色だったり、先送りだったりして、できるだけスムースな生活を過ごせるように、知恵を絞っているわけです。

それでも、何度か「択一」を迫られる、大きな決断をすることがあります。
たとえば、就職の内定が二社以上あれば、どちらかを選び、どちらかの道は切り捨ててしまわなければならないわけです。

決断とは、文字通り「断つと決める」ことです。
切り捨てた方を選んでいたらどうなっただろう、と思ってもやり直すことも試すこともできないのが、「決断」された事実なのでしょう。

その決断に、さまざまなシュミレーションをし、勘を働かせ、相談できる人に会い、先人の知恵を借りる、そのバリエーションの多さを持っていれば持っているほど、よき決断ができるのだと思います。

日々、多くの「選択」はその練習です。

それを支えるのが、勉強することであり、遊ぶことであり、人に出会うことでとすれば、若い時こそ、苦手なことや苦手な人ともおおいに接触するべきなのではにかと思います。

今から考えても、いろんな選択ミスや決断のブレがあったようにも自覚してはいるものの、それが、それぞれの年齢、それぞれの自分の実力。

断ったら、あとは受け入れるだけさ。



ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月08日

ワークショップはチャンプルー

3週連続で、日曜日午前6時起床、7時出発で午前中は高円寺、午後から両国というルーティーンを遂行。
我ながら、まだまっとうな生活が送れるのかもしれない、と思いました。

目先の業務が多いと、大問題に気付かなくなるだけなのかもしれませんが、気持が充実します。

高円寺のワークショップは、とりあえず前半戦はひとまず任務完了。
今週は、ある程度の達成を目指したので、スタッフというか助っ人を増強して臨みました。 毎回、7000キロカロリーくらい消費している感じです。

ワークショップは、「できそこない」を恐れずに、そこに参加した面々の試作を求めるものです。が、この前提をどうしても忘れがちになってしまいます。

目先の満足感を得るために、きれいにまとめたくなってしまうのですけれども、
商売でやっている「一日体験教室」でもなければ、郷に従わせる「習い事」でもないわけで、いろいろな出自の人、年齢、性別もいがう人たちに具材になってもらって、「チャンプルー」を作るわけです。

なので、心得としては「全員参加者」であることと、「自由」でいること。
つまり、教師っぽく向き合うのではなく一緒に参加することと、遠慮なきリラックス状態にいてもらうことだと思います。
ま、この遠慮なきリラックスと無秩序は、どこまで許すかというのが根性の要求されるところですが、できうるかぎり「放置」。

「リラックスしましょう」という呼びかけも、命令なんです。
「自由にアイデアを出しましょう」というのも、実は受け手はそれから、求められているモノを連想して、気を利かせた回答をしようとしてしまいます。

それでは、実はなんの創造的な収穫もなくなってしまいます。

そもそも、子どもたちの発想は面白いものです。大人の発想はまとまるもんです。それらは、それ自体だと、そのままの価値だけになりますが、これをミックスすると、思わぬ偶然から、とても素晴らしいモノが生まれてきたりします。

「思わぬ偶然」から生まれるものを阻む最大の原因は、講師やファシリテーターの先入観による誘導。つまり「仕切り」。

ここは学校でも託児所でも道場でもないので、わたしらは先生でも保育士でもなければ、スポーツチームのコーチや武道の師範でもないわけで、そんな「先生のまねごと」ではなくて、勝手にわたしらの基準で勝負してこそ、価値があります。
なぜなら、わたしらは「社会の一欠片」であって、子どもたちにとって安全な親家族や先生ではないのです。社会にはいろんな考え方の連中がいますが、その一片として、わたしらみたいな変な大人が、変な大人として接することに意味があるのだと思います。

それにしてお、小学生といえども、DSやPSPの所有率は8割強。携帯電話をもって大人とおなじTVや映画を見て、お小遣いは確実に僕らより多い(?)。
そんな現代の子どもたちが、この「何にもないスペース」に集まってくること、その好奇心を刺激し続けてきたコーディネーターの楊さんと北村さん、アンド公共劇場として企画運営したスタッフさんに敬意。ざぶとん30枚。

今年度は、授業以外でも学校にかかわらせてもらう機会を増やそうかと思います。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月07日

学問はススメない

「学問」の価値は学者さんだけのものではないのです。

と、あえて言い切らなければならないほど、研究の専門性は深めれば深めるほど、一般社会の人には疎遠な領域に行ってしまうものだと思います。

たしかに、「xxx大学の△△先生は、こういう意見だ」それに対して「○○先生はこうだ」、そして、「このたび◇◇先生がこういう発表をした」という業界事情の勉強、つまるところ「研究者の研究」に、直接的な面白さを見出してしまったら、そりゃ、世間では役に立たない事しか発見できないと思います。

たぶん「学説」が実社会で使われるのは、その領域の歴史や、実験や、内外の実情を死ぬほど研究してきた「専門家の意見」として、実態社会のそれぞれの分野で、それぞれの立場の人が「判断する材料のひとつ」にする時だと思います。

なので、たとえ優れていても、学者さんに政治や経営は向きません。

逆に、政治家や経営者さんが、「経験で起きた問題や疑問について研究する」という現場主義的な出発点で学問をスタートさせれば、研究の方向性ははっきりとしてくるものだと思います。

例として、早大院生、桑田真澄さんの研究論文には、文句のつけようがなくなるのは当然です。実体験のフィードバックに、仮説の仮検証では叶うはずもありません。

たとえば、教育の分野だと、「欧米では」とか「歴史的には」といった研究の切り口と、「うちの子どもは・・」という切り口と、どっちが参考になるのか、ということを考えたくなります。

マーケティング世界では、「欧米では」や「世論調査では」よりも、実は「うちの娘が、こう言った・・」というほうが、実効性があると考えられます。

その家庭の、たった一人二人の子どもの事例が、市場の動向の認識につながるのか、と思いがちですが、たいていの家のお子様の場合、同じような考え方の人が世にはたくさんいるものです。
たとえば、10項目のアンケートを1万人にしたとして、ある子供と同じ回答になる人がゼロになることはまずありません。逆に、すくなくとも8個以上同じ回答を得られる仲間は、結構いるはずなわけです。

欧米の例や、歴史の流れでは、現在の市場とは直接つながりませんが、「一人のわが子」さんは、壮大な世論の一つのモデルになりうるのです。

テクノロジーの研究を極めていくと、そこから応用して、ひょんなところでものすごい役に立つものが生まれてくることがあります。
なので、学術研究を極めることから真理や文化の創造にもつながることは、充分ありうるのですけれども、常に実用を意識しないと、滑稽なことになってしまいます。

学ぶ側も、いつまでたっても受動的ではいけないということです。


ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月06日

オスカー

「日本アカデミー賞」というのが映画会のイベントだということで、「アカデミー」には別の意味がくっついてきた、ということだと思います。

「語源からすると間違いだ」、などと指摘するつもりは毛頭なくて、長い長い目で見ると、言葉はそうやってできていくものでしょう。

「歌留多」は、上毛かるたの「かるた」なのか、マグナ・カルタのcartaなのか、そういえば、"MagnaCarta”も英国からすれば、外来語か、そんなことを考えてみれば、  Academy が AKADEMI に変わって、意味の違った言葉になっても、そりゃよしとしましょう。

「クイズ甲子園」みたいな感じで、「甲子園」って場所の名前、あるいは施設の名前に、「高校生の全国大会」という意味が付着して共通語に成長しているものだと思います。

どちらもまだ、辞書には載ってないと思いますけど。

本家アメリカでは、Academy Award の頻繁なる代名詞は、Oscar ですね。
誰がアカデミー賞を取るか、というよりも「誰がオスカーを持ち帰るか」、みたいな感じのほうが親しみがあります。

この、オスカーさんの身元については、はっきりしていないのだそうです。
学会の初代会長さんでもなければ、有名俳優でもないみたいで、諸説あるとのこと。
もともと、はっきりしていないものに、これだけの価値を付着させているところは、とっても愉快です。
これぞ映画界、って感じで、いたずらっぽさが素敵です。

そんな正体不明のオスカーさんも、日本に来れば「オス●ー・プロモー●ョン」みたいな発展を見せるわけです。

どこかの国で、xxxxKoshien みたいな単語ができてると、また面白いのですけど。




ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月05日

スピーチする行為

先日、とある集会で「開会宣言」をさせていただきました。

実際は、開会を宣言しなくても、イベントは始まるし、成り立つのですけれども、一つの「きっかけ」とか「けじめ」みたいなもので、儀礼的に行った感じがります。

なので、なぜか「閉会宣言」はなし崩してきになくなっていました。
おのおの解散してしまったら、閉会は宣言しなくても閉会なわけです。

しかしこれが、公式な会議などでは、そういうわけにはいきません。
議事録として残すために、どんなに小声でもなんでも、だれも聞いていなくても、だれかが「開会」と「閉会」を宣言した事実が必要になってきます。

こういう、形式的に必要な発言は、スピーチの技術としては幼稚園児でもかまわないわけですが、なにかを訴えかけるスピーチには、さまざまな技術が必要になってきます。

政治家は、議事録に残る発言の正確さや重さとともに、JFK以来はそのスピーチアクターとしての能力が重要になってきました。

政治家の発言は、言語やイントネーションがめちゃくちゃでも、文章に残したときにちゃんと意味が通っていることも重要です。

さらに、記録上は「取り消し」したり「オフレコ」にしたりできても、いったん発言したことは、実質取り消しが不可能になることがあります。政治家ではありませんが、川渕キャプテンの「オシムが・・・」とか、みたいに、うっかり出してしまっては、文書なら発表前に隠せますが、言ったものは消せませんから・・。
あとで撤回しても、元の通りの状態にはなりません。

このところ、政治家のスピーチがどうもうまくありません。
内容も乏しいのかもしれませんが、聞いていてスッキリしないものが多いです。

海部さんのように、「立て板に水」で、内容が乏しいのは今の時代は全く評価できませんが、小沢さんにしても、総理にしても変なところで息継ぎしてしまうので、ずっこけますし、元気がなくてダラダラして若々しさがありません。実際若くはないのですけど・・・。
民主党の若い議員さんには、スマートによくしゃべる人は多いのですけれども、
「弁が立つ」という感じに欠けます。
政治というよりは、会社の会議か大学の講義みたいな感じが、やや残念なところです。

お名前はわすれましたが、自民のある議員さんで、これは本会議なので、正確に
スピーチする必要もあったのですが、熱く、熱く、抑揚を加えて、手元の「原稿」に向かってしゃべっていました。
ラジオだと良い感じなのでしょうが、「紙」に熱く話しかけても、滑稽な感じだけ、JFK以前のスピーチという感じでした。

最近では、すっきり小気味がいいのは、新人の小泉ジュニアさんの発言なのです。 明確にスッパリ言い切る発言は、お父さん譲りな名人芸な感じです。
ただ、その「切れ味の鋭さ」はよいのですけれども、「切っている場所」が幼稚。 
民主党と自民党の間でスパっと言っていますが、だれも民主と自民が両極だなんて思っていなくて、性質は似たようなものでしょう。
似たようなものを、属性だけで切り分けると、ただの身内びいきにしかなりません。その点、お父様は(私は嫌いでしたが)、自民党の中にもスパっとはいる切り口で、人気があったわけです。

ま、現総理の、マグロをメスで解体するようなチビチビ発言よりは、すっきりしていいことはいいのですけれども・・・。

良いスピーチライターと、良いスピーチアクター。
僕が思うに、日本で史上最高の出来栄えだったのは、残念ながら政治家ではなくて、おそらく「長嶋さんの引退スピーチ」だったのではないかと思っています。
その内容とスピーチの熱さが、もっともイベントの内容にそっていて、印象に残り続けるものでした。

ま、その巨人軍がいつまで不滅かどうか、このところ怪しくなっていますけど・・・。

日本語の良いスピーチを聞くには、どこにいったらいいものか、そんな時代になってきました。これも、教育の問題だと言えないこともありません。
面接やらなんやらにはじまって、いちばん社会で使う「発語」が、国語の授業にほとんどないのですから。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2010年03月04日

マッコリ

ひなまつり、ということで、お屠蘇かわりに、マッコリを甕でいただきました。

本当は、どぶろくを体験できるとよかたのですけれども、わざわざお店に繰り出して、割高で少量飲むのだったら、美味しい高級酒にしときたいわけです。

家庭のお酒は、なんにも気を使わず、気にせず、遠慮なく酔っぱらえてナンボ。

マッコリも、私らからすれば、外国のお酒で量もあって珍しいもの、の割には安いと考えますけれども、韓国の家庭からすれば、マッコリで(こんなに)お金取るの?ということになるのでしょう。

マッコリは、日本の濁り酒の類似の醸造酒の類ですが、甕でいただくときは、ひょうたんを縦割りした柄杓のようなもので、湯のみにとります。
すると、甕の中にどうしても残ってしまうのですけれども、このあたりに食文化の違いが垣間見えて、興味深いところでもあります。

考えてみれば、そうとう安い安いと思って有難がっている居酒屋チェーンに行っても、ビール一本、10円単位で値段を競う酒屋やスーパーで買って、自宅で飲むときのxx倍になっているわけです。

最近マイブーム(古い?)の「ホッピー」も、近所の「高級」スーパーで買っても一本120円。 それが、どんなに庶民派の居酒屋に行っても大体のところ単品で290円が下限です。

同じ瓶ビールでも、カクヤスで買う値段を基準にすれば、銀座の高級クラブ(古っ)で、きれいどころに一杯お願いすると、さておいくら・・・。
その場合、10倍、20倍くらいになっていても、「安い!」という感覚になるかもしれないのが、不思議なところです。

お酒とは、舌と胃袋の欲求よりも、気持ちの満足を実現するものなのでしょう。

それにしても、「ひなまつり」のくせに、おひなさまも官女も不在だったのが問題。野郎だけじゃねえ・・。



ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月03日

受動喫煙

公共施設が原則禁煙になるというのは、これも時代なのだと思います。

たしかに、「禁煙席」や「禁煙車」ではなくて、「喫煙席」や「喫煙車」が設けられるようになって、公共の施設はとても居心地が良くなった気がしています。

僕は、喫煙歴は13年、禁煙後も同じくらいになるのですけれども、ちょうど社会の禁煙の流れに沿っていたので、幸運でした。

僕が喫煙をしていたころは、飛行機の中もタバコは吸えたし、駅もお店も会議もたばこはつきものでした。

しかし、人が集まる施設では禁煙にしよう、というのはどないなもんかと思います。 タバコのない麻雀、パチンコは全然OKなのですが、個人的にはタバコの吸えない喫茶店というのは、ムード的に失格です。

あれって、コーヒーとタバコをくゆらせている臭いが、いいんですよ。

逆に、寿司屋で禁煙なんてのは、あ た り ま え の常識なんです。
回転すしチェーンがはやるのは良いですけど、周辺含めて喫煙場所を求めるほうが迷惑な話です。

かつてお世話になったお金持ちのオジサマが、葉巻を愛用されていたのですけれども、そりゃ臭いのなんのって・・と思う反面、たまにいい香りだなあとおもうことがありました。

なにより、葉巻を吸っている初老のオジサンがそこに座っているだけで、とてもムードがあったんですね。

受動喫煙による被害は、健康問題だけではなくて大変不愉快なものですが、タバコも文化です。

人が集まる場所、という理由だけで居酒屋や喫茶店までを禁煙の場所にしてしてしまっては、ちょっと生活の風景がが貧しくなります。

それよりも、一日過ごしている職場の禁煙を徹底しないとダメ。
狭い会議室やオフィスで、ずっと吸われていたんじゃ、居酒屋が禁煙になっても意味ありません。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年03月02日

ニュースのない日

平凡な、何事もない日々なんていうのは、実は本当に幸せなことだと、つくづく思うようになりました。

毎日、たくさんの不幸のリスクを回避しながら、地雷を踏まずに生きていることは、それ自体ものすごく幸運なことだと思います。

『便りのないのは無事の知らせ』そんな感じです。

それでも、向上することを目指すのは、なにかの刺激を求めてしまうのです。
でもそれは、贅沢ではなくて、おそらく『事なかれ』で過ごしていたら、維持はおろか、後退してしまうものなのだと思います。

『事』をおこさなことには、なんにも始まりません。

技術や能力だけではなくて、『幸運』も欲して求めていかないと、やってこないのかもしれません。

それにしても、行き詰ったときは、やはり『平穏』なことに感謝すべきです。

悔しかったり、辛かったり、深刻だったりしても、もっと大きな問題がやってきたら、全部些細なことになってしまうわけです。

ネガティブなことが多い最近なのですが、そんなしょうもない見栄やプライドもってもしかたがないわけで、そんな下らんことを気にするということは、下らんことがを気にできる、ってことで、やはり幸せなんだと思います。

どうせ、一度は死んじゃう人生。

なんとかなる。

それでも、生きて地雷は踏みたくないけれども・・・。

ted803 at 05:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0)