世界の偉人・天才・有名人の愛用品

今回のブログでは、世界(海外・日本)の偉人、天才、有名人などの愛用品、ゆかりの品や場所を、人物のエピソードとともに紹介していきます。

1アンティーク・ロンドン博物館113

1アンティーク・ロンドン博物館108

1アンティーク・ロンドン博物館115

<フロイトの古美術品コレクション>

フロイトは、葉巻好きで知られていますが、古美術品等のアンティークもこよなく愛しており、その収集に力を入れました。フロイトが収集したエジプト・ギリシャ・ローマ・東洋の古美術品の多数のコレクションは、ロンドンとウィーンのフロイト博物館に展示されています。

 
 

 2フロイト107

<ジークムント・フロイト(Sigmund Freud )>

1856年(安政2年)5月6日~1939年(昭和14年)9月23日。オーストリア帝国のフライベルク(現チェコのプシーボル)出身。精神科医。精神分析学者。精神分析学の創始者。1939年、イギリス、ロンドン北部のハムステッドで、ガンにより死去。享年83歳。「ヒステリー研究」「夢判断」「精神分析入門」など著書多数。

 

 

<ジークムント・フロイトと誕生日(5月6日・おうし座)が同じ有名人>

鳩山和夫(1856年・政治家・日本)井上準之助(1869年・銀行家・日本)野上弥生子(1885年・作家・日本)井上靖(1907年・作家・日本)オーソン・ウェルズ(1915年・映画監督・俳優・アメリカ)コロムビア・トップ(1922年・漫才師・政治家・日本)白木みのる(1934年・タレント・日本)イビチャ・オシム(1941年・サッカー・ユーゴスラビア)中野良子(1950年・女優・日本)向井千秋(1952年・宇宙飛行士・日本)ジョージ・クルーニー(1961年・俳優・アメリカ)吉田美和(1965年・ミュージシャン・日本)佐藤健太(1967年・俳優・日本)高橋尚子(1972年・マラソン選手・日本)押尾学(1978年・俳優・日本)。

 

 

 

 3ジークムント・フロイト博物館・ウィーン117

<ジークムント・フロイト博物館(ウィーン)>

1891年、フロイトはウィーンに引っ越してきて、新築の建物に入居し、精神分析等の診療を行っていました。けれども、ユダヤ系であるフロイトは、1938ドイツナチスから逃れるため、国外退去を余儀なくされ、ロンドンに向かいました。フロイトは47年間この家に住み、診療を続け、著作の大半を執筆しました。現在はジークムント・フロイト博物館になっており、診療の待合室など、当時の家具が再現され設置してあります。また、ギリシャ・ローマなどのフロイトの古美術コレクションも展示してあります。博物館の隣には図書館があり、35000冊のヨーロッパの精神分析に関する図書が収蔵されています。


4ジークムント・フロイト博物館・ウィーン118
<ジークムント・フロイト博物館(ウィーン)館内>

5ジークムント・フロイト博物館・ウィーン119
<ジークムント・フロイト博物館(ウィーン)フロイト像>

 

 
 

 6フロイト博物館・ロンドン108

<フロイト博物館(ロンドン)>

ロンドンの北部ハムステッドにあります。1938年ナチスから逃れて、ウィーンからロンドンに来たフロイトが、翌年に死去するまで居住した家です。また、女性の精神分析家の先駆けであった、フロイトの娘、アンナ・フロイト(児童精神分析の開拓者)が1982年に亡くなるまで住んでいました。彼女の遺志により、1986年にフロイト博物館として開館しました。1階には、フロイトが精神分析の面接中に患者を横にならせたカウチ(長椅子)があります。また、机や戸棚などオーストリアから運んできた農民家具、古代エジプト・ローマ・ギリシャ・東洋の古美術品コレクションなど、約2000点が展示されています。フロイトの研究資料・文献などの図書館もあります。2階は、アンナの居室などがあります。


7フロイト博物館・ロンドン109
<フロイト博物館(ロンドン)館内>

8フロイト博物館・ロンドン110
<フロイト博物館(ロンドン)館内>

 

 

 

 9フロイト博物館・プシーボル106

<ジークムント・フロイト博物館(プシーボル)>

チェコのプシーボルにあります。フロイトの父の生家である、この家で、1856年にジークムント・フロイトは生まれました。フロイトが3歳の時、家族はウィーンに引っ越しました。現在は、この家は、フロイト博物館になっています。近くには、フロイトの記念碑も建っており、フロイト広場もあります。


10フロイト博物館・プシーボル107
<ジークムント・フロイト博物館(プシーボル)館内>

11フロイト博物館・プシーボル109
<ジークムント・フロイト記念碑(プシーボル)>

12フロイト博物館・プシーボル110
<ジークムント・フロイト広場(プシーボル)>

13フロイト博物館・プシーボル108
<フロイトの生誕地・プシーボル>

 

☆☆☆エピソード(1)

 

ユダヤ人の父は毛織物商人、母親は高名なユダヤ法学者の子孫。フロイトは8人兄妹の長男でした。さらに、父の前妻に2人の子供がいました。フロイトは母に大変愛されて育ちました。

 

フロイトが生まれた時、とりあげた産婆が、「この子は、きっと偉い人物になるよ」と言いました。フロイトの母は、それを聞いて嬉しがり、誇りに思って、フロイトに大きな信頼を寄せて育てました。その母の信頼から、彼は成功の確信を持ち、成功への暗示に応えるため、努力を生涯続けたのでした。

 

フロイトは17歳でウィーン大学に入学しました。2年間物理学を学び、医学部・生理学研究所で両生類・魚類の脊髄神経裁縫を研究。また、脳性麻痺や失語症の臨床研究を行いました。

 

1881年3月、フロイトはウィーン大学医学部を優秀な成績で卒業しました。卒業後も、生理学研究所で研究を続けました。彼は、教授になる道を目指したのです。翌年には助手に昇進しています。

 

 

☆☆☆エピソード(2)

 

 14マルタ・ベルナイス107

<マルタ・ベルナイス>

1882年4月、生理学研究所で研究に従事していたフロイトは、マルタ・ベルナイス(1861年7月26日~1951年11月2日)と出会いました。フロイト26歳、マルタ21歳でした。マルタはフロイトに好意を持ちました。そして6月には、フロイトは彼女と婚約したのです。

 

マルタは、小柄で細身の知的な美人でした。容姿端麗のうえに、心が広くて優しい、理解力の早い娘だったので、多くの男性から求愛や求婚を受けていたのです。

 

マルタの父は、高名な経済学者の秘書でしたが、1879年に病死しました。マルタは、名門の家系で、一族には大学教授や講師などがいました。

 

彼女の祖父イザーク・ベルナイスは、ドイツの詩人、ハインリヒ・ハイネ(1797年12月13日~1856年2月17日)と親戚で、ハイネの手紙には、マルタの祖父の名前が、よく出てきます。

 

婚約後、フロイトは、彼女と結婚するためには職に就くべきと考えて、生理学研究所を辞めて、ウィーン総合病院へ内科医として勤務します。婚約後、結婚するまでに、フロイトはマルタに900通以上の手紙を出しています。1883年10月14日には、マルタの兄が、フロイトの妹と、結婚しました。

 

その後フロイトは、精神病治療研究所で研究。1884年に神経科医長に昇進します。1884年4月に病院勤務を辞めて、ウィーン市内で開業しました。

 

15フロイトとマルタ・ベルナイス101
<フロイトとマルタ> 

その年の9月、晴れてマルタと結婚しました。フロイト28歳、マルタ23歳でした。二人の間には6人(男子3人・女子3人)の子供が生まれました。

 

マルタは、フロイトの死から12年後の1951年にロンドンで亡くなりました。享年90歳。ロンドンのグリーン・ガーデン墓地に夫フロイトと共に眠っています。

 

 

 フロイトからのメッセージ

 

 

愛されていると確信している時、人は、どれほど大胆になれることでしょう。

 

生きる意味や価値を考え始めると、私たちは、気がおかしくなってしまいます。生きる意味など、存在しないのですから。

 

自分に対して、とことん正直になること、それが心身に良い影響を与えるのです。

 

愛情をケチってはいけません。元手は使うことによって、取り戻せるものなのです。

 

あらゆるものの中心に、愛を置き、愛し愛されることに、至上の喜びを見出せた時、幸福は訪れます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1モーツアルトの住居のチェンバロ112 (2)
<モーツァルトのチェンバロ>

 チェンバロは、英語ではハープシコード (harpsichord)フランス語ではクラヴサン (clavecinと言います。ピアノが普及する前の鍵盤楽器です。神童であったモーツァルトは3歳からチェンバロを弾き始め、5歳頃から、父とともにヨーロッパ各地をチェンバロで演奏して回り各地で絶賛を浴びました。彼は1977年頃までチェンバロを弾いていましたが、その後、普及し始めたフォルテピアノを使ったと思われます。

 

 

 

 1モーツァルト108

<ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart)

 1756年(宝暦6年)1月27日~1791年(寛政3年)12月5日。オーストリアのザルツブルク出身。モーツァルトは古典音楽派の代表で、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人。神聖ローマ帝国皇室宮廷作曲家、同皇室クラヴィーア(フォルテピアノ)教師、ヴェローナ(イタリア)のアカデミア・フィラルモニカ(音楽家団体)名誉楽長。幼少期から度重なる旅行で罹ったとされるリューマチの炎症熱により、1791年ウィーンで死去。享年35歳。作曲した曲は600曲に及びます。

 

 

 

<モーツァルトと誕生日(1月27日・みずがめ座)が同じ有名人>

 東郷平八郎(1848年・海軍軍人・日本)ウィルヘルム2世(1859年・王族・ドイツ)ルイス・キャロル(1832年・数学者・作家・イギリス)小山明子(1935年・女優・日本)須藤甚一郎(1939年・芸能リポーター・政治家・日本)清水ミチコ(1960年・タレント・日本)金賢姫(1962年・特殊工作員・北朝鮮)ブリジッド・フォンダ(1964年・女優・アメリカ)馬場信幸(1965年・政治家・日本)深沢梨絵(1965年・作家・日本)三田寛子(1966年・女優・日本)嶋村かおり(1971年・女優・日本)室谷義秀(1973年・エアロバティクスパイロット・日本)雛形あきこ(1978年・女優・日本)中村直志(1979年・サッカー選手・日本)八木麻沙子(1986年・アナウンサー・日本)中村有紗(1993年・タレント・日本)。

 

 

 

 2モーツアルトの生家105

<モーツァルトの生家(美術博物館)>

 オーストリアのザルツブルクにあります。モーツァルトが生まれた家(アパート)です。現在は「モーツァルト美術博物館」(第1博物館)になっています。彼が晩年に使っていたフォルテピアノや家族の肖像画、資料が展示されており、生まれた部屋が保存されています。彼が十代の頃の家族の歴史と人生をたどることができます。

 

 

 

 3モーツアルトの住居107

<モーツァルトの住居(博物館)>

 オーストリアのザルツブルクにあります。1773年9月下旬から、モーツァルト(17歳)は、このアパートの1階(8部屋)に居住しました。彼はここにウィーンに出るまでの24歳まで住んでいました。第二次世界大戦中、連合軍の爆撃で破壊されましたが、再建工事が行われ1996年1月26日にオープンしました(再建工事費の15億円の半分以上は日本からの寄付)。現在は5展示室からなる「モーツァルトの住居」(第2博物館)となっており、彼が使用していた、チェンバロ、フォルテピアノや、バィオリン、家族の肖像画や生活の記録、資料などが展示されています。

 

 

☆☆☆エピソード(1)

 

  天才は、常人の及ばない、才能を潜在的に秘めています。価値の高い楽想が次から次に創造されることを、モーツァルトは、手紙に次のように記しています(要旨抜粋)。

 

 「音楽の構想は無為にしてしかも湧くように流れ出ます。私はそれが何処から来るのか知りません。私はこれに真のモーツァルトらしさを意識的に与えようと思ったことはありません。それどころか、真のモーツァルトをどう表現したらよいかも分かりません」

 

 「これこそ神が私に与えた最上の才能なのでしょう。たとえ、如何に長い曲であろうとも、私の頭の中で、ほとんど構成されます。だから私は丁度、美しい一枚の絵か、あるいは麗しい人でも見るように、心の中で、一目で、これを見渡せます」。

 

 モーツアルトの父はザルツブルクの宮廷作曲家でヴァイオリニストでした。モーツァルトは、7人兄妹の末っ子として生まれました。5人が幼児期に死亡し、5歳年上のマリーア・アンナ(1751年7月30日~1829年10月29日)だけがいました。

 

 父親はモーツァルトが天才であることを知って、幼少時から音楽の英才教育を施しました。モーツアルトは3歳からチェンバロを弾き、5歳の時作曲し、父とともにザルツブルクの宮廷に仕えました。

 

 また、6歳の頃から親子で、ウィーン、パリ、ロンドン、イタリア各地を演奏旅行して回りました。父は、神童である我が子の演奏を見せて稼いでいました。モーツアルトの3時間の演奏料は、父親の年収の8年分も稼いだのです。

 

 また、演奏旅行により、より良い就職口を探していたのですが、就職探しはどこでも失敗しています、

 

 1762年10月13日ウィーンのシェーンブルン宮殿で皇后マリア・テレジアの前で演奏したとき、モーツァルトが宮殿の床で滑って転んでしまいました。すると、皇女が彼の手を取って助けました。

 

 その時、モーツァルトは、その皇女に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言いました。モーツァルト6歳。その皇女は後のマリー・アントワネット(フランス国王ルイ16世の王妃)で7歳でした。

 

 モーツァルトは、晩年の数年間は、貧乏でした。ピアニストとしては人気がありましたが、彼の品行が悪く、浪費癖があり、高給な仕事に恵まれませんでした。さらに、彼の天才に怖れをなした宮廷楽長ら音楽貴族たちがモーツァルトの演奏会を裏で妨害したので収入が激減したとの説もあります。

 

 

 

☆☆☆エピソード(2)

 

 

 4マリア・アンナ・テークラ・モーツアルト102

<マリア・アンナ・テークラ・モーツァルト>

 

 1777年10月、モーツァルトは、母とともにパリに行く途中、アウクスブルクに立ち寄り、従姉妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルト(1758年9月25日~1841年1月25日)と再会しました。マリア19歳、モーツァルト21歳。マリアはモーツァルトの父の弟の娘でした。

 

 再会した時、モーツァルトと彼女はお互いに魅かれ合い、モーツァルトは初めて肉体関係を持ちました。その後彼女は、モーツァルトから多数の手紙をもらいました。その内容は、下品な内容が多く、20世紀まで隠されていました。

 

 モーツァルトの息子たちは、モーツァルトの死後、それらの手紙の破棄を要望したのです。現在彼女への手紙は6通のみが残されていて、公表されています。彼女は1841年、ドイツのバイエルン州、バイロイトで死去。享年83歳。

 

 


 

 5アロイジア・ヴェーバー108

<アロイジア・ヴェーバー>

 

 モーツァルトは、従姉妹のマリアに未練がありましたが、母とともにパリに向かって旅立ちました。途中、マンハイムに立ち寄り、モーツァルトは宮廷写譜家から仕事をもらいました。

 

 その宮廷写譜家の娘、アロイジア・ヴェーバー(1760年~1839年)を好きになりました。アロイジア17歳、モーツァルト21歳。モーツァルトは彼女と結婚しようとしましたが、彼女は応じず、モーツァルトの父も反対でした。

 

 それでもモーツァルトは、彼女に思いを寄せながら、彼女のために7曲の曲を書きました。けれども、彼女は、1780年10月、ウィーンの宮廷俳優と結婚しました(後に離婚しました)。

 

 1786年、彼女はウィーンの劇場に出演し歌っています。1829年、彼女は「モーツァルトの愛を拒絶したことを悔やんでいます」と語った。1839年死去。享年79歳。

  
 

 

 6コンスタンツェ・ヴェーバー107

<コンスタンツェ・ヴェーバー>

 

 1782年8月4日、モーツァルトは、父の反対を押し切り、ソプラノ歌手のコンスタンツェ・ヴェーバー(1762年1月5日~1842年3月6日)と結婚しました。コンスタンツェ20歳、モーツァルト26歳。

 

 彼女は、以前、モーツァルトが片思いの恋をした、アロイジア・ヴェーバーの妹でした。また、彼女は、「魔弾の射手」の作曲家、カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉でした。

 

 モーツアルトとコンスタンツェが初めて出会ったのは、1777年、モーツアルトが彼女の姉、アロイジア・ヴェーバーに夢中になっていた時でした。1781年モーツァルトが、ウィーンに引っ越してきた時、ヴェーバー家と再会し、コンスタンツェとも再会したのです。アロイジアはすでに結婚していました。

 

 モーツアルトが作曲した「大ミサ曲」が、1783年10月26日、聖ペテロ教会で演奏された時、コンスタンツェがソプラノ独唱を披露しました。

 

 二人の間の結婚生活(1791年12月5日にモーツァルトが死去するまで)の9年間に、彼女は、6人の子供を出産しました。そのうち、幼年期を生き延びたのは2人だけでした。

 

 モーツァルトが亡くなった1791年以降、彼女は、2人の子供の養育と、モーツァルトの残した借金に追われる日々を過ごしました。困窮した彼女は、1799年から、「レクイエム」の未完成の楽譜などモーツァルトの自筆の楽譜を音楽出版社に売却し始めました。

 

 1809年、彼女はデンマークの外交官と再婚しました。彼女は夫とともに、モーツァルトの最初の伝記を書き上げ、1828年「モーツァルト伝」を出版しました。彼女は、1842年、ザルツブルクで亡くなりました。享年80歳。

 

 

モーツァルトからのメッセージ

 

 

多くのことをなす近道は、一度に一つの事だけをすることです。

 

旅をしない音楽家は、不幸です。

 

私は貴族ではありませんが、貴族にまさる高貴な心を持っています。人間を高めるのは、身分ではなく、心です。

 

夢を見るから、人生は輝きます。

 

他人の賞賛や避難などは、一切気にしません。自分自身の感性に従うのみです。

 

 

 

 

 

 

2チャップリンの帽子とステッキ102

1チャップリンの帽子とステッキ101

3チャップリンの帽子とステッキ103
【チャップリンの山高帽と竹のステッキ】

 喜劇王チャップリンが愛用して、トレードマークになっていた、山高帽と竹のステッキが、2012年(平成24年)11月18日、アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルスで行われたオークションで、62500ドル(約510万円=当時の為替レート81.6円)で落札され、話題になりました。1914年「成功争い」で映画デビューしたチャップリン。2作目の「ヴェニスの子供自動車競走」の時、プロデューサーのマック・セネットに「何か面白い恰好をしてみろ」と要求され、楽屋に行って、窮屈な上着とだぶだぶのズボン、ちょび髭、それに山高帽とステッキという扮装で、出演しました。以来、1940年の「独裁者」まで、この扮装が彼のトレードマークになりました。なお、愛用の山高帽と竹のステッキはスイスのチャップリン博物館にも展示してあります。竹のステッキは日本製の竹根杖ということです。チャップリンは親日家でした。


 

 

 13チャップリン

【チャールズ・チャップリン( Charles Chaplin)】

 1889年(明治22年)4月16日~1977年(昭和52年)12月25日。イギリスのロンドン生まれ。父のチャールズ・チャップリン・シニアと母のハンナ・チャップリンは、共にミュージックホールの俳優でした。映画俳優、映画監督、コメディアン、映画製作者、作曲家、喜劇王。1977年のクリスマスの朝、レマン湖を見下ろす、スイスのコルシエシュルブベイの自宅で死去。享年88歳。この地にはチャップリンと最後の妻ウーナ・オニールの墓が並んで建っています。

 


 

【チャップリンと誕生日(4月16日・おひつじ座)が同じ有名人】

 ロベルト・ルター(1822年・天文学者・ドイツ)フェルデナント・アイゼンシュタイン(1823年・数学者・ドイツ)アナトール・フランス(1844年・作家・フランス)渡辺錠太郎(1874年・軍人・日本)ベネディクト16世(1927年・ローマ教皇・ドイツ)団鬼六(1931年・作家・日本)坂上二郎(1934年・タレント・日本)水谷八重子<2代目>(1939年・女優・日本)永井良和(1952年・サッカー選手・日本)徳井義実(1976年・タレント・日本)岡崎慎司(1986年・サッカー選手・日本)宇垣美里(1991年・アナウンサー・日本)長洲未来(1993年・フィギュアスケート・アメリカ)。

 

 

 

 4チャップリン博物館1 (2)
<チャップリン博物館「チャップリンの世界」>

2016年4月17日、スイス西部のレマン湖を見下ろす小さな町、コルシエシュルブベイに、オープンしました。開館時には、チャップリンの息子達が来館し、マイケル・チャップリンは、「父はいつも活動的だったが、この記念館も動きにあふれていて、素晴らしいことだ」とコメントしました。博物館は、チャップリンが晩年を過ごした自宅を改装したもので、チャップリンと妻のウーナ、8人の子供が暮らした邸宅が半分、もう半分は、再現されたハリウッドのスタジオなどが入った建物です。チャップリンの世界が体験できる体験型博物館となっており、私生活から、映画シーンまで、チャップリンの全てを知ることができます。レマン湖畔観光の目玉にもなっており、博物館の近くに四つ星ホテルもオープンしました。

 

5チャップリン博物館・モダンタイムズ
 
<博物館内・「モダン・タイムス」に登場する巨大な歯車>

 

 

 6チャップリン博物館2

<博物館内・チャップリンの蝋人形>

 

 

 7チャップリン博物館3
<博物館内・ウーナ・オニールとチャップリンの蝋人形>


 


☆☆☆<エピソード(1)>

 

 チャップリンが1歳の時、両親は離婚し、チャップリンは母親に育てられました。母のハンナはロンドンから60キロ離れた、小さな劇場の舞台女優でしたが、チャップリンが5歳の時、ハンナはのどを痛めました。

 

 劇場の支配人は、日頃からチャップリンが、様々な芸で人を笑わせているのを知っていたので、急遽、ハンナの代わりにチャップリンを舞台に上がらせました。チャップリンはそこで歌を歌って大拍手を受けました。

 

 ところが、この日以降、母のハンナは二度と舞台に立つことができす、母とチャップリンは貧乏のどん底に落ちました。悲しむ母を慰めるために、チャップリンは喜劇を演じて母を笑わせました。けれども1896年、チャップリンが7歳の時、ハンナは精神異常となり、施設に収容されたのです。

 以後、チャップリンは、床屋、印刷工などあらゆる職を転々としましたが、
1903年劇団団員として、舞台に上がり、演じ、様々な劇団を転々として演技力をつけていきました。その後、1908には劇団の若手看板俳優になりました。

 

 1913年、劇団のアメリカ巡業の時、映画プロデューサー、マック・セネットがチャップリンを引き抜き、アメリカの映画会社に入社させました。

 

 1914年には、「成功争い」で映画デビューしました。26歳でした。これが、チャップリンが映画界で活躍する皮切りとなったのです。

 

 

☆☆☆<エピソード(2)>

 

 チャップリンは生涯に4回結婚をしました(3回の説もあります)。チャップリンは結婚した女性以外の女性とも数人付き合っています。

 
 


 8エドナ・パーヴァイアンス (2)

<エドナ・パーヴァイアンス>

  1915年、チャップリンは、カリフォルニア州ナイルズの撮影所で、2作目の映画「アルコール夜通し転宅」を撮影中にこの映画のヒロインを探していました。そんな時、スタッフの一人がネバダ州出身で、ホテル経営者の娘、エドナ・パーヴァイアンス(アメリカ人・1895年10月21日~1958年1月11日)という20歳の女の子を紹介したのです。面接した印象をチャップリン(26歳)は「可愛いなどという程度ではなく、とても美しかった」と語りました。


 それ以降、彼女は、チャップリンの制作した映画34本に、主演女優として共演しています。チャップリンと彼女は結婚はしませんでしたが、1915年~1917年の間、恋愛関係にありました。その後彼女は、1927年に女優を引退、パイロットと結婚しました。チャップリンは、1958年に彼女がガンで死ぬまで、チャップリンスタジオ専属女優として週に150ドル払い続けました。享年62歳。チャップリンは自伝で、彼女を高く評価しています。

 

 


 

 1ミルドレッド・ハリス108
<ミルドレッド・ハリス>

  チャップリンの最初の妻は、ワイオミング州出身のミルドレッド・ハリス(アメリカ人・1901年11月29日~1944年7月20日)です。結婚期間は1918年~1920年。結婚時、チャップリン29歳、ミルドレッド・ハリス16歳。


 1919年7月に子供が生まれましたが、3日後に亡くなりました。その秋に二人は別居しました。チャップリンは、彼女が不倫したと主張しました。1920年、離婚訴訟となり、彼女は、かなりの金額の支払いを受けて、離婚しました。


 その後、彼女は1924年に他の男性と結婚しました(1929年離婚)。映画の仕事も主演女優として多数出演、活躍しましたが、1944年肺炎で死去。享年42歳。

 

 


 10リタ・グレイとチャップリン

<リタ・グレイとチャップリン>

  2人目の妻は、カリフォルニア州ハリウッド出身のリタ・グレイ(アメリカ人・1908年4月15日~1995年12月29日)です。12歳の時チャップリンの映画に出演しました。結婚期間は1924年~1928年(男子2人)。結婚時チャップリン35歳、リタ・グレイ16歳。


 1924年リタ・グレイの妊娠が発覚し、リタ・グレイの両親が激怒、チャップリンに結婚を強要しました。当時未成年女性と関係を持つと強姦罪となり最高30年の刑となるのでした。11月メキシコで密かに挙式しました。これにより、リタ・グレイは「黄金狂時代」のヒロインを降板しました。


 結婚後、最初から二人の共通点がほとんどなく、悩みの種となりました。次第にチャップリンの心がリタ・グレイから離れ、離婚訴訟となりました。チャップリンは当時最大の金額を支払い、1927年8月離婚しました。


 離婚後、彼女は、女優、歌手として映画やラジオに出演しましたが、1970年代以降はテレビに2本出演しただけで、デパートで店員をしていました。私生活では、結婚・離婚を3回繰り返しています。1995年ロサンゼルスで、ガンで死去。享年87歳。生前、彼女は自叙伝「チャップリンとの私の人生」(1966年)を出版しましたが、誇張と捏造が多く、不評でした。1995年にも回顧録が出版されています。

 




 

 11ポーレット・ゴダードとチャップリン

<ポーレット・ゴダートとチャップリン>

  3人目の妻は、ニューヨーク州出身のポーレット・ゴダート(アメリカ人・1910年6月3日~1990年4月23日)です。結婚期間は1936年~1942年(子供なし)。結婚時チャップリン47歳、ポーレット・ゴダート26歳。法的に籍は入れず、事実婚だったという説もあります。チャップリンの映画「モダン・タイムス」や「独裁者」に出演。離婚後も、女優として大活躍しました。


 チャップリンと離婚後、彼女は、1944年にオリバー・バージェス・メレディス(アメリカの俳優・映画監督)と結婚(1949年離婚)。1958年にエリック・マリア・レマルク(ドイツの小説家)と結婚後は、スイスに移住しました。1970年に彼が死去すると、彼女は、莫大な彼の遺産を相続しました。1975年、彼女は乳がんの治療に成功しました。1990年、彼女はスイスの自宅で、肺気腫のため心不全で死去。享年79歳。

  
 



 

 12ウーナ・オニールとチャップリン

<ウーナ・オニールとチャップリン>

  4人目の妻は、イギリス領バミューダ―諸島出身のウーナ・オニール(1925年5月14日~1991年9月27日)で、彼女は、ユージン・オニール(アメリカのノーベル賞作家)とアグネス・ブールトン(イギリスの作家)の娘です。


 1942年、17歳の彼女は、ハリウッドで社交界にデビューし、最も魅力的な女性として注目され、俳優のオーソン・ウェルズ、小説家のJ・D・サリンジャーなども彼女に夢中になりました。サリンジャーは実際に彼女と交際していましたが、突然彼女は離れていきました。


 1943年、チャップリンがウーナ・オニールの前に現れたのです。チャップリンは、映画「影と実態」のヒロイン候補として彼女を面接したとき、「輝くような美しさと、人並み外れた魅力を持っている」と思いました。その後、彼女はチャップリンの邸宅で過ごすようになり、結婚しました。


 結婚期間は1943年~1977年。結婚時チャップリン54歳、ウーナ・オニール18歳。チャップリンの妻の中では最も成功した結婚生活で、チャップリンが死ぬまで妻でした。二人は1953年1月からスイスに移住しました。二人の間に子供も8人できました。


 1977年にチャップリンが亡くなると、彼女は、気落ちしてしまいました。映画にも出演しましたが、心の隙間を埋めることはできませんでした。1991年彼女は、スイスのコルシエシュルブベイの自宅で、すい臓ガンで死去。享年66歳。

 

 

♥♥♥チャールズ・チャップリンからのメッセージ

 

何のために意味なんかを求めるのです? 人生は意味ではなく、願望なんです。

 

無駄な一日、それは、笑うことのない一日です。

 

浮浪者、紳士、詩人、夢想家、孤独な人、誰もが、いつもロマンスと冒険の希望を抱いています。

 

あなたが、心から笑うためには、自分の痛みを手に取って、それをもて遊ぶようにならなければなりません。

 

人生は、クローズアップで見れば悲劇ですが、ロングショットで見れば喜劇です。

 

 

 

 

 

 

 

 


2スピリット・オブ・セントルイス号101

 <リンドバーグと愛機スピリット・オブ・セントルイス号>

リンドバーグは、この写真の飛行機「スピリット・オブ・セントルイス号」を操縦し、ノンストップで大西洋横断単独飛行に成功しました。この飛行機は、ライアン・エアラインズ(Ryan Airlines製の単発機、「ライアンNYP-1」です。「NYP-1」は、この飛行機の目的飛行区間である、「ニューヨーク~パリ」のイニシャルを取って命名されました。リンドバーグの依頼を受けたライアン・エアラインズ社が、この1機だけ製作しました。多量の燃料を携行するために、巨大な燃料タンクを、エンジン後部の機首側に配置せざるを得ませんでした。その燃料タンクの後部が操縦席であるため、フロントガラスはなく、前方を見る時は、リンドバーグは頭を側面から出さなければなりませんでした。けれども、リンドバーグは、元々、機体後部寄りに操縦席がある旧式郵便機のパイロットだったので、このような操縦に慣れていました。この飛行機は、ワシントンの国立航空宇宙博物館に展示してあります。

 

 

 1スピリット・オブ・セントルイス号102
<スピリット・オブ・セントルイス号>

 

 2リンドバーグ

<チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ Charles Augustus Lindbergh

1902年(明治35年)2月4日~1974年(昭和49年)8月26日。ミシガン州デトロイト市生まれ。アメリカ合衆国の飛行家。1927年単葉単発単座のプロペラ機で初の大西洋単独無着陸飛行に成功。1931年北太平洋横断飛行に成功。ハーモン・トロフィー(年度最優秀パイロット賞)、名誉勲章、議会名誉黄金勲章、ピュリッツァー賞を受章。1974年ハワイ州のマウイ島ハナの別荘で、悪性リンパ腫により死去。享年72歳。

 

<リンドバーグ と誕生日(2月4日・みずがめ座)が同じ有名人>

前島密(1835年・官僚・日本)伊東深水(1898年・日本画家・日本)三輪壽雪(1910年・陶芸家・日本)小野清子(1936年・体操・政治家・日本)加藤剛(1938年・俳優・日本)黒沢年男(1944年・俳優・日本)三重ノ海剛司(1948年・相撲・日本)喜多郎(1953年・ミュージシャン・日本)山下達郎(1953年・シンガーソングライター・日本)石破茂(1957年・政治家・日本)時任三郎(1958年・俳優・日本)東野圭吾(1958年・推理小説家・日本)石原真理(1964年・女優・日本)小泉今日子(1966年・歌手・女優・日本)草野満代(1967年・アナウンサー・日本)江口ともみ(1968年・タレント・日本)佐々木蔵之介(1968年俳優・日本)桐谷健太(1980年・俳優・日本)。

 

 
3国立航空宇宙博物館
国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum

アメリカのワシントンD.C.の国会議事堂の近くにあります。航空機や宇宙船関連、惑星科学、地球物理学、航空工学、宇宙飛行の歴史、科学技術等の専門分野の情報を展示しています。スミソニアン協会が運営するスミソニアン博物館群の一つです。本館には、歴史的航空機や人工物の展示場のほか、映写機で投影されるシアター、プラネタリウムなどのアトラクション施設も設置されています。リンドバーグのスピリット・オブ・セントルイス号も展示されています。また、本館より大きい別館(スティーヴン・F・ウドヴァーヘイジー・センター)には、約200機の航空機と、135機の宇宙船などが展示されています。

 

 3国立航空宇宙博物館・本館101

国立航空宇宙博物館・本館

 


4本館・フライトホール

国立航空宇宙博物館・本館・内部フライトホール


4スピリット・オブ・セントルイス号103
国立航空宇宙博物館・本館・内部フライトホール
展示されているスピリット・オブ・セントルイス号


5本館・スタートレック・スターシップ「エンタープライズ」モデル
国立航空宇宙博物館・本館・内部

スタートレック・スターシップ「エンタープライズ」モデル


6本館・スカイラブ
 
国立航空宇宙博物館・本館・内部

スカイラブ。アメリカの実験用宇宙ステーション。

 


 7国立航空宇宙博物館・別館101

国立航空宇宙博物館・別館(スティーヴン・F・ウドヴァーヘイジー・センター)>

 8国立航空宇宙博物館・別館102

国立航空宇宙博物館・別館・内部>

 9国立航空宇宙博物館・別館103

国立航空宇宙博物館・別館・内部>

 10国立航空宇宙博物館・別館104

国立航空宇宙博物館・別館・内部>

 

☆☆☆エピソード(1)

 

リンドバーグの父はスェーデン移民の弁護士でしたが、後に共和党の国会議員になりました。母は化学の教師でした。リンドバーグは幼少時から機械に関心を示し、1922年、ネブラスカ航空機でパイロットと整備士の訓練に参加しました。

 

その後、カーティスJN‐4を購入し、曲技飛行を行いました。1924年にはアメリカ陸軍航空隊でパイロット訓練を受けました。訓練をトップの成績で卒業し、ライン・セントルイスの民間航空パイロットとして勤務しました。

 

1927年5月20日5時52分、25歳のリンドバーグは「スピリット・オブ・セントルイス号」でニューヨークのルーズベルト飛行場を離陸し、5月21日22時21分、フランス、パリのブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功しました。

 

1935年にリンドバーグは、生理学者アレクシス・カレルと二人で共同研究を行い、世界初の人工心臓の基礎となる「カレル・リンドバーグポンプ」を発明しました。リンドバーグの姉が心臓弁膜症だったので開発したのです。これは後の人工心臓の開発に大きな影響を与えています。

 

1953年、リンドバーグは大西洋単独無着陸飛行について記した「翼よ、あれが巴里の灯だ」(邦題)を出版し、1954年ピュリッツァー賞を受賞しました。1957年には映画化もされました。

 

☆☆☆エピソード(2)


11アン・モロー・リンドバーグ101

アン・モロー

1927年に、リンドバーグは、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功し、アメリカの国民的英雄になり、各地を訪れ、メキシコも訪問しました。その時、駐メキシコ大使・ドワイト・モローの次女、アン・モロー(1906年6月22日~2001年2月7日)と出会いました。リンドバーグ27歳、アン21歳でした。

 

11アンとリンドバーグ
<アンとリンドバーグ>

リンドバーグは、この好奇心旺盛で活発、冒険好きな娘、アンを、飛行機に乗せてやりました。離陸し、メキシコの空に飛び上がると、飛行機に初めて乗ったアンは、怖がりもせずに、真下に広がる美しいメキシコの大地と海に感動し、喜びの声をあげました。

 

そんなアンを、リンドバーグは、好きになり、自分の妻にふさわしいと思いました。アンの父、ドワイト・モローは銀行家で企業の重役でしたが、1927年にメキシコ大使に任命され、一家はメキシコで暮らしていたのです。アンは、スミス・カレッジを卒業したばかりでした。

 

1929年、リンドバーグは、アン・モローと結婚しました。


11靖国神社を訪問したリンドバーグ夫妻
 <1931年10月日本の靖国神社を訪問したリンドバーグ夫妻>

1930年アンは米国の女性として、初めてグライダーの操縦免許を取得。翌年の1931年には、プロペラ機の操縦免許も取得しました。この年にリンドバーグ夫妻は、北太平洋を飛行し、カナダ、アラスカ経由で、日本と中国を訪問しました。

 

  1932年、リンドバーグ夫妻の長男(1930年生まれ)が誘拐され、殺害される事件が起きました。その後、夫妻には5人の子供が生まれました。

 

1935年、アンは「翼よ北に」で作家デビューをしました。1955年、アンは「海からの贈り物」を出版し、ベストセラーになりました。著書は、「聴け!風を」(石田アヤ訳・白揚社・1939年)、「翼よ北に」(中村妙子訳・みすず書房・2002年)など多数、受賞もしています。

 

リンドバーグは晩年には、ハワイのマウイ島の別荘で暮らしました。1974年リンドバーグがマウイ島で、72歳で死去した後は、彼女は一人で暮らしました。

 

1989年アンは脳卒中で倒れました。バーモンド州在住の末っ子、リーブが、母のアンを、引き取りました。2001年、アンは自宅で静かに息を引き取りました。享年94歳。

 

 

 12ブリギッテ・ヘスハイマー101

<ブリギッテ・ヘスハイマーと2人の子供>

2003年11月、リンドバーグと、ドイツのミュンヘンの帽子屋、ブリギッテ・ヘスハイマーの間に、3人の非嫡出子が生まれていることが、DNA検査により判明しました。リンドバーグは彼女との関係を秘密にしていたのです。

 

1957年ドイツのミュンヘンで、ディナーパーティに参加した時、リンドバーグは、ブリギッテと妹のマリエッタに出会いました。ディナーパーティが終わった後、リンドバーグは、姉のブリギッテと恋に落ちたのです。リンドバーグ55歳、ブリギッテ31歳でした。彼女との関係はリンドバーグが死去するまで続きました。

 

リンドバーグはドイツには住んでいませんでしたが、定期的にミュンヘンを訪れていました。子供が生まれた後も、彼はミュンヘンの家族を訪問し続けましたが、彼らに本名を明かすことはありませんでした。

 

1974年にリンドバーグが亡くなってから数年後、彼からブリギッテに送られた手紙と写真150通以上が明らかにされました。ブリギッテは、アンが亡くなった同じ年の2001年に74歳で死去しました。

 


リンドバーグからのメッセージ

 

悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものです。およそ成り行きに任せる人間は、気分が滅入りがちなものです。

 

危険を冒すことなく、成し遂げられるものなど、何もありません。

 

大自然の中にいると、命の奇跡を感じます。その奇跡の前では、科学が成したことなど取るに足らぬものに思えてきます。

 

この瞬間、生きていることで、たくさんです。

 

成功は成し遂げられた内容によって測られるのではありません。その人が出くわした生涯の大きさと、打ちのめされそうな困難に立ち向かって奮闘を続けた勇気によって、測られるのです。

 

 

 

 

 

1ショパンのピアノ101
<ショパンのピアノ>

ポーランドの首都、ワルシャワにある、ショパン博物館には、ショパンが亡くなる2年前から弾いていたピアノが展示してあります。プレイエル社(フランス)のピアノで、ショパンのお気に入りでした。ショパンが1832年に作曲した「ノクターン第2番」(夜想曲第3番ホ長調Op.23)という曲は、このプレイエル社の社長夫人に捧げた曲であると言われています。

 


2ショパン102

<フレデリック・フランソワ・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin)

1810年(文化7年)3月1日(出生証明の日付は2月22日)~1849年(嘉永2年)10月17日。ワルシャワ公国ジェラゾヴァ・ヴォラ生まれ。ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する、“ピアノの詩人”と呼ばれた天才作曲家、ピアニスト。作曲した曲は、ほとんどピアノ曲。1849年肺結核によりフランスのパリで死去。享年39歳。

 

<ショパンと誕生日(3月1日・うお座)が同じ有名人>

アンリ・バイエ・ラトゥール(1876年・第3代IOC会長・ベルギー)朝倉文夫(1883年・彫刻家・日本)岡本かの子(1889年・作家・日本)和辻哲郎(1889年・哲学者・日本)芥川龍之介(1892年・作家・日本)グレン・ミラー(1904年・作曲家・アメリカ)菊田一夫(1908年・日本)矢野健太郎(1912年・数学者・日本)有島一郎(1916年・俳優・日本)常盤新平(1931年・作家・日本)南田洋子(1933年・女優・日本)加藤茶(1943年・タレント・日本)川﨑麻世(1963年・俳優・日本)中山美穂(1970年・女優・日本)井上祐介(1980年・タレント・日本)五郎丸歩(1986年・ラグビー・日本)ジャスティン・ビーバー(1994年・歌手・カナダ)。

 

 

 3ショパンの生家(博物館)107

<ショパンの生家(博物館)>

ポーランドの首都ワルシャワから西に60キロのジェラゾヴァ・ヴォラ村にあります。スカルベク伯爵邸です。ショパンはこの家で生まれましたが6か月後には、家族はワルシャワに引っ越しました。当時の伯爵邸は消失し、現在は復元された建物で、ショパン博物館となっています。内装や家具類も当時のままに復元されています。周囲は公園になっています。ショパンの肖像画、出生証明書や手紙、ショパンの愛用したピアノ、楽譜などが展示されています。展示物はそれほど多くはありません。美しい庭には、ショパン像が設置され、ショパンの好きだったバラが植えてあります。


3ショパンの生家(博物館)114
 
<ショパンの生家(博物館)内>

 

 

 

4ショパン博物館(ワルシャワ)101
<ショパン博物館>

ワルシャワにあるショパン博物館は、17世紀初頭にオストロフスキ伯爵によって建築されたオストロフスキ宮殿内のバロック様式の建物(写真)にあります。この建物は1944年戦火で崩壊し、その後復元されました。また、2010年にリニュアルオープンし、現代的で斬新な博物館となり、マルチメディアを使った15の展示室とショパンの音楽を自由に聞ける地下室を設けています。ショパンの愛用したピアノもあります。

 


5ショパン博物館(ワルシャワ)109
 
<ショパン博物館内>

 6ショパン博物館(ワルシャワ)103

<ショパン博物館内>


7ショパン博物館(ワルシャワ)104
 
<ショパン博物館内>

 

 

☆☆☆エピソード(1)

 

ショパンは姉のルドヴィカ(1807年4月6日~1855年10月29日)からピアノを教えてもらっていましたが、彼女が弾く曲を聴いていたショパンは、その場で、同じ曲を弾いて見せ、彼女と母を驚かせました。

 

姉のルドヴィカとは、ショパンは生涯仲が良く、離れていても文通をしたり、彼女のピアノ練習のための作曲もしています。ルドヴィカはショパンの臨終にも立ち会い、遺言に従い、彼の心臓をパリからポーランドに持ち帰っています。

 

1816年、6歳のショパンはヴォイチェフ・ジヴヌイからピアノを習い始めました。ある日、ショパンが作曲したポロネーズ(民族舞曲)を聴いたジヴヌイは、楽譜を持って街に飛び出しました。

 

そして、「みなさん!わたしの生徒は天才です!たった7歳の少年が、このポロネーズを作曲したのですよ!」と叫んで歩き回ったのです。この曲は「ポロネーズ・ト短調」という曲名で出版され、新聞にも掲載されました。

 

また、次に作曲した行進曲は、軍楽隊の演奏曲に採用され、軍楽隊の演奏を聴いたワルシャワ市民は、「あの天才ショパンが作曲した!素晴らしい」と絶賛しました。フレデリック・ショパンの名声は広がり、神童モーツアルトやベートーベンと比べられるようになりました。

 

1818年2月、ラジービウ大公の宮殿で開催された晩さん会で、7歳のショパンは初めて公開ピアノ演奏をしました。曲は、「協奏曲・ホ短調」(チェコの作曲家・イーロベッツ作曲)でした。

 

演奏が終わると、晩さん会に出席していた貴族たち、「素晴らしい!素晴らしい!」と大拍手と声援を贈り、「ブラボー、わがポーランドに、こんなすごい天才が現れるとは!」と絶賛しました。その後、貴族の邸宅や宮殿の夜会などの演奏への断り切れないほどのオファーが続きました。

 

☆☆☆エピソード(2)

 

8コンスタンツヤ・グワトコフスカ197
<コンスタンツヤ・グワトコフスカ>

1826年9月ショパンはワルシャワ音楽院に入学しました。そこで、声楽家の学生で同級生のコンスタンツヤ・グワトコフスカ(1810年6月2日~1889年)と出会います。

 

1829年のある日、コンスタンツヤから、「私たち、声楽科でオペラコンサートを開くので、来ていただけませんか」と招待されました。すると、いつもは奥手のショパンが「是非行かせてもらいます」と答えました。

 

彼女は、「有名なショパンさんに、来ていただけると、とても嬉しいですわ」と喜びました。宮廷職員の娘である彼女は、声楽科では首席で、しかも容姿も一番の美人でした。ショパンは恋に落ちました。彼女もショパンも19歳でした。

 

ショパンは、彼女への思いを、「ワルツ・変ニ長調」という曲に込めました。また、彼女の歌の伴奏を度々引き受けたり、自分の作った曲を彼女の前で弾いたり、相談にのったりしました。

 

1829年7月、ショパンはワルシャワ音楽院を「君の成績は最優秀だ。いやそれ以上の天才だ」と評価され、卒業しました。卒業後、ウィーンに行くことになりました。

 

コンスタンツヤへの思いを胸に秘めながら、ショパンは、ウィーンに行き、2回の演奏会を開き、大成功をおさめました。その後、9月に帰国しワルシャワに戻りました。

 

1830年3月、ワルシャワ国立劇場でショパンは音楽家として正式にデビューするコンサートを開きました。彼はこのコンサートで、コンスタンツヤに捧げる「ピアノ協奏曲二番」を演奏しました。

 

1830年7月コンスタンツヤはワルシャワ国立劇場で、オペラ「アニエーゼ」の主役を演じ、デビューを果たしました。当時、ポーランドではロシアからの独立運動が激しくなり、ショパンは祖国を離れざるを得なくなりました。

 

1830年10月11日、ショパンのお別れの演奏会が開かれ、コンスタンツヤが彼のために歌ってくれました。11月2日ショパンは、彼女からお別れにもらった指輪を指にはめ、友人と共にウィーンに向けて祖国を後にしました。その後、二人の恋は実ることはありませんでした。

 

1832年コンスタンツヤは資産家の貴族、ヨゼフ・グラボウスキーと結婚、声楽をやめて家庭に入り5人の子供を出産しました。1845年彼女は失明しました。1878年夫が亡くなりました。彼女は1889年、ショパンの死から40年後にポーランドで亡くなりました。享年79歳。

 


 9マリア・ヴォジンスカ101
<マリア・ヴォジンスキー>

1835年の夏ボヘミアの温泉地カールスパートで、両親と会った後、ショパンはパリに戻る途中、ドレスデンのヴォジンスキー伯爵一家(ポーランドの貴族)を訪ねました。

 

見上げるように、そびえる大邸宅の前にショパンが立った時、その窓から、ハッとするような容姿の娘が、身を乗り出して、「いらっしゃい、おひさしぶりです」と叫んだのです。「……どなたでしたっけ」とショパンは答えました。

 

「私を、お忘れ……?」とほほ笑む娘に、ドギマギしながら「……もしかして、マリア?」と答えました。5年前に、ショパンは彼女にピアノを教えたことがあったのです。

 

マリア・ヴォジンスキー(1819年~1896年)は、ピアノ演奏など芸術的な才能にあふれ、数か国語を放せる知的な美人に成長していました。ショパン25歳、マリア16歳でした。マリアの家族とも再開しました。

 

ショパンは、彼女と、森を散策し、思い出などを語り合いながら、彼女の魅力的な容姿と明るい性格に、魅かれていきました。

 

彼はパリに帰る日に、彼女に「ワルツ・変イ長調」の曲を捧げました。パリに戻っても、彼女への思いは深まるばかりでした。

 

翌年の1836年夏、二人はボヘミアで再会し、9月ドレスデンの伯爵邸に戻ると、ショパンは彼女に結婚を申し込みました。彼女と彼女の母も受け入れ、婚約しました。伯爵邸を去る朝、ショパンは「別れのワルツ」を書き、マリアに捧げました。

 

パリに戻ったショパンは、ある日、カフェで、フランツ・リスト(ハンガリーの作曲家・1811年~1886年)など友人から、婚約の祝福を受けました。

 

その時、そのカフェのショパンたちの近くのテーブルにいた、一人の女性が、グラスを手に持って近づいてきて、「ショパンさん、私からも、お祝いさせてくださる?」と言いました。

 

ショパンは「結構です。あなたには関係ありません」と拒絶しました。彼女は、高名な女流作家のジョルジュ・サンド(1804年7月1日~1876年6月)で、彼より6歳年上の聡明な美人でした。

 

彼女は、男性の服を着こなすボーイッシュな感じで、ショパンは以前から好きになれなかったのです。彼女はフェミニストでした。

 

マリアからは、度々手紙が届きました。けれども1836年の冬ショパンは喀血しました。その後も健康状態は良くなく、結婚は延期されました。その後、マリアからの手紙も途絶えがちになり、遂に母親から「婚約破棄」の手紙が届きました。

 

1841年マリアは、ジョゼフ・スカルベクと結婚しましたが離婚し、1848年、離婚した元夫の借地人と結婚。息子を出産しましたが4歳で死亡しました。再婚した彼女の夫は1881年に死亡し、彼女は未亡人になりました。1896年彼女はポーランドのクロブカで亡くなりました。享年77歳。

 

 

 10ジョルジュ・サンド - コピー (2)
<ジョルジュ・サンド>

1837年のある日、マリアへの失恋の痛手と、病気の悪化で落ち込んでいたショパンは、パリの街をさ迷うように歩いていましたが、咳にむせて、とうとうベンチに座り込んでしまいました。

 

すると、そこに馬車で通りかかった貴婦人が、熱で意識のもうろうとしているショパンを、馭者に命じて、馬車に乗せて、自宅に連れて帰り、ベッドに寝かせて看病しました。

 

やがて、病状が安定して、ショパンが目を覚ますと、ベッドの側には、ジョルジュ・サンドがいました。彼女が彼を馬車で連れて帰ったのです。

 

「初めて会った時、僕はあなたが好きではなかった」とショパンは言いました。すると彼女は「それで、今は?」と問い返しました。ショパンは、黙っていましたが、やがて、母のように優しくしてくれる彼女に魅かれていきました。

 

フランスの貴族の娘であるジョルジュ・サンドは、その時、すでに結婚しており、デュドヴァン男爵夫人でした。子供も一人いました。

 

1838年には、二人の仲はパリじゅうの噂になっていました。10月ジュルジュの提案で二人は地中海のマヨルカ島に行きました。1839年二人はフランス中部のノアンにあるジュルジュの別荘に移りました。ショパンの病気は安定し、彼は次々に素晴らしいピアノ曲を作りました。

 

しかしショパンの病気は徐々に悪化していきました。それとともに、彼はジュルジュに些細なことで当たるようになりました。同時に彼女の子供の問題、ジュルジュの浮気のことなどで、二人の仲は悪化し、1847年7月、別れました。その2年後の1849年10月ショパンが亡くなりました。

 

彼女は、民主主義、社会主義の思想で政治活動に参加しましたが、その後、ノアンに引きこもり、作家活動に専念しました。

 

彼女は、女性の権利を主張するとともに多数の文学作品を発表しました。同時にヴィクトル・ユーゴーなど多くの文学者と交流しました。1876年死去。享年73歳。

 

ショパンからのメッセージ

 

この世で人を疲れ果てさせるものは、自分を偽る心です。

 

私が死ぬとき、ベッリーニのアリアを弾いてください。

 

彼は何千人もの人に聴かせるように弾きますが、私はただ一人の人に聴かせるために弾きます。

 

常識と言いますが、これは非常に小さな要素に違いありません。というのは常識が僕の頭から、全て他の考えを引き出す程、強力なものではないのですから。

 

自分の耳が許す音だけが音楽です。

 

 

 

 

 


1ノーベルが常時持参していた旅行かばん110

<ノーベルの旅行カバン>

ノーベルは、40歳頃は、すでに世界中に会社や工場を経営・管理していたので、汽車や船で長時間かけて世界中を飛び回らなければなりませんでした(当時旅客機はありませんでした)。ところが、彼は病弱で、片頭痛、リウマチ、胃痛の病状があり、その上、多忙のストレスが彼を襲いました。それで、彼は旅行カバンの中に、いつもいろんな種類の薬を入れて、移動していました。この旅行カバンは、ノーベル博物館に展示してあります。



 

 2ノーベル107 (2)

<アルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel)>

1833年(天保3年)10月21日~1896年(明治29年)12月10日。スウェーデンのストックホルム出身。科学者、発明家、実業家。ダイナマイトとゼリグナイトを発明、特許を取得。これらを含めて合計350の特許を取得しました。1895年11月27日財産の大部分をあててノーベル賞を創設するという遺言状に署名しました。1896年イタリア王国のサンモーレの自宅で脳溢血により死去。享年63歳。ノーベルは生涯独身で子供はいませんでした。

 
 

<ノーベルと誕生日(10月21日・てんびん座)が同じ有名人>

アドルフ・ストレッカー(1822年・化学者・ドイツ)細川護立(1883年・政治家・日本)木原均(1893年・医学者・日本)江戸川乱歩(1894年・作家・日本)八木義徳(1911年・作家・日本)ゲオルク・ショルティ(1912年・指揮者・ハンガリー・イギリス)白川由美(1936年・女優・日本)ジェームズ・E・ガン(1938年・天文学者・アメリカ)五月みどり(1939年・女優・日本)蛭子能収(1947年・漫画家・日本)中村吉三郎(1949年・歌舞伎役者・日本)浜田靖一(1955年・政治家・日本)永島敏行(1956年・俳優・日本)渡辺謙(1959年・俳優・日本)さかもと未明(1965年・漫画家・作家・日本)アルシンド(1967年・サッカー選手・ブラジル)道端ジェシカ(1984年・ファッションモデル・日本)伊藤美誠(2000年・卓球選手・日本)。



 

 3ノーベル博物館107

<ノーベル博物館>

スウェーデンのストックホルムに、2001年ノーベル賞100周年を記念して、18世紀に建築された証券取引所の建物を改装してオープンしました。館内では、年代別に受賞者や受賞内容を紹介、受賞者の功績の映画も上映。1901年からの受賞者750名の肖像も展示されています。子供向けの実験の部屋もあります。館内のレストランの椅子の裏には、受賞者のサインがあります。売店ではノーベル賞のメダルチョコレートも売っています。

 
 

4ノーベル賞の歴史も展示113
<ノーベル賞の歴史を展示>

 

 5展示室109
<子供から大人まで楽しめる展示室>

 

 6研究図書館110

<ノーベル賞関係の研究図書館>

 


 
☆☆☆エピソード(1)

 

 ノーベルは、建築家で発明家の父、イマヌエル・ノーベルの8人の子の4男としてスウェーデンのストックホルムに生まれました。父も機械や爆発物の聖像で成功、クリミア戦争(1853~1856年)では兵器生産で大儲けしましたが、その後軍が支払いを延期したため、1859年に破産しました。

 

 父の事業を手伝っていたノーベルは、爆発物の研究に没頭し、特に、ニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究しました。その後、起爆装置や雷管を取り付けたりして爆発実験に成功しました。

 

 1864年9月3日、爆発事故で、弟と5人の助手が死亡する事故が起きました。ノーベル本人もけがをしました。この事故でストックホルムでの研究開発が禁止になり、ハンブルクに工場を建設して研究を続行しました。

 

 そして1866年不安定なニトログリセリンを安全で取り扱いやすいようにしたダイナマイトを発明、アメリカとイギリスで特許を取得しました。1871年には、世界50か国で特許を取得、100近い工場を設立、世界中で採掘や土木工事に使用されるようになり、世界の大富豪になりました。

 

 1875年ダイナマイトより安全で強力なゼリグナイト(世界初のプラスチック爆弾)を発明。1884年スウェーデン王立科学アカデミー会員。フランス政府から、レジオン・ド・ヌール勲章を授与されました。

 

 1891年兄リュドピックと母の死を契機に、イタリアのサンレーモに移住。1895年持病の心臓病が悪化して、ノーベル賞設立に関する記述のある遺言状を書きました。1896年12月7日、サンモーレの自宅で、脳溢血で倒れ、12月10日死去しました。

 

 

☆☆☆エピソード(2)

 

 ノーベルは、ヨーロッパと北米各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていましたが、1873年~1891年はパリに住んでいました。

 

 孤独な性格のノーベルは、うつ病になったこともありました。生涯独身であり、子供もいませんでしたが、生涯に3度、恋愛の経験があります。最初の相手は、ロシア娘のアレクサンドラでしたが、ノーベルのプロポーズを拒絶しました。

 

 

 1876年には、結婚相手を見つけるため、ノーベル(43歳)は、パリの邸宅の女性秘書兼マネージャーを募集しました。その方法は、「非常に豊かで文化的な老年の紳士が、家庭の秘書兼マネージャーとして、言語に精通した成熟した年齢の女性を探しています」という広告を出したのです。

 

 
 

 7ベルタ・フォン・ズットナー(1903年)107

<ベルタ・フォン・ズットナー>
 

 応募者は多数ありましたゲ、その中から、5か国語で応募したベルタ・キンスキー(1843年6月9日~1914年6月21日)を、ノーベルは選びました。彼女は33歳、ノーベル43歳でした。

 

 ベルタ・キンスキーの、生まれた時の名は、グレーフィン(伯爵令嬢)・キンスキー・ウヒニッツ・ウント・テッタウで、オーストリア陸軍元帥・伯爵の娘として、生まれました。

 

 1873年から、彼女はズットナー男爵家の家庭教師を務めていましたが、同家の、アルトゥール・グンダッカ―・フォン・ズットナー(1850年~1902年)から求婚されましたが、彼女の両親は反対しました。

 

 1876年、彼女は、ノーベルの募集した秘書兼家政婦に応募し、パリに出て、採用されたのです。ノーベルは彼女の美しさと知性に魅かれ、彼女もノーベルに好意を持ちました。二人は、人生や世相から芸術まで、あらゆることを話しあい、意気投合しました。

 

 ある日、ノーベルは、彼女に「誰か好きな人はいますか?」と尋ねたのです。彼女は、嘘が言えなかったので、「婚約者がいますが、今は家の問題で破談になっています」と答えました。

 

 ノーベルが、出張で出国し、20日後に、パリに帰ってみると、彼女は、ホテルを引き払い、消えていました。ウイーンに戻っていったのです。彼女は、秘書の仕事は、納得できましたが、ノーベルの恋人にはなりたくなかったのです。ノーベルは、片思いだったのです。

 

 その年の年6月12日に、彼女は、ルトゥール・ズットナーと、ウイーンで結婚しました。結婚後、彼女の名前は、ベルタ・フォン・ズットナー(ベルタ・フェリツイタス・ゾフィー・フライフラフ・フォン・ズットナー)となりました。

 

 ノーベルの邸宅の秘書兼マネージャーは、短期間で逃げ出しましたが、ノーベルとの関係は、文通を通じて、その後も1896年にノーベルが死去するまで続きました。けれども、ノーベルの晩年には思想的に二人は対立しました。

 

 彼女、ベルタ・フォン・ズットナーは、1889年に小説「武器を捨てよ!」(1914年に映画化)を発表し、平和活動の先駆者となりました。その後も、活発な平和活動を行い、1892年には、国際平和ビューローに加入し、終身会員となり、副会長にも選出されました。

 

 そして、ノーベルの死後9年後には、彼女は、ノーベル平和賞を受賞しました。ノーベルが、受賞部門に平和賞を設けたのは、彼女の影響が大きかったという説もあります。現在のオーストリアの2ユーロ硬貨には彼女の肖像が描かれています。彼女には多数の著書もあります。

 
 

 

 8ゾフィー・ヘス108

<ゾフィー・ヘス>
 

 ベルタ・フォン・ズットナーと別れた、同じ1876年に、ノーベルは、花屋の店員、ゾフィー・ヘスと出会いました。ノーベルは、彼女の美しさに、ひとめぼれをしました。彼女は20歳、ノーベル43歳でした。

 

 彼女は、美しかったのですが、その美貌と裏腹に、性格は上品ではなく、おてんば娘でした。ノーベルは彼女を気に入り、自分の邸宅に連れて帰り、教育し、教養を身につけさせました。

 

 ゾフィーとノーベルの恋愛は15年間続きました。けれども、彼女は、ぜいたくな暮らしが身に付き、浪費家になり、しかも、ノーベルが仕事で出張の時、複数の男と浮気をしていました。

 

 1891年ゾフィーがハンガリー人の騎兵隊士官の子供を宿していることを知ったノーベルは、彼女に怒り、失望し、彼女との関係を終わらせようとしました。

 

 ところが、彼女は、ノーベルとの間に218通の手紙のやり取りをしていましたが、それらの手紙を世間に公表し、二人の関係を暴露すると、ノーベルを脅迫したのです。ノーベルは、仕方なく、毎年数億円(現在の価値で)ともいわれる高額なお金を彼女に支払い続けました(ノーベルが死去するまで)。

 

 彼女は、ハンガリー人の騎兵士官と結婚しました。ノーベルの死後、彼女は、今度は、これらの手紙をノーベル財団に高額(数十億円)で買い取らせ、巨額なお金を手にしました。ノーベル財団はこれらの手紙を、1955年、公開しています。

 

 彼女は謎の死を遂げています。自殺との説もあります。彼女の死後、彼女の財産はフランス国に納入されています。ゾフィーが死去した時、彼女の子供はすでに亡くなっていたのです。

 

 

ノーベルからのメッセージ

 

遺産を相続させることはできますが、幸福は相続できません。

 

仕事があれば、そこが我が祖国です。仕事は、どこにいてもできるのです。

 

限られた時間の、人生という宝石を、どれほど磨くかは、それぞれの自由です。

 

その人生という宝石は、どこまでも輝きを増していきます。終わりはありません。

 

1000個のアイデアがあったとしても、1個実現したら良いほうです。