「余震の中で新聞を作る」

このブログは、仙台在住のジャーナリスト、寺島英弥の東日本大震災、福島第1原発事故の被災地取材記です。2011年3月14日から始まり、16年8月まで158回を連載。震災、原発事故が7年目を迎えた17年3月から続編を書いています。何も終わらない被災地へ旅していただけましたら。

2011/04/03 23:55

余震の中で新聞を作る10 「ふんばる」人々と出会う

  東北の人々にとって永劫忘れえぬ日となろう「3・11」から、月が変わりました。正直なところ、4月になったという季節の境もよくわからないのです。職場の多くの記者が3・11からほとんど休みなく走り続け、「その日」の時間が終わらず続いているような感覚すらあります。

  しかし、過酷な試練を背負った被災地でも少しずつ、人が動き始め、新たな時を刻み始めました。きょう4月2日付の夕刊を開いて、あっと声が出ました。
  「苦難に負けぬ」という太字カットの記事の1つが、「陸前高田 老舗しょうゆ店事業再開 『日本一』もう一度」。
  「『味にも材料にもこだわりのある手造りの店で、しょうゆ1本でも配達してくれた。ほんとうに地元の良心的な店だった』と。めちゃめちゃに醸造所や事務所は崩れ、樽がいくつも道に転がっていました。店の人々は無事だったでしょうか」  
  本ブログ『余震の中で新聞を作る6』でこうつづった店のお話でした。1807(文化4)年創業の八木沢商店。地場産の原料と昔ながらの製法で仕込んだしょうゆは、全国品評会で3度の最優秀賞を得たそうです。やはり土蔵や杉だるなどの醸造設備をすべて流され、社員にも犠牲者が出ました。記事の1部を紹介しましょう。

  『事業を再開した1日。仮設事務所を置く陸前高田市の陸前高田ドライビング・スクールに、社員約30人が集まった。
 「これ何だと思う? みんなの給料袋だ」
 社長の河野和義さん(66)が真新しい銀行の封筒が入った紙袋を掲げた。長男で専務の通洋さん(37)が一人一人に手渡すと、小銭交じりとあって社員から「重いよ」と笑いが起きた。
 この場で、和義さんから通洋さんへの社長交代が伝えられた。
 「地獄からはい上がるなら、スピードと体力が必要。若い俺の方がいい」
 通洋さんの直訴を和義さんが快諾した結果だった。
 社員には今後の方針も示された。
 「生きる」「共に暮らしを守る」「人間らしく魅力的に生きる」—。雇用は
守り、行方不明者の捜索やボランティア活動も本業と位置付けた。』

  店に残ったものはトラック2台のみ。しかし、がれきの中から、創業の由来を記した巻物と、杉だるに生き延びた微生物が取り戻せたそうです。
  「以前と同じみそやしょうゆを造るのに、20年以上はかかる。でも、生きていたら何でもできる」。こう語り、給料袋を掲げた河野和義さんの目は潤んでいるように見えます。その場に立会い、新しい時を伝えた記者の目もまた同様だったと思います。
  津波にのまれた街の人々の再生の鼓動が届きましたでしょうか。

                      ◇

  『ふんばる』という朝刊社会面の大きな記事が、3月22日付から連載されています(4月3日付まで13回)。
  「東北の人々の命や暮らし、古里の街を奪った東日本大震災。今も多くの人が行方不明の肉親を捜し、避難所で寒さや疲れに耐え、ライフラインの復旧を待つ。今日を生き抜くこと、希望を取り戻すこと、そして再び立ち上がること。そんな思いで支え合い、動き始めた人々を被災地のさまざまな場所で見つめる」。 こんな前文が初回に添えられました。

  菅首相は1日、記者会見で東北の復興に触れ、「世界で一つのモデルとなるような新たな町づくりをぜひ目指したい」と表明したそうです。「山を削って高台に住む所を置き、海岸沿いの漁港などまで通勤する。バイオマス(生物資源)を使った地域暖房を完備したエコタウンをつくる。福祉都市としての性格も持たせる」(時事通信)
  
  復興の主体とは誰か? 私たちは岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日)の折にも、それを自問し、議論しました。その形が、現地支局、報道部記者たちがそれぞれに出会った人々の物語を記録し、書き継ぐ『歩む 前へ』という連載(これまで34回)になりました。
  本ブログ「被災・復興と地方紙記者〜栗駒耕英で聴く」の1部を引用してみます。
  『「養魚業、介護支援員、郵便局長、温泉宿経営、養護教諭、高校生、畜産農家…。震災とは、地域のあらゆる人と家族、仕事、暮らしを巻き込み、人々はその体験を共有しながら、それぞれの現場から、できるやり方で前へ進んでいる。その一歩一歩が復興への歩みであり、その主体とは一個一個の住民−」
  「いろんな人に話を聴きながら、首長より政治家より重い言葉を聞くし、一人一人が主人公という思いがある。それが、われわれのニュースなのだ、と知りました。震災で耕英(注・栗原市の被災地)の人々と出会い、私の人生も変わりました」(注・若柳支局記者の話)

  場にとどまり、当事者と同じ時間を生きる。それが、地方紙記者の仕事の本質なのです。
  そこで出会い、聴いた1人1人の声からしか、解決すべき問題も、それを考える道筋も、必要とされる支援も、新たに生きる場づくりとしての復興の姿も見えてはきません。いま最も苦しい被災者こそが、その力−他者をも勇気づける−をもっています。
  まだ発せられていない声の伝え手が、いま私たち記者−同時に当事者でもある−にできる仕事であり、それらをつなぐ場づくりが、地方紙にできる役割であろうと思います。

  今回の震災での「ふんばる」も、同じところから生まれ出でました。私も、報道部や被災地の支局の記者たちに交じって、『余震の中で−』で報告してきたような場所を歩き、人と出会ってきました。『ふんばる』につづった何篇かを紹介してみましょう。

                         ◇

 東日本大震災/ふんばる 3・11大震災 (1) 高須賀昌昭さん(66)=燃料販売店主、石巻市八幡町=ぬくもり、心に赤々と/たき火から助け合う輪

  「あだっていがい。あったまっから」。雪にぬれ、泥の道を行く被災者に声を掛ける人がいた。
  石巻市中心部の北上川右岸にある八幡町。11日の大地震後の津波で多くの家々が倒壊した湊(みなと)地区の外れだ。
  泥とがれきの県道脇に一点、赤いたき火。5、6人の輪ができている。
  「九死に一生を得だんだがら。元気を出さい」。湊小の避難所での配給から帰ってきた若い女性2人に、声の主、高須賀昌昭さん(66)が言う。
  「○さんはこの近所では。安否不明なんです」「給水はいつやるのですか」と尋ねてくる人もいる。たき火は小さなよろず相談所になった。

  曽祖父から約120年も燃料販売店を営み、灯油、プロパンガス、炭も扱う。得意客は1000軒。誰よりも地元に詳しい。
  「たき火をすると誰でも寄って、つらいことも話せるし、相談ごとも聞ける。
  ぬれた木は燃えにくいんだが、先祖以来、まき、炭のプロだから」

 たき火をする自宅も、1階が津波に没した。隣家との間に車が乗り上げ、周囲はがれきの山。

  家族は無事だった。ザーという音に、半世紀前のチリ地震津波を経験した母キクさん(93)が「逃げろ」と叫んで2階にはい上がり、妻千代さん(62)も助かった。
  高須賀さん自身は商店街で車ごと津波にのまれ、運よく窓から水中に脱出。知人の店で夜を明かし、カーテンを体に巻いて帰った。
  「もらった命。まずは生き残った人たちと力を合わせようと決めた」
  被災の翌日、避難所で「個人への配給はできない」と言われ、「それなら」と隣家を誘って「八幡町2丁目自主防災会」をつくった。会員は今、湊地区の水産加工会社で働く人、歯科医、年金生活の夫婦ら8家族20人。
  1人の1日分がにぎり飯1個だった配給食を補うため、互いに食べ物を持ち寄ったり、流れ着いた密封の食品や缶飲料を見つけたり。津波をかぶった井戸水の砂をこして、洗い物に使ったり。
  「『サバイバル飯』を考えるのも楽しい」と高須賀さん。米をサラダ油で炒めて味付けし、水を節約するチャーハンも。香ばしくて悪くない味だ。

  会員で、水産加工会社に勤める主婦は津波で同僚6人を失った。送迎車で避難する途中に巻き込まれ、20代の男性従業員と自分だけが助かった。
  憔悴(しょうすい)した若者は高須賀さん宅の2階に避難。長男の正忠さん(35)ら男の会員たちが車を捜し歩き、17日に遺体は確認された。
  次には「遺族に伝えて回りたいが、車のガソリンがない」と会社の社長夫婦も駆け込んだ。

  男の会員らは早速、津波で流された高須賀さんの営業車から、手動ポンプとホースでガソリンを抜き、給油に成功。社長夫婦は泣いて出発した。
   「1日も早く仕事を再開したい」と高須賀さんは言う。在庫の灯油とガスボンベは幸いに無事。自家用のタンク車も正忠さんが、配達中に襲われた津波から守り抜いた。
  「まだまだ寒い日が続く。被災して震えるお客さんたちに、たき火の暖かさを届けたいんだ」 (3月22日付)

                            ◇

  東日本大震災/ふんばる 3・11大震災 (3) 「恋し浜」の里人たち=大船渡市三陸町綾里・小石浜=/共同生活まるで家族 ホタテ産地に元気な声

 「男の人だ(たち)、集まって。昼ご飯だよ」
 避難所の公民館に、お母さんたちの元気な声が響く。震災発生以来、総勢約80人の共同生活を切り盛りしている。まるで大家族のようだ。
 大船渡市三陸町綾里の小石浜地区。小さな湾で大半がホタテ養殖を営む30世帯が、地震とともに公民館に集まった。
 「津波で8軒被災したが、全員が無事。大勢が死んだ明治の大津波の教訓で、すぐここに集まると決めている」と集落長の川原文夫さん(58)。多くの家も高台にある。

 20人余りの80代も逃げた。山間の小石浜はかつて、誰もが綾里の町まで2時間の険路を歩いた。「綾里の地区対抗運動会で(小石浜は)常に一番だった」。自慢の健脚ぞろいが避難にも生きた。

 「あんだどごで、いね人は?」と確認を終えるや、直ちに家が壊れた人もそうでない人も一緒の避難所生活が始まった。
 米やみそ、冷蔵庫の食材や水産物、灯油やまきストーブ、ガスボンベも持ち寄り、集落の孤立にもびくともしなかった。

  「ここには、若い男手もいっぱいあるんです」。配膳をしながら、婦人部長の川原律子さん(57)は頼もしそうに言う。
  「恋し浜」。ホタテ養殖に取り組む小石浜青年部(佐々木淳部長)が地名をもじり、8年掛かりで全国に売り込んだ特産ブランドだ。集落を通る三陸鉄道の駅名も住民の要望で「恋し浜」への改称を実現させ、縁結びの名所に育ててきた。
  高台の駅は残ったが、「養殖場や浜の倉庫、作業所はめちゃめちゃ。各地でイベントも開き、やっと波に乗ったのに」と総括担当の佐々木亨さん(41)らは無念そう。
  だが、落ち込む間はない。水道が止まった後、集落の人々は「昔の生活に戻ればいい」(川原集落長)と、かつての水源だった山の水を公民館まで引いた。

  そうした共同作業や家々の片付け、捜索活動に出る消防団の担い手も青年部だ。
  メンバーは20〜30代を中心に8人。こんなに多くの後継者がいる浜はない。「一緒に育ち、育ててもらったから。海の仕事を選ぶのは自然なことだった」と佐々木さん。
  高齢者、保育所や小学校の子ども、男たちの順に昼ご飯を出した後、お母さんたちがテーブルを囲んだ。毎日の献立づくりと食材選び、掃除、住民の健康のチェックなど、こちらも忙しい。

  「集落が家族同様なのは、やっぱり、皆が同じ暮らしをしてきたから」と婦人部の川原さん。
  ホタテ養殖は夫婦一体の作業だ。稚貝を育て、殻1枚1枚をひもにつって再び海に入れ、2年でやっと収穫。水揚げは朝3時だ。「海に出る時はどこの家族も一緒。声を掛け合い、一服のお茶の楽しみも、悩みも苦労も、子育てや結婚の喜びも分かち合ってきたんです」
 大津波は、小石浜の稚貝、収穫期の貝を合わせ約一千万個を流したという。

  「舟も失い、再生は10年掛かり。共同作業で始めるしかない」と佐々木さんは言う。痛みを包む公民館のぬくもりに「恋し浜」の火は残った。  (3月24日付)

                          ◇

  東日本大震災/ふんばる 3・11大震災 (11) 冨山勝敏さん(69)=ジャズ喫茶店主、陸前高田市=レコード1枚、夢残す/心癒やし集える場を必ず

  大津波で街が壊滅した陸前高田市。約1200人が第一中学校で避難生活を送る。マットが敷き詰められた体育館に冨山勝敏さん(69)はいた。
  「東京五輪のころ、古里の郡山市の高校を出て、東京でフーテン生活を送った。そこに戻って出直すようなもの」
  陸前高田市のジャズ喫茶「h.イマジン」の店主。ジャズの名盤と本格コーヒーを楽しむ大勢のファンに親しまれた。店名はジョン・レノンの愛と平和の歌と「暇人」を掛けた。自らの人生観の表現だという。

  「まさか、まさかと言っている間に、その店を2度も失うのだからね」
  大船渡市の碁石海岸で2003年に開いた最初の店が昨年2月、火事で全焼した。陸前高田市に移り、再出発したのは昨年12月。3カ月もたたないうちに、今度は大津波が襲った。

  東京の大手ホテルの会計システム責任者やベンチャー企業の役員などを経て、歩み始めた第二の人生。陸前高田の店は、築60年という旧高田町役場庁舎を手塩に掛けて改装した「夢の店」だった。
  「マスターなら価値を分かってくれますね」。友人のメールが、旧庁舎との縁を結んだ。火災後、陸前高田市内で借住まいして間もないころ。
  早速足を運んだ。技巧で名高い地元の気仙大工が手掛けた2階建て庁舎。ぼろぼろだったが、はりや柱は堅固だった。洋館の趣があった。

  市の撤去方針に対し、保存運動が起きていた。市に掛け合うと、払い下げ額は200万円。
  「一目ぼれだった。東京で第二の人生のすみかを探した時、ここ気仙地方の海岸の風光に心ひかれたように」
 あの3月11日、逃げた高台から、引き潮に没する店を見た。


  がれきの野と化した市街に3月20日、初めて足を運んだ。
 柔らかい緑と赤の外壁、広いテラス、欧風の内装。その建物はすっかり消え去っていた。
  吟味したドイツの紅茶、オリジナルのコーヒー、そしてジャズの響き。連日50人ほどでにぎわった店の跡には、革張りの椅子1脚が転がり、ジャケットのない古いジャズのレコード1枚が落ちていた。

  「昔の建物だから土台は大丈夫だ。これが私の元手。木材を集めて掘っ立て小屋を建て、そこからまた始めるよ」
 避難所には、Iターンして以来の友人たちが入れ替わり訪れ、応援してくれる。
  「東京にはなかった人の情が何よりの財産になった。しばらく、みんな苦労の日々が続く。心を癒やしに集える場をつくるのが、次の仕事だ」
  店の玄関脇の辺りに、緑の芽があった。スイセン。津波の潮と砂にもまれた後も伸びている。「咲いてほしい」と冨山さんは願う。
  身を寄せる第一中学校のグランドでは今、仮設住宅の建設が急ピッチで進む。  (4月1日付)


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 (4月2日付夕刊2面)

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 (『ふんばる』 3月22日付朝刊社会面) 

2011/04/01 20:40

余震の中で新聞を作る9〜三陸の被災地へ ・3日目/恋し浜

  3月21日の朝、遠野から、大船渡市三陸町・綾里(りょうり)の北の入り江にある小石浜(こいしはま)に向かいました。
  「ホタテの養殖でがんばってきた浜なんです」と、前日に寄った綾里中学校の避難所で聞いたのがきっかけです。大津波で浜はどうなったのか。気がかりになっていました。
  
  地図では、綾里と岬を1つを隔てて隣の浜なのですが、車はどんどん山に入り、視界から海は消え、道は曲がりくねって険しさを増すばかり。「ルートを間違えたのでは」と不安になったころ、やっと難所を抜けたように再び海が見えました。「山峡の浜」という不思議な表現しか思い浮かびません。
  
  8メートルほどの防潮堤が海岸線を固め、小さな港には船も人影も見えません。水揚げ場・集出荷場と思われる大きな建物はコンクリートの骨組みだけになり、木材やプラスチックのかご、浮きなどが散乱しています。沖の湾内にも、さまざまな残骸が浮いています。
  小さな川と海を隔てる水門はぴたりと閉じ、防潮堤と一体になっていますが、津波はそれを楽々と越えたようでした。倉庫とおぼしき建物の2階から上が切り取られたような格好で、防潮堤に乗っていました。
  防潮堤の内側では、そこに立ち並んでいたのであろう倉庫や作業場のがれき、漁網、機械類などが、川に沿った谷間を埋めていました。
津波は500メートルほど上流までさかのぼったようです。

  目に付いたのが、連凧のように重なった網状のかご。通りかかった男性に聞くと、「おれはここの者じゃないけど、ホタテのことなら分かる」と言い、かごは稚貝を入れて海につるす「ゆりかご」のような道具だと分かりました。ホタテ養殖の里は大きな被害を受けていました。
  ただ、家々のほとんどは高台(海に迫った山の斜面)にあり、全半壊は水門に近い川沿いの数軒と見えました。住民たちはどうしたのでしょう。

                        ◇

  高台の一角に、小石浜公民館がありました。ベージュ色の新しい、ゆったりした建物。その前庭で、浜の親父たちが10人ばかり、まきストーブを囲んでいます。春は名のみの冷え込みの中、自分も輪に入りたくなります。
  「河北新報さん、来んのが遅いよ。道に迷ってたんでないがい」。どっと笑いが起きます。「集落長さん、いだがら、上がっていがい」

  集落の運営本部兼集会所兼合宿所であろう広い和室で、やはりゆったりとした語りの集落長、川原文夫さん(58)の話を聴きました。
  それによると、30世帯、100人余りの小石浜集落で、津波による家の被災が全壊8棟、半壊1棟、床上浸水3棟にとどまり、けが人もなし。町並みが壊滅した近隣の被災地を見てきた目には、全住民の無事は奇跡のようです。

  「家が壊れても壊れなくても、高い家も低い家も、みんな、すぐ公民館に集まる。そのように申し合わせ、訓練してきましたから」と川原さん。
  小石浜もやはり、明治28年、昭和8年の大津波、チリ地震津波を経験しました。最も大きかった明治の津波で、浜にあった集落が流され、多くの人が亡くなり、「川原の家も死に絶えて、親類から養子が来て夫婦になり、跡を継いだんでがす。それが、おれのじいさん、ばあさん」。以来、これを教訓に小石浜の人々は山の斜面に登るように家を建て、常に津波に備えてきたそうです。

  公民館の鍵を開け、いざ有事の指揮を執るのは集落長の役目。その川原さんは、その日(3月11日)午後2時46分ごろに起きた地震を、ホタテ収穫の船上で感じました。「船もぐらり揺れたんだよ。陸(おか)を見たら。山が真っ黄色になってる。風もないのに、杉の花粉が飛んだんだな。家も人もみんな無くなってしまったんじゃないか、と思って、海の上にいた仲間と一斉に戻ったんでがす」

  津波が来るまで、幸いに時間がありました。集落中の人が、あっという間に集まったそうです。80代の高齢者も21人いますが、多くは自分の足で、足腰が弱った人はお嫁さんの車に乗せられて。川原集落長は、津波が来る前に全住民の顔を確認できたといいます。
  その高齢者たちは、和室の1つを自分たちの気兼ねない部屋にもらい、どこかへ旅行に来たような和やかさで昔話をしていました。

   三陸には「津波てんでんこ」という言葉があります。津波が来たら、家族であろうと、まず、てんで(各自が銘々に)に逃げろ−という意味です。おそらく、明治の大津波の教訓でしょう。
  今回の被災地で共通して耳にしたのは、「とにかく身1つで、すぐに逃げた。忘れ物を取りに戻ったりした人は、のまれた」という話。明治29年と同じことが起きました。それが小石浜では誰も迷うことなく、最も弱い人たちをも守りながら、やり遂げたのでした。川原さんは、ちょっと自慢げにこう語りました。
  「ここの集落の人はみんな、(スクールバスが出る30年ほど前まで)隣の綾里の町まで山道を2時間、学校に通ったもんです。だから、みんな長距離走が得意で、綾里地区の11集落の対抗運動会では毎年1番だったんでがす。年を取っても健脚揃いのムラなんです」
     

                         ◇ 

  そこから、集落挙げてのサバイバルが始まりました。
  津波が引いた後、「ここは田舎で、陸では孤立しやすい所。救援の物資が届くのも遅れるだろう」と川原さんらは即、公民館を避難所に切り替え、住民たちが各自の家に戻って必要な物を持ち寄りました。
  石油やまきのストーブ、灯油、プロパンガスのボンベ、ろうそく、台所用品、米やみそ、しょうゆ、バター、パン、冷蔵庫の食材や野菜、布団、衣類、それに車…。漁村ですから、海の幸の蓄えもいっぱいあります。
 
  水道も途絶え、本来なら死活問題ですが、小石浜の人々は少しもあわてませんでした。水道が通る以前、集落の水源になっていた山のうまい水を再び生かそう−と男たちが、わき水を2カ所せき止めて公民館まで引きました。「きょうは“水引っ張り仕事”だ」と、協働作業に張り切って。「おれたちの昔の暮らしに戻ればよかったんだよ」と、川原さんは何ほどでもないように語りました。

  ちょうどお昼どき。女性たちの元気な声が、いいにおいと一緒に台所から流れてきます。避難所の食を一手に引き受ける、小石浜婦人部の20人余りのお母さんたちでした。
  「備えた食材を毎日チェックし、支援の食料も加え、健康と栄養のバランスも考えて、毎晩メニューを話し合います。冷蔵庫が使えないので、悪くなりそうなものを先に使って」。婦人部長の川原律子さん(57)らは、高齢者、子ども、男たち−の順に、じつにてきぱきと食事を用意し、自分たちは最後に、おしゃべりを楽しみながら。

  ちなみにこの日(21日)のメニューですが、 
(朝)ご飯、みそ汁(ふのり、豆腐、ねぎ)、以下は好みで−生卵(差し入れ)、納豆、焼き海苔、レタス+ミニトマトのサラダ、(高齢者に)キムチ漬
(昼)パン、カレーピラフ(大船渡の料理店からの差し入れカレーライスを使い、温めて)、バナナ半分、温かい牛乳
(夜)ご飯、みそ汁(寒ブリ、豆腐、大根、ねぎ)、タコ刺身、冷奴、キムチ漬、サラダ

  いかがでしょう? 大船渡市から救援物資が届いたのは津波から2日後で、当初は「おにぎりが1日1個だった」そうですから。

                        ◇

  公民館の別棟が、消防団の詰め所になっていました。小石浜青年部(佐々木淳部長)の10人が、男手の要る仕事、綾里の町での毎日の捜索作業の担い手になっていました。そこにお邪魔した時、5人いたメンバーの表情は少し沈んでいました。
  青年部は22歳から41歳。小さな浜の養殖ホタテを「全国に誇れる味と品質の特産品に育てよう」と、有志の研究会から始めて、8年前から独自の直販ブランドづくりに取り組んできました。
  冒頭に語られた『恋し浜』。小石浜の読みにしゃれた遊びを加えたネーミングです。青年部の人たちは、首都圏などで「ホタテ焼き」のイベントを目玉にした売り込みに歩き、三陸を代表する地域興しブランドに育ててきました。
  「津波が来る直前にも、杉並区や相模原や佐久、山形を回ってきたばかり。年々お客さんも増え、波に乗ってきたところなのに…」。統括担当の佐々木亨さん(41)は無念そうに語りました。
  
  今回の津波は小石浜から、養殖中の稚貝と出荷前のホタテを合わせて約1000万個と、養殖を生業とする住民の船約30艘を流し去りました。防潮堤の内側の川沿いにあった作業の小屋やテント、倉庫なども全壊しました。青年部のメンバーだけでなく、集落の家々の7割が養殖に携わっています。「この浜はホタテとともに生きてきた。住民すべてが被災者」とは川原集落長の言葉です。三陸のホタテ養殖の浜すべてに言えることで、北から南まで、その被害総額ははかりしれません。
  
  「みんな、2年分の収入を失った」という嘆きも聞きました。今回の取材で教わったことですが、ホタテ養殖は、収穫期である2年目の成貝と、次の年に収穫する稚貝を、同時に育てます。大変に手数の掛かる仕事だそうです。
  まず、稚貝を仕入れ、冒頭で見た「ゆりかご」に入れて海に垂らし、1年の成長の後、いったん引き揚げて「耳づり」という作業をします。これは、大きくなった貝の縁に機械で小さな穴を開け、75〜150メートルもあるロープにたくさんつり下げます。そのロープを150〜360本も作り、浮きを付けた別の長いロープに1本1本等間隔で結んで、再び海に垂らします。
  「『耳づり』は、5月いっぱい続く作業。収穫も朝3時に海に出ます。出荷をしてから、耳づりを夕方4時ごろまで。一番忙しい時期を、それぞれの家の夫婦の共同作業で乗り切るんですよ」と、婦人部長の川原さんは言いました。
 「でも、海に出るのも、陸(おか)の作業も決して孤独じゃなく、どこの夫婦も顔をそろえて、何かあると助け合います。作業場の一服のお茶も一緒の時間。そこで、暮らしやら子育てやら、いろんな悩み事も、楽しみの相談ごとも話して、みんな家族同然のつながりを何代も培ってきたんです」

                        ◇

  青年部のメンバーに、海の仕事を選んだ理由を質問してみました。東北のどこの浜も、水産業の後継者難は同じで、小石浜のように若手が担い手となって活動しているところは異例です。
  「隣近所のつきあいが濃くて、みんな1つの家族のよう。そんな中で生まれ育ったからね」と、佐々木さんは話しました。
  「おれは長男だけど、親から『跡を継げ』なんて言われたことはない。いいとか悪いとかでなく、『ここで海の仕事をするんだ』と自然に選んでいたな」
  ほかのメンバーも異口同音の感想でした。婦人部のお母さん方に尋ねてみても、「この時代、漁業を継げと言う人はいないよ。子どもの自由な選択に任せてるよね」、「家族の苦労も喜びも、いつもそばで見て育ったからじゃないかな」との答えでした。

  ここまで話を聴いてきて、小石浜の「協働」の精神、大きな家族のような絆が、少し分かってきたような気がしました。

   公民館の西側には、三陸鉄道の小さ駅舎があります。駅名が「恋し浜」。ホタテのブランドづくりと地域興しの活動で実現させた請願駅だそうです。ホームには、鳴らせば恋を呼ぶという金色の鐘があり、駅舎の中には、たくさんのホタテの貝殻がつり下がっていました。
  ざっと3000枚以上はあるでしょう。その1枚1枚に、相合い傘やカップルの似顔絵、恋や幸せを祈る言葉がかかれ、赤い糸ならぬ紅白のロープに飾られています。これらの「恋のメッセージ」の数々も、「恋し浜」ホタテのお客さんと同様、小石浜の人たちが結んだ縁(えにし)です。

  「津波の前に戻るには、10年は掛かるなあ。船も小屋もないところから個々人では無理。また協働作業で始めないと」
  佐々木さんはこう語っていましたが、小石浜の人々が育ててきた未来への財産は、大津波も奪い去ることはできませんでした。

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2011/03/30 06:10
余震の中で新聞を作る8〜三陸の被災地へ/終わらぬ問い

  田老の町はどうなったのか? 「万里の長城」と呼ばれた大防潮堤は大丈夫だったろうか?
  岩手の旧田老町は、報告してきた三陸の街々よりもさらに北にあり、平成の大合併後は宮古市田老。3月11日午後、東北・太平洋岸への大津波襲来を知ってっすぐ、頭をよぎった場所の1つでした。三陸の人々と大津波の関わり、歴史を語る上で、象徴的な名前であるからです。
  『三陸の被災地へ』の取材の報告をちょっと休め、気に掛かっていたことのささやかな検証を試みたいと思います。 

  私は1992年、『こころの伏流水 北の祈り』という連載の取材で、初めて田老を訪ね、世紀の変わり目の2000年、『時よ語れ 東北の20世紀』という連載(河北新報社刊)の取材班であらためて「万里の長城」と向き合いました。
  後者に載った「老漁師は忘れない、村を奪った大津波の記憶」という一章を紹介してみます(登場する人や年齢は当時)。

                      ◇

  『 2階の屋根より高い防潮堤が、町を二重にグルリと囲む。総延長2.4キロ。山側は密集した家々、海側は魚市場や浜納屋。港へ通じる道路には巨大な鉄の扉。三陸海岸の岩手県田老町は、コンクリートの壁に守られた要塞のような港町だ。

  早朝の壁の上で、防潮堤わきに住むという81歳の漁師に出会った。「ここから海を眺めれば、出漁できるかどうか一目で分かる。便利なもんさ」と言う。
  「昭和の大津波はひどかった。隣の海産物問屋、鳥居さん夫婦、向かいのたばこ屋、荒谷さんの8人家族、みな全滅だ。あん時の大波がこの高さぐらいあった」。海抜10メートルの壁は、1933年(昭和8年)3月3日未明、911人の命をのみ込んだ屏風(びょうぶ)のような「海の壁」の記憶に重なる。

  昨年12月1日、田老港はアワビ漁解禁に沸いていた。漁から帰った中島友吉さん(83)が、茶の間にどっかりと腰を下ろして語る。「海は飯のタネ。いくら怖くても離れられねえんだ」
  出稼ぎ漁師の子だった友吉さんは、高等小学校を出てすぐマグロ船の飯炊きになった。海の男になりかけの16歳を大津波が襲う。

  「寒い夜だった。おっきな地震があって丹前一枚、素足で山へ逃げた。大風が吹いて家が飛ばされ、後ろからかみつかれるような、大波の音がしてな」。ストーブに手をかざしながら友吉さんは昔語りを続ける。

  「仲良しの一級上の先輩が重い行李(こうり)を背負って逃げたため、飛んできた柱に当たって死んじまった。同級生も7、8人海に取られた」
  友吉さんの7人家族は助かった。1859人の犠牲とともに田老が壊滅した、1896年(明治29年)の大津波を経験した父安次郎さんが素早く避難させた。「明治の津波で、おやじは田老の浜で生き延びた36人の1人。裏山のケヤキに登って助かったんだと。『地震がきたら、あの木より上に逃げろ』と小さいころから教えられた」

  廃虚で、身一つのバラック住まいとなった友吉さんは父に訴えた。「おれ、こんなおっかねえどご、やんだ。海のねえどごさ行ぐべ」。だが、答えは素っ気なかった。「家屋敷もねえのに行がれねえ。そんな金どごさある。海がなかったら、おまんまの食い上げだ」

  大津波の後には、高台への集団移転、果ては村ぐるみの満州移住話まで出た。衆議の末、田老の人々は古里に住み続けるために長大な壁を築こうと決意する。
  国や県は「そんな前例はない」と相手にもしなかった。が、当時の関口松太郎村長は「計画を中止するは悔いを100年の後に残す」と事業を決定。村の年間予算の3分の1に当たる6万円を借り入れ、村人が土地を出し合い、津波の翌年から防潮堤の築造が始まった。
  恐怖の記憶を押し殺し、友吉さんは働いた。隣の宮古から船に乗ってマグロ流し網漁で稼ぎ、「市場から優勝旗をもらったほどだ。兄貴と2人、1年で間口四間半の家を建てた」。戦後は遠洋船の船長兼漁労長となり、北洋のサケ・マス漁、八丈島沖のマグロ漁へ。

  「1年の大半は、わたしと長男、長女の3人家族。この辺の漁師の家はみんなそう」。茶とミカンを勧めながら、妻サキさん(78)が語る。「地震の時は心細かった。何も持たず、子どもたちの手を引いて山へ走った。洞穴に避難所をつくって何度、夜を明かしたか」
  友吉さんも言う。「漁から帰るたびに、毎年、毎年防潮堤が長くなっていった。ありがてえ、と思ったよ。船の上からは家族を助けようがない。あの壁はおれに代わって妻と子を守ってくれていた。心の支えだ」
  防潮堤は戦争の中断を挟んで4期にわたって建設された。被害はなかったものの、チリ地震津波(1960年)後は壁が二重になり、完成したのは78年。着工から実に44年後である。

  友吉さんは今、春はワカメ、夏はウニ、冬はアワビの沿岸漁業で暮らし、毎日、壁をくぐって港に出る。
 「最近、仙台にいる長男が『家を継ぐ』と言い出してね。うれしい限りだが、複雑でもある。ここに住んだら子孫がまた津波に遭う。だから、これを作った」
  こう言って差し出したのは1本のカセットテープ。「防潮堤があっても、津波はいつか乗り越えて来る。明治の大津波はあの壁より高かった。おやじから何遍も聞かされた大津波の話、おれの津波体験談、田老で生きるすべを吹き込んだ。これは子孫たちへの遺言だ」
  北洋のサケ・マス漁で乗った船がしけで沈没し、部下の若者8人を失ったこともある。数え切れない死を見つめた老漁師は、壁の向こうに広がる静かで豊かな海に、恐れを忘れない。心にも壁を築いた時、大津波はまたやって来るという。 』

                       ◇

  そして、今回の大津波。2011年3月17日付の朝刊に、若い世代の同僚記者が報告しました。読んでみましょう。

 『 東日本大震災/“要塞”地域守れず/防潮堤崩壊、漂う無力感/宮古・田老

  昭和三陸津波(1933年)で岩手県内の市町村で最多の死者・行方不明者911人を出した田老村(現宮古市田老地区)が、東日本大震災でも多くの犠牲者を出した。津波防災への意識の高さを象徴する大規模な防潮堤も、被害を食い止めることはできなかった。

  コンクリートの要塞が張り巡らされた田老地区。二重に築いた防潮堤のうち、残った陸側の防潮堤の内側で今、無数の家屋が倒壊している。
  「こんなに大きい津波は初めてだ。防潮堤が地域を守ってくれると思ったが」。被災した漁業小林満雄さん(77)がため息交じりにつぶやく。

  地区では1896年の三陸津波でも1859人(不明者含む)が犠牲になった。昭和三陸地震の大津波も経験し、世界に類を見ない防潮堤を築造した。高さは海側と陸側それぞれ10メートル、合計の総延長は2.4キロに及ぶ。
 しかし今回、海側の防潮堤は崩壊。60年のチリ地震津波の被害を最小限に食い止めた陸地側の防潮堤(高さ10メートル)も、乗り越えられてしまった。

 「津波は二重の防潮堤をあっさり越えた。考えられない」。宮古市田老総合事務所の上屋敷正明所長が言う。過去の教訓から田老地区は防災意識が高く、2003年には「津波防災の町」を宣言。避難訓練も定期的に実施してきた。

 「できる限りの対策を講じてきたが、自然の前で人間は無力だった。今はもう、どうしたらいいか分からない」。上屋敷所長のうつろな表情が、衝撃の大きさを物語る。 』

                      ◇

  同じ日の朝刊にもう1つ、地元の人の思いを通しての記事を、別の記者が書いていました。

  『 東日本大震災/悪夢再来に無力感/昭和三陸津波体験、紙芝居で伝え30年宮古・田老

 宮古市田老地区を中心に30年間、自作の紙芝居で小中学生への津波防災啓発活動を続けてきた田畑ヨシさん(86)は今、自然の猛威の前で無力感を味わっている。

  田畑さんは1933年、旧岩手県田老町で911人の死者・行方不明者が出た昭和三陸津波を8歳で体験した。生き残った者として「語り継ぐ教訓こそが住民を津波から守ってくれる」と信じ、50代後半から小中学校で紙芝居を上演してきた。
  あの惨劇から78年。変わり果てたわが街の姿を目の当たりにし、「昭和三陸大津波の時よりもひどい。みんな助かってくれるといいんだが…」と立ちつくす。

  田老では高さ10メートル、総延長2433メートルの防潮堤を越えて津波が押し寄せ、国道45号沿いの商店街や住宅地は跡形もなくなった。田畑さんは自宅近くの高台にある妹(81)の家に避難。自宅は流れてきた家屋に押しつぶされ、逃げ遅れた近所の人も多かったという。

  田老では自衛隊や消防が行方不明者の捜索に当たっているが、町全体ががれきの山と化して作業は難航している。「生きてる間にこんな悲惨な津波を2度も経験するとは思わなかった」。田畑さんは悲痛な表情で語った。 』

                         ◇

  2本の記事によれば、明治、昭和に続く「平成の大津波」に、田老の人々が訴えるものは「無力感」でした。
  最初の田老取材で私が驚いたのは、44年を掛けて築かれた「万里の長城」の威容そのものよりも、防潮堤の端に当たる山の岩壁にペンキで太々と記されたもの。
  高さはおよそ20メートルはありました。明治29年には、ここまで大津波が押し寄せた、それを忘れまい、という記憶の刻印です。
  『時よ語れ』で老漁師は、こう語っていました。「防潮堤があっても、津波はいつか乗り越えて来る。明治の大津波はあの壁より高かった」
  どれほど営々と壁を築いても、その懸念は消えなかったのでしょう。

  事実、岩手から宮城にかけての三陸沿岸では、現在の防潮堤の備えは「チリ地震津波(高さ5〜6メートル)」を想定していた−という話をあちこちで聞きました。

  1992年当時の取材ノートを読み直すと、地元の古老たちのこんな話も記されていました(要約)。
  「町の人々は、明治29年から数えて33年目までは、大津波の再来をひどく恐れ続けた。犠牲者の弔い上げの年数であり、その間は忘れなかった。しかし、昭和の大津波は38年してやって来た」
  「昭和の大津波の後、高台に町を移そう、という話が持ち上がり、家が建てられた。しかし、高台では漁をするのに遠く、不便になった。家並みは再び浜に戻った。これは、どこの町でも起きたことだ」
  なぜ、そうさせたのか。それは、三陸の海のあまりの豊かさからでした。

  昭和8年の大津波の翌年、東北は、3年続くことになる「昭和の大凶作」に襲われました。小作が大半だった東北の農村からは、娘たちが遊郭に売られてゆき、若者は兵隊、そして多くの家族が旧満州や南洋諸島の開拓に旅立ちました。しかし、三陸は海の幸で「飢饉知らず」といわれたそうです。  

  やはり大津波に被災した気仙沼市近郊の浜の町に、私のおじの一家がいます。幸いに無事でしたが、「被災した人たちは、もう浜には住めない、高いところに移らねばと語り合っている」と、ようやくつながった電話で言いました。
  
  30日付の河北新報朝刊の記事によると、陸前高田市では、広田半島という岬を挟んだ2つの湾に入った津波が、陸地で合流して3キロ離れた湾同士をつなぎ、半島を一時分断したそうです。高さ10メートル前後の津波がぶつかって巨大な水しぶきが上がった、との証言が紹介されていました。「水合(みずあい)」と呼ばれた明治の大津波以来の現象といいます。
  しかし、明治の大津波からは100年あまり。それを生きた体験として記憶する人も現実には数えるほどでしょう。昭和の大津波からも70年あまりが過ぎました。

  平成の大津波は、その実態も、被災状況もまだまだ分かっていません。これを、地元の人々は、記者たちはどう記録し、検証し、伝えてゆくのか。そして、悲劇と恐怖を乗り越え、三陸にどう暮らし続けてゆくか。明治以来終わらぬ問いが、また受け継がれてゆきます。

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 (2000年2月23日付 連載『時よ語れ 東北の20世紀』より)



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 (2011年3月17日付朝刊より)

余震の中で新聞を作る7〜三陸の被災地へ ・2日目/綾里

  バリバリバリバリ・・。耳をつんざく大音響と振動が空から落ちてきました。「来た、来た」。体育館から、男たちが外に駆け出します。

  第6回で紹介した陸前高田の取材(3月20日)からの帰り道の夕刻、北の大船渡市綾里(りょうり・旧三陸町)にある綾里中学校の避難所に立ち寄った時でした。
  大音量に続いて、すさまじい土ぼこりが、それこそ津波のように四方を襲います。無数の砂粒が、顔や手に砂粒が刺さるように痛い。空から降りてきたものは、暗緑色の米軍ヘリでした。

  被災地支援で米海軍・第7艦隊が三陸沖にいる、と報じられていました。「きょう、これで11回目だ」と、避難所で暮らす高齢者の男性。数えていたのでしょうか。
  メインローターをぶるぶる回しながら校庭に駐まったヘリの前に、男たちの輪ができ、降り立つ者を待ちます。映画「未知との遭遇」の母船着陸の場面を思い出しました。

                       ◇

  ヘリの横腹が空いて、同じ色の服を着たパイロットが2人現れ(ベテランと若手らしい)、積み荷のダンボール箱を次々と男たちに手渡します。20人ほど並びましだが、それが2回転しても荷運びは終わらりません。
  やがて一仕事終えたパイロットたちは、1枚の紙を、避難所に詰める市職員に示しました。何をしゃべっているのか、騒音で聞こえませんが、荷物のリストらしい。市職員は親指を立て、先方も同じ仕草で応えます。なるほど、最前線で余計な言葉はいらないのです。
  ヘリの操縦は大変な緊張があるのか、パイロットたちはストレッチ運動を始め、そのうちに若手が同僚の写真部記者を見つけると、ポケットからケータイを取り出しました。「撮ってくれ」と、市職員を間に挟んでポーズ。田舎の親か彼女に送るのでしょうか。普通のにいちゃんの顔でした。
  ほどなくヘリは、沖合の空母「ロナルド・レーガン」に向けて飛び立ちました。「これで、きょう5、6回目(の物資到着)ですかねえ」と市職員。あれ、回数が違うなぁ。
  
  体育館で、運ばれた物資の山をながめました。当然ながら、すべて横文字。水(24本×56箱)、女の子の服、婦人服、子供服、男の下着、シェイバー、タオル、食パン、ケロッグのシリアル、(米国の)インスタントラーメン、チョコバー、パスタ、缶詰類、冷凍のチキン・・。
  さすが古今変わらぬ物量です。ただ、用途不明だったのは、ローリングスのグラブのような革製品でひざのパットみたいな形のもの。そこにいた誰も分からりませんでした。
  「でも、おかげさまで物は十分足りるくらいになりました」と、支援物資の担当者。「きょう、7、8回も来てくれましたから」。
  あれれ、また回数が違いました。とにかく、数え切れないくらい飛んできてくれた、ということ。
  
  おそらく敗戦後の時代以来の「米兵との遭遇」でしょうか。「29センチの靴下は履けないよね」「歯ブラシが大きすぎ」「私たちには子ども用で十分」・・といった声はあるものの、それも久しぶりの笑い話になっていました。空からの支援は、陸路が険しい三陸の被災地を大いに助けました。

                        ◇
  
  「あれ、まあ!」。綾里中学校の避難所受付に、知り合いの顔がありました。吉川伸子さん(53)。地元の小学校教諭で、元高校校長の夫がいる内陸の北上市と往復しながら、私も取材のご縁がある同市内の乳がん患者・体験者グループ「びわの会」(高橋みよ子代表)のメンバーとして活動している人です。

  吉川さんは3月11日、休みで来ていた大学生の娘さんを車に乗せ、綾里から北上市に向けて出発して間もなく、路上で大地震と津波を知りました。アワビやウニの漁を営むご両親が綾里地区の浜に暮らしています。「戻ろうか・・。どうするか・・」と、おそらく一瞬にして究極の苦悩を味わいました。

  ここに住む誰もが、生と死の境をくぐった話を持っています。この地方の人は皆、明治29年、昭和8年の大津波で浜の町々、村々が壊滅した話を身内の体験談として聞かされています。「いま戻ろうとしても、道はもう途絶えているに違いない」と、まずはいったん北上市に娘さんを送って、必要な品を整えて救援に引き返すことを決断しました。
  ご両親は、津波で舟を流されたけれど、幸いに無事でした。3月で学校を辞めるつもりだったといい、「このまま古里復興のための仕事をします」と彼女は語りました。

                         ◇

  明治、昭和の大津波の言い伝えの通り、綾里湾から山の谷間の平地に沿って延びる町は、ほとんどが津波に潰されていました。そこから夕暮れの国道を、遠野にある後方基地の宿へと向かいました。
  北上山地は、標高が1000メートル級ですが、東西南北、これほど懐の奥深い山々はありません。
  車社会以前の昔は、釜石など三陸沿岸の魚や塩を積んだ牛馬、行商の人々が険しい峠道をいくつも越えて内陸との間を往来し、例えば岩手県北には「塩の道」(野田村〜盛岡)も残っています。
  北上山中の盆地の遠野などは中継の宿場となって栄え、さまざまな人が旅の夜話を持ち込みました。苦労話、笑い話、不思議な話、恐ろしい話・・。あの「遠野物語」の原型である「語り」(口承文芸)も、そうして培われたものといわれます。
  
  北上山中の峠の深い闇を越えて、やがて遠野の盆地に入ると、国道脇の店には明かりが付き、商品が並び、食べ物屋のネオンがありました。温かい食事を選べ、風呂があり、柔らかな布団があり、テレビで東京の政府関係者や学者やコメンテーターがしゃべっている世界−。果たして、これは現実なのだろうか? そんな頭痛のような違和感につきまとわれ、罪悪感を覚えることもありました。

  被災地の声をどう伝え、つなぐか。吉川さんのように私たちも、何度でも「峠」を越えてゆかねばなりません。    

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津波で被災した綾里の町=3月20日夕、綾里中から

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支援を待つ住民が見守る中、綾里中の校庭に着陸した米軍ヘリ

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任務を果たし、記念撮影に収まるパイロットたち

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綾里中の避難所に運ばれたメイドインUSAの支援品の数々

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綾里中の避難所で再会した、ボランティアの吉川さん

2011/03/24 21:24

余震の中で新聞を作る6〜三陸の被災地へ ・2日目/陸前高田

  24日(木)の河北新報朝刊のトップは、「東北自動車道 きょう全面再開」の大見出しでした。被災地や東北各地への物流を妨げていた緊急車両優先が解かれます。22日付1面には、塩釜港が復旧して震災後初めてのタンカーが入港した写真がありました。私たちの体と血流の関係と同様、ようやく海と陸の大動脈が再生へとこぎけました。
  仙台をはじめ街々にはタンク・ローリー車が目立つようになりましたが、ガソリンスタンド前にはまだまだ長い車列は続いています。

  さて、岩手・三陸の被災地取材の2日目(3月20日)は、陸前高田市に向かいました。
  県境を挟んだ宮城・気仙沼から陸前高田、大船渡(旧三陸町も含む)を、こちらでは「気仙地方」といいます。三陸でも特に温暖で、風光明媚な浜の景色、冬も明るい日差し、そして椿の名所で知られ、人柄も穏やかでおおらか、といわれています。それもこれも海の豊かさのゆえん、と思います。その三陸をことごとく、大津波は襲いました。

  この日も、後方基地としている遠野の宿を朝早く出発。北上山地を越えて陸前高田に近づくにつれて、街へと流れる気仙川の上流の風景はおびただしい木材、がれきに埋め尽くされました。
  震災発生翌日の光景を、記者はこう報じました(3月13日付朝刊)
  「(中心部から)気仙川沿いに1キロほど上流の市竹駒集落にも、津波は容赦なく押し寄せた。約180世帯が暮らした家並みは泥とがれきの山に。『地震の揺れ始めから30分もたたないうちに、濁流が襲ってきた。こんな上流まで津波が来るなんて想像したこともなかった』。地区の消防団員は顔をゆがめた」
  河口から、大津波が川を上る勢いがいかにすさまじかったか。息をのむばかりでした。

                         ◇

  車は消防隊の集結地を経て、市街地の手前の丘陵にある陸前高田市一中に立ち寄りました。ここは、1200人を越える被災者が暮らす大きな避難所です。
  校庭にはクレーン車や資材運搬のトラックが集まり、仮設住宅の建築を急ピッチで進めています。まず20戸を手始めに順次、200戸(2DKが中心)を目標にしているそうです。校舎前には自衛隊の給水車や救急車が並んでいます。
  玄関を入ると、校舎内には赤十字の診療室、治療室、歯科、感染症の隔離室、幼児の遊び部屋、就学前児と家族の部屋、小学生や中学生の食事部屋、高齢者の部屋などがきめ細かく配され、小さな町のようです。
  被災者が暮らすのは体育館。広い床にはマットや布団が敷かれ、家族ごとに数メートル四方のたくさんの「家」となっています。ですから、体育館にはスリッパを脱いで入ります。
  消息を求めたり、知ったりし、差し入れを届けたり、毎日大勢の訪問客があります。その意味でも、避難所は「町」なのです。スリッパを脱ぐのを忘れ、「こら、そこは畳(と同じ)なんだぞ」と、おこられる訪問者もいました。私もここで、ある被災者を訪ねてお話を聴きました。 

  一中の避難所では対策本部定例の記者発表もあり、毎日の予定や動き、変化を知らせてくれます。そこからニュースや情報が伝えられるのです。
  この朝の出来事は、インフルエンザの発生でした。この時点で、2人の被災者がA型、B型と確認され、別室に移されて医療班の治療を受けている、とのことでした。
  この集団生活の中で流行を防ぐのは、うがい、手洗い、とマスク着用しかありません。「マスクの備蓄は十分」とのことでした。

  入所する被災者からも要望が出されています。「遺体安置所に身内を捜しにいくためのガソリンがない」、「お風呂に入りたい」といった切実なものです。2年前の岩手・宮城内陸地震で活躍した自衛隊の入浴設備は、なかなか手配がつきません。被災地があまりに多いためです。
  支援物資は、道路環境の改善とともに外からの支援の品が届き始め、「現状は足りている」との話。食事も、在宅の被災者も含めて、実際には1600〜1700食を供給しているそうです。
ただ、対策本部の担当者は「入所者は日々増えており、1300人が限度。また、高齢者が多いことから「医療、介護のマンパワーが足りない」
と、悩みを訴えていました。

                       ◇

  避難所を後にした車は、市街地に入ります。いや、3月11日まで市街地があったところ、と言い換えるべき惨状でした。
  釜石や大船渡と地形が少し異なり、陸前高田の中心部は海に向かって拓かれた平地です。浜には防波堤があり、昭和20年代から、防風防潮のための松が延々と植えられました。いつのころからか「高田松原」という名勝にもなりました。大津波はそれらのはるか上を越え、なぎ倒し、平地の中心部の大半をのみ込みました。
  ですから、高台がある他の街のように難を逃れ得る場所は少なかったのです。木造で残った家は見当たらず、コンクリートの3、4階の建物だけが廃墟のように立っています。

  市役所も流されました。河北新報はこう報じました(3月16日付朝刊)。
  「約5000世帯が水没した陸前高田市。避難所58カ所のうち、市立体育館など大規模な場所を含む数カ所が津波で破壊された。同市高田町の主婦は『長男は市立体育館に避難していた。安全と思っていた場所で被災するとは、やりきれない』と肩を落とした。
 支援や救助の拠点となる市役所、市消防本部も津波にさらわれた。家族構成を管理する住民基本台帳のデータは得られない。誰がいなくなったのか、誰が市民なのか。全く把握できていない」
その後、25日付朝刊に載った東北の被災状況(同日までの本紙集計)によると、陸前高田市は死亡者875人、行方不明者1587人、避難者12973人ー。

  1本、高い塔が見えました。近くで人に聞くと、しょうゆの醸造屋さんたったそうです。「味にも材料にもこだわりのある手造りの店で、しょうゆ1本でも配達してくれた。ほんとうに地元の良心的な店だった」と。めちゃめちゃに醸造所や事務所は崩れ、樽がいくつも道に転がっていました。店の人々は無事だったでしょうか。
  高い屋根に2つのドームが載った、メルヘンチックであったろうビルも見えました。最上部を除いて、ビルは内部の鉄骨がむき出しとなり、布のようなものが無数に垂れ下がっています。「ここはケーキの店だった。若旦那が頑張っていたのに」と語る人もいました。

  所によっては背丈以上に積もったがれきの街には、警視庁のチームが長い棒を持ってあちこち捜索に入り、家のあった場所を探す家族連れも行き交っていました。道端で目に付くのは、アルバムです。子どもの成長を取り巻く一家の顔、顔。そんな「幸せの記録」が、ある日を境に途絶える。こちらが耐えきれなくなり、道端にそっと返しました。無事を祈りながら。

                       ◇

  春先の暖かい風が昼過ぎまで吹く日でした。そのたびに、がれきが撤去された道からは、津波が置いていった大量の砂が舞い上がります。コンタクトレンズをしていたら、目を開いていられなかったでしょう。マスクを持ってくるべきだった、と後悔しました。    

  そんな風の音が、突然かき消され、耳をつんざくような音量で演歌が流れました。
  「しらかば〜 あおぞ〜ら み〜な〜み〜か〜ぜ〜」
  「北国の春」です。ああ、と思い出しました。陸前高田は、歌手・千昌夫さんのご当地。 現実感のバランスを危うく失いそうになった後に、これまた突然、市の広報無線が「給水所のお知らせです」。
  「北国の春」は、そのテーマソングだったのです。「その日」を境にしてなお変わらぬものもあることに、不思議な思いがしました。

  大勢の人が駆け上り、津波を逃れたという本丸公園(こんもりと高い城跡)の方へ歩きました。やはり建物が流れた、少し高い石垣に立つと、海が見えました。視界を遮るものはありません。何ごとも忘れたように穏やかな海がありました。
  ふと足下の、何か緑色のものが目に入りました。近寄ると、それは、いくつも伸びたスイセンの芽です。大津波の潮にもまれ、砂をかぶっても、生きようとする命の色でした。
 
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2011/03/22 19:45

余震の中で新聞を作る5〜三陸の被災地へ/大船渡

  3・11大震災の発生から11日が過ぎ(22日に書いています)、この数日間でも、先に紹介した石巻市で倒壊し流された家から80歳の祖母と16歳の孫が9日ぶりに救出される、というニュースがありました。これまでの死者数が8500人に迫る中での奇跡を、河北新報は1面と社会面(末面)を見開きにして報じました。
  同僚たちにも、行方不明だった郷里の両親の無事が、あるいは身内の遺体が確認された、という悲喜こもごもの表情が交錯します。

  大津波被災地の取材で19日から3日間、三陸沿岸の岩手県側を歩きました。
  取材班の車に同情し、早朝5時に仙台を出発。岩手内陸の遠野市から「遠野物語」でも名高い仙人峠を経、懐深い北上山地を越えて沿岸の釜石市を目指します。
  
 ラグビー新日鉄釜石の栄光の記憶が刻まれた釜石は、山々の切れ目からウナギの寝床のように海に延びる街です。車窓の外には初め、一軒平穏な住民生活の風景が流れていきますが、新日鉄の巨大な施設群を過ぎると相貌は一変。釜石港に面した低地の家々はなぎ倒され、廃墟のようになっています。
 被災地と背後の街と、どちらが現実なのか、分かりませんでした。

                      ◇

 沿岸を貫く国道45号線に出て南下すると、緑の山と青い海がフィヨルドのように入り組んだリアス式海岸の道です。沿道の焼きホタテの店がふだんの取材の楽しみなのですが、深い入り江ごとにある漁村や町はほとんどすべて、跡形ないほどに破壊されています。
 途中、美しい浜のある越喜来(おっきらい・大船渡市三陸町)という町に寄りました。やはり、浜まで視界を遮るものがないほど、家という家がなくなっていました。
  四角い小さな箱のような建物と、7、8人の男たちが見えました。何をしているのか尋ねると、この地方の金融機関の支店が流され、頑丈な金庫だけが残ったのだそうです。とにかく物騒だということで中身の改修に当たっているのですが、「なかなか開かなくて格闘している」とのこと。

 越喜来では、海岸から約800メートル奥の特別養護老人ホームも津波に襲われ、30数人の入所者が亡くなりました。自ら逃げることができない人々をどう守るか、という痛ましい教訓を残しました。施設の向かいにある倉庫らしき建物(3階建てほどの高さ)の屋根に船が1そう乗っていましたので、津波の高さも想像できました。

 その一方、浜にほど近い小学校の児童たちが1人も欠けることなく津波から避難したそうです。地震が起きたのは、どの教室でも「先生、さようなら」と下校の挨拶をしていたさなか。数日前には津波に備えた避難訓練をしたばかり。「それで、みんな助かったんだ。もしも下校時刻を過ぎていたら、と思うと・・」と地元の人は語っていました。
 
                      ◇

 車はさらに南下して大船渡の市街に入りました。深く切れ込んだ湾と三陸の豊かな資源に恵まれた、天然の良港から発展した街です。
 港に近づくにつれて、国道脇のがれきの山はどんどん高くなってゆきます。車を少し高台に止めて、被災した地域に入りました。
 足の踏み場なく、ところどころ釘も飛び出すがれきを避け、電車が来ることのないJR大船渡線のレールの枕木を歩きました。下の砂利は激しくさらわれています。ひっくり返った船の底に、もう1そうの船が乗っていました。水産関係の施設や工場、食堂、店などはすべて、腹をえぐり取られたように空っぽ。骨組みだけになったアパートには無数の衣類や生活用品が垂れ下がっていました。水があふれた水槽には、腹を上にして浮いた魚の群れ。 

  呆然としていると、突然、年配の男女から声を掛けられました。「位牌を探しに来たんです」と言います。漁港近くに住む70代の男性が最近孤独死し、その位牌だけが家を守っていたそうです。津波で家は大破。探しに来たのは友人で、「首都圏にいる親族には連絡が取れず、そのままにはしておけなかった。お寺に預かってもらうんだ」。2人の手のビニール袋には、真新しい金色の位牌と遺影が収まっていました。
  同僚の記者も、位牌探しをする人に会ったそうです。私の郷里(福島の相馬というところ)も含めて、田舎はどこも、高齢者たちが支え合って暮らしています。いつなりとも「無縁」社会へとつながるところに。そうした地域を、津波は直撃したともいえます。

 位牌ではなく別のものをレール脇で探している、3人の友人らしき高齢者にも会いました。1階が消え、2階だけが残った家で「耐火金庫を開けたいんだけど、開かないんだ。鍵もなくて」と、主の男性。「津波でもびくともしなかったんだから、開かないさ」と、もう1人。
 最後の1人は「うちの耐火金庫は、流された家と一緒に川に落ちたんだ。でも、重くて引き上げられない。まあ、誰も持って行けないが」と応じました。「いくら入ってるんだ?」との問いに、「ウン千万円しか入ってないので、捨ててしまおう」と大笑い。「ホラ話でもしなきゃ、笑えないよ」

  やがて、レールはどこかへ消えたように途絶えました。

                         ◇

  「生の世界」へ連れ戻してくれたのは、釜石と同じように高台に残った街の国道脇で聞いた、3人の女の子の声でした。
  「格安だよ—、寄って見ておいで、買わないと損だよ—!」
 ある海鮮料理店の前で、なにやら直売市が開かれていたのです。女性たちの人だかりができています。大きな露台の上は、いずれも密封で40センチはあるかというベニザケやホタテ、冷凍の生エビや手長エビ、海草類や海苔などなど、盛りだくさん。それが、100円、200円の値で、飛ぶように売れていました。

  「港の冷凍倉庫が津波に遭い、扉が少し壊れて、電気も止まってしまった。このままでは商品をすべて捨てることになる。日々の食べ物にも困る市民に安く分けたいんです」と、水産物卸会社の若い専務は語りました。
 元気な声で客引きをしていたのは、娘さん3人と友人だそうです。奥さん、おばあちゃんも売り子になり、軽トラックいっぱいの商品を総出でさばいていました。
  「沿岸の養殖も船も津波でほとんど全滅。水揚げする市場もなくなり、再生に何年かかるか。でも、私たちもきょう、明日を生きるところから始めないとね」
 
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 大船渡市内の被災地

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 大船渡市内

2011/03/18 22:10

余震の中で新聞を作る4〜雪の被災地を歩く・2日目/石巻

  震災の被災地・石巻市での2日目(3月17日)も、底冷えのする雪模様でした。津波の被害が大きい北上川右岸の湊(みなと)地区へ、中瀬(なかぜ)を通る内海橋を、この日も渡ります。

  『余震の中で新聞を作る3』の4枚目の写真に、橋が映っています。左岸(中心商店街側)の渡り口は、津波で橋に観光船と桟橋が乗り上げています。山の鎖場を上るように順番待ちで桟橋をよじ登り、船の客席部分を通って、窓から折りたたみばしごを下りる、という不思議な状態です。その先を別な大きなヨットがふさぎ、まるで冒険映画の場面のようです。
  降り積もった雪に足を滑らせながら、女性には手をさしのべながら、人々は黙々と橋上の座礁船を越えてゆきます。

  前回のブログで紹介した、石巻の老舗映画館「岡田劇場」の前をまた通ると、唯一残った入り口の部分の窓に、数枚の張り紙がありました。
  「岡田劇場 ○○○○(支配人一家)の安否教えてください。知ってること何でもいいです」
  もう1枚、別の張り紙には、「岡田劇場 ○○ 無事 ◇◇におります」
  ほーっと、ため息が出ました。よかった。取材でお世話になった方々の無事が確認できたのです。
  その足で、避難先と思われた場所を訪ね、ご本人にお目に掛かることができました。対岸の湊地区にある自宅で津波にのまれ、九死に一生を得たそうです。いまだ不明の身内がおられ、探し歩いている、と語っていました。

                        ◇
 
  繁盛を誇った昔の石巻漁港があった湊地区(漁港は石巻新港に移転)は、今は水産加工会社が大手だけで30社ほども立ち並ぶ街です。しかし、津波は多くの工場の1階部分を水没させ、そこで働く人の1人は「操業再開まで1年かかるかもしれない」と話していました。
  
  がれきとなった家々の光景は前日とそのままでしたが、たった1日で変わったのは、道路(国道398号線など)を覆っていた津波の泥や木っ端が取り払われ、車が往来するようになったことです。住民のお話では、朝までに建設会社の車両がそれらを一掃したそうです。
  目立ったのは自衛隊(第6師団・東根市神町など)の車です。道路清掃の後、大型トラック3台が走り抜けたそうですが、午後になって、500人が暮らす地元・湊小学校の避難所に、ラーメン4000食、水数トンが届けられたと聞きました。

  被災以来、避難所で午前10時の食糧配給を受けている地元の住民20人の自主防災グループによると、それまでは1人あたりの1日分の食料が握り飯一個、水は500ミリのペットボトル3本の日もあったといい、食料も水も不足する中での苦しい避難所運営が続いていたようです。
  「厳しい寒さに燃料不足、楽しみであるはずのご飯も、冷たい握り飯一個では、被災者の心身の疲れも増す。しかし、道路事情が改善することで、いよいよ物が流れ出した」と、グループは喜んでいました。

  きょう18日の河北新報朝刊の1面には、「仙台港に救援物資 燃料受給、緩和へ 仙台空港も利用再開」という大見出しと、仙台港の貨物船から「食材」と書かれた箱が次々と陸揚げされる写真が載りました。これらが被災地へと運ばれるのです。
  仙台港で津波被害を受けた製油所も18日朝から灯油、軽油の供給を再開する−と宮城県から発表されました。
  給油所前に車の長い列を生んでいるガソリン不足も、西日本から海路、まず被災地から順に運ばれるそうです。救援活動や物流、私たちの仕事や暮らしの「血」であるガソリンの不足(まるで貧血状態のようだった)も、ようやく解消に向かうと期待できそうです。

                         ◇

  物の流れだけではありません。たった1日で、道に人の姿も増えました。
  内海橋のたもとでは、津波で流されずに残った自分の車に戻り、エンジンを掛けたり、貴重なガソリンを取り出したりする人がいました。
  歩きやすくなった道を、リュックを背負った人が三々五々行き交い、立ち止まって情報交換をする場面もあちこちで目にしました。

  道端でたき火に大勢の人が集い、語り合っている風景もありました。泥とがれきの暗いモノトーンの世界に、1点、赤々と燃えるたき火は、凍り付いた人の心も溶かしてくれます。暮らしにあふれた色が奪い尽くされた異常な世界から、人のぬくもりのある世界へ、導いてくれる灯火のように見えました。

  無人の廃墟のようだった商店街にも人が戻り、津波の泥をかき出したり、汚れた物を外に片付けたりする店が目に付きました。
  ある料理店では、お昼時にそうじの手を休め、店の人たちが七輪で鍋をつついていました。その湯気と笑顔で、こちらの胸まで温まるようでした。

  石巻市内だけで行方不明者は1万人以上とされ、取材して歩いた先々で身内を捜す人がいました。また、震災発生から1週間して変わり果てた姿の肉親や同僚に再会したという人もいました。
  港町を覆った暗い影と、ほのかな明かりが、この日の冷たい雪とせめぎあう、やがての春に重なるように思えました  
  
  そして18日、東北の長い長い1週間が過ぎました。

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2011/03/17 03:00

余震の中で新聞を作る3〜雪の被災地を歩く/石巻

  震災6日目の16日朝7時、若い同僚の記者たちと車で仙台の本社を出発。三陸の南の玄関口に当たる石巻市へ向かいました。
  人口16万人余り、北上川河口にあって往年の大漁港、仙台藩時代は江戸への米の積み出し港として栄えました。この街も、大津波に襲われたのです。
  高速の三陸道は緊急車両専用となり、雪に染まった国道、県道を北へ走ります。3月半ばとは思えぬほどの寒さでした。

  およそ1時間半。街に入るや、のどかな風景は一変します。道の両脇にがれきが目立ち始め、散乱する材木、ガラスが破れ黒く汚れた店々、あらゆる格好で転がる自動車が目を奪っていきます。商店街は、シャッターがへしげ、中はめちゃめちゃに壊れ、あらゆる商品は影も形もなくなっています。
  北上川をあふれさせた津波の水が、2、3日前にようやく引き、道路を覆ったがれきや泥を、黙々と住民たちが片付けています。海の底のにおいがする粘っこい泥です。
  中心部のある石巻総局にも津波は押し寄せ、1階に深々と浸水。総局にいた同僚たちは3階に逃れ、また津波に追われて避難した住民約50人を迎え入れました。
  電気、水はもちろん、電話も通じない状態で本社との連絡もつかず、水やがれきが姿を消してようやく、支援の食料などが届けられました。総局の同僚たちは疲れも見せずに動き始めており、私もここを出発点に、被災した街に歩き出しました。

                    ◇

  まず目指したのが、中瀬(なかぜ)と呼ばれる所。その名の通り、雄大な北上川の河口近くに昔からある大きな中州で、魚問屋や芝居小屋、料理屋などが軒を連ねた、海の男たちの一大繁華街でした。
  故石ノ森章太郎さん(登米市/宮城県旧中田町出身)も少年時代に自転車で通った、岡田劇場という映画館がありました。江戸時代の芝居小屋に始まり、大衆演芸のスターたちも舞台に立った古き良き映画館。
  水産の街の盛衰と重ねて、『時よ語れ 東北の20世紀』という連載(河北新報社刊)で取材しました。「シャッター通り」になった街を映画で盛り上げよう、というまち興し活動を市民有志が盛り上げたのですが、津波の後の中瀬にその姿はありません。見覚えある建物の一部が残されたのみで、近くに子ども客向けのカードやおもちゃが散らばっていました。胸が激しく痛みました。

  中瀬と両岸を結ぶ橋には、津波が河口から運んだヨットやら製紙工場の大量の紙やら、家々の屋根や壁や柱などが山のように積もり、その上を人が往き交います。川に落ちないよう、ルートを慎重に選んで。誰もが小さなリュックを背負い、雨具と泥だらけの長靴を身につけ、不思議に淡々とした表情で。「この先は、ひどいものだよ」と語る人もいました。

  苦労して渡った反対岸は、かつて魚河岸としてにぎわい、多くの水産加工場や古い町並がありました(いまは、すべて過去形になってしまいます)。
  空襲に遭ったような、という表現がいいのでしょうか。大半の木造の家はこなごなに壊され、数十メートルも飛ばされて潰れたり、1階部分がすっぽり空洞になったり、屋根だけになった建物もありました。やはり車と船が同じ路上にひっくり返っています。あるのは静寂。
  「○○さん、いませんか」と大きな声で、誰となく問う女性の声がありました。何度目かに、男性の声が答えました。「無事でしたよ。家族一緒に避難しています」。よかった。事情を知らぬこちらも安堵します。

                      ◇

  ぬかるみと水たまり、がれきの道を歩くのは難儀です。切れた電線のようなものに、きれいな模様の長い布が引っかかっていました。よく見ると、どこから流れ出たのか、子どものピンクの晴れ着でした。

  向こうから来た30代くらいの男性が立ち止まり、話しかけてきました。「命があるだけでもよかった」。中瀬の橋を渡りきるところで津波に遭い、流されて電柱にぶつかり、流されながら無我夢中で飛び込んだ店の人に助けられ、一晩を明かしたそうです。「橋から何台も車が落ちた。パッシングしたり、クラクションを鳴らしたり、『助けてくれ』といいながら川に沈んでいったんだ」。家族はみな無事だったそうです。

  道で出会う人は、そんなふうに話しかけてきます。誰かに、耐えきれない思いを分かち合ってほしいのかもしれません。
  「ああ、こんにちわ」。声を掛けてきたのは、以前の取材で会ったことのある中年男性でした。こちらを覚えていてくれたのです。「母を亡くしました。家にいて、2階に逃げようと声を掛けたら、母は怖がってタンスの陰に隠れてしまった。その、わずかな一瞬でした」。沈痛な顔でした。
  「私は無事ですが、そんなことがあった、と○○さんに伝えてください」と、仙台にいる共通の知人に伝言を頼まれました。

  地元出身の同僚にも、ばったり会いました。親戚の安否が分からず、ようやく帰郷の機会を得て、思い当たる避難所を歩いて回っていると語りました。

  北上川の右岸に、日和山という名所があります。江戸時代の船乗りたちが出航の日和見をしたという、街を一望する小山です。そこに上ってみました。   
  眼下の中瀬をはじめ、河口に近い町々は、まるで更地のように土色に見えました。大勢の人がいて、展望台から目指す家や町を探しているようでした。「あの青い屋根のあたりだったね。誰か、人がいるよ。行ってみよう」
  
  真冬色の空から雪が降っていました。被災者には厳しい寒さが続きます。

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2011/03/15 19:45

余震の中で新聞を作る2〜記者もまた当事者

  「地響きとともに建物が激しく揺れた。部屋にいた漁師に後れて外に飛び出した。岩が崩れ落ち、女性が泣き叫ぶ。一瞬のためらいの後、置き忘れたカメラとノートを取りに戻った」
  11日午後2時46分ごろ。宮城県牡鹿半島の漁港で取材中だったある40代の記者は、津波警報のサイレンで船に飛び乗って岸を離れる漁師たちを背に、無我夢中で車に駆け込んだそうです。

  津波の恐怖は、地元の人々の体に先祖以来染みこんだもの。「家族とて、めいめいに逃げて自分の命を守れ」と教わってきたといいます。その通りに、たちまち岸壁を越えてくる津波に追われるように、彼は山の上の小学校へと車を走らせました。
  「白い(波の)帯は黒い固まりになってごう音とともに何度も襲ってきた。斜面に張り付く家々が沖に流れていく。『何もかもなぐなったなあ』と涙の男性。防波堤がスローモーションのように崩れ落ちた」

  15日付け朝刊に載った体験ルポの一節です。黒い巨獣のように盛り上がり、陸を襲う津波の恐ろしい姿がカメラにとらえられました。

  小学校で2時間、津波が静まるのを待ち、安全な避難所を探して2夜を過ごし、夜明けから十数人の住民と一緒に歩いて石巻に向かったそうです。まるで「出エジプト記」のように。道は寸断されて、もはや車は通れなくなったから。そして、途中で出合ったトラックの荷台に載せてもらえたのです。「人の親切が身にしみた」と記者はつづりました。
   この間、彼は音信が途絶え、本社に無事な姿を見せたのは地震発生から4日目でした。

                      ◇

  13日の朝刊には、自らも津波に流されかけた気仙沼の記者の「死を覚悟した」体験が載りました。仕事場の総局に避難してきた人たちに食べ物を、と近くのコンビニに走った直後の出来事でした。
 牡鹿半島の女川町の議会を取材に行って津波に遭遇した、という石巻の50代記者の記事もありました。
  「津波に巻き込まれた家屋が、車が、樹木が次々と役場庁舎にぶつかる。そのたびに鈍い振動ときしむ音が聞こえる。夢中でシャッターを押す。『死ぬかもしれない』。本気でそう思った」
  大津波が襲来して間もない午後3時すぎ、女川町役場の4階建て庁舎の屋上からの光景です。
  職員や住民ら約70人と共に4階のベランダに上ったところ、津波はあっという間にそこまで迫り、避難ばしごで屋上に逃れたそうです。
  「真っ二つに割れた民家、横倒しになった漁船、鉄筋のビルまでもがこちらに向かってくる」というすさまじさ。

  近くの町立病院にいた車いすの患者を、その場の人々が力を合わせて屋上まで上げたといいます。また、屋上のすぐ前を、流されかけた家の屋根に必死でつかまろうとしていた人がいたそうです。「がんばれ、がんばれ」とみんなで励ましたのも空しく、激流に消えた−と記者は無念そうに語ってくれました。
  
  やがて雪が強く降り始め、体も冷えてきます。津波が引いたのを待って、町役場の裏手にあった2軒の民家(避難して留守だったそうです)を借りて夜を明かし、翌朝に自転車を借り、残る力で2時間をかけて石巻までたどり着いたそうです。

                   ◇

  石巻の街も、津波で中心部は水没。総局は被災していました。記者は休む間もなく、ちょうど仙台へ行く知り合いの車に乗せてもらい、12日に本社に到着。拍手で迎えられました。懸命に海水から守り抜いたカメラとともに。差し出されたカップラーメンを口に運ぶ手も震えていました。
  「1つのまちが消えた事実をどうしても伝えたかったんです」と、記者は語りました。
  電話の不通もあり、連絡の途絶えていた同僚たちの生還は、私たちにとっての大ニュースです。

  震災は、新聞社の人間とその家族をも否応なく巻き込み、当事者にしました。津波で家族を亡くした人、いまだ行方不明との重い不安を抱える人、原発事故の影響で親を避難させた人も。津波で被災した故郷にやっとの思いで足を踏み入れ、親の無事を知った人もいます。わが家が水没したり、地震でめちゃめちゃになった人も。
  女川町から生還した記者は、赴任地の石巻の住まいに浸水。同じ被災地となった気仙沼の家族の安否も分からず、この署名記事がきっかけで15日にようやく、お互いの声を聴いたそうです。  
 自らが当事者であること。そこから、統計の数字ではない、同じ地域の当事者たちの声を内側から伝える取材も始まります。

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3月13日付の朝刊末面・記者の体験ルポ

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同15日付の朝刊末面・記者の体験ルポ


2011/03/14 16:59

余震の中で新聞を作る

  外出から帰り、職場のパソコンを開いて仕事を再開した刹那でした。11日午後2時46分ごろ。
  ゆらゆらという横揺れがあって、それが次第に振幅を大きく、激しくし、周囲の同僚たちも机にしがみつくほどに。「もうじき止むさ」という気持ちを翻弄するような揺れが、本やファイルをすべて床に落とし、終息まで2分にも3分にも思えました。
「恐ろしさからか周囲には声もなく、これで死ぬのか、と思った」と、隣席の友人は翌日の朝刊につづりました。やはり被害の大きかった1978年の宮城沖地震を経験した同僚は多いのですが、やはり同様の感想を聞きました。

  あらゆる書類や書籍が散乱した5階フロアから、編集局の中心がある6階に駆け上がると、様相は一層ひどく、天井のかけらが落ち、蛍光灯のカバーがぶらさがり、本棚は倒れ、いったい外界はどうなっているのか、想像のつかない不安に襲われました。
  一時避難した駐車場から社屋をながめると、外壁の一部がはがれていました。
  未曾有の地震であったことを実感させたたものは、ほどなくしてテレビの画面にとらえられた大津波の映像でした。

                         ◇

  沖合に「地震の巣」を抱える東北の太平洋岸、とりわけリアス式の狭い湾が津波の力を増幅させやすい三陸は、有史以来、数々の大津波に襲われました。
  19世紀末、岩手、宮城、青森で約2万2000人の命を奪った明治三陸大津波。その後、再び岩手から宮城にかけて約3000人が犠牲になった1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波。60年(同35年)にはチリ地震津波があり、大船渡市で53人、宮城県志津川町で37人、陸前高田市で8人が犠牲になりました。
  それからじつに半世紀ぶりの大津波の再来でした。しかも、その被害はもはや三陸にとどまらず、八戸から小名浜(いわき)まで、南北全域にわたる浜という浜、街という街がのみこまれたのです。気仙沼は津波の後に大火にも包まれました。しかし、いったい何が起きたのか、の全貌−M9.0という数字では表しきれないほどの−は、数日たった今ですら分かりません。  
  そして、私たちはただぼう然とはしていられませんでした。

                          ◇
    
  まず現場の記者たちが無事でいるのか。そして、1人1人の家族は大丈夫か。その安否確認が、すべての始まりです。まして、今回は被災地となった街々に支局があり、記者たちがいます。
  編集局内の「本部」となるテーブルには報道部長やデスクたちが集まりました。電話連絡を懸命に取りながら、いま集まれる記者たちを確認し、誰がどこを、何を取材すべきなのか−を即座に「有事対応」の体勢に切り替えて決めてゆきます。
  既に時計は午後3時を回り、夕刻は間近。どんな危険があるかも分からない、どこまでたどり着けるか分からない状況下で、動ける時間は限られています。雪も強く降り出しました。
  瓦葺きの門塀が倒壊した寺、盛り上がって割れた道路、倒れた石塀、遠方に見える火の手。そんな情報を伝える電話の1本1本にデスクたちは労をねぎらいながら、「見たままでいいから」と言ってメモを取り、その断片のような話の数々をジグソーパズルのように重ねてゆきます。
  やがて届き始めた現場の写真や、空から撮られた映像が、情報を生々しい被害の実相へと変えました。

  発生翌日の朝刊1面から末面に大きくまたがった写真は、仙台の南隣、名取市の浜にある閖上(ゆりあげ)地区の変わり果てた風景でした。名取川の河口にある漁港で、新鮮な海産物の朝市で知られる閖上は、見渡す限り水没し、木っ端があふれ、水面に点在する家々の一角からは火の手が上がっていました。まさしく目を疑う光景でした。

                        ◇

  33年前の宮城沖地震の際は、当時の河北新報の新聞作りを支えた鉛の活字が全部ひっくり返り、ろうそくの明かりを頼りに、マッチ棒ほどの長さの「あいうえお」や漢字の活字を1本1本拾って、なんとか新聞を作った−と先輩たちから聞かされました。その時に勝る今回の大地震は、IT時代の新聞作りにとっても初めての経験でした。

地震直後から仙台市内は大規模な停電となり、本社と同市泉区にある印刷工場は自家発電に切り替えられました。印刷工場は免震構造のため被災を免れました。しかし、本社内にある新聞製作システムの基本サーバーが横倒しになり、編集局は日夜の新聞製作が困難と判断し、システム災害協定を結ぶ新潟日報に応援を求めました。

取材した原稿、写真を新潟日報に送信し、整理部からもデスクら2人を陸路、新潟に派遣。できあがった紙面のデータを印刷工場に送って2ページの号外を1万部を発行し、翌12日付朝刊8ページも無事に自社で発行できました。

サーバーは、同夜のうちに正常に稼働することが確認でき、翌日の夕刊から本社での紙面制作が完全に復旧しました(通常は26ページ)。自家発電のための燃料や用紙の確保も、調達先のある地域の被災で不安が生じましたが、それぞれの担当者の協力で危機を一晩で乗り切りました。

 多くの被災地では、いまだ電気が(水道も)なく、電話もネットもつながりにくい状況です。大きな余震も毎日続いています。不安の中で、何が起きているのかを知らせる役割は、ラジオと新聞が担うことになります。
  未曾有の震災で、東北6県の45万人もの人々が家を失って避難し、不明の家族との再会や支援を求め、また予期せぬ二次災害も起こっています。このような時こそ、新聞は一日も休むことができません。
    

 3月12日の河北新報朝刊

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 3月13日の夕刊

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