世界の偉人・天才・有名人の愛用品

今回のブログでは、世界(海外・日本)の偉人、天才、有名人などの愛用品、ゆかりの品や場所を、人物のエピソードとともに紹介していきます。

1バイオリンを弾くアインシュタイン

<アインシュタインのヴァイオリン>


 

♥♥♥アルベルト・アインシュタインからのメッセージ


人生でいちばん大切なものは、お金では手に入りません。

 

想像力は知識よりも大切です。知識には限界があります。想像力は世界を包み込みます。

 

どうして自分を責めるのですか。本当に必要な時は、誰かが責めてくれるから、いいじゃないですか。

 

先のことなど、考えたことがありません。それはすぐに、来てしまうのですから。

 

相手の喜びと悲しみを感じとって、初めて、相手への理解が深まります。

 

私に特別な才能はありません。熱狂的な好奇心があるだけです。

 

 

 

 

1バイオリンを弾くアインシュタイン

<アインシュタインのヴァイオリン>


 

☆☆☆エピソード(2)


 14マリー・ウィンテラー

<マリー・ウィンテラー>

 1895年10月、アインシュタインは、スイスのチューリッヒ連邦工科大学の入学試験に不合格になりました。けれども、数学と物理の点数は最高点だったので、スイスのアーラウ州立ギムナジウムに通うことを条件に、翌年度の入学資格を得られることになりました。

 

 この学校の教師、ヨスト・ウィンテラーの家に下宿することになったアインシュタインは、教師の娘、マリーと知り合いました。アインシュタイン16歳、マリー17歳でした。

 

  優しくて感受性の強く、知的なマリーに、アインシュタインは魅かれ、やがて二人は、ピアノやヴァイオリンの演奏を楽しんだりしました。

 

 さらに二人は、ヨットに乗ったり、バードウォッチングをして過ごして、恋に落ちていきました。

 

 1896年9月、チューリッヒ連邦工科大学に入学したアインシュタインは、マリーと頻繁に手紙のやり取りをしています。けれども、マリーとアインシュタインの性格の違いが表面化していき、手紙も少なくなりました。

 

 1897年5月、アインシュタインは、ついに、マリーの母親に手紙を出し、「マリーとの関係を終わらせたい」と伝えました。

 

 その後、マリーは、全てに神経質になり、うつ状態になりましたが、数年後に、時計工場の工場長と結婚しました。

 

13妹マヤとアインシュタイン1893年
<アインシュタインと妹のマヤ>

 なお、後に、アインシュタインの妹、マヤが、マリーの兄と結婚したので、アインシュタインと、マリーの付き合いは、その後も続いたと言われています。

 

 

 

 15ミレーバ

<ミレーバ・マリッチ>

 

 1896年9月、チューリッヒ連邦工科大学に入学したアインシュタインは、同級生のミレーバ・マリッチ(1875年12月19日~1948年8月4日)と出会います。アインシュタイン17歳、ミレーバ21歳でした。

 

 ミレーバは、オーストリア・ハンガリー帝国の裕福な家庭に生まれました。中学、高校の成績は優秀で、特に数学と物理の成績は最高点でした。

 

 ミレーバは、チューリッヒ連邦工科大学に合格し、アインシュタインの所属する数学・物理学科で学ぶことになりました。

 

 その後、アインシュタインとミレーバは交際するようになりました。アインシュタインの母は、この交際に反対でしたが、アインシュタインはミレーバと離れませんでした。

 

 1900年9月、アインシュタインはチューリッヒ連邦工科大学を卒業しましたが、ミレーバは、卒業試験に失敗しました。

 

 1902年6月特許局の技官になったアインシュタインとミレーバの間に娘が生まれましたが、翌年死亡しました。

 

 16最初の妻ミレーバとアインシュタイン離婚

<アインシュタインと妻ミレーバ>

 

 1903年1月6日アインシュタインとミレーバは、ベルンで結婚しました。その後、二人の間には二人の息子が生まれました。

 

 1912年、アインシュタインはチューリッヒ連邦工科大学の理論物理学教授になりましたが、この頃から、同じく物理学者となっていたミレーバと生活上の意見の違いから、ぎくしゃくしてきました。

 

 1914年にアインシュタインがベルリン大学客員教授に就任、プロシア科学アカデミー正会員になり、ドイツに移住しました。けれども、ミレーバは子供たちを連れてスイスのチューリッヒに行き、別居しました。

 

 1919年、アインシュタインはミレーバと離婚しました。1922年アインシュタインはノーベル物理学賞を受賞しました。この時の賞金は、ミレーバに全額渡しました。

 

 離婚の条件として、ノーベル賞を予測していた二人の話し合いで、ミレーバに与えることを約束したのです。一説には、ミレーバがアインシュタインの相対性理論を構築する手助けをしたと主張する学者もいます。

 

 アインシュタインは、次男の病気のこともあり、その後も定期的にミレーバに現金を送金しています。ミレーバは、1948年8月4日、チューリッヒで死去。享年72歳。

 

 

 17エルザとアインシュタイン

<アインシュタインとエルザ>

 

 エルザ・アインシュタイン(1876年1月18日~1936年12月20日)は、ドイツのヘヒンゲンで生まれました。エルザの母とアルベルト・アインシュタインの母は姉妹で、エルザとアインシュタインは従姉弟同士でした。

 

 1912年4月、エルザとアインシュタインは親しくなりました。アインシュタインは妻のミレーバとお互い心が離れていました。エルザは、離婚しており、娘が2人いました。

 

 1914年、アインシュタインは妻のミレーバと別居しました。1917年アインシュタインが胃と胆のうの病気になった時は、エルザが親身になって看病しました。

 

 1919年、アインシュタインはミレーバと離婚して、6月2日エルザと結婚しました。アインシュタイン40歳、エルザ43歳でした。

 

アインシュタインとエルザの間には子供はできませんでしたが、アインシュタインは、エルザの連れ子の娘2人を、実の子同様に接して一緒に暮らしました。

 

 

 18アインシュタイン・チャップリン・エルザ

<アインシュタイン、チャップリン、エルザ>

 

 1931年1月30日、ロサンゼルスの劇場で、「街の灯」プレミア公開の時、アインシュタインとエルザは、チャップリンに招待されました。

 

 エルザは、有名になったアインシュタインの秘書的な働きをして、彼に尽くしました。1933年アインスタインは家族とアメリカのニュージャージー州、プリンストンに移住しました。

 

 移住後、間もなく、医師の診断で、エルザは心臓病と腎臓病になっていることが分かりました。1936年12月20日、エルザは病死しました。享年60歳。

 

 エルザが亡くなった時、友人の話では、アインシュタインは、かつて見たことがないほど、泣き叫んだと言われています。

1バイオリンを弾くアインシュタイン

<アインシュタインのヴァイオリン>


 

☆☆☆エピソード(1)

 

 ユダヤ人の父は電気機器製造会社の経営者、母はピアニストでした。アインシュタインは、生まれて5歳位まで、うまく言葉が話せませんでした。「あー」や「うー」など気持ちを伝える声の他はあまり口にしませんでした。

 

 ところが、アインシュタインが5歳の時、父親が彼にコンパス(方位磁石)を与えたら、このコンパスを見て「パパ!これなぁに?」と言葉を発したのです。父親は「お前……言葉を…」と驚き、喜びました。

 

 続けてアインシュタインは、「どうして針がいつも同じところを向いているの?」「誰もさわっていないのに、ねえ、お父さん、教えてよ」と質問攻めにしました。以後、だんだん話せるようになりました。

 

 小学校でのアインシュタインはとてもおとなしい子供でした。スポーツにも全く興味を持たない彼を見て、同級生たちは一緒に遊ぼうとしませんでした。

 

 先生は簡単な質問をしても、すぐに答えないアインシュタインを「のろま」と呼びました。実は答えを間違えると先生が指を叩くので、痛い目にあいたくなくて、じっくり考えて答えが見つかるまで返事をしなかったのです。

 

 1900年、21歳でスイスのチューリッヒ連邦工科大学を卒業したアインシュタインは、1902年6月、ベルンで特許局に採用され技官になりました。仕事は、たくさん寄せられる申請書を見て、発明品として認めるかどうかを決める事でした。

 

 発明品を紙の上で想像するのはアインシュタインの想像力を刺激し、彼はいつもワクワクしていました。職場の同僚とも仲良くし、気安い職場は彼を気に入らせ、とても真面目に仕事をしていました。仕事を終えたら、自分の研究に没頭する毎日でした。

 

 アインシュタインは16歳の頃からの疑問「光に乗って走ったら周りはどのように見える?」について考え続けていました。光速は秒速30万kmです。

 

 ところが、特許局に勤務している時、突然答えがひらめいたのです。これが、時間も空間も伸びたり縮んだりするという「特殊相対性理論」の元になりました。

 

 1905年3月、アインシュタインは「光量子説」を発表しました。続いて4月に「分子の大きさの決定法」を発表。5月に「ブラウン運動の理論」を発表。

 

 そして6月に「特殊相対性理論」を発表したのです。論文の中に、初めて「E=mc2(二乗)」(エネルギー=質量×光速度の2乗)という公式が登場しました。

 

 アインシュタインは特許局に勤めながらベルン大学の講師もするようになりました。ここで経験を積めば教授になれるのです。

 

 1909年7月アインシュタインは特許局を退官しチューリッヒ大学の教授に採用されました。もう1人、教授候補者がいたのですが、彼は「アインシュタインこそ教授にふさわしい」と、譲ったため、教授に決定しました。以後彼は物理学者として、世界の注目を集めていきます。

 

 特許局の長官は、30歳のアインシュタインを普通の青年だと思っていたため、話を聞いたとき、彼が教授になるなんて、冗談だと思って信じなかったといいます。

 

1バイオリンを弾くアインシュタイン
<アインシュタインのヴァイオリン>


 <アインシュタインと誕生日(3月14日・うお座)が同じ有名人>

ヨハン・シュトラウス(1804年・作曲家・オーストリア)トーマス・マーシャル(1854年・政治家・アメリカ)徳富蘇峰(1863年・評論家・日本)小栗虫太郎(1901年・推理小説家・日本)村上元三(1910年・作家・日本)芦田伸介(1918年・俳優・日本)豊田穣(1920年・作家・日本)赤木春恵(1924年・女優・日本)菅原謙次(1926年・俳優・日本)栗原小巻(1945年・女優・日本)五木ひろし(1948年・歌手・日本)藤堂志津子(1949年・作家・日本)斎藤とも子(1961年・女優・日本)山口智充(1969年・タレント・日本)永友洋司(1971年・ラグビー・日本)ほしのあき(1977年・タレント・日本)。

 

 

 5ベルン歴史博物館・アインシュタイン博物館

<ベルン歴史博物館・アインシュタイン博物館>

スイスの首都、ベルンにあるスイスで重要な歴史博物館。考古学・民俗学など収蔵品数は50万点を越えています。併設のアインシュタイン博物館では、アインシュタインの生涯や業績について200点以上の貴重な資料や、様々な工夫を凝らした展示がされています。アインシュタインは1902年~1909年、家族と共にベルンで過ごしました。

 


8アインシュタイン博物館ベルン5
<アインシュタイン博物館内1>

 

 7アインシュタイン博物館ベルン4

<アインシュタイン博物館内2>


 6アインシュタイン博物館ベルン3

<アインシュタイン博物館内3>

 

 

 9アインシュタインハウス1

<アインシュタイン・ハウス(クラム通り49番地)>

アインシュタインは1903年~1905年、ベルン旧市街のクラム通り49番地で過ごしました。アインシュタインが使っていた家具が当時の状態のまま再現されています。また、研究資料や手記も展示されています。ベルン時代のアインシュタインは、特許庁に勤務しながら、1905年に特殊相対性理論を含む3つの偉大な発見の論文を発表しました。

 

 

 

 10アインシュタインハウス2

<アインシュタイン・ハウス(クラム通り49番地)入り口>

 

 11アインシュタインハウス3

<アインシュタイン・ハウス(クラム通り49番地)内部1>

 

 12アインシュタインハウス4

<アインシュタイン・ハウス(クラム通り49番地)内部2>

 

 13アインシュタインハウス5

<アインシュタイン・ハウス(クラム通り49番地)内部3>

 

 

1バイオリンを弾くアインシュタイン
<アインシュタインのヴァイオリン>

ピアニストだった母親から音楽教育を受け、6歳の頃からアインシュタインはヴァイオリンを、妹のマヤはピアノを習い始めました。アインシュタインはモーツアルトの曲が大好きでした。20歳の頃には、ヴァイオリン弾きになろうかと思ったくらいでした。若い頃、下宿の近所の家から、モーツアルトのピアノが聞こえてきました。彼は、ヴァイオリンを持って下宿を飛び出すと、その家に飛び入りました。驚いたのは弾いていたピアノの先生でしたが、彼は「続けて、続けて」と言ってピアノとの二重奏を始めた、というエピソードもあります。老年になっても、よく公の場所でヴァイオリン演奏をしました。大の日本好きのアインシュタインは、訪日した時にもヴァイオリンを披露しました。彼は生涯ヴァイオリンを手放しませんでした。

 


 2アインシュタイン14歳

<14歳の頃のアインシュタイン>

 

 3アインシュタイン。1905年特許員で論文発表

<1905年アインシュタイン26歳・論文を書いた頃>

 

4アインシュタイン

<アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)>

1879年(明治12年)3月14日~1955年(昭和30年)4月18日。ドイツ生まれ。家族とイタリアに移住。スイスのチューリッヒ連邦工科大学卒。スイス国籍を取得。特許庁勤務。プラハ大学教授。チューリッヒ連邦工科大学教授。プロイセン科学アカデミー会員。1921年ノーベル物理学賞受賞。プリンストン高等学術研究所教授。アメリカ国籍を取得。特殊相対性理論、一般相対性理論、相対性宇宙論などを発表した20世紀最大の物理学者。1955年4月18日、プリンストン病院で、腹部動脈瘤の破裂で死去。享年76歳。

 

0ターシャの足踏織機
<ターシャ・テューダーの足踏織機>



♥♥♥ターシャ・テューダーからのメッセージ

 

私は、社会通念より、自分の価値観に従って生きる方を選びました。だから、おもしろくて充実した人生を歩んできたのだと思います。

 

人は物事の悪い面ばかりを見ようとするけど、それは間違っているわ。この美しい世界を楽しまないなんて馬鹿げているわ。

 

人生は短いのよ。好きなことをしなくっちゃ!

 

みんなが本当に欲しいのは、物ではなくて、心の充足です。

 

歳をとっても、できることは、沢山あります。新しいことも、発見できるはずよ。無理をしないで、今の自分にできることを楽しんでみたら。

 

心は一人ひとり違います。その意味では、人はいつも“ひとり”なのよ。

 

 ■「ターシャ・テューダーの足踏織機」は今回で終わりです。

次回からは「アインシュタインのヴァイオリン」が始まります。

 

 

 

 

 

0ターシャの足踏織機
<ターシャ・テューダーの足踏織機>






 ☆☆☆エピソード(2)

 

 ターシャが9歳の時、両親は離婚しました。肖像画家の母は、ニューヨークに出てアトリエを開くことにしました。

 

 母はターシャに言いました。「あなたも一緒に来るでしょう?」。父も言いました。「お父さんと一緒にこの家で暮らそう」。

 

 ターシャは答えました。「どちらにも、行かないわ!」。「ではどうするの?」。ターシャは「自然の中で暮らしたいの。私は、都会もパーティも苦手。自然の中で花を育てたり、牛を飼ったりして暮らすの」と言いました。

 

 ターシャは、結局、母親がコネチカット州、レディングに持っていた農場の近くに住む、両親の親友のミケルソン一家に預けられることになりました。

 

 その家は、大きな立派な家で、牛、ヤギ、ニワトリなどがいっぱいいました。ターシャより少し年上の娘、ローズと、その両親が住んでいました。

 

 家族みんな、ターシャを気に入り、仲良くしてくれました。ローズの母、グエンは、芝居の脚本家でした。ターシャは、すぐに田舎の生活になじみました。

 

 農作業などの合間をぬって、ターシャは、ローズや仲良くなった友達と一緒に、お芝居をしました。台本は、グエンおばさんが書き、舞台のセットもグエンが専門家に頼んで作った本格的なものでした。

 

 この頃から、ターシャは絵を描くようになりました。グエンが「何度見ても、ターシャの絵は素敵ね。ターシャも、お母さんのように肖像画家になるの?」と聞くと、「ううん、私は、さし絵画家になりたいの」と答えました。「私も応援するわ」とグエン。

 

 1936年、ターシャは、レディングで、トーマス・マクレディと知り合い、1938年、トーマスと結婚しました。

 

 その結婚の前に、ターシャは、トーマスの姪に、手作りの絵をまとめた画集をプレゼントしようとしました。ところが、その画集を見たトーマスは「すごいよ!これを持って、出版社を回ってみるといいよ」と言いました。

 

 けれども、どの出版社も、冷たく断りました。負けず嫌いのターシャは「絵を見ただけじゃ、これが絵本になった時、どれだけ子供の手にぴったりするか、分からないのだわ」と思って、1枚1枚の絵を綴じて、本の形にしました。

 

 表紙には、青い水玉模様のキャラコを貼り付けました。タイトルは「PUMPKIN MOONSHINE」にしました。こうして、子供の手に合った小さな可愛い絵本が出来上がりました。

 

 この絵本は1938年に出版社から、「キャラコ・ブックス」として出版され、大反響を呼びました。「キャラコ・ブックス」は何冊も出版され、ターシャには物語のさし絵の仕事も来るようになりました。子供も長男と長女が生まれました。

 

 さらに、1944年に出版した「ターシャ・テューダーのマザ-グース」が、コールデコット賞の次席に選ばれました。仕事も忙しくなりました。

 

 静かな田舎で花を植えたり、動物を飼ったりしたいと思った、ターシャは、1945年、家族と共に、ニューハンプシャー州のウェブスターに引っ越しました。ターシャは30歳でした。次男と次女が生まれました。

 

 忙しい農作業の合間に、ターシャは、たくさんの絵本を作りました。また、たくさんの人形も作りました。その人形たちの家「ドールハウス」も作りました。

 

 けれども、1961年の冬、46歳のターシャは、トーマスと離婚しました。田舎暮らしが好きではないトーマスと、ターシャの間にすれ違いが生まれていたのです。

 

 ターシャは、子供達と生きていくことを決意しました。家族が着る服は、全て、ターシャの手作りでした。それも織機を購入し、糸をつむぐ本格的なもので、デザインは19世紀初期のアメリカ開拓使時代のものでした。

 

 ターシャ自身の服も、アンティークドレスが多く、自分でも作りました。ターシャは、開拓使時代の生活に子供の頃から憧れていたのです。

 

 その後、子供達も大きくなり、結婚して、ターシャは、一人暮らしになりました。けれども、動物や花に囲まれて、ターシャは、たくさんの絵本を描きました。

 

 1972年、57歳のターシャはバーモント州に30万坪(東京ドーム20個分)の土地を見つけ、移り住みました。長男のセスが、ターシャがあこがれていた18世紀の古い農家をモデルに、2年かけて家を建てました。

 

 また、広大な土地には、花や植物、野菜や木を植え、自給自足の生活をしながら絵本を次々に出版しました。

 

 次男から贈られてきた、コーギー犬が子供を産み、何匹ものコーギー犬が家族になりました。これらの犬を可愛がっていたターシャは、この家を「コーギー・コテージ」と名付けました。コーギー犬に関する絵本も多数出版しています。

 

 ターシャは、90歳になっても、昼は草花や土地いじり、夜はロウソクの火で本を読みました。また、草花の勉強も続けていました。自分の土地でなったリンゴを収穫し、ジュースやジャムも作りました。灯りをともすロウソクも作りました。

 

 2008年6月18日、ターシャは、咲き乱れる花の季節に、親しい人たちに見守られて亡くなりました。最後の言葉は、「楽しんで、人生を」でした。享年92歳。子供の頃の夢だった、自然の暮らしを愛し、貫いた生涯でした。

 


0ターシャの足踏織機

<ターシャ・テューダーの足踏織機>



☆☆☆エピソード(1)

 

 ターシャ・テューダーはアメリカの北東部、マサチューセッツ州の州都、ボストンの裕福な家庭で育ちました。

 

 父は、ヨットや飛行機設計の業界では有名な技師、実業家。母は、肖像画家だった。両親共にボストンでは名家の出身で、文化人や政財界人と交流を持っていました。

 

 1919年のある日、グラハム・ベル邸でのパーティに、ターシャ・テューダーは両親に連れられて、出席しました。四歳でした。

 

 グラハム・ベル(1847年~1922年)は、電話を発明したスコットランド出身の発明家です。アン・サリバンを、ヘレン・ケラーの家庭教師として、推薦したのもベルです。

 ターシャは、パーティ会場からいなくなりました。父と母が「ターシャが、また、パーティを抜け出した」と探しかけると、ベルが、「私が探してきますよ」と、庭園に出ていきました。

 

 庭木の陰に隠れていたターシャを、ベルは見つけて「ターシャは、そんなにパーティが嫌いかね?」と言いました。

 

 ターシャが「人がいっぱいいると、息が苦しくなってくるんですもの」と答えると、ベルは「実は私も、人が多い場所は苦手なんだ」と言いました。「ベルおじさんも!」とターシャ。

 

 ベルが「じゃあ、ターシャの好きなものは何だい?」と聞くと、ターシャは「お花、小鳥、雨や水たまり、青くて高い空」などと答えました。

 

 「ターシャは自然が好きなんだね。じゃあ、とっておきの秘密の場所に案内しよう」と、ベルはターシャをバラ園に連れていきました。

 

 「うわあ! きれい」とターシャは感激しました。「この花は“ヒューゴ神父のバラ”(ロサ・ユゴニス)というんだよ。こうして美しく咲かせるためには手をかけて育てなければいけないんだ」とベルは言った。

 

 ターシャは、「わたし、やるわ!大きくなったら家の周りを、こんな素敵な花で、いっぱいにするの!」。

 

 このベル家での、ベルと美しい花との出会いが、ターシャに大きな感動と希望をもたらしたのです。

 

 やがて、ターシャは、たくさんの花を育て、絵本をかき、多くの人に幸せを与えるようになったのです。

 

0ターシャの足踏織機
<ターシャ・テューダーの足踏織機>



<ターシャ・テューダーと誕生日(8月28日・おとめ座)が同じ有名人>

ヨハン・ゲーテ(1749年・詩人・劇作家・自然科学者・ドイツ)千田夏光(1924年・ノンフィクション作家・日本)ペギー・ライアン(1924年・女優・アメリカ)ドナルド・オコナ―(1925年・俳優・アメリカ)及川ヒロオ(1935年・俳優・日本)イーデス・ハンソン(1939年・タレント・イギリス)宮川花子(1955年・漫才師・日本)金子ゆかり(1958年・政治家・日本)城戸真亜子(1961年・タレント・日本)香西かおり(1963年・歌手・日本)高橋洋子(1966年・歌手・日本)水橋かおり(1974年・声優・日本)。

 

 

5ターシャ博物館

ターシャ・テューダー博物館>
バーモント州のブラトルバロにあります。ブラトルバロ歴史協会の所有するエレミア・ビアル・ハウス(1800年代のレンガ造りの建物)の2階に、2009年にオープンしました。足踏織機やターシャの着用したドレス、ターシャの本、ターシャが作った人形、おもちゃ、マリオネット、アンティーク調理器具、陶器など所縁の品々が展示されています。

 

 7博物館内1
<博物館内・窓は絵が貼り付けてあります>



 8アンティークドレス

<博物館内・ターシャが愛用したアンティークドレス>



 8博物館内2

<博物館内・食器や日用品など>



 9博物館内5 (2)

<博物館内・カップなど>



 10博物館内6 (2)

<博物館内・鍋類>



 

11ターシャ・テューダーミニミュージアム1
<ターシャ・テューダー ミニミュージアム>

山梨県北杜市大泉町にあります。前向きな生き方で、今も多くの人に勇気と感動を与えている、アメリカの絵本作家、ターシャ・テューダーの常設の美術館。この日本の美術館は、アメリカのターシャ・テューダー博物館建設を応援してきました。同時に、自分たちの体験や収集資料を日本のターシャ・テューダーフアンと分かち合うために、2013年、ターシャの家族の快諾と応援を得て開館しました。



 12ターシャ・テューダーミニミュージアム2

<ミュージアム館内1>

 

 13ターシャ・テューダーミニミュージアム3

<ミュージアム館内2>

 

 14ターシャ・テューダーミニミュージアム4

<ミュージアム館内3>

0ターシャの足踏織機

<ターシャ・テューダーの足踏織機>

アメリカのバーモント州、ブラトルバロにある、絵本作家・ターシャ・テューダー博物館に、ターシャが使用していた19世紀のカウンターバランス式・足踏織機が展示してあります。ターシャは、料理や雑用の合間に、この足踏織機で、家族の衣服や、自分のドレスを作りました。彼女は、アンティークドレスの愛好家で、歴史的な衣服の知識も豊富でした。その知識を生かして、自分の独創的なデザインを加えて、ドレスを仕上げました。





1ターシャの作ったドレス2
<織機でターシャが作ったドレス1>



1ターシャの作ったドレス1
<織機でターシャが作ったドレス2>




2ターシャ1
<コーギーコテージでのターシャ・テューダー




3ターシャ2
<晩年のターシャ・テューダー



4ターシャ3

<ターシャ・テューダー(
Tasha Tudor)>

1915年(大正4年)8月28日~2008年(平成20年)6月18日。アメリカのマサチューセッツ州の州都、ボストン生まれ。絵本画家、挿絵画家、園芸家、人形作家。50歳半ばから、バーモント州の小さな町外れで、自給自足の一人暮らしを始めました。広大な庭に季節の花々を育てるライフスタイルは、日本でも注目を集めました。生涯を通じて80冊以上の本を出版。絵本作家に贈られるコールデコット・オナー賞を2回受賞。また、児童文学に対する貢献を評価されて、リジャイナ・メダルも受賞。コーギー犬が大活躍する絵本「コーギービル」シリーズは代表作。晩年にバーモント大学から名誉博士号授与されました。2008年6月18日、自宅で家族、友人に囲まれ、脳卒中の合併症により死去。享年92歳。