イタリア、人権闘争の獅子マルコ・パネッラ逝く

パネッラCorri写真UP800pic

イタリア急進党(Partito Radicale)の創設者マルコ・パネッラ氏が86歳で亡くなった。

日本ではほとんど知られていないと思うが、パネッラ氏は旧弊なイタリア社会の変革に情熱を燃やしつづけた政治家である。

同氏は70年代~90年代にはイタリア国会議員。また 1979年から2009年までの間は4度に渡って欧州議会議員も務めた。

彼の最大の功績は、カトリック教のガチガチのドグマに縛られていたイタリアの中絶禁止法と離婚禁止法に噛み付いて、やがてこれを破棄させたことである。

パネッラ氏の政治基盤は自らも創設者の一人だった前述のイタリア急進党。しかし党名は急進(Radical)つまり極左にも近い響きがあるものの、実際の在り方は左右の政治枠には入らないのがその特徴だった。

右翼や保守とは相容れず、左派や共産主義者ともよくぶつかった。あえて他の欧州諸国の政治枠組みに入れてみるなら「進歩党」とでも呼ぶのが適切かもしれない。

パネッラ氏を例えば日本共産党や旧社会党の幹部と並べて評価しようとする意見もあるようだが、それはイタリアの社会の深部を解しない見方である。彼を日本の政治家と比べることはできないと思う。

今のところ日本には、パネッラ氏に匹敵するようなコミュニケーション能力に長けた革新派の政治家はいない。それどころか保守層を含めても、現在この時の日本の政治家の中には見当たらない、というべきである。

歯に衣きせぬ言動で知られたパネッラ氏は、同時に庶民派としても鳴らし、左右を問わない政治家や文化・知識人、そしてなによりも政治への不信感を強く抱くイタリアの民衆に愛された。そこでのキーワードはただ一つ『ぶれない』だった。

彼は自らの政治的主張を実現させるためには、右とも左とも平然として手を結んだ。その典型例が保守派のベルルスコーニ元首相との提携である。返す刀で彼は、ベルルコーニ氏の天敵である左派のプローディ元首相とも気脈を通じた。

そうした動きは当然、「ひより見」「八方美人」などと厳しく糾弾された。しかし、急進主義者の自分が権力を握ることはないことを知悉していた彼は、自身の主義主張を認知させるには大勢と組むのが近道と冷徹に考えた。

故に彼は、その時々で主流政治勢力と妥協し連携することを少しも厭わなかった。だが彼はそうすることで主流勢力に同化することはなかった。彼らの影響力を利用することだけが目的だったのである。

同時にパネッラ氏はその打算を微塵も隠そうとはしなかった。彼の政治手法は生涯一貫していた。そしてそこでのキーワードもやはり『ぶれない』だった。人々はそのことを愛し尊敬した。

彼は一度世界をアッと驚かせた。1987年、ハードコア・ポルノスターの「チチョリーナ」を自らの党に引き入れて国会議員に当選させたのある。そのときの彼女の得票は、党首だったパネッラ氏自身に次いで多かった。

彼は生涯結婚しなかったが、1974年以来ひとりの女性と同棲をつづけた。パネッラ氏はパートナーとの関係は互いを縛らない自由なつながりであり、氏自身はバイセクシュアルで相手の女性もそれを承知している、と明らかにしていた。

パネッラ氏は最近は政治主張をハンガーストライキと共に行うことが多くなっていて、2011年には3ヶ月のハンガーストライキを強行。彼の健康悪化の原因のひとつになったとされる。が、彼は肺癌と肝臓癌も患っていて、それが直接の死因になった。合掌。



イタリアとオーストリアがめでたく和解した


オーストリアがブレンナー峠でのバリケード構築案を引っ込めた。

オーストリア政府によると、地中海からイタリアに流入する「違法難民」がほぼゼロなので、バリケードを作る必要がなくなった、ということである。

しかしながら、地中海経由の難民は相変わらずイタリアに流入している。今年に入ってイタリアには既に28500人が上陸した。

危機感を強く抱くイタリア政府は管理を強化して、難民の申請・登録を徹底させ始めた。オーストリアの言う『違法』難民はこれまでのところゼロになった、とはそういう意味である。

オーストリアの決定の前日、EU(欧州連合)はメンバー5カ国の国境閉鎖期間を半年間延長する決定を下した。

5カ国とはドイツ、オーストリア、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー《メンバーではないがシェンゲン協定署名国》である。

EUの執行機関である欧州委員会は、ブレンナー峠にバリケードを構築しようとするオーストリアを強く非難していた。

オーストリアは欧州委員会の勧告を受けた形だが、南欧との連絡口を閉ざすことの不利益を考慮したのだろう。

経済規模が小さく同国への影響が少ないハンガリーやスロベニア国境を閉ざすのとは違って、欧州大陸で3番目の経済力を持つイタリアとの関係は重要だ。

オーストリアと緊密に連絡を取り合っているであろうドイツもおそらくそのことを認識して、オーストリアに圧力をかけてバリケード案の撤回を促したものと考えられる。

ここでも再びメルケル独首相の変わり身の術が十全に発揮されたようだ。

オーストリアVSイタリアのいがみ合いはいったん回避された。しかし、これから夏に向けて難民の数が増大し、イタリアの管理がずさんになった場合は問題がぶり返されるだろう。

夏の凪の海には程遠い4月中でさえ、イタリア沿岸には8370人の難民が押し寄せた。その数は2015年6月以来、はじめてギリシャを抜いて最大になった。

イタリア政府は難民管理を強化はしたが、流入そのものを阻止する策は今のところ皆無と言ってもいい。オーストリアの不安はイタリアの不安でもあるのだ。

たとえ2国間の緊張がぶり返さなくても、ドイツほか4カ国の「難民擁護」国が、シェンゲン協定を無効にする形での国境管理を続けていることに変わりはない。

シェンゲン協定の崩壊は事実上のEUの崩壊である。国境管理を無くして域内を人と物が自由に往来できる、としたEUの高い理念に挑む難民危機は、まだ全く終わりが見えない。

映画「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンに愛された「VESPA」の人気、いまだ衰えず!

運転ローマの休日ペック後ろから


クリエイティブなMade in Italyの製品の一つ、スクーターの「VESPA」が今年で満70歳になった。

フェラーリ、ランボルギーニ、アルファロメオ、マセラッティなどなど、イタリアには名車が多い。名車はイタリア以外の欧米各国にもたくさんある。が、車に興味のない人でも「一度は聞いたことがある」と答える車種の多さでは、おそらくイタリアが世界一なのではないか。

車ではないが、スクーターの「Vespa(ベスパ)」も疑いなくイタリアが生んだ「名車」の一つである。映画「ローマの休日」の中で、王女のオードリー・ヘップバーンが想い人の新聞記者グレゴリー・ペックと共にVespaに乗ってローマ観光をするシーンがある。

その場面は単純な街めぐりという形ではなく、王女で世間知らずのヘップバーンがおふざけでスクーターに乗って危うく事故を起こしそうになるところを、相手のペックが彼女を抱くように後ろから支えて運転する、という美しくも楽しい設定で始まり、進行する。

名画の中の名シーンで名優2人を乗せて走るVespaは、まるで彼らと競演する名脇役というふうで、忘れがたいものになった。ロンドンに2階建てのバスがありニューヨークにイエローカブがあるように、ローマのそしてイタリアの石畳の細道にはVespaがよく似合う。

Vespaはイタリアのオートバイメーカー・ピアッジョ社の製品である。第一号車は第2次大戦直後の1946年に売り出された。それから7年後の1953年に「ローマの休日」が製作され、同スクーターの人気を不動にした。以来70年、Vespaはグローバルな厳しい競争を生き延びてきた。

ピアッジョ社の前身は航空機メーカーである。1800年代の終わりに創業されたが、航空機を生産していたことが災いして、大戦中に工場が徹底的に破壊された。会社は速やかに再建されたものの、連合軍によって航空機の生産を禁止された。そこでバイク製造に乗り出した。

社長のエンリコ・ピアッジョが考えたのは「信頼できる街なかの乗り物」としてのバイクを生産することだった。依頼を受けたデザイナーのコラディーノ・ダスカニオは、エンジンを座席の下に収納するという画期的な設計で応えた。

それは彼が目指した「清潔でかさばらないバイク」というコンセプトをとことんまで追求した結果のアイデア。乗る人の服を汚さず油まみれにもならないように、エンジンを座席の下にコンパクトに隠すことを思いついたのだった。

ダスカニオの工夫はそれだけにとどまらなかった。ギアをハンドルに取り付けてそれまでのバイクとは違う感覚を取り入れ、女性も乗りやすいようにハンドルと座席の間を空けて、サドルを跨たがなくても乗車できる形にした。

さらにVespaには、タイヤの取り外しが簡単にできる仕組みなどの細工も施されている。それらは19世紀以来の航空機メーカーだったピアッジョ社の過去の技術の応用である。シンプルに見えるスクーターには、斬新でしかも複雑な技術もさりげなく、数多く導入されているのだ。

以後世界には(あらゆる優れた製品の周りで起こる現象と同じく)Vespaを模倣した作品が多く出回った。たとえばイギリスのトライアンフ・ティグレス、ドイツの ツェンダップ・ベラなど。無粋を絵に描いたような旧ソビエトにおいてさえ、ヴァトカというコピー製品が生み出されたほどである。

それらの模造品はすべて市場から消えた。一方Vespaは、これまでに150種類のモデルが作られ、世界114カ国で1800万台が販売された。それとは別に多くの国でライセンス生産もおこなわれている。また世界中の愛好家によるVespaクラブには6万人の会員が集まる。

名車と呼ばれるイタリア車の魅力の一つは、完璧の一歩手前の完璧さ、だと僕は思う。つまり速さやデザイン美や華やかさや機能の充実を目指す中に現れる、いわば人間的とも形容できる欠陥が同居する「不完全な完璧」である。

それは以前にも書いたように、例えば屋根の雨漏りであったり、排気音のすさまじさだったり、燃費の悪さであったりする。あるいはイタリアの中世の街並みの中に広がる、石畳の細道には大き過ぎるボディであったりもする。

それらは致命的な障害になりかねない重大な粗漏だが、イタリア車はそうはならない一歩手前で踏みとどまって、いわばかすかな欠陥を形成する。それは車の最も優れた部分と絶妙なバランスを保って、「突出しているが抜けている」というイタリア車特有の魅力を作り上げる、と思うのである。

ではVespaの魅力になる欠陥とは何かと考えた場合、それは「低速」あるいは
「ゆっくり」なのではないかと気づく。いわゆる原付ではあるが、Vespaはイタリアや日本やドイツなどの「普通の」バイクのように速さを追求する方向で発展しても良かった。つまりスクーターの「トップスピード保持車」を目指すこともできたのである。

Vespaはそこには行かず、街なかの「低速」の移動手段に徹した。自転車より速く自転車より疲れず自転車よりスマートな乗り物、という程度のコンセプトの枠の中で、機能美と見た目の美しさと軽さを徹底追及した。言葉を替えればローマの細い石畳の道にもっとも映える二輪車を目指した結果、行き着いた傑作がVespaなのではないか、と思うのである。


トランプ遊び


われながらウンザリするのだがアメリカ大統領選がどうしても気になる。

自分の立場は反トランプで揺るがず、最終的には彼が大統領になることはないだろう、と確信しているので黙って形勢を見守っていればいいのに、グズの愚痴りよろしく目新しくもない自分の思いをまた書くという愚行をくり返している。

一度アメリカに住んで、人種差別や暴力や不平等などの米国の深い病理と、まさにその病理を駆逐しようとする米国民の強い意志のぶつかり合いをつぶさに見た僕は、病理を体現していると見えるトランプさんの動向は不安であり不快である。

最終的には米国民のポジティブな思考が勝つ、と腹から信じているのだが、半数の米国民が彼らの最大の美点である「病理に立ち向かおうとする意志」を放棄しつつあるらしいと知るのはつらい。

トランプさんの躍進を受けて多くの論者がさまざまな意見を述べているが、僕は今この時の世界のパワーゲームや米国内の政治気運から読み解くトランプ現象よりも、いま言った米国のいわばプリンシプルが揺らいでいる現実がひどく気になって仕方がない。

トランプ氏への公開状~間違いだらけの反トランプ・ブロガー~

トランプ・カード

ドナルド・トランプ様


私があなたの「選挙キャンペーン予想レース」ですべりまくっているさえないブロガーです。

あなたは米大統領選の共和党候補者指名争いで勝利し、指名獲得を確実にしたわけですが、私は選挙戦のはじめからあなたを「有力泡沫候補」と規定して、あなたが各州で快進撃をつづける間もどこかで失速して消えると予想し、そこかしこでそう主張しつづけてきました。

しかしあなたは、共和党の主流派が放つトランプ降ろしの策動と連携したライバル候補たちの反撃に時として敗北することはあったものの、ほぼ 常勝と言っても良い勢いで進撃をつづけて、ついに指名獲得が確実というところまで来ました。私はあなたのみごとな戦いぶりに脱帽し、素直にあっぱれトラン プさん、と拍手を送ろうと思います。ただしそれは私がトランプ大統領の誕生を喜ぶことを意味しませんが。

私は徹頭徹尾あなたが合衆国大統領になることには反対します。あなたの政策とさえ呼べない数々の無益な主張や、それを表明する際の粗陋なレ トリックは合衆国大統領にふさわしいものとは思えません。それは人格の問題ということもありますが、もっと重大な点はあなたのそれらの主張は、米国のみな らず世界中に政治的な混乱を招き、今よりもさらに深刻な偏見・差別と憎しみの充満する社会を生み出すきっかけになりかねない、というところにあります。

あなたはここにきて罵詈雑言や中傷や憎まれ口を少しおさえ気味にして演説をするようになりましたね。もしかすると、共和党の主流派へ秋波を 送りはじめたのかもしれません。また「メキシコ人はレイプ魔」や「イスラム教徒排撃」などの過激発言を修正あるいは取り消して、選挙戦を有利にしたい思惑 もあるのでしょう。しかし、問題の核心はレトリックの裏にあるあなたの政治的立場や思想や原理原則ですから、あなたの正体は何も変わらない。

あなたは今後、民主党候補との対決も視野に入れながらさらに「共和党主流派寄り」にレトリックを変え言動を修正して行くかもしれません。そ の場合は、あなたは自らの激烈な主義主張に拍手喝采してきた支持者を納得させる説明を見つけなければならない。しかし、そんな説明などあるはずもない。あ るとすればそれは詭弁であり強弁です。つまりあなたは、コアな支持者を引き止めるためにも扇動的なキャンペーンをつづけなければならないでしょう。

あなたの過激発言の中身は、人々に執拗に不寛容の精神を植えつけようとするものであり、米国の孤立主義を推し進めるものが中心です。それこ そが私が異議を唱えるあなたの政治姿勢です。つまり私があなたのキャンペーン予想で「すべりつづけている」元凶であり、あなたが共和党支持者の多くに受け 入れられた原因です。それらは私が尊敬し憧れるアメリカとは対極にある政治スローガンです。つまり寛容と自由と平等を目指そうとしない米国です。

言葉を変えれば、多くの問題と誤びゅうと差別を抱えているいま現在のアメリカを、より良い方向に導こうとする人々の良心を踏みにじるもの。いま現在のアメリカではなく、米国民が理想と考えるアメリカこそ真のアメリカだとする、その「理想」のアメリカとは相容れないのがあなたの立場です。なぜならその理想とは、より寛容でより自由でより平等なアメリカという理念であり、偏見や差別や憎しみをあおるあなたの政治姿勢とは真っ向からぶつかるものだからです。

あなたのライバルになる民主党の候補が誰になるかは分かりません。しかし、一つだけ確かなことがあります。クリントン氏もサンダース氏も、 あなたのような汚れたレトリックは使わず、より寛容なアメリカ社会を目指そうと主張し、国際的には孤立主義にならない方向を模索しようと国民に訴えるであ ろうことです。私は民主党支持者ではありません。共和党の中の私が考える「まとも」な候補者が脱落した結果、米国民の描く「理想のアメリカ」にいささかな りとも向かおうとする勢力は、恐らく民主党の候補のみになった、と言いたいだけです。

あなたとなたの支持者たちは、もちろん11月の決選投票での勝利を目指しています。そして現在の勢いで行くならば、私の主義主張や願いは空 しく、ドナルド・トランプ第45代アメリカ合衆国大統領の誕生は間違いないことでしょう。私は何度も申し上げるようにあなたの批判者ですが、厳しい選挙戦 を勝ち抜いて世界最強の権力者の地位に着くであろうあなたには敬意を表します。飽くまでも民主主義の法則を遵守しての勝利ですから、たとえ反対者でも勝者 のあなたには祝福を送るべきです。私は心からそうします。

最後に、私はあなたの選挙戦予想レースにおいて、完璧に「すべりつづけている」男である、とも再び記させていただきます。

敬具




有名人のツイートに噛みつく人々の心は邪悪なのか

希望の光ハート

熊本地震に関連した2人の女優や有名タレントのツイッターの内容が、不謹慎だとしてバッシングを受けたと知った。調べてみると、炎上後に削除されたとかで一部しか読めなかったが、そこだけで理解する限り、投稿の内容は普通ならあまり人の気にさわるようなものではないと感じた。

東日本大震災のときもそうだったが、災害時には何事もそこに結び付けて過剰な反応をする傾向が日本人にはある。それは被災者への強い連帯や思い遣りという 形になって実を結ぶという利点もあるが、一方で誰もが常に100%そこに関心を持ちつづけているべきで、娯楽やジョークや笑いなどはもってのほか、不謹慎だ、などとして排撃しようとする負の側面もある。

それは画一思考や大勢順応主義に陥りやすい日本人の危険な性癖とも言える。だが同時に、他者の痛みを深くしん酌できる美質の一つでもあるように思う。それなので僕は---他者が日本人以外の人々である場合にも果たして同じ態度で臨むかどうかという懸念はあるものの---有名人のツイートに噛み付いて糾弾する人々を、行き過ぎだ、として一方的に非難する気にはなれない。

あまりにも意識高い系の高潔な人々、と皮肉交じりに言われたりもするそれらの批判者たちは、熊本の被災者への同情心や惻隠の情が強すぎるために、今はたぶんそれ以外の事案に心を砕いている余裕がないのだろう。彼らはおそらく悪い人ではないのだ。そういう思いは自分自身の実際の体験からもきている。

僕は先日、地震とは関係のない記事をブログに投稿し、それをさらにFacebookに転載した直後に、NHKの衛星放送ニュースで被災地の厳しい状況をあらためて知っ た。そのとき何の前触れもなく、また誰かの影響でも指摘でもなんでもなく、つまらない記事を書いてしまった。申し訳ないという気持ちがふつふつと湧き起こった。唐突な感情は消えることなく僕の中に居残った。

その心理を自分なりに分析すると、被災者に何もしてあげられない自分が恥ずかしいこと。せめてブログなりその他の媒体で連帯や気持ちのつながりを示す記事をいち早く発表しな かったことへの反省。被災地の困難と比較したときの記事内容のノーテンキ振りの情けなさ、などが紛糾し輻輳して自分がいやになった、というあたりだったと思う。

東日本大震災の折には連日のようにブログ記事などで自分なりの連帯の思いを記し、微力ながら被災地を応援するためのチャリティーコンサートも開催したりした。そのときと比べて 自分が何もしていないことがひどく後ろめたく思えたのだ。誰に指摘されたわけでもないのに僕がそんな引け目を感じたように、被災者や被災地への思いが特に強い皆さんは、そうではないように見える人々に苛立ちを覚えるのではないか。

彼らが自らの基準に照らし合わせて他者を非難するのは少し厳し過ぎるかもしれない。が、僕はそうした人々の辛らつを許してやってもいいのではないか、とも思うのだ。許すという表現は、上から目線風であるいは適切ではないかもしれないが、少なくとも僕は彼らの気持ちが分かるような気がしないでもない。

彼らの潔癖な態度は、甚大な災害に頻繁に直面する日本人が秩序を失わず、他人を押しのけたりせず、苦しさをじっと堪えて危機を乗り越えていく強さとどこかでつながっている。他者を容赦なく攻め立てる心は、心それ自体の弱さの発露である。だが、それが強さももたらすものであるなら、弱さという悲観には目をつぶって、強さという楽観のみを称揚したほうがより建設的であり健全なのではないか、とつらつら思ってみたりもするのである。

オーストリアがイタリアとの国境を閉鎖したい理由(わけ)

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バリケード構築に抗議するデモ隊

国境を接する隣国同士のオーストリアとイタリアが、難民を巡っていがみあっている。国境近くでは反難民政策に異議を唱える人々がデモ行進をおこなって、機動隊との間でつばぜり合いが発生したりしている。

オーストリアはEU(欧州連合)内の国々を自由に行き来できるとするシェンゲン協定を無視する形で、ハンガリーとの国境に続きイタリアとの国境にもバリケードを構築。5月末から難民の流入を阻止するために国境検問に踏み切る計画である。

衝突ブレンネロ抗議デモ300pic
デモ隊の一部はオーストリア国境警察と衝突

バリケードの場所は、イタリアとオーストリアをつなぐブレンナー峠。両国を結ぶもっとも重要な場所であると同時に、南欧と北欧の間の人と物の自由な往来を担保する最大のルートの一つでもある。そこはシェンゲン協定によって常時開放されていることが義務づけられている。

昨年およそ100万人の難民が通過した、トルコ→ギリシャ→バルカン諸国→北欧という経路のいわゆるバルカンルートは、通路に当たる国々が国境を閉鎖したことによって事実上通行不可能になった。以来、バルカンルートに流れ込む難民の数は約8割も減少した。

またEUは今年3月20日以降に不法に欧州に入った難民、つまり難民申請をしないまま移動を続ける難民・移民を、トルコ政府との合意の上で同国に強制送還している。トルコはその見返りにEUから4年間で最大60億ユーロ(約7600億円)の供与を受けることになっている。

バルカンルートから締め出された難民は、アフリカ北岸に回って地中海に乗り出し、イタリアを目指す可能性が高いと見られる。難民が欧州を目指して押し寄せる地中海ルートは、バルカンルートが主流になるまで、最も混雑した場所だった。それが復活すると考えられているのだ。

地中海を渡ってイタリアに入る難民を一国で対処することはできないと恐れる同国政府は、北欧への移動口であるブレンナー峠を閉鎖すれば、難民のみならずイタリアから各地に向かう100億ユーロ(約1兆3千億円)分の物流も滞る。明確なシェンゲン協定違反だとしてオーストリアを非難している。

イタリアの主張はもっともである。オーストリアによる国境閉鎖は物流にとどまらず人的資源などの行き来も滞って、大きな損失が見込まれる。それは当事国のイタリアとオーストリアに限らない。EU全体にとっても同様だ。経済のみならず多方面で負の波及効果も伴う重大問題である。

しかし難民問題だけに限って見ればオーストリアの主張もまた理解できないことではない。2015年、同国は全人口の1%以上にあたる9万人の難民を受け入れた。この数字はイタリアの人口比に当てはめると約60万人に相当する。決して小さくない数字だ。

一方、イタリアが2015年に受け入れた難民は8万3千人。ところが地中海を渡ってこの国に到着したのは15万4千人である。オーストリアのクルツ外相は、国境閉鎖を非難するイタリア政府に対して「残りの7万1千人のうちの多くが不法にオーストリアに入国した」と反論した。

またクルツ外相は次のようにも述べている。「今年オーストリアが受け入れられる難民は3万7千5百人までだ。昨年のように大量の難民を受け入れることはできない。イタリアがもしも地中海から流入する難民を効果的に制御できない場合は、予定通り国境を閉鎖する」。

難民受け入れ口をせばめようとするオーストリアの動きは、おそらくドイツのメルケル首相の承認を得ているのではないか。メルケル首相は昨年9月、それまでの反移民政策を大きく転換して大量の難民を受け入れると発表。世界を驚かせた。変わり身の速さが政治家アンゲラ・メルケルの身上である。

その後、急激な難民流入に苛立ったドイツ国民が反発。メルケル首相は退陣を余儀なくされるのではないか、というところまで追い詰められた。そこで彼女は得意の変わり身の術を発揮。半年間という期限付きではあるが国境の管理を強化して難民の流入を制限した。

これに北欧各国とオーストリアも同調。緊急の場合は国境を一定期間閉鎖できる、というシェンゲン協定の例外規定を利用したのだ。オーストリアはこのときハンガリーとの国境を閉鎖して入国審査を始めた。それを今回イタリア国境にも導入しようというのである。

互いに非難しあっているイタリアとオーストリアは、今後EU本部の調停を受けながら話し合いを続けることになる。EUは建前上はシェンゲン協定に違反するオーストリアを責める形だが、ドイツを始めとする北欧と東欧諸国が同じ施策を実施しているために本気で非難するのは難しい。

加盟国の多くが国境管理に乗り出した時点で、多くの人々は「シェンゲン協定の前提が崩壊した」と考えている。加盟諸国の国境閉鎖の期限が間もなく切れようとする今、オーストリアが新たに国境閉鎖を行えばシェンゲン協定の理念そのものが危機にさらされる。それはEU自体の存続が危機にさらされるのと同義語である。


熊本地震とブログ記事


「ブダペストまで」というタイトルのブログ記事をfacebookに転載した直後にNHKのNews7を衛星中継で見た。

熊本と大分の地震はいつまでも止まず被害は拡大し続けている。それ自体が見ていて胸が苦しくなる現実だが、脳裏には東日本大震災の記憶もくり返し浮かんでいよいよいたたまらない思いが募る。

するとついさっきfacebookとブログに投稿した自らの記事がひどくノーテンキ且つ不謹慎にさえ感じられてきた。よほど削除してしまおうかと考えた。

いや、削除しようとPCを開いて、それから思いとどまった。記事を削除することに何の意味があるのかと自問自答したのだ。

被災地と被災者の皆さんに同情している自分の気持ちには偽りのかけらもない。同時に彼らに何もしてあげられない自分もまた完全な現実だ。

記事を削除することはその冷酷な事実に風穴を開けたりはしない。それはただの自己満足に過ぎない。あるいは、非常時にノーテンキな記事など書くな、と誰かに非難されることを怖れるあまりの自己保身の行動なのではないか。

不用意に記事を自粛したりするのは、人々に一様に行動することを強いる日本社会の大勢順応圧力に屈しただけの、非自主的かつ醜悪な行動である可能性が高い。

被災者の皆さんに寄り添う心と書いた記事の間には矛盾も偽善も反目もない、と考える。だからそのまま掲載し続けることにした。

ブダペストまで~ウイーンの有内とブダペストの清新~



オーストリアとハンガリーではウイーンとブダペスト以外にもいくつかの街を訪ねた。だが、ここでは今回の旅の主役だった二つの首都について少し語っておこうと思う。

音楽の都ウイーン。ドナウの真珠ブダペスト。どちらも魅惑的な街だった。旅人としてのあたりまえの僕のセンチメントは、初めて訪れた2都市の芳香にふるえた。

ただウイーンはデジャヴが多く、イタリア人の友人らが言う「ロマンチックな街」という形容がよくわからなかった。また日本人が口にする「きれい」という表現も自分にはしっくりこなかった。

ロマンチックな街もきれいな街も、特に欧米で多く見てきたから「ウイーンだけが格別」というふうには僕には正直感じられなかったのである。

ならばウイーンはつまらない場所かというと、それはまったく当たらない。楽都は華やかで訴求力に富んだすばらしい街だ。

でも「純粋に遊びだけでもう一度で訪ねたいか」と聞かれれば、僕はあまりそういう気にはなれないと答える。これは好みの問題だから仕方がない。

僕はここヨーロッパでは、北欧やゲルマン系の景色や文化より も、ラテン系や地中海系のそれに強く魅かれるのだ。だから僕はイタリアにいる。

ラテンでも地中海系でもないが、ブダペストには大きな魅力を感じた。街のたたずまいや建物群が北欧を含むかつての西側欧州とは違う。

独特で重厚だが同時に軽快でもある、という多様でさわやかな空気を感じた。建物では特に屋根の造りや瓦の色にきわめて独創性を見た。それらもすがすがしく鮮烈で楽しい。

土産物屋や市場などで見た手工芸品の多くにも、創造性が豊かで遊び心に満ちた美質を多く発見した。それはとてもおどろきだった。

イタリアやスペインあるいはフ ランスなどに通じるクリエイティブと活発と爽やかさが充満しているのだ。それらがとても好ましく、もう一度訪ねたい気分にさせられた。

個人的な興味では食べ物のサラミにも目が行った。ここイタリアには、全てをまとめて「サルーミ」と呼ぶ数え切れないほどの加工保存肉がある。

中でもプロシュット、つまり生ハムがもっとも知られていると思うが、さらに種類が多いのがサラミやサラミ系の加工肉である。それらは土地によっても味や形や人々の思い入れがすべて違う。

僕はサラミがワインと同じくらいに好きで、どの土地に行っても特産品を試食し購入し本格的に食べる。しかもサラミだけを直接食して楽しむ。イタリア人のようにパ ンに挟んで食べた りはしない。

サラミは単独で食べると体に悪いとされる。が、僕はまったく気にしない。それほどサラミが好きだ。サラミは欧州の酒の、つまりワインの肴(さかな)としては最善のものだと感じる。

イタリアで売られているサラミは、ほとんどの場合全てイタリアのものである。僕が知る限りイタリアで生産販売されている外国のサラミは一種類しかない。

それが豚の脂をハンガリー風に細かく切り刻んで練りこむ一品、その名もハンガリー・サラミ(salame ungherese)である。ウインターサラミという別称もある。

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ブダペストで購入した正真正銘のハンガリーサラミ 美味い!

とは言うものの、実はそれはイタリアテイストのハンガリーサラミである。いわば日本風のカレーや日本風のチャーハン(広東飯)にもたとえられるべきもの。

そのルーツはハンガリーかもしれないが、もはや名前だけが残って中身は似て非なるものである。要するに外国発祥のイタリアサラミの一種なのだ。

ハンガリーにはイタリアに根づいた「ハンガリーサラミ」以外にも多くの種類のサラミがある。僕はそれらをできる限り試食してみた。どれも美味だった。

ブダペストのサラミは「サラミフ リーク」の僕を“う~ む”とうならせる素晴らしい品ばかりだったのだ。それはちょっと大げさに言えば、もう一度ブダペストを訪ねたい理由のひとつに加えたいほどのうれしい体験だったのである。

ブダペストまで ~EUのシェンゲン協定は生き残れるか~

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オーストリア・ハンガリー国境で検問するハンガリー警察

仕事でウイーンを訪ねたついでにブダペストまで足をのばした。前の記事で書いたように、オーストリアもハンガリーも中東難民に端を発したバトルの渦中にある。

オーストリアは難民の流入を防ごうとしてハンガリーやイタリアとの国境監視を強化。ハンガリーは隣国のセルビアとクロアチアとの国境を閉鎖した。

オーストリアとハンガリーに限らず、ここイタリアも含めたEU諸国のすべては、中東難民をめぐって責任の押しつけ合いなどの駆け引きをくり返している。

イ タリアは国境閉鎖には踏みきっていないが、今後地中海が再び難民で騒がしくなればどうなるか分からない。国境地帯はどの国も熱い。

と思いきや、熱いのは基本的に欧州西側諸国の南と東の国境線の一部。その他の国境は-あくまでも仕事の旅程内での見聞だが-シェンゲン協定に守られていて自由に行き 来できる。

またそれぞれの国内も、熱い国境線のまわりを別にすればほとんど混乱は見られない。今回訪ねたウイーンとブダペストも平穏だった。

イタリアとオーストリアの国境では、検問どころか車両を減速させなければならないような障害もなく、スムーズに車が通行できた。

しかしオーストリアとハンガリーの国境では、ハンガリー側の警察が出て高速道路の通行証のチェックを丹念に行っていた。

ハンガリーの高速道路の通過料金は一律で、支払い証明チケットをフロントガラスに貼りつけることが義務づけられている。

外から確認できて、且つ使いまわし しなどの不正防止が目的という。しかし、それだけのために実施されていた物ものしい警備は、やはり国境監視の意味合いが強いものにも見えた。

それでもハンガリー国内に入ると、首都ブダペストを始めとして、国境の喧騒はいったいどこの国の話だろう?と首をかしげたくなるほどに平穏だった。

ブダペ ストを経て2日後にスロベニアの国境も通ったが、そこにも検問や封鎖はなく、シェンゲン協定通りに自由に通り抜けることができた。

もっともトルコ経由でハンガリーに入る難民は、ほとんどがセルビアとクロアチアを経てやって来るため、ハンガリーが神経をとがらせているのはその2国との 間の国境線である。

従ってスロベニア国境はあまり関係がないとは言える。それでも少しの監視強化があるのではないか、と思っていたから完全な自由通行は意外だった。

スロベニアとイタリアの国境も同じ。どこからどこまでがスロベニアでどこからがイタリアなのか、気をつけて確認しないと分からないほど2国はシェンゲン協定の枠内で同化している。

同化というのは言い過ぎかもしれないが、そう形容したくなるほどの静かな国境通過だった。これがシェンゲン協定の真髄。

それは欧州の平和の象徴であり同時に現実でもある。長い血みどろの歴史を経て獲得した、世界にも拡散されるべきヨーロッパの英知を、決して崩壊させてはならない、と腹から思う。

陸路を閉ざされた難民は再び地中海に殺到するか


上からの船見下ろしベストショット

日本での報道は少なくなり勝ちのようだが、中東から欧州に流入する難民は途切れることがない。4月11~12日の2日間で、イタリア沿岸警備隊と海軍はリビアからの難民4000人余をシチリア海峡で救助、保護した。ほぼ同日、オーストリア政府は難民の流入に備えるためという名目で、同国とイタリアとの国境線にバリケードを設置。5月からの運用を目指している。

オーストリアは最近まで北欧やドイツと並んで難民に寛大な政策を取ってきた。しかし、急激に増え続ける難民に恐れをなして、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー 、フランスなどと共に難民の流入ルートの一つであるハンガリーとの国境を閉鎖して検問に踏み切った。そこに加えてもう一つのルートであるイタリアとの国境にも同様の施策を始めた。

イタリアとオーストリアを含むEU(欧州連合)は、今月に入って「不法」とされる難民・移民をトルコ政府との合意の上で同国に強制送還し始めた。2015年にトルコを経由して欧州に向かった難民は85万人にのぼる。このうち強制的に送還されるのは今年3月20日以降にギリシャに到着した者のうち、同国で難民申請をしなかった者やいわゆる経済移民など。

EUは同時にシリアなどからの「合法」的な難民を受け入れる措置も進めていて、強制送還を実施した同じ日の4月4日には、ドイツがトルコ国内にいたシリア難民を受け入れて定住させる処置をとった。そうした動きは難民の受け入れを拒否している中東欧諸国を除いた欧州地域では普通の光景である。

先日、中東欧の反難民国の中で最も過激な政策を取っているハンガリーを訪ねた。ハンガリーは中東や北アフリカからの難民がやって来る隣国のセルビアやクロアチアとの国境を閉鎖している。そればかりではなく、同国のオルバン首相が「難民は欧州の問題ではなくドイツの問題だ」と言い放つほど難民嫌いを隠さない国である。

ハンガリーの強い難民アレルギーを示すエピソードは枚挙にいとまがない。前述のオルバン首相は「欧州は難民の故郷にはなりえない」とも発言し、ハンガリーの女性ジャーナリストが子供を抱いた男性に足をかけて転倒させた事件は、SNSなどで爆発的に拡散されて世界中に知れ渡った。

またハンガリーではセルビア国境を越えてきた子供が虐待に遭ったり、難民収容所で警官がまるで動物に対するように人々を扱う姿が目撃されたりするなど、道義的に疑問を抱かせるばかりではなく国連やEU規則にも反していると批判される不祥事や逸話が多い。

かつてソ連の庇護の下にあった元共産主義の中東欧国には、ハンガリーに限らず人種差別にあまり罪悪感を感じない人々が多く住むという説がある。そうした人々のほとんどは、第二次世界大戦中のドイツ人やオーストリア人などと同様にユダヤ人を虐殺したり、虐殺に手を貸したりなどしてナチスにぴたりと寄り添い協力した過去を持っている。

それにもかかわらず、戦後は共産主義世界に組み込まれて戦時の総括をしないままに日を過ごした。やがてソビエト連邦が崩壊し、現在ではEU(欧州連合)のメンバー国にまでなる幸運を得ながら、先の対戦への総括がなかったために昔風の反ユダヤ主義やムスリム嫌悪やアジア・アフリカ差別などの心理を払拭できずにいるというのである。

そうした国民感情は先の大戦への徹底総括がないままに歴史を刻んできた日本などにも通じるものである。ただ難民問題だけに限って言えば、彼らの頑なな嫌難民言動はそれぞれの国の脆弱な経済も影響しているように見える。貧しい者は難民を助ける経済的な余裕がなく、故に彼らへの親和感や博愛や憐憫の情を育む心の余裕もないケースが多い。

その点、例えばドイツやオーストリアなどの西側諸国は、経済的に強いために比較的柔軟に難民への協力や援助や寛容な施策などを取ることができる。加えてそれらの国々の住民の心の中には、戦時中にユダヤ人を徹底的に迫害したことへの強い引け目がある。だからなおさらその傾向が強くなるのだろう。

オーストリアとハンガリーに限らず、ここイタリアを含むEU諸国の全ては中東難民を巡る試練と駆け引きと攻防の渦中にある。イタリアは国境閉鎖には踏み切っていないが、オーストリアとハンガリーは前述したように一部の国境を封鎖したり検問をや監視を強めたりしている。

シリアを始めとする中東などからの難民はトルコを経由してギリシャに渡り、そこから北上を開始する。いわゆるバルカンルートである。そこを通って昨年だけでも90万人近い難民が欧州に入った。バルカンルートの混雑は、前述のハンガリーなどの反難民国の国境封鎖や、ドイツ、オーストリアに代表される「かつての難民抱擁国」の変節で今後は少なくなるかもしれない。

しかし、欧州へのもう一つの流入経路である「地中海・イタリア」ルートは、閉鎖がほとんど不可能な海の道である。夏に向かって天気が安定するに従って、そこにはこれまでのチュニジア経由の難民に加えて、バルカンルートを閉ざされた人々が殺到する可能性がある。

地中海からイタリアに流入する難民をイタリア一国で受け入れたり対処したりするのはほぼ不可能と言ってよい。欧州、特にEU(欧州連合)の国々はイタリアと協力してこの大問題に対処できるのか問われている。それは欧州統合を目指すEUが結束して未来に向かうのか、ここで崩壊するかの瀬戸際にあると断言できるほどの重要な局面である。



ブログの怪


ブログではときどき不思議なことが起こる。とつぜん閲覧者の数が増えるのもその一つだ。

ウイーンでの仕事のついでにブダペストを訪ね、スロベニア回りでイタリアのトリエステに入って昨日帰宅したら、それを見ていたかのようにブログの閲覧数が急増した。

旅の間もときどきブログの様子はのぞいていたから、読者の数は知っていた。公の論壇への投稿をしていないから訪問者の数は少ない。

また公論壇に記事を投稿しても、僕の場合は書きたいことを勝手に書くスタイルだから、それほど読者がいたりシェアが伸びたりするのではない。が、個人ブログのみの掲載に比較するとやはり急激に増える。

今朝、見たらそんな「事件」が起きていた。なんだろう、と探っていくと公の論壇の一つで古い記事がアクセスランキングのベスト10に入っていて、そこから個人ブログへのアクセスも伸びているとわかった。

なるほど、と思いつつも、古い記事がなぜとつぜん今日ランキング上位に掲載されているかが理解できない。でも面白い。

ちなみに思い出したように読まれている記事は:http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52184757.html

である。

今後も続きを書いていくつもりでいるテーマだから、早く書け、という誰かの催促なのだろうと解釈しておくことにした。


復活祭~イエス様を食べて幸せになろう~


ここイタリアを含むキリスト教世界は復活祭で賑わっている。英語のイースター。イタリア語ではパスクア。イエス・キリストが死後3日目に復活したことを祝う祭である。

キリスト教の祭典としては、非キリスト教国を含む世界中で祝される祭礼、という意味でクリスマスが最大のものだろう。だが、宗教的には復活祭が最も重要な行事である。

クリスマスはイエス・キリストの誕生日を祝うイベントに過ぎないが、復活祭は磔(はりつけ)にされた救世主イエスが、死から甦る奇跡を讃える日である。

死からの再生は神の子であるイエス・キリストにしか起こり得ない。それを信じるか否かはさておいて、宗教的にどちらが重要な出来事であるかは明白である。

イエス・キリストの復活があったからこそキリスト教は完成した。われわれが現在知るキリスト教をキリスト教たらしめているのが、復活祭なのである。

祭りは春分の日が過ぎて最初の満月の後の日曜日と決められている。あるいはイエス・キリストが金曜日に磔になり蘇生した2日後の日曜日。毎年春と共にやってくるイベントである。

復活祭は年ごとに日付けが変わる。が、祭りの中身は例年ほぼ同じ。家族・親戚・友人などが集って、定番の食事会を開き大いに食べて飲んで陽気に過ごす。

復活祭ではクリスマスと同様に多くのご馳走が食べられる。グルメの国ここイタリアの食卓を飾るのは、カラフルで多様な食材だが、中でも輝やかしい主役が卵と子羊である。

卵は新しい生命の象徴。ヒナが殻から生まれ出ることを「キリストが墓から出て復活する」ことにたとえたもの。イエス・キリストの再生を示唆すると同時に命の溢れる春を喜ぶ。

異彩を放つ復活祭のもう一つのメインの食べ物が子羊肉である。復活祭になぜ子羊料理なのかというと、その由来はキリスト教の前身ともいえるユダヤ教にある。

古代、ユダヤ教では神に捧げる生贄として子羊が差し出された。子羊は犠牲と同義語である。イエス・キリストは人間の罪を贖(あがな)って磔(はりつけ)にされて死んだ。つまり犠牲になったのである。

そこで犠牲になったもの同士の子羊とイエス・キリストが結びつけられて、イエス・キリストは贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」とみなされるようになった。

そこから復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。それもまたユダヤ教に原型がある。ユダヤ教では生贄にされた子羊は後で食卓にも上ったからだ。

復活祭に子羊を食べるのは、そのユダヤ教の影響であると同時に、「人類のために犠牲になった子羊」であるイエス・キリストを食する、という意味がある。

救世主イエスを食べる、という感覚は日本人には中々理解できないものだが、よく考えれば実はそれは、日本人が神仏に捧げたご馳走や酒を後でいただく、という行為と同じことである。

神棚や仏壇に供された飲食物は、先ず神様や仏様が食べてお腹の中に入ったものである。後でそれらを人が押し頂いて食べるとは、つまり神仏を食するということである。

われわれは神様や仏様を食べて、神仏と一体化して煩悩にまみれた自身の存在を浄化しようと願う。キリスト教でもそれは同じ。そんなありがたい食べ物が子羊料理なのだろうと思う。

悪運の強いドナルド・トランプの星回り

門ベルギーカラー

ベルギーのテロは米大統領候補のトランプ氏に資するだろう。さらに多くの無防備な人々がテロを恐れ、テロリストを憎み、テロリストとイスラム教徒を結びつけて考えてしまうからだ。

それはテロリストの思う壺だ。欧州も世界もここが踏ん張りどころだ。ここで心が折れてしまうと、世界は分断され、憎しみと疑惑と恐怖が支配するだけの、ISの願う通りの世の中になりかねない。

トランプさんが期待する事件、というのは言い過ぎだろうが、彼が「ほら見ろ、俺の言うとおりだろう」と、ドヤ顔でさらに息巻くかもしれない事件が相次いで起こっている。

悪運の強い男、と規定してしまえばあまりにも主観的嫌悪感に満ちた表現、と眉をひそめられそうだから、トランプさんは強運の持ち主らしい、と言おう。

彼のビジネスマンとしての成功を見れば、トランプさんが強運にも恵まれているのは明らかだ。それに加えて、彼が政治的にも強運の持ち主ならば、事態は深刻だ。

頻発するテロや事件は、もしかするとトランプさんの主張の正しさを担保するものではないか、とわれわれが考えるとき、自由な世界の終焉が始まるかもしれない。

ベルギーテロに関連して、彼は「ISを核兵器で攻撃することも辞さない」と宣言した。トランプさんが“米国大統領の立場なら”という前置きでしゃべっていることを考えれば、それはいつものムチャクチャな、笑い話の世界だ。

だが、政策とさえ呼べない、北朝鮮の将軍様然としたそんなタワゴトを、彼の多くの支持者が喜んで気勢を上げる図は、まことに奇怪、危険、且つおそろしい。

さらにトランプさん自身が“大統領になったらそうする”と本気で考えているらしい事態は、もっとさらに奇奇怪怪、危うさもお粗末もここに極まれり、というところではないか。

僕はどうやらトランプさんに魅せられてしまって、彼の一言一句に神経質に反応する大げさで珍妙な、且つある種の人々が見れば不愉快で許しがたい心理状態になっているようだ。

ならば僕は、彼が大統領選で自爆し消滅するまで、彼に魅せられ続けようと思う。そして「アメリカよ、早く目を覚まして“トランプNO!”と叫んでくれ」と、言い続けようと思う。

トランプさんよりももっと面白い野菜作り

500pic2016苗床ロング


最近どうしても気になるのはアメリカ大統領選。中でもトランプさんの動向である。合衆国大統領は米国民が選ぶのだから、外国人がとやかく言っても詮ないこと、という考え方もあるだろう。

だが、好むと好まざるにかかわらず、米国大統領のあり方は世界中のわれわれに大きく影響するのだから、そこに関心を持つのは意味があるし、できればいろいろと意見を発信したほうがいい。

なぜならそれは国際世論の一部となって米国の有権者に作用し、ひいては将来の米国大統領にも影響する。世界最強の権力者である米大統領といえども、グローバルな民意を無視しては政治は行えないのだから。

トランプ星条旗







それにしても、もしも トランプさんが今のままの主義主張を大幅に修正することなく大統領に選ばれるならば、世界は本当に破滅的な状況に向かいかねないと思う。

僕の中にある米国への尊敬と憧れと信頼も跡形もなく崩れ去るだろう。それほどに“トランプ大統領”は不吉だ。いや、その前に僕にはどうしても米国民が彼を選択する図がイメージできない。

などと気にはしつつも、もちろん朝から晩までそのことばかりを考えているわけではなく、僕の日常は他の人々と何も変わるところはなく、ごくごく普通に過ぎていく。



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そんな中、去った週末に菜園で今年初めてサラダ菜の種をまき、プランターの苗床も作った。3月に種まきをするのも苗床を作るのも生まれて初めてのこと。冬が暖かく、さらに最近は春が一気に進んだみたいな陽気なので、思い切って作業してみたのだ。

苗床を含む種まきには実は、適した日とそうではない時間があるとされる。日本ではそれは旧暦、つまり「太陰太陽暦」に合わせて太陽と月のリズムを見ながら種をまき、栽培し、収穫するとされる。だが、その真偽については賛否両論があってよく分からない。

少なくとも僕が知る限りは判然としない。種まきに適するのは満月の5日前から満月までの間、という説が辛うじて納得できるかも、という程度である。

2016年3月初苗ゴボウ床プレートヨリ200pic


一方、ここイタリアにも野菜の種まきに適した期間というものが広く信じられている。新暦に基づいた説だから、現在の日本で信じられているものとほぼ同じようにも見えるが、やはり判然としているとは言い難い。一般にそう信じられている、というふうである。

多くの実験で満月の前あたりに種をまくと発芽率がよくなると確認はされているが、科学的に実証されていることではない。そこで僕は今回、自分で確かめてみることにしたした。

イタリアカレンダー3月ヨリ (2)200pic

イタリアカレンダー3月ヨリ (1)200picイタリアの種まきカレンダーによると、僕が種まきをした3月18日は良くない日とされる。24日以降が適正期となっているので、同じような苗床をもう一つ作って育苗をしてみようと決めた。


確かに蒔いた種は育ちが良い場合とそうでもない場合があり、それは月の満ち欠けに関連すると聞き知ってはいた。しかし僕はそういうことをほとんど考慮しないまま野菜を栽培してきた。

それを踏まえて種まきをするほどの時間も情熱もなかった、というのが正直なところ。また菜園の野菜で家族を養う必要もないから深く考えなかった、とも言える。

仕事にするなら農夫のように真剣になったことだろう。僕の時々の農作業はどこまで行っても趣味の域を出ることはないのである。それでも、いや間違いなくそれだからこそ、野菜作りはとても楽しい。

トランプVSポリティカル・コレクトネス

no trump no fascism

米大統領選、共和党の候補者指名獲得に向けてのトランプ氏の進撃は止む気配がない。同時に先日のシカゴに続いて、アリゾナ州とニューヨークなどでも反トランプデモが起きた。前者では反トランプ派の人々によって道路が封鎖され、後者ではマンハッタンにある同氏所有の「トランプ・タワー」や「トランプ・ホテル」 前などで市民が抗議デモをした。そこでは「移民がアメリカを強くした」などのプラカードを掲げる人々が「人種差別主義者のトランプは退場しろ」などと叫んだ。

トランプ氏は米国内の、特に低所得、低学歴に代表される白人層の不満や怒りを捉えて支持を広げているとされる。それは目新しいことではない。あらゆる米大統領候補はそれぞれの支持層の不満や怒りや主張を背中に負って選挙戦を戦う。また彼の支持者には既成政治家への強い不信感があり、実業家で政治素人のトランプさんに新鮮な変化を期待しているとも言う。それもまたまっとうな期待であり願いである。

民衆の不満にまず答えるのが真の優れた政治家だ。だからトランプ氏が大衆の不満の受け皿として評価されるのは、賞賛に値こそすれ決して悪いことではない。悪いのは彼のレトリックであり、主義主張の仕方であり、政策論争であり、行動規範である。つまり差別や偏見や不寛容を煽ることで「大衆の不満を吸い上げて癒している」と錯覚される、彼の全ての言辞のことだ。

トランプ氏はポリティカル・コレクトネス(政治的正当性あるいは妥当性 )の重要さを理解しない。理解しないどころか、それを「まやかし」だと糾弾し人種差別や排外思想や憎しみに満ちた言動をあえてする。支持者はそこに彼の本音を見たと感じて拍手喝采する。重大なのは人々がトランプ氏に拍手を送るポーズで、彼と同様に自らの差別偏見や憎悪の心根を吐露して狂喜しているように見えることだ。それはとても危険な兆候だ。

わかりやすく話そうと思う。ここから先はあえて差別用語も使うのであらかじめ了解をいただきたい。

たとえばカタワという言葉がある。この差別用語は幸いにも人々の認識を得て今は死語になった。だがこの言葉はつい最近まで、つまり日本人が「ポリティカル・コレクトネス」に目覚めるまで普通に使われ、体の不自由な人々を傷つけてきた。カタワという語はほかの差別用語と共に使われなくなり、他にも少なくない言葉が差別をあらわしたり、それを助長する言葉として意識されて消滅しようとしている。

それらの言葉に関して差別主義者たちは、自らが差別主義者であることを隠して、あるいはさらに悪いことには、自分自身が差別主義者であることにさえ気づかないまま、良くこう主張したりする。いわく、言葉を変えたからといってカタワが直るわけではない。言葉を変えて差別が無くなったと思うのは偽善でありまやかしだ、と。だがその非難こそ自らの差別の本性を隠そうとする偽善でありまやかしだ。

言葉を禁止することでもちろん即座に差別や偏見がなくなるわけではない。それは変化の「きっかけ」なのである。あるいはきっかけにつながる重大な第一歩なのである。人々はカタワという言葉が使用禁止になっていると気づいて、「あれ?」と一瞬立ち止まる。そしてなぜそうなっているのかと考える。やがて調べ、確認する。

そうやってこの言葉が身体の不自由な人々を傷つける言葉だから禁止されていると知る。そこから差別撤廃への小さな一歩が始まる。人々が「あれ?」と一瞬立ち止まる行為が重要なのである。一人ひとりの一歩はささやかだ。だが無数の人がささやかな一歩を踏み出して、社会全体がまとまって動くことで巨大な流れが生まれる。そうやって差別解消への道筋ができる。

「本音を語ることがつまり正直であり正しいこと」と思いこんで、本音の中にある差別や偏見から目をそらしたり、それらを無くそうと努力をしている人々をあざ笑う者は、さらなる偏見や差別思想にからめとられる危険を犯している。トランプ氏が汚れたレトリックを縦横に使って選挙に勝利するということは、人類が長い時間をかけて学習してきたポリティカル・コレクトネスの哲学や知恵やコンセプトが、全て無駄でゲスでつまらないことだと認めるにも等しい。

彼が中国の不公平な貿易を責めるのは良い。また氏が日本の安全保障のただ乗りを非難するのも構わない。核に固執する北朝鮮の狂気を糾弾するのはもっともなことだ。またメキシコからの不法移民を指弾するのも彼の政治的スタンスを明らかにすることだから一向に構わない。だが彼が不法移民を批判するついでに、全てのメキシコ人をレイプ魔と断定して侮辱することは許されない。

さらに言えば、彼がイスラム過激派のテロを断罪しテロリストを殲滅すると叫ぶのも自由だ。自由のみならず正義でさえある。僕もその考えに賛成だ。だがそこで続けて氏が、テロリストと無辜のイスラム教徒を一緒くたにし一般化して、(全員がテロリストだから)イスラム教徒をアメリカに入国させるな、と言い張るのはほとんど狂気の沙汰だ。

そうしたレトリックは、悪貨は良貨を駆逐するごとく、人々の心の中に差別意識と偏見と不寛容と憎しみを植えつけるのみだ。あるいは既に人々の心の中に巣食っているものの、ポリティカル・コレクトネスのタガで押さえ込まれていて、やがて矯正され強い正義心に変貌するかも知れない今は弱い精神を、完全に破壊してしまいかねない。

ポリティカル・コレクトネスは合衆国大統領どころか、われわれ全てが文明社会の一員として懸命に守り尊重しなければならない倫理基準であり人類の知恵だ。そうした規範の第一級の保護者でもあるべきアメリカ合衆国大統領が、こともあろうに率先して人類の叡智に唾吐くような人間であってはならない。だからドナルド・トランプ氏をアメリカ大統領にしてはならない、と繰り返し思う。

性迷宮~50歳母のレスビアン宣言~

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日本では、国・地方の各種議員やおなじみのネトウヨ系レイシストらによる、同性愛者やLGBTの人々へのヘイト・偏見・差別発言や意見開陳が相次いでいると聞く。

バチカンを抱えて、その方面ではガチガチの保守国であるここイタリアでも、同性婚法の成立に向けて是々非々喧々諤々の議論が沸き起こって、かしましい毎日が続いている。

LGBTを巡る現実は、欧米をはじめとする世界のそれと同様に、イタリアでも法律の遥かな先を行っている。事実は小説よりも奇なり、と言うが「LGBTを巡る現実は法律よりはるかに奇」でありシビアであり斬新である。

破局と波紋

あたかもそんな騒がしい世情に触発されたように、シチリア出身の友人夫婦ジュリオとローザが離婚した。妻のローザがレスビアンであるとカミングアウトして、短い協議期間を経て夫婦は別れたのである。

2人はおよそ30年連れ添った。破局した数年前、あるいは敢えて言えば「事件」が起きたとき、ジュリオは57歳、ローザは間もなく50歳を迎えようとしていた。2人には3人の子供がいる。

ほぼ30年にも渡って夫婦でありながら、また3人の子供までもうけながら、突然レスビアンであると宣言したローザのアクションは、衝撃と形容するのが空しいほどの爆震を周囲にもたらした。

ローザの爆弾宣言にもっとも打ちのめされたのはジュリオである。彼は離婚を機に落ち込んでしまって、2016年3月半ば現在、まだそのショックから回復していない。回復どころか沈みぱなしである。

ローザの両親とジュリオの老いた母親には2人の離婚は知らされたが、ローザのカミングアウトの件は伏せられた。老いた親たちが、どこかから洩れくる噂で真相を知ったかどうかは定かではない。

僕ら夫婦は初めローザの真意を疑った。彼女のレスビアン宣言はもしかすると、亭主関白の域を超えて少し暴君的な傾向さえある、夫のジュリオへの反乱ではないか、と思ったのだ。

2人は仲の良い夫婦ではあったが、家族の何事もジュリオが独断で決めてローザはそれに従うという風だった。ひどく女性的で大人しいローザはそのことへの不満をほとんど口にしなかった。

だが彼らの関係は、ジュリオの一人舞台が過ぎるように常に僕らの目には映った。僕ら夫婦のその懸念はローザと妻が女同士の会話をする中で追認され、ローザの不満がくすぶっていることが明らかになっていった。

疑問と困惑

ローザの突然の同性愛者宣言は、彼女が街のレスビアングループに接触した直後に飛び出した。そのグループは反男性あるいは反マッチョを旗印にして、かなり激しい活動をすることで知られている。

グループは「レスビアン団体」を名乗っているが、夫からDVを受けたり虐待されたり等の不当な扱いをされた女性たちも多く加わっている、という噂がある。ローザもそうした女性の一人ではないか、と僕らは疑ったのだ。

僕らがそう推測した理由は先ず、ローザが夫の亭主関白ぶりについて不満を言うことが多くなっていたこと。彼女がグループの集会に参加して、虐待被害者の女性らに強い連帯感を覚えた、と話していたことなどがある。

それに加えて彼女が夫との間に3人もの子供もうけている事実、また前述したようにローザが人並み以上に女性的で、良き母、良き妻の典型のような女であることなども、ぼくらの目をくらました。

女性を好きな女性が子供を作れる筈はなく、さらに良き母であり良き妻である女性が、同じ女性を好きになるというのは大いなる矛盾だ、と僕らは無意識のうちに断じてしまっていた。

しかしながら彼女の中には、同性愛者の素質が確かに眠っていて、たまたま
「男を糾弾する会」的な要素も持つレスビアン・グループに出会って一気に花開いた、というのが真相らしい。

ローザの再生

ローザは間もなく恋人と称する女性を連れて帰宅したりもするようになり、全く後戻りのできない又その気もさらさらない地点にまで到達した。その後さっさと家を出て恋人と同棲を始めた。

滑稽なことだが、そうなっても僕らは彼女のレスビアン性を完全には信じられずにいた。本当はレスビアンではないのだが、夫への怒りから男性を忌み嫌うようになり、反動で気持ちが強く女性に惹かれていくのではないか、とどうしても考えてしまうのだ。

ところがそうした推測は全て間違いだった。その間違いはローザをレスビアンと思い込むところから起きていた。ローザは正確に言えば実はレスビアンではない。彼女は「バイセクシュアル」なのである。男も女も愛せるのがローザの性なのだ。そう気づくと全てが腑に落ちた。

彼女はジュリオと夫婦生活を続けながらも、女性もまた好きだったのだ。その真実が一気に表に出たということなのだろう。ではなぜ今になってローザの隠されていた感情が噴出したのか。それはいたって単純な理由によると僕は考えている。

つまりローザはもはや夫のジュリオが好きではなくなったのだ。彼女は夫に愛想をつかしてしまった。それが破局の原因なのである。要するにそれは、夫婦の一方に好きな人ができてしまい結婚生活が破綻した、というその意味ではごくありふれた話。ローザの好きな相手がたまたま女性だっただけだ。

未来の再生

ジュリオは、前述したように人生を投げたようになって今も立ち上がれない。僕は彼に「頑張れ」とか「過去を忘れてやり直せ」などとはとても言えない。彼は2重の衝撃に打ちのめされていると考えて気が重いのだ。気休めの軽い励ましなどとてもできない。

彼の中には妻に裏切られた(彼から見ればそうだ)ショックに加えて、その妻が同性愛者だったという困惑と不可解と驚愕があるに違いない。後者はもしかすると、妻の不貞(彼から見ればそうだ)という事実よりもずっと大きな不信と怒りを彼にもたらしているのではないか、とも考えてしまうのだ。

心に深い闇を抱えたジュリオがひどく疲弊してしまうのは仕方のないことだ。僕は友として静かに見守ってやることしかできないし、またそうしているのだが、そのうちに彼は復活するだろうともひそかに思っている。復活してほしいと強く願っている。

この「事件」ではジュリオとローザが育んだ一つの家族が壊れた。辛く悲しいことだがそれが現実だ。一方ではローザと恋人の新しい家族が生まれた。彼女はそこで生き生きと日々を過ごしている。「事件」の決算書は今のところはプラスマイナスゼロだ。一つが死んで一つが生まれたのだから。

だがこの先ジュリオが立ち直って、新しい連れ合いを見つけるなりして新生活を始めることができれば、+(プラス)が一つ加算される。そうなれば不幸も伴ったローザのカミングアウトは価値あるものとなるだろう。なにしろポジティブな事案が一つ増えるのだから。

同性愛者は多様性の象徴だが、彼らの存在は象徴であるばかりではなく、われわれの世界に多彩なアイデアや喜びや希望をもらす確実でポジティブな存在でもある。それが最重要なポイントだ。そこを踏まえて見れば、同性が同性を好きとか嫌いとかのどうでもいい議論は、まさに「どうでもいい」と思うのである。


あの日から5年

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僕の中では3月8日の女性の日(ミモザ祭り)と3月11日の東日本大震災の発生日が分かちがたい記憶として刻印されている。

ブログを始めて間もなかった2011年3月11日の朝(日本時間の午後)、僕は3日遅れの「イタリアのミモザ祭、女性の日」について何か書こうと思ってPCを開いた。

そこに日本から津波のニュースが飛び込んだ。衛星テレビの前に走った僕はそこで固まった。東北を襲う惨劇の映像が日本との同時生中継でえんえんと流れていた。

あの日から5年。忘れたわけではないが、あわただしい日々の時間の流れの中で、大難の地獄絵図は記憶蓄積の奥の片隅に追いやられることも多くなった。

そのことへの後ろめたさも手伝うのだろう、3月11日が訪れるたびに僕はブログや新聞投稿その他の表現の場で、いつも何かを語ろうとしてきた。

だが大震災から5周年の今年は、凶事の記憶が鮮明によみがえり始めた3月8日のミモザ祭りの日も、また3月11日当日も、僕はそれについては何も言及しなかった。

映像やネットなどのニュースや論説を静かに見守るだけにしたのは、何かを口にすることがどこか軽く、意図しないままただの見せ掛けや嘘を披瀝しているような、不誠実な気分がするからだった。

しかし、そうやって静かに5周年の「イベント」の数々を見ていくうちに、被災地への思いや被災者の皆さんへの惻隠の情がふつふつと湧き起こった。

それは偽らざる自分の気持ちの動きである。そこで僕はやはり今年もその心慮を書き留めておくことにした。忘れないために。あるいは忘れないでおこうと努力する自分がいることを確認するために。

多くの情報、消息、分析告知などの中でもっとも心を撃たれたのは、青森県から千葉県に至る被災地自治体の、「復興の今」を語ったNHK番組だった。

そこには再生の進んだ地域もあるが、未だ多くの市町村が災厄の傷跡に苦しむ様子が描かれていた。そこに心を揺さぶられながら、僕はもう一つのNHK番組の報告にも深い感慨を覚えた。

イタリア・バチカン、ドイツ・ベルリン、インドネシア、エジプト、オーストラリアなどを結んで、合唱隊や有名オーケストラが日本の被災地を偲んで公演をする様子を伝える放送だった。

その中でインドネシアの子供たちが、東北の被災者への連帯を表明して≪♪花は咲く♪≫を合唱した。おなじみのシーンに合わせて流れた情報が僕に強い衝撃を与えた。次のような内容である。

“2004年12月26日、インドネシアのスマトラ島沖で起こった大地震とそれに伴う津波では、インド洋沿岸各地で合計23万人近くが犠牲になった。最も多くの犠牲者が出たのはここスマトラ島のアチェ・・・”
子供たちはそこで歌っていた。

約23万人の犠牲者の中には日本人もいた。しかし、23万人という衝撃的な数字は、東北の犠牲者と遺族また被災者を思う時のような身近な悲しみを僕にもたらさない、と気づいた。その落差に僕は内心おどろいた。

つまるところ人は、遠い場所の事件や災害には、真に大きくは心を動かされないものなのかも知れない。やはり身内の事件だけが重要なのだ。その意味では人間とは利己的で冷たい存在でもある。人はそのために無関心という罠に嵌まり、やがて多くの間違いや無神経な言動に走る可能性が高まる。

突飛なようだが、それは戦争で人が敵を散々に打ちのめす行動原理にも似た危険な代物だ。敵は遠くにいて、顔も見えず、親しみも感じない。だから人は冷徹に相手を殺戮することができる。身内ではないが、敵にも家族がいて日常があって喜怒哀楽の普通の感情があるなどとは考えない。

考えたら殺す手が鈍る。だから敢えて考えないようにするのが戦争遂行の処世術である。それに抗して考えろ!考えよう!と叫ぶのが反戦平和運動である。考えるとは、無関心ではない、ということだ。それは「忘れない」と同義語でもある。

多大な不幸や悲嘆をもたらす天変地異は避けようがない。だが無関心とエゴイズムと冷徹がもたらす戦争などの人為の兇変は避けることが可能だ。また自然の惨禍からは逃げようがないが、被害を最小限に留める方策を取ることは十分に可能だ。どちらもキーワードは『忘れない』である。

忘れるとそこにはいつも落とし穴がある。人は東日本大震災という巨大な不幸でさえともすれば忘れがちである。僕自身がまさにそうだ。被災地の皆さんのために『忘れない』努力をするべきではないか、と考えるうちにそれは被災者のみならず全ての人のために、何よりも自分のために、重要なことなのだと遅ればせながら僕は気づいたのである。

何度でも、繰り返し、なぜトランプ大統領はNGかを語ろう



米大統領予備選でスーパーチューズデーを制した後もドナルド・トランプ氏の躍進が続いている。トランプさんが共和党候補としてまた将来の合衆国大統領の可能性としても、真剣に相対しなければならない男であることはもはや否定できない。

僕はこれまで彼を「有力泡沫候補」と呼び、トランプ氏は「大統領に“なれない」と言ってきたが、ここからはトランプさんを「大統領に“してはならない”」と主張しようと思う。

トランプさんは大統領になれない、というのは米国の良心と知性を信じる僕の確信である。同時に僕は彼には合衆国大統領になってほしくないという願望も持っている。なぜ執拗にトランプ氏に反対するのか。僕は再び、再三、そして必要なら今後も際限なく語り主張していこうと思う。

トランプ氏が人種差別と不寛容と憎しみを煽る主義主張を修正することなく、このまま共和党の候補者指名を受けたとしよう。それは既に事件である。大げさに聞こえるかもしれないが、彼の政治的スタンスはヒトラーのそれをも髣髴とさせるトンデモ・コンセプトだからだ。

これを言うと、法に即して選挙運動をしている候補者をヒトラー呼ばわりにするな、という意見が必ず出る。そういう意見にはこう返したい。ヒトラーもきちんと法に則って、且つ民主主義の手続きを踏んで“ヒトラー”つまり誰もが知る独裁者になったのだ、と。

トランプ氏はヒトラー同様に民主主義の手続きを踏みつつ合法的に選挙戦を戦っている。そしてそのままの形で共和党の候補になり、ひいては第45代アメリカ合衆国大統領に就任するかも知れない。ヒトラーにも似た主義主張と政策(案)を掲げたままで・・というところが論点だ。

それはドイツ国民がヒトラーを選んだことよりも深刻な事態だ。なぜならヒトラーを選んだ人々は“ヒトラー”を知らなかった。つまりヒトラー以前にも世界には多くの独裁者が存在したが、民主主義の手続きを踏んでその地位に就いた者はいなかった。民衆は望んで、民主主義によって“ヒトラー”を誕生させたのだ。

その苦い体験と歴史をアメリカ国民は知っている。それでもなお且つヒトラー的にも見える人物を彼らの指導者にしようとしている。歴史が歯止めになっていない。だからトランプ大統領の誕生はヒトラーの誕生よりも深刻である可能性が高い。

そのトランプ氏がアメリカ大統領になることだけでも由々しき事態だが、彼の勝利はさらなる負の波紋を世界に広げることが確実だ。波紋は真っ先にここ欧州の極右勢力に到達するだろう。

中でもフランスの国民戦線が勢いづきそうだ。仏国民戦線は元々人種差別と不寛容と憎悪を旗印に政治主張を続けてきた。そこにイスラム過激派によるテロが相次いだ。最大のものは2015年11月のパリ同時多発テロである。フランス国内にはイスラム過激派への怒りが一気に広がった。

それは理解できないことではない。が、不幸なことに、テロリストと無辜のイスラム教徒を同じものとみなすイスラムフォビア(嫌悪)も台頭した。物議を巻き起こしたトランプ氏最大の問題発言「イスラム教徒をアメリカから締め出せ」も元はといえば、フランスの同時多発テロに触発されている。

ルペン国民戦線はフランス国内の混乱とヘイト感情に乗じて、直接間接にイスラム系移民ひいては全ての外国人排斥気分を煽り、欧州議会選挙などで躍進、勢力拡大が著しい。党首のマリー・ルペン氏は、2017年の仏大統領選挙では有力な候補になることが確実視されている。

国民戦線のルペン党首とトランプ氏の政治的スタンスは一卵性双生児のように似通っている。トランプ氏が世界最大最強の権力者である合衆国大統領になれば、ルペン氏にとってこれ以上の追い風はない。またたく間に欧州にも「トランプ主義」が浸透してしまうだろう。

フランス国民戦線の躍進は、ナイジェル・ファラージ氏が率いる英国の兄弟政党(同じ穴のミジナという意味でこう表現する)イギリス独立党(UKIP)、イタリア北部同盟、オーストリア自由党、ギリシャ黄金の夜明け等々の極右勢力も調子づかせるだろう。

一様にEU懐疑論を唱える欧州のそれらの極右政党は、各国内の移民嫌悪感情を巧みに利用して勢力を広げつつあるが、これまでのところは互いに手をつなぎ合う兆候はなかった。しかし、トランプ大統領の誕生を機に急速に接近して欧州に一大極右勢力が生まれる可能性もある。

彼らはロシアとも接近するだろう。ロシアは欧州の統合・連携の象徴であるEU(欧州連合)への強い対抗心を持ち続けている。反欧州・EU懐疑論を掲げるそれらの極右政党は、EUを内部から崩壊させたいロシアにとっては格好の来客となるだろう。

極右欧州とロシアが手を取り合う言わば欧露同盟は、アメリカでさえ仲間に引き込む可能性がある。トランプ氏はプーチン・ロシア大統領との親和性を公言してはばからない。だがそれだけで米露が手を取り合うとは考えにくい。

では欧州の極右とロシアとトランプ米政権が手を結ぶ理由はなんだろうか?それはおそらく「白人同盟」とでも置き換えたときに明らかになる。白人優越主義を自らの中に密かに増幅させているそれらの勢力は将来、手に手を取って世界を白人の支配下に置こうと考えないとは誰にも言えない。

そうした見解は、例えば世界全体がイスラム過激派ISの支配下に入って、自由と正義を奪われた人類が絶望の中で生きている状態、を想像するくらいに大げさで荒唐無稽なシナリオに見えるかも知れない。

だが、“トランプ大統領”誕生の可能性を考えるのも、ついこの間までは荒唐無稽なシナリオだったのだ。また再び歴史に目を移せば、人々はかつてヒトラーが“ヒトラー”に変身することを全く予測できなかった。

しかしトランプ大統領さえ出現しなければ、「あるいは」というその恐怖のシナリオ自体がそもそも存在し得ない。その意味でも“トランプ大統領”という悪夢は避けておいたほうが良い。何が起こるのかは誰にも分からないのだから。


性迷宮~同性婚でも当たり前に愛は勝つ~



欧米主要国で唯一、同性婚を認めてこなかったイタリア上院で同性婚法案が可決された。法案への支持を強く訴えていたマッテオ・レンツィ首相は、可決と同時に“歴史的快挙。愛は勝つ!”とツイートして喜びを表した。

首相就任以来2年、39歳という若さだけが売りで海のものとも山のものともつかない存在だった首相は、懸案の上院改革案につづいて同性婚法案も形にした。

またレンツィ首相は、上院改革法案の前には大統領選でも自らの意を通して実績を残した。彼は少しづつ「海か山かの確かなもの」ではあるらしい、と証明しつつあるようだ。

同性愛をタブー視するバチカンの強い反対と、それに同調する急進派を含む議員らの抵抗で、同姓婚法案は危なく廃案になりかけた

どうにか可決にはこぎつけたものの、法案は最終的に結婚に「準じた」形になった。同性同士のカップルが養子縁組で子供を得る条項が削除されたからだ。

同性婚を認めるなら養子縁組も認めるのが筋だ。婚姻者が子供を得たいと願うのは普通の感情だ。合法化して彼らと子供の権利を保護するべきある。

だが、法案は不完全ではあるものの、同性愛者を敵視するカトリックの総本山バチカンとの相克の末の可決、という重い現実を見れば、大きな成功である。

レンツィ首相が“愛は勝つ”ツイッターで言及したように「歴史的な快挙」と言っても過言ではない。削除された養子縁組条項も近い将来必ず復活、承認されるだろう。

同性愛者への偏見差別の大本は、彼らの関係が生物学的には絶対に子供を成さない、ということにつきる。そこからいろいろな中傷や罵詈や嘲笑が生まれてきた。

その一つが以前僕が書いた記事:「友人でゲイのディックが結婚しましたが、それが何か?」
http://agora-web.jp/archives/1500861.html 
に寄せられた次のコメントである。

佐藤 -- · 東京都 港区
ゲイに限らないのかも知れないが、アナルセックスは汚らしい。
いいね! · 返信 · 2012年11月15日 10:15

コメントは公開された記事に寄せられたものだから、ここで紹介しても構わないと考えた。このコメントへの論評は控えるが一言だけは言っておきたい。

普通の場合は人は、友人夫婦が「どのようにセックスをするのか」などと妄想したりはしない。知らない人はなおさらそうだ。顔も知らない人のあれこれを想像するのは至難の技だ。少なくとも僕はそうだ。 これは善人を装ったり徳人を気取って言うのではない。

そうではあるが、同性愛者への嘲笑や悪意や中傷の中にはこのコメントに近いものも多い、というふうに感じる。いやこのコメントの内容は異性愛者の人々の普通のリアクションであるのかも知れない。

圧倒的多数派の異性愛者は、少数派の同性愛者を「異常性愛者」と決め付けることさえ辞さない。それが差別だということにも気づかないままにそうすることも多い。

同性愛者について語るときは、彼らの恋愛や性愛や痴話のみに関心が行きがちだが、そうした偏見差別のせいで泣いているのは、家族愛などの普通の感情や権利でもあるのだ。

人間である限り、誰が誰をどのように愛そうが問題にするべきではない。それは憎しみや怒りや差別などの対極にある『愛』だからだ。愛を否定するのは憎しみと同義語である。

同性愛者の人々の房事の形を、まさに“ゲスの勘ぐり”で邪推してそれを貶めるのは、差別意識の発露以外の何物でもないことを人々は知るべきだ。

愛の延長線上にある色事の形は、いかなるものでも構わない。それをあれこれ詮索するのは余計なお世話であり、再度言えば“ゲスの勘ぐり”だ。

それが受け入れられない批判者はこう考えてみればいい。同性愛者から見れば彼らの交合の形が普通である。さらにあえて言えば彼らの艶事が「正常」である。

多数者であるあなた(僕も含む)と、あなたの恋人や妻や愛人との情交の形が“変”であり“異常”なのだ。あなたは異性愛者という多数派に属するだけで正義や道徳や節操を代表するものではない。

同性愛者は、ひいてはLGBTの人々は、子を成さない、ということにまつわる宗教的、社会的、歴史的な差別によっていわれのない誹謗を受け続けている。だが彼らはわれわれの社会になんらの危害も与えていない。危害どころか多様性という大きな利益をもたらしているのだ。

先のコメントに同調する人々はもしかすると、同性愛者は道徳的に社会に悪影響を与えていると主張するかもしれない。だがその道徳とは、まず同性愛者悪者論ありき、の上に構築された似非道徳に過ぎない。

そんな道徳は、バチカンによる同性愛者や同姓婚の否定、さらにそれに影響された保守強硬論者やネトウヨ系差別論者の、ヘイトスピーチなどと何も変わるところはないのである。




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