2010年08月
2010年08月30日
酔いの内 鬱金の花の 延夜かな
二五年前のバンドマンのヘアースタイルみたいなことになっているので、散髪したいのであるが、時期を逃してしまって、そのままにしているのが実情だ。休日だから、毛髪をおっ立てても良し。ところが、酔っ払うと鋏を入れたくなる。そうやって、失敗をしたことが今まで幾度とあったか。でもって、前髪を切ったところ案の定、コミカルな感じになったよ。
八月も終わり、明後日には九月が訪れる。俺は、先週、伊勢神宮を参拝した。八月二一日午前〇時三〇分に出発して、午前八時三〇分に伊勢に到着。その後、午後四時に名古屋に到着。市内で泥酔して、三三時間振り、八月二二日午前〇時に就寝。午前九時に出発。午後二時に厚木に到着。温泉に入って、午後六時に浦和到着。レンタカーを返却して、午後八時に帰宅。飲酒後、八月二三日午前〇時に就寝。
参拝後、寝起きが良くなった。業務が理想的に進んだ。同行した友人も良いことがあったという。俺は、「日本人として本能的に持っている信仰心が無意識に働いて、全面的なポジティブさを生むことによって、結果、活動的になってうまくいっているんじゃねーかな」と、いつもどおり分析してみた。したところ、友人は、「違うよ。単純に神の力だよ」とシンプルなことを云う。
確かに、「天照大御神が俺たちの背中を押しているぜ」と思うと、俄然元気が湧き出てくるのも事実だ。俺は、これが信仰心の強さだと悟ったつもりだ。俺は、「これこそが、宗教心の強みなんじゃないか」と問うたところ、友人は、「違うよ。神道は違うよ」と返してきたが、俺は、まあ、西洋や中東よりは緩やかだけれど、効能は同じようなもんでしょ、と思ったのであった。仏教の母国において仏教はマイナーだからな。
結局は、寄り添える対象があるかどうかの話をしたかっただけである。全面的に寺社仏閣に頼ることができるのであれば、俺は、すぐにでも山篭りをするか出家をするか、シンプルに選択したいところだけれど、テレビやラジオやインターネットをチェックしたい世俗に塗れた俺には、まだ時間がかかりそう。
ならば女に、寄り添えるか。結婚が前提にあるのならば、付き合うことが出来ない。そんな制度が待っているなんて知らなかったんだ。ただ単純に好き合っていればいいと勘違いしていた。世間体なんて考えたことも無かったから、自分が非道いことをしているとも実感していなかった。
実弟が、泊まりに来て、「お前、ライジングサンロックフェスティバルに行ったのか?」と聞いて、「行ったよ。兄ちゃんは何か行った?」と返されて、「サマソニに行った」と答えたところ、「彼女と?」と被せてきたので、「彼女とは別れた」と報告したところ、「良かった〜。俺、あの彼女のことずっと不憫に思っていたんだよ〜。兄ちゃん、人助けしたな〜」と皮肉の込められた感想を述べられた。俺は、いつも通りに「だろう?」っつった。
寄り添える対象があるかどうか。コンパクトディスクとアルコール。古着に古本。手に入れたいものが中高生と変わらない。事実、アルコールを除けば、隣客がガラスの一〇代。いくら年長者に若いと言われたところで、年少者から見れば普通に中年のオッサンであることは冷静にも分かっている。良く言えば“裸の大将”(これを良く言うと思わない人だっているのも承知)、悪く言えば、いや、悪く言うのは止めよう。鏡を見れば、リアルに分かる、ああ、映っているのは中年のオッサンだ。
ここまで読んで、第二次性徴にフィットできていない思春期のように、老化にフィットできていないで困惑しているオッサンとは思わないでくれ。何せ、俺は、むしろ老人になりたいからだ。寿命が僅かの悟りの境地に入った、ジジーになりたいだけなんだ。ところが、俺は、還暦を越えても、「六〇歳と言えば、おじいさんだ。しかし、俺は、中高生と変わらない。ポール・マッカートニーは、六四歳の唄を歌っていたけれど、あと四年だ」という日記を書いていそうで恐ろしい。そこまで、生きていればの話だけれどね。
いや、珍しく、未来志向のポジティブなシミュレーションを働かせたよ。これもひとえにただ単純に神の力だよ。俺は、ヒットラーを信じない。俺は、イエス・キリストを信じない。俺は、ケネディを信じない。俺は、エルヴィス・プレスリーを信じない。俺は、ヨガを信じない。俺は、ビートルズを信じない。いいんじゃない。酔っ払っているのはまぎれもない隠しようもない事実。続きを読む
八月も終わり、明後日には九月が訪れる。俺は、先週、伊勢神宮を参拝した。八月二一日午前〇時三〇分に出発して、午前八時三〇分に伊勢に到着。その後、午後四時に名古屋に到着。市内で泥酔して、三三時間振り、八月二二日午前〇時に就寝。午前九時に出発。午後二時に厚木に到着。温泉に入って、午後六時に浦和到着。レンタカーを返却して、午後八時に帰宅。飲酒後、八月二三日午前〇時に就寝。
参拝後、寝起きが良くなった。業務が理想的に進んだ。同行した友人も良いことがあったという。俺は、「日本人として本能的に持っている信仰心が無意識に働いて、全面的なポジティブさを生むことによって、結果、活動的になってうまくいっているんじゃねーかな」と、いつもどおり分析してみた。したところ、友人は、「違うよ。単純に神の力だよ」とシンプルなことを云う。
確かに、「天照大御神が俺たちの背中を押しているぜ」と思うと、俄然元気が湧き出てくるのも事実だ。俺は、これが信仰心の強さだと悟ったつもりだ。俺は、「これこそが、宗教心の強みなんじゃないか」と問うたところ、友人は、「違うよ。神道は違うよ」と返してきたが、俺は、まあ、西洋や中東よりは緩やかだけれど、効能は同じようなもんでしょ、と思ったのであった。仏教の母国において仏教はマイナーだからな。
結局は、寄り添える対象があるかどうかの話をしたかっただけである。全面的に寺社仏閣に頼ることができるのであれば、俺は、すぐにでも山篭りをするか出家をするか、シンプルに選択したいところだけれど、テレビやラジオやインターネットをチェックしたい世俗に塗れた俺には、まだ時間がかかりそう。
ならば女に、寄り添えるか。結婚が前提にあるのならば、付き合うことが出来ない。そんな制度が待っているなんて知らなかったんだ。ただ単純に好き合っていればいいと勘違いしていた。世間体なんて考えたことも無かったから、自分が非道いことをしているとも実感していなかった。
実弟が、泊まりに来て、「お前、ライジングサンロックフェスティバルに行ったのか?」と聞いて、「行ったよ。兄ちゃんは何か行った?」と返されて、「サマソニに行った」と答えたところ、「彼女と?」と被せてきたので、「彼女とは別れた」と報告したところ、「良かった〜。俺、あの彼女のことずっと不憫に思っていたんだよ〜。兄ちゃん、人助けしたな〜」と皮肉の込められた感想を述べられた。俺は、いつも通りに「だろう?」っつった。
寄り添える対象があるかどうか。コンパクトディスクとアルコール。古着に古本。手に入れたいものが中高生と変わらない。事実、アルコールを除けば、隣客がガラスの一〇代。いくら年長者に若いと言われたところで、年少者から見れば普通に中年のオッサンであることは冷静にも分かっている。良く言えば“裸の大将”(これを良く言うと思わない人だっているのも承知)、悪く言えば、いや、悪く言うのは止めよう。鏡を見れば、リアルに分かる、ああ、映っているのは中年のオッサンだ。
ここまで読んで、第二次性徴にフィットできていない思春期のように、老化にフィットできていないで困惑しているオッサンとは思わないでくれ。何せ、俺は、むしろ老人になりたいからだ。寿命が僅かの悟りの境地に入った、ジジーになりたいだけなんだ。ところが、俺は、還暦を越えても、「六〇歳と言えば、おじいさんだ。しかし、俺は、中高生と変わらない。ポール・マッカートニーは、六四歳の唄を歌っていたけれど、あと四年だ」という日記を書いていそうで恐ろしい。そこまで、生きていればの話だけれどね。
いや、珍しく、未来志向のポジティブなシミュレーションを働かせたよ。これもひとえにただ単純に神の力だよ。俺は、ヒットラーを信じない。俺は、イエス・キリストを信じない。俺は、ケネディを信じない。俺は、エルヴィス・プレスリーを信じない。俺は、ヨガを信じない。俺は、ビートルズを信じない。いいんじゃない。酔っ払っているのはまぎれもない隠しようもない事実。続きを読む