イタリアの紅白歌合戦「サンレモ音楽祭」の陳腐な凄さ


紅白歌合戦に言及したついでに、僕が勝手に「イタリアの紅白歌合戦」と呼んでいるサンレモ音楽祭についても少し触れておくことにした。

紅白歌合戦とサンレモ音楽祭には多くの共通点がある。両者ともに公共放送が力を入れる歌番組で、60年以上の歴史を誇る超長寿番組である。

どちらも1951年のスタート(NHKは1945年開始という説も成り立つ)。当初はNHK、RAI共にラジオでの放送だったが、NHKは1953年から又RAIは1955年からテレビ番組となった。

国民的番組の両者は、近年はマンネリ化が進んで視聴率も下がり気味だが、依然として通常番組を凌ぐ人気を維持。また付記すると、最近のRAIの番組の視聴率はNHKのそれよりも高い傾向にある。

両者ともにほとんど毎年番組の改革を試みて、たいてい不調に終わるが、不調に終わるそのこと自体が話題になってまた寿命が延びる、というような稀有な現象も起こる。

その稀有な現象自体が実は両番組の存在の大きさを如実に示している。先月の紅白歌合戦は大改革を試みて失敗した(と僕は思う)が、来月7日から始まるサンレモ音楽祭はどうだろうか。

2者はまた似て非なるものの典型でもある。両陣営は相似よりも実は差異のほうがはるかに大きい。

紅白歌合戦は既存の歌を提供する番組。一方サンレモ音楽祭は新曲を提供する。あるいは前者は歌を消費するが後者は歌を創造する。サンレモ音楽祭は音楽コンテストだからだ。

紅白歌合戦がほぼ100%日本国内のイベントであるのに大して、サンレモ音楽祭は国際的な広がりも持つ。つまり、そこでの優勝曲はグラミー賞受賞のほか、しばしば国際的なヒット曲にもなってきた。

古い名前だが、例えばジリオラ・チンクエッティの音楽祭での優勝曲は国際的にもヒットしたし、割と新しい歌手ではアンドレア・ボッチェッリなどの歌もある。個人的には1991年の大賞歌手リカルド・コッチャンテなども面白いと思う。

またサンレモ音楽祭は、欧州全体を股にかけたヨーロッパ最大の音楽番組「ユーロ・ビジョン・ソング・コンテスト」のモデルになるなど、特に欧州での知名度が高い。同時に世界的にも名を知られている。

周知のように紅白歌合戦は大晦日の一回のみの放送だが、サンレモ音楽祭は5日間にも渡って放送される。しかも一回の放送が4時間も続く。つまり紅白歌合戦が5日連続で電波に乗るようなものだ。

好きな人にはたまらないだろうが、僕などはサンレモ音楽祭のこの放送時間の膨大にウンザリするほうだ。しかも番組は毎晩夜中過ぎまで続く。宵っ張りの多いイタリアではそれでも問題にならない。

僕は紅白歌合戦とサンレモ音楽祭の根強い人気とスタッフの努力に敬意を表している。が、紅白歌合戦は日本との時差をものともせずに衛星生中継で毎年見ているものの、サンレモ音楽祭はそれほどでもない。

その大きな理由は、毎日ほぼ4時間に渡って5日間も放送される時間の長さに溜息が出るからだ。しかも翌日にまで及ぶ時間帯に対する疲労感も決して小さくない。

もう一つ僕にとっては重大な理由がある。そこで披露される歌の単調さである。カンツォーネはいわば日本の演歌だ。どれこれも似通っている。そこが時には恐ろしく退屈だ。

もちろんいい歌もある。優勝曲はさすがにどれもこれも面白いものが多い。ところがそこに至るまでの選考過程が長すぎると感じるのだ。

演歌は陳腐なメロディーに陳腐な歌詞が乗って、陳腐な歌い方の歌手が陳腐に歌うところに救いようのない退屈が作り出される場合も多い。カンツォーネも同じだ。

誤解のないように言っておきたいが、僕は演歌もカンツォーネも好きである。いや、良い演歌や良いカンツォーネが好きである。ロックもジャズもポップスも同様だ。あらゆるジャンルの歌が好きなのである。

しかし、つまらないものはすべてのジャンルを超えて、あるいはすべてのジャンルにまたがってつまらない。優れた歌は毎日毎日その辺に転がっているものではない。99%の陳腐があって1%の面白い曲がある。

サンレモ音楽祭も例外ではない。毎日4時間Ⅹ5日間、20時間にも渡って放送される番組のうちの大半が歌で埋まる。だがその90%以上は似たような歌がえんえんと続く印象で、僕にはほとんど苦痛だ。

それでもサンレモ音楽祭はりっぱに生き延びている。批判や罵倒を受けながらも多くの視聴者の支持を得ている。それは凄いことだ。僕は一視聴者としては熱心な支持者ではないが、同じテレビ屋としてサンレモ音楽祭の制作スタッフを尊敬する。

創作とは何はともあれ、「作るが勝ち」の世界だ。番組のアイデアや企画は、制作に入る前の段階で消えて行き、実際には作られないケースが圧倒的に多いからだ。一度形になった番組は、制作者にとってはそれだけで成功なのだ。

そのうえでもしも番組が長く続くなら、スタッフにとってはさらなる勝利だ。なぜなら番組が続くとは、視聴率的な成功にほかならないからだ。サンレモ音楽祭も紅白歌合戦も、その意味では連戦連勝のとてつもない番組なのである。






続: 紅白歌合戦は大丈夫?


紅白歌合戦を批判した前記事に対しては、「仲宗根さんは紅白が嫌いなんですね、悲しいです」という便りもいただいた。読者の方からのコメントは、いつもとても勉強になる。勉強にならなくても示唆に富んでいて、考えるヒントになることが多い。何よりもコメントを下さるということは、僕の下手クソな文章をその方なりにきちんと読んでくれた証拠だから、いつも有難く嬉しい。

しかし「紅白歌合戦が嫌いなんですね」というコメント内容にはちょっと参った。嫌いどころか、僕は紅白歌合戦は好きだからだ。そのことは記事の中でも「~紅白歌合戦は衛星放送で毎年見ている 」「番組の支持者の僕が~」などの表現を筆頭に、論考の随所に示した積もりだった。

2016年の紅白歌合戦に関する僕の批判は、視聴者としてよりも、テレビ番組を作るプロのテレビ屋の立場からの批評だった。それでいながら、あたかも「視聴者の立場からの不満」でもあるような書き方もしてしまったようだ。そこは撤回させていただくと同時にお許しを請いたい。

ここで前記事の批判を一言にまとめれば、要するに「良いアイデアが時間や制作費などの首木のせいできちんと実現されていない。それを知りながら、僕の見解では「知らない振り」で、あるいは「視聴者は気づかないだろう」という、見方によっては思い上がりとも取られかねない心で、「番組を構成し実践した過誤」ということだ。

要するに演出スタッフは、彼らが思いついたすばらしいアイデアである「ゴジラを(紅白歌合戦の)歌で退治する」というコンセプトを、バカになって子供のように純粋に、明るく楽しくバカバカしく提供することができなかった。つまり、繰り返しになるが、「バカになり切れていなかった」ということだ。

また、タモリ&マツコは、そこに「置物」として置いておいても面白いマツコを、タモリと共に「ブラタモリ」させることで受けを狙ったものの、恐らくリハーサルに多くを割けなかった時間の制約と、「一体何を見せたいのだろう?」と最後まで疑問が残った、設定の根本的な誤りでコケた。

ブラタモリは歩いて色々なことを「発見」するのに、コウハクタモリは番組の外で
「迷子」になった。それは2人が紅白会場に入れなったという設定のことではなく、シークエンスの全体が場違いで、木に竹を継いだ形の深刻な構成上の失敗、という意味だ。換言すれば台本が熟(こな)れていなかった。

あれこれといいたいことを言ってきたが、何事につけ実際に制作をすることと批評は別物だ。テレビでも文章でも映画でも、あらゆる創作は難しい。それを批評するのは、引退した平幕力士が横綱大関の相撲を上から目線で解説するのに似て、ちょっと悲しく滑稽でもある。

大相撲の解説者よりは現役力士のほうが大変だ。テレビ番組の批評家よりは制作現場のスタッフのほうが苦しい。現実に作っているからだ。そしてあらゆる創作は「作った者の勝ち」、というのが実際に制作現場に立ってきた僕の実感だ。

批評家がいなくても制作者は存在できるが、制作する者がいなければ批評家は生きていけない。批評する対象がないからだ。そういう意味では批評家ほど軽い悲しい存在はない。しかし、批評家はまた、制作者を褒めたりけなしたりすることで創作を鼓舞する、創作周りの重要な「創作構成要素」でもあり得る。

僕は紅白歌合戦という大番組が、毎回毎回懸命に進化を試みる姿に頭が下がる思いでいる。2016年は特に懸命さが際立っていた。テレビに関しては、僕は実作者で批評家ではないが、微力且つ僭越ながらあるいは次の進化の試みに資するかもしれない、と考え批評じみたものを書いてみた。

ここからは僕が紅白歌合戦を好きな証拠を挙げて、冒頭の読者の方の疑問に応えたい。

マンネリといわれる紅白歌合戦は、僕にとっては実はいつも新しい部分がある。つまり日本の今の音楽シーンに疎い僕は、大晦日の紅白歌合戦を見て今年のヒット曲や流行歌を知る、ということが多いのだ。例えば先日の紅白歌合戦では、混成(?)AKB48やRADIO FISHや桐谷健太などを初めて知った。

その流れでいえば、過去にはPerfume、いきものがかり、ゴルデンボンバー、きゃりーぱみゅぱみゅ、斉藤和義なども紅白歌合戦で初めて見て、「ほう、いいね」と思い、それ以後も機会があると気をつけて見たり聞いたりしたくなるアーティストになった。

数年前はこんなこともあった。たまたま録画しておいた紅白での斉藤和義「やさしくなりたい」を、僕の2人の息子(ほぼ100%イタリア人だが日本人でもある)に見せた。すると日本の歌にはほとんど興味のない2人が聞く先から「すごい」と感心し、イタリア人の妻も「面白い」と喜んだ。それもこれも紅白歌合戦のおかげだ。

また、懐メロという言葉はもはや死語かもしれないが、かつてのヒット曲や歌い手をあらためて見、聞くというのも疑いようのない紅白の楽しみの一つだ。極めて個人的なことをいえば、若いころはほとんど興味がなかった演歌の良さを知ったのも、僕の場合は紅白歌合戦だ。

先日の紅白歌合戦でも歌の部分は例年通りに楽しんだ。好きな歌はじっくり聴き、そうでもない場合は流して眺めた。何事もないいつも通りの年末なら一杯やりながら紅白を楽しみ、ゆく年くる年を見て一年を終える、という陳腐なパターンが僕の大晦日の習わしでもある。実に日本的なのだ。

世界各国の日本人移民の間には、日本の伝統や文化が日本以上によく残っていることが多い。故国日本への思慕が深いからだ。紅白を楽しむ僕の中にも、そんな移民メンタリティーが育ちつつあるのかもしれない。だから紅白の“新しい試み”だった「ゴジラ企画」と「タモリ&マツコ」に違和感を覚えたのかも、とも考える。



グワンバレNHK~でも紅白歌合戦は大丈夫?


2016年大晦日、朝の11時過ぎから日本と同時放送のNHK紅白歌合戦を見た。日本と8時間の時差があるイタリアでは、衛星を介しての生中継はそんな時間になるのだ。

見ている途中も、見終わってからも、「紅白歌合戦、大丈夫?」と思った。

僕は紅白歌合戦をよくイタリアの「サンレモ音楽祭」に重ね合わせて見る。2者はマンネリ感と時代遅れ感がよく似ていて、視聴率も下がり気味だが、依然として決して無視できない人気を保っている。

また僕は両者をそれなりに評価していて、サンレモ音楽祭はあまり見ないものの紅白歌合戦は衛星放送で毎年見ている。でも、NHK大丈夫?と心配になったのは今回が初めてだ。

番組の支持者の僕が不安になったということは、それを強烈に支持した人もまたきっと多かったに違いない。そこに期待しつつ、圧倒的にネガティブな感想を持った自分の意見を書いておくことにした。

僕は「シン・ゴジラ企画」と「タモリ&マツコ」の2要素がひどく気になった。特にゴジラのシークエンスでは僕の頭の中に「?」マークが幾つも点灯した。作っているスタッフが、その場面を信じていない、あるいは愛していない、と感じたのだ。

紅白歌合戦はエンターテイメントなのだから、バカになるなら真剣にバカになるべきだ。あるいはスペクタクルを目指すなら、批判を覚悟で制作費をどんと使って大イベントを演出するべきだ。成功すれば批判は必ず賞賛に変わるのだから。

ゴジラのエピソードにはそのどちらもなかった。スタッフは真剣ではなく、制作費もお粗末なものであろうことが分かった。

スタッフは、もちろんプロとして真剣に仕事をした。だが彼らはゴジラが渋谷に向かって進攻していて、歌でやっつけることができる、というコンセプトを信じてなどいなかった。つまり本気でバカになり切っていなかった。だからその部分では真剣ではなかった。

そのためにゴジラの場面はアイデアだけが先走って、出てきたものはアマチュアの演劇並みの稚拙なシーンの連なりになった。言い換えれば「クサイ話」になった。視聴者はたぶん僕と同じく「?」マークを覚えながら、NHKがやることだから理解できない自分が悪いのだろう、と思って目をつぶったのではないか。

何もかもが中途半端で、結果、みすぼらしくなった。演出スタッフに「照れ」があり「気取り」があるのが最大の失敗だった。言葉を変えれば演出スタッフ(特にディレクターとその周りのプロデュサー)は、荒唐無稽な話を荒唐無稽な話、と意識したままエピソードを作っていた。

あるいは(こんなバカ話は実は俺たちは信じていない)という思いがありありと出ていた。制作者自身が信じていない話を、視聴者が信じるわけがない。しかしポイントは視聴者がその内容を信じることではなく、「制作者がバカ話を真剣にバカになって作っている」と視聴者が感じるかどうかだ。

制作者がバカ話を真剣に捉えて、誠心誠意、気持ちを込めて真剣に作っていることが分かれば視聴者は納得し、面白がり、心を揺さぶられる。バカ話であればあるほどスタッフは「真剣にバカになる」必要がある。バカ話をふざけた軽い気持ちで作ってはならないのだ。

つまり、「すばらしい歌を聴くとゴジラは死ぬ(ゴジラのパワーがなくなる)」というコンセプトをスタッフは、特に演出家は、腹から信じて真剣に作らなければ道半ばになって失敗する。ゴジラが歌で破壊される、というアイデアが信じられないなら演出をするべきではない。信じなければうまく演出ができないからだ。

スタッフの「照れ」はなかったが、「タモリとマツコ」も制作コンセプトが徹底しない大失策だったと思う。面白くしたい、という作り手の強い思いは十分に伝わってきた。同時に「どうだ面白いだろう」という彼らのドヤ顔もそこに見えるようでシラけた。

それらのシーンは恐らく、打ち合わせやリハーサルの段階では面白かったのだろう。タモリとマツコのやり取りに、もしかすると、出演者も制作スタッフも結構笑ったのではないか。それで彼らは自信をもってあの恐ろしくも退屈で、場違いで、未成熟なシーンを電波に乗せてしまった。

下手くそなディレクターである僕の、大して多くもない似たような演出の体験から言わせてもらえば、制作現場でスタッフが笑い転げるコメディーのシーンは、実際に電波に乗るとたいていコケる。スタッフが楽しんでしまって視聴者が見えなくなるのだ。視聴者を笑わせたり楽しませたいなら、スタッフは現場で笑ったり楽しんではならない。苦しむべきだ。制作の真剣とはそういうことだ。

NHKの優秀なスタッフがそのことを知らない筈はない。だが彼らは見事にその落とし穴にはまったようだ。スタッフは、あるいは現場で、タモリのカリスマ性に催眠状態にさせられたのだろうか。そうでもなけれなあれだけつまらないシーンやエピソードが、あれだけ自信たっぷりに放送されるわけがない、と感じた。

念のために言っておくが僕はNHKのファンである。ファンとはプロのテレビ屋としても、また一視聴者としても、という意味である。僕は下手くそなディレクターながら仕事でもNHKには大いにお世話になった。

だから言うのではないが、NHKは世界の公共放送の中でも優れた番組を作る優れた放送局の一つだ。報道ドキュメンタリー系の番組は、イギリスのBBCに肉薄するものも多いと思うし、ドラマも面白い。エンターテイメントも質の良いものが多い。

一方NHKは、たとえば最近退いた籾井さんのようなトンでも会長がいたり、BBCとは違って政権に臆することなく物申すことができなかったり、予算の問題で批判を浴びるなど、もちろん課題も多い。しかし、例えばここイタリアの公共放送RAIなどに比べればはるかに良心的だ。

僕はRAIの民営化には賛成だが、NHKの民営化には反対の立場でさえある。RAIはドキュメンタリーや文化番組が極端に少なく、トークショーやバラエティ番組が異様に多い。また視聴者に受信料を課しながらCMもがんがん流す、といういい加減な公共放送局だ。その部分ではNHKには比ぶべくもない。

また、民放がたくさんある日本で、もう一つの民放などいらない、というのも僕がNHKの民営化に反対する理由だ。NHKは民放の持つしがらみから自由だからこそ価値がある。ある種の人々からの強い批判を覚悟で断言するが、NHKは日本の宝だ。BBCが英国の宝であるように。

そこを確認した上で言いたい。紅白歌合戦は開き直って徹底した改革ができないのなら、規模を縮小しターゲットも絞って再出発したほうが良いと思う。たとえば番組のコンセプトを若者向けか年配者向けかに決め、それに合わせて演歌や懐メロ三昧なり、ポップス系なりの歌番組に徹底するなどの方法だ。

多様性が進んだ今の時代に、「国民の大多数」によく受ける歌番組なんてある筈がない。存在しないコンセプトを追いかけて規模を無理に広げるのは苦しい。ここイタリアの紅白歌合戦、前述の「サンレモ音楽祭」も時代遅れになった。改革は失敗しつづけ、老舗番組は「ただ存続しているだけ」、というふうになった。

紅白歌合戦も、毎年姑息な「変化努力」で誤魔化すことはやめて、思い切って番組を縮小し、前述したようにターゲットを視聴者の一定層に絞り込んで出直したらどうだろうか。中途半端な改革は結局、必ず中途半端な番組しか生み出さないのだから。

珍説:マフィアがイタリアのテロを防ぐ Ⅱ



イタリアでイスラム過激派によるテロが発生していないのは、イタリア警察が頑張っているからである。マフィアがテロを防いでいるなどという説は、イタリア=マフィアという先入観に毒されたテンプラに過ぎない。

そのことを確認した上で、いくつかの所感あるいは疑問点も、ここに記録しておこうと思う。

イタリアはもう長い間イスラム過激派からテロの脅迫を受け続けている。それでも一度も事件が起きないのは、あるいはイタリアには攻撃するだけの価値がない、とテロリストが見なしているからかも知れない。

つまり、パリやロンドンやブリュッセル、あるいはベルリンを攻撃するほどの「宣伝価値」がない、と彼らが考えていることだ。ローマを始めとするイタリアの多くの有名観光都市は、政治的に見て価値が低い、と彼らが独自の評価をしていないとは誰にも言えない。

次は幸運な偶然が重なってテロが避けられている可能性。たとえば12人が死亡し50人近くが重軽傷を負ったベルリンのトラック・テロ犯、アニス・アムリは、5日後にイタリア北部の街セスト・サン・ジョヴァンニで警官に射殺された。

ミラノ近郊のセスト・サン・ジョヴァンニは、共産党の勢力が強いことからかつて
「イタリアのスターリングラード 」とも呼ばれた街だ。現在は中東やアフリカからの移民が多く住む多文化都市になっている。大きなムスリム共同体もある。

そこにはミラノ発の地下鉄の終着駅があり、南イタリア各地とモロッコ、スペイン、アルバニアなどへの長距離国際バスの発着所もある。いわば交通の要衝都市だ。アニス・アムリは2011年にチュニジアからイタリアに入り、投獄の経験などを経て北欧に向かった。

ベルリンでの犯行後、フランス経由でイタリアに戻った彼は、セスト・サン・ジョヴァンニ駅近くで職務質問をされて、警官に向かって発砲。銃撃戦の末に死亡した。彼はムスリム共同体のあるセスト・サン・ジョヴァンニで仲間と接触しようとしたと見られる。

テロリストはそこで何らかの準備をした後、セスト・サン・ジョヴァンニからバスでモロッコに出て、故国のチュニジアに逃亡しようとしたのかも知れない。あるいは前述したように、イタリアでのテロを画策していたのが射殺されて潰えたのかもしれない。

アムリの死によって彼が計画していたイタリアでのテロが未然に阻止されたなら、それは偶然以外の何ものでもない。そしてもしかすると、同じようなことがそこかしこで起こっているかもしれない。おかげでイタリアはテロから免れている。

イタリアならではの次のようなシナリオの可能性も皆無ではない、と僕は考えている。イタリア共和国と警察当局が、彼らの対テロ作戦にマフィアを組み込んでうまく利用している。その場合はマフィア以外の組織、つまりンドランゲッタやカモラなどのネットワークも使っているかもしれない。

1980年代、マフィアはイタリア国家を揺るがす勢いで凶悪犯罪を重ねた。彼らは国家を脅迫し、国家との間に犯罪組織を優遇する旨の契約を結んだとさえ言われた。だが90年代に入ると形勢は逆転。最大のボスであるトト・リイナを始めとする多くの幹部も次々に逮捕されて弱体化した。

それでもマフィアは健在である。しかし、現在は国家権力が彼らの優位に立っているのは疑いようがない。したたかな権力機構は、80年代とは逆にマフィアを脅迫、あるいはおだてるなりの手法も使って、組織を対テロ戦争の防御壁として利用している可能性もある。

そこには、かつてマフィアと国家権力との間に結ばれた、契約なり約束に基づいた了解事項あるだろう。それが何かは分からないが、かつて2者の間に何らかの合意があった、という説は執拗に生きている。ナポリターノ前大統領は「イタリア共和国とマフィアとの間には約定はない」と公式に表明しなければならないほどだった。

合意そのもの、あるいはその名残のようなものの存在の是非はさて置くとしよう。もしもテロ対策に長けたイタリア治安当局が、マフィアに何らかの便宜を図る司法取引を持ちかけて、密かに彼らをイスラム過激派との戦いに組み入れているのならば、それはイタリア国家と警察機構の狡猾と有能を示す素晴らしい動きだ。

イタリア警察はここまでテロを未然に防いできた。だが今後はどうなるかは誰にも分からない。前述の作戦が秘密裏に展開されているなら、「国家と犯罪組織の共謀」という大いなる不都合にはしばらく目をつぶって、テロの封じ込めを優先させるべき、と考えるのは不謹慎だろうか?

珍説:マフィアがイタリアのテロを防ぐ


僕のブログの読者の方から「イタリアでテロが起きないのはマフィアがいるから、と聞きましたが本当でしょうか。できたらそのことについて書いてください」という連絡をいただいた。

僕はおどろき、苦笑しつつその情報の出所を探したがよく分からなかった。よく分からないが、イタリア=マフィアという、いつものステレオタイプに根ざしたヨタ話の類であろうことは想像ができる。

先ず一番考えやすいのは、テロ=犯罪(犯罪組織)=マフィアという図式から導き出す浮薄な論考である。犯罪組織であるマフィアは同じ犯罪組織であるテログループ、あるいはテロ犯がイタリアに侵入するのを嫌ってこれを殲滅する、という主張あたりだろうか。

イタリアには3大犯罪組織がある。マフィア(コーザノストラ)、カモラ、ンドランゲッタである。これにサクラ・コローナ・ウニタを加えて4大組織と考える場合もある。それらの犯罪集団は全て経済的に貧しいナポリ以南の各地を拠点にしている。ローマに根を張る別の組織もある。

彼らはそれぞれをの縄張りを互いに尊重し合い、縄張り外に進出する場合も基本的には衝突を避ける形でしのぎを削っている、とされる。だがその実態は正確には分からない。ライバル組織同士がぶつかる、といった事件がほとんど無い事実がその推測を呼ぶのである。

さて、マフィアがテロを防ぐ、という時のマフィアとは歴史や勢力図などから見て、シチリア島が拠点の「本家マフィア」のことだろう。それは最も勢力が大きく、アメリカのマフィアとも親戚筋にあたる。彼らは欧州にも世界各地にも根を張っている。そのマフィアがテロを阻止している、ということなのだろう。

だがそれはお門違いの論法だ。なぜならマフィアはむしろテロ組織との共謀を模索している、と見るほうが妥当だからだ。マフィアはテロが横行して国が混乱する方が嬉しいのだ。それだけ彼らの悪行が成就しやすくなり、彼らに対する官憲の追及もテロ対策に忙殺されて緩む。

事実、イタリア国家と治安機関がISを始めとするイスラム過激派組織の台頭に最も神経を尖らせるのは、彼らのイタリアへの直接攻撃はもちろんだが、テロ組織とマフィアなどの犯罪組織が手を結んで社会を混乱させ、利益を挙げようと画策することである。

マフィアがテロ組織と手を結びたくなるインセンティブは、イタリア国内での犯罪・利権漁りに留まらない。彼らはテロ組織と共謀して、主に北アフリカの国々に勢力を拡大したいと渇望している。そこにはリビアやチュニジアなどを筆頭に、歴史的にイタリアと関係が深いアラブ諸国が幾つも存在する。

それらの国々の多くは、イスラム過激派やテロ組織の巣窟でもある。彼らがマフィアの手助けをする見返りに、マフィアはテロ犯の動きをイタリア国内で助ける、という図式が警察当局の最も恐れるものなのだ。マフィアはテロを阻止するのではなく、むしろ鼓舞するのである。

イタリアの犯罪組織の中では、シチリアを拠点にするマフィアが圧倒的に強かったが、近年は半島南部のプーリア州に興ったンドランゲッタが急速に勢いを増している。マフィアも押され気味だ。ンドランゲッタは北部イタリアのミラノなどでは、マフィアを凌ぐ勢力になったのではないか、とさえ見られている。

加えてイタリアがEU(欧州連合)の一員であるために、欧州全域からのマフィアへの風当たりが強くなって、そこでもマフィアは四苦八苦している。そんな折だから、マフィアはイスラム過激派と組んで、彼らの得意な麻薬密売や密貿易や恐喝、また無差別殺戮の爆弾テロなどを縦横に遂行したい気持ちが山々なのだ。

イタリアの官憲は「イタリアらしく」のんびりしていて厳密さに欠ける、というステレオタイプな見方がある。ステレオタイプには得てして一面の真実が含まれる。だがテロ抑止に関しては、彼らはきわめて有能でもある。それがここまでイタリアにテロが発生していない理由だ。

具体的に見てみよう。カトリックの総本山バチカンを擁するイタリアは、これまでに繰り返しイスラム過激派から名指しでのテロ予告や警告を受けてきた。それにもかかわらず、未だに何事も起こっていない。2015年には、半年にも渡って開催されたミラノ万博の混乱も無事に乗り切った。

また万博終了直後から今年11月20日までのほぼ一年間渡って催された、バチカンのジュビレオ(特別聖年)祭の警備も無難にこなした。ジュビレオでは2000万人余りのカトリックの巡礼者がバチカンを訪れた。そこに通常の観光客も加わって混雑したローマは、テロリストにとっては絶好の攻撃機会であり続けた。が、何事もなく終わったのだ。

また、国際的にはほとんど報道されることはないが、軍警察を中心とするイタリアの凶悪犯罪担当の治安組織は、実は毎日のようにイスラム過激派の構成員やそれに関連すると見られる容疑者を洗い出し、逮捕し、国外退去処分にしている。このあたりは警察を管轄するシチリア出身のアンジェリーノ・アルファーノ前内務大臣の功績が大きい、と僕は個人的に考えている。

イタリアの官憲は、たとえば車で言えばアルファロメオだと僕は思う。イタリアの名車アルファロメオは、バカバカしいくらいに足が速くて、レースカーのようにスマートで格好がいい。ところがこの車には笑い話のような悪評がいつもついてまわる。いわく、少し雨が降るとたちまち雨もりがする。いわく、車体のそこかしこがあっという間にサビつく、云々。「突出しているが抜けている」のである。

イタリアの官憲もそれに似ている。テロを見事に防いでいるのがアルファロメオの抜群の加速性であり美しいボディーだ。一方、追い詰めたコソ泥やマフィアのチンピラに裏をかかれて慌てふためいたりする様子は、雨漏りや車体のサビとそっくりだ。幸いこれまでのところは官憲の突出部分だけが奏功して、イタリアにはテロが起こっていない。

そこには本当にマフィアの功績はないのか、と言えば実は大いにある。つまりイタリア警察は、長年に渡るマフィアとの激しい戦いのおかげで、彼らの監視、捜査、追及、防止等々の重要な治安テクニックを飛躍的に発展させることができた。その意味では「マフィアがイタリアのテロを防いでいる」という主張も、あながち間違いではない、と言えるかも知れない。


クリスマスに仏教を思い神々を思う幸い


今年のクリスマスも静かに過ぎた。

クリスマスの朝は、久しぶりに家族とともに教会のミサに出かけた。最近、地区の教会の主任司祭(神父)が20年ぶりに替わった。そこで新任の神父さんにできればお目通りを、と考えたのである。

人が多過ぎたので神父との直接の顔合わせはかなわなかった。しかし、何かの行事で近いうちに必ず会うことになるだろうから、一向にかまわない。その日はすぐに帰宅した。

ミサの間中、とはいわないが、大半の時間を神父の講話内容とは別の物思いにふけって過ごした。もっともそこは教会なので、神や宗教と自分のことを考えるのは全て関連性がある、とも言える。

クリスマスにはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもする。それはしかし僕にとっては、困ったときの神頼み、的な一過性の思惟ではない。  

僕は信心深い人間では全くないが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考える。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいだろう。クリスマスのミサの最中の考え事も、そんな僕の習癖のひとつに過ぎない。

上の息子が中学に上がるか上がらないかの年頃だったと思う。同じ教会における何かの折のミサの途中で、彼が「お父さんは日本人だけど、ここ(教会)にいても大丈夫?」と僕にささやいた。

大丈夫?とはクリスチャンではない(日本人)のに、お父さんはここにいては疲れるのではないか。あるいはもっと重く考えれば、クリスチャンではないお父さんはここにいて孤独感を覚えているのではないか、という息子から僕への気遣いである。

僕は成長した息子におどろいた。気遣いをよくする子供だから気遣いそのものにはおどろかなかった。だが、そこにあるかもしれない教会+信者と、信者ではない者との間の「齟齬の可能性」に気づいた息子におどろいたのだ。  

僕は彼に伝えた。「全然大丈夫だよ。イエス・キリストは日本人、つまりキリスト教徒ではない僕をいつも受け入れ、抱擁してくださっている。だからお父さんはここにいてもOKなんだ」それは僕の嘘偽りのない思いだった。

イエス・キリストは断じて僕を拒まない。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからだ。もしもそこでキリスト教徒ではない僕を拒絶するものがあるとするなら、それは教会であり教会の聖職者であり集まっている信者である。

だが幸い彼らも僕を拒むことはない。拒むどころか、むしろ歓迎してくれる。僕が敵ではないことを知っているからだ。僕は僕で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っている。

僕はキリスト教徒ではないが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きている。従ってこの国に住んでいる限りは、一年を通して身近にあるキリスト教のあらゆる儀式や祭礼には可能な範囲で参加しようと考え、またそのように実践してきた

人はどう思うか分からないが、僕はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚している。言葉を変えれば僕は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのである。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンである。同時に僕は、仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」である。その状態を指して僕は自分のことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼ぶ。

なぜキリスト教系や神道系ではなく仏教系無神論者なのかといえば、僕の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来る。だが僕は先祖崇拝者ではない。先祖は無論「尊重」する。それはキリスト教会や聖職者や信者を「尊重」するように先祖も尊重する、という意味である。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味だ。僕にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではない。

僕が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体だ。教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設である。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践する。また寺は仏陀を、神社は神々を同様に解釈し規定し実践する。

それらの実践施設は人々が作ったものだ。だから人々を尊重する僕はそれらの施設や仕組みも尊重する。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではない。僕が信奉するのは人々が解釈する対象自体なのだ。

そういう意味では僕は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があるとも考えている。だが前述したようにイエスも、また釈迦も自然も僕を拒絶しない。僕だけではない。彼らは何ものをも拒絶しない。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然である。だから僕はそれらに帰依するのである。

言葉を変えれば僕は、全ての宗教を尊重する「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり、「釈迦を信奉する仏教徒」である。同時に「自然あるいは八百万神を崇拝する者」つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもある。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろう。

僕はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかならない。


申し訳ないが今のところ「中国が嫌いなイタリア」は割りと好きです


2年前、アメリカの調査機関が世界44カ国で行った世論調査で、中国が嫌いな国民のトップ3が日本の91%、ベトナム78%、そして3位が意外にもイタリアの70%と出た。

それを見て僕は、われながら大人気ないと思いつつ「中国が嫌いなイタリアが好き」とあらためて感じ、その趣旨でブログ記事を書き出した。が、やはりひどく「大人気ない」と感じて途中でやめた。

ところが先日、中国政府が大都市住民を地方に移住させる計画を立てて、「市民の意思にはお構いなく家を壊しては人々を追い立てている」という事実を知り、忘れていた中国への不信感がよみがえった。

そこで2年前と同じ調査機関のリサーチを覗いてみた。すると中国が嫌いな国の1位は、2016年もやはり日本で86%。2位はフランスとイタリアの61%。続いてドイツの60%などとなっている。

イタリアの中国嫌い度は70%から下がったが、それでもかなり高い数字だ。フランスは2014年は53%で10位だったが、今年は中国嫌いの人が増えた。またドイツは、2014年時も中国が嫌いな人が64%にのぼっていた。

ところで今年は、中国を好きと答えた国々もギリシャやオーストラリアでは50%を越え、オランダ、カナダ、ハンガリーでも40%を越えたことは付け加えておきたい。

僕は中国という多くの優れた思想文化や実学・技術文明を生み出した国を尊敬している。同時に近年は、増長したのか覇権主義に走ったり、人権を踏みにじりつつ詭弁を弄して立ち回ったりする姿には失望も覚える。

そんな折の2年前、日本国民の91%とべトナム国民の78%に続いて、イタリア国民の70%が中国に嫌悪感を抱いているという数字に接し、胸中で「さもありなん」と呟いたものだ。

日本やベトナムは中国の覇権主義の直截あるいは潜在的な脅威にさらされている。従って両国の国民が中国への不信感を募らせるのは理解できることだ。だが中国から遠い欧州に位置しているイタリア国民の、強い「嫌中国」感情は一見奇妙だ。

イタリア国民が中国を疎ましく思うのは、実は中国移民への負の感情によるところが大きい。イタリアには国中に中国人移民が溢れている。ところが彼らは圧倒的な人数でこの国に押し寄せているにも関わらず、全くと言ってよいほどイタリア社会に溶け込まない。

たとえばミ ラノには華僑が集中するチャイナタウンがある。そこは中国人が固まって好き勝手に生きる無法地帯としてイタリア人の不評を買うことも多い。チャイナタウンをミラノ郊外に丸ごと移転さ せようとする計画さえあるぐらいだ。

イタリア政府は世界のあらゆる国々と同様に、中国の経済力を無視できずに彼の国に擦り寄る態度も時々見せる。しかし国民は、ミラノに限らずイタリアの多くの街や地域で増え続ける、中国人移民に恐れをなしているのも事実だ。

世界には中国人移民が多く進出している。イタリアも例外ではない。今言ったミラノを筆頭におびただしい数の中国人が流入して、合法・違法を問わずに住み着き、就労し、商売をしている。

ところが彼らは、前述したように、全くと言って良いほどイタリア社会に溶け込んでいない。その努力をしている気配さえあまり感じられない。彼らだけの閉鎖社会内で寄り添って群れている印象が強い。

中国人移民のほとんどは、社会参画あるいは市民相互の融合という意味では、たとえば僕もその一人である「日本人移民」と比べても分かりにくい存在だ、と多くのイタリア人知己や友人らが言うのも事実だ。

それはひとえに、日本人が多くの場合イタリア社会に溶け込んでいるのに比べ、彼らがそうしないことに由来している。日本人も同胞同士で固まることはもちろんある。だが同時にイタリア社会にも馴染んでいるのが普通だ。

現地社会とほぼ完全に没交渉でありながら彼らは、全ての移民がそうであるように、イタリア社会の恩恵にも浴して生きている。つまりこの国に住まい、商売をし仕事をして、社会保障の恩恵も享受する。それでいながら税金は払わないなどの不都合も目立つ、とも陰口される。

それが事実ならイタリア市民が怒るのも無理はないだろう。もっともそうした悪口には、法に則って居住しビジネスを行い、納税などの義務もきちんと果たしている多くの中国人の存在が、すっぽり抜け落ちている、というのが定番だけれど。

ところで、アメリカの調査機関による分析でイタリア人の反中国感情が高いのは、イタリア国民が持つ日本への共感の裏返し或いは反映ではないか、という意見もよく聞く。しかし、それは見当違いな考え方だろうと思う。

イタリア人の大多数は日本人が好きだし、日本国とイタリア共和国も友誼に富む良好な関係にある。が、彼らの中国嫌いの心情は、飽くまでもイタリア人自身の中国への直接な思いであって、日本との関連はないと見るべきだ。

また、かつてのいわゆる日独伊三国同盟の名残からイタリア人が日本人の肩を持つ、という考えも的を射ているとは言い難い。そんな歴史にロマンを感じる風潮がイタリアに皆無とは言えないが、それは先の大戦を経験した極く少数の老人などが持つ稀な感情である。

イタリア人の日本への好感は、戦後の平和主義とそれに伴う経済成長と謙虚な国民性などによるものである。それがあるからイタリアファシズムという悪と日本軍国主義という悪が手を結んで戦った恥辱の歴史もほぼ帳消しになって、未来志向のポジティブな関係また感情が構築されてきた。

現在イタリア人が持つ日本へのネガティブなイメージは、他の多くの欧米諸国同様に、右カーブ一辺倒の政策を続ける安倍政権への危惧ぐらいのものだ。それとて安倍首相個人を極右に近いナショナリストと見なして監視している、というのが実情で日本国民への好感度は相変わらず高い。

閑話休題

アメリカの調査機関が導き出すイタリア国民の中国観には違和感もある、というのが実は僕の正直な思いである。イタリア人は古代ローマ帝国以来培ってきた自らの長い歴史文明に鑑みて、中国の持つさらに古い伝統文明に畏敬の念を抱いているのが普通だ。

言葉を換えれば彼らは、ローマ帝国の師とも言える古代エジプトにも匹敵する叡智を生んだ中国の歴史に親近感を抱いている。それが突然「嫌中国」感情一色に変わったように見えるのは不思議だ。にわかには信じ難い現象だと思った。だがそれが現実なのである。

イタリアの巷に溢れる中国人移民の動静に加えて、彼らの故国、「中国の国のあり方」もイタリア国民の眉をひそめさせる。つまり国際慣例や法令をないがしろにしたり、覇権主義に走って国際秩序を乱したりしがちな、今この時の中国の実態である。

放埓な共産主義国家と移民のイメージは残念ながら、偉大な世界文明の一つを紡いだ中国の長い輝かしい歴史を否定し、忘れさせるに十分な程のインパクトを持っている。しかもそれはイタリアに限らず欧州の殆どの国々にも当てはまる現実なのだ。

それらの嫌中国、反中国人感情はあってはならない残念なものだ。中国政府と中国国民は、人の良いイタリア人でさえ彼らを嫌悪するケースが多々ある、という深刻な事態にそろそろ気づくべきだ。気づいてそれを修正するべく適切な道を模索するべきだ。

これは決して偽善から言うのではない。そうすることが中国の為になることであり、ひいては日本の利益にもなり、イタリアそして世界全体にも資することになるのだ。中国が大国としての尊敬を集めたいのであれば、そんな当たり前の真実にしっかりと目を向けるべきだ。

このままだと中国は世界からそっぽを向かれかねない。あるいはそっぽを向かれ続ける。そして世界には、日本の極右陣営を始めとして、そうあることを強く望んでいる勢力が多々ある。中国が彼らを利することを潔しとしないなら、その旨しっかりと道を定めて進むべきだ。

似て非なるソックリさん~トランプ&ベルルスコーニ

鏡絵の二人

オワコンvsトレンド

トランプ米次期大統領とイタリアのベルルスコーニ元首相の間には共通点が少なくない。前者はこれから昇り竜の勢いで恐らく世界を席巻し、後者は自らが前者に例えられることを喜んでいる事実からも察せられるように、すでに終わった人と見なしても構わないと思う。それでも、たとえば12月4日に行われたイタリア国民投票のように、紛糾する同国の政局に於いては、依然として影響力を行使政する治家である。事態の是非や好悪の念は別にして、何かと話題になる2人について少し考えてみたい。

ベルルスコーニ元首相への評価は、約20年に渡ってイタリア政界を牛耳り、3回計9年間も首相を務めた時間の重さの割には、極めて低いと言わざるを得ない。将来の歴史家がどこかで違う評価を下す可能性は常にあるが、彼が自らの刑事訴訟を回避する法律を作ったり、巧妙に所有企業への便宜を図るなど、私利私欲のために立ち回った政治スタンスと、裁判沙汰や未成年者買春疑惑などを始めとするスキャンダルの多さは、あまたの批判を喚起するのが普通だ。

一方のトランプ氏は、政治家としてしてはまだ何も成就しておらず、選挙キャンペーン中に彼が提示した政策は、政策と呼ぶには程遠い罵詈雑言やヘイトスピーチや誹謗中傷の類だった。従って2人は政治家としても、また政策上でも相似点や異なる点は今のところは何もない。彼らが似ているのは、政治の世界に乗り出したきっかけや背景や人となりや思想信条などである。それでも政治的にはほぼ終わったベルルスコーニ氏をつぶさに見ることで、トランプ氏の政治家としての未来を占うことはできるかもしれない。

2人の共通点:実業家

共に成功した実業家で大金持ち。どちらも政治家としては未知数、という状況でそれまでのビジネスでの成功を頼みに政治の世界に殴り込みをかけた。それでいながら、ベルルコーニ氏は政界入りから間もない速さで政権を奪取、また周知のようにトランプ氏は、不可能にも見えた共和党大統領候補の座を射止めるや否や、アメリカ大統領へと一気に駆け上っていった。

双方とも建設業を足がかりに、ベルルスコーニ氏はテレビ網や出版また新聞社などを所有してメディア王と呼ばれるようになり、トランプ氏は不動産王と称される事業家になると同時に、テレビタレントとしても成功した。前者はメディアの中でも特にテレビを重視。自らも頻繁にテレビに出演して、討論や演説で自説を開陳しまくった。2人共にテレビに深い縁を持ち、視聴者ひいては世論を味方につけるメディア操作術を得意とする。

艶福家&偏好発言

文学的(?)に言えば性愛好き。つまり好色家。女性蔑視と見られても仕方のない行状や暴言やジョークを連発して、顰シュクを買いつつも少しも悪びれず、むしろそれを特技に変えてしまうかのような悪運の強さがある。トランプ氏は3回結婚。ベルルスコーニ氏も2回の離婚歴があり、御ン年80歳の現在はほぼ50歳年下の婚約者と同棲している。

漁色が高じて、ベルルスコーニ氏は少女買春疑惑を始めとするセックススキャンダルにまみれ、私邸での「ブンガブンガ」乱交パーティーは流行語にもなった。またトランプ氏は選挙期間中に多くの女性への性的虐待疑惑が明るみに出るなど、両人とも女好きでありながら同時に女性の精神性や能力を蔑視するような、いわゆるミソジニストの側面を持っていると批判される。

2人とも反移民の立場を取り、人種差別主義者、また特にイスラム教徒への偏見が強い宗教差別者と見なされることも多い。しかしトランプ氏が、特に選挙期間中にあからさまな表現で人種差別や宗教差別、また移民への偏見や女性蔑視をあらわにしたのと比べて、ベルルスコーニ氏はおおっぴらにそうした主張をすることは少ない。それでいて、イスラム教徒は1400年代と同じメンタリティーに縛られていると口にしたり、オバマ大統領は日焼けしているなど、本人はジョークのつもりの人種差別まがいの失言にも事欠かない。

利害対立と政治手法

両者はビジネスを成功させた手腕をそのまま用いて、国家の経済をうまく機能させられると考え、そう主張する。しかし実際に権力を握ったベルルスコーニ氏は、首相の座に就いていた間もそうでない時も、国民を思って景気を良くしようと努力することはほとんどなかった。それどころか政権の最後には、自らの利益のために立ち回って国家経済を停滞させた責任を取らされ、辞任した。

公益のために身を粉にして活動するには、元首相は余りにも多くの個人資産や事業を抱え込んでいたのだ。いわゆる(公私の)利害衝突だ。元首相と同じビジネス大君のトランプ氏は、同じ轍を踏まない努力をするべきだが、ここまでの動きを見る限りでは、元首相と似た手法を用いて国家経済を牽引できないか、と模索しているふしがある。危ういことこの上もない。

また両氏は正統主義とはほぼ逆の政治手法、つまり体制に反旗を翻すと見せかけた動きで民衆の支持を取り付けるのがうまい。いわゆるポピュリズムの扇動者。彼らが使う言葉が往々にして野卑であり、挑戦的であり、かつ怒りに満ちているように見えるのは、民衆の不満の受け皿としての政治的スタンスを最大限に利用するためである。その場合彼らは具体的な政策や解決法を示さないことも多く、時には嘘も厭うことなく織り込んで、主流派と呼ばれる社会層を声高に批判し、民衆の喝采を受けることに長けている。

子供の放言~元首相を擁護する訳ではないが

2人には巨大かつ根本的な違いもある、というのが僕の意見である。つまりベルルスコーニ氏は、トランプ氏のように剥き出しで、露骨で無残な人種偏見や、宗教差別やイスラムフォビア(嫌悪)や移民排斥、また女性やマイノリティー蔑視の思想を執拗に開陳したりすることはなかった。或いはひたすら人々の憎悪を煽り不寛容を助長する声高なヘイト言論も決してやらなかった。また今後もやらないであろうということだ。

言うまでもなく彼には、オバマ大統領を日焼けしている、と評した前述の言葉を始めとする愚劣で鈍感で粗悪なジョークや、数々の失言や放言も多い。また元首相は日本を含む世界の国々で、欧州の国々では特に、強く批判され嫌悪される存在である。僕はそのことをよく承知している。それでいながら僕は、彼がトランプ米次期大統領に比べると良心的であり、知的(!)でさえあり、背中に歴史の重みが張り付いているのが見える存在、つまり「トランプ主義のあまりの露骨を潔しとはしない欧州人」の一人、であることを微塵も疑わない。

言葉をさらに押し進めて表現を探れば、ベルルスコーニ氏にはいわば欧州の
“慎み”とも呼ぶべき抑制的な行動原理が備わっている、と僕には見える。再び言うが彼のバカげたジョークは、人種差別や宗教偏見や女性蔑視やデリカシーの欠落などの負の要素に満ち満ちている。だが、そこには本物の憎しみはなく、いわば子供っぽい無知や無神経に基づく放言、といった類の他愛のないものであるように僕は感じる。誤解を恐れずに敢えて言い替えれば、それらは実に「イタリア人的」な放言や失言なのだ。

あるいはイタリア人的な「悪ノリし過ぎ」から来る発言といっても良い。元首相は基本的にはコミュニケーション能力に優れた楽しい面白い人だ。彼は自分のその能力を知っていて、時々調子に乗ってトンデモ発言や問題発言に走る。しかしそれらは深刻な根を持たない、いわば子供メンタリティーからほとばしる軽はずみな言葉の数々だ。いつまでたってもマンマ(おっかさん)に見守られ、抱かれていたいイタリアの「コドモ大人」の一人である「シルビオ(元首相の名前)ちゃん」ならではの、おバカ発言なのである。

似て非なる2人

トランプ氏にはベルルスコーニ氏にあるそうした抑制がまるで無く、憎しみや差別や不寛容が直截に、容赦なく、剥き出しのまま体から飛び出して対象を攻撃する、というふうに見える。トランプ氏の咆哮と扇動に似たアクションを見せた歴史上の人物は、ヒトラーと彼に類する独裁者や専制君主や圧制者などの、人道に対する大罪を犯した指導者とその取り巻きの連中だけである。トランプ氏の怖さと危険と醜悪はまさにそこにある。

最後にベルルスコーニ氏は、大国とはいえ世界への影響力が小さいイタリア共和国のトップに過ぎなかったが、トランプ次期大統領は世界最強国のリーダーである。拠って立つ位置や意味が全く異なる。世界への影響力も、イタリア首相のそれとは比べるのが空しいほどに計り知れない。その観点からは、繰り返すが、トランプ氏のほうがずっと危険な要素を持っている。

トランプ氏が大統領の座に就けば、これまでの暴言や危険思想やヘイト言動が軌道修正されて「まとも」な方向に進む、という考えは楽観的に過ぎると思う。またたとえそうなったとしても、それは彼が変わったのではなく、政権の周囲がそうさせるに過ぎない。彼の本質は永久に変わらない、と見るのが妥当だ。その変わらない本質を秘めたまま、トランプ次期大統領は地上最大・最強の権力者の座に就こうとしている。


イラストby kenji A nakasone




ジェンティローニ内閣の課題



イタリア首相にはジェンティローニ外相が昇格。彼は辞任したレンツィ首相に最も近い閣僚だった。その意味ではマタレッラ大統領も同じ。この人事は将来のレンツィ復権をにらんだものかもしれない。

というのもマタレッラ大統領は、テクノクラート内閣ではないなら、パドアン財務大臣かグラッソ上院議長のどちらかを首班に指名して組閣要請をする、とされていたのが突然変わったからだ。

パドアン財務大臣は欧州ひいては世界経済への悪影響を少しでも抑えるために、また党派色の薄いグラッソ上院議長は政治危機を乗り切るための挙国一致内閣に相応しい、と見られていた。

マタレッラ大統領と辞任したレンツィ首相の間に、密約、とは言わないまでも、将来への含みを持たせた話し合いと合意があった、と見るのはそれほど突飛な発想ではないだろう。

ジェンティローニ、マタレッラ、レンツィの3氏は、今後強く連携し、助け合いながら2018年の総選挙でのレンツィ氏のカムバックを目指すのではないか。

むろん、ジェンティローニ内閣が信任され、政権が船出して、かつ権力を得たジェンティローニ首相がレンツィ氏にいつまでも忠誠を尽くす、というあり得そうもない話があった場合の物語だけれど・・

文字通り魑魅魍魎たちが跋扈する政局は、相変わらず複雑で見ていて面白くもありウンザリもする。ウンザリするなら放っておけばいい、というのが筋である。

しかし、それらの魑魅魍魎は、自らにも関わる政治決定や決断や取り決めをする権力をゆだねられているのだから、やっぱり監視をしていたい。いや、監視をしていなければならない。

もっとふざけたやわらかい話や、ノーテンキな発想や、エロやナンセンスやバカバナシというものが僕は好きで、またそういう人間だと思っているので、そこに集中したいというのが本心だけれど・・

ともあれ、ジェンティローニ首相のさしあたっての難題は- 彼の組閣が信任されたと仮定しての話だが- 世界最古でイタリア第3の規模の「モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ」銀行の救済策。

経営難に陥っている同銀行は、莫大な不良債権を抱えて倒産の危機にある。国民投票の影響でEU(欧州連合)が支援に難色を示して、問題がさらに深刻化しているのだ。

危機のただ中のイタリアは右も左も問題だらけ。誰が政権を担っても国の舵取りは順風満帆からは程遠い・・



たのむぞ~っ!イタリア大統領!Ⅱ


イタリア政治危機を受けて、週末も調整に動き続けるマタレッラ大統領は、土曜日夜までに17の全ての政党代表及び幹部らとも会って意見を聞いた。

結論はまだ出ないが、民主党の首班候補として、前記事中の3人に加えてジェンティローニ外務大臣の名前も挙がっている。

日曜日朝までの時点では、どうやら彼が最右翼と見なされ始めたようだ。

4人以外の誰かが指名される可能性も大いにある。

たとえばフランチェスキーニ文化相の芽も。そのほかも。

もちろん総選挙になだれ込むサプライズもないとは言えない。

全てが流動的だ。

イタリア危機は続く。

首班が指名され、新内閣が組閣されても。

おそらくポピュリズムの大波が収まらない限り・・



たのむぞ~っ!イタリア大統領!



イタリアは国民投票後のレンツィ首相辞任によって、「いつもの」政治危機に陥った。

「いつもの」とは、政局混乱や政治空白や危機はイタリアでは「ありふれたこと」だから。

マタレッラ大統領は、危機打開に向けて、辞意を表明したレンツィ首相を始めとする各政党党首や議会幹部、またナポリターノ前大統領などとも会って協議を開始した。

憲法改正案を大差の「NO票」で反故にして、勢いづくポピュリスト政党の五つ星運動と極右の北部同盟は、予想された通りただちに総選挙をするべきとして声を張り上げている。

事態が混乱すれば選挙になだれ込む可能性は否定できないが、規定では総選挙は早くても2018年までは行われない。

そこまでは議会主流派の民主党を中心とする挙国一致内閣、または政党色を払拭したテクノクラート政権などで乗り切ることが考えられている。

民主党内閣なら、欧州また世界経済への悪影響の可能性を少しでも避ける意味で、パドアン財務大臣を首班とする内閣か、党派職の薄いグラッソ上院議長の首相就任が取り沙汰されている。

また、国民投票で大敗を喫して、完全に芽がなくなったはずのレンツィ首相の再登板も噂に上り始めた。これは民主党内でのレンツィ氏の人気が、国民投票敗北後も圧倒的に高いことが理由である。

政治危機の中ではマタレッラ大統領が重要な任務を負う。イタリア大統領は普段は権限のない名誉職の色合いが強いが、議会解散権や首相任命権、また国民投票実施の権限などが与えられている。

政局が混乱した時には、大統領は政党間の調整役として動いたり、首班を指名して組閣要請を出したり、議会を解散して総選挙を行なうなどの重要な役割を果たす。

例えば2011年11月、ベルルスコーニ内閣が倒れた際には、当時のナポリター の大統領がマリオ・モンティ氏を首相に指名して、組閣要請を出した。

イタリア財政危機に端を発した政治混乱の中で、ナポリターノ大統領が見せた誠実な言動と指導力は、まるで無政府状態のように紛糾・空転するイタリア共和国を一つに繋ぎとめる効力があった。

イタリアはレンツィ首相の辞任で、しばらくは当時に勝るとも劣らない混乱に陥るだろう。首相は辞任に際して、超党派で難局を乗り切る必要があるとマタレッラ大統領に伝えたが、それは大統領も十分に承知だ。

マタレッラ大統領は組閣要請を出すために、レンツィ氏の再登板を含むあらゆる可能性を探ることになる。しかし調整が難航した場合には、議会を解散し総選挙を前倒して行う決断をするかもしれない。

影響が欧州から世界まで及ぶ可能性も高いイタリアの政治危機は、静かに、深く、確実に進行し始めた。マタレッラ大統領はその行く末に関わる重い決断を迫られている。


伊レンツィ首相の大罪、あるいは危険な国民投票

NOOO!


あっ気にとられた、というのがうそ偽りのない僕の最初のリアクションだった。イタリアの国民投票の結果のことだ。

70%に迫る高い投票率も驚きだったが、憲法改正に反対の国民がほぼ60%にものぼり、賛成はわずか約40%。20ポイントもの差がついた。どう逆立ちしても否定しようがない「憲法改正NO」の大勝利だった。

大差の敗北をいち早く認めたレンツィ首相は辞任を表明し、悔しさの中にサバサバした思いもこもっているのが明らかな表情をしていた。

それもそのはずである。投票前の2週間は世論調査の数字の公表が禁止されていたため有権者の動向は分からなかったが、それまでは改正NOのリードと出ていて、しかしYESの追い上げもあるため、どちらが勝ってもその差はわずかだと見られていた。

ところがフタを開けてみると、YESを懸命に押したレンツィ首相の惨敗。たとえ負けても政権を担い続ける可能性もある、と見られていた彼の芽は完全に消えた。僅差の負けなら求心力の低下が限定的に留まったかもしれないが、大きく打ちのめされた男が首相であり続けることは不可能だ。

国民投票で問われた憲法改正案は、上院の権限と定数を大幅に削減して議決権を下院に集中させ、上院と下院が全く同じ力を持つことから来る弊害を解消しよう、というのが主な内容だった。

上院の改革は、上院議員以外の全てのイタリア国民の願い、とまで言われてきた懸案。今回の国民投票で憲法改正に反対した勢力を含む多くの人々が、もともとは改革案に賛成してきた。当事者の上院でさえ昨年10月に改革案を受け入れ、あとは国民投票による最終審査が残されるのみとなった。

そんな状況を見て、自らの力を過信したレンツィ首相は、大きな間違いを起こした。国民投票で賛成が得られない場合は退陣すると表明したのだ。それは「国民投票で私を取るか、それとも私を失うか」と問うにも等しい、尊大な物言いだと多くの人々は感じた。

彼の政敵はその不遜な表明をうまく捉えて、「国民投票は首相への信任投票」と位置づけて強力な反レンツィ運動を展開。そこから流れは大きく変わって、国民投票の真の意味が見えなくなるほどに「改正NO」の勢力が拡大し、ついに彼は退陣にまで追い込まれた。それは、英国のキャメロン前首相が、自らを過信してEU離脱の是非を問う国民投票を実施した先例と同じ大失策である。

2人はそれぞれの政治生命にかかわる失敗をやらかすと同時に、英国とイタリアという個性的で美しい国家を破壊しかねないほどの大罪も犯した。つまり英国はキャメロン前首相のしくじりによってEU離脱という迷い道に踏み込み、イタリア共和国もレンツィ首相の不手際のせいで、英国と同じ道をたどる可能性が出てきたのだ。

それというのも、イタリアの国民投票をNOに誘導したのが、脱ユーロそして将来はEU離脱も視野に入れる、ポピュリスト政党の五つ星運動と極右の北部同盟だからだ。五つ星運動は米トランプ主義を信奉し、北部同盟はトランプ主義を賞賛すると同時に、フランスの国民戦線などの欧州極右勢力と連携する道を模索している。

イタリア国民投票では、ベルルスコーニ元首相率いるFI(フォルツァ・イタリア党)も五つ星運動と北部同盟に同調した。FIは基本的に五つ星運動と相容れず、極右の北部同盟とも一定の距離を置いているが、事態の展開次第では、元首相の私意のままにユーロやEUからの離脱でさえ支持しかねない危うさを秘めている。

イタリア国民投票での「憲法改正NO」の勝利はある程度織り込み済みだったせいか、事前に懸念されていたEU経済ひいては世界経済へのインパクトは今のところは少ない。しかし、ユーロやEUそのものを揺るがす火種になる可能性が高いイタリア発の危機は、今まさに始まったばかりだ。

Brexitとトランプ勝利に続く「欧米第3のグローバル反体制運動」とも位置づけられるイタリアのポピュリズム運動のうねりは、来年春のフランス大統領選と、オランダまたドイツの総選挙などに連動して高まり、大津波となって欧州を呑み込み世界を席巻していくのかもしれない。



そこのあなた、イタリアの国民投票を気にしている場合ですよ


下院と同等の権限を持つ上院の改革を主な争点に、憲法改正を問うイタリアの国民投票が、ついに明日に迫った。歯車が狂えば、EU(欧州連合)の崩壊にまでつながりかねない重要な案件のポイントを、再びここで指摘しておこうと思う。

国民投票で“Yes”が勝った場合:

日本の衆議院に当たる下院と、参議院にあたる上院のうち、上院の力が大幅に縮小される。現在上院は下院と全く同等の権限を有する。そのために政治の停滞と混乱が頻繁に起こる。

上院議員の定数も315から100に削減。そうすることで議員報酬に始まる経費も大幅に減少。また自治県のボルザノとトレントを除く全国の県も廃止し、権限を中央政府に移譲する。そこでも大幅なコストの削減が見込まれる。

政府の試算では、憲法改正によって複雑な官僚組織が簡略化され、一年につき少なくとも約600億円の経費削減ができる。

レンツィ政権は懸案である教育、法制、行政組織などの抜本的な改革にただちに着手できる。憲法改正には民主党主流派と、少数の与党会派、経済界などが賛成している。

国民投票で“NO”が勝った場合:

YESを主導したレンツィ政権が倒れる。それはすぐさま欧州全体にネガティブな影響を及ぼす。ただでも不安定なイタリア政局が大揺れに揺れて、特に経済的な悪影響が広がると見られる。スイスの大手銀行はその予測を否定している。が、それは銀行のポジショントークである可能性も高い。

第2のシナリオ。レンツィ首相は退陣するものの民主党党首に留まる。そしてパドアン財務大臣を首班とする内閣を発足させる。しかし、政治の停滞と混乱を恐れる今の内閣の閣僚や大統領の要請によって、レンツィ首相が政権を担い続ける可能性も依然としてある。

第3の可能性は、レンツィ首相がやはり辞任して、政治家や政党色を廃したテクノクラート(専門家)内閣が発足すること。イタリアでは政治混乱を収束させるためにしばしばテクノクラート内閣が組閣される。英国の週刊紙エコノミストも、「テクノクラート内閣が最良の道」と主張して注目を集めた。

国民投票でNOを声高に主張しているのは反体制ポピュリストの五つ星運動、ベルルスコーニ党(FI)、極右の北部同盟などである。彼らが勝てば、Brexit(英国のEU離脱)とトランプ大統領誕生に続く今年3番目の大きな体制反対運動の勝利、という見方がある一方で、NOの勝利は「現状維持」の確認に過ぎず何も変わらない、とする意見もある。

僕はNOの勝利は「現状維持」とは程遠い大きなインパクトがあると思う。なぜならば、NOを強く推進している最大勢力の五つ星運動が勢いを得て、近い将来政権を奪取する可能性があるからだ。

五つ星運動は政権を取ると同時に、イタリアを先ずユーロから、そして最終的にはEUから離脱させる方向で動くだろう。彼らの最大の政治目標はItalexit、つまりイタリアのEU離脱だからである。

その動きには極右の北部同盟が同調し、もしかすると「国民投票NOキャンペーン」と「反レンツィ」でまとまった、ベルルスコーニ元首相率いるフォルツァ・イタリア(FI)党も賛同する可能性がある。そうなれば、イタリアのEU]離脱すなわちItalexitは容易に実現してしまうだろう。

イタリアの離脱はEUの崩壊につながりかねず、EUが崩壊すれば「トランプ米ネトウヨ・ヘイトスピーチ政権」に物申す力の一つが地上から消えて、世界は憎しみと不寛容と差別が横行する、トランプ次期大統領の頭の中と何も変わらない状況に陥るかもしれない。

そこで日本人も、「遠いイタリアの自分には無関係な国民投票」などと鎖国体制のぬるま湯に浸って傍観していないで、白人至上主義の世界では日本人も有色人種として差別される存在である真実を見据え、状況によっては、巡りめぐって自らにも十分に関係してきかねない事案に、少しは関心を持つべきである。

なお、国民投票2週間前までの世論調査では、憲法改正NOがYESを5~7ポイント上回っていた。それ以後は投票日までの2週間に渡って、調査結果の公表が禁止されるため状況は分からないが、有権者の3人に1人が意志未決定とも言われてきた。

また海外に住む400万人のイタリア人の多くが国民投票ではYESに回ると見られているが、事前の調査では彼らの動向は織り込まれてこなかったため、この部分でも「NOが優勢」という2週間前までの調査結果を無条件に信じることはできない、と考えられている。

ホントの気候変動は菜園の中にある

400pic南畝ヒキ肥料込み


2016年11月末現在、僕の菜園には冬を越すカリフラワーやキャベツなどと共に、大根、ネギ、ラディッキオ(チコリの一種・菊苦菜)、さらに夏野菜のフダン草やルコラ(ロケットサラダ・ハーブの一種)などがまだ結構残っていた。

そのうちのネギとラディッキオを残して全てを刈り取った。

200へ400picラディッキオ・チコーラ→春、庭造りの際に菜園の一部に入れてもらった土が、水はけほとんどゼロの粘土質で野菜作りには適さない。

そこで深さ10センチ~15センチを入れ替えてもらうことにした。それで入れ替え部分の作物を全て取り込んだのである。

今年は、たとえばトマトやピーマンやナスなどは、普通に寿命が来て9月末頃にはすっかり枯れ果てた。

が、前述のラディッキオやルコラやフダン草などはまだしっかりと芽生え育っていた。200へ400picズッキーニ花一輪→

ズッキーニもほとんど枯れたが、まだ花が咲いたりする茎があったので、その部分は11月半ば頃まで生かしておいたりした。

花はさすがにうまく結実し成長することはなかった。

こう書いている今日は2016年12月2日の金曜日である。少し前までならあり得ない話。

200へ400picネギ→11月といえば菜園の作物は冬野菜以外は全て枯れて、土もかちかちに凍る手前の時間だった。

気候変動は「熱」に向かって確実に時を刻んでいる。

渡り鳥は渡らなくなり、冬でも蚊や昆虫が舞い飛ぶ。渡り鳥はそれらを食べることができるので餌に困らなくなり、渡らなくなったのだという。

大雨が降ったり暴風が吹き付けたりと異変が多い。でも、異変はもはや頻繁すぎて異変とは言えないのではないか。200へ400picコステ→

非日常が日常になりつあるのが今の気候のあり方だが、普段は温暖化で暑いと思っているのに寒い年があったり、冷夏さえも出現して頭が混乱する。

しかし、菜園では混乱がない。前述したように気候変動は確実に「熱」に向かっている。

だから野菜の寿命が長いのだ。あるいは野菜を枯らす寒さの到来が遅いのだ。

ありdaikon better 400pic→200へ奥行き季節はその部分では混乱しない。いや、野菜たちが、空気が確実に暖かくなっていることを知っていて、いつまでも枯れない、と言うべきか。

地球規模で考える温暖化は悪い兆候ばかりが目立つ。しかし、僕の菜園に関する限り、温暖化は楽しい。

美味しい野菜が12月に入ってもまだ収穫できたりするのだから。

ちなみに僕の菜園は完全なるオーガニック、有機栽培。なので雑草や害虫やカタツムリ類も大変。200picチビキャベツ2個400→



しかし、作物の味は大量生産のものとは違って、コクがあり、かつ実に美味い。


200へ400picラディッキオ・チコーラUP→

よくオーガニックが美味いと感じるのは錯覚、と言う人がいるけれど、彼らはきっと自分で作ることはおろか、本物の有機栽培野菜を食べたことさえないのだと思う。

でなければ、味覚がちょっとサビれてしまっているのかも。



黒澤映画でさえ古くなる



先日、僕の住む地域で日本紹介の文化祭りがあった。古武道に始まり、茶道に花、盆栽、楽焼、漫画、映画紹介など、など、多岐にわたるにぎやかな催し物だった。

そこはミラノにほど近い、日本で言うなら大き目の村だが、文化的な催し物への関心が割と高く、日本関係を含むイベントもよく開く。イベントを観光産業に結びつけたい狙いもあるようだ。

僕は今回は、イベントで上映する日本映画の選択と紹介、および解説を頼まれた。祭りの主役は古武道なので、それに掛けて時代劇のうちの黒澤映画“用心棒”と、日本文化紹介に因(ちな)んで“おくりびと”を選んで上映解説した。

用心棒は1961年作。黒澤はそれ以前に、ベニス映画祭で金獅子賞(最高賞)に輝いた「羅生門」や「七人の侍」を発表していて、既に世界的に知られた監督だった。

用心棒は、黒澤を含む全ての映画監督の優れた作品がそうであるように、そこかしこに新しい発見、あるいは独創をちりばめた楽しい映画だが、それ以外の要素でも世界の注目を集めた。

映画公開から3年後の1964年、用心棒はイタリアのセルジョ・レオーネ監督によって「荒野の用心棒(伊タイトル:per un pugno di dollari)」というタイトルでリメイクされた。主役はクリント・イーストウッドである。

僕は今リメイクと表現したが、実はそれはセルジョ・レオーネによる盗作だった。黒澤に無断で模造されたのだ。事件は裁判沙汰になってレオーネ側は全面敗訴。10万ドルの賠償金と日本での興行権、さらに全世界での興行利益の15%を黒澤側に支払う、という結論になった。

盗作騒ぎでも話題になった「荒野の用心棒」は、いわゆるマカロニウエスタンである。黒澤のオリジナルにも勝るほど大ヒットし、レオーネ監督自身と、そして何よりもクリント・イーストウッドを大スターに押し上げた。そうやって同作は映画史上に残る名品になった。

映画はさらに続編として「夕陽のガンマン」、「続・夕陽のガンマン」が同じクリント・イーストウッド主演で制作され、第一作の「荒野の用心棒」と合わせて「ドル箱三部作」とさえ呼ばれた。

大スターの仲間入りを果たしたクリント・イーストウッドは、後年カンヌ映画祭で黒澤に会った際、「ミス ター・クロサワ。あなたなしでは今日の私はなかった」と挨拶して黒澤を称え、これまた映画史上に残る名エピソードになった。

名作の用心棒だが、なにしろ古い映画だ。僕が解説を入れて上映はされたものの、お世辞にも大入り満員というわけには行かなかった。用心棒の新しさは、その後の多くの活劇で繰り返し真似をされて現在に至っている。

その事実を知らない現代の映画ファンにとっては、オリジナルの黒澤映画は展開の遅い退屈な古典、という風にも感じられがちだ。その夜の上映会場にも同じ空気が漂っていた。しかし、嘆いても仕方がない。それが映画のみならず、あらゆるエンターテイメントや芸術の宿命だ。

斬新な作品は、斬新であればあるほど後世の人々に取り入れられ、模倣され、リメイクされ、改善さえされて、時代時代に即応した作品として生まれ変わっていく。だがオリジナル自体は時代に生き血を吸われて衰退し、古びていく。そうやって古くなった傑作はやがて古典と呼ばれるようになる。

「古典は永遠(に面白い)」というのは真実だが、それは古典の良さを知るいわば“通”の人々の真実であり、今を生きる人々の全てに当てはまるコンセプトではない。古典は優れた作品だが、その名の通り“古い”定式なのだ。あるいは手本にもなり得る傑作だが、やはり“古い”のである。

“通”ではない大衆にとっては、“古い”とは退屈以外の何ものでもない。が、“通”や専門家は逆にそれを有り難がる傾向がある。僕はそのことを知りつつ、敢えて用心棒を上映作品に選んだ。上映会が「日本文化祭」の一部だったからだ。

かつて大衆が愛した娯楽作品の用心棒は、今を生きる人々にとってはもはや古く、退屈なものかもしれないが、同時にそれは日本文化の一角を担う古典芸術なのだから、そこで上映される価値がある、と僕は考えたのである。

用心棒とは違って“おくりびと”は多くの観客の感動を呼んだ。黒澤の用心棒からほぼ50年後の作品という「新しさ」もさることながら、葬儀という普遍的な事案に対する普遍的な「偏見」を正面から見据えたその作品は、日陰の生業に光を当てた、日本文化の繊細を人々に知らしめて強力なインパクトを与えた。その意味では僕の狙いは当たった。

それでも黒澤映画への感動がダイレクトに沸き起こらなかった事実は、いまだに僕の心に少しの、しかしけっこう重いしこりとなって残っている。なぜなら黒澤の偉大な娯楽傑作が「もはや人々に受けない」という冷徹な事実は、古典の宿命であると同時に映画の衰退を露骨に示す現象以外の何ものでもない、とも、またいまさらながら思い知るからである。


トランプを抱えた世界の未来図


トランプ次期大統領の大統領としてのあり方を多くの人が予想している。それを三つにまとめるとおよそ次のようになると言っていいように思う。

1.トランプ大統領は、(大統領らしく)過激な物言いはもちろん極端な政策も修正して、普通の政治を行うだろう。

2.いやいや、彼は過激な政策や思想を公約にして当選した(選挙戦を勝ち抜いた)。当然その方向で政治を行うだろう。

3.きっとその中間だ。

それらの予想はどちらも正しく、どちらも間違っている、なぜならどの方向に向かうかは誰にも分からないからだ。

そういう不確実な事態はよくあることだが、今回の場合はトランプ仮大統領自身もおそらく先が見えていない、という意味で普通とは違う。不確実の正体は恐らくそこにある。彼の政策の行方ではなく、彼自身が何を政策にすればいいのか分かっていないのだ。

それでも、今年中なにも起こらなければトランプ大統領は必ず誕生するのだから、彼がどういう動きをするのかを占うのは「彼を監視する」意味で悪いことではない。

トランプ大統領は、米国民からも世界世論からも史上最も注視される大統領になることは間違いない。米大統領をそんな位置にもっていったことも彼の変革《チェンジ》の一つだ。

僕はトランプ大統領はより1.に近い動きをすると予想する。理由は、彼がホワイトハウスでオバマ大統領と面会した時の様子と、ライアン共和党下院議長と面会した時の態度だ。

僕はその様子をBBC国際放送で逐一見たのだが、どちらの会見でもトランプ次期大統領が借りてきた猫もビックリ、と言いたくなるほどのかしこまった物腰でいるのに驚き、失笑し、落胆した。

トランプ氏の卑屈な 態度に比べると、ホワイトハウスでは、昨日の敵を鷹揚に迎え接するオバマ大統領の人格の大きさばかりが目だった。そこでのトランプ氏を見て、彼には選挙キャンペーンで喚いた主張や思いや公約を実行する気概は無いのではないか、とさえ僕はいぶかった。

僕の疑念は、彼がポール・ライアン下院議長と国会を回り、記者会見に臨む姿を見て確信に変った。ポール・ライアン下院議長は次期大統領候補とも目されている共和党きっての実力者である。そして、彼は選挙期間中はトランプ候補と対立し、激しく攻撃したりもした。

選挙選の大詰めでは、しぶしぶトランプ候補支持を表明したものの、ぬるま湯につかったようないやいやながらの手打ちだった。

それにもかかわらずトランプ氏は、自分の息子ほどにも見える若い下院議長の前にかしこまり切って、目も合わせられないほどに恐縮している。僕はその卑屈さにオバマ大統領との会見のときをはるかに上回る驚きを覚えた。

トランプ当選者の目の前にいるのは、彼が選挙期間中ののしり続けた共和党主流派の主役の中の主役、ライアン氏である。その前に跪くトランプ氏は、将来きっと主流派に呑み込まれて主義主張を変えていくのだろう、と僕はそのとき確信にも似た思いを持った。

彼は多くの怒れる人々(白人労働者階級ばかりではない。富裕層も貧困者も黒人もヒスパニックもそしてなによりも女性でさえも)が糾弾した体制派の前に跪いている。

対抗者のヒラー・クリントン候補も属し、そしてそれゆえにトランプ候補に攻撃されて共和党支持者は言うまでもなく民主党支持者からもそっぽを向かれた、「古い政治家、古い主流派」に彼は早くも丸め込まれているように見える。それがきっとトランプ氏の正体だ。

僕のその見方がもしも当たっているならば、彼は実はチェンジなど招かなかった。ポジティブな変革は何ももたらさず、ひたすら憎しみと差別と分断のみを世界にもたらした。その意味では彼は、やはり破壊者でしかない、ということになる。



トランプ次期大統領の罪


ついにトランプ米大統領が誕生することになった。

反移民、人種差別、宗教差別など、米国の国是と世界の大勢に真っ向から対立する主張を旗印にして選挙戦を戦ったトランプさんは、言うまでもなく、就任後に有能な大統領に化ける可能性もある。

アメリカを建て直し、中東からISを追い出し、欧州や日本などの同盟国ともうまくやっていくかもしれない。 

だが彼は、「差別や憎しみや偏見などを隠さずに、しかも汚い言葉を使って公言しても構わない」という考えを人々の頭に植え付けてしまった。

つい最近まで、つまりトランプさんが選挙キャンペーンを始める前までは、タブーだった「罵詈や雑言も許される」といった間違ったメッセージを全世界に送ってしまった。

それはつまり、人類が多くの犠牲と長い時間を費やして獲得した「寛容で自由で且つ差別や偏見のない社会の構築こそ重要だ」というコンセプトを粉々に砕いてしまったことを意味する。その罪は重い。
 
彼の愚劣な選挙キャンペーンによって開けられたパンドラの箱は、もう閉めることができない。

トランプさんはその一点でこの先も糾弾され続けなければならない。

その罪過は、将来彼が偉大な大統領として歴史に名を残すことになっても、あるいは帳消しにならないほどの大きなものだ。

「本音を語ることがつまり正直であり正しいことだ」と思いこんでヘイトスピーチを行い、それを容認し、本音の中にある差別や偏見から目をそらす者は、さらなる偏見や差別思想にからめとられる危険を犯している。

それがトランプさんであり、選挙戦中の彼のレトリックである。

大統領に当選したからといって、無条件に彼を祝福する理由はまだ何もない。 

 

豪栄道は横綱ではなく「名大関」を目指せ



九州場所では豪栄道が5連勝している間、相撲に関するブログ記事を書かないように気を遣っていた。彼の快進撃を応援したとたんにコケるのではないか、と心配したからだ。サッカーでは僕がひいきのイタリアナショナルチームにエールを送る記事を書いた先から負ける、ということがよくある。僕は豪栄道にそんな不運を贈りたくなかった。

6日目に玉鷲に敗れたときは、玉鷲のマグレ勝ちなのであり豪栄道には罪はない、と無理に思い込んだ。翌日、豪栄道は魁聖を破って僕の気持ちに応えてくれた。ところが次の日は隠岐の海に負けた。僕の気持ちは落ち込んだ。しかし、最終的に13勝2敗で優勝なら、横綱昇進も十分にあり得ると自分の気持ちを一生懸命に鼓舞した。13勝2敗での優勝とは、翌日以降の対戦相手になる全ての横綱と大関を蹴散らしての優勝ということなのだ。

ところが、その翌日には大関の稀勢の里に完敗。情けない結末。見事なものだ。いつも通りの日本人力士の体たらく。僕は腹立ちを隠して、ツーかもう呆れて記事どころの気分ではなかった。うんざりしながらも、若手の活躍や鶴竜の頑張り、そしてふと気づくと稀勢の里の綱取り再開の足固め、みたいな様相を呈し始めた取り組みを結構楽しみながら観戦したりしていた。

豪栄道は結局また元の木阿弥のクンロク君。彼のファンの皆さんには申し訳ないが、そして大相撲が大好きなファンの立場から敢えて言わせてもらうが、豪栄道は横綱を目指すのではなく「名大関」を夢見て精進した方がいい。かつては清国も貴ノ花も小錦らも、そして幕内優勝5回を誇る魁皇でさえも横綱になれなかった。悪いが大関の地位を守るだけでも精一杯の豪栄道が、横綱なんて10年早いのだ。

そんなわけで今場所12勝を挙げて、来場所は綱取り準備の重要な場所になるかもしれない稀勢の里に期待し、さらに若手の正代、勝ち越しはならなかったものの遠藤、また膝のケガさえ治ればすぐに横綱になるであろう照ノ富士、加えて遅まきながら「化けた」可能性のある鶴竜と玉鷲らに期待したい。

ひとつ確認しておきたいのは、勢の里に期待するのは彼が日本人だからではない。横綱になれる器だと思うからだ。日本人だからという思いで、弱い豪栄道を心中でひそかに応援し続けた今場所の愚は再び起こさないでおこう、と僕は強く肝に銘じた。相撲取りというのはベテランも若手も、強い力士が見ていて面白いのであり、彼が日本人か否かはやはり関係がないとあらためて思う。



イタリア国民投票の希望と不安と諦念と


イタリアの政局は、12月4日に行われる憲法改正の是非を問う国民投票を巡って、いつもよりも熱く紛糾している。上院と下院が同じ権力を持つことで生まれる政治停滞を是正して、より安定した政権を作ることで国政をうまく機能させようというのが、国民投票にかけられる憲法改正案の主旨である。

具体的に言えば、上院の権限を大幅に制限して、日本ならば衆議院に当たる下院に権能を集中させようというものだ。上院自体がこの議案に賛成した昨年10月頃は、憲法改正はほぼ成ったも同然の雰囲気があった。

しかし、国民投票へ向けての民意を主導したレンツィ首相は、世論が自らの追い風になっている状況を見て少々思い上がってしまい、2016年12月4日に行われる国民投票が否決された場合は首相を辞任する、と口走ってしまった。そう脅迫することで国民投票の行方をさらに確実にできると考えたのである。

彼に反対する勢力は首相のその宣言に一斉に噛みついた。中でも強烈な「反レンツィ=国民投票NO」キャンペーンを展開したのが、首相の属する民主党と支持率が拮抗している五つ星運動である。2009年の結党以来、一貫して反体制ポピュリズムを掲げる同運動は、国内外のあらゆる既存勢力に反旗を翻して特に若者を中心に人気を博している。

五つ星運動にも勝る勢いで国民投票NOと叫んだのが極右の北部同盟である。そこにベルルスコーニ元首相のFI(フォルツァイタリア)党も参戦した。同党は弱小政党の北部同盟よりも影響力が大きい。支持率が拮抗する民主党と五つ星運動に続くイタリア第3の政治勢力だ。ベルルスコーニ派が国民投票NOに回ったことで、政局はいよいよ錯綜した。

レンツィ首相が「国民投票で私を取るか、それとも私を失うか」という趣旨の問いかけをしたのは、英国のキャメロン前首相が、自らの政治基盤を過信してEU離脱の是非を問う国民投票を実施する、と宣言した事例と瓜二つの大失策だ。

英キャメロン首相は国民投票で敗北し退陣した。レンツィ首相も同じ轍を踏む危険が高い。彼の批判勢力が「上院改革にイエスかノーか」という国民投票の本来の争点を骨抜きにして、「レンツィ政権にイエスかノーかの信任を問うのが国民投票」という議論に民意を誘導し、大成功しているからだ。

五つ星運動は、憲法改正の国民投票をNOに集約することでレンツィ政権を倒し、次の総選挙で政権奪取を目指す考えだ。それは夢物語ではない。同党の支持率はレンツィ首相の民主党と同じか、わずかに上回っているとさえ見られているのだ。しかし、彼らの狙いはもっとほかにある。それがBrexitに掛けたItalexit、つまりイタリアのEU離脱である。

五つ星運動は結党から一貫して反EUを標榜してきた。だが同党は時として本心を隠してカメレオン的な動きをするのが得意だ。たとえばローマ市長選挙では、反EUの看板を下ろしてローマ市政の腐敗を争点に絞って戦い、見事に勝利して史上初の女性ローマ市長を誕生させた。

今回の国民投票反対キャンペーンでも、反EUの旗印を完全に降ろしてはいないが、争点をレンツィ首相信任か否かに持ち込んで集中して議論を進め、大いに成功しているように見える。だが彼らの真の目標は、前述したように、将来イタリアをEUから離脱させることだ。

EU懐疑論と反レンツィでは、極右の北部同盟も左派ポピュリストの五つ星運動と相通じている。今のところ2者が手を組む予兆はないが先のことは誰にも分からない。またベルルスコーニ派はかつて北部同盟と連立政権を組んだこともある。現在はより極右側にシフトした同党とは距離を置いているとはいうものの、反レンツィ=反上院改革、つまり国民投票NOでは意見が合う。

ベルルスコーニ派は国民投票NOキャンペーンに力を入れ、それはつまり反レンツィの主張であり五つ星運動とも通底しているのだが、彼らは五つ星運動に親和的とは言い難い。それどころか五つ星運動が将来政権を取るような事態は、かつての共産党が政権を奪取するのと同じくらいの由々しき状況だと思っている。そこで国民投票NOが大きな意味を持つ。

つまりベルルスコーニ派は、国民投票を否決に持ち込んでレンツィ政権を倒し、同時に上院を現状のまま温存する。そうすることで、将来五つ星運動が政権を握るという彼らにとっての悪夢が現実のものとなったとき、下院と全く同じ力を持つ上院が五つ星運動の暴走を阻止する、という構図である。つまり、イタリアの政治は現在のまま何も変わってはならない、という選択。国民投票NOキャンペーンは彼らにとって、レンツィ首相の退陣と五つ星運動のいわば”封じ込め“をもたらす一石二鳥の良策なのである。。

魑魅魍魎も真っ青なイタリアの「いつもの」政治のカオスだが、さらにもうひとつのどんでん返しがある。実は国民投票が否決された場合の方が五つ星運動の政権奪取の可能性が高くなるばかりではなく、同党の政権運営もスムースに運ぶ公算が高い、という見方もあるのだ。それを受けて、反レンツィ勢力の中にも、いや、やはり国民投票をYesに持ち込んで憲法を改正するべき、と主張する者も出て、ますます紛糾しているのが今日のイタリアの政局である。

僕はレンツィ首相の支持者ではないが、上院を改革していびつなイタリアの政治のあり方を是正するべき、と考えているので国民投票に関しては彼を支持する。上院の権限と議員数を大幅に削減するのが目的の上院改革案は、当の上院議員を除く全てのイタリア国民の悲願とされてきた事案だ。反体制を信条とする五つ星運動は言うまでもなく、ベルルスコーニ元首相率いるFIも北部同盟も元々はその悲願を共有している。

彼らがイタリア共和国の行く末を本気で憂うなら、ここは先ず国民投票をYes に誘導して、その後に政権獲得を目指してお互いに競い合うべきだ。その言い分が政治の汚濁と過酷の中に住まない僕の理想論であることを重々承知しつつも、イタリアを愛しイタリアに住む一日本人移民として、僕はやはり心からそう願わずにはいられないのである。



トランプが背中を押すイタリアのEU離脱


看板+grillo大げさに驚く
ベッペ・グリッロ「五つ星運動」党首


トランプ米次期大統領の誕生で、イタリアの最大野党=左派ポピュリストの「五つ星運動」が勢いづいている。党首のグリッロ氏は、「トランプ次期大統領は五つ星運動と一心同体だ、われわれも彼に続こう!」と支持者に向けて激を飛ばした。

左派の五つ星運動が、敢えて旧来の定義に従って言えば極右に属するトランプ氏に賛同し、あまつさえ一心同体とまで断言するところにイタリア政局の不思議があり、瞠目するほどの柔軟性と多様性がある。それは言葉を変えれば「混沌」ということである。

五つ星運動はポピュリストであること、反体制であること、EU(欧州連合)懐疑派である点などで確かにトランプ氏とよく似ている。トランプ氏は英国のEU離脱を歓迎するなど、欧州域外では最大の反EU主義者だ。

五つ星運動は2009年、お笑い芸人のベッペ・グリッロ氏によって創設され、2013年の総選挙で大躍進。レンツィ首相の民主党に次ぐイタリア第二の政治勢力になった。その後ローマ首長選挙で同党所属のラッジ氏が史上初の女性市長に当選するなど、時には民主党を上回る支持率で快進撃を続けている。

五つ星運動は、先ずユーロからの離脱、さらにはEU(欧州連合)からの離脱も視野に入れた国民投票の実施を政策の目玉に掲げ、12月4日にレンツィ首相主導で行われるイタリア上院の改革を問うもう一つの国民投票には強く反対している。

国民投票を否決に追い込んでレンツィ首相を退陣させ、その後の総選挙で政権を奪取して、将来は英国が行ったと同じ国民投票でイタリアをEU(欧州連合)から切り離す、というのが五つ星運動の構想である。

左派ポピュリストの五つ星運動の主張は、前述したように極右的なトランプ氏の論点に通底し、イタリアを含む欧州各国の極右勢力のそれにもぴたりと合致している。

欧州の極右勢力はトランプ大統領の登場を小躍りして喜んでいる。つまりマリーヌ・ルペン率いるフランスの国民戦線、英国のナイジェル・ファラージの独立党、ギリシャの黄金の夜明け、またオーストリア、オランダ、東欧諸国などの反移民・排外主義勢力である。

それらの政党のイタリア版が、EU(欧州連合)に反対し反移民を叫ぶ北部同盟である。北部同盟はかつては左派的な主張もする抗議政党だったが、現リーダーのサルヴィーニ書記長が就任してからは、欧州中の極右勢力との連携を強めている。

Italexiteymcisyt_400x400横150picしかしながら北部同盟はイタリアの弱小政党に過ぎない。来年春のフランス大統領選で、ひょっとするとルペン党首が当選するかもしれない、とさえ見られているフランス極右の国民戦線などの勢力とは比べるべくもない。ところがそこに五つ星運動が加わることで、イタリアのEU離脱はふいに現実味を帯び始めるのだ。

もしもイタリアがEUから抜ければ、それはEUの完全崩壊にもつながりかねない大事件になる可能性がある。イタリアは欧州政治でもまた世界政治の場でも、英国よりもはるかに小さな影響力しか持たない。G7の中でも政治経済共にほぼミソッカかすの位置にいる。

イタリアの存在感は、ミソッかすではないが、英国離脱前のEUの中でもほとんど似たようなものだった。EUの中心は英独仏の3国であり、イタリアはその他大勢の中にいた、という見方もできた。

それでいながらイタリアは、EUの事実上の盟主である独仏に対抗したい英国と組んで、陰になり日向になって協力し合う関係も築いてきた。しかしBrexit(英国のEU離脱)でその構図は崩れ去った。

Brexit後、イタリアはEU第3のパワーになった。同時にイタリアは、英国が仲間だった頃と常に変わらずEU内の「その他大勢」の代表のような存在でもある。そんなイタリアの動静は、EUの盟主である独仏とは違う意味で影響が小さくないのである。

英国の離脱は、言うまでもなく、EUの結束という意味では大きな打撃だった。だが英国は、EU参加メンバーになってからも独立独歩の生き方を変えることはなく、何かにつけて特別待遇を要求するうるさい存在だった。英国参加後のEU内では、全参加国28ヵ国のうち、27ヵ国対英国、という分断の構図もしばしば表面化した。

英国以外の27カ国は、程度の差こそあれ、誰もがそのことに不満を感じていた。従って、英国のEU離脱は痛手だが、仕方がない。英国のいないEUは以前よりも増しだ、とひそかに考える向きさえあるのが現実だ。

イタリアは独仏蘭ルクセンブルクまたベルギーと共に、EUの創立国6ヶ国の一角を占め、常にそれを強く支持してきた国だ。EUへの肩入れの強さは、ぬるま湯のようだった英国のそれとはケタが違う。

英国の離脱はEUにとって大きなボディーブローだったが、イタリアの離脱は一発KOの打撃になる可能性がある。その試金石の初めが、五つ星運動が否決を目指して激しく動く、12月4日のイタリア国民投票なのである。




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