最近どうも更新する機会に恵まれなかったから、そろそろこの辺で区切っちゃっていいんじゃないかなと思った。

私が人を憎んでいる理由。それは人を愛したが故だと思う。人の事がずっと好きでたまらなかった。
人といる事で自分を確認してたとかそんな大それた問題じゃない。人と居て楽しい、人と遊んでいて嬉しい。幼少期の頃、少なくともそういう記憶はあった。

それを塗り替えたのは父親の虐待と周りからの執拗ないじめだった。

どうして人が好きなのに、他の人は自分の事を認めてくれなかったのだろう。そのことが、ある種私が「人を憎んでいる」という風に自分を錯覚させた理由の主なものだろう。

当初書き始めたとき、私はほんの些細な気持ちでこのタイトルをつけた。でも、実際のところ、その逆が私の本質なんだろうなと、最近は思うようになった。
故に書く事はもうない。

アスペルガーの人が、どうしても二次障害を起こして人を信用できなくなったりするのは、社会的に恵まれて安定した環境ではないからだろうという意見がある。それは概ね正しい。概ね、というのは、いつまで経ってもそんな「発達障害者向けバリアフリー」なんぞ実現しないという現実があるからだ。一般人の意識を改革せよなんていう馬鹿な事言うつもりもない。発達障害の事を全て理解させようというのは、発達障害者の思う傲慢だ。自分達をいつまでも被害者感情に閉じ込めて環境起因説を唱え続けるより、現実を直視して、相手に、自分を最低限どの程度まで分かったつもりになってもらえるか。ぐらいを考えるのが限界だ。

一般人ですら一般人を理解できないと苦しむことだってあるのに、「もっと発達障害者である私を理解して」なんていうのは、ばかげているというより、妄想めいている。

人は人の事を理解したつもりになって、その幻想の中で生きている。偶々自分の幻想が相手の幻想と被っているというだけであって、被ってない部分をみた途端に急に苦しみだす。我々は、その幻想が相手と外れてる部分が普通の人より多いというだけで、やはり理解という言葉には疑問符をつけざるを得ない。

二次障害で、自分が苦しんでいる、人が信用できないという人には、私はこうしかいえないのだが、
事実の積み重ねでしか物事は冷静に判断できない。
そこに無駄な「こう思っているのではないか」という自分独自の邪推を加えることにより、相手への見方を変えるのはナンセンスだ。
その、「こう思っている」というのが理屈でかためられて確証をもてるものでない限り、そんな憶測は屁の役にもたたない。
Aさんが私に八つ当たりをしたとして、そのAさんが私を叱る前に課長やら部長やら或いは奥さんやら夫やらに色々愚痴愚痴言われて腹が立ったから、八つ当たりをしているんだなってのはわかっていたとしよう。だが、そこで「もしかしたら私を嫌っているのではないか」というのはかなり穿った見方をしているとしか思えない。

些細な事で喧嘩に発展する夫婦関係を想定すれば分かることだ。お互い八つ当たりしてはされつつの事だって多いのに、それで相手に好かれていないだの考えていたら限がないだろう。ある程度割り切れるからこその関係なのだ。八つ当たりする事が、直接彼なり彼女なりを嫌っている故の行動であるかは分からない。

正直、二次障害で鬱病になってしんどいっていうのは、勿論環境に起因したところもあるのだろうけど、自分が歪んだ見方をして勝手に憶測をどんどん積み上げて言って一人で苦しんでいる事が多い気がする。憶測をやめない限り、事実は事実でしかないのだと分からない限り、永劫それに悩み続ける羽目になる。

そう、例えば私が父に虐待されたことは、実に様々なことを思い起こさせ、負の感情を意識したとしても、結局虐待されたという事実だけしか残っていない。そういえば、こういう事もあったなと。あれは嫌だったな、これは嫌だったなという自分の抱いた感情もまた事実。けれども、実父が私の事をどう思っていたかなど、今となっては関係は無い。同様に、周りの連中が私を虐めていたという事実はあって、憎んでも憎みきれないという感情もまたあったとして、じゃあ彼らの思っていたことはなんだったのか、何てことを考えたら、どつぼに嵌るだけだ。

それよりも、今日の昼飯何にするかを考えたほうが気が楽だとは思わないかね?