日本人のルーツは何処にあるのか難しい問題です。
人々がいつ頃日本に移り住んだのか、本当のところは古すぎて分かりません。
しかし世界の文明の発祥の地は、おおむね分かってきています。
言葉の広がりや文化、物語の伝承などから現在のタイ南部、マレー半島、スマトラ島など、インドネシアにかけて広がっていた「スンダランド」であった可能性が高いと考えられています。
現在は海に沈んでしまっているのですが、かつては陸地で文明都市が広がっていました。

氷河期が終わり温暖化が進むとスンダランドは海に沈み、スンダランドの人々はヨーロッパ、アジア全土へと広がっていきました。
スンダランドから散らばるように広がったため、文明はヨーロッパとアジアで違った発展を遂げていきます。
ヨーロッパからアジアへ、またその逆といった流れでの伝播ではなく、同じものが中心から別れるように発展し、それぞれの場所で違った形を生み出したのです。

青銅器を作るという文明が同時期に離れた場所で起ったとします。
これは偶然、青銅器文明が起ったのではなく、とある場所から同じ知識を持った人々がそれぞれ違った場所にたどり着き、そこで持っている技術を使ったに過ぎないのです。
つまり、同時期に各地で起った文明の誕生は、どこかからの人々がたどり着いた場所で、そこが文明の始まりの場所ではないのです。
そのどこかというのが、スンダランドなのです。

その例のひとつがノアの方舟伝説です。
旧約聖書に書かれた洪水によって地球上の陸地が水没してしまうという物語です。
しかしこの洪水の物語はギリシャ神話にも、メソポタミアの叙事詩、ハブラビ宝典、北南アメリカに住む古代の伝承の存在します。
旧約聖書のノアの方舟伝説も元は同じところから生まれた派生の物語だと考えられます。
各地に広がった洪水の物語はスンダランドが海に沈んだことを伝えるもので、それはすなわち、人々がこの地から広がって文化を広めていったことを物語っています。
アトランティス大陸が沈んだ物語もここの記憶かもしれません。
古代では出来事を本という形で残すのは難しいことでした。
そこで古代の人は、実際に起きた出来事を神話という物語にして、口頭で伝えていったのです。
元々の話が人を伝い年代を経ている内に、物語は壮大になり、完成度も高くなっていきます。
その結果、ただ海面が上昇し国が沈んだという物語が、ノアの方舟伝説や、5大陸の水没といったような神話になっていったのです。

他にも太陽神信仰が世界各地で、独自の形態で広がっています。
それも元は同じものであったと思われます。

スンダランドが沈んだのは紀元前1万2000年頃から氷河期が終わり、海面が徐々に上昇し始めたからだと考えられています。
これを信じるならば、日本に人々が移り住んできたのは紀元前1万2000年以降ということになります。
もっとも新大陸と呼ばれるアメリカ大陸の、南米で紀元前3万年以上前の焚き火の跡がみつかっており、太平洋を航海する技術はずっと以前から有していたようです。
現実に北南アメリカの原住民の140を越える言語の発達には2〜3万年掛かったといわれており、通説の氷河期にベーリング海峡を歩いて渡ったというのでは、せいぜい2万年前が限度で、しかもカナダとアメリカは巨大氷河に覆われていて南下は不可能でした。
厳密には日本にも遙か昔から人が住んでいたと思われますが、新文明の情報がもたらされたのは紀元前1万2000年以降と考えられます。
これが縄文時代の始まりです。
同じく南米エクアドルで縄文式土器も発見されていて、縄文人が船で渡った可能性が考えられています。
北米でも縄文式土器が発見されれば、北から大陸を歩いて辿り着いたとなりますが、いまのところポツンとエクアドルにだけ発見されています。

氷河期が終わり気温と海面が上昇するにつれ、人々は北へも移住を始めたと思われます。
力の弱いものは、人口密度の高い場所から追われるように、新天地を目指しました。
ヨーロッパは地中海の海上ルートに恵まれていたため、繁栄は早かったようです。
しかし、東アジアは密林に閉ざされた辺境の地であったため、ヨーロッパに遅れをとりました。
日本に新しい文化を持った人々が流入しはじめたのは、紀元前1万年〜紀元前6000年頃で、気候も暖かくなっていました。
新たな人々の流入は、シベリアから北海道に入るルートと、中国、朝鮮半島から九州に入るルートがあったと思われます。
彼らは縄文人と呼ばれる人々なのですが、遺跡や文化の継承をみると、北と南の民族は違っていた可能性があります。
縄文人以前の人々は紀元前1万8000年頃の、氷河期で海面が下がり、大陸と陸続きになっていた日本に、南からやってきたと思われます。

縄文以前の土着民と、南から渡ってきた縄文人は同じ民族であったと思われます。
彼らは東南アジア系民族で、アイヌ民族の祖先ではないかと考えます。
一方、シベリアから渡ってきた民族は、中国大陸を縦断する過程で、現在の大和民族に近い姿になっていたと思われます。
ここに、アイヌ系縄文人とシベリア系縄文人のふたつの縄文人が誕生します。
縄文人は流入した人々の数も少なく、日本全国には広がりませんでした。
アイヌ系縄文人は九州を拠点に広がり、シベリア系縄文人は北海道から、気温の低下と共に徐々に南下していきます。
縄文人の遺跡では青森にある、巨木建造文化の三内丸山遺跡が有名ですが、ヒスイ、コハク、黒曜石などの出土品が北海道から中部地方、関東地方に広がっています。
本州の中北部に広がるこれらの遺跡や出土品は、シベリア系縄文人のものだと思われます。

ふたつの縄文人としたのは、現在のアイヌ民族が巨木建造文化や方墳、円墳といった埋葬文化を継承している形跡がないからです。
恐らく、それらの文化を持った縄文人はシベリア系で大和民族に近く、後の弥生人と融合しやすかったと思われます。
弥生人の流入が始まると、シベリア系縄文人は弥生人と同一となり、消えてしまったと推理しました。
方墳、円墳というのは弥生時代後期のものですが、これらは初期に流入してきた弥生人とシベリア系縄文人の融合が生み出したものだと考えます。

弥生人の流入が始まったのは、紀元前1300年頃と思われます。
その頃の中国には、商と呼ばれる国がありました。
記録によると、商は災害と飢饉で30万人もの難民を出したといわれています。
年輪の年代測定でも、紀元前1300年頃は年輪の成長がいちじるしく悪く、寒冷化が起こっていたことが分かっています。
商の記録に符合することから、飢饉があったというのは信憑性があるといえます。
当然ながら、難民となった人々は新天地を目指して移動します。
その難民の一部が日本に渡り、弥生人となったのです。

弥生人は新たな文化と知識を縄文人にもたらします。
東南アジア系縄文人のアイヌ民族は、運の悪いことに多くの人々が九州にいました。
そこに弥生人がやってきたため、民族的な違いも影響して逃れるように北へと移動していきました。
しかし、北にも安住の地はありませんでした。

北にはシベリア系縄文人がいました。
氷河期のあと温暖な気候が続いてたのですが、弥生人が流入してくる頃には寒冷化がはじまり、北海道や東北での生活は厳しくなっていました。
シベリア系縄文人は南に移動し、本州中部から南部へと広がっていました。
海洋を利用した交易も行っていたため、日本海側にも発展した集落が多くありました。
出雲、吉備といった古代の集落も、シベリア系縄文人の集落です。

弥生人が流入し弥生時代が始まって、日本の繁栄の中心は北九州になります。
大陸との交易に便利な北九州を動く必要がなかったのです。
本州に残されたシベリア系縄文人と、北九州に留まれず北上を余儀なくされた弥生人は、本州で独自の進化を遂げていきます。
シベリア系縄文人の持つ巨木建造文化や方墳、円墳といった埋葬文化と、弥生人の知識との融合です。
やがてそれは、出雲、吉備の文化となり、大和朝廷誕生の礎となるのです。
結果的にシベリア系縄文人と弥生人が大和民族へとなり、それぞれの民族的な個性は失われます。
アイヌ民族はあまり融合が行われなかったため、現代にまで民族の個性を残すことができたのです。

時代が下り、紀元前200年頃、中国大陸に秦の始皇帝で有名な秦が誕生します。
秦の始皇帝は、側近の将軍、徐福に不老長寿の仙薬を探しに行かせます。
不老長寿の仙薬は、東方の遥か海上に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう) という3つの神山があり、ここに住む仙人が持つという伝説があるとされ、場所は謎でした。
徐福はひとつの町ごとといっていいほどの、様々な技術や職業を持った3000人ものお供を連れて旅にでます。
徐福の出発から10年後に始皇帝は亡くなり、存命中に薬を発見することはできませんでした。
そして残された記録では、徐福と3000人のお供は二度と戻らなかったといわれています。

この徐福が日本に住み着いたと考えるのはあまりにも都合が良すぎますが、徐福の目的が不老長寿の仙薬を探すことなので、来日していた可能性は充分にあります。
北九州に王による統治がはじまり、邪馬台国の基礎ができたと思われる時期は紀元前100年〜西暦100年頃ではないかと思われます。
少なくとも、中国のこの時代の文献には、日本の王の存在がかいまみえます。
日本に王や統治という概念や力が持ち込まれたのだとすると、徐福の来日がきっかけだったという可能性もあります。
本州には大和朝廷が誕生するまで、集落をまとめ統一した王国というものが存在していませんでした。
本州は大陸との交易が難しく、大量に鉄を輸入できなかったのです。
そのため開墾が進まず、人口が増えませんでした。
本州では王国や統治の概念がもたらされても、形にすることができませんでした。

北九州では邪馬台国ができ、王による統治が始まりました。
しかし本州では、力の差はあるにせよ、各地に集落単位の豪族たちが散らばって小規模な生活をしているだけでした。
人口が増えず、少なかったのが原因です。
互いの交流が行われていても、王国建国には至らなかったのです。
そんな折り、中国大陸の国、後漢で騒乱が起こり3000万人もの難民が流出します。
飢饉もあったといわれ、西暦50年〜西暦150年の間に3000万人もの人口が増減しました。
この時期、後漢の難民が日本に流入してきた可能性があります。
紀元前1300年頃の難民の流入と比べると、この時の難民は数が多く、日本の環境も大きく変わります。
難民は九州だけに止まれず、本州にも流入してきます。
本州には小規模な集落があるばかりで、難民を追いやることはできず、受け入れざるおえない状態になります。

その難民が本州に広がり、豪族間の関係にも変化が起っていきます。
独立していた豪族たちも難民の流入により同化が進み、独立した考えがなくなってきたのです。
その結果、統一国家の思想が広がり人々がまとまり始めます。

西暦250年頃には畿内大和の纏向に政治都市が誕生しており、難民の流入から100年〜200年という年月が経っています。
しかし難民と豪族の集まりで力の強い王の存在がなく、合議による朝廷の運営が余儀なくされました。
そのため細かな争乱が繰り返されていたと思われます。
大和朝廷の中心となったのは、出雲、吉備といった地方の豪族で、難民の流入が考えられる地域と流れに符合します。

日本人が誕生したのは、統一国家、大和朝廷の誕生したこの時期、西暦250年頃とするのが妥当と思われます。