『ロング・グッドバイ』
 早朝、いきなり友人が訊ねてくる。暗く絶望的な表情で、ブルブルと震えており、片手に拳銃を持っている。何か重大な事件に巻き込まれたことは明白だ。
 そんな時、あなたはサイフォンでコーヒーを淹れてやることができるだろうか?
 私はできない。きっとできない。驚きあわてて熱湯をこぼし、サイフォンを割り、コーヒーの粉をぶちまけてしまうに決まっている。

 ロス・アジェルスの私立探偵、フィリップ・マーロウは違う。きちんと手順を守ってコーヒーを淹れる。そして、パニック状態の友人を落ち着かせるのだ。
 レイモンド・チャンドラーによるミステリ界(ハードボイルド界?)不朽の名作を、村上春樹が翻訳した『ロング・グッドバイ』。長い間“スタンダード”だった清水俊二訳『長いお別れ』に敬意を表しつつも、省略されていた部分まで丁寧に訳したそうな。

 なるほど。コーヒーを淹れる場面にしても、清水訳より村上訳の方がディテールが細かい。
 村上訳を読むと、日常の手順どおりにコーヒーを淹れることによって、マーロウ自身が非常事態に際して冷静さを保とうと努力していることが分かる。
 パスタを茹でるシーンさえおろそかにしない作家の訳だけに、コーヒーメーカーを扱う手つきが細部まで想起できる。無性にコーヒーが飲みたくなる。

 清水訳の「シャンペン」「ハンケチ」が、村上訳は「シャンパン」「ハンカチ」。後者の方が、違和感を覚えない。雑誌のインタビューで村上が「原典は永久的だが、翻訳は時代に合わせて変わっていい」みたいなことを言っていた。分かる分かる。

 個人的には、清水訳のマーロウは“クール”で、村上訳は“頑固”な印象。それでも、美しい富豪令嬢からの求婚を、マーロウがクールに拒もうと頑固に拒もうと、「もったいね〜」という私の気持ちは変わりません。

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