典型的チャレンジド(?)
 「チャレンジド」という言葉がある。チャレンジの受身形。
 近ごろ、「障害者」の別称として、よく見かけるようになった。

 アメリカで考案された。「(神から)『挑戦』という使命や課題、チャンスや資格を与えられた人」との意味が込められているそうな。
 国内でも、文字や語感がネガティブな「障害者」に代わる呼び方として、普及を進める動きがある。一種のイメージ戦略。

 この「チャレンジド」、私はイマイチ好きになれない。言葉自体ではなく、込められた意味に、納得できないところがあるから。
 「チャレンジド」の“反対側”にあるものが、言外に否定されている気がするのだ。「『挑戦』という使命や課題、チャンスや資格」があると決め付けることで、それをクリアできない人やクリアしたくない人を、差別することに繋がりはしないか? 「チャレンジドにふさわしい人」と「チャレンジドにふさわしくない人」を生み出す恐れはないか?
 呼称の工夫も結構だが、無自覚な使用は“危険”だと思う。要注意。

 誰だって…健常者にも障害者にも、弱くて愚かな面がある。落ち込んだり、怠けたり、疲弊したり、無気力になったりする。当然だ。人間だもの(byみつを?)。
 なのに、ある種の人たちは「チャレンジド」と呼ばれることで、何事かに対して前向きな挑戦を求められる訳だ。神様から。あるいは運命から。…キツいなぁ。

 一方的に文句を言っても仕方がないので、粗末な頭で対案を考えてみた。
 「当事者」。この言葉は健常者をも包括する。…けど、誤解されやすいかな?

 ダウン症の我が弟は、30歳を過ぎて老化が早まった。授産施設で手織り作業に従事しているが、最も幸福なのは自室に籠もって夢想している時のようだ。
 「お前には使命があるんだから、頑張れ」なんて私は言えない。言いたくもない。