2010年01月21日
miscommunication
スポーツ雑誌の老舗「Number」は毎年、この時期ラグビー特集を組んでくれる。
今年も発売された。表紙は堂々、帝京大学だった。
今年も発売された。表紙は堂々、帝京大学だった。
大学選手権を優勝した帝京大。そのレポートの冒頭、次のようなくだりがある。
クラブハウスの入り口からのぞくと、靴箱の上に、「気づいたら即行動!個人の意識が変わればチームが変わる!!ごみを拾おう。」と記された紙が貼られている。
帝京のイメージが伝わる。真面目だ。個人の意識云々のくだりと、ごみを拾おう、という極めて基本的な呼びかけとのギャップがいい。ただ、道端に空き缶やごみが落ちていたとき、あなたはどうするか。気づいたら即行動できるだろうか。
帝京のラグビーは極めてシンプルだ。ボールを奪う、キックで敵陣深く、重いブレイクダウン、堅いディフェンス、再びボールを奪う、直線的に前へ進む…。勝つためにシンプルなスタイルを貫いた末の大学日本一だった。この根底をなしているのが、この張り紙なのだろう。
「いい大人が」と見る向きもあるかもしれない。ただ、ここからチーム作りを始めるのが新興校なのだろう。準優勝した東海大の木村監督は「監督の仕事は8割生活指導」と言ったという。ラグビーと言うスポーツは人格形成だと思う。フェアで勤勉なクラブでなければ良いラグビーを形成できない。それは優れて人格形成だ。伝統校の場合、脈々と連なるOBとノウハウが優れたラグビーを継承し、その結果、人格を形成していく(もちろん往々にして継承はし尽くされるず終わることもあるが)。新興校の場合、逆のアプローチが必要だったのだろう。
帝京と東海の決勝戦はともに初優勝を懸け、稀に見る接戦だった。両チームともミスは目立たず、供に質も熱もある好ゲームだった。帝京は後半、FWの核・ボンドを負傷で欠きながら、チームとして微動だにせず、東海を降した。「ごみを拾おう」から積み重ねてきた強さだろう。こういうことから普段から意識していると、試合中のあらゆる局面で、誰もが細かいことに気づき、注意を喚起し、行動に移せる。これは練習中でも同じことかもしれない。チームにとってプラスになると思うことを、言い出せる雰囲気作り。強い組織に必要な要素だと思う。
もう一つ、印象的だったのを明治大学のレポートから引用する。
菅平の夏合宿。宿舎からグラウンドまではバス移動だ。監督は瞬時に思った。
「個人でウォームアップのために走れば、ちょうどよい距離だ。」自分なら間違いなくそうした。ほどよいペースで駆け、体を温め、コンディションを整える。でも。「誰ひとり、そうする部員はいませんでしたね。」悪意などありはしない。吉田義人は簡単に出現しない。そういう話だ。
俺なら走る。なのに走らせはしない。ジレンマか。信念か。繊細な指導は続く。
明大のレポートの〆に使われた一文だ。
伝統校は難しい。大学生と言えば一端の大人だ。だが、オトナになりきれない。伝統校のラグビー部に「ごみを拾おう」なんて気恥ずかしくて言えない。そういう文化がない。
もしかしたら、誰かがぼんやりバスに揺られながら「この距離、走ったらアップになるなあ」と思ったかもしれない。だが言い出せない。言えば、部員全員がやることになり、部員全員から恨みを買う。結局、誰かが言い出すのを待つ。ほどなく、惰性に流される。そんなサイクルなのかもしれない。
明治はシーズン深まる11月に慶應、筑波、帝京に連敗。ようやく早明戦で息を吹き返し、関西王者・関西学院を蹴散らしベスト4に進出した。その過程で、ようやく選手に「気づき」が芽生えた。
監督の吉田義人は明治を大学日本一に導き、大学ラグビーの人気を大いに高めた伝説的なキャプテンだ。吉田は自分のようなリーダーが現れるのをじっと待つしかない。伝統校は「選手の自覚」によって支えられてきた。コーチがコーチングの限界を見極め、選手の気づきにチームの成長をかけてきた伝統がある。早稲田も慶應もそうだ。コーチが頭ごなしに言うとそれは真にチームの「実」にならない。そういう雰囲気がクラブを支配している。「言ってやれよ」と思うのは、所詮、即物的な外野の目線でしかない。
「気づいたら即行動」はどのチームも持っている(ラグビーはそういう選手こそ尊敬される)はずなのに、それを表に出すのに時間がかかってしまう。伝統校のジレンマだ。
だが、これは日本社会のジレンマかもしれない。衝突や報復を恐れ、白い目で見られることを恥じらい、問題があっても見てみぬ振りをする。それは美しくないことだとその場では思いながら、何となく時が解決してくれると思ってその場をやり過ごす。
こういう時に、思っていることを口に出し、周囲が思っていることを口に出させるのがコミュニケーションであり、その結果集団を一つに纏め上げていくことがリーダーシップだろう。それが欠如しているのではないだろうか。
大学ラグビーに話を戻せば、一年間の結果は全て四年生の結果として記録される。その一年間、気づいたら行動したり、チームメイトとコミュニケーションしたり、勝利に向けて意思統一したり。それが出来る四年生、ひいてはキャプテンのいるチームは勝利する。その限りある営みこそが大学ラグビーの魅力なのだ。
ラグビーは選手の自覚が必要なスポーツだ。再来週から公開される「インビクタス」でもネルソン・マンデラは代表チームの監督ではなくキャプテンのフランソワ・ピナールを呼び出すところから話は始まる。そういうスポーツなのだ。来年の大学選手権まで、もう一年無い。今日もどこかでラガーマンが来年の自分を思い熱くなっているのだろうか。いや、周囲とのミスコミュニケーションに悩んでいるかもしれない。
思い切って話しかけろ。行動で示せ。一年は短い。
クラブハウスの入り口からのぞくと、靴箱の上に、「気づいたら即行動!個人の意識が変わればチームが変わる!!ごみを拾おう。」と記された紙が貼られている。
帝京のイメージが伝わる。真面目だ。個人の意識云々のくだりと、ごみを拾おう、という極めて基本的な呼びかけとのギャップがいい。ただ、道端に空き缶やごみが落ちていたとき、あなたはどうするか。気づいたら即行動できるだろうか。
帝京のラグビーは極めてシンプルだ。ボールを奪う、キックで敵陣深く、重いブレイクダウン、堅いディフェンス、再びボールを奪う、直線的に前へ進む…。勝つためにシンプルなスタイルを貫いた末の大学日本一だった。この根底をなしているのが、この張り紙なのだろう。
「いい大人が」と見る向きもあるかもしれない。ただ、ここからチーム作りを始めるのが新興校なのだろう。準優勝した東海大の木村監督は「監督の仕事は8割生活指導」と言ったという。ラグビーと言うスポーツは人格形成だと思う。フェアで勤勉なクラブでなければ良いラグビーを形成できない。それは優れて人格形成だ。伝統校の場合、脈々と連なるOBとノウハウが優れたラグビーを継承し、その結果、人格を形成していく(もちろん往々にして継承はし尽くされるず終わることもあるが)。新興校の場合、逆のアプローチが必要だったのだろう。
帝京と東海の決勝戦はともに初優勝を懸け、稀に見る接戦だった。両チームともミスは目立たず、供に質も熱もある好ゲームだった。帝京は後半、FWの核・ボンドを負傷で欠きながら、チームとして微動だにせず、東海を降した。「ごみを拾おう」から積み重ねてきた強さだろう。こういうことから普段から意識していると、試合中のあらゆる局面で、誰もが細かいことに気づき、注意を喚起し、行動に移せる。これは練習中でも同じことかもしれない。チームにとってプラスになると思うことを、言い出せる雰囲気作り。強い組織に必要な要素だと思う。
もう一つ、印象的だったのを明治大学のレポートから引用する。
菅平の夏合宿。宿舎からグラウンドまではバス移動だ。監督は瞬時に思った。
「個人でウォームアップのために走れば、ちょうどよい距離だ。」自分なら間違いなくそうした。ほどよいペースで駆け、体を温め、コンディションを整える。でも。「誰ひとり、そうする部員はいませんでしたね。」悪意などありはしない。吉田義人は簡単に出現しない。そういう話だ。
俺なら走る。なのに走らせはしない。ジレンマか。信念か。繊細な指導は続く。
明大のレポートの〆に使われた一文だ。
伝統校は難しい。大学生と言えば一端の大人だ。だが、オトナになりきれない。伝統校のラグビー部に「ごみを拾おう」なんて気恥ずかしくて言えない。そういう文化がない。
もしかしたら、誰かがぼんやりバスに揺られながら「この距離、走ったらアップになるなあ」と思ったかもしれない。だが言い出せない。言えば、部員全員がやることになり、部員全員から恨みを買う。結局、誰かが言い出すのを待つ。ほどなく、惰性に流される。そんなサイクルなのかもしれない。
明治はシーズン深まる11月に慶應、筑波、帝京に連敗。ようやく早明戦で息を吹き返し、関西王者・関西学院を蹴散らしベスト4に進出した。その過程で、ようやく選手に「気づき」が芽生えた。
監督の吉田義人は明治を大学日本一に導き、大学ラグビーの人気を大いに高めた伝説的なキャプテンだ。吉田は自分のようなリーダーが現れるのをじっと待つしかない。伝統校は「選手の自覚」によって支えられてきた。コーチがコーチングの限界を見極め、選手の気づきにチームの成長をかけてきた伝統がある。早稲田も慶應もそうだ。コーチが頭ごなしに言うとそれは真にチームの「実」にならない。そういう雰囲気がクラブを支配している。「言ってやれよ」と思うのは、所詮、即物的な外野の目線でしかない。
「気づいたら即行動」はどのチームも持っている(ラグビーはそういう選手こそ尊敬される)はずなのに、それを表に出すのに時間がかかってしまう。伝統校のジレンマだ。
だが、これは日本社会のジレンマかもしれない。衝突や報復を恐れ、白い目で見られることを恥じらい、問題があっても見てみぬ振りをする。それは美しくないことだとその場では思いながら、何となく時が解決してくれると思ってその場をやり過ごす。
こういう時に、思っていることを口に出し、周囲が思っていることを口に出させるのがコミュニケーションであり、その結果集団を一つに纏め上げていくことがリーダーシップだろう。それが欠如しているのではないだろうか。
大学ラグビーに話を戻せば、一年間の結果は全て四年生の結果として記録される。その一年間、気づいたら行動したり、チームメイトとコミュニケーションしたり、勝利に向けて意思統一したり。それが出来る四年生、ひいてはキャプテンのいるチームは勝利する。その限りある営みこそが大学ラグビーの魅力なのだ。
ラグビーは選手の自覚が必要なスポーツだ。再来週から公開される「インビクタス」でもネルソン・マンデラは代表チームの監督ではなくキャプテンのフランソワ・ピナールを呼び出すところから話は始まる。そういうスポーツなのだ。来年の大学選手権まで、もう一年無い。今日もどこかでラガーマンが来年の自分を思い熱くなっているのだろうか。いや、周囲とのミスコミュニケーションに悩んでいるかもしれない。
思い切って話しかけろ。行動で示せ。一年は短い。