ところで、体育祭というものがあの高校にも当然あった。

6月の初旬ぐらいかな、良くは覚えていない。無論の事だが、私はその類は苦手である。
T氏は別に嫌いという事はなかったのだが、Y氏は私同様徹底的に嫌いだった。

というわけで体育祭の練習は逃げることに専念した。
事情をつけてお断りします(゜ω゜)
嘘を言ってでもお断りします(゜ω゜)
何か強制連行されそうになっても、脱走してお断りします(゜ω゜)

そうしてお断りにお断りを重ねていった結果ある事件が起きた。

ある日、体育祭に熱心な1人の女子が私の前で泣き崩れてこう叫んだのだ。

「なんで体育祭の練習来てくれないのよ!」

言っておこう、彼女は決して私のことが好きでもなかった、いやむしろ嫌いだったと思う。
んじゃ何で泣き崩れたか。

1人が和を乱している事、それを非難したかったのだろうか。一体感という麻薬に酔いしれて、皆で同じ気分を味わっているつもりになりたかった。なのに私はそれをお断りし続けた。気分は台無しだ。でも何故?私以外の全員で気分を味わえばいいのでは?

皆、自分の時間を削ってまで体育祭の練習に参加してるのに、どうして私だけ参加しないのか。それも非難したかったのかもしれない。だが自分の楽しい時間を削ってまで練習する事に、一体何の意義があるというのだろう?

当時の私には分からなかった。だから、私たちはその場から立ち去った。すっごい後味が悪かった。

今だから大体分かるんだろう。

彼女は、一年生最初の大イベントである体育祭という大きな目標を、皆で達成し、その気持ちを分かち合いたかった。そんな時に1人でもそれを味わおうとしない人間が居たら、それは水を差すことにしかならんのだ。私に対して彼女は個として怒りをぶつけたんじゃない、集団が自分に乗り移った気分で、私を非難した。

そして「一体感は、誰しもが好きなものなはず」、それを何故拒むか。彼女には、私のことが分からなかったのだ。分からなくても、「皆」は皆という姿であってほしかったのだ。

「あるべき姿を壊したのは、お前なんだ!」という非難だったのかもしれない。その点、普通の人は集団に対して非常に固執する。

・・・彼女に対しては一つ謝る必要があったかもしれない。その上で、一つ言わなきゃいけない。

「泣かせたのは悪かったかもしれない。でもそれは私にとっては脅しでしかなかった」と。

傍観者でいる立場が後につらいということが分かるのは、大分先のことである。