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サガンの愛車・ジャガーXK120

写真は、愛車、ジャガー・XK120の側に寄り添うサガン。ジャガー・XK120は、イギリスの自動車メーカー・ジャガーは、1948年から1954年まで生産した2座席のスポーツカーです。車名の「XK」は、直列6気筒DOHCエンジンの型式名「XK」からとっています。また、「120」は最高速度が120mph(時速120マイル=時速193キロ)以上出ることを意味しています。サガンのデビュー作、「悲しみよこんにちわ」が世界中でベストセラーになり、360億円の富と名声を手にした18歳のサガンが求めたのは、当時世界一速い車と言われた、「ジャガーXK120」でした。愛車はこの車だけでなく、フェラーリ、ルノー・ゴルディーニ24S、アスティンマーティンなどにも乗っています。

 

 

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愛車「ジャガーXK120」に乗ったサガン

愛車、ジャガー・XK120に乗った若かりし頃のサガン。フランスの女優・シルヴィー・テステュー(1971年1月17日~)がサガンを演じている映画、「サガン 悲しみよこんにちは」(2008年)にも、サガンがパリのカルチェラタンで開かれた批評家賞受賞パーティに愛車ジャガーで乗りつける場面がでてきます。


 

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【フランソワーズ・サガン(Françoise Sagan)】

1935年(昭和10年)6月21日~2004年(平成16年)9月24日。フランス南西部のロット県カルジャック生まれ。本名はフランソワーズ・コワレ(Françoise Quoirez)。小説家、脚本家、映画台本作家。作品は、「悲しみよこんにちは」(1954年)、「ブラームスはお好き」(1959年)、「ある微笑」(1956年)、「一年ののち」(1957年)、「優しい関係」(1968年)など。2004年、ノルマンディー地域カルヴァドス県のオンフールの病院で心臓疾患により病死。享年69歳。

 

【フランソワーズ・サガンと誕生日(6月21日・ふたご座)が同じ有名人】
 

シメオン・ドニ・ポアソン(1781年・数学者・フランス)ジャン・ポール・サルトル(1905年・作家・フランス)ヴォルフガング・ハーケン(1928年・数学者・ドイツ)ラロ・シフリン(1932年・作曲家・アルゼンチン)ロン・エリー(1938年・映画俳優・アメリカ)都蔵俊一(1948年・作曲家・日本)住田裕子(1951年・弁護士・日本)ゲンナジー・パダルカ(1958年・宇宙飛行士・ロシア)楊利偉(ヨウ・リイ・1965年・宇宙飛行士・空軍少将・中国)松本伊予(1965年・歌手・タレント・日本)笛木優子(1979年・女優・日本)ウィリアム王子(1982年・チャールズ皇太子の長男・イギリス)。

 

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<サガンが晩年を過ごした大邸宅「ブレイユ」>

フランソワーズ・サガンは晩年、フランスのノルマンディー地域カルヴァドス県のオンフールから3キロにある別荘、ブナの並木通りの奥にそびえる広大な建築物の大邸宅「ル・マノワール・デュ・ブレイユLe Manoir du Breuil」(土地8ヘクタール)で過ごしました。この大邸宅の名前は、大邸宅のある「ブレイユの森」から名付けられました。オンフールは、イギリス海峡にそそぐセーヌ川河口にある美しい港町で、観光の名所です。1958年8月8日、サガンはドーヴィルのカジノで、ルーレットに「8」にばかり賭けて大勝し80000フラン(当時)を稼ぎました。彼女の運の強さと、「58年8月8日、8に賭けて、8万フラン」と、8という数字が並んで話題になりました。以前からこの大邸宅を欲しがっていたサガンは、翌日、この大邸宅を購入しました。当時、彼女はまだ23歳の若さでした。その後、波乱万丈な人生を送った彼女は、晩年も、この「ブレイユ」で過ごします。

 

☆☆☆エピソード(1)
 

 フランソワーズ・サガンの父は大手電機会社の重役、母は地主の娘で、ブルジョワの上流家庭で育ちました。サガンは3人兄妹の末っ子ですが、少女時代から利発で早熟、才気はしる非常に頭の良い子でした。

 
 1944年修道院の厳格な女学校に入学させられます。女学校では、悪ふざけや校則に反するお転婆が絶えず、退学・転校を繰り返しますが、大学検定試験に受かり、1952年、17歳で名門のソルボンヌ大学に入学します。


 けれども、そのソルボンヌ大学も退学します。当時、サガンは、文学に没頭していたのです。
そして、一気に7か月で書き上げたのが「悲しみよこんにちは」です。18歳でした。このデビュー作になる最初の小説は、1954年に出版されると、ベストセラーになり、翌年世界中で大ヒットして、彼女はこの小説だけで累計320億円もの莫大な富を手にします。


 さらに第2作目の「ある微笑」(1956年)もベストセラーになり、フランス文壇において、サガンは21歳という若さで世界中から注目され、流行作家としてのゆるぎない地位を確立し、名声をも手に入れました。

 

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ジュリエット・グレコ(左)とサガン
 

 1957年には、「悲しみよこんにちは」が映画化され、主人公の少女セシール(ジーン・セバーグ)の髪型「セシルカット」が大流行しました。この映画の主題歌「悲しみよこんにちは」は、歌手で女優のジュリエット・グレコ(当時30歳)が歌っていますが、彼女はこの映画にも出演し、ダンスのシーンで、ステージで歌っています。



 

 ☆☆☆エピソード(2)
 

 ブルジョワ出身で、育ちがよい、サガンは、可愛げのある性格で、頭の回転が速く、知的で、気取ったところのない魅力的な女性に成長しました。
 

 けれども、この年、1957年に、22歳のサガンは、自ら運転していたアストンマーティンで、パリの郊外で運転を誤り道路わきに転落するという事故を起こし、頭蓋骨、胸部、骨盤、手首、鎖骨を骨折して瀕死の重傷を負いました。事故当時のスピードは時速170キロ以上出していました。後にその大けがの痛みを和らげるために使用したモルヒネから、次第にアルコールや薬物依存になっていきます。


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ビリー・ホリデイ

 また、アフリカ系アメリカ人の、女性ジャズシンガー、ビリー・ホリデイが好きだったサガンは、初めてアメリカを訪問した時、ビリー・ホリデイのライブに15日間通い続け、親しくなりました。




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ガイ・シェーラーとサガン

 1958年、サガンは、最初の結婚をします。相手は、ガイ・シェーラー(1915年7月11日~2001年10月24日)。彼は、パリ出身のブルジョワで、女性雑誌の編集者。結婚期間は1958年~1960年。結婚時サガンは23歳、彼は、サガンより20歳年上の43歳。ブルジョワらしく、彼は、文学を好み、東アフリカでの狩猟や乗馬が趣味でした。

 

 結婚後、幸せな日々が続きましたが、サガンは早朝に寝て、午後に目覚める習慣でした。けれども、夫のガイは、彼の事務所に行くため、早朝に起きなければなりません。すれ違いの生活が、お互いの心を離れさせていき、サガンは彼と離婚を決意したのです。

 

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ロバート・ウェストホフとサガン

 2番目の夫は、アメリカ人彫刻家・陶芸家のロバート・ウェストホフ。結婚期間は1962年~1963年。1962年6月27日、サガンは待望の一人息子ドニ―・ウェストホフを出産します。後に、ゲイでもあるロバート・ウェストホフがボーフレンドを作ったので、結婚は破局しました。けれども、サガンは、離婚後も彼と一緒に暮らしました。彼は、1989年に死去。



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ドニ―・ウェストホフ

 サガンの一人息子、ドニ―・ウェストホフはアメリカの写真家であり作家でもあります。自分から見た母親のサガンに関する本を出版しています。2010年にはフランソワーズ・サガン賞を設立しました。翌年2011年にはフランソワーズ・サガン協会も設立しています。現在も健在。

 

 1989年、サガンの兄、サガンの元夫ロバート・ウェストホフ、サガンの母が病死するという、サガンにとって、最悪の不幸が重なりました。サガン自身も再び麻薬を常用するようになり、骨粗しょう症を発症し、腰の骨の手術もしました。

 

 
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 ペギー・ロッシュ
  
さらに1991年には長年同居していた最愛の親友で恋人、モデルのペギー・ロッシュ(元ファッション誌の編集長)が、ガンで死亡し、サガンは精神的に落ち込んでいきました。それでもサガンは「愛という名の孤独」(1992年)、「愛を探して」(1994年)などの作品を発表します。

 

 1998年に、サガンは、またアルコール依存症になり、入院します。サガンの精神は気丈でしたが、身体は、麻薬やアルコールで痛めつけられており、2003年には糖尿病も発症し、2004年(平成16年)9月24日、オンフールの病院で、心臓疾患により、サガンは亡くなりました。69歳でした。

 
 
フランソワーズ・サガンからのメッセージ

生きることを学び直すのに、年齢なんて関係ありません。一生できることなのです。

昔は、人と知り合うために、お酒を飲んでいました。今は、そういう人たちを忘れるために、お酒を飲んでいます。

私の場合は、小説を書いている、とまわりの人に信じ込ませていたのです。そういう嘘をついているうちに、本当に書くようになったのです。

死ぬまで私は書きます。本が売れなかったとしても、書いていたでしょう。何も後悔していません。長年の間、私は人生を楽しみました。何年も楽しく遊んだということは、素晴らしいことですから。

人を笑わせるのが好きです。それに、まず自分が笑うのが好きです。


“やさしさ”のない人というのは、“相手ができないこと”を求める人です。

 
結局、“想像”が唯一の基本的な美徳ではないかと思います。“想像力”があれば、人の身になれる、ということは相手が理解できる、したがって相手を尊重できるわけです。

 
私が友人に求める美点は、ユーモアと下心のない態度です。これは友情の最も大切な美点です。