世界の偉人・天才・有名人の愛用品

今回のブログでは、世界(海外・日本)の偉人、天才、有名人などの愛用品、ゆかりの品や場所を、人物のエピソードとともに紹介していきます。


1オードリー・ヘプバーン・サングラス107
<オードリー・ヘプバーンのサングラス>

写真は映画「ティファニーで朝食を」(1961年)の中のワンシーン。オードリー・ヘプバーンが着用しているサングラスは、オリバー・ゴールドスミス‐マンハッタンです。そのほか、彼女は、映画「シャレード」(1963年)、「パリで一緒に」(1964年)でもオリバー・ゴールドスミスのサングラスを使用しています。

 

2オリバー・ゴールドスミス・マンハッタン108
 

<オリバー・ゴールドスミス>

写真はオリバー・ゴールドスミス‐マンハッタン。オードリー・ヘプバーンが愛用したサングラスメーカー、オリバー・ゴールドスミスは、1926年創業の英国を代表する老舗ブランドです。このサングラスは、魅力と優雅さを表現し、時代を超越した美しさを醸し出します。モナコ王妃・グレース・ケリーや、ダイアナ元皇太子妃など、多くの著名人が使用していました。

 

 3オードリー

3オードリー・ヘプバーン107
<オードリー・ヘプバーン(
Audrey Hepburn)

1929年(昭和4年)5月4日~1993年(平成5年)1月20日。ベルギーの首都ブリュッセル生まれ。イギリス人。アメリカ合衆国の女優。アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞を受賞。ユニセフ親善大使。アメリカの文民最高勲章である大統領自由勲章受章。1993年、スイス、トロシュナの自宅で、結腸ガンのため死去。享年63歳。

 

 3麗しのサブリナ(1954年)撮影中に更衣室でのオードリー

<「麗しのサブリナ」(1954年)撮影中の更衣室でのオードリー・ヘプバーン>

 

 

<オードリー・ヘプバーンと誕生日(5月4日・おうし座)が同じ有名人>

エミール・ガレ(1846年・ガラス工芸家・フランス)芹沢光治良(1896年・作家・日本)笹川良一(1899年・政治運動家・日本船舶振興会会長・日本)森繁久彌(1913年・俳優・日本)田中角栄(1918年・政治家・日本)ムハメド・ムバラク(1928年・政治家・エジプト)武田勝彦(1929年・英文学者・日本)中谷昇(1929年・俳優・日本)樋口恵子(1932年・評論家・日本)正司花江(1936年・女優・日本)青山和子(1946年・歌手・日本)菊池桃子(1968年・歌手・タレント・日本)たむらけんじ(1973年・タレント・日本)。

 

 

☆☆☆エピソード(1)

 

 オードリー・ヘプバーンの父親は、オーストリア・ハンガリー帝国ボヘミア出身。母親はオランダ貴族出身。オードリーには父親の違う兄2人がいました。オードリーが5歳の時父が浮気をして、家族を捨てて家を出ていき、それ以後、母親に育てられました。

 

 母は、オードリーを厳しく育てました。礼儀作法や言葉遣い、日常の振舞いまで、しつけました。そして母は、繰り返しオードリーに次のように言い聞かせました。

 

 「どんなことでも努力を欠かさず、前向きに取り組みなさい」。「あなたは特別な人間ではないのよ。自分の事ばかり考えてはいけない。いつでも、自分より、まず他人のことを考えなければいけません」。

 

 1950年21歳の時、まだ売れないオードリーは、映画の端役で、モナコのホテルのロビーで映画撮影を行っていました。その時、同じホテルに宿泊していたフランスの高名な小説家、ガブリエル・コレットが、オードリーを見て、「見てごらん!私のジジがいるわ!」と叫びました。

 

 ガブリエル・コレットの小説「ジジ」がミュージカルで上演されることになり、彼女は主役を探していたのです。彼女が、オードリーを見た瞬間、その「ジジ」の主役に、ぴったりと、思ったのです。

 

 オードリーは、アメリカのニューヨーク、ミュージカルの本場、ブロードウェイでデビューすることになりました。でも1か月後には本番を迎えるのです。オードリーは一生懸命演技の練習をしました。

 

 けれども、舞台に立ったオードリーの練習演技を見た、プロデューサーは「これはひどい、まるで素人じゃないか」と言って、その数日後には「君は、クビだ。もう来なくていい」とオードリーに言いました。

 

 しかし、代役がいなかったのと、オードリーの血のにじむような努力を知っていた他のスタッフ達が彼女を応援し、再び舞台稽古が始まりました。オードリーが人を引きつけ、女優として魅力があることを、みんな感じていたのです。

 

けれども、プロデューサーは、来る日も来る日も、オードリーを𠮟りつけました。オードリーは逃げ出したいのを我慢して、練習を続けました。満員の劇場の舞台に立つことを想像しただけで、恐ろしさにつぶれそうになりました。

 

 けれどもオードリーは「私が下手なのは本当の事だから、もっともっと練習しなければ」と自宅に戻っても毎晩セリフと演技の練習をしました。1日に18時間も練習したこともありました。

 

 そうして、いよいよ、初日を迎えました。初日の幕が下がると、劇場は、「すばらしい! すばらしい!」という観客の歓声と、割れんばかりの盛大な拍手が響き渡りました。

 

 幕の内側で、オードリーは、ふわふわした感じで、夢の中にいるようでした。「私は、ちゃんと演じられたのかしら」。幕の外側から、拍手と歓声と、オードリーの名前を叫ぶ声が耳に入ってきました。「成功したのかしら」。

 

 翌日から、沢山の新聞や雑誌が無名のヒロインを大きく取り上げました。楽屋には毎日、花束やプレゼントが山ほど届きました。ミュージカル「ジジ」は連日満員になりました。

 

 取材も次から次に来ました。そのたびに、オードリーは、経験のない未熟な自分が、監督やプロデューサー、スタッフ達に如何に助けてもらってきたかを語りました。

 

 この「ジジ」のあと、オードリーは、世界中で大ヒットした映画「ローマの休日」で、初主演を演じ、大スターへの道を歩んでいきました。

 

☆☆☆エピソード(2)

 

 

 4オードリー・ヘプバーンとジェイムズ・ハンソン男爵

<オードリー・ヘプバーンとジェイムズ・ハンソン男爵>

 1950年、オードリー・ヘプバーンは、イギリスの運送会社の御曹司、ジェイムズ・ハンソン男爵(1922年1月20日~2004年11月1日)と婚約しました。ジェイムズ28歳、オードリー21歳でした。まだ、ミュージカル「ジジ」の公演が始まる前に知り合い、オードリーが彼に一目ぼれしたのです。

 

 二人は、結婚の約束をしました。けれども、「ジジ」の公演が大成功し、オードリーは、アメリカ各地を巡業で回ることになり、会えない日々が続きました。オードリーは「自分は彼のよい奥さんにはなれない。彼のためによくない」と巡業途中で、婚約解消を発表しました。

 

 ウエディングドレスまで、出来上がっていたのですが、二人の仕事は、あまりにも異なっており、すれ違いの生活が続く現実から、オードリーは解消を決めたのです。

 

 彼は、その後、1959年に他の女性と結婚し、子供もできました。彼は2004年11月バークシャー州、ニューベリー近郊の自宅で、ガンとの長い戦いの後、亡くなりました。享年82歳。

 

 

 5ウィリアム・ホールデン107

<ウィリアム・ホールデン>

 1953年、「ローマの休日」に続くオードリー・ヘプバーンのヒット作、「麗しのサブリナ」(1954年)の撮影中に、オードリー・ヘプバーンとウィリアム・ホールデン(1918年4月17日~1981年11月12日)は恋愛関係になりました。ウィリアム・ホールデン35歳、オードリー24歳でした。

 

 ウィリアムは、女優のブレンダ・マーシャルと結婚しており、子供もいましたが、オードリーは、彼に「あなたと結婚したい」と迫りました。けれども、彼は「自分は精管の病気で子供ができない」と告げます。

 

 子供を強く欲しがり家庭を作ることを望んでいた、オードリーにとって、それは致命的なことでした。二人は、別れました。

 

 ウィリアム・ホールデンは、「第十七捕虜収容所」(1953年)でアカデミー主演男優賞を受賞、その後、「麗しのサブリナ」(1954年)、「慕情」(1955年)、「戦場にかける橋」(1957年)、「騎兵隊」(1959年)など世界映画史を代表する名作で主演しました。

 

 1970年ブレンダ・マーシャルと離婚。その後、「ワイルド・パンチ」(1969年)、「タワーリング・インフェルノ」(1974年)、「ネットワーク」(1976年)などに出演しました。

 

 けれども、晩年はアルコール依存症でした。1981年11月、自宅の階段から酔ったまま転落、急死しました。死後四日後に発見されました。享年63歳。

 


 

 6メルとオードリー(戦争と平和)

<メル・ファーラーとオードリー・ヘプバーン(映画「戦争と平和」で)

 1953年の暮れ、オードリー・ヘプバーンは、「ローマの休日」で共演したグレゴリー・ペック(1916年4月5日~2003年6月12日)から俳優のメル・ファーラー(1917年8月25日~2008年6月2日)を紹介されました。オードリー24歳、メル・ファーラー36歳でした。

 

 オードリーは「ローマの休日」撮影中に、グレゴリーと噂になったことがありましたが、二人は、確かに共演中はお互い好き合っていましたが、それ以上発展することはなく、親友になり、生涯の友となりました。

 

 メル・ファーラーと出会った、オードリーは、彼と話し合って、共感し、また彼のやさしさに、魅かれました。彼は、オードリーの役獲得のために、奔走し、ブロードウェイ作品「オンディーヌ」の脚本をオードリーに送りました。

 

 オードリーは、この舞台作品への出演を承諾しました。1954年1月から舞台稽古が始まり、二人は共演し、愛し合うようになりました。

 

 その年の3月25日、オードリーは「ローマの休日」でアカデミー賞主演女優賞に選ばれました。その3日後には、優れた舞台女優に贈られるトニー賞も受賞しました。

 

 1954年9月25日、オードリーは、周囲の反対を押し切って、スイスのバーゲンストックでメル・ファーラーと結婚しました。オードリー25歳、メル37歳でした。2度の流産のあと、1960年7月17日、長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが誕生しました。

 

 1956年オードリーとメルは超大作の名画、「戦争と平和」で共演しました。オードリーは「ナターシャ」、メルは相手役の「アンドレイ」ですが、映画ではアンドレイは戦病死し、最後にピエールと結ばれます。

 

 その後も、オードリーは、「パリの恋人」「尼僧物語」「緑の館」「許されざる者」「ティファニーで朝食を」「シャレード」「マイ・フェア・レディ」などの名作に出演を続け大スターの道を躍進しました。

 

 1965年静かな場所で、広い庭のある家で暮らすことを夢見ていたオードリーは、スイスのレマン湖の北、アルプスが見える、トロシュナ村に家族3人で移住しました。18世紀に建てられた石造りの家に住みました。

 

 けれども、映画の仕事も減らし、子供と夫の3人でおだやかな幸せを選んだオードリーですが、夫のメルとの間は、うまくいかず、冷え切ってしまい、1967年離婚を発表します。そして翌年の1968年12月5日、離婚が成立しました。ファーラーはその後、2008年心不全のため死去。享年90歳。

 

 

7アンドレアとオードリー
 
<アンドレア・マリオ・ドッティとオードリー・ヘプバーン>

 1968年、オードリーは友人の伯爵夫人のところに身を寄せました。そして偶然参加したエーゲ海の船旅で、9歳年下の精神科医、アンドレア・マリオ・ドッティ(1938年3月18日~2007年9月30日)と出会い、恋に落ちました。オードリー39歳、アンドレア・マリオ・ドッティ30歳でした。

 

 後にオードリーはその時のことを次のように言っています。「彼と出会った時、まるで頭にレンガが落ちてきたみたいだったの」。アンドレアはローマ大学の助教授で、女性のうつ病専門クリニックの院長でした。

 

 

 しかし、周囲の者は、「アンドレアはプレイボーイであなたには合わないよ」と反対しました。けれども、オードリーは、1969年一月18日、彼とスイスで2度目の結婚式をあげ、アンドレアの住むローマに引っ越しました。

 

 オードリーは、「愛する人と、人生をともに生きたい」と主婦になり、映画の出演依頼はすべて断りました。1970年2月8日スイスのローザンヌの病院で帝王切開により次男・ルカを出産しました。

 

 けれども、1973年、アンドレイの浮気やパパラッチ騒動で、オードリーはローマにいたたまれなくなり、息子のショーンとルカを連れて、スイスの自宅に旅立ちました。アンドレイは、仕事があるからと言って、一緒に来ませんでした。その後、オードリーは、スイスとローマを行き来しました。

 

 1976年から、オードリーは映画に出演し始めました。アンドレアとの結婚生活に疲れ果てていたオードリーは、友人の家での仲間の集まりで、7歳年下の、オランダ出身の俳優、ロバート・ウォルダース(1936年9月28日~)に出会います。オードリー47歳、ロバート・ウォルダース40歳でした。

 

 テレビの人気西部劇のスターだったロバートは、今までの男と全く違うおだやかな性格で、つい最近奥さん(女優・マール・オベロン)を亡くしたばかりでした。オードリーは結婚生活の悩みを彼に打ち明けました。

 

 

 

 8ロバートとオードリー

<ロバート・ウォルダースとオードリー・ヘプバーン>

 1980年、オードリーの父が危篤という知らせを聞き、オードリーは、ロバートと一緒にダブリンに行き、亡くなる前日に最後の時を過ごしました。1982年、アンドレアとの離婚が成立しました。

 

 離婚後、ロバートと一緒に、子供たちのいるスイスの自宅に帰りましたが、「結婚は二度としない」と、残りの人生を共に過ごしたロバートとも結婚はしませんでした。

 

 オードリーは、年を取った母親ともスイスの自宅で、一緒に暮らしていましたが、1984年、母はなくなりました。1987年オードリーはユニセフ特別親善大使の任務に就き、エチオピア、トルコ、南アメリカなどを訪問しました。

 

 その後も親善大使として四年間に8回の視察旅行を行い、世界の子供たちを救う活動にロバートと共に従事しました。1992年10月、イベントのためアメリカに渡りましたが、ロサンゼルスの病院で、オードリーのガンが発見され緊急入院しました。

 

 ロバートは、体の弱っていくオードリーにいつも付き添っていました。オードリーは、過去を振り返って、「ロバートと過ごした時が人生で、一番おだやかで安らかな日々でした」と語っています。1993年1月20日に結腸ガンでスイスの自宅で亡くなりました。

 

 オードリー・ヘプバーンの死の翌年、1994年にロバートは、アメリカの女優のレスリー・キャロン(1931年7月1日~)と交際しました(1年後に破局)。その後、ヘンリーフォンダの未亡人、シャーリー・フォンダと交際しています。現在まで健在です。

 

 

オードリー・ヘプバーンからのメッセージ

 

私にとって最高の勝利は、ありのままで生きられるようになったこと、自分と他人の欠点を受け入れられるようになったことです。

 

何より大事なことは、人生を楽しむこと、幸せを感じること、それだけです。

 

私のことを笑わせてくれる人が大好きです。本当に笑うことが、私にとっては一番好きなこと。笑いはたくさんの病を治します。人にとって一番大切なことではないでしょうか。

 

周囲のことを最優先に考え、自分のことは後回しにするというのは、昔ながらの素晴らしい考え方です。私はその価値観によって育てられました。「あなたよりも、周りの人達の方が大切です。だから駄々をこねても駄目よ。我慢しなさい」。

 

人の評価は、他の人達の意見よりも、その人が他の人達について、どのように言っているのか、でより分かるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1ナポレオンの嗅ぎ煙草入れダイヤモンド
【ナポレオンの嗅ぎ煙草入れ】
 
1815年6月18日、ワーテルローの戦いで敗北したナポレオンは、7月15日にイギリス海軍の軍艦・ペレロフォン号に降伏し、乗艦しました。イギリスに保護を求めたのです。ペレロフォン号にはナポレオンの積み荷があり、その中に、ナポレオンの嗅ぎ煙草入れが数点ありました。中央にナポレオンの肖像画がはめられ、周囲にダイヤモンドが組み込まれた嗅ぎ煙草入れは、目を見張るほど豪華なものでしたが、これは、ナポレオンがプレゼント用に所持していたものでした。ナポレオンは、その後、終焉の地であるセント・ヘレナ島に送られました。




ナポレオンの嗅ぎ煙草入れ1
【ナポレオンの嗅ぎ煙草入れ(京都嵐山オルゴール博物館所蔵)】

写真は、京都嵐山オルゴール博物館所蔵の「ナポレオンのオルゴール付嗅ぎ煙草入れ」です。オーストリア戦役(1805年)での勝利の褒美として、ナポレオン自ら部下の将官に与えるため、10点製作したものの1点です。オルゴールは、嗅ぎ煙草の葉を入れるケースに、放射状に配置された櫛歯を、突起のある円盤が回転して、ピンを弾いて演奏する仕組みになっています。
 



2ナポレオン2 (2)

【ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)】

1769年(明和6年)8月15日~1821年(文政4年)5月5日。フランス領コルシカ島出身。フランス第一帝政の皇帝(ナポレオン1世)。軍人、政治家。幽閉されたセントヘレナ島で病死(胃がん)。ヒ素による暗殺説も。享年51歳。



 【ナポレオン・ボナパルトと誕生日(8月15日・しし座)が同じ有名人】
 
 ウォルター・スコット(1771年・詩人・小説家・イギリス)宝谷紘一(1940年・生物物理学者・日本)シルビー・バルタン(1944年・歌手・フランス)目黒祐樹(1947年・俳優・日本)鈴木英敬(1974年・政治家・日本)川口能活(1975年・サッカー選手・日本)山下剛(1978年・アナウンサー・日本)ジェニファー・ローレンス(1990年・女優・アメリカ)夏生さち(1992年・女優・日本)岡田将生(1989年・俳優・日本)萩野公介(1994年・水泳選手・日本) 




3パリの軍事博物館 (2)
<フランス国立軍事博物館>

パリ(フランス)の廃兵院「アンヴァリッド」内にあるフランス国立軍事博物館には多数のナポレオンのコレクションがあり、ナポレオンの墓もあります。
 
 
 
4ローマのナポレオン博物館1 (3)
<ローマのナポレオン博物館>

1927年までナポレオンのすぐ下の弟ルチアーノの家族が実際に住んでいました。ナポレオンやジョセフィーヌなど家族の写真などが展示されています。




5コルシカ島のナポレオン博物館 (4)
<コルシカ島のナポレオン博物館>

ナポレオンはコルシカ島(フランス領)西岸のアジャクシオで生まれました。その生家が博物館になっています。家族や関係者の肖像、ナポレオンのデスマスクなどが展示されています。ナポレオンが幼少時代過ごした部屋もあり、意外に小さなベッド(ナポレオンの成人した身長は168センチ)もあります。



☆☆☆エピソード(1)
 

 判事だったナポレオンの父は、コルシカ独立運動の司令官の副官になりましたが、フランス側に転向し、戦後、報償としてフランス貴族と同等の身分に取り立てられました。 母は、ジェノヴァ共和国の大尉の娘。ナポレオンは5男3女の三男です。

  ナポレオンは、陸軍士官学校を卒業して、軍人を志しましたが、スピード出世をして、フランス皇帝にまで昇り詰めました。それは、時節と運と、なにより、その軍事的天才によるものでした。

 ナポレオンは無口で小柄な少年でしたが、パリの陸軍士官学校を砲兵科58人中 42番の成績で16歳で卒業しました。けれども、通常4年かかるの課程を、わずか11か月で全過程を終了し卒業したのです。開校以来の最短記録でした。

 1789年フランス革命が起き、ナポレオンは1792年23歳で、アジャクシオ国民衛兵隊の陸軍中佐に任命されます。けれども、ボナパルト家は弾劾され、マルセイユに追放されます。1793年、フランス陸軍に復帰すると、陸軍大尉に任命され、その後革命軍の砲兵司令官に任命され少佐に昇進します。

 革命軍の砲兵司令官として、ナポレオンは優れた作戦により敵艦隊を敗退させ、反革命軍を降伏させました。この驚くべき軍事的功績により、国民公会の推薦で旅団長(少将)に任命され、一躍フランス軍を代表する英雄になりました。24歳でした。

 その後、ロベスピエールが失脚したので、ナポレオンは逮捕され、予備役になりました。その後1795年王党派が蜂起したので、呼び戻され、ナポレオンは大砲を使用した大胆な作戦で一気に鎮圧し、師団長(中将)に昇進。その後国内軍副司令官、国内軍司令官に昇進しました。26歳でした。

 1796年ジョセフィーヌと結婚したばかりのナポレオンは、イタリア方面軍司令官に抜擢されました。フランス革命にオーストリアが干渉してきたのです。イタリア側から攻撃したナポレオンは連戦連勝し、ついに1797年4月オーストリアと講和条約を締結。フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得しました。これがイギリスなど欧州を巻き込んだナポレオン戦争の始まりでした。12月フランスに帰還したナポレオンは英雄として国民から熱狂的な歓迎を受けました。28歳でした。

 1798年ナポレオンは軍を率いてエジプト遠征に出ました。イギリスとその植民地インドとの連携を遮断するためです。ナポレオンは連戦連勝しカイロに入場しましたが、ネルソンのイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗(ナイルの海戦)しました。29歳でした。

 さらに、1799年にはオーストリア軍にイタリアを奪還されます。急きょエジプトからフランスに帰還したナポレオンをフランス民衆は熱狂的に迎えました。その年の11月ナポレオンはクーデターを起こし、統領政府を樹立、自ら第一統領(第一執政)に就任、独裁権を獲得、政権の座につきました。30歳でした。

 その後、1804年12月2日、ナポレオンはフランス皇帝になりました。35歳でした。


☆☆☆エピソード(2)
 
 
 皇帝ナポレオンは、嗅ぎ煙草を愛用していました。近年、ヨーロッパで上演される芝居では、ナポレオンは必ずと言っていいほど、嗅ぎ煙草入れを手にもって登場します。ナポレオンを演じている役者は、舞台に嗅ぎ煙草の粉をまき散らしながら、セリフを言い、演技をします。

 これは、ナポレオン皇帝がいつも嗅ぎ煙草の粉をまき散らしていたという歴史的事実に基づいています。このことは、アメリカの推理作家・ジョン・ディクスン・カーの推理小説『皇帝のかぎタバコ入れ』(1942年)にも、記されています。

 ナポレオンは、パイプ煙草が嫌いだったのです。パイプの煙を吸うことが苦手で、吸うと、むせ返すので、嫌いになってしまったのです。それで嗅ぎ煙草を愛用するようになりました。

 アメリカ大陸では、煙草の葉やハーブを粉にして吸う習慣があり、コロンブスによって、1641年に、ヨーロッパにもたらされました。その後、中国の清王朝の宮廷にまで伝わりました。

 18世紀のフランスやイギリス、プロイセンでは、嗅ぎ煙草が流行し、庶民だけでなく、貴族など上流社会でも好まれました。資産家では、豪華な装飾の嗅ぎ煙草入れを作らせて、愛用しました。マリー・アントワネットは黄金の嗅ぎ煙草入れを52個所持していたといわれています。

 嗅ぎ煙草は煙草の粉を鼻の内側の粘膜に付着させてニコチンを摂取する喫煙法で、一度着ければ一時間ぐらい楽しめます。しかも、火を使わないので、周囲に気を使わなくてもいいし、煙を吸わないので、のどや肺に負担をかけません。嗅ぎ煙草の葉の粉の製法は、煙草の葉に加香し、樽に詰め、味をなじませた後に粉末状にします。




☆☆☆エピソード(3)



1ジョゼフィーヌ108

<ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ>
 

 ナポレオンの最初の妻は、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763年6月23日~1814年5月29日)。結婚期間は1796年~1810年。結婚時ナポレオン27歳、ジョゼフィーヌ33歳。

 

 ジョゼフィーヌは、フランス領西インド諸島マルティニーク島出身。貴族の娘として生まれたが、生家は貧乏でした。1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚しましたが、夫婦仲が悪く1783年に離婚。子供は男子が1人いました。

 

 ボアルネ子爵はフランス革命(1787年~1799年)中の1794年7月23日にギロチンで処刑されました。処刑の前、ジョゼフィーヌは、元夫の助命嘆願をしました。それが罪に問われ、彼女もカルム監獄に投獄されました。獄中で、ルイ・ラザール・オッシュ将軍と恋仲になりました。同年8月3日には彼女は釈放されました。

 

 その後、彼女は生活のため、総裁政府のリーダーの一人、ポール・バラス(1755年~1829年)の愛人となり、社交界の花形となり、「陽気な未亡人」と呼ばれていました。

 

 当時ナポレオンは、王党派の反乱を鎮圧して、27歳の若さで、国内軍司令官に任命され、国民の英雄でした。鎮圧後、パリ市民の武器を、没収しました。そんな時、一人の少年がナポレオンのところに来て、「父の形見の銃を返して欲しい」と言いました。ナポレオンはその少年の気持ちに感動して、銃を返してやりました。

 

 後日、その少年の母親が、涙ながらに礼を言いに来ました。ナポレオンは、その母親の高貴な美貌とやさしい性格に、強く魅かれました。ナポレオンは、その未亡人に何度も交際を申し込み、遂に結婚しました。その未亡人がジョゼフィーヌだったのです。当時彼女はナポレオンには29歳と言っていましたが、実際は33歳でした。

 

 結婚後は、ナポレオンの遠征中に、ジョゼフィーヌは、元愛人のバラスとよりを戻したり、若い士官や色男たちと浮気を繰り返しました。それを知ったナポレオンは、離縁しようとしますが、泣いて詫びる彼女に負けて、思いとどまります。

 

 1804年12月ナポレオンがフランス皇帝になり、ジョゼフィーヌもフランス皇后になりました。けれども、二人の間には、子供ができませんでした。その後、ナポレオンは、愛人のエレオノール・ドニュエルや、マリア・ヴァレフスカとの間に男児が生まれました。

 

 1810年1月、ナポレオンは、子供ができないことを理由に、ジョゼフィーヌを離縁しました。以後、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送りました。彼女には多額の年金が支給され、皇后の称号を保持することは許されました。

 

 離婚後もナポレオンのよき話し相手でしたが、ナポレオンが1814年4月4日に退位、4月16日エルバ島に追放されて没落すると、ジョゼフィーヌは、気力を失ってしまいました。

 

 彼女は、1814年5月29日、肺炎で急死しました。享年50歳。彼女の最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島…」でした。一方、ナポレオンが、セントヘレナ島で死去した時の最後の言葉は、「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ…」でした。

 

 

 

 1マリア・ルイーザ107

<マリア・ルイーザ>
 

 ナポレオンの再婚相手は、マリア・ルイーザ(1791年12月12日~1847年12月17日)。結婚期間は1810年~1814年。結婚時マリアは19歳、ナポレオン41歳。フランス皇后退位後、すぐにパルマ公国の女公(在位は1814年~1847年)になりました。

 

 彼女は、神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の娘として生まれましたが、ナポレオンの侵略で、シェーンブルン宮殿を2度も追い出されました。彼女は、ナポレオンを恐ろしい憎むべき男だと教えられました。

 

 後に、彼女は、ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚した時、「次の再婚相手に自分が選ばれないように願っている」と友人に手紙を書いています。ところが、ナポレオンと結婚しなければならなくなり、彼女は泣き続けました。

 

 1810年4月1日ルーブル宮殿で結婚式が行われ、彼女はフランス皇后になりました。結婚後は、ナポレオンが優しかったため、彼女もナポレオンを愛し、1811年3月20日、ローマ王(ナポレオン2世)を出産しました。

 

 1814年4月4日ナポレオンが退位後、彼女はナポレオンに会いにエルバ島へ行こうとしたり、ナポレオンのエルバ島での待遇改善を父、オーストリア皇帝フランツ1世に嘆願したりました。

 

 けれども父は、彼女を、パルマ公国を統治する女公にするつもりでした。父は、彼女を保養地の温泉に送りました。彼女は、そこで護衛のナイベルク伯爵と恋仲になりました。以後、彼女の心はナポレオンを離れました。

 

 1814年6月18日、彼女は、パルマ公国女公に即位しました。その後、彼女はナイベルク伯爵との間の子供を五人出産、1825年9月二人は結婚しました。1829年にナイベルク伯爵が死去。1834年2月彼女は、シャルル・ルネ・ド・ボンベルと結婚。1847年12月17日彼女は死去しました。享年56歳。


 

 

 1エレオノール・ドニュエル106 (2)

<エレオノール・ドニュエル>
 

 ナポレオンの愛人、エレオノール・ドニュエル(1787年9月3日~1868年1月30日)は、フランス人で、平民出身のメイド(使用人)でした。1805年にフランス軍大尉と結婚しますが、夫が公費流用で入獄し、破局。

 

 1806年、カロリーヌ・ボナパルト(ナポレオンの妹)から兄のナポレオンを紹介され、ナポレオンの愛人になりました。カロリーヌ19歳、ナポレオン37歳。彼女は男子を出産。男子は伯爵に取り立てられました。

 

 カロリーヌは、1808年歩兵中尉と再婚しましたが、夫は戦死。その後1814年にリュクスブール伯爵と再再婚しました。1868年死去。享年81歳。

 


 

 1マリア・ヴァレフスカ107

<マリア・ヴァレフスカ>
 

 ナポレオンの愛人、マリア・ヴァレフスカ(1786年12月7日~1817年12月11日)は、ポーランドの貴族、ウォンチニスキ家の娘として生まれました。父は1794年の戦いでロシア兵に殺され、残された家族は窮乏の生活を強いられました。

 

 マリアが16歳の時、その美しさに、名門貴族、ヴァレフスキ伯爵が、マリアの家族、ウォンチニスキ家の借金を全て代わりに支払い援助するので、マリアと結婚したいと申し入れてきました。

 

 1804年6月18、マリアはヴァレフスキ伯爵と結婚しました。マリア18歳、2度妻と死別していたヴァレフスキ伯爵は64歳でした。男子を出産しました。

 

 1806年ナポレオンがワルシャワを訪れました。ナポレオンとフランス軍はポーランドの救世主として大歓迎を受けました。1807年1月舞踏会に、夫と一緒に出席していたマリアのその美しさに、ナポレオンは一瞬で虜になりました。ナポレオンは、花束や手紙を彼女に送り求愛しましたが、信仰心が強く貞淑な彼女は無視しました。

 

 しかし、ナポレオンに国の復興の期待をかけたポーランド国王や有力者たちが、ヴァレフスキ伯爵邸を訪れ、ポーランドのためにナポレオンの求愛に応えるよう説得、ヴァレフスキ伯爵も承諾しました。

 

 マリアはついにナポレオンの愛人になりました。マリア21歳、ナポレオン39歳でした。彼女は、欲がなく、穏やかで純真な性格だったので、ナポレオンは深く彼女を愛しました。1809年9月マリアはナポレオンの子を妊娠していました。

 

 けれども、1809年12月にナポレオンがジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリア・ルイーザと結婚するつもりであることを知ったマリアは、ナポレオンに「たとえ、あなたが愛さなくなっても、私はあなたを愛していることを忘れないで」と刻印した金の指輪を送り、身重でポーランドに帰ったのです。

 

 1810年5月4日、マリアはナポレオンの男子を出産、ヴァレフスキ伯爵の子供として認知されることになりました。1812年ヴァレフスキ伯爵の妻でいることに耐えられなくなりマリアは離婚しました。

 

 マリアは、ナポレオンの兄弟・姉妹たちとナポリで過ごしました。彼らはみなマリアに好感を持っていました。ジョゼフィーヌもマリアを好きになり招待したり、贈り物をしたりしました。

 

 1814年にナポレオンが退位すると、彼女はすぐにナポレオンの元へ駆けつけましたが、ナポレオンは服毒自殺をはかり、横たわっていました。1814年8月31日、ナポレオンに呼ばれ、彼女はエルバ島を訪れ面会しました。

 

 1815年、ワーテルローの戦いで敗れたナポレオンと最後の別れをするため6月28日、息子を連れて、マルメゾン城を訪れナポレオンと1時間過ごしました。彼女は涙ながらに、セント・ヘレナ島に一緒に連れて行って欲しいと頼みましたが、実現しませんでした。

 

 マリアは、ナポレオンと別れた心痛で、やせ細り、体調も悪化しました。それでも、1815年9月7日ナポレオンの従弟ドルナノ伯爵と結婚しました。ドルナノの熱烈なプロポーズを何回も断っていたのですが、自分の体調の低下と、子供たちの将来を考え、ついにプロポーズを受け入れました。

 

 結婚後男子を出産しましたが、1817年12月11日に腎機能の悪化で亡くなりました。享年31歳。ナポレオンは、セント・ヘレナ島で、マリアの肖像画を飾っていました。そしてマリアから贈られた金の指輪を死ぬまではめていました。

 


ナポレオンからのメッセージ


想像力が世界を支配するのです。

愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語ります。

幸福とは、その人間の希望と才能にかなった仕事のある状態をさすのです。

幸せは香水のようなもの。他人にふりかけようとすると、自分にも2、3滴ふりかかります。

過ぎたことで、心を煩わせてはいけません。















 


1ピカソのバスクシャツ100
【ピカソのバスクシャツ】

ピカソはよくこのバスクシャツを気軽に着こなして愛用していました。着用している写真も数多く残っています。ネイビーと白のシンプルな横縞、横に広いポートネックで、厚みのあるボーダー長袖のTシャツであるバスクシャツは、日本でも人気があり、着こなしている人を時々見かけます。その起源は、16世紀のスペインのバスク地方の船乗りたちが愛用していた実用的な服装だったのです。海軍のユニフォームとしても採用されました。それが1930年代から欧米で一般に流行し始めたのです。

 

 2ピカソ
【パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)】

1881年(明治14年)10月25日~1973年(昭和48年)4月8日。スペイン、アンダルシア州の地中海に面した港町、マラガ市生まれ。画家、素描家、彫刻家。代表作品に「ゲルニカ」「アヴィニョンの娘たち」「三人の音楽家」などがあります。1973年、南フランス、ニース近くのムージャンの自宅で、肺水腫により死去。享年91歳。

 

【パブロ・ピカソと誕生日(10月25日・さそり座)が同じ有名人】

三遊亭金馬(1894年・落語家・日本)土門拳(1909年・写真家・日本)香月泰男(1911年・洋画家・日本)ピーター・ナウア(1928年・コンピュータ科学者・デンマーク)富島健夫(1931年・作家・日本)ラッセル・シュウェイカート(1935年・宇宙飛行士・アメリカ)日野皓正(1942年・ミュージシャン・日本)宮崎学(1945年・ノンフィクション作家・日本)山本浩二(1946年・野球選手・日本)大和田伸也(1947年・俳優・日本)金沢明子(1954年・歌手・日本)大仁田厚(1957年・プロレスラー・日本)。

 

 3パリのピカソ美術館102
<パリ国立ピカソ美術館>

パリ国立ピカソ美術館はフランス、パリのマレ地区にあります。この建物は1656年から1659年にかけて建築された歴史的な建造物で、1964年パリ市が買収しました。その後改修工事が行われ1985年にパリ国立ピカソ美術館として開館しました。収蔵品は、ピカソの遺族が相続税として納品した作品が中心ですが、ピカソが最後まで残していた貴重な作品も多くあります。収蔵数は5000点に及びますが、ピカソが収集したブラック、セザンヌ、ドガ、マティスなどの作品も収蔵されています。

 

 

 4パリのピカソ美術館103
パリ国立ピカソ美術館館内

 

 5パリのピカソ美術館104

パリ国立ピカソ美術館館内

 

 6バルセルナのピカソ美術館111

<バルセロナのピカソ美術館>

ピカソは1895年から1897年まで、スペインのバルセロナに住んでいました。ピカソ美術館は、バルセロナのゴシック地区モンカダ通りにあります。13~14世紀に建築された、5軒の富豪の邸宅を改装し、ピカソ美術館として1963年に開館しました。3800点の作品が収蔵・展示されています。代表的な作品はありませんが、少年時代の作品など、今まで見たことがないような作品が年代別に展示されています。

 

 7バルセルナのピカソ美術館114
<バルセロナのピカソ美術館館内>


 

 8バルセルナのピカソ美術館113

<バルセロナのピカソ美術館館内>


 

☆☆☆エピソード(1)

 

 ピカソは、生涯に約13500点の油絵と素描、約100000点の版画、約34000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を製作しました。ギネスブックに「最も多作な美術家」として登録されています。
 

  ピカソは、地元の美術学校の絵画教師である父ドン・ホセ・ルイスと、母マリア・ピカソ・ロべスの長男として生まれました。ピカソの洗礼名は「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・………」などと、非常に長いものです。
 

  画家として活動を始めたピカソは、最初は、父親の第一姓「ルイス」と母親の第一姓「ピカソ」から、パブロ・ルイス・ピカソと名乗っていました。けれども、ある時期から、父方の姓「ルイス」を省略し、「パブロ・ピカソ」と名乗るようになりました。

 

 

 9「科学と慈愛」

「科学と慈愛」

 
1897年(明治30年)16歳のピカソが、まだ古典的手法で描いた絵「科学と慈愛」が初めてマドリードで開催された国展に入選しました。この絵は、当時スペインで論議されていた「科学と慈愛」をテーマにし、危篤の女性を、医師と女性の子を抱いた修道女が見守っているという構図です。テーマも構図も、ともに父の指導により制作しました。この絵の中の医師は父をモデルにしています。この絵は、バルセロナのピカソ美術館に所蔵されています。

 

 

☆☆☆エピソード(2)

 

 やがて、古典的手法から、独自の構想に進化いていくピカソは、人間に興味を持ち、人間を描き続けました。それは自分が体験して、感じた自分の家族や友人、知人の、人間の現実のドラマを、多様な角度、局面から見た形で、絵画空間に表現することでした。
 

  そのキュビスム(立体主義)という手法により、ピカソは、1907年「アビニヨンの娘たち」を発表、一部の友人に見せましたが評価されませんでした。けれども、ピカソは1909年から画家ジュルジュ・ブラックと共にこの手法を研究しながら創り上げていきました。
 

  1912年には、様々な性質と論理が別々の素材(例えば色んな物体、雑誌や新聞、書類、壁紙など)を組み合わせて作品を創作する手法、コラージュをブラックとともに創り上げてきたピカソは、初のコラージュ作品「籐椅子のある静物」を発表しました。

 
 

 10「籐椅子のある静物」

「籐椅子のある静物」

楕円形のキャンバスを縄で囲み、籐椅子が描かれた(プリント)布を貼り、日常にある物体と描いたものを組み合わせて独創的な作品を創り上げました。

    
 

☆☆☆エピソード(3)

 

 ピカソは、それらの総合的キュビスム(立体主義)時代(1912年~1918年)から、新古典主義時代(1918年~1925年)を経て、シュルレアリスム(超現実主義)時代(1925年~1936年)と呼ばれる作品を発表していきました。その後、ヨーロッパではファシズムが台頭し、第二次世界大戦に突入していく過程で、ピカソは、ゲルニカ時代(1937年)と呼ばれる作品を発表していきます。

   
 

 11「ゲルニカ」

「ゲルニカ」

1937年に、ピカソが発表した「ゲルニカ」(油絵)は、ドイツ軍により爆撃されたバスク地方の都市ゲルニカを描いたものですが、この「ゲルニカ」以降、戦後の1950年代初頭まで、ピカソは戦争や暴力を批判する作品を次々に創作していきました。

 

 

☆☆☆エピソード(4)

  
 ピカソは生涯に2回結婚しています。妻2人のほかに結婚しなかった愛人は7人いました。子供は3人の女性との間に4人います。ピカソを虜にした女性のうち、主要人物を列挙してみます。


1フェルナンド・オリヴィエ109
<フェルナンド・オリヴィエ>

 最初の女性は、フェルナンド・オリヴィエ(フランス人・1881年6月6日~1966年1月6日)。1904年にピカソと出会いモデルとなり、同棲しました。1907年から1909にかけてのピカソのキュビスムの主作品には彼女が影響を与えています。ピカソは彼女の肖像画を60以上描いています。

 二人の交際は7年間続きましたが、二人とも嫉妬深く、度々大喧嘩をしています。ピカソが画家として名声を得た頃、1912年、二人は別れました。彼女はエヴァ・グールとピカソの関係を知り、他の画家と駆け落ちしたのです。当時、彼女は、まだ他の男性と結婚したままだったので、ピカソから財産を得る法的権利はありませんでした。

 その後、彼女は生きていくために、肉屋の店員、骨董品のセールスなど様々な仕事をしました。ピカソと別れて20年後、彼女はピカソと共に過ごした回顧録を書き、1930年ベルギーの新聞に「ピカソと彼の友人」と題してシリーズで連載されました。

 その頃最も著名な画家として世に知られていたピカソは、その連載を中止させましたが、すでに6回まで掲載済みでした。ピカソは彼女に少額ではあるが年金を払うので、二人の関係を世に発表しないことを約束させました。

 彼女は1966年に亡くなりました。享年85歳。ピカソは1973年に亡くなりました。彼女は、ピカソが画家として有名になる前に、彼と交際した唯一の女性で、その回顧録は貴重なものでした。ピカソの死後、1988年に彼女の回顧録が出版されました。




1エヴァ・ゴエル106 (2)
<エヴァ・グエル>

 次にピカソが交際した女性は、エヴァ・グエル(フランス人・本名マルセル・ウンべル・1885年~1915年12月14日)でした。「青の時代」「ばら色の時代」を経て名声と富を得たピカソは、1912年に彼女と出会います。ピカソは彼女を熱烈に愛し、自分の絵画作品の中に「私は、エヴァを愛す」「私の素敵な人」などの言葉を書き込んだほどでした。

 1913年5月にピカソの父親が亡くなりましたが、その時、エヴァ・グエルは付き添っていて、父親の死を見送りました。1914年彼女は病気になり、1915年に彼女はガンと結核で病死しました。享年30歳。「女性の肘掛け椅子」(1913年)、「若い女の肖像」(1914年)は、エヴァ・グエルを描いたキュビスム作品です。




1オルガ・コクローヴァ101
<オルガ・コクローヴァ>

 最初の妻は、ロシアバレー団員のオルガ・コクローヴァ(ロシア人・1891年6月17日~1955年2月11日)です。結婚期間は1918年7月~1955年2月11日(息子1人)。結婚時オルガ27歳、ピカソ38歳。1921年2月4日息子パウロが誕生しました。

 けれども、後に、彼女はピカソの絵に口出しするようになり、ピカソと不和になりました。1932年ピカソは彼女と
別居して、マリ・テレーズ・ヴァルテルと同棲を始めます。けれども、オルガ・コクローヴァとの結婚生活は1955年に彼女が死去するまで続きました。享年66歳。






1マリー・テレーズ・ヴァルテル107 (2)
<マリー・テレーズ・ヴァルテル>

 1927年1月、以前から知り合いであった、マリー・テレーズ・ヴァルテル(フランス人・1909年7月13日~1977年10月20日)にパリの路上で偶然出会い、その美しさに一目ぼれして、「私の絵のモデルにならないか」と誘いました。当時マリー17歳、ピカソ36歳。結局、彼女は承諾し、ピカソの愛人となり、1932年同棲を始めました。ピカソは、オルガ・コクローヴァと離婚しようとしましたが、資産の半分を取られるので、離婚を諦めました。

 1932年にピカソが制作した油彩作品「夢」は22歳のマリーを描いています。1932年1月24日の午後のひと時を描いたものです。そのほか「黄色い髪の女」(1931年)などマリーをモデルとした作品は数多く描かれています。1927年だけでも5点製作しています。

 1935年9月5日
にマリーとの間に娘マヤ・ウィドメーアー・ピカソが誕生しました。この頃、ピカソは、ピカソのカメラマンとモデルをしていた、ドラ・マールに魅かれ始め、マリーとは疎遠になりました。マリー・テレーズ・ヴァルテルは、ピカソの死から4年後の1977年に南フランスのジュアンレバンで自殺しました。享年68歳。

 



1ドラ・マール105
<ドラ・マール>

 1935年ドラ・マール(フランス人・1907年11月22日~1997年7月16日)は、知人の紹介でピカソに会いました。ドラ・マール28歳、ピカソ47歳でした。ドラは、パリの美術学校を卒業後、当時、写真家として、国際的な展覧会に出展、個展も開催、写真集(雑誌・1932年)も出版しています。知性的な彼女の写真の対象は、貧困の人々、政治的左派、活動家など社会の真相を追求するものでした。また、ドラはシュルレアリスム(超現実主義)のグループに入り、デモや会合に参加していました。

 ピカソと出会ったドラは、ピカソの芸術性を理解すると、ピカソのスタジオに入り、「ゲルニカ」の制作過程を追跡して写真に記録しました。1936年ドラと、ピカソは愛人関係になりました。

 1937年、ピカソが「ゲルニカ」を描いていた時、そのアトリエで、
マリ・テレーズ・ヴァルテルとドラ・マールが偶然に顔を合わせました。彼女たちは、その場でののしり合い、取っ組み合いの喧嘩を始めました。それを見ていたピカソは「君たちは、どうして、私のために、そんな大喧嘩をするのかね?」と冷ややかに言いました。後にピカソはこの事件を「私の大好きな記憶の一つです」と表明しています。

 ピカソはマリー・テレーズ・ヴァルテルを金髪の明るい女と表現して描いていますが、「泣く女」(1937年)のように、ドラ・マールを暗くて痛ましいものとして描いています。けれども、「泣く女」は、「ゲルニカ」の完成後、爆撃直後に泣き叫ぶ女性像を描いたもので、いつも泣いていたといわれるドラ・マールを主体に、妻や愛人を融合させて象徴的に表現したと言われています。

 1937年の作品「ドラ・マールの肖像」では、メランコリーなポーズと訴える顔の表情が、新しい女性像の登場として描かれています。

 ドラ・マールは、マリー・テレーズ・ヴァルテルとの戦いに疲れ果て、ピカソともうまくいかずに、1943年頃から神経衰弱になりました。1944年ピカソはドラに家を買ってやり、ドラはその家で一人で過ごすようになりました。その後、ドラは絵を描くようになり、ピカソとの苦悩を忘れ、抽象画家になりました。ドラは、1997年パリで亡くなりました。享年89歳。





1フランソワーズ・ジロー107
<フランソワーズ・ジロー>

 1943年春、ピカソは、フランソワーズ・ジロー(フランス人・1921年11月26日~)とセーヌ河畔のレストランで出会いました。フランソワーズは21歳、ピカソ62歳でした。フランソワーズの父は化学会社の社長で、当時、彼女はソルボンヌ学院の法科学生でした。けれども彼女は、画家志望で、個展を開いたりしていました。レストランで彼女が女友達と絵の話をしていると、隣のテーブルのピカソが声をかけ、彼女たちを自分のアトリエに招待したのです。

 その後、フランソワーズは、ソルボンヌを卒業し、絵を描き続けます。ピカソは彼女を自分の絵のモデルにしたり、友人の画家や詩人に紹介したりしました。彼女は画家になる決心すると同時に、ピカソにも親愛の情を持つようになりました。けれども、彼女はピカソとは、一定の距離を保って付き合いを進めていました。

 1946年5月のある日、ピカソは、フランソワーズに「私が君にとって少しでも意味ある男なら、一緒に暮らしてもらえないだろうか」と告白、彼女は承諾しました。すぐに、ピカソはフランソワーズ・ジローと南フランスのアンティーブなど地中海沿岸に移住しました。1947年息子クロード、1949年娘パロマが生まれ、親子4人で暮らしました。ピカソは、この地で、陶器や石版画も制作しています。


12ピカソと4人109
<クロード、ピカソ、フランソワーズ、パロマ
 

  1951年10月31日、ピカソの70歳の誕生日を祝う誕生パーティが開かれ、フランソワーズ・ジローは、ピカソとグラスを合わせ、祝福しました。当時、ピカソは、4人で南フランスの小さな町、リビエラに住んでいました。
 

  けれども、1953年9月フランソワーズ・ジローは、子供たちを連れて、パリに戻り、ピカソから去って行きました。彼女は、ピカソが最も愛した女性なので、ピカソはこの離別を怒り悲しみましたが、彼女の心を変えることはできなかったのです。
 

  フランソワーズ・ジローはピカソと離別後、他の画家と結婚、さらに医師と再婚しましたが、画家、作家、美術大学理事、舞台演出と幅広い社会活動を続け、1990年には、フランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章を授与されています。2017年現在96歳で健在です。

 



1ジャクリーヌ・ロック110
<ジャクリーヌ・ロック>

 1953年ピカソは、南フランス、ヴァロリスの陶器工房では働いていた、ジャクリーヌ・ロック(1927年2月24日~1986年10月15日)と初めて出会います。ジャクリーヌ26歳、ピカソ72歳でした。ジャクリーヌをモデルにしたピカソの肖像画は1954年5月から描かれはじめました。以後、彼女の古典的な美しさが刺激を与え続け、ピカソの作風は変化していきました。

 1954年以降ピカソが描いた女性は唯一彼女だけです。ピカソに関わった女性の中でも、最も多く肖像画が制作されました。1961年3月2人はヴァロリスで結婚しました。以後、1973年にピカソが91歳で亡くなるまで、11年間、南フランスで結婚生活は続きました。

 ピカソが亡くなった時、妻のジャクリーヌにはピカソの遺産の3割が贈られました。けれども、彼女は、ピカソの死を嘆き、暗い部屋に座り込んで泣き続けたり、ピカソの写真をあたかも生きているように扱ったりしました。その後、他の遺族たちとのトラブルがあり、毎日飲酒も増えていきました。1986年、ジャクリーヌはフランスのムージャンでピストル自殺をしました。享年59歳。

 

☆☆☆ピカソからのメッセージ

 

できると思えば、できます。できないと思えば、できません。これは確固たる、絶対的な法則です。

 

行動することが、全ての成功の元となる秘訣です。

 

子供はみんな芸術家です。問題は、彼が大人になっても、そのまま芸術家でいられるかです。

 

愛は、人生で最高に良い、元気回復剤です。

 

芸術は、真実を、我々に悟らせてくれる嘘です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1サガンの愛車「ジャガーXK120]103 (2)
サガンの愛車・ジャガーXK120

写真は、愛車、ジャガー・XK120の側に寄り添うサガン。ジャガー・XK120は、イギリスの自動車メーカー・ジャガーは、1948年から1954年まで生産した2座席のスポーツカーです。車名の「XK」は、直列6気筒DOHCエンジンの型式名「XK」からとっています。また、「120」は最高速度が120mph(時速120マイル=時速193キロ)以上出ることを意味しています。サガンのデビュー作、「悲しみよこんにちわ」が世界中でベストセラーになり、360億円の富と名声を手にした18歳のサガンが求めたのは、当時世界一速い車と言われた、「ジャガーXK120」でした。愛車はこの車だけでなく、フェラーリ、ルノー・ゴルディーニ24S、アスティンマーティンなどにも乗っています。

 

 

 2愛車「ジャガーXK120]に乗ったサガン104
愛車「ジャガーXK120」に乗ったサガン

愛車、ジャガー・XK120に乗った若かりし頃のサガン。フランスの女優・シルヴィー・テステュー(1971年1月17日~)がサガンを演じている映画、「サガン 悲しみよこんにちは」(2008年)にも、サガンがパリのカルチェラタンで開かれた批評家賞受賞パーティに愛車ジャガーで乗りつける場面がでてきます。


 

 3サガン107

【フランソワーズ・サガン(Françoise Sagan)】

1935年(昭和10年)6月21日~2004年(平成16年)9月24日。フランス南西部のロット県カルジャック生まれ。本名はフランソワーズ・コワレ(Françoise Quoirez)。小説家、脚本家、映画台本作家。作品は、「悲しみよこんにちは」(1954年)、「ブラームスはお好き」(1959年)、「ある微笑」(1956年)、「一年ののち」(1957年)、「優しい関係」(1968年)など。2004年、ノルマンディー地域カルヴァドス県のオンフールの病院で心臓疾患により病死。享年69歳。

 

【フランソワーズ・サガンと誕生日(6月21日・ふたご座)が同じ有名人】
 

シメオン・ドニ・ポアソン(1781年・数学者・フランス)ジャン・ポール・サルトル(1905年・作家・フランス)ヴォルフガング・ハーケン(1928年・数学者・ドイツ)ラロ・シフリン(1932年・作曲家・アルゼンチン)ロン・エリー(1938年・映画俳優・アメリカ)都蔵俊一(1948年・作曲家・日本)住田裕子(1951年・弁護士・日本)ゲンナジー・パダルカ(1958年・宇宙飛行士・ロシア)楊利偉(ヨウ・リイ・1965年・宇宙飛行士・空軍少将・中国)松本伊予(1965年・歌手・タレント・日本)笛木優子(1979年・女優・日本)ウィリアム王子(1982年・チャールズ皇太子の長男・イギリス)。

 

 4邸宅ブレイユ101 (3)
<サガンが晩年を過ごした大邸宅「ブレイユ」>

フランソワーズ・サガンは晩年、フランスのノルマンディー地域カルヴァドス県のオンフールから3キロにある別荘、ブナの並木通りの奥にそびえる広大な建築物の大邸宅「ル・マノワール・デュ・ブレイユLe Manoir du Breuil」(土地8ヘクタール)で過ごしました。この大邸宅の名前は、大邸宅のある「ブレイユの森」から名付けられました。オンフールは、イギリス海峡にそそぐセーヌ川河口にある美しい港町で、観光の名所です。1958年8月8日、サガンはドーヴィルのカジノで、ルーレットに「8」にばかり賭けて大勝し80000フラン(当時)を稼ぎました。彼女の運の強さと、「58年8月8日、8に賭けて、8万フラン」と、8という数字が並んで話題になりました。以前からこの大邸宅を欲しがっていたサガンは、翌日、この大邸宅を購入しました。当時、彼女はまだ23歳の若さでした。その後、波乱万丈な人生を送った彼女は、晩年も、この「ブレイユ」で過ごします。

 

☆☆☆エピソード(1)
 

 フランソワーズ・サガンの父は大手電機会社の重役、母は地主の娘で、ブルジョワの上流家庭で育ちました。サガンは3人兄妹の末っ子ですが、少女時代から利発で早熟、才気はしる非常に頭の良い子でした。

 
 1944年修道院の厳格な女学校に入学させられます。女学校では、悪ふざけや校則に反するお転婆が絶えず、退学・転校を繰り返しますが、大学検定試験に受かり、1952年、17歳で名門のソルボンヌ大学に入学します。


 けれども、そのソルボンヌ大学も退学します。当時、サガンは、文学に没頭していたのです。
そして、一気に7か月で書き上げたのが「悲しみよこんにちは」です。18歳でした。このデビュー作になる最初の小説は、1954年に出版されると、ベストセラーになり、翌年世界中で大ヒットして、彼女はこの小説だけで累計320億円もの莫大な富を手にします。


 さらに第2作目の「ある微笑」(1956年)もベストセラーになり、フランス文壇において、サガンは21歳という若さで世界中から注目され、流行作家としてのゆるぎない地位を確立し、名声をも手に入れました。

 

 5ジュリエット・グレコとサガン101
ジュリエット・グレコ(左)とサガン
 

 1957年には、「悲しみよこんにちは」が映画化され、主人公の少女セシール(ジーン・セバーグ)の髪型「セシルカット」が大流行しました。この映画の主題歌「悲しみよこんにちは」は、歌手で女優のジュリエット・グレコ(当時30歳)が歌っていますが、彼女はこの映画にも出演し、ダンスのシーンで、ステージで歌っています。



 

 ☆☆☆エピソード(2)
 

 ブルジョワ出身で、育ちがよい、サガンは、可愛げのある性格で、頭の回転が速く、知的で、気取ったところのない魅力的な女性に成長しました。
 

 けれども、この年、1957年に、22歳のサガンは、自ら運転していたアストンマーティンで、パリの郊外で運転を誤り道路わきに転落するという事故を起こし、頭蓋骨、胸部、骨盤、手首、鎖骨を骨折して瀕死の重傷を負いました。事故当時のスピードは時速170キロ以上出していました。後にその大けがの痛みを和らげるために使用したモルヒネから、次第にアルコールや薬物依存になっていきます。


01ビリー・ホリデイ
ビリー・ホリデイ

 また、アフリカ系アメリカ人の、女性ジャズシンガー、ビリー・ホリデイが好きだったサガンは、初めてアメリカを訪問した時、ビリー・ホリデイのライブに15日間通い続け、親しくなりました。




01ガイ・シェーラー101
ガイ・シェーラーとサガン

 1958年、サガンは、最初の結婚をします。相手は、ガイ・シェーラー(1915年7月11日~2001年10月24日)。彼は、パリ出身のブルジョワで、女性雑誌の編集者。結婚期間は1958年~1960年。結婚時サガンは23歳、彼は、サガンより20歳年上の43歳。ブルジョワらしく、彼は、文学を好み、東アフリカでの狩猟や乗馬が趣味でした。

 

 結婚後、幸せな日々が続きましたが、サガンは早朝に寝て、午後に目覚める習慣でした。けれども、夫のガイは、彼の事務所に行くため、早朝に起きなければなりません。すれ違いの生活が、お互いの心を離れさせていき、サガンは彼と離婚を決意したのです。

 

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ロバート・ウェストホフとサガン

 2番目の夫は、アメリカ人彫刻家・陶芸家のロバート・ウェストホフ。結婚期間は1962年~1963年。1962年6月27日、サガンは待望の一人息子ドニ―・ウェストホフを出産します。後に、ゲイでもあるロバート・ウェストホフがボーフレンドを作ったので、結婚は破局しました。けれども、サガンは、離婚後も彼と一緒に暮らしました。彼は、1989年に死去。



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ドニ―・ウェストホフ

 サガンの一人息子、ドニ―・ウェストホフはアメリカの写真家であり作家でもあります。自分から見た母親のサガンに関する本を出版しています。2010年にはフランソワーズ・サガン賞を設立しました。翌年2011年にはフランソワーズ・サガン協会も設立しています。現在も健在。

 

 1989年、サガンの兄、サガンの元夫ロバート・ウェストホフ、サガンの母が病死するという、サガンにとって、最悪の不幸が重なりました。サガン自身も再び麻薬を常用するようになり、骨粗しょう症を発症し、腰の骨の手術もしました。

 

 
 ペギー・ロッシュ101

 ペギー・ロッシュ
  
さらに1991年には長年同居していた最愛の親友で恋人、モデルのペギー・ロッシュ(元ファッション誌の編集長)が、ガンで死亡し、サガンは精神的に落ち込んでいきました。それでもサガンは「愛という名の孤独」(1992年)、「愛を探して」(1994年)などの作品を発表します。

 

 1998年に、サガンは、またアルコール依存症になり、入院します。サガンの精神は気丈でしたが、身体は、麻薬やアルコールで痛めつけられており、2003年には糖尿病も発症し、2004年(平成16年)9月24日、オンフールの病院で、心臓疾患により、サガンは亡くなりました。69歳でした。

 
 
フランソワーズ・サガンからのメッセージ


人を笑わせるのが好きです。それに、まず自分が笑うのが好きです。


“やさしさ”のない人というのは、“相手ができないこと”を求める人です。

 
結局、“想像”が唯一の基本的な美徳ではないかと思います。“想像力”があれば、人の身になれる、ということは相手が理解できる、したがって相手を尊重できるわけです。

 

私が友人に求める美点は、ユーモアと下心のない態度です。これは友情の最も大切な美点です。

 

私は人生を忘れるためにお酒を飲んだことは、一度もありません。逆に、人生を加速させるためなのです。
 



 

 

1タイプライターKey West (2)
ヘミングウェイのタイプライター】

キーウエスト島のヘミングウェイの邸宅(現在はヘミングウェイ博物館)の書斎です。「キリマンジェロの雪」「誰がために鐘は鳴る」など10作品がキーウェスト島の邸宅で書かれましたが、その時期に愛用したタイプライターが丸テーブルの上にあります。1904年創業のロイヤル社(アメリカ)製のポータブルタイプです。彼は猫好きで、キーウエスト島でも、猫も飼っていました。


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【ヘミングウェイのウイスキーボトル】

ヘミングウェイのウイスキーボトル(キーウエストのヘミングウェイ博物館所蔵)には、タンタラスボトルロックのボトルセーフを取り付けていました。彼は、よくウイスキーを飲みながら小説を書いていましたが、このボトルには、来客など他人が勝手に飲まないようにボトルロック(鎖と右下のカギ)を取り付け、さらに自分が飲んだところまで線を引いていました。



 3ヘミングウェイ

【アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)

1899年(明治32年)7月21日~1961年(昭和36年)7月2日。アメリカ、イリノイ州シカゴ、オークパーク生まれ。小説家。作品は「日はまた昇る」「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」「キリマンジェロの雪」など。1954年「老人と海」でノーベル文学賞。1961年アイダホ州ケチャムの自宅でショットガンで自殺。享年61歳。

 【ヘミングウェイと誕生日(7月21日・かに座)が同じ有名人
ノーマン・ジュイソン(1926年・映画監督・カナダ)川谷拓三(1941年・俳優・日本)手嶋隆一(1949年・外交ジャーナリスト・日本)ロビン・ウィリアムズ(1951年・俳優・アメリカ)船越英一郎(1960年・俳優・日本)羽賀研二(1961年・タレント・日本)はるな愛(1972年・タレント・日本)岩崎恭子(1978年・水泳選手・日本)小林麻央(1982年・アナウンサー・日本)。


 

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<オークパークのヘミングウェイ博物館>

イリノイ州シカゴのオークパークには、ヘミングウェイの生家があります。彼は、1917年、高校を卒業して見習いの新聞記者になるまで、ここで過ごしました。生家の近くにヘミングウェイ博物館があります。幼少期の日記、写真、手紙などが展示してあり、彼の人生の背景と内面を詳細に知ることができます。




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<キーウェストのヘミングウェイ博物館>

フロリダ州のキーウェスト島には、ヘミングウェイが過ごした邸宅があり、現在はこの邸宅が博物館として公開されています。キーウェストは、アメリカ合衆国本土で最南端の都市で、フロリダ半島の南西208キロ、キューバのハバナの北171キロに位置します。ヘミングウェイがこの島にたどり着いたのは、1928年の春でした。パリで書いた小説「日はまた昇る」(1926年)がベストセラーになり、有名作家の仲間入りをしたヘミングウェイ。また、最初の妻と離婚、2番目の妻と再婚したばかりでした。1931年にスペイン風コロニアル様式の邸宅を購入し、妻と息子2人とともに1939年まで過ごしました。この家が現在の博物館となっており、ヨーロッパで購入したアンティークや家具調度品、剥製(アフリカでの狩猟)、タイプライター、ウイスキーボトルなどが展示されています。当時飼っていた猫の子孫が現在でも多く住んでいます。




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<キューバのヘミングウェイ博物館>

ハバナ市から16キロの郊外にあります。ヘミングウェイが1940年から1960年まで20年間住んでいた石灰石の邸宅が現在、博物館となっています。彼は1959年のキューバ革命の翌年、アメリカに帰国したのです。この博物館は彼が人生の三分の一を過ごした場所として研究上重要な拠点になっています。8000冊に及ぶ蔵書、狩猟した剥製の数々、従軍時代の制服、愛用のタイプライター、望遠鏡、調度品、家具などが展示してあります。

 

☆☆☆エピソード(1)
 

ヘミングウェイの父は医師、母は元声楽家。姉1人、弟1人、妹3人の長男です。彼は、幼少から母親、グレイス・ホール(元声楽家)の十分な愛情を受けずに育ちました。母親は女の子が欲しかったのです。男の子が生まれたので、4歳までヘミングウェイに女の子の服を着せていました。

 ヘミングウェイが小説を発表し始めても、彼の母親は、彼の業績を認めようとはしませんでした。後に彼は母親と絶好し、母親の葬式にも参列しませんでした。


 ヘミングウェイは父親とは仲が良く、父親からいろんなことを教わりました。子供の頃は父親のように医者になろうと思った時期もありましたが、高校生の頃から学校新聞等に短編小説を寄稿し始めます。
 

1917年に高校を卒業して新聞記者になりますが、翌年の1918年(第一次世界大戦末期)、イタリア軍付赤十字要員に合格し、従軍。負傷してミラノの陸軍病院に3か月入院しました。この時、病院の看護師と恋愛。この体験から小説「武器よさらば」(1929年)が生まれました。
 

1926年に出版された初の長編小説「日はまた昇る」がベストセラーになりました。この作品からは、「人間は自分の情熱を注げるもの、感動するもの、高揚するものを求め続けるのだ」という人生観が感じられます。それは、4回結婚して3回離婚している、ヘミングウェイ自身の生き方にも見られます。


ヘミングウェイとカストロ
ヘミングウェイとカストロ首相

 1960年5月15日、ヘミングウェイとキューバのカストロ首相は、ハバナで会って、打ち解けて話し合いました。意気投合した二人は、そのあと、一緒に釣りをしました。ヘミングウェイが自殺する1年前のことです。




☆☆☆エピソード(2)



01ハドリー・リチャードソン (2)
<ハドリー・リチャードソンとジャック、ヘミングウェイ>

 ヘミングウェイの最初の妻は、エリザベス・ハドリー・リチャードソン(1891年~1979年)。結婚期間は1921年9月~1927年4月(1人の息子)。結婚時ヘミングウェイ22歳、ハドリー30歳。1920年に28歳の時、友人の紹介で、ヘミングウェイと出会います。

 

 初対面で、ヘミングウェイは彼女に、「酔っぱらいすぎて、判断力が鈍っているかもしれないが、君は何か持っているみたいだね」と声をかけました。彼女の父は製薬会社の経営者だったが、1904年経営に失敗し自殺、姉は1911年焼死、母も病死したばかりだったのです。

 

 結婚後、彼女は1923年に息子ジャックを出産。その後、1925年ヘミングウェイの前に、ポーリーン・ファイファーが現れ、1927年に結婚生活は破たんしました。

 

 ヘミングウェイは、刊行した小説「日はまた昇る」の本の中に、「この本をハドリー・リチャードソンとその息子に捧げる」という献辞を記しており、その印税は全てハドリー・リチャードソンに贈りました。孫娘のマーゴ・ヘミングウェイ(1954年2月16日~1996年7月2日)とマリエル・ヘミングウェイ(1961年11月22日~)はともに女優。



 
 01ポーリーン・ファイファー

 <ポーリーン・ファイファーとヘミングウェイ

 2番目の妻は、アメリカのジャーナリストのポーリーン・ファイファー(1895年7月22日~1951年10月1日)。結婚期間は1927年5月~1940年11月(2人の息子)。結婚時ヘミングウェイ26歳、ポーリーン32歳。アメリカのファッション雑誌「ヴォーグ」の一流の編集記者だったポーリーンは、パリに派遣されます。そこでヘミングウェイと1925年に出会います。

 

 結婚後、2人の息子が授かりますが、敬虔なカトリック信者であるポーリーンとヘミングウェイの間で亀裂が生じます。スペイン内戦(1936年7月~1939年3月)では、ポーリーンは、右派の反乱軍・ナショナリスト派(フランコ将軍)を、ヘミングウェイは左派の共和国派(アサーニャ大統領)をそれぞれ支持して、ますます溝は深まりました。

 

 そんな時、1937年スペイン旅行で、ヘミングウェイは、記者マーサ・ゲルホーンと恋に落ちました。ポーリーンと1940年11月に離婚が成立、その3週間後にヘミングウェイはマーサ・ゲルホーンと結婚しました。
 

 ポーリーンはその後、フロリダのキーウエストで人生を送りました。1951年10月1日に急死しました。享年56歳。その原因は、息子グレゴリーの逮捕を聞いて、またそのあとヘミングウェイから電話があったことで、ショック死したのです。

 

 グレゴリーは、性同一性障害で、映画館で女性用のトイレに入って逮捕されたのです。その後、医者になったグレゴリーは、母親の死因が、ヘミングウェイの電話が、母の腫瘍に過剰なアドレナリンを分泌させ、血圧の急激な変化で死亡したと分析しました。





 01マーサ・ゲルホーン (2)

< マーサ・ゲルホーンとヘミングウェイ

3番目の妻は、「コリヤーズ」の女性記者、マーサ・ゲルホーン(1908年11月8日~1998年2月15日)。結婚期間は1940年11月~1945年12月。結婚時ヘミングウェイ41歳、マーサ32歳。彼女は、女性戦争ジャーナリストの先駆けです。

 

1936年戦時特派員の彼女は、フロリダのキーウエストのバーで、ヘミングウェイと出会い、その後、内戦の続くスペインで再会、同じホテルに宿泊していたことから肉体関係を結びました。彼女に魅かれ安らぎを覚えたヘミングウェイは、やがて、2番目の妻、ポーリーンと離婚して、1940年マーサ・ゲルホーンと結婚しました。

 

第二次世界大戦中に、マーサ・ゲルホーンは当時一流の戦争ジャーナリストだったので、その義務を果たすべく戦地に赴くことが多くなります。このことで、ヘミングウェイは、彼女と考え方の違いが顕著になり、衝突し、離れていきました。

 

マーサは、その後も戦争ジャーナリストとして、世界中の戦地を飛び回り、80歳過ぎまで活躍しました。晩年ガンになり、薬物自殺をしました。享年89歳。「私が愛したヘミングウェイ」(2012年・アメリカのテレビ映画)は、ヘミングウェイとマーサ・ゲルホーンとの恋愛を、スぺイン内戦や第二次世界大戦を背景に描いた作品。



 

 01メアリ・ウェルシュ (2)

 メアリ・ウェルシュとヘミングウェイ

 四番目の妻が、「タイム」の記者でもあった、メアリ・ウェルシュ(1908年4月5日~1986年11月26日)。結婚期間は1946年3月~1961年7月。結婚時ヘミングウェイは47歳、メアリは38歳。アメリカミネソタ州出身のメアリはヘミングウェイと結婚するまで2回結婚しています。

 1940年イギリスの新聞記者として活躍していたメアリはチャーチルの記者会見を皮切りに第二次世界大戦取材に没頭します。そして1944年メアリは、ヘミングウェイと出会い、親密になりました。1946年キューバで結婚しました。キューバでは1959年まで彼と生活しました。

 その後、アイダホ州ケッチャムに移りました。晩年はヘミングウェイの躁鬱で、メアリは苦労しますが、最後にヘミングウェイが自殺で死去するまで結婚生活を共にしました。彼女は、以前、子宮外妊娠で命が危ない時、ヘミングウェイにより命を助けられました。彼は戦場で赤十字要員として従軍した経験から輸血処置をして彼女を救ったのです。

 ヘミングウェイは1961年に自殺しましたが、自宅で、ドンという物音を聞き、メアリが駆けつけてみると、猟銃で自殺したヘミングウェイの顔が吹き飛んでいたそうです。彼の死後、メアリーはヘミングウェイ文学の出版に関わりました。また、自伝「How It Was」(1976年)を出版しています。晩年はニューヨークのマンションに住み、1986年にセントルーク病院で亡くなりました。享年78歳。

 

 ☆☆☆エピソード(3)




 9映画「リップスティック」のマーゴ・ヘミングウェイ (2)
 <マーゴ・ヘミングウェイ(映画「リップスティック」)>

 
ヘミングウェイの最初の妻、エリザベス・ハドリー・リチャードソンの娘で女優のマーゴ・ヘミングウェイ(1954年2月16日~1996年7月1日自殺)は映画「リップスティック」(1976年)で主演しました。妹で女優のマリエル・ヘミングウェイ(1961年11月22日~)も、この映画で姉と共演し、映画デビューしました。




8マリエル・ヘミングウェイ101
<マリエル・ヘミングウェイ>

 2013年に
アメリカで、マリエル・ヘミングウェイが主演した「ランニング・フロム・クレイジー(狂気からの逃走)」が上映されました。

 この映画は、マリエルの祖父、
アーネスト・ヘミングウェイ本人や、姉、マーゴ・ヘミングウェイなど、親族7人が自殺している名門一族の悲劇から、マリエル・ヘミングウェイが、どのようにして、それを克服して生きてきたかを描くドキュメンタリー映画です。この映画は、自殺者の出た家族に希望を与える作品となっています。



ヘミングウェイからのメッセージ 


心の底から、やりたいと思わないなら、やめておきなさい。

 
年を重ねると、ヒーローを見つけるのが、より難しくなるんです。でも、本当は、年を重ねた時こそ必要みたいです。

今は無いものについて考える時ではありません、今、あるもので、何が出来るかを考える時です。

とにかく、新しい毎日なんです。毎日が新しい日なんです。

これをやりに、俺は生まれてきた」と思えることだけを、考えればいいのです。

 
他人を、より面白い人間にするために、私は酒を飲むのです。