2009年01月24日
日脚伸ぶ 月光陽光 蛍光灯
昨晩は、帰宅後から晩酌を始め、日付を越えた午前三時あたりまで独り、部屋で酔っ払っていた。またですか?という声が聞こえてくる。そして本日の午後三時頃に布団を出て、薬を飲み、焼き蕎麦を食し、溜め込んでいた洗濯物を洗濯機に投入し稼動させた。――休日。最高な一日だ。最近は休日をあらゆる意味で“回復日”と位置づけている。遊ぶ日では無くて文字通り、休む日である。「何かを休む」という意味ではない。「精神と肉体を休息させる」という意味である。
空腹を満たし、部屋を片付け、洗濯をして、酒を呑む。平日よりも、生活というものを実感させられるというものだ。賃貸物件と云えども、ここが俺のアジトだ、などと思う。それが精神的安定を生む。俺はこの街が気に入ったし、この部屋も気に入った。練馬区に住んでいた頃は、後半、早く逃げ出したくてたまらなかったが、当時は引越し費用を工面できない日々が続き、泣く泣く賃貸契約更新を続け、結果、どんどん部屋を傷めることとなり、最終的には敷金トラブルを起こしてしまったものだ。
問題点があれば一つひとつ潰していくしかない。潰すことは可能なはずだ。妥協点を見つけるも良し。だけど、妥協は妥協で目を背けないようにしたいし、妥協しなくても壁を打開することは可能だと信じている。だから妥協しているのに、気付かない振りをしていたり、気付いていない奴を目に耳にすると撲殺したくなるのは普通なことであると思う。逮捕されるようなことは極力避けたいけれどもね。逮捕自体は、善悪の基準ではない。主観的倫理観がはっきりしていれば、法律や校則に縛られる事だってないんだ。
言論封鎖の不自由な国で生まれ、反抗した途端に処刑。だったら反抗できるだけ幸せじゃないか、などと物分かり良い人間にはなりたくないけれども、違和感を覚え、反旗を翻した聡明な青年が世界の各地で抹殺されている一方、クーデターに成功したら英雄。そりゃそうだ、結果を求められ、それに応じれば英雄。然しながら俺は、そんなカリスマよりも、どんな国にでもきっといるであろう誰にも取り上げられない精神的解放、精神的自由を手に入れた人間をリスペクトしたいものだ。
蓋し、そんなタイプの人間は、自由の国では自虐的に振舞うであろうし、不自由な国では反体制的に振舞うであろう。それは自分の立ち位置の話であって、国家が自由だろうが不自由だろうが、ここにおいては意味を成さない。民主主義が良いかどうかは、ひとまず置いといて、何にせよ、強制や押し付けをしてくる人と居酒屋で共に時間を過ごしたくは無いよね。おせっかいは、おせっかいだよ。それも否定しないけどね。あなた、さっきから結局のところ何が言いたいの?言いたいことは何も無い。失うものは何も無い。主観的倫理観がはっきりしていれば、置かれている環境を超えることが可能なんだ。牢屋でも一〇三号室でも。きっとね。仮定。
迷うのは知性があるからさ。獣は迷わないし、揺ぎ無い。猫は通る道を決めている。だからそのルートに立ちはだかって邪魔をしても、決して迂回しない。退(ど)くのを待つのみ。通る道を変更することなどで迷うことはないのさ。それを低能と思うか、強い意志と捉えるかは、あんたの勝手だ。子供の頃に迷わなかったのは、獣に近かったからだろう。知性があればあるからこそ、迷いが生じるはずなのさ。幾万通りのシチュエーションが一瞬にしてシミュレートされるんだろうよ。一瞬にして相手の立場を見抜けば、争いにも負けるだろうよ。否、勝ちを譲るんだよな。そりゃあそうだろう、相手のことが分かればそこに付け入ることにも虚しくなり、かつ慮(おもんばか)れるからである。
だけど、そもそも知性って必要か?って、お前から切り出したテーマだろう。あなた、さっきから結局のところ何が言いたいの?と問われれば、ヒト科についての感想を述べているだけだ、と応えるであろう。そしてそれは善悪や優劣について述べているわけではないことを弁明したい。俺、そういうの嫌いだし。だって、“悪”や“劣”って、非難されるじゃん。俺、あれが嫌なんだよな。だって、自分が“善”や“優”であるなんて、宣言すること自体がおこがましい。更に云えば“謙虚さ”をアピールしているわけでもない。人は人を本質的には、裁けないってことさ。裁くために法律や条例や倫理規定があるだけであって。
でも、馬鹿だと思う奴に「馬鹿」と罵倒することは健全なことだとは思うよ。何よりも我慢は毒。正義もいらない。それは本当のことなんだ。重要なことは、主観的真実を持って身を守ること。それだけに違いないんだ。いつか読み返して、恥ずかしく猛省する日が来ないことを望む(生誕して二九年と二二日・記)。
空腹を満たし、部屋を片付け、洗濯をして、酒を呑む。平日よりも、生活というものを実感させられるというものだ。賃貸物件と云えども、ここが俺のアジトだ、などと思う。それが精神的安定を生む。俺はこの街が気に入ったし、この部屋も気に入った。練馬区に住んでいた頃は、後半、早く逃げ出したくてたまらなかったが、当時は引越し費用を工面できない日々が続き、泣く泣く賃貸契約更新を続け、結果、どんどん部屋を傷めることとなり、最終的には敷金トラブルを起こしてしまったものだ。
問題点があれば一つひとつ潰していくしかない。潰すことは可能なはずだ。妥協点を見つけるも良し。だけど、妥協は妥協で目を背けないようにしたいし、妥協しなくても壁を打開することは可能だと信じている。だから妥協しているのに、気付かない振りをしていたり、気付いていない奴を目に耳にすると撲殺したくなるのは普通なことであると思う。逮捕されるようなことは極力避けたいけれどもね。逮捕自体は、善悪の基準ではない。主観的倫理観がはっきりしていれば、法律や校則に縛られる事だってないんだ。
言論封鎖の不自由な国で生まれ、反抗した途端に処刑。だったら反抗できるだけ幸せじゃないか、などと物分かり良い人間にはなりたくないけれども、違和感を覚え、反旗を翻した聡明な青年が世界の各地で抹殺されている一方、クーデターに成功したら英雄。そりゃそうだ、結果を求められ、それに応じれば英雄。然しながら俺は、そんなカリスマよりも、どんな国にでもきっといるであろう誰にも取り上げられない精神的解放、精神的自由を手に入れた人間をリスペクトしたいものだ。
蓋し、そんなタイプの人間は、自由の国では自虐的に振舞うであろうし、不自由な国では反体制的に振舞うであろう。それは自分の立ち位置の話であって、国家が自由だろうが不自由だろうが、ここにおいては意味を成さない。民主主義が良いかどうかは、ひとまず置いといて、何にせよ、強制や押し付けをしてくる人と居酒屋で共に時間を過ごしたくは無いよね。おせっかいは、おせっかいだよ。それも否定しないけどね。あなた、さっきから結局のところ何が言いたいの?言いたいことは何も無い。失うものは何も無い。主観的倫理観がはっきりしていれば、置かれている環境を超えることが可能なんだ。牢屋でも一〇三号室でも。きっとね。仮定。
迷うのは知性があるからさ。獣は迷わないし、揺ぎ無い。猫は通る道を決めている。だからそのルートに立ちはだかって邪魔をしても、決して迂回しない。退(ど)くのを待つのみ。通る道を変更することなどで迷うことはないのさ。それを低能と思うか、強い意志と捉えるかは、あんたの勝手だ。子供の頃に迷わなかったのは、獣に近かったからだろう。知性があればあるからこそ、迷いが生じるはずなのさ。幾万通りのシチュエーションが一瞬にしてシミュレートされるんだろうよ。一瞬にして相手の立場を見抜けば、争いにも負けるだろうよ。否、勝ちを譲るんだよな。そりゃあそうだろう、相手のことが分かればそこに付け入ることにも虚しくなり、かつ慮(おもんばか)れるからである。
だけど、そもそも知性って必要か?って、お前から切り出したテーマだろう。あなた、さっきから結局のところ何が言いたいの?と問われれば、ヒト科についての感想を述べているだけだ、と応えるであろう。そしてそれは善悪や優劣について述べているわけではないことを弁明したい。俺、そういうの嫌いだし。だって、“悪”や“劣”って、非難されるじゃん。俺、あれが嫌なんだよな。だって、自分が“善”や“優”であるなんて、宣言すること自体がおこがましい。更に云えば“謙虚さ”をアピールしているわけでもない。人は人を本質的には、裁けないってことさ。裁くために法律や条例や倫理規定があるだけであって。
でも、馬鹿だと思う奴に「馬鹿」と罵倒することは健全なことだとは思うよ。何よりも我慢は毒。正義もいらない。それは本当のことなんだ。重要なことは、主観的真実を持って身を守ること。それだけに違いないんだ。いつか読み返して、恥ずかしく猛省する日が来ないことを望む(生誕して二九年と二二日・記)。