続きです

これも同様に田人町黒田地区です 右は2016年1月
もはや閑散としており、かつて大勢の人々が集まって盛り上がっていたなんて想像もつかないです

 左「品川黒田炭鉱山神祭  捲場から県道、炭鉱広場、山神社を見る。
   (昭30(1955)頃 板津弥吉氏撮影」   (163Pより)
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さて、場所をかえてこちらは「JR勿来駅」周辺です
背景の小山がそのままの形です 線路はありませんが、農道として残っていました

 上「専用軌道の改軌工事 地固めのための機関車を通す直前の工事。
   勿来駅から450mの地点 (昭32(1957)3.25 佐々木幹氏撮影)」 (28Pより)
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同じくJR勿来駅(構内、やや北側)です 炭鉱が全盛だった時代は、この駅が各炭鉱とをつなぐ”ハブ基地”となっていました いくつもの路線がこの駅を中心にして設置されていたのです
その面影がなくなっているのは寂しいですね

 上「大日本炭鉱専用軌道勿来駅付近から山元方面を望む。改軌間近
   (昭32(1957)3.27 二片栄治氏撮影) 」  (138Pより)
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次の写真は、この本の中で「昔の子どもたちの様子をとらえた素敵な写真だなあ」と一番印象に残ったものです ぜひ現在の写真と重ね合わせたい、と思って探したんですが、手がかりが乏しくて最初はわかりませんでした
でも背景にある電信柱っぽいのと鉄橋らしきものが「常磐線」だ、と気づいて、ようやく特定できました

 上「廃止となった大日本炭鉱新鉱専用軌道の蛭田川橋梁を渡る子どもたち
   (昭31(1956)2. 長谷川達雄氏撮影)」  (124Pより)
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いまは呉羽グラウンドがあって、常磐線が見渡せません 当時ここに木造の橋がかかっていたんですね


さらに場所を移動しまして、いわき市勿来町酒井地区へとやってきました 大日本勿来炭鉱があった所です
住宅地へと変っておりますね 炭鉱の施設はまったくみられませんでした

 上「ズリ山から (昭和38年)」  (冒頭挿絵より)
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ひとつ上の写真で中央に写っているエリア付近に行って見ました
かつて線路だったところは舗装道路となっておりました

 上「山神祭の日 毎年4月15日は山神祭が行われ、鉱山は一斉に休業となる。
  炭車も動かない。(昭和30年代 浅野和男氏撮影)」  (21Pより)
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朽ち果てた売店がポツンと取り残されていました
「菓子とパン たからや売店」
炭鉱の従業員達によってきっと繁盛していたのでしょう・・・
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おっと、同じような構図で撮りたかったんですが手前には大きな工場群ができていました
多分「城北化学工業」という会社です

 上「大日本勿来炭鉱の三連のズリ山 写真手前は蛭田川に架かる観音橋
   (昭36(1961)12.26)」  (冒頭挿絵より)
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その三連ズリ山のてっぺんまで移動してみました
いまでは先端が尖っているようなかんじではなく平坦になっています 使い道に困る山なのでしょう、放置されっぱなし、というかんじでした
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ズリが雨水で流れ出している様子
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こちらは当時よくみられた風景 ちなみに、蛭田川はひるたがわではなく「びんだがわ」と読みます
現在は、当然ながら石炭拾いをする人はいません 葦が繁っていて川面がみえない・・・

 上「川底の石炭拾い(蛭田川)  炭鉱から流れ落ちてきた石炭が川底にたまっている
  のをかき集めている。石炭のなかにはズリもまじっているが、それでも公衆浴場や工場
  から引っ張りだこであった。(昭32(1957) 浅野和男氏撮影)」  (85Pより)
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いかがでしたでしょうか
歴史・時の流れ、というものをつかの間感じていただけたとしたらうれしいです
東北のとあるイナカ町にこのような炭鉱があったことをご紹介できて良かったと思っています

そしてこれらの炭鉱には日本各地から働き手が流入しており、もちろんその中には九州出身の人々もいたわけです それらの方々が持ち寄った文化が交じり合い溶け合って現在のいわき市民に受け継がれている、という一面はきっとあると思います(私の中にも)

そんな考えに辿りついた今回の帰省でした
「黒ダイヤの記憶」著者のおやけこういち様、この本のおかげで良い時間を過ごすことができました、感謝いたします!
(この本が欲しいと思った方はぜひ購入を!引用した以外にもたくさんの写真が満載です!)

もう少し、つづきます


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