2012年04月02日
審判の「認識」で成り立つのが野球
熱戦続くセンバツ。いよいよ、光星学院が東北勢初の甲子園制覇を達成しそうな気がします。
準々決勝の横浜高校対関東一の試合で、捕手のアピールプレイによるアウトというプレーがありました。
これは、捕手のファインプレーです。ネットではホームベースを踏んだかのような写真がアップされ、「本当は踏んでいるのではないか?」「誤審ではないか?」などという論調があるようですが、問題の本質は「本塁を踏んだ」という事実にはありません。
いかに、選手が審判との間でコミュニケーションするか、ということなのです。仮に踏んでいたとしても、それは審判が「踏んだ」と判定しなければ、それは「踏んでいない」という事実にしかなりません。野球というスポーツは審判の「認識」の上に成り立っているスポーツだということを理解しなければなりません。
準々決勝の横浜高校対関東一の試合で、捕手のアピールプレイによるアウトというプレーがありました。
これは、捕手のファインプレーです。ネットではホームベースを踏んだかのような写真がアップされ、「本当は踏んでいるのではないか?」「誤審ではないか?」などという論調があるようですが、問題の本質は「本塁を踏んだ」という事実にはありません。
いかに、選手が審判との間でコミュニケーションするか、ということなのです。仮に踏んでいたとしても、それは審判が「踏んだ」と判定しなければ、それは「踏んでいない」という事実にしかなりません。野球というスポーツは審判の「認識」の上に成り立っているスポーツだということを理解しなければなりません。
●ストライクゾーンを正確に測れるか?
プレートアンパイアの重要な仕事にストライク・ボールの判定があります。当然ですが審判は機会ではなく、正確なストライクゾーンのなかで正確に判定することは出来ません。審判にこの能力を求めることは、野球の存立そのものを不可能にします。野球を見る上で、この前提に立たなければなりません。
審判に求めるべきはブレのない判定です。一旦、ストライクと判定したゾーンはゆるぎなくストライクと判定してもらいたいものです。しかし、これとて人間の為せる業、ある程度のブレがあると認めなければなりません。
アウトセーフの判定もそうです。誤審はありえます。印象も大事です。タイミングはアウトでも野手が不味いプレーをしたら、セーフの判定もありえます。あるいは全力疾走を怠ったランナーがぎりぎりのタイミングになった場合、仮にセーフでも審判の印象でアウトになることもありえます。
大切なことは審判との信頼関係を結ぶことです。特に捕手は審判の特性を捕らえて、とかく相性を良くしておく事が大切です。審判に一度不信感を抱けば、それはどこまでも審判との間で不幸な関係に陥ることになります。
●印象を良くするために
名手・宮本慎也は遊撃手を守っていた頃、センター前に抜けそうな当たりを捕った場合、一回転して一塁に送球していました。逆回転して肩の力で投げることも出来るのですが、元々強肩というわけでない宮本は、一塁手が捕球する際の「捕球音」にこだわったそうです。「パフ」と力なくミットに収まるよりも、「パチッ」とミットに収まったほうが審判がアウトと言いやすいだろうと考えてのことだそうです。
審判に対してどのような印象を与えるかというのはとても大切な野球選手の要素なのです。
●確信と確信が重なればこそ
さて、横浜と関東一の試合。スクイズバントで本塁に生還した走者はベースをまたぐようにホームインしました。見ようによっては踵でベースに触れた感触はあったかもしれません。しかし、審判も捕手もベースタッチを見ていました。審判は本塁のベースタッチを確認していないわけがありません。仮に見ていなかったとしたら、「アウト」の判定を下せるわけがありません。アウトと判定した以上は審判に「触れていない」という一点の曇りもなければ出来ない行為です。だってそうでしょ。見ても居ないで「アウト」といえるのは、ハンドボールの「中東の笛」並みのアンフェアな行為です。甲子園の審判がそんないい加減なことをするはすがありません。
で、関東一の捕手もしっかり見ていた。「踏んでいない」という確信があった。だから、アピールプレーに及んだ。半信半疑でもなかなか出来るプレーではありません。ただ、この捕手は自信があって、アピールに及んだわけです。この確信と確信が重ならなければ、あのプレーは成り立ちません。
横浜の三塁走者は貴重な経験をしたことでしょう。本塁を踏んでも、審判が「本塁を踏んだ」と認識しなければ、それは本塁を踏んだことになりません。実社会でも「何々したつもりでした」は「何々した」ということにならないということです。それは、独りよがりと言われてしまうでしょう。三塁走者の子には酷な判定でしたが、これが野球であるということは間違いありません。
●ビデオ判定・テクノロジー
最近、技術の進歩に伴って、あらゆる競技で機械による判定が下されています。見ている人にとってはすっきりするのですが、スポーツの存立を考えるとあまり好ましいことではないと考えています。人間の能力には限界があり、その同じ人間が裁くから成り立つのがスポーツではないでしょうか。陸上や自転車みたいに一分一秒を争うスポーツで写真判定を行うのはありうると思いますが、野球やテニス、ラグビーなどでビデオやセンサーによる判定が広まっていることに、私は危機感を持っています。
人間と人間が争い、そこに人間の判定が介在するからこそ、面白いと思いませんか? 世紀の誤審と呼ばれるものは幾つもあります。しかし、それを乗り越えたり、有利に働かせるのもまたゲームズマンシップというものであり、こういう余地が少なくなるのはスポーツの存立を危うくすると思います。
その意味では、今回の判定について「誤審」とか批判するのは結局、スポーツの存立を理解していない行為であると私は思います。
プレートアンパイアの重要な仕事にストライク・ボールの判定があります。当然ですが審判は機会ではなく、正確なストライクゾーンのなかで正確に判定することは出来ません。審判にこの能力を求めることは、野球の存立そのものを不可能にします。野球を見る上で、この前提に立たなければなりません。
審判に求めるべきはブレのない判定です。一旦、ストライクと判定したゾーンはゆるぎなくストライクと判定してもらいたいものです。しかし、これとて人間の為せる業、ある程度のブレがあると認めなければなりません。
アウトセーフの判定もそうです。誤審はありえます。印象も大事です。タイミングはアウトでも野手が不味いプレーをしたら、セーフの判定もありえます。あるいは全力疾走を怠ったランナーがぎりぎりのタイミングになった場合、仮にセーフでも審判の印象でアウトになることもありえます。
大切なことは審判との信頼関係を結ぶことです。特に捕手は審判の特性を捕らえて、とかく相性を良くしておく事が大切です。審判に一度不信感を抱けば、それはどこまでも審判との間で不幸な関係に陥ることになります。
●印象を良くするために
名手・宮本慎也は遊撃手を守っていた頃、センター前に抜けそうな当たりを捕った場合、一回転して一塁に送球していました。逆回転して肩の力で投げることも出来るのですが、元々強肩というわけでない宮本は、一塁手が捕球する際の「捕球音」にこだわったそうです。「パフ」と力なくミットに収まるよりも、「パチッ」とミットに収まったほうが審判がアウトと言いやすいだろうと考えてのことだそうです。
審判に対してどのような印象を与えるかというのはとても大切な野球選手の要素なのです。
●確信と確信が重なればこそ
さて、横浜と関東一の試合。スクイズバントで本塁に生還した走者はベースをまたぐようにホームインしました。見ようによっては踵でベースに触れた感触はあったかもしれません。しかし、審判も捕手もベースタッチを見ていました。審判は本塁のベースタッチを確認していないわけがありません。仮に見ていなかったとしたら、「アウト」の判定を下せるわけがありません。アウトと判定した以上は審判に「触れていない」という一点の曇りもなければ出来ない行為です。だってそうでしょ。見ても居ないで「アウト」といえるのは、ハンドボールの「中東の笛」並みのアンフェアな行為です。甲子園の審判がそんないい加減なことをするはすがありません。
で、関東一の捕手もしっかり見ていた。「踏んでいない」という確信があった。だから、アピールプレーに及んだ。半信半疑でもなかなか出来るプレーではありません。ただ、この捕手は自信があって、アピールに及んだわけです。この確信と確信が重ならなければ、あのプレーは成り立ちません。
横浜の三塁走者は貴重な経験をしたことでしょう。本塁を踏んでも、審判が「本塁を踏んだ」と認識しなければ、それは本塁を踏んだことになりません。実社会でも「何々したつもりでした」は「何々した」ということにならないということです。それは、独りよがりと言われてしまうでしょう。三塁走者の子には酷な判定でしたが、これが野球であるということは間違いありません。
●ビデオ判定・テクノロジー
最近、技術の進歩に伴って、あらゆる競技で機械による判定が下されています。見ている人にとってはすっきりするのですが、スポーツの存立を考えるとあまり好ましいことではないと考えています。人間の能力には限界があり、その同じ人間が裁くから成り立つのがスポーツではないでしょうか。陸上や自転車みたいに一分一秒を争うスポーツで写真判定を行うのはありうると思いますが、野球やテニス、ラグビーなどでビデオやセンサーによる判定が広まっていることに、私は危機感を持っています。
人間と人間が争い、そこに人間の判定が介在するからこそ、面白いと思いませんか? 世紀の誤審と呼ばれるものは幾つもあります。しかし、それを乗り越えたり、有利に働かせるのもまたゲームズマンシップというものであり、こういう余地が少なくなるのはスポーツの存立を危うくすると思います。
その意味では、今回の判定について「誤審」とか批判するのは結局、スポーツの存立を理解していない行為であると私は思います。
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この記事へのコメント
1. Posted by 野球狂 2012年04月05日 05:47
今回の誤審騒動で、ネット上等で余りに判定への批判が集まる事にモヤモヤと違和感を感じていましたが、"事実ではなく認識"、成る程私はスッキリしました。余りにそのスポーツの本質から外れさせてしまう行為であったり、意図的な誤審(?)には興が削がれますが、サッカーにしろ野球にしろ、自分に有利にジャッジして貰うアピールも技術のうちだと思います。捕手の捕球動作なんかもそうですよね。そこの所での審判と捕手とのせめぎあい、といいますかやり取りは、それも観る楽しみの一つだと思うのですが。