防人作家の群像

現代日本の防人(さきもり)、防衛省の骨格を成す自衛官と防衛官僚の著書を読み、紹介します。

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「三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦」

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 昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫は陸上自衛隊東部方面総監部に「楯の会」会員とともに乱入して割腹自決をした。 その年の十二月十九日、東部方面総監・益田兼利陸将(陸士四六・陸大五四首席)は三島乱入事件の責を負って辞任した。 十二月の暮れもおしつまった頃

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 昭和四十二年春、当時富士学校には、戦車教導隊の中隊長代理・冨澤暉(ひかる)一等陸尉(防大四・後に陸将・陸上幕僚長)がいた。 冨澤一尉は藤原岩市の娘婿だった。藤原は富士学校で三島に冨澤一尉を紹介し、冨澤一尉夫妻の住む官舎に連れて行き、一緒に食事をさせてい

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「三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦」(山本舜勝・日本文芸社)によると、このような激動的な状況の中、山本一佐にとって民間防衛隊構想、間接侵略に関する思想は一生の懸案だったばかりでなく、当面火のついた問題だった。 三島由紀夫の決意を知った山本一佐は三島の祖国防衛

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こうして山本二佐は、海原防衛局長に報告することは差し控えた。「三無事件」の緊急報告も、山本二佐から調査課長へ報告され、広瀬第二部長は直接次官へ報告するという経過を辿り、結局、海原防衛局長のみは何も知らされぬまま宙に浮き、後でそれを知った海原防衛局長は激怒

「三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦」(著者・山本舜勝)日本文芸社・昭和55年12月20日発行・302ページ。 <山本舜勝(やまもと・きよかつ)プロフィル>大正八年二月二十八日愛知県生まれ。父・泰勝(教師)、母・きくの三男(五人兄弟)。大正十五年夏、父の転任で

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