2026年05月21日
拙ブログ「小さな旅─和歌山県田辺市・切荘百貨店の屋上観覧車」(2026年3月19日)で、切荘百貨店の「切荘」(きりそう)の名前の由来がわからないとお伝えしました。百貨店の会長だった榎本虎吉さんは、切荘陶器店のオーナーでした。そのことから百貨店建設のための土地を提供した榎本さんにリスペクトして「切荘百貨店」と名付けたと推察できます。
では「切荘」にはどういう意味があるのか、ずっと心に引っかかっていました。辞書やネットで調べても見つかりません。
昨日、他の調べで大阪府立中之島図書館に出かけました。調べたかった案件をコピーし終えてから、同じ部屋にある「相談コーナー」で相談してみました。もしかしたら、仏教辞典などに出ているかもしれないと思ったからです。
司書さんは私と同じく国会図書館デジタルコレクションでも調べてくださいました。「切荘」ということばが仏典らしき書物のなかにあっても、それがなにかはわかりませんでしたが、次のような言葉を見つけてくださったのです。
一切荘厳皆説法 (太字表記にしたのは私(福井優子)です)
(参照:真宗の教化と実践、名古屋同朋大学仏教会 「同朋仏教」編集部)
つまり切荘は「一切荘厳」のなかから切り取られて屋号になったと思われました。榎本虎吉さんは信仰心の厚い方だったのでしょう。
帰宅後、パソコンで「一切荘厳皆説法(いっさいしょうごんかいせっぽう)」を詳しく調べてみました。
AIの説明は次の通りです。
***********
「一切荘厳皆説法(いっさいしょうごんかいせっぽう)」は、極楽浄土のあらゆる風景や音、光などの飾り(荘厳)が、すべて真理を説き示しているという仏教の言葉です。善導大師の『往生礼讃』に示され、浄土真宗などで大切にされている教えです。
どんな意味?
一切荘厳(いっさいしょうごん): 極楽浄土の美しい光や音、鳥のさえずりなど、五感で感じるすべての環境や装飾を指します。
皆説法(かいせっぽう): そのすべてが、阿弥陀如来からの私たちに向けられた真理の教え(説法)であるという意味です。
日常へのまなざし
この言葉は、単に浄土の情景を描写するにとどまりません。私たちが生きているこの世界もまた、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、身の回りに起きるすべての出来事が、私たちに「大切なこと」を語りかけている(説法している)という深い気づきを与えてくれます。
************
再度、国会図書館デジタルコレクションで「切荘」と検索したところ、「一切荘厳の跡には「具摩・・・」とか「従此・・・」などのように、必ずしも「一切荘厳皆説法」だけではありません。国会図書館デジタルコレクションで最初に検索したとき、「一切」の「一」が漢字ではなく、横線の「ー」と思い込んでいたのがまちがいでした。
ときどき、見てきたような嘘を平気でつくAIですが、今回は信用したいと思います。
相談に乗ってくださった司書さん、ありがとうございました。
写真は国会デジタルコレクションより
『三部聖典 六時礼讃』(梶 宝順編)60ページ上段3行目
では「切荘」にはどういう意味があるのか、ずっと心に引っかかっていました。辞書やネットで調べても見つかりません。
昨日、他の調べで大阪府立中之島図書館に出かけました。調べたかった案件をコピーし終えてから、同じ部屋にある「相談コーナー」で相談してみました。もしかしたら、仏教辞典などに出ているかもしれないと思ったからです。
司書さんは私と同じく国会図書館デジタルコレクションでも調べてくださいました。「切荘」ということばが仏典らしき書物のなかにあっても、それがなにかはわかりませんでしたが、次のような言葉を見つけてくださったのです。
一切荘厳皆説法 (太字表記にしたのは私(福井優子)です)
(参照:真宗の教化と実践、名古屋同朋大学仏教会 「同朋仏教」編集部)
つまり切荘は「一切荘厳」のなかから切り取られて屋号になったと思われました。榎本虎吉さんは信仰心の厚い方だったのでしょう。
帰宅後、パソコンで「一切荘厳皆説法(いっさいしょうごんかいせっぽう)」を詳しく調べてみました。
AIの説明は次の通りです。
***********
「一切荘厳皆説法(いっさいしょうごんかいせっぽう)」は、極楽浄土のあらゆる風景や音、光などの飾り(荘厳)が、すべて真理を説き示しているという仏教の言葉です。善導大師の『往生礼讃』に示され、浄土真宗などで大切にされている教えです。
どんな意味?
一切荘厳(いっさいしょうごん): 極楽浄土の美しい光や音、鳥のさえずりなど、五感で感じるすべての環境や装飾を指します。
皆説法(かいせっぽう): そのすべてが、阿弥陀如来からの私たちに向けられた真理の教え(説法)であるという意味です。
日常へのまなざし
この言葉は、単に浄土の情景を描写するにとどまりません。私たちが生きているこの世界もまた、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、身の回りに起きるすべての出来事が、私たちに「大切なこと」を語りかけている(説法している)という深い気づきを与えてくれます。
************
再度、国会図書館デジタルコレクションで「切荘」と検索したところ、「一切荘厳の跡には「具摩・・・」とか「従此・・・」などのように、必ずしも「一切荘厳皆説法」だけではありません。国会図書館デジタルコレクションで最初に検索したとき、「一切」の「一」が漢字ではなく、横線の「ー」と思い込んでいたのがまちがいでした。
ときどき、見てきたような嘘を平気でつくAIですが、今回は信用したいと思います。
相談に乗ってくださった司書さん、ありがとうございました。
写真は国会デジタルコレクションより
『三部聖典 六時礼讃』(梶 宝順編)60ページ上段3行目
2026年05月18日
東京都品川区の目黒駅に、目黒ステーションビルが開業したのは昭和42(1967)年11月のことである。民間の商業施設と合体した「民衆駅」だった。ステーションビルに隣接する目黒ターミナルビルも同時期に開業したが、こちらは民間企業の商業施設で民衆駅の一部ではない。
目黒ターミナルビルの屋上には観覧車が設置された。観覧車を製造し設置した泉陽興業の社史によると、観覧車はメリークラウンなど他の遊戯機械とともに、株式会社トーメンを通して納入された。
ターミナルビルとステーションビルは隣接していたので、よく間違われるのだが、屋上遊園地があったのはターミナルビルの屋上だ。ターミナルビルはその後、幾多の名称や組織変更を経て、現在はステーションビルと併せて「アトレ目黒」となっている。
観覧車をはじめ、屋上遊園地がいつ撤去されたのかは不明。
写真は品川図書館でコピーさせてもらった「広報しながわ」(1882号・平成25年8月1日号)より。
2枚目の写真は品川区立品川図書館。
目黒ターミナルビルの屋上には観覧車が設置された。観覧車を製造し設置した泉陽興業の社史によると、観覧車はメリークラウンなど他の遊戯機械とともに、株式会社トーメンを通して納入された。
ターミナルビルとステーションビルは隣接していたので、よく間違われるのだが、屋上遊園地があったのはターミナルビルの屋上だ。ターミナルビルはその後、幾多の名称や組織変更を経て、現在はステーションビルと併せて「アトレ目黒」となっている。
観覧車をはじめ、屋上遊園地がいつ撤去されたのかは不明。
写真は品川図書館でコピーさせてもらった「広報しながわ」(1882号・平成25年8月1日号)より。
2枚目の写真は品川区立品川図書館。
2026年05月17日
大阪市北区にあるビルトイン型観覧車のHEPファイブのイルミネーションが新しくなりました。長らく休業していたので、そのまま閉業かと心配していたのですが、元気に戻ってきました。
以前のHEPファイブのイルミネーションはライトアップ式で、開業当初の宣伝文句によると、「都心の光の海の中に挿入された真っ赤な観覧車は都市のエネルギーを象徴している」でした。私的にはあのぼんやりとした輝きが好きでしたが。
今回はド派手です。「大阪を象徴しているねん」と言われそうですが、派手過ぎん?HEPビルの地下にはパチンコ店が入っていますが、その看板なのでしょうか?
動画で撮影したのですが、YouTubeからこちらにうまくアップできません。なのでインスタグラムにアクセスできるひとはココをクリックしてください。
以前のHEPファイブのイルミネーションはライトアップ式で、開業当初の宣伝文句によると、「都心の光の海の中に挿入された真っ赤な観覧車は都市のエネルギーを象徴している」でした。私的にはあのぼんやりとした輝きが好きでしたが。
今回はド派手です。「大阪を象徴しているねん」と言われそうですが、派手過ぎん?HEPビルの地下にはパチンコ店が入っていますが、その看板なのでしょうか?
動画で撮影したのですが、YouTubeからこちらにうまくアップできません。なのでインスタグラムにアクセスできるひとはココをクリックしてください。
2026年05月08日
泉陽興業の社史『泉陽興業60年史』によると、佐賀県唐津市の「まいづる百貨店」の屋上にも観覧車が設置されていた。設置されたのは昭和41(1966)年4月だった。スペック(高さや直径などの数字のこと)の記載はない。
まいづる百貨店は、現在では百貨店形式ではなく大型スーパーマーケット数店舗やレストランなどを運営する、唐津市を代表する大企業だ。ところが同社の公式サイトにある「沿革」には、昭和41(1966)年に行われた増改築に関する記載がない。
公式サイトによる沿革は次の通り。西暦は私(福井優子)が付け加えた。拙ブログではなるべく元号と西暦を併記している。
昭和8(1933)年 唐津市大手口に唐津初の本格的鉄筋コンクリート建ての大手ビル百貨店(後のまいづる百貨店)建設
昭和32(1957)年 株式会社まいづる百貨店を設立
昭和45(1970)年 まいづる百貨店増築(地上4階・地下1階)
昭和49(1974)年 まいづる百貨店増築(地上7階・地下1階)(売場面積3千平方メートル)
(後略)
おそらく「昭和41年」が「昭和45年」と誤記されたのではと推察する。この観覧車について唐津市近代図書館に問い合わせたところ、当時の地元紙を丹念に調べてくださった。そのうちの1紙、唐津新聞(昭和41年4月30日)には「全館落成記念」として新館のイラストが全面広告で掲載されていた。屋上には観覧車が描かれている。もっとも新装開店は翌月の5月3日だった。(上記の写真参照)
まいづる百貨店が屋上に遊園地を設置したのは、昭和41年が初めてではなく、昭和32年にまいづる百貨店を設立したときに、3階屋上に遊園地を設営して飛行塔もあった(佐賀新聞・平成3年2月6日付「まつら今昔」より)。新聞記事によると、「まいづる百貨店」というネーミングも、このとき市民から募集して決まったとある。約6割の市民が支持したそうだ。
「まいづる」と言う名前は舞鶴城(唐津城)に因んだと思われる。唐津城の建つ周辺の松原が、左右に羽を広げた鶴のようなかたちから舞鶴城と呼ばれるようになったという。鶴は唐津市の市鳥でもある。
観覧車がいつ撤去されたのかは不明。おそらく昭和49年に7階建てに増改築されたときに撤去されたのではと推察。残念ながら観覧車の写真は現時点では見つかっていない。唐津市民のどなたかのアルバムに眠っているのかもしれない。
唐津市近代図書館の姉川さん、いろいろとお調べくださいましてありがとうございました。
まいづる百貨店は、現在では百貨店形式ではなく大型スーパーマーケット数店舗やレストランなどを運営する、唐津市を代表する大企業だ。ところが同社の公式サイトにある「沿革」には、昭和41(1966)年に行われた増改築に関する記載がない。
公式サイトによる沿革は次の通り。西暦は私(福井優子)が付け加えた。拙ブログではなるべく元号と西暦を併記している。
昭和8(1933)年 唐津市大手口に唐津初の本格的鉄筋コンクリート建ての大手ビル百貨店(後のまいづる百貨店)建設
昭和32(1957)年 株式会社まいづる百貨店を設立
昭和45(1970)年 まいづる百貨店増築(地上4階・地下1階)
昭和49(1974)年 まいづる百貨店増築(地上7階・地下1階)(売場面積3千平方メートル)
(後略)
おそらく「昭和41年」が「昭和45年」と誤記されたのではと推察する。この観覧車について唐津市近代図書館に問い合わせたところ、当時の地元紙を丹念に調べてくださった。そのうちの1紙、唐津新聞(昭和41年4月30日)には「全館落成記念」として新館のイラストが全面広告で掲載されていた。屋上には観覧車が描かれている。もっとも新装開店は翌月の5月3日だった。(上記の写真参照)
まいづる百貨店が屋上に遊園地を設置したのは、昭和41年が初めてではなく、昭和32年にまいづる百貨店を設立したときに、3階屋上に遊園地を設営して飛行塔もあった(佐賀新聞・平成3年2月6日付「まつら今昔」より)。新聞記事によると、「まいづる百貨店」というネーミングも、このとき市民から募集して決まったとある。約6割の市民が支持したそうだ。
「まいづる」と言う名前は舞鶴城(唐津城)に因んだと思われる。唐津城の建つ周辺の松原が、左右に羽を広げた鶴のようなかたちから舞鶴城と呼ばれるようになったという。鶴は唐津市の市鳥でもある。
観覧車がいつ撤去されたのかは不明。おそらく昭和49年に7階建てに増改築されたときに撤去されたのではと推察。残念ながら観覧車の写真は現時点では見つかっていない。唐津市民のどなたかのアルバムに眠っているのかもしれない。
唐津市近代図書館の姉川さん、いろいろとお調べくださいましてありがとうございました。
2026年05月03日
「速報!─茨城県に屋上観覧車はあった!」(2026年4月12日)でお知らせしたように、「屋上観覧車は無かったかも」の4県(茨城、新潟、滋賀、奈良)中の茨城県に、屋上観覧車があったことが判明しました。
屋上観覧車があったのは、水戸市にあった志満津百貨店(現在の京成百貨店)で、昭和33(1958)年12月2日に、地上8階地下1階の鉄筋ビルとして新装開店したときに設置されている。
観覧車が写った写真は、水戸市立博物館発行の『昭和ラプソティ 一杯の珈琲を飲みながら』(2022年10月22日)の27ページと、その続編として刊行された『追憶の水戸街なかアルバム 改訂版』の19ページに掲載されている。両者は同じ写真だが、後者のほうが鮮明で、設置年も詳細に記載されている。提供者は嶋津恒雄さん。志満津百貨店の元社長で、創設者である嶋津孝之介さんの息子さん。
ウィキペディアによる志満津の沿革は次の通り(観覧車設置までの沿革)
明治41(1908)年5月:志満津呉服店として茨城県常陸太田市で創業
昭和21(1946)年10月:水戸市に水戸店を開業
昭和24(1949)年7月:志満津百貨店に改称し、太田店と水戸店で営業開始
(後略)
改訂版の写真を見ると、観覧車は8階の屋上ではなく、3階建ての屋上(4階部分に該当か)に設置されている。眺望を愛でるというより、乗り物に乗って遊ぶのが目的だったのではと思われる。他の遊戯機械が写っていないが、建物の後に隠れているのか、それとも遊戯機械は観覧車だけだったのだろうか。
当時、国道を隔ててライバル百貨店「伊勢甚」が向かい合っていた。伊勢甚にも屋上遊園地があったのだが、観覧車の有無は判明していない。
AIに尋ねると「昭和32年にあった!」というが、私はこの点に関してはAIを信用していない。AIはときどき見てきたようなうそをつくからだ。
伊勢甚にメールで尋ねたのだが、返事はいただいていない。昔のことなのでもう知っている人も少ないし、資料も残っていないのだろう。ただ『昭和ラプソディ』の32ページには伊勢甚本社提供の、当時の伊勢甚の写真が掲載されていて、屋上にはお城のような建物が写っている。屋上にお城の遊園地を設営した百貨店はよくあるのだが、その場合、観覧車が併設されていることが多い。
とりあえずは、茨城県に観覧車があったということで、無かったかもしれない県は、新潟、滋賀、奈良の3県となった。これらは暫定的結果であって、最終的な判定は未定としたい。
情報を提供してくださった水戸市在住のソノコさん、ありがとうございました。
追補
もし伊勢甚に観覧車が無かった場合、志満津の観覧車が茨城県で初の観覧車であった可能性がある。茨城県には日立市に神峯公園という遊園地があった。昭和35(1960)年にこの遊園地に観覧車が設置されている。
詳細を知りたいひとはココをクリック。それよりも古いので茨城県初だったかもしれないのだ。
屋上観覧車があったのは、水戸市にあった志満津百貨店(現在の京成百貨店)で、昭和33(1958)年12月2日に、地上8階地下1階の鉄筋ビルとして新装開店したときに設置されている。
観覧車が写った写真は、水戸市立博物館発行の『昭和ラプソティ 一杯の珈琲を飲みながら』(2022年10月22日)の27ページと、その続編として刊行された『追憶の水戸街なかアルバム 改訂版』の19ページに掲載されている。両者は同じ写真だが、後者のほうが鮮明で、設置年も詳細に記載されている。提供者は嶋津恒雄さん。志満津百貨店の元社長で、創設者である嶋津孝之介さんの息子さん。
ウィキペディアによる志満津の沿革は次の通り(観覧車設置までの沿革)
明治41(1908)年5月:志満津呉服店として茨城県常陸太田市で創業
昭和21(1946)年10月:水戸市に水戸店を開業
昭和24(1949)年7月:志満津百貨店に改称し、太田店と水戸店で営業開始
(後略)
改訂版の写真を見ると、観覧車は8階の屋上ではなく、3階建ての屋上(4階部分に該当か)に設置されている。眺望を愛でるというより、乗り物に乗って遊ぶのが目的だったのではと思われる。他の遊戯機械が写っていないが、建物の後に隠れているのか、それとも遊戯機械は観覧車だけだったのだろうか。
当時、国道を隔ててライバル百貨店「伊勢甚」が向かい合っていた。伊勢甚にも屋上遊園地があったのだが、観覧車の有無は判明していない。
AIに尋ねると「昭和32年にあった!」というが、私はこの点に関してはAIを信用していない。AIはときどき見てきたようなうそをつくからだ。
伊勢甚にメールで尋ねたのだが、返事はいただいていない。昔のことなのでもう知っている人も少ないし、資料も残っていないのだろう。ただ『昭和ラプソディ』の32ページには伊勢甚本社提供の、当時の伊勢甚の写真が掲載されていて、屋上にはお城のような建物が写っている。屋上にお城の遊園地を設営した百貨店はよくあるのだが、その場合、観覧車が併設されていることが多い。
とりあえずは、茨城県に観覧車があったということで、無かったかもしれない県は、新潟、滋賀、奈良の3県となった。これらは暫定的結果であって、最終的な判定は未定としたい。
情報を提供してくださった水戸市在住のソノコさん、ありがとうございました。
追補
もし伊勢甚に観覧車が無かった場合、志満津の観覧車が茨城県で初の観覧車であった可能性がある。茨城県には日立市に神峯公園という遊園地があった。昭和35(1960)年にこの遊園地に観覧車が設置されている。
詳細を知りたいひとはココをクリック。それよりも古いので茨城県初だったかもしれないのだ。
2026年04月23日
現在、大阪市では「大阪都構想」案への3度目となる住民投票開催を巡り、大阪維新の会の市議団によるタウンミーティングが、市内全24区で順次開催されている。先週の土曜日は地元北区で開催されたので参加した。私は反対派である。
前回(2020年)の都構想の住民投票時にもブログに書いているので、興味のあるひとはココとココとココをクリックしてください。
北区は市内で一番賛成派の多い地域だそうで、たぶん進行係の市議員もやりやすかったのではないかと思う。ミーティングの中身についてここに書いても、大阪府外の読者は興味がないと思うので省く。
私は大阪市で生まれたが、35歳から約30年間は東京都民だった。都民時代は大阪の出来事にそれほど関心がなかったが、日本初の観覧車が大阪の天王寺公園で生まれたと知ったときはうれしかった。少しは郷土愛があったのかもしれない。
それでも今回の維新の会による「大阪都構想」への違和感や拒否感、腹立たし感が強いのは、それが民主主義の根幹を壊す行為だからだ。
ロシアによるウクライナ侵攻がはじまったとき、海外のメディアからのインタビューに対し、戦車に乗った多くのウクライナ兵士たちが口々に「祖国ウクライナのために闘う」と宣言した。そのなかで一人の若い女性兵士がまっすぐ前を見つめて、「私は民主主義のために闘うのだ。民主主義が壊されることにがまんができない」と力強く話した。私はときどき、この兵士とその言葉を思い出す。その後どうしたのだろう。生きていてほしいと強く願っている。
閑話休題
大阪市の住民投票は全国から見れば、地方都市で起きている小さな出来事かもしれない。しかし2度にわたって投票を強いられ、結果、「No」という住民の意思は十分に表明済みにも関わらず、よく言われる例えだが「勝つまでじゃんけん」を迫られている。これはまさに民主主義の破壊行為である。長い年月をかけて日本は民主主義国家となったことを忘れてはならない。将来は大阪だけでなく、日本の将来を背負おうと思って議員になった(と思う)大阪市議団全議員に矜持の有無を質したい。
前回(2020年)の都構想の住民投票時にもブログに書いているので、興味のあるひとはココとココとココをクリックしてください。
北区は市内で一番賛成派の多い地域だそうで、たぶん進行係の市議員もやりやすかったのではないかと思う。ミーティングの中身についてここに書いても、大阪府外の読者は興味がないと思うので省く。
私は大阪市で生まれたが、35歳から約30年間は東京都民だった。都民時代は大阪の出来事にそれほど関心がなかったが、日本初の観覧車が大阪の天王寺公園で生まれたと知ったときはうれしかった。少しは郷土愛があったのかもしれない。
それでも今回の維新の会による「大阪都構想」への違和感や拒否感、腹立たし感が強いのは、それが民主主義の根幹を壊す行為だからだ。
ロシアによるウクライナ侵攻がはじまったとき、海外のメディアからのインタビューに対し、戦車に乗った多くのウクライナ兵士たちが口々に「祖国ウクライナのために闘う」と宣言した。そのなかで一人の若い女性兵士がまっすぐ前を見つめて、「私は民主主義のために闘うのだ。民主主義が壊されることにがまんができない」と力強く話した。私はときどき、この兵士とその言葉を思い出す。その後どうしたのだろう。生きていてほしいと強く願っている。
閑話休題
大阪市の住民投票は全国から見れば、地方都市で起きている小さな出来事かもしれない。しかし2度にわたって投票を強いられ、結果、「No」という住民の意思は十分に表明済みにも関わらず、よく言われる例えだが「勝つまでじゃんけん」を迫られている。これはまさに民主主義の破壊行為である。長い年月をかけて日本は民主主義国家となったことを忘れてはならない。将来は大阪だけでなく、日本の将来を背負おうと思って議員になった(と思う)大阪市議団全議員に矜持の有無を質したい。
2026年04月13日
「奈良ファミリー」(現在の表記は「ならファミリー」)が奈良県・近鉄西大寺駅前に開店したのは昭和47(1972)年3月14日だった。日本初の2核型大型店舗として誕生した。2核とは近鉄百貨店と総合スーパーのジャスコ(ジャスコ→イオン)が合体した店舗だったからだ。
5階建てビルの、近鉄百貨店側の屋上には遊園地が設営された。運営したのは「関西タップス」(関西娯楽から改名)で社長は土井照子さん。土井文化運動機製作所の社長だった土井万蔵さんの娘さんだ。
奈良ファミリーは平成4(1992)年にリニューアルオープンし、その名も「ならファミリー」と改名した。関西タップスは屋上に奈良ファミリー時代よりも大規模な遊園地「空中遊園ラピュタ」を運営するようになる。
照子さんの話によると、奈良ファミリー時代の屋上はペットショップや盆栽園などがあったため、狭くてゲーム機主体のロケーションだったが、空中遊園ラピュタでは5つの大型施設(サイクルモノレール、クレージーバスなど)を設置し、大型遊戯機械が中心となったそうだ。ただし観覧車は入っていない。(『アミューズメント産業』1993年1月号参照)
ただ奈良ファミリー時代は、開店当時の新聞イラストや写真を見ると、飛行塔(人口衛星塔?)が写っている。もっともこれが唯一の大型遊戯機械だったのかもしれないが。観覧車はやはり見あたらなかった。
奈良県にはかつてあやめ池遊園に観覧車があったが、現時点では屋上観覧車としてはほかに候補が見当たらない。なので「屋上に観覧車が無かった県」のリスト入りとなった。
写真説明
1枚目:『近鉄百貨店40年のあゆみ』より 大阪府立中之島図書館提供
2枚目:「大和タイムス」昭和47年3月1日付 奈良県立図書館提供
5階建てビルの、近鉄百貨店側の屋上には遊園地が設営された。運営したのは「関西タップス」(関西娯楽から改名)で社長は土井照子さん。土井文化運動機製作所の社長だった土井万蔵さんの娘さんだ。
奈良ファミリーは平成4(1992)年にリニューアルオープンし、その名も「ならファミリー」と改名した。関西タップスは屋上に奈良ファミリー時代よりも大規模な遊園地「空中遊園ラピュタ」を運営するようになる。
照子さんの話によると、奈良ファミリー時代の屋上はペットショップや盆栽園などがあったため、狭くてゲーム機主体のロケーションだったが、空中遊園ラピュタでは5つの大型施設(サイクルモノレール、クレージーバスなど)を設置し、大型遊戯機械が中心となったそうだ。ただし観覧車は入っていない。(『アミューズメント産業』1993年1月号参照)
ただ奈良ファミリー時代は、開店当時の新聞イラストや写真を見ると、飛行塔(人口衛星塔?)が写っている。もっともこれが唯一の大型遊戯機械だったのかもしれないが。観覧車はやはり見あたらなかった。
奈良県にはかつてあやめ池遊園に観覧車があったが、現時点では屋上観覧車としてはほかに候補が見当たらない。なので「屋上に観覧車が無かった県」のリスト入りとなった。
写真説明
1枚目:『近鉄百貨店40年のあゆみ』より 大阪府立中之島図書館提供
2枚目:「大和タイムス」昭和47年3月1日付 奈良県立図書館提供
2026年04月12日
先日、茨城県水戸市在住のソノコさんから、「志満津百貨店の屋上に観覧車が写った写真が掲載されている」との連絡をいただきました。コピーも添付されていました。掲載されている資料が届き次第、精査してから報告します。
ですから、現在のところ屋上観覧車が見つかっていないのは、新潟、鳥取の2県のはずだったのですが、どうも奈良県にも無かったようです。これは次回でお話しします。
ですから、現在のところ屋上観覧車が見つかっていないのは、新潟、鳥取の2県のはずだったのですが、どうも奈良県にも無かったようです。これは次回でお話しします。
2026年04月09日
「小さな旅─「和歌山近鉄百貨店」の屋上観覧車」(2026年3月10日)で、和歌山近鉄百貨店の屋上に観覧車が設置されたのは昭和38年の開店時か、昭和41年の増床時かわからない─とお話ししましたが、ネット検索しているときに、instagramの次のサイトを見つけました。
和歌山の思い出をたくさんアップされている「koishi1961wakayama」のページで、昭和38年の和歌山近鉄百貨店が開店した当時の写真も掲示されています。
屋上には観覧車が設置されています。AIで現代に蘇っているのがすばらしい!
ビルの高さは3階建て。別の写真ではビルの入口近くに、前身である「近鉄ストア」の看板が写っていました。また「1階が1日に開店」の垂れ幕も見えるので、開店日は4月1日だったことも判明しました。
ですから、和歌山近鉄百貨店の屋上観覧車は昭和38(1963)年に設置されたことになり、屋上観覧車としては和歌山県では初となります。2番目が田辺市の切荘百貨店の屋上観覧車でした。
「小さな旅─「和歌山近鉄百貨店」の屋上観覧車」にも追補しておきます。
サイトの管理人のMasahiko Ishimotoさん、ありがとうございました。
写真をご覧になりたい方は次をクリックしてください。インスタに登録されていない方はご覧になれないかもしれません。
https://www.instagram.com/p/DTY6ijWk1fa/
和歌山の思い出をたくさんアップされている「koishi1961wakayama」のページで、昭和38年の和歌山近鉄百貨店が開店した当時の写真も掲示されています。
屋上には観覧車が設置されています。AIで現代に蘇っているのがすばらしい!
ビルの高さは3階建て。別の写真ではビルの入口近くに、前身である「近鉄ストア」の看板が写っていました。また「1階が1日に開店」の垂れ幕も見えるので、開店日は4月1日だったことも判明しました。
ですから、和歌山近鉄百貨店の屋上観覧車は昭和38(1963)年に設置されたことになり、屋上観覧車としては和歌山県では初となります。2番目が田辺市の切荘百貨店の屋上観覧車でした。
「小さな旅─「和歌山近鉄百貨店」の屋上観覧車」にも追補しておきます。
サイトの管理人のMasahiko Ishimotoさん、ありがとうございました。
写真をご覧になりたい方は次をクリックしてください。インスタに登録されていない方はご覧になれないかもしれません。
https://www.instagram.com/p/DTY6ijWk1fa/
2026年04月08日
兵庫県姫路市にある山陽百貨店が開業したのは昭和28(1953)年7月1日だった。姫路市の戦災都市復興計画の一環として誕生した。姫路市や地元財界の支持を受けて、山陽電鉄と神姫バスが母体となって建設された。
建物は7期にわたって改築、増築が繰り返された。『山陽百貨店30年史』の「建物の移りかわり」に掲載された写真から見た屋上遊戯機械の変遷は次の通り。
第1期(昭和28年6月15日竣工):地上3階建てで屋上には飛行塔らしきものが写っている。
第2期(昭和29年11月20日竣工):北側部分に地上4階建てが増床されたが、飛行塔は3階建て部分の屋上に留まっている。
第3期(昭和31年9月30日竣工):現在の神姫バスターミナル部分の建物を含めた地上4階、地下1階で完成。屋上には観覧車が設置された。当時、通商産業大臣あてに提出された申請書には、「遊戯施設・屋上(露天)」として「ボート・ロータリーチェア」が記載されているが、飛行塔も観覧車も記載されていない。社史では写真以外に観覧車に関する記述はまったく見当たらなかった。
第4期:(昭和37年6月15日竣工):現在の本館に相当する部分が地上6階、地下1階で完成。観覧車の位置が大きく移動し、バスセンターの上あたりに設置された。『山陽百貨店30年史』によると、「屋上に子供の国を開設」とある。ここにも観覧車のことには触れられていないが。写真では観覧車だけでなく、飛行塔も見える。これは1期と2期で写っていた飛行塔とは異なる機種だ。観覧車もよく見ると、3期で写っていた観覧車とは異なる機種のように見える。「子供の国」を開設したので観覧車を新規購入したか、ゴンドラだけを取り換えたのかもしれない。
製造会社は不明。私の推察では土井万蔵さんの会社、土井文化運動機製作所だと思う。なぜなら万蔵さんは岡山や広島の天満屋百貨店、島根の一畑百貨店にも屋上に観覧車を設置していて、山陽百貨店はこれらの百貨店と交流があった(ウィキペディア)。そのご縁で山陽百貨店に紹介してもらえたのでは。
それにしても社史で観覧車の変遷がこれほどわかるのは珍しい。でも写真だけでなく、記述でもう少し観覧車のことに触れてほしかった。観覧車がいつ撤去されたのかは不明。
写真説明
1枚目:「ひょーごアーカイブス」より。右端にちらりと観覧車が写っている。おそらく3期目に設置された観覧車。
2枚目:以降は『山陽百貨店30年史』より
拡大写真は2枚目の3期目の観覧車
5枚目:4期目の開店時の建物。観覧車がわりとクリアに見える。かたちが3期とは異なっている。
建物は7期にわたって改築、増築が繰り返された。『山陽百貨店30年史』の「建物の移りかわり」に掲載された写真から見た屋上遊戯機械の変遷は次の通り。
第1期(昭和28年6月15日竣工):地上3階建てで屋上には飛行塔らしきものが写っている。
第2期(昭和29年11月20日竣工):北側部分に地上4階建てが増床されたが、飛行塔は3階建て部分の屋上に留まっている。
第3期(昭和31年9月30日竣工):現在の神姫バスターミナル部分の建物を含めた地上4階、地下1階で完成。屋上には観覧車が設置された。当時、通商産業大臣あてに提出された申請書には、「遊戯施設・屋上(露天)」として「ボート・ロータリーチェア」が記載されているが、飛行塔も観覧車も記載されていない。社史では写真以外に観覧車に関する記述はまったく見当たらなかった。
第4期:(昭和37年6月15日竣工):現在の本館に相当する部分が地上6階、地下1階で完成。観覧車の位置が大きく移動し、バスセンターの上あたりに設置された。『山陽百貨店30年史』によると、「屋上に子供の国を開設」とある。ここにも観覧車のことには触れられていないが。写真では観覧車だけでなく、飛行塔も見える。これは1期と2期で写っていた飛行塔とは異なる機種だ。観覧車もよく見ると、3期で写っていた観覧車とは異なる機種のように見える。「子供の国」を開設したので観覧車を新規購入したか、ゴンドラだけを取り換えたのかもしれない。
製造会社は不明。私の推察では土井万蔵さんの会社、土井文化運動機製作所だと思う。なぜなら万蔵さんは岡山や広島の天満屋百貨店、島根の一畑百貨店にも屋上に観覧車を設置していて、山陽百貨店はこれらの百貨店と交流があった(ウィキペディア)。そのご縁で山陽百貨店に紹介してもらえたのでは。
それにしても社史で観覧車の変遷がこれほどわかるのは珍しい。でも写真だけでなく、記述でもう少し観覧車のことに触れてほしかった。観覧車がいつ撤去されたのかは不明。
写真説明
1枚目:「ひょーごアーカイブス」より。右端にちらりと観覧車が写っている。おそらく3期目に設置された観覧車。
2枚目:以降は『山陽百貨店30年史』より
拡大写真は2枚目の3期目の観覧車
5枚目:4期目の開店時の建物。観覧車がわりとクリアに見える。かたちが3期とは異なっている。













