2008年03月25日
『日本映画の巨匠から見た現代の日本とは?』小栗康平監督
今月5日、アメリカ映画業界が発表したデータによりますと、2007年度の全世界の映画興行収入が過去最高の267億2000万ドル(2兆7700億円)になることがわかりました。中国、ロシアが経済発展して映画人口が増えたのが要因と見られている。同じ2007年の日本の映画興行収入では邦画の興行収入は前年比12パーセントダウン。復活という勢いはなくなった。
野中英紀さん:見たいのがない。子供向けのものが多い感じがするし、同じものの焼き直し、恋〜とか。主人公が必ず不治の病とか。あと、テレビ局が作っている奴がどうも劣化しているな。話題になっているから見に行った結果これが映画なのかという作品が多くて見る動機がない。邦画に限らず洋画も。映画館にわざわざ行かないというものがなくなってきた。一方でアニメはマーケットが世界に広がって、高度なものも出てきて。シネコンが増えて、そこがお客を食っている感じもする。
今夜のゲストは、宮本輝さんの小説を原作にした初監督作品「泥の河」でいきなり、本場アメリカのアカデミー賞にノミネートされて以降、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した「死の棘
」など、作った作品のほとんどが海外の映画祭で賞を獲ったという、映画監督の小栗康平さんです!
それぞれの作品で戦後の日本の姿を切り取ってきた監督の目に、いまの日本はどう映っているのでしょうか?
今夜は、小栗監督をスタジオにお招きし、お話を伺いました。
(小栗 康平作品
)

野中さん:日本が誇ると言ってもいいと思うんですが。個人的には邦画は黒澤さんとか小津さんとか溝口さん、鈴木清順さんとか日本が世界に誇る系譜があって、その遺伝子を引き継いでいる方だと思う。その作風を見ると、フェリーニのように映像を言語として捉えた作品を作っている。小栗さんは1981年に36歳でデビューされて、以来、全ての海外の映画祭でで賞を受賞されている。1990年の「死の棘」ではカンヌでグランプリ。非常に世界的に評価の高い監督さんです。そんな小栗さんからみて今の邦画業界はどのように映っていますか。
野中さんがおっしゃった通り本当に困った状態。製作本数はかつてよりも増えている。頼りなさ。一本一本だと彫りの深さを全く感じない。
野中さん:画もそうですが、中身も希薄でしょうがない。映画にするべきなのかよりもむしろ、マーケタビリティ、ソースバリュー、ネームバリュー、ドラマでヒットしたからと作られている。ケータイ小説が基で作られたものが大量にあるのも原因かもしれないですが。ケータイ小説を読んだユーザーを呼び込めるだろうという仮説に基づいて映画が作られている。
テレビ局主導でデートムービーの軽めの作品が大量生産されている。ほとんど似通った内容であると。映画館で上映される邦画の幅が狭くなっているような気がしますが、監督ご自身はどう考えますか。
商業映画が一概に悪いというくくりは良くない。かつて日本映画が元気だった時には産業としての幅があったんですね。間口が広かった。その中で黒澤さんだって、小津さんだってその枠の中で見事な作品を残した。今は間口がどんどん狭くなってきて、映画の多様性が全然確保できない。速い回転に陥る。
野中さん:経済効率が優先されて、質は二の次に。
作り手も観客もどの場面においてもクリエイティブな想像がなくてどの局面でも全てが消費でしかない。
野中さん:ここ数年で監督が気に入った作品はありましたか。
ここ3年ほど芸術選奨の審査をしていて、何十本か見たんですが、去年はなかった。2、3年前の「メゾン・ド・ヒミコ
」は良かった。でも、とても数が少ない。
レポーター:25年で5本撮られていますよね。随分少ないなという気もしますが、作品を作るにはそのくらいの期間が必要ですか。
というか、そうそう撮らせてくれないんですよ。儲からないといけないから。
野中さん:そういう意味ではハリウッドシステムのように映画のコンテンツファンドがあって、台本の数ページのスクリプトの段階から投資家かがついてリライトして、原作の脚本の価値が上がり、最終的には数十億単位の金が集る。1つの映画ファンドで数百億でもって数十本を運用する。そういうシステムが日本では取り入れられていないのもありますが。日本では製作委員会単位で1本ずつで経済効率を計って、資金の回収を1本でするのが日本のシステム。リスクが取れないんですよね。日本の映画産業は。
アメリカのファンドはいかにリスクを分散するか。
野中さん:10本のうちの1本が当たれば全部回収できてしまうくらいのシステムで。金融商品になっている。映画投資ファンドは。小栗さんが5年に1本なのは金融的なマネージメントが小栗さんの作品の作り上げていく過程が馴染まないということがあるんですか。
アメリカのシステムも全て良いとは思わないんですね。例えば、ストーリーライターとダイアログライターは別れていて、物語と生きた会話を書く人は別な人で。積極的な分業をすることで映画がより良くなる側面はある。アメリカ映画はそういうところを持っているとは思うんですが。
興行収入の数字だけ聞くと驚きますが、結局は東西冷戦が崩壊して、かつての東側諸国にハリウッド映画が雪崩うっている。ハリウッドの一極支配が起きて、強い流れが日本にも入ってきて、日本はやられ放題で植民地状態。アメリカ映画の。
野中さん:未だもって軍事的には占領されているのと変わらないですからね。
レポーター:デビュー作の「泥の河」から「伽倻子のために」「死の棘」と続けて1950年代を舞台にされていて、これらの作品は戦後3部作と言われていますが、ご自身は1950年、昭和30年代をどう捉えていらっしゃいますか。
私自身の幼年期で自己形成にどう関わったかを確かめてみたいと思うんですが。
野中さん:「死の棘」は特攻帰りの主人公で。セットのディテールが驚異的で。非常に映画の本来の描くべきもの、映画はただのエンターテイメントであればいいというものではない。何のために映画を作るか。「死の棘」は辛いと思う人もいて、身につまされてぞっとする人もいるかもしれないし、笑い転げる人もいる、見える人によって客体化されたのもが考え方が違う。小栗さんは俳優の方々を客体化されていると感じたいんですが。まさに映像文学だなと思うんですね。
映画は画像を見るということから始まって、映画の歴史もサイレントからですから。
野中さん:小栗さんの作品で共通しているのは台詞が被らないですよね。間が、台詞回しが凄いんですよ。意識されているんですか。
そうですね。しゃべり言葉が被るように会話が進むと会話は伝えていることしか追いかけなくなる。そこに間が出来ると言葉が相対化される。いろいろなことに結びついて。小津さんの映画は会話のカットバックが緩やかに起きるけれど、会話ということで捉えると相手が言ったから答えているというやりとりになるけれども、本当はそうではない。この人の世界があり、この人の世界があり、それをつなげて見た場合に会話の側面は持つという程度。言葉はそのくらいの隙間とか、言い切れないものを背後に持っている。
野中さん:特に、戦後3部作の中で特に1950年代、成長し続けた家族の姿は今の社会は相当様変わりしたように思いますが。
激変しましたね。昨日も殺人事件があって、どこから崩壊したか見えなくなってきた。生活実感が手に触れるものとしてあった昭和30年代。つまづけばその理由はわかったはず。つまづかなくてもいい状態で生きていてもそれがなぜなのかはわからない。つまづいてもわからない。どっちに転んでも何のために起きているのかつかみがたい時代。
野中さん:衆院、参院がねじれとなっていて、政治のよみが出ているような気がしますが。小栗さんはネットで手触り間がなくなったのは政治の世界ではないかとおっしゃっていますよね。政治の世界の動きと一般民衆の生活の間に差に隔離されたように感じるのですが。
ありますね。今、議会制民主主義しかないわけですから。ここを頼りにするしかないんですが。小選挙制度も含めて実感という乖離しているようね。
野中さん:積極的に政治に参加しようとしても手触り感が得られない。
政治の世界に近いのは1996年に役所広司さん主演の「眠る男
」を作られましたが、地方自治体の群馬県が製作費の全てを拠出したことで、税金で作品を作られて話題になりましたが。財政難という今、ああいう試みは今後。
むしろ厳しくなってくるでしょうけど。お金がなくなれば、文化、福祉が切られるのが普通ですから。逆でお金が余ったから文化に使うのではなくて、苦しいから想像力を持つために、夢を持つために文化に金を出すんだという順番が逆だと思う。
野中さん:文化にお金を通しするのは世知辛いですから。
レポーター:もし、2008年の日本を舞台に映画を作るとすればどんな題材でどんな人間性を描きたいですか。
う〜ん。厳しい質問だな。中年の男が大泣きして街をさまようのはどう。
野中さん:「死の棘」で一徳さんが大泣きするシーンで、みにつまされました。2005年に作られた「埋もれ木
」は久々にうっとりして映画を見れました。夢と現実の間を行ったり来たりするのが映画の楽しみなんだけれども。凄く覚醒しながら呆然と見られる。ほぼ全ての画に言葉以上のものを感じた。あれはあらすじ、ストーリーを簡単にするのが意味のない、文章化できない映画だったんですが。
特に、今後の作品、着手されるご予定はありますか。
まだです。
映画は画像と言葉が重なり合ったり離れたりして奥行きを作るものですから、今こそもっと大事にしていかないといけないなと思います。
野中さん:映画を見る体験はそういうものですよね。テレビで見るよりもスクリーンに投影されたもので見るほうが。音響も小栗さんは凝っていらっしゃって現実が変わっていく感じがする。そういう体験を得るのはなかなか稀有なことですしね。是非、ボックスセットでDVDが出るんですよね。まだご覧になっていない方は体験していただきたいと思うんですが。
レポーター:リスナー、映画監督志望の若い方に是非、メッセージを。
みるということは自分の眼でみるしかなくて本来一人ぼっちなんですよ。そのことにひるまないで自分なりにじっくりみる。そうあって欲しい。
レポーター:映画監督になるための素養は。
ないよ。そんなの。
野中さん:そう言われて、そうかと思う人もいるし、そんなわけないよという人もいるかもしれないけど。
でも、僕は世界に誇る方だと思うのでどんどん作品を作っていってもらいたいし。今上映中なんですよ。
レポーター:先週の土曜日から来月11日までポレポレ東中野で小栗康平特集として監督の全作品が上映中です。土曜、日曜にはゲストとの対談も予定されている。
野中さん:映画を見る体験はこういうものだという実感をしていただきたいです。
(2008年03月25日J-WAVE JAM The World「15MINUTES」から)
社会をちゃんと描ける日本で数少ない監督。ではあるけれども、商業的には日本での客のパイは少ないかもしれない。商業的、マーケティング的に稼げる映画に特化すると、テレビドラマ、ベストセラーのもの、シリーズ、リメイクとなってしまい質は下がる。文化というよりも消費されるだけのものになる。お金を払って時間を浪費する価値は全くないものばかりになった。
アメリカは映画製作を国策的に進めていて、しかも世界にマーケットを持つし、世界の才能が集ってくる。しかし、近年アメリカのハリウッドメジャーの作品は全く面白さのかけらもない。
小栗監督の話で昭和30年代は今よりも良い時代だったように語っていたが、果たしてそうだろうか。今よりも良い面もあるが、悪い面もある。殺人事件の件数は断然、当時のほうが多い。政治でも政治家、議会と国民が思っていることの乖離は昔からあったと思う。ネットの登場で新聞やテレビだけではない少し多様な視点が垣間見えるという利点はあると思う。ネットの登場で物を買うにもどこかに行くにもネットで迂回することなく、ショートカットで辿り着いてしまう。そういうものを手触り感というなら、手触り感がなくなったのは政治に限ったことではない。
間とか行間を大切にしていると監督がおっしゃっていたが、最近の映画はストレートすぎる。とくに邦画の大作は。考えさせる余白がない。
この鼎談は野中さんが監督のファンなのか、凄く力が入っていて乗り気だったのが伝わってきた。
野中英紀さん:見たいのがない。子供向けのものが多い感じがするし、同じものの焼き直し、恋〜とか。主人公が必ず不治の病とか。あと、テレビ局が作っている奴がどうも劣化しているな。話題になっているから見に行った結果これが映画なのかという作品が多くて見る動機がない。邦画に限らず洋画も。映画館にわざわざ行かないというものがなくなってきた。一方でアニメはマーケットが世界に広がって、高度なものも出てきて。シネコンが増えて、そこがお客を食っている感じもする。
今夜のゲストは、宮本輝さんの小説を原作にした初監督作品「泥の河」でいきなり、本場アメリカのアカデミー賞にノミネートされて以降、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した「死の棘
それぞれの作品で戦後の日本の姿を切り取ってきた監督の目に、いまの日本はどう映っているのでしょうか?
今夜は、小栗監督をスタジオにお招きし、お話を伺いました。
(小栗 康平作品

野中さん:日本が誇ると言ってもいいと思うんですが。個人的には邦画は黒澤さんとか小津さんとか溝口さん、鈴木清順さんとか日本が世界に誇る系譜があって、その遺伝子を引き継いでいる方だと思う。その作風を見ると、フェリーニのように映像を言語として捉えた作品を作っている。小栗さんは1981年に36歳でデビューされて、以来、全ての海外の映画祭でで賞を受賞されている。1990年の「死の棘」ではカンヌでグランプリ。非常に世界的に評価の高い監督さんです。そんな小栗さんからみて今の邦画業界はどのように映っていますか。
野中さんがおっしゃった通り本当に困った状態。製作本数はかつてよりも増えている。頼りなさ。一本一本だと彫りの深さを全く感じない。
野中さん:画もそうですが、中身も希薄でしょうがない。映画にするべきなのかよりもむしろ、マーケタビリティ、ソースバリュー、ネームバリュー、ドラマでヒットしたからと作られている。ケータイ小説が基で作られたものが大量にあるのも原因かもしれないですが。ケータイ小説を読んだユーザーを呼び込めるだろうという仮説に基づいて映画が作られている。
テレビ局主導でデートムービーの軽めの作品が大量生産されている。ほとんど似通った内容であると。映画館で上映される邦画の幅が狭くなっているような気がしますが、監督ご自身はどう考えますか。
商業映画が一概に悪いというくくりは良くない。かつて日本映画が元気だった時には産業としての幅があったんですね。間口が広かった。その中で黒澤さんだって、小津さんだってその枠の中で見事な作品を残した。今は間口がどんどん狭くなってきて、映画の多様性が全然確保できない。速い回転に陥る。
野中さん:経済効率が優先されて、質は二の次に。
作り手も観客もどの場面においてもクリエイティブな想像がなくてどの局面でも全てが消費でしかない。
野中さん:ここ数年で監督が気に入った作品はありましたか。
ここ3年ほど芸術選奨の審査をしていて、何十本か見たんですが、去年はなかった。2、3年前の「メゾン・ド・ヒミコ
レポーター:25年で5本撮られていますよね。随分少ないなという気もしますが、作品を作るにはそのくらいの期間が必要ですか。
というか、そうそう撮らせてくれないんですよ。儲からないといけないから。
野中さん:そういう意味ではハリウッドシステムのように映画のコンテンツファンドがあって、台本の数ページのスクリプトの段階から投資家かがついてリライトして、原作の脚本の価値が上がり、最終的には数十億単位の金が集る。1つの映画ファンドで数百億でもって数十本を運用する。そういうシステムが日本では取り入れられていないのもありますが。日本では製作委員会単位で1本ずつで経済効率を計って、資金の回収を1本でするのが日本のシステム。リスクが取れないんですよね。日本の映画産業は。
アメリカのファンドはいかにリスクを分散するか。
野中さん:10本のうちの1本が当たれば全部回収できてしまうくらいのシステムで。金融商品になっている。映画投資ファンドは。小栗さんが5年に1本なのは金融的なマネージメントが小栗さんの作品の作り上げていく過程が馴染まないということがあるんですか。
アメリカのシステムも全て良いとは思わないんですね。例えば、ストーリーライターとダイアログライターは別れていて、物語と生きた会話を書く人は別な人で。積極的な分業をすることで映画がより良くなる側面はある。アメリカ映画はそういうところを持っているとは思うんですが。
興行収入の数字だけ聞くと驚きますが、結局は東西冷戦が崩壊して、かつての東側諸国にハリウッド映画が雪崩うっている。ハリウッドの一極支配が起きて、強い流れが日本にも入ってきて、日本はやられ放題で植民地状態。アメリカ映画の。
野中さん:未だもって軍事的には占領されているのと変わらないですからね。
レポーター:デビュー作の「泥の河」から「伽倻子のために」「死の棘」と続けて1950年代を舞台にされていて、これらの作品は戦後3部作と言われていますが、ご自身は1950年、昭和30年代をどう捉えていらっしゃいますか。
私自身の幼年期で自己形成にどう関わったかを確かめてみたいと思うんですが。
野中さん:「死の棘」は特攻帰りの主人公で。セットのディテールが驚異的で。非常に映画の本来の描くべきもの、映画はただのエンターテイメントであればいいというものではない。何のために映画を作るか。「死の棘」は辛いと思う人もいて、身につまされてぞっとする人もいるかもしれないし、笑い転げる人もいる、見える人によって客体化されたのもが考え方が違う。小栗さんは俳優の方々を客体化されていると感じたいんですが。まさに映像文学だなと思うんですね。
映画は画像を見るということから始まって、映画の歴史もサイレントからですから。
野中さん:小栗さんの作品で共通しているのは台詞が被らないですよね。間が、台詞回しが凄いんですよ。意識されているんですか。
そうですね。しゃべり言葉が被るように会話が進むと会話は伝えていることしか追いかけなくなる。そこに間が出来ると言葉が相対化される。いろいろなことに結びついて。小津さんの映画は会話のカットバックが緩やかに起きるけれど、会話ということで捉えると相手が言ったから答えているというやりとりになるけれども、本当はそうではない。この人の世界があり、この人の世界があり、それをつなげて見た場合に会話の側面は持つという程度。言葉はそのくらいの隙間とか、言い切れないものを背後に持っている。
野中さん:特に、戦後3部作の中で特に1950年代、成長し続けた家族の姿は今の社会は相当様変わりしたように思いますが。
激変しましたね。昨日も殺人事件があって、どこから崩壊したか見えなくなってきた。生活実感が手に触れるものとしてあった昭和30年代。つまづけばその理由はわかったはず。つまづかなくてもいい状態で生きていてもそれがなぜなのかはわからない。つまづいてもわからない。どっちに転んでも何のために起きているのかつかみがたい時代。
野中さん:衆院、参院がねじれとなっていて、政治のよみが出ているような気がしますが。小栗さんはネットで手触り間がなくなったのは政治の世界ではないかとおっしゃっていますよね。政治の世界の動きと一般民衆の生活の間に差に隔離されたように感じるのですが。
ありますね。今、議会制民主主義しかないわけですから。ここを頼りにするしかないんですが。小選挙制度も含めて実感という乖離しているようね。
野中さん:積極的に政治に参加しようとしても手触り感が得られない。
政治の世界に近いのは1996年に役所広司さん主演の「眠る男
むしろ厳しくなってくるでしょうけど。お金がなくなれば、文化、福祉が切られるのが普通ですから。逆でお金が余ったから文化に使うのではなくて、苦しいから想像力を持つために、夢を持つために文化に金を出すんだという順番が逆だと思う。
野中さん:文化にお金を通しするのは世知辛いですから。
レポーター:もし、2008年の日本を舞台に映画を作るとすればどんな題材でどんな人間性を描きたいですか。
う〜ん。厳しい質問だな。中年の男が大泣きして街をさまようのはどう。
野中さん:「死の棘」で一徳さんが大泣きするシーンで、みにつまされました。2005年に作られた「埋もれ木
特に、今後の作品、着手されるご予定はありますか。
まだです。
映画は画像と言葉が重なり合ったり離れたりして奥行きを作るものですから、今こそもっと大事にしていかないといけないなと思います。
野中さん:映画を見る体験はそういうものですよね。テレビで見るよりもスクリーンに投影されたもので見るほうが。音響も小栗さんは凝っていらっしゃって現実が変わっていく感じがする。そういう体験を得るのはなかなか稀有なことですしね。是非、ボックスセットでDVDが出るんですよね。まだご覧になっていない方は体験していただきたいと思うんですが。
レポーター:リスナー、映画監督志望の若い方に是非、メッセージを。
みるということは自分の眼でみるしかなくて本来一人ぼっちなんですよ。そのことにひるまないで自分なりにじっくりみる。そうあって欲しい。
レポーター:映画監督になるための素養は。
ないよ。そんなの。
野中さん:そう言われて、そうかと思う人もいるし、そんなわけないよという人もいるかもしれないけど。
でも、僕は世界に誇る方だと思うのでどんどん作品を作っていってもらいたいし。今上映中なんですよ。
レポーター:先週の土曜日から来月11日までポレポレ東中野で小栗康平特集として監督の全作品が上映中です。土曜、日曜にはゲストとの対談も予定されている。
野中さん:映画を見る体験はこういうものだという実感をしていただきたいです。
(2008年03月25日J-WAVE JAM The World「15MINUTES」から)
社会をちゃんと描ける日本で数少ない監督。ではあるけれども、商業的には日本での客のパイは少ないかもしれない。商業的、マーケティング的に稼げる映画に特化すると、テレビドラマ、ベストセラーのもの、シリーズ、リメイクとなってしまい質は下がる。文化というよりも消費されるだけのものになる。お金を払って時間を浪費する価値は全くないものばかりになった。
アメリカは映画製作を国策的に進めていて、しかも世界にマーケットを持つし、世界の才能が集ってくる。しかし、近年アメリカのハリウッドメジャーの作品は全く面白さのかけらもない。
小栗監督の話で昭和30年代は今よりも良い時代だったように語っていたが、果たしてそうだろうか。今よりも良い面もあるが、悪い面もある。殺人事件の件数は断然、当時のほうが多い。政治でも政治家、議会と国民が思っていることの乖離は昔からあったと思う。ネットの登場で新聞やテレビだけではない少し多様な視点が垣間見えるという利点はあると思う。ネットの登場で物を買うにもどこかに行くにもネットで迂回することなく、ショートカットで辿り着いてしまう。そういうものを手触り感というなら、手触り感がなくなったのは政治に限ったことではない。
間とか行間を大切にしていると監督がおっしゃっていたが、最近の映画はストレートすぎる。とくに邦画の大作は。考えさせる余白がない。
この鼎談は野中さんが監督のファンなのか、凄く力が入っていて乗り気だったのが伝わってきた。























