女子トイレ侵入歴ギィ・フォワシィ・コンクール

2007年12月17日

長崎の悲惨な事件

『長崎の悲惨な事件』といっても、『佐世保の悲惨な事件』といっても、『長崎の銃の事件』といっても、『佐世保の子供が可愛そうな目にあった事件』といっても、複数が該当してしまい、どれがどれだかわからない、酷いことになってしまってます。

栃木県のケースも似たような状況ですけど、これだけ事件が頻発すると、事件に名称をつけるほうも工夫が必要かもしれません。こんなことこそ、警察発表とは別に、ちゃんとわかりやすいネーミングで、ジャーナリスト魂見せて欲しいもんです。

さて、そのスポーツクラブ銃乱射事件(仮称)ですけれども、市長が選挙演説中に銃殺されるという、ウルトラあってはならないx3乗の出来事の後、同じ長崎県で今度は合法的に銃を所持していた男、しかも自殺で真相は闇、これでは被害者は報われません。 事情は、報道で断片的に伝えられるはんいでしかわかりませんが、いろいろと怒りを覚えます。

多くの人が、『アイツに銃を持たせては危ない』と感じても、法治国家ですからそれだけでは奪えないのです。だったら、最初に与えていたときの基準に間違いがあったということ、見直しは当然です。でも実際に是正されて運用されるのは随分先、また違った問題も出てくるでしょうし、そもそもこの事件の被害者は救われません。

佐世保は、知っているだけでも美しいく逞しい港町。長崎県全体も、異国情緒あふれるロマンチックな場所、というイメージもってます。実際、ソサエティーはどれほど都会か田舎かは存じませんが、折角『隣組』がいいように機能して、危険人物を察知していたにもかかわらず、事件を既遂にさせてしまいました。

この犯人、事件後に教会にいったとか懺悔したとか言ってますけど、「私は今日、お友達に意地悪をしました」くらいならともかく、教会で人格者の牧師さんに懺悔するレベルの問題じゃないだろ、って思います。

ご両親、心労はわかります。親なら誰しも、子供がまともに育ってくれなかったらとか、子供が他人様に迷惑をかけるコトしたらとか、そう考える他人事ではなく、簡単に無責任な強い抗議は言えなくなってします。今後も大変でしょう。
 が、安易な同情も無責任な第三者の理屈もさておき、それでも『この息子を止められるのは親しかなかった』のではないでしょうか? 

法的には二十歳を超えれば大人です。精神年齢がどうであれ、四十前にもなったら世間では子供として扱われる事はありません。でも、親にしてみれば息子はいつまでたっても息子、ならばこの犯人から事前に銃を取り上げる事のほうが、事後に教会に詫びることよりもすべき事ではなかったかと思います。
ほんと、自殺するなら事件起こす前にやってくれ、なんですけど、せめてこの教訓というか、これで銃規制がより実効的なものになることを願って止みません。

ただし銃の規制がどんなに改善されても、事件はナイフでもロープでも起こせます。でも、ヤバそうな人の対策は、結局家族兄弟が正面から向き合って事前に抑制するしかないのだと思います。



あーあ、この事件で、いちばん言いたかったコトが言えなくなってしまった・・・。


ted803 at 23:00│Comments(0)TrackBack(0) コラム 

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