トランプの「Pussy」の正しい日本語訳って何?



漫湖はごこだ!切り取り


「トランプのPussyの正確な日本語訳」のヒント、いや正解は、僕の故郷沖縄県にある。すなわち、同県の那覇市と豊見城市にまたがる、その名も・・・ヨイショっと・・「漫湖(下写真)」である。この「漫湖」を平仮名にして、そこにさらに日本語らしく、奥ゆかしくていねいに、接頭辞の「O(お)」をつけた発音が、すなわちトランプさんのPussyだ。それは英語でも日本語でも禁忌語であるのはいうまでもない。

トランプさんの問題発言が表ざたになって騒然としたころ、NHKがトランプさんの言葉Pussyを、きちんと「O漫湖」と伝えなかった、と批判している文章をSNSなどで見た記憶がある。いわゆる俗語、淫語、卑語、あるいはタブー語の類を
「言わない」のと「言えない」の間には、ゾーアザラシと歯磨き粉ほどの違いがある。

NHKへの批判は、NHKが意図的に「言わない」と判断してのものだと思うが、僕はNHKは「言えない」と考える立場である。ジャーナリズム的には「言えない」も批判の対象になり得る。しかし、文化的視点からはそのスタンスは批判されるべきものでは毛頭なく、考察し眺めまわして、言葉にまつわる文化的背景をむしろ楽しむべきものだ。

平4姫

僕はタブーを破壊する気はないので、あからさまな直訳のひらがな4音はここに書かない。その代わり僕はそれを、「ひらがな4文字のお姫様」という意味で「平4姫」と呼びたいのである。すなわち「ていねい接頭辞“O”+漫湖」の平仮名4文字を「平4」と表示し、そこに女性の美と優しさを象徴する意味でお姫さまの「姫」を付けて【平4姫(ひらよんひめ)】と表現するのだ。

確認すると、「平4姫」とは「ていねい接頭辞“O”」+沖縄県那覇市の「漫湖」の4発音そのもののことである。つまり読者の皆さんは僕が「平4姫」と書くときは、それを“O漫湖”と正確にひらがなの4文字(音)に言い換えてほしいのである。そうしないとここで論じる言葉の不思議や可笑しみや意外感があまり伝わらないと思うので。

Pussyhatデモ

トランプさんが大統領に就任した2017年1月20日前後に、Pussyハット大抗議デモが全米で起きた。「平4姫」そのものを表すピンクの帽子をかぶった数百万人規模の女性が繰り出し、ワシントンD.C.がピンクの海に呑み込まれた。トランプさんが「俺は金持ちで有名人だから《平4姫》をいつでも間単にさわることだできる」「股ぐらをつかむんだぜ」と発言したことに怒ったのだ。

その大規模デモの模様を紹介した日本語の記事では、僕が知る限り正確な
「平仮名4文字」で伝えたものはなく、もっとも近い語でも「子宮」「女性器」止まりだった。でも子宮や女性器は医学用語でもある正式名称で、断じてpussyつまり「平4姫」ではない。

Pussyは英語でも禁忌語である。しかし、禁忌のいわば“度合い”が日本語とは違う。普通の会話の中では女性を尊重して、あるいは紳士淑女のたしなみとして、その言葉は使わない。それは下ネタ語であり、Pussyと連呼したオフレコの会話を暴露されたトランプさんが、「ロッカールーム猥談(Lockeroom talk)」と呼び、奥さんのメラニアさんが「Boys Talk」、すなわち若者(男ども)の会話だ、と規定して夫をかばったように、全ての年齢の男たちがふざけて口にする類の禁忌語と認識されている。

禁忌語の開放度

しかし、大規模デモでも示されたように、それは日本語の「平4姫」のごとく徹底したタブー、つまり「メディアなども絶対に口にしない類の表現」ではない。Pussyという言葉そのものが、SNSはもちろん大手メディア上でも大乱舞したことからもそれは明らかだ。それは英語ではファック(Fuck)、ここイタリアの言葉ではカッツォ(Cazzo)などに似た禁忌語なのだ。

ファック(Fuck)は性行為のことである。またイタリア語のカッツォ(Cazzo)は男性器のことである。その意味では行為と器官そのものも指す日本語の「平4姫」は、FuckとCazzoを足したくらいに強烈な言葉なのだ。「平4姫」はエライ。

ところで「平4姫の」伴侶についてもここで僕の考えを述べておきたい。日本語におけるまたもやのタブー語、東京都にある神保町の神保が少しなまった有名語で示される器官を、戦闘態勢にある時は「棒状の珍しいもの」という意味で僕は「珍なる棒」と呼んでいる。僕が勝手に造語した「珍なる棒」がすなわち、イタリア語のカッツォ(Cazzo)である。

女子高生語

英語圏ではうら若い乙女たちでさえ、時にはニギヤカにFuckを多用する。例えば、しまった=ファック、やべー=フアック、死ねばか=ファックなどと言い、イタリアでも可愛いくもゲンキな女子高校生たちが、コノヤロ=カッツォ、るせーよ=カッツォ、逃げろ~=カッツォ~etc、etc、etc、などとばんばん使うのだ。

それと似た事態が日本語でも起こるとすれば(過去にも、現在も、将来も起こらないと思うけれど)、語感としては「珍なる棒」よりも「平4姫」のほうが そういう「フツー語」に近い、と僕は思う。「珍なる棒」は語感がただコッケイなだけで、「平4姫!」と叫ぶときのカイホー感やウラミツラミ感、あるいはウシロメタサ感やシテヤッタリ感がない、と思うのである。

むっつりスケベ

僕はそういうこととは別に、日本語で生殖器を陰部と呼ぶ事態にもヒジョーに心が波立つ。陰唇とか陰核とか陰嚢とか陰茎などなど。必要以上に引っ込み思案で且ついやらしい。日本人が風俗などという世にもエロいセックス産業を発達させたのも、そういう引っ込み思案のせいでセックスが開放の反対側に追い詰められていって、ついに爆発するんじゃないかとさえ考えている。

平4姫、平4姫、平4姫ええええええ~~、と気軽に口にできれば、日本人も少しは開放されて真っ当なセックス街道を行くようになるんじゃないか。痴漢とか、街中でいきなりズボンを下ろしてイチモツを女性に開陳するとか、1万人以上の女性を買春して写真に収めるとか・・そういうド変態も日本人に異常に多い気がする。それもあるいは、厳格過ぎるタブーへの反動が原因ではないか。

「平4姫」という4文字また音を、20~30回も繰り返して口にしてみてほしい。繰り返し発音してみるとその言葉は、もはや股間の「平4姫」ではなく、「平4姫」という語(音)だけが何者かになって一人歩きを始める。すなわち米英の乙女が叫ぶファック(Fuck)や伊の女子高生が罵るカッツォ(Cazzo)などのようになるのだ。

そうなるとそれらのタブー語は、依然としてタブーではあるものの、日本語の厳格なタブー語とは違う「開放」の空気をかもし出し始める。すなわち「タブーの度合い」が軽くなるのである。

ならば僕は「平4姫」を白日の下にさらけだして、タブーを無くしたいのかというと、全く逆なのである。それはタブーである方がよろしいものだ。だから僕はわざわざ回りくどく「平4姫」と言いつづけている。

僕はここでは、「平4姫」という美しいものを、美しいままでそっとしておくにはタブーでありつづけるべきだと言いたいのであり、且つそのタブーがタブーでなくなるときに起きるかもしれない「文化的激震」を、少し予見し考察してみたかっただけなのである。



ヨリ漫湖
漫湖はれっきとしたラムサール条約登録湿地の一つ



イラスト:Kenji A Nakasone




書きそびれていることども~2017・7月・26日



水が止まったカルロ・マデルノ噴水サンピエトロ広場800pic
水流が止まったサンピエトロ広場のカルロ・マデルノ噴水



書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしているネタは多い。それは「書きそびれた過去形のテーマ」ではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題も、できれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。


マジ、「トレビの泉」が枯れるかも

イタリアの水不足が深刻だ。特に中部から南部イタリアが旱魃に見舞われている。ローマ市は7月3日以降、市内に2800箇所ある噴水と水飲み場の水流を徐々にストップすると宣言。バチカン市国も先日、ローマ市との連携を示すとして、サンピエトロ広場にあるバロック型式の噴水を含む、国内のおよそ100箇所の噴水を閉鎖した。ローマには今年1月から6月までの半年間に26日の降雨日があったが、これは2016年の同時期の88日を大きく下回る。また過去60年間で2番目に暑い春の後も、雨の少ない高温の日々が続いている。ローマ市は公共の水飲み場でもある噴水を閉めるばかりではなく、1日8時間程度の給水制限まで検討している。イタリア全体ではこれまでに、少なく見積もってもおよそ2億ユーロ(2600億円)の農業被害が出ており、山火事が頻繁に発生している状況である。旱魃が解消される見通しは今のところ立っていない。


イタリアでの立ちションとカーセックスは高くつくよ


2016年、イタリアでは立小便と公の場でのセックスは違法行為(刑罰)ではなくなった。その代わり1万ユーロ(約130万円)の罰金が課されることになった。今年2月、ジェノバの19歳の大学生が真夜中に立ちションベンをして警察につかまり、2ヵ月後に1万ユーロの罰金の支払い請求書が届いた。学生は数字を何度も繰り返し確かめたという。それはとても信じられない額だったのだ。学生の父親は弁護士に相談したが、クレームをつけても勝ち目はないので素直に支払った方がいいと釘を刺された。また先日は、シチリア島パレルモ市近郊の高速道路のジャンクションで、車内セックスをしていたカップルがやはり警察に咎められて130万円の罰金を課された。2人はカーセックスが禁止とは知らなかった、と必死で弁解したが警察は全く相手にせず、きちんと130万円の違反切符を切った。「高速のジャンクションでカーセックスをするのが禁止かどうかではなく、普通そんなところで楽しむかい?というのがポイントでしょ」とは、警察は諭(さと)さなかったのだろうか?

イタリアサッカーがよみがえる日は来るか


サッカー強豪国のイタリアが沈んで久しい。2006年のW杯優勝を頂点に強さは下降線をたどるばかりだ。その原因は「違い」を演出できる優れた選手の不在だ。たとえば90年代にひしめいたロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デルピエロ、フランチェスコ・トッティ、少し遅れてアンドレア・ピルロなどの、超一流選手の後継者が出ないことが最大の原因だと僕は思う。彼らに近づきそうな選手は2人いた。アントニオ・カッサーノとマリオ・バロテッリである。優れた能力を有しながら、2人は性格の不安定と頭の中身がぶっ飛んでいることが災いして、ついに大成しなかった。カッサーノはカッサーノらしく先日、引き際でも物議を醸して正式引退。バロテッリはまだ若いながら、絶頂期は過ぎてあとは落ちるばかり、という風である。精神的に大きく成長しない限り、その傾向は逆転しないだろう。2人に続く才能は今のところ見当たらない。つまり、イタリアサッカーがかつての栄光を取り戻す道筋は見えない。ディフェンダーはイタリアらしく強い選手がひしめいているが、守備だけではサッカーは勝てない。たとえ勝てても見ていて面白くない。


難民問題

地中海を渡ってイタリアに流入する難民・移民はとどまることを知らない。彼らの救助と救助後の面倒見に翻弄されているイタリアは、EU(欧州連合)の介入と手助けを必死に呼びかけているが、独仏をはじめとするEU各国は「イタリアに同情する」「イタリアを1人にはしない」「イタリアの痛みを分かち合う」などなど、口先ばかりの「連帯」を表明して、実はほぼ無関心と言っても良い偽善者ぶりである。それどころかEUの問題児ハンガリーは、オルバン首相の名で「イタリアは難民排斥ののために全ての港を閉鎖するべき」とこの国を非難。それには元共産主義国で今や難民・移民排斥の急先鋒であるチェコ共和国、スロベニア、ポーランド各国の代表が同調した。あまつさえ、ハンガリーの隣国でイタリアとも国境を接するオーストリアも、イタリアは「難民・移民」を地中海の島に留め置いて、イタリア本土(欧州大陸)に移動させないようにするべき、と表明してイタリアの怒りを買い、国際社会を唖然とさせた。

Femicide(女性殺し)

イタリアよ、一体どうしたのだ、と問いたいほどの有り様である。夫、元夫、恋人、元恋人、愛人等々による女性殺害事件が後を絶たないのだ。直近では7月23日、ベニス在住のマリアアルキテッタ・メネッラ(38)さんが、元夫のアントニオ・アショーネ(44)に包丁でメッタ刺しにされて死亡した。当時アショーネは、メネッラさんの自宅に招待されていた。つまり2人は離婚後も友達関係にあったことが分かる。2人の間には15歳と9歳と息子がいる。イタリアでは離婚後も夫婦が良い人間関係を保つことが珍しくない。特に子供がいながら別れた場合はそうだ。子供のためにいがみ合いを避けようとするのだ。文明社会らしい側面が強いイタリアなのに、別れた相手女性の自由を受け入れられずに、殺害にまで及んでしまう男らの存在は、繰り返し僕の頭の中に大きな「?」マークを植え付け続けている。



天皇制と共和国



共和国



先日の皇太子さんに関する記事を踏まえて、早速議論を仕掛けてきた友がいる。「君は天皇制をどう見ているのか」という趣旨の、少し怒ったような内容の便りである。

彼は天皇制支持者で皇室尊崇派の男だ。それが理由だろうが、皇太子さん記事は彼にとっては、軽過ぎる内容だったらしい。

僕は彼の了解を得てブログ上に自分の見解を述べることにした。

ちなみに「君は天皇制をどう見ているのか」という友人の問いには、次のような趣旨の返事をしておいた。

天皇制については僕は懐疑的です。先の大戦の如く、制度を利用して、国を誤らせる輩が跋扈する可能性が決してなくならないからです。

しかし「天皇制」と「天皇家」は別物です。天皇制を悪用して私利私欲を満たす連中は天皇家のあずかり知らないことです。

天皇家とその家族は善なる存在ですが、天皇制はできればないほうが良いと考えます。しかし、(天皇制を悪用する)過去の亡霊が完全に払拭されるならば、もちろん今のままの形でも構わない、とも思います。


僕は今のところ、信条として「共和国主義が最善の政治体制」だと考える者である。「共和主義者」には独裁者や共産党独裁体制の首魁などもいる。僕はそれらを認めない。あくまでも民主的な「共和国主義」が理想である。

それはここイタリア、またフランスの共和制のことであり、ドイツ連邦やアメリカ合衆国などの制度のことである。それらは「全ての人間は平等に造られている」 という不磨の大典的思想、あるいは人間存在の真理の上に造られている。

民主主義を標榜するするそれらの共和(連邦,合衆)国では、主権は国民にあり、その国民によって選ばれた代表によって行使される政治制度が死守されている。多くの場合、大統領は元首も兼ねる。

僕は国家元首を含むあらゆる公職は、主権を有する国民の選挙によって選ばれ決定されるべき、と考える。つまり国のあらゆる権力や制度は米独仏伊などのように国民の選挙によって造られるべき、という立場だ。

世界には共和国と称し且つ民主主義を標榜しながら、実態は独裁主義にほかならない国々、例えば中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国なども存在する。

共和国と民主国家は同じ概念ではない。そこを踏まえた上で、僕は「共和国」を飽くまでも「民主主義体制の共和国」という意味で論じたいのである。

僕が友人への便りに「天皇制はできればないほうが良い」と言いつつ「今のままの形でも構わない」と優柔不断な物言いをしたのは、実は僕が天皇制に関しては、自身がもっとも嫌いな「大勢順応・迎合主義」を信条としているからである。

大勢順応・迎合主義とは、何事につけ主体的な意見を持たず、「赤信号、皆で渡れば怖くない」とばかりに大勢の後ろに回って、これに付き従う者のことである。

ではここではそれはどういう意味かというと、共和国(制)主義を信奉しながらも、日本国民の大勢が現状のように天皇制を支持していくなら、僕は躊躇することなくそれに従うということだ。

共和国(制)主義を支持するのだから、君主を否定することになり、従って天皇制には反対ということになる。それはそうなのだが、僕が天皇制を支持しないのは天皇家への反感が理由ではない。

友人への返信で示したように、天皇制を利用して国家を悪の方向に導く政治家が必ずいて、天皇制が存続する限りその可能性をゼロにすることは決してできない。だから天皇制には反対なのである。

しかしながら、繰り返しになるが、日本国民の大多数が天皇制を良しとしているのだから、僕もそれで良しとするのである。天皇家を存続させながら天皇制をなくす方法があれば、あるいはそれが適切かもしれない。

とはいうもののそのことに関しては、僕は飽くまでも大勢に従う気分が濃厚なのである。そこには日本国民が今さらまさか昔の過ちを忘れて、天皇制を歪曲濫用する輩に惑わされることはないだろう、という信頼がある。


トト・リイナは刑務所内で尊厳死を、と裁判所



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裁判所のリイナ



2017年7月17日、イタリアの拘留再審裁判所(ボローニャ市)は、史上最悪のマフィアボスとも規定されるトト・リイナの尊厳死を否定する判決を下した。

1993年に逮捕されて服役中のリイナは、高齢と病気を理由に終身刑の減刑を申し立て、伊最高裁は先日、彼の申請を吟味するように拘留再審裁判所に命じていた。

ボローニャ拘留再審裁は、リイナが収監されているパルマ刑務所内の41Bis(最高警戒レベル棟)の医療施設は最良のものであり、彼の尊厳死が損なわれることはない、とした。

また、リイナは今年2月、面会に来た妻との会話の中で「俺は絶対に司法に屈しない。謝罪も告白もしない。奴らが俺の刑期を30年から3000年に切り換えてもだ」という趣旨の発言をした。

裁判所はそのことも指摘して「リイナは依然として(マフィアのトップにあって)社会の敵である。彼を解放するのは危険が大き過ぎる」とも断言した。

リイナの弁護人は再び控訴するとしているが、恐らく今後申し立ては取り上げられることはなく、世紀の悪人「野獣トト・リイナ」は、41Bis(最高警戒レベル)監視下で死を迎えることになるだろう。


女はだまって、男よりもさらに大いにしゃべりまくるのが良い



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新婚旅行中の友人のゲイカップル・ディック&ピーターと共に


男女ともに大いにしゃべる文化

欧米社会では紳士たる男はしゃべることが大切である。パーティーや食事会などのあらゆる社交の場で、 自己主張や表現のために、そして社交仲間、特に女性を楽しませるために、男は一生懸命にしゃべらなければならない。

「男はだまって、大いにしゃべる」のが美徳である西洋社会では、女性はさらにしゃべりしゃべって、しゃべりまくるのが善である。一般的にそうだが、より分かりやすく具体的にするために、僕は自分の妻のことを引き合いに出して検証してみることにした。

愉快な貴族と日本人

イタリア人の僕の妻も、しゃべりまくるのが女の善、というその例に漏れない女性である。もともと根が明るいいわゆるシンパーティカ(愉快)な人である彼女は、斜陽族とはいうもののれっきとした貴族家に生まれた。

そのために社交というものを徹底的に身につけさせられた。つまり生まれながらのおしゃべり好きが、社交を意識した教育を受けてさらに会話の達人になった。

若い頃は、おしゃべり好きではあるものの人見知りをするところもあって、シンパーティカ(愉快)力を十二分に発揮できない場合もあった。しかしながら少し年を取ってきた今は、初対面の人ともかまわずによく会話をする。

沈黙を美徳とする東洋の国で育った僕は、西洋社会に生きる者として懸命に会話の修得を心掛けてきたつもりでいる。妻を知ってからは彼女の実家を介してのパーティーや食事会等に招かれることも多くなり、さらにしゃべりの機会が増えていった。

その度合いはイタリアに住み着いてからは飛躍的に高まった。おかげで日本人としては僕は、人見知りをせず割合リラックスしてしゃべることができる部類の男になったのではないかと思う。

僕はそれらを割と無難にこなしている(と自分では思っている)が、実は内心では大いに疲れていないでもない。最近は1人でワインを飲みながら「~♪女は無口な人がいい~♪」などと舟歌い、八代亜紀ることもある。

ならば僕は妻のおしゃべりは嫌いかというと、ま、嫌いでも好きでもないが許せる範囲かな、というあたりが正直なところである。

女性からおしゃべりを取り上げるのは、多くの場合は「女であることを止めなさい」というにも等しい横暴ではないだろうか。

母のおしゃべりと子供たち

妻はロンドンで僕と付き合うようになった、もはや3世紀ほども前の遠い昔に、日本語を習い始めた。その後、僕の仕事の関係で1年弱日本に住んだ時期に日本語力を磨いた。

もとよりそれは、初歩的な日本語に毛が生えただけ、というにも近いレベルだったが、彼女はイタリアに定住後はその日本語を幼い息子2人に懸命に教えた。

僕はテレビ屋という仕事柄ロケを中心に出張が多く、且つ息子2人が幼いころは、在宅していても多忙過ぎて、思い通りに日本語を教える時間がなかった。妻はそんな僕に代わて彼らに日本語を伝授したのだ。

そこで役に立ったのが彼女の「おしゃべり」という武器だ。彼女は飽きもせずに子供たちと日本語で会話をした。おかげで息子2人は基本的な日本語を覚えた、とまではいかないが、かなり日本語に親しんだ。

息子2人の日本語能力は妻の日本語のレベルをすぐに超えた。しかし、彼らの日本語は、日本人の父親よりも「イタリア人の母親伝来」のものなのだ。僕は妻に大いに感謝している。

実は僕が子供たちに日本語を十分に教えなかったのは、多忙ということももちろんあるが、多くは会話能力の不足が主な原因だったのだ、と今ならわかる。

「おしゃべり」の理由(わけ)

妻を含む世の多くの女性のおしゃべり好きは、ドーパミンという快感ホルモンの作用によることが分かっている。

女性の脳にとっては話すことが快感として意識され、快感によってさらにドーパミンが分泌されて会話がますます進む、という相乗効果が起こる。

また女性には、精神を落ち着かせたり幸せな気分を生む、セロトニンという神経伝達物質が男性よりも不足しているため、ストレスや不満や鬱憤を多く抱え込みがちになる。それらのもやもやを一気に晴らしてくれるのも、またおしゃべりなのである。

そのおしゃべりがドーパミンを呼んで元のおしゃべりがさらに快調になり、再びドーパミンが分泌されて・・と、どんどんポジティブなおしゃべりの循環が始まる、というのが女性のおしゃべりの科学的説明だ。

ところで、おしゃべりというのは「暴力を抑止する」作用もある、と僕は考えている。おしゃべりを対話やコミュニケーションに置き換えてみればそれはよく分かるのではないか。

対話を拒む者は暴力に走りやすい。何事につけ一方的に相手が悪いと思い込み、相手の意見を聞かず従ってコミュニケーションを否定し、やがて爆発して暴力を行使する。

おしゃべりが女性の武器

女性たちは原始のころ、男たちが狩りに出払った集落内で平和に暮らす必要があった。自分の子供たちを守り、銃後の集団を守るためだ。

そこではコミュニケーションが重要だった。銃後を守る女性たちは、文字通り銃(武器)ではなく対話によって平和を保ち生存を全うしようとした。そうやって女性たちの会話能力はますます磨きぬかれていった。

会話の少ない男たちがどちらかというと暴力的なのに対して、女性たちが穏やかで平和的であるのもおしゃべりのおかげなのだ。だから僕は「女性のおしゃべりバンザイ」と言わざるを得ないのである。

現在、銃後の存在であることをやめた女性たちは、どんどん世の中に進出して日毎に活躍の場を広げている。そして世の中には彼女たちの進出を恐れる臆病者の男たちが多くいる。それは往々にしてネトウヨヘイト系の国民や同系統の政治家や権力者らである。

彼らは日本に限って言えば例えば、韓国や中国に経済力で日本が追いつかれ追い抜かれたことに仰天して、かの国と国民にヘイト感情を露わにして己れの不安とひがみ根性を隠そうとする行為よろしく、女性への恐怖から彼女たちの能力を見下したがる。

性的魅力

能力を十二分に発揮する女性は、性的に魅力がない、などと公に口にするやからもいる。私的な集団や男同士の会話の中では、そういう指摘や主張は割と普通のことだ。彼らは「家の縛り」から抜け出た女性たちが気に食わないのだ。

彼らにとっては、例えば英国のサッチャー元首相などというのは女性としての魅力はゼロというようなものだろう。でも僕は-奇をてらって言うのではなく-彼女は女性としても魅力的な人だったと思う。彼女は「女性のままで」強かったから魅力的で美しかったのだ。

それに比較すると、今の日本に多い男の真似をしているだけの「オヤジ型女性政治家」なんて偽者だし醜い。自民党の閣僚や閣僚級の女性議員また野党有力議員などがその典型だ。

彼女たちとは逆に見える、例えば稲田防衛大臣の如きブリッ子的オバハン政治家もいる。だが「不自然」で「主体性がない」彼女は、‘不自然で主体性がない’というまさにそのことによって「オヤジ型女性政治家」に分類される存在なのだ。

それらのタイプの政治家は実はイタリアにも多い。つまり「オヤジ型女性政治家」が跋扈(ばっこ)する社会現象は、「女性の社会進出が遅れている国」に特有のものなのである。

権力者は女性のおしゃべりから学べ

権力を握っている男性政治家らは「女性が活躍する日本を作る」などと口先だけのスローガンを標榜して持ち上げる振りで、実は女性たちへのヘイトを内心に秘めた陰湿な言動や行為や実働に終始する。安倍晋三首相などもその1人に見えなくもない。

時代錯誤な封建思想と、臆病風に吹かれているそれらのネトウヨ・差別・排外主義者、あるいは憎悪・暴力愛好家のトランプ主義者らは、今こそそれらの色眼鏡をかなぐり捨てて、男と女は「違う」が能力は均等、つまり「違いは能力の優劣ではない」という、当たり前の真実を認めて世の中を見、女性を見、自らを凝視するべきなのである。

そのためには先ず女性に倣(なら)って、コミュニケーション能力あるいは「おしゃべり力」を獲得するべきだ。それが「軍事」優先ではなく「対話」優先の平和外交につながる。繰り返すが「対話」とは「おしゃべり」の換言なのである。

古来、戦争を始めて殺戮をする者はほぼ常に男だった。戦争を起こした女性は歴史上皆無ではない。しかしながら女性は、物事を対話とおしゃべりによって解決しようとするから、紛争や殺戮を男よりもうまく避けることができる、と思うのである。



皇太子さんとヘンリー王子



皇太子切り取り横長600pic
写真:デンマーク、ハイネ氏配信


皇太子(徳仁親王)さんがデンマークでゆきずりの人と自撮りをしたことを、僕はゆるりとひそかにうれしく思った。

そのことを書きたいが、さて皇太子さんの呼び方をどうするかで少し迷った。

「皇太子殿下」「徳仁親王殿下」「東宮さま」など、堅苦しい伝統に縛られた言い方をするのがはばかられた。

それというのも皇太子さんが、一般人と街中の路上で、気さくに自撮りに応じたのは、まさにそれらの堅苦しい呼称に代表される「伝統」に挑む行為にほかならないからだ。

大時代なそれらは伝統という名の、だがもしかすると陋習かもしれないコンセプトである。だから皇太子さんはあえてそれらに挑んでいるのだろう。

皇太子さんのその「勇気」を賞賛するのがこの稿の目的である。それなのに僕が、伝統ならまだしも、陋習かもしれないものに縛られた言い方をしては自己撞着だ。

あれこれと迷う間に京都の人々が天皇陛下を(親しみをこめて)天皇さん、と呼ぶことを思い出して、試しに「皇太子さん」と口にしてみた。すると、それが一番しっくりくることがわかった。

先に進む前に保守派の皆さんが眉をひそめそうなので断りを入れておきたい。

皇太子さんを、さん付けで呼ぶのは決して侮辱する意味ではない。皇室典範には皇太子さんを「皇太子殿下」と呼ぶと明記されているが、皇太子は天皇と同じようにその呼称自体がすでに尊称だとも考えられるから、実は陛下や殿下をつけなくても恭しい言葉だ。

だから「皇太子は」と書いても問題はない。むしろ正確と実を重んじるジャーナリズムの書き方はそうあって然るべきだ。

だが僕のこの文章はジャーナリズムのコンセプトで書くものではない。あくまでも僕の意見また心情を吐露するエッセイやコラムや随筆の意味合いで書く。

いわばオフィシャルな呼称ではなく、個人的、人間的な親しみをこめて僕は皇太子殿下を「皇太子さん」と呼ぶのである。

この際なのでさらに付け加えておけば、今こうして僕があれこれと説明したり言い訳をしたりしていること自体が日本の、そして皇室の、つまり宮内庁の時代錯誤と封建制がもたらす弊害以外の何物でもない。

そしてそれは、世界の中で日本が生きていく際に、日本国と日本国民の後進性あるいは閉鎖性を象徴する概念や事象やファクトや思念と見られかねないものであり、日本のイメージの低下をもたらすことはあっても、イメージの向上に資することは決してない。

皇太子さんが自撮りに気軽に応え、大きな笑顔を世界中に披露したのはすばらしいことだ。それは皇室が開けたものになる未来を垣間見させる象徴的な出来事だ。

それはまた今上天皇が、皇太子さんほかの子供たちを手元において、皇后陛下ともどもに「家庭で」育てた「皇室の近代化」の動きの結実でもある。

宮内庁は皇太子さんの前例のない行動におどろき、おそれたという。僕はそれとは逆に、宮内庁の反応そのものにこそおどろき、おそれたものだ。

おどろいたのは、皇太子の徹頭徹尾ポジティブな行動をポジティブと理解しない愚昧な守旧性への驚嘆。

またおそれは、宮内庁の考えに似た姿勢でいる日本国内の民族主義者と、それに唯々諾々と取り込まれるであろう一部の、無思考の国民への不安。

彼らの非難の声が起こって、皇太子さんが目指している皇室の行く末と、従って日本の行く方向に暗雲が垂れ込める可能性をおそれ憂いたのだ。

皇太子さんが自撮りを披露した直後に、偶然にも、英国ではヘンリー王子が
「王室の家族の中ですすんで王や女王になりたい者などいない」と」発言して話題になった。

それは王や女王であることの重い責任と、不自由と、非人間的な規制生活の諸々を喜んで引き受ける者などいない。

それでも王になり女王になるのは、要するに国民に対する王族としての責任感と義務感があるからだ、という意味を行間に込めた人間味あふれる宣言だった。

ヘンリー王子は同時に、彼の母親のダイアナ妃の葬儀の際、幼かった自分が母親の棺の横で行列に従って歩いた苦痛を「あってはならないこと」と、これまた聞く者の涙と共感を呼ばずにはおかない心情も吐露した。

それは伝統やしきたりや慣習の秘める残酷を指弾した宣告だ。だが決して伝統やしきたりや慣習を否定するものではなく、それらは変革し作り変えられるべきものでもある、という開明的な考えの披瀝でもあったのだ。

僕はヘンリー王子の真摯な気持ち表明と、皇太子さんのニコヤカな自撮りに同じルーツを見たのである。

今上天皇から皇太子さんに確実に受け継がれている、人間的な皇室を目指す彼らの摯実な行状は、日本の未来を象徴する明るいものだ。

皇太子さんが妻の雅子妃を妻として「普通に」守り、かばう言動を繰り返すことと共に、実に喜ばしいことだと腹から思うのである。



ローマの「トレビの泉」が枯山水になる!?



トレビの泉引き400
トレビの泉


ドイツ、ハンブルグでまもなくG20が始まる。環境、貿易問題を中心にいつになく真剣で活発、しかも分断の様相が濃い議論が行われると見られている。

荒れ模様の会議を象徴するように、市民による抗議デモも拡大し先鋭化している。会議が始まる今日午後には10万人規模のデモが予定されている。

お騒がせ米トランプ「暴君」大統領と、プーチンロシア「皇帝」及び習近平中国
「専制君主」の会談、また彼と独メルケル首相とのそれなどが目玉。

世界政治の傍流の地方ボス安倍晋三さんと、政治傍流且つ経済四流国のトップ、イタリアのジェンティローニさんらは脇に置かれるだろう。

とはいうものの、殺到する地中海難民問題で四苦八苦する後者は、会議中にあるいは少しは注目を集める場面があるかもしれない。

ジェンティローニさんの銃後のここイタリアは、殺到する地中海難民の集合体熱とそれに対する伊国民の驚愕熱に加えて、近年まれな6月中と7月初めの暑気と少雨が相まって国中が乾きにあえいでいる。

そんな中、世界一美しい噴水とも形容されるローマのトレビの泉が、水不足のためにすべての蛇口が枯渇して閉鎖される、という噂が流れて人々を驚かせた。

「永遠の都」ローマのシンボルの一つが枯渇するというところまではいかないと思うが、2000年前後の歴史を持つものも多いローマの噴水が、水不足のために水流を止められるのは事実である。

イタリアは2017年6月、北部のわずかな一帯を除いて厳しい暑さと水不足に見舞われた。暑さは過去60年で2番目、乾燥度は同時期の最悪、という記録になった。それは前述したように7月に入った今も続き、厳しさを増している。

水不足に悩むローマ水道局は、史上初めて公共の水飲み場ともいうべきローマの噴水(飲み水)を止めることを決定。手始めに7月3日、30の噴水の水流をストップした。

以後、蛇口を閉める噴水の数を増やして、最終的には2000余の噴水のうちおよそ1920箇所、言葉を換えれば80箇所のみを残して、水の供給をストップする、としている。

ローマは世界一の噴水の街である。2000以上の噴水があり、そのうちの50箇所は歴史遺産(モニュメント)に指定されている。

噴水は古代ローマが水道を完成させたとき、そこから直接に水を引いて作られていった。広場や路地や街角などに設置されて、市民や旅行者に飲み水を提供しつつローマの暑い夏を潤してきた。同時にそれらは美しい街並みに一点のアクセントを加えて、街並みをさらに美しく趣深いものにした。

街の噴水は17世紀から18世紀にかけて大幅な改修や新設が行われた。オリジナルの古代ローマ水道そのものの修復が、その時代に実施されたのがきっかけである。

噴水はその機会に美的装飾や改善や修正が加えられて今の形になった。それまではシンプルな水飲み場のようなものがほとんどだったが、18世紀頃を境にトレビの泉に代表される荘重で美しいものが登場するようになった。

その結果ローマ市内の噴水は、トレビの泉のような広大で水かさが盛んなものから、一本のチューブにつながった水道の活嘴(かっし)が水を吹き出しているようなシンプルなものまで、その数は2000箇所を越すのである。

そのうちの大半に水の供給を停止する今回の処置の主な理由は、前述したように水不足だが、ローマ水道局はこの機会に疲弊した噴水のパイプや構造物を修復したいとしている。

水道局によると、ローマ全体の噴水の水流はパイプや構造物の老朽化によって、その50%が失われムダになっているとされる。

また、噴水の閉鎖は一時的なものであり、修復が完成して水不足が解消されれば、すべての噴水に元通りに水を供給する、としている。

市の決定に対して、ローマの消費者団体は、噴水の水が飲めなくなって観光客らはバールや店で高いミネラルウォーターを買わされることになる。閉鎖には反対だ、と抗議している。

だがその間くらい観光客は、ミネラルウォーターを飲んでもバチはあたらない、と思う。ミネラルウォーターがごく一般的に飲まれているイタリアでは、その値段は決して高くはないのだ。

日本などに比べたら「微々たるもの」と言っても良いくらいの価格だ。しばらく不便が続くが、ローマの歴史的噴水群が修復されてよみがえるのだから、結局そのほうが観光客の利益にもなる、と思うのだが。。。




「都民ファーストの会」は日本版「共和国前進」になれるか



笑顔小池200pic
200ぴcマクロン


都議選における「都民ファーストの会」の躍進は、フランス総選挙における「共和国前進」の成功を思いおこさせる。それはポジティブなイメージである。

マクロン仏大統領率いる「共和国前進」の飛躍は、Brexit(英国のEU離脱)と米トランプ大統領誕生によって最高潮に達した、世界ポピュリズムの流れに歯止めをかけるものである。

それはオーストリア大統領選、オランダ総選挙などを経て成長し、仏大統領選でさらに地盤固めをして、先のフランス総選挙で再びその流れが確認された

次は9月のドイツ総選挙においてメルケル首相が4選されれば、ポピュリズム排撃は完成する、というのが僕の見解だが、その前に都議選がポピュリズム放逐の風潮に肩入れをしたと思う。

世界政治の傍流に属する日本の、さらに地方選挙に過ぎない東京都議選で旋風を起こしただけの「都民ファーストの会」を、世界レベルのコンセプトで論ずるのは噴飯ものだ、という声が聞こえてきそうである。

また「都民ファーストの会」自体がポピュリストではないか、という反論もありそうだ。それらはもっともな意見だが、僕は同時に「都民ファーストの会」の役割は、フランスのポピュリストの代表である極右の「国民戦線」の前に立ちはだかった、「共和党前進」に近いとも考えるのである。

ならば「共和国前進」にとっての極右政党・国民戦線にあたる、「都民ファーストの会」の対抗者はなにかといえば、それは言うまでもなく安倍一強自民党である。

自民党をポピュリスト政党とは呼べないだろうが、安倍晋三首相はトランプ大統領に追従し、日本以外のグローバル世論のそこかしこから「極右」とレッテルを貼られて、その意味ではフランス極右のルペン氏に肉薄する存在である。

従ってその観点から論を進めた場合、「都民ファーストの会」と「共和国前進」を並べて考えるのは、あながち荒唐無稽とばかりは言えないように思う。

ルペン氏は米トランプ大統領につながり、彼らはBrexitを誘導した英国独立党のナイジェル・ファラージ氏などともつながっている。そこにはここイタリアの極右政党、北部同盟なども賛同し連携を模索している。

そしてどちらかというと極左的な性格を持つ五つ星運動も、トランプ大統領に強い共感を抱いているところが、ポピュリズム集団のポピュリズム集団たるゆえんだ。節操がないのである。

安倍さんはさすがにあからさまな極右的言動は極力抑えているように見えるが、彼の政治的スタンスと思想は、それらのポピュリストと何も変わらないものなのだ。

つまり、例えば日本国のリーダーとして、同盟国で且つ最重要な国であるアメリカのトランプ大統領に擦り寄るのは、仕方がないこととして認めよう。

だが、差別排外主義者で保護貿易主義者のトランプ大統領に、独メルケル首相や仏マクロン大統領、あるいはEU首脳やカナダその他の欧米のリーダーがしたように、「それは受け入れられない」と釘を刺せないところが彼の限界なのだ。

内弁慶で不甲斐ない安倍さんに強烈な一撃を食らわした「都民ファーストの会」は、ルペン国民戦線を撃破することでBrexit、トランプ大統領誕生、と続いたポピュリズムの流れを食い止めた「共和国前進」と同類なのである。

いうまでもなく共和国前進は国政政党であり、「都民ファーストの会」は東京都の地方政党に過ぎない。しかし首都の総選挙において、森友・加計問題の隠蔽、共謀罪法案の独裁手法によるゴリ押し可決などに象徴される、驕り高ぶった安倍一強自民に鉄槌を下した事実は大きい。

「都民ファーストの会」の代表を退く小池知事は、国政への進出は今のところ考えない、としているようだが内心は違うのではないか。将来は国政への転進・攻勢を目指し、国民がそれを後押しする構図が見えてくるようにも思う。

それでなければ、驕る安倍一強自民がさらに暴走し、戦前の闇に似た社会が出現する可能性までを不安視しなければならない、いやな世情が今後も続く見込みが高い。

再生を予想することが困難なおバカ民主党、いや、民進党が頼りにならない今、共産党や社民党などが束になっても自民党の勢いを止めることはできない。

従ってそこには乾坤一擲の新しい政治勢力が生まれなければならないし、生まれることが期待される。そしてそれはもしかすると、「都民ファーストの会」なのかもしれないと考えるのは、全くの奇異荒唐だろうか。




イタリアの春から初夏の気候はやっぱり詐欺師だ


山並み稲妻



2017年7月2日。

短パンに靴下、ビロード風の長袖シャツという格好で居間のソファでテレビを見ていると、開け放した窓から吹き込む風が冷たく、我慢できずに窓を閉めた。

短パンに厚手の長袖シャツというおかしな格好でいたのは、毎日がおかしな天候だからである。

5月4日、僕はこのブログに:

4月になって、暖かいというよりも暑いくらいの陽気になった北イタリアは、このまま夏に突入かとさえ見えた。

ところが4月半ばの復活祭(伊語:パスクア 英語:イースター)直後から冬が舞い戻ったような寒さがやってきた。

今日5月4日も、気温が下がった当初から数日前までの、本気モードの寒さほどではないものの、けっこう冷える。

と書いた

その後、季節は徐々に進行して6月20日過ぎまで暖かみが増していった。

6月22,23,24日ころは盛夏の暑さが思いやられるほどに気温が上昇した。

特に6月24日(土)の暑さはひどかった。僕らはその日友人3夫婦を招んで庭でBBQをした。

BBQがメインで、前菜代わりに氷に乗せた刺身をふるまった。

そうしながら僕はBBQも進めていたのだが、夜8時を過ぎても異常に暑く、僕はその日のイベントを後悔したほどだ。

ところが翌日の日曜日は一転して豪雨を伴う嵐に見舞われた。

雷とともに吹き付ける風はテンポラーレ。僕が勝手に「豆台風」と呼んでいる強烈な夕立、あるいは野分(のわき)。

夏の終わりに吹くのが普通だが、最近は今回のように夏の初めや途中でも吹くことが多い。

気象変動は確実にそこにあるのだ。

豆台風は庭の大鉢に植えられたレモンの木を鉢ごとなぎ倒した。

壁に這うバラの木々の枝の多くも千切り飛ばした。

雨は農家には慈雨になったが、降雨量が多すぎて洪水や土砂崩れなどの被害ももたらした。

その豆台風は涼を通り越して寒の空気も運んできた。

さすがに4月半ばの寒さにはならないものの、空気は日中でも風が吹くとひんやりとしている。

以後、雨も断続的に降り続いて今日(7月2日)になった。

それらの変動は北イタリアのみの状況である。

イタリア半島の南半分とシチリア及びサルデニアの島嶼部は、雨が降らず旱魃になっている。

イタリアの気候は南北真っ二つに分断されているのだ。

しかし、その分断はどうやら解消されそうな気配。

この先しばらくはイタリア南部にもテンポラーレが襲って雨も期待されている。

7月、8月は例年よりも暑くなりそうだが、どうなることやら。

今年は6月にいつものように休暇を取って旅に出ることができなかった。

すこし悔しい。





イタリアが「地中海難民」救助をやめたい理由(わけ)



転覆する難民ボート切り取り
写真:イタリア海軍


警告

イタリア政府は6月28日、EU(欧州連合)が地中海の難民・移民問題を放置し続けるなら、イタリアは難民・移民を乗せた外国船舶の同国への寄港を禁止する、と正式に表明した。

とどまることを知らない地中海難民・移民の流入にイタリアがついに音をあげた。
「情けの国」の民が情けに疲れたとでもいうべきか。

イタリアが例えば日本並みに難民に非情になることはないだろうが、地中海難民をせっせと救助してきた寛大な国が実際に方針転換をすれば、「欧州の良心」の一つが大きく後退することになる。

重い負担

イタリアには今年6月28日現在、73000人あまりの難民・移民が上陸した。そのうち12000人以上が6月25日以降~27日の間に一気に流入した。それが警告の直接の引き金になった。

2013~2016年間にイタリアにはおよそ55万人の難民・移民が漂着した。それらの難民・移民の全てがイタリアに永住するのではない。多くが最終目的地を北欧に定めている。

それでも彼らの救助と保護、また行き先が決まるまでの間の全ての面倒を見るイタリアの財政的負担は大きく、政治的にも従って社会的にも影響は深刻だ。

地中海上の難民・移民の大半は、イタリア沿岸警備隊ほかの組織によって救助される。それに加えて、ドイツ、スペイン、フランス、マルタなどのNOGが船舶を出して救助活動をしている。

EUの規定では、難民・移民が最初に上陸した国が彼らの難民申請を受理し、審査し、受け入れ決定の可否に責任を持たなければならない。

その審査には膨大な時間がかかる。行き場のない難民か、豊かな生活を求めて侵入するいわゆる「経済移民」かの見極めも難しい。

イタリア政府は審査が行われる間彼らに衣食住を提供し、健康管理に気を使い、子供たちの教育その他の一切の面倒を見なければならないのである。

難民・移民を遭難の危機から救助することと、救助・上陸後に継続的に面倒を見ることとは全く別の事案である。

NGOと欧州連合

イタリア以外の国々のNGOは、救助民をそれぞれの国に運ぶのではなく、イタリアに押し付けてあとは知らん振りを決め込んでいる。

彼らの国の政府も同じだ。それはもはや受け入れ難い。従って外国船籍の船の寄港を拒否する、というのがイタリアの言い分である。

イタリアを含む欧州各国のNGOは、難民・移民の流入を防ぎたいEUの意思に真っ向から対立する形で、地中海上をさ迷う漂流民を次々に救助している。

先日はそうした中、ほとんどの漂流民が上陸するシチリア島のカルメロ・ズゥッカロ( Carmelo Zuccaro)検察官が、難民・移民を救出している民間NGOが難民・移民ボートを誘導している、と発言して物議を醸した

難民・移民は「人身売買兼運び屋」に金を払って、用意されたボートに乗って命がけで地中海に乗り出す。NGOの勝手な救出活動は、難民・移民を鼓舞して危険な海に向かわせている、という指摘は以前からある

この指摘に対してNGOは、われわれは人道的立場から行動しているのであって、非難は当たらない。そうした非難は反移民感情をあおりたい政治家のプロパガンダだとしている。それが真実なら、ここにも排外主義ポピュリズムの流れが影響していると言える。

EUの対応

文字通り連日、大量の漂着民が上陸するイタリアの危機的な状況は、同国の政治経済を揺るがし社会不安をあおって臨界点に達しつつある。もはやこれ以上の漂着民の「ホスト(もてなし)役は」ごめんだ、というのがイタリアの痛切な思いだ。

イタリアの非難はEU域内の全ての国々に向けられたものだが、特に難民・移民を全く受け入れず、漂流民上陸の最前線であるイタリアやギリシャへの協力も拒み続ける、元共産主義国の中東欧諸国への怒りが強い。

イタリアは前述したように6月28日、マウリツィオ・マッサリ(Maurizio Massari)EU大使を欧州委員会に送って、同国の意図を明確に伝えた。

欧州委員会のディミトリス・アブラモプロス移民担当委員は、「状況が危機的だというイタリアの主張は正しい」と認め、難民・移民問題に対するイタリアの対応は「模範的」なものだとも評価した。

また同委員会のナターシャ・ベロード報道官は、船舶の上陸手続きは国際法で定められている。従ってイタリアが方針を変更するならば、EUとの真剣な議論を経て且つNGOに十分な準備期間を与える形でなされるべき、と語った。

「海上における人命の安全に関する国際条約」は、海難事故を察知したあらゆる船舶は状況のいかんを問わず直ちに支援をしなければならない」と定めている。

また「事故の起きた海域の国は難破船の人命の救助活動に責任を持ち、その国の政府は可能な限り素早く、且つ合理的に遭難者の上陸の手はずを整えること」とも規定している。

難民・移民を満載した地中海の船舶はほとんどの場合、イタリアの領海に漂着する。そのため、イタリアは国際法の定めによって彼らを保護する義務を負わされている。イタリアはもうそれが限界だと考えているのである。

2014年以降、地中海ルートを通ってヨーロッパに入った難民・移民はおよそ170万人。EU構成国28国は、これらの移民・難民の受け入れをめぐって対立を続けてきた。

イタリアの警告また要請を受けて、ドイツのメルケル首相は「EUは必ずイタリアを援助する。イタリアの訴えは尊く胸を打つ。7月のG20までにEUは何らかの結論を出すだろう」と述べた。

またユンケル欧州委員会委員長 は「EUは難民・移民問題に真っ向から立ち向かっているイタリア(とギリシャ)という英雄国を見捨ててはならない。EUは力を合わせて彼らを助ける」と表明した。

一方フランスのマクロン大統領は、イタリアへの連帯を表明しながらも「地中海を渡ってくる人々の中には難民ではなく豊かな暮らしを求める「経済移民」も多い。8割がそういう人々だ。われわれは難民とそれらの経済移民とを区別しなければならない」と釘を刺すことを忘れなかった。

仁慈の国

イタリアは情け深い国だ。自らの経済的困窮もかえりみずに地中海をさ迷う人々に救いの手を差し伸べ続けている。寛容はイタリア国民独自の美質だが、そこにバチカンの影響が加わって人々の慈悲の心はさらに深まる。

カトリックの総本山であるバチカンは、その保守性からイタリア社会にさまざまな負の影響も与える。同時に、ひたすら寛容と、慈悲と、赦しの心を説いて飽くことがない。

フランシスコ教皇は、イタリア国民に向かって難民・移民の保護と受容を訴え続けている。そのスタンスは確固としてゆらぐことがなく、慈愛に満ちている。

心優しいイタリア国民は、フランシスコ教皇の思いによく応えている。この国にもむろん反移民の不寛容・排外主義者は多くいる。つまり極右やネトウヨ・ヘイト系の人々だ。

最近はローマのラッジ市長が「難民・移民受け入れの扉を閉める」と表明して、彼女の所属する反体制政党「五つ星運動」が、極右の「北部同盟」と同じ穴のムジナであることを暴露した。

イタリアは今のところ、反移民・排外差別主義が旗印のトランプ主義者を抑え込むことに成功している。だが政治経済社会の混乱に拍車をかける移民・難民問題は、それらの人々の怒りの火に油を注ぎ続けていることも事実だ。

イタリア政府は、「今後も人道上の理由から難民・移民の海上での救助・救援は続ける」とした上で、彼らの保護、管理、衣食住の提供その他の重い負担をEU各国で分担してしてほしい、と悲痛な訴えをしている。EUは速やかにそれに応えるべきだ。



終わらないイタリアのFemicideまた女性暴力事案について



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塩酸被害者のジェシカ・ノターロさん


先週水曜日、癌専門医のエスター・パスクアロ-ニさん(53)が、イタリア中部アブルッツォ州の勤務先の病院の駐車場で、男に首を刺されて死亡した。

パスクアローニさんは2人の子供の母親。病院の癌部門の責任者で、勤務を終えて帰宅するため車に向かって歩いているところを襲われた。

刺した男はパスクアローニさんにストーカー行為をしていて、警察がすぐに容疑者と割り出して追跡を始めた。だが翌朝、近くのアパートの一室で自殺しているのが発見された。

パスクアロ-ニさんが殺害された翌日、僕が先日の記事で言及した塩酸被害者のジェシカ・ノターロさん(28)が、アシカの飼育員としての仕事に復帰した写真をSNSで公表した。

女性が女性であるという理由だけで殺害されるFemicideは、中南米を中心に頻繁に起こっている。アメリカ、インド、中東などでも多い。

ここ欧州にもかなりの頻度で発生し、たとえばイタリアでは2000年~2012年の12年間で2200人もの女性がFemicideの犠牲になり、昨年も100人以上が殺害された。

その数字はドイツやイギリスではさらに多く、トルコもイタリアより犠牲者の数は多い― トルコも欧州の一国とみなすなら、という条件付きだが。

イタリアの特殊性は前回記事でも言及したように、femicideを男と女の愛のもつれ或いは痴情からくる最悪の結果であり、痴情である以上それは他人が口をさしはさむべき問題ではない、と多くの国民が考えていることである。

男はパートナーの女性を愛し過ぎるあまり時には声を荒げ、暴力を振るい、ストーカー行為に走り、ついには殺害にまで至る不幸が起こったりする。それは仕方のないことだ、という認識が多くのイタリア人の中にあるというのだ。

だがそれは愛などではなく、男の嫉妬であり、歪んだ女性支配願望の顕現であり、女性への優越意識つまり女性蔑視の感情などに根ざした殺人事件に過ぎない。「愛故の殺人」など言い逃れであり幻想である。

イタリアのさらなる問題は、男性ばかりではなく女性も「愛故の殺害」説を認める傾向があり、従ってパートナーからの行過ぎた強要や暴力行為があった場合でも、攻撃を受けた女性が黙ってしまったり、事実を否定し勝ちでさえあるという点。

そういう女性たちは「私さえ我慢すれば相手の暴力は静まる」などと考えて告発を控える。世間体というものも邪魔をする。すると暴力は歯止めがきかなくなってエスカレートし、ついにはFemicideにまで至るケースが少なくない。

塩酸被害者のノターロさんは幸い死亡することはなかったが、Femicideの被害者に匹敵する苦痛を受けた存在であり、かつ女性への暴力を糾弾する活動をしていることで、全国的に動向を注目されるようになった。

ノターロさんの本職はアシカの飼育員。事件前は歌手としても活動していた彼女は、ミスユニバース・イタリア代表選の最終選考まで残ったこともある美形。アドリア海のリゾート地リミニ近郊ではよく知られた存在だった。

彼女は塩酸をかけられた後、顔がケロイド火傷 状に変形し焼け付くような痛みに苦しみ続けている。左目が失明する不安にも苛まれている。

リハビリと手術に明け暮れていた今年4月、彼女はテレビの有名番組に出演して、女性暴力への反対と被害者女性たちへの連帯を呼びかけた。

番組の打ち合わせの際、著名タレントの司会者が「顔をスカーフで隠して出演していただいても構いません」と提案したが、彼女は敢えて崩壊した素顔を見せることを選んだ。

彼女は番組の中で:
「私が素顔をさらすのは全国の視聴者の皆さんに私を襲った元恋人の行為を見てほしいからです。こんなことは決して愛ではありません」
と訴えた。

ノターロさんの前には弁護士のルチア・アンニバリさんが同じ被害に遭って人々の怒りと同情を買った。アンニバリさんのケースでは、元恋人の弁護士が2人の男を金で雇って襲撃させたものだった。

2013年に起きたその事件でも、被害者のアンニバリさんが同じ被害者の女性たちを救いたい、として広報活動を始めたことから事態が広く知られるようになった。

Femicideと同じかそれ以上の罪悪にも見える女性へのそうした攻撃は、嫉妬と凶暴な破壊願望と支配欲とがからんだ蛮行以外の何ものでもない。愛とは嫉妬ではなく信頼であり、破壊ではなく守ることであり、支配ではなく対等であることだ。

直接、間接の理由が何であるにせよ、自分から遠ざかっていく女性を襲うそれらの男の胸中には、共通する底深い闇が広がっている。

すなわち「他の男に取られるくらいなら殺してしまえ。あるいは女性の美を台無しにしてしまえ」という男性特有の危険な利己主義である。

陳腐な歌謡曲のセリフのような心理状況でありまた描写だが、それが真実なのだろう。だからこそ「愛故の殺人」などという不可解な呼称さえ生まれるのではないか。


ロンドン「グレンフェル・タワー」で焼け死んだグロリアとマルコは「死以上の恐怖」を味わっていたかもしれない



大炎上タワー切り取り2 400pic



ロンドン「グレンフェル・タワー」で悲惨な死をとげたイタリア人カップルグロリアとマルコの物語は、いうまでもなくビル内で亡くなった全ての犠牲者の物語である。

象徴的な意味ではなく、「グレンフェル・タワー」火災の一人ひとりの犠牲者が、生きながら焼き殺された凄まじい現実は、若い2人のイタリア人と正確に同じ、という意味で。

そればかりではなく、グロリアとマルコと同様に家族や親しい人に連絡を入れて助けを求め、それが不可能と知って、再びグロリアとマルコのように愛する人たちに永遠の別れを告げた人もまたいたのかもしれない。

いずれにしても、彼らがひと息に死に至るのではなく、恐怖と苦悶に責めさいなまれながらじわじわと死んでいったであろうことを思うとき、僕は胸が苦しくなる。とても他人事には思えない。

その地獄絵図は、2015年初頭、テロ集団ISに拘束されたヨルダン人パイロット、ムアーズ・カサースベ中尉(当時26 )が、檻に入れられて生きたまま焼き殺された凄惨な映像を僕に思い出させた。

そしてその分別によって僕は新たに次の発見をした。つまり「グレンフェル・タワー」に閉じ込められた人々のうち、今まさに彼らがいる建物そのものが燃え盛っている実況生中継のTV映像を見た者がいるのではないか、と思いついたのだ。

そしてその思いつきは僕の意識をやすやすとイタリア人カップルに運んだ。

マルコとグロリアは、彼らが住むタワーの下層階で火災が発生したと知った時、テレビのスイッチをONにする余裕はなかっただろう。

あるいはその時間にちょうどテレビを見ていたとしても、2人はすぐに火事の状況を把握すること、そしてそこからの脱出を考えることで頭の中はいっぱいになって、テレビを消さないにしてもそれを見る気など吹っ飛んでしまったに違いない。

しかし、2人はイタリアの家族と連絡を取り続ける中で、テレビの実況映像を見る羽目に陥った可能性があると思うのだ。

つまり、イタリア時間の午前3時頃に始まった火災の生中継映像を見たグロリアの両親が、そのことを電話で彼らに告げた公算。

燃え狂う建物の中にいる2人が、テレビをONにして、生きたまま焼かれる自らの火葬現場を見てしまうむごい光景が展開されていたかもしれない・・。

そう気づいた時、いかんともしがたい煩悶が僕の中に芽生えた。彼らのさらなる恐怖体験を想像して暗澹たる思いに押しつぶされそうになった。

生前葬という「遊び」がある。年老いた「元気な」人が、自らの死を想定して自らの意志で行う葬儀。友人知己を招いて本人の死を「祝う」のが基本だ。

生前葬儀を主催する人は、自らが死ぬ様子を客観的に眺めるわけだが、そこには切羽詰まった死の恐怖もなければ、阿鼻叫喚の騒ぎもない。

生前葬とは死の恐怖を逃れたい者が、死の恐怖を感じていない振りで、親しい人々と共に儀式を執り行って悦に入る遊び、と言っても大きな間違いではないだろう。

若いイタリア人カップルが、もしも自らが焼かれつつあるタワーの大炎上シーンを同時進行で見ていたとしたら、生前葬にも似た設定になるわけだが、そこには生前葬などとは似ても似つかない巨大な恐怖と苦悶が充満していた違いない。

ここまでに僕が知った限りの情報では、グロリアとマルコの両親がそれぞれの娘と息子に、火災の生中継映像がテレビで流れている、と話したかどうかはうかがい知れない。

しかし、ロンドンからイタリアに送られてくる映像を見ながら、彼らが罠に落ちた若い2人の「現場からの迅速な脱出の助けになるかも」、と考えてそのことを告げた可能性も十分にあると思う。

それに続く2人の狼狽と恐怖と絶望は、文字通り「想像を絶する」ものであって、とても言葉に言い尽くせるものではない。せめてそんな事態にはなっていなかったことを祈りたい。




グロリアとマルコはロンドン「グレンフェル・タワー」の23階でイタリアの両親と電話で話しながら焼け死んでいった



Gloria Trevisan and Marco Gottardi400pic
グロリアとマルコ


プロローグ・悲劇

「お母さん。どうやら私はここで死ぬことになるらしい。今日まで私のためにたくさんのことをしてくれてありがとう。私は天国からお母さんたちを見守ります」

グロリア・トレヴィザン(26)は炎に包まれたロンドン「グレンフェル・タワー」の23階の自宅から、電話の向こうで恐慌に陥っているイタリアの母親に言った。

グロリアの側には同郷の恋人、マルコ・ゴッタルディ(27)がいた。建築家の2人は3ヶ月前、仕事と夢を求めてロンドンに移住したばかりだった。

いきさつ

グロリアがイタリアの両親に最初に電話を入れたのは、イタリア時間の6月14日午前2時頃。「お母さん、怖いことが起こっている。ビルの下の階で火事があったらしい」と彼女は言った。

マルコと一緒にグレンフェル・タワーの23階から下に逃げたいが、炎が階段を伝って駆け上がっていて、煙も充満して身動きできない。閉じ込められたようだ、と続けた。

そのときのグロリアの声は不安そうではあるがまだパニックにはなっていなかった。5階あたりで発生した火事は、ほぼ最上階の彼らのアパートに達する前に消し止められるだろう、という希望的観測があったものと考えられる。

しかし、時間経過と共に彼女は明らかに狂乱に陥った。「私はまだ死にたくない。私にはやるべきことがたくさんある。もっと人生を楽しみたい。こんな不公平は受け入れられない!」グロリアは代わる代わる電話に出る父と母に訴えた。

父親のロリスは万が一のことを考えて娘とのやり取りを記録し始めていた。最悪の事態になった場合、そこにいないグロリアの弟に彼らのやり取りを聞かせてやらなければならない、と思ったのだ。

AM2:45分頃、グロリアと一緒にいるマルコもイタリアの自分の両親に電話を入れた。父親のジャンニーノが応答した。マルコは言った。

「ここから動けないが、消火活動が盛んに行われているから大丈夫。何も心配しなくていい。間もなく鎮火するはずだ」マルコは何度も繰り返した。

父親のジャンニーノは「息子は私の妻と事件現場にいるグロリアを安心させようとして、問題はない、心配するなと言い続けていたようだ」と後に新聞記者のインタビューに応えて話した。

ロンドンまで

2016年秋、グロリア・トレヴィザンはトップクラスの成績でベニス大学の建築学科を卒業した。しかし不況にあえぐイタリアには満足のできる仕事はなかった。

グロリアは今年3月、恋人のマルコと共に仕事を求めてロンドンに移住した。マルコも彼女と同じ新米の建築家である。マルコもまた優秀な成績で大学の建築学科を卒業していた。

グロリアはイタリアでは、月にわずか300ユーロ(4万円)程度の不安定な仕事しかできなかった。マルコも似たような状況にあった。彼らはイタリアを諦めてロンドンに夢を追うことにした。

2人の動きは、仕事と夢を求めて国外に流れるおびただしい数のイタリア人若者の象徴的な姿だった。イタリアの若者の失業率は40%余り。実感としては、行き合う若者の2人に1人が失業者、という惨憺たる状況だ。

グロリアの父親は、「娘が死んだのは、経済不況を手をこまねいて見ているだけの無能な政治家や政府のせいだ」、と強い怒りをあらわにした。

夢かなう

ロンドンではグロリアとマルコは2人ともに名の通った建築設計事務所に即採用になった。給料もそれぞれ一ヶ月2100ユーロ(約26万円)と新米建築家としては満足のいく額だった。それが今年3月である。

2人は高層マンション、グレンフェル・タワーの23階に住まいも得た。広い快適な部屋である。グロリアは4月10日、高層階から眺めるロンドンの景色はすばらしい、とSNS で写真付きの投稿もしていた。

ゴッタルディ夫妻は5月に息子のマルコをロンドンに訪ねた。マルコはグロリアと共に幸せで希望にあふれ、仕事も暮らしも順風満帆の時をエンジョイしていた。2人がロンドンに移住して本当に良かったと両親は思った。

一方グロリアの両親は経済的に困窮していた。ロンドンに娘を訪ねる余裕はなかったが、彼女が近く帰省することを楽しみにしていた。グロリアには夏までにその予定があったのだ。

火災概観

2人が入居しているグレンフェル・タワーの5階で6月14日に起きた火災は、火の回りが異常に速く20分ほど(15分という目撃証言まである)で建物全体に広がった。そのため高層階にいるグロリアとマルコは逃げ道を絶たれた。

必死の消火作業も空しく、炎は燃え盛って手がつけられない状況になり、その一部始終がイギリスはもちろん、世界にも衛星を介して伝えられた。

終焉

午前3時過ぎ、イタリアのテレビも生中継でロンドンの火事の模様を伝え始めた。テレビの恐ろしい映像にかぶさるようにその時、絶望の淵からふりしぼられたグロリアの冒頭の必死の声が聞こえてきた。

「お母さん。どうやら私はここで死ぬことになるらしい。今日まで私のためにたくさんのことをしてくれてありがとう。私は天国からお母さんたちを見守ります」その声に両親は、呼吸をすることさえもが苦しいような痛みと無力感に心身を打ち砕かれていた。

マルコの父親が息子の最後の声を聞いたのはそれよりも後のことだった。「ここの部屋の中にも煙が充満して危機的な状況だ」とマルコが言った。彼の声音ももはや以前の落ちついたものではなく、断末魔の喘ぎにおののくのが分かる凄惨なものだった。朝4:07分にマルコの電話は切れた。

マルコの両親はその後も繰り返し電話をかけ続けた。グロリアの両親もイタリアのそう遠くない場所で全く同じ行為を繰り返していた。しかし、若者2人はもはやどちらの電話にも答えることがなかった。

エピローグ

6月 17日現在、グレンフェル・タワー火災の犠牲者の数は少なくとも30人。58人が行方不明。不明者の全員が死亡と考えられる。この数字は今後も増えて、犠牲者数は100人を超えるのではないか、という見方さえある。

同じく6月17日、イタリア外務省はグロリア・トレヴィザンとマルコ・ゴッタルディの死亡を確認した、と発表した。


テリーザ・メイなる鉄面皮の再生法


切り取り


政治家の厚顔ぶりを嘆いたり恥知らずな言動にあきれたりしても詮ないことだが、それでも、突然総選挙に打って出て、負けて、何事もなかったかのように政権にしがみついた英国のテリ-ザ・メイ首相にはおどろいた。

自らが所属する保守党が、ライバルの労働党に世論調査で大きく差をつけていることを見て小躍りした同首相は、EU離脱交渉をスムースに運ぶために選挙に大勝する、という思惑から解散総選挙に走って敗北。

しなくてもよい選挙を「勝手に」行って、過半数割れに陥ったことは、失った議席数は13と大きくはなかったものの、「惨敗」と形容してもいいのではないか。何しろ単独過半数を保持していた与党が一気に少数派になってしまったのだから。

メイ首相の失態は、しなくてもよい国民投票を行って、Brexitを実現させてしまったキャメロン前首相と同じ大ポカだ。さらにいえばここイタリアのレンツィ前首相が、憲法改正を問う国民投票で「私を取るか否か」と思い上がりもはなはだしい問いを国民に投げかけて、大敗したことと同じだ。

EU離脱を問う国民投票を実施したキャメロン氏にも、イタリアのレンツィ氏と同じように奢りがあった。メイ首相の「余計な」選挙実施にも似たような側面がある。おごれる者久しからず、という平家物語の箴言を彼らは知らないのだろう。

キャメロン氏もレンツィ氏も負けた責任を取って、その意味では潔く首相を辞任した。ところがメイ首相は厚顔と恥知らずを発揮して、自らの責任をほっかむりして首相を辞任するどころか居座りを決めた。
議席数わずか10の地方政党DUP(民主統一党)と連立を組んで。

メイ首相は選挙に負けたことで、少なくとも欧州統一市場からの脱退、といういわゆる「ハードブレグジッド」を和らげる方向に傾くだろうが、その実現は難しいのではないか。改造新内閣内には、ジョンソン外相を始め欧州懐疑主義者で喧嘩好きな閣僚も依然として多いからだ。

彼らの存在はEUとの離脱交渉を困難なものにして、合意なき離脱という最悪の結果にもなりかねない。EUがイギリスに妥協することはあまり考えられないからだ。妥協を先に念頭におかなければならないのは英国なのである。

保守党と連立を組む北アイルランドの少数政党DUP(民主統一党・プロテスタント系) は、右寄りで強い反EUの傾向を持つ 。その存在もメイ首相のEU離脱交渉を難しくするだろう。

EUは総選挙の前にメイ首相をすでに「勝手な夢の中で生きている」とみなして、譲歩をしない方向性を示してきた。「英国との友好関係を維持する」という外交辞令とは裏腹に、離脱を決めた英国へのEUの厳しい姿勢は変わらない。

『EU離脱は損』、という不文律を確固たるものにしたいEUにとっては、英国を甘やかすことは自らの首を絞める行為にも等しい愚策だ。それは将来、英国を真似て離脱を決める国が出る可能性を高める。EUはその点では絶対に譲ることはできないのである。

現状では英国がEU残留に向かう可能性はないが、今後のなり行き次第ではBrexitをひっくり返して、EUに留まる決意をする可能性は依然としてゼロではないと思う。それは僕の希望的観測ではあるものの、いちがいにそれだけとは言い切れない。次のような動きもあるからだ。

総選挙後の6月13日、メイ首相はパリに飛んでマクロン仏大統領と会談した。その際マクロン大統領は「英国がEU残留を望むならドアは開かれている」と発言した。同大統領は「離脱手続きが開始されれば後戻りは難しいが」とも付け加えたが、発言は英国のEU残留の可能性がわずかながら残されていることの証ではないか。

英国のどんでん返しのEU残留が理想的だが、予定通りEU離脱を進めるならば、メイ首相は英国の未来のために必ずソフトブレグジットを目指すべきだ。そうすることで、Brexitによって最もひどい損害を蒙る英国の若い世代に、少しでも良い展望をプレゼントすることができる。

メイ首相と比較されることも少なくない英国初の女性宰相マーガレット・サッチャーは、かつて「小さな政府」と「自由主義経済」 を旗印にEU(当時はEC)とも強硬姿勢で臨んで成果を挙げた。だが今は時代が違い、状況が違い、2人の女性首相の手腕も器も違う。

サッチャー首相は「政治家の仕事は根回し(多数の意見の一致)に長けることではなく、己れの信念を打ち出すことだ」と言った。それは将来への明確な政策設計を持ち、さらにそれを国民に伝えるコミュニケーション能力に優れていたサッチャー首相にしてはじめて口にできる言葉だ。

テリーザ・メイは断じてマーガレット・サッチャーではない。メイ首相は妥協しない「鉄の女」を目指すのではなく、身の丈にあった「調整型の政治」を目指してEUとの交渉にあたり、せめて総選挙での不手際を埋めあわせるような、ソフトなEU離脱を目指してほしい。


仏マクロン主義が米トランプ主義を蹴散らす日は近いか


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今後も多少の紆余曲折はあるだろうが、ポピュリズム退潮の道筋は確実にできつつある、と仏総選挙の第一回投票結果を見てあらためて感じた

今月18日に行われる第二回投票を経て、マクロン大統領率いる「共和国前進!」党は、全577議席のうち7割以上に当たる415~455議席を獲得すると見られる。

実現すればまさに“地滑り的”勝利であり、マクロン政権にとっては願ってもない政治改革への機会がすぐにも訪れることになる。

大統領選で躍進したルペン党首率いる極右国民戦線は、議会選挙では1~5議席程度の獲得に止まるとされる。国民戦線の惨敗はポピュリズムの弱体化を端的にあらわしている。

ピンボケ切り取り仏選挙と同日に行われたイタリア地方選でも、ポピュリズムを煽る反体制派政党の「五つ星運動」が大敗した。昨年のローマ市長選で同党が圧勝したことが嘘のような低調振りである。

「五つ星運動」は昨年はトリノ市長選でも勝利し、国政レベルの世論調査でライバルの民主党とトップを争う勢いに弾みがついて、いよいよ政権を狙うところまで来たと見られていた。

しかし、米トランプ大統領の誕生で頂点を極めたポピュリズムの大波は、オーストリア大統領選、オランダ総選挙、そして先月の仏大統領選と勢いを削がれ続けた。

そして先日の仏総選挙第一回投票で勢力がさらに小さくなり、それは1000余りの市町村で首長を選ぶイタリアの地方選でも見事に体現されて、「五つ星運動」が惨敗した。

おそらくその流れは今後も続き、仏大統領選の第二回投票でトレンドは強化されて、9月のドイツ総選挙で完成することになるだろう。

そうした一連の流れは、トランプ主義を極めた米トランプ大統領が、政権運営を始めると同時に迷走し、醜態をさらし続けている現実によって拍車がかかっている。

ポピュリズムはトランプ氏によって最強になり、同じトランプ氏によって破壊されようとしている。破壊が完結するかどうかはまだ誰にも分からない。しかし、その可能性は高いのではないか。

それは欧州、特にEUが団結を強めてトランプ米国に対抗し、過激派テロを追い詰め、連合離脱を決めた英国とうまく渡り合う中でさらに高まっていくだろう。

そうした意味で、EU信奉者のマクロン党が仏選挙を制し、反EU且つトランプ主義信奉者の極右国民戦線が敗退し、さらに伊ポピュリズム政党の「五つ星運動」が敗れたことは良い兆候だ。


他者の尊厳を踏みにじる殺人鬼にも尊厳死の権利はあるの?



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トト・リイナ


イタリア最高裁判所は2017年6月5日、マフィア史上最大最悪のボスとも形容される、トト・リイナを釈放するべきか否か吟味するよう、拘留再審裁判所に命じた。

獄中のリイナは86歳の高齢に加えて、癌と複数の病に侵されているとされる。彼の弁護人はそれを理由に1年前、自宅拘禁または終身刑の軽減を要請した。何度目かの申請だった。

最高裁は直近の訴えを認め「あらゆる末期患者と同じようにリイナにも尊厳死が認められるべき」として、要請を却下していた拘留再審裁判所に差し戻し審理を言い渡したのである。

「凶悪犯のリイナにも尊厳死を」という最高裁の裁定に、イタリア中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。人々の驚きの実相は、次に記すマフィア構成員以外の被害者家族の心情に集約されていると思う。

25年前、リイナによって爆殺された反マフィアの旗手、ファルコーネ判事の妹マリア・ファルコーネさんは、「私にはもはやリイナに対する格別の怨みはない。しかしリイナは依然として危険な犯罪者のままでいるのだから、社会の安全のために刑務所内に留まるべき」とコメントした。

第2次マフィア戦争中の1982年、マフィア捜査のトップだった父親ダッラ・キエザ将軍を殺害された娘のリタさんは、「私の父は母と護衛の警察官ともどもマフィアに惨殺された。だがマフィアは遺体にシーツを被せるなどの最小限の気遣いさえしなかった。彼らの死は尊厳死とは程遠いものだった。なのになぜリイナには尊厳死が認められるのか」と怒りをあらわにした。

「反マフィア国会委員会」委員長のロージー・ビンディ氏は、「リイナが収監されているパルマ刑務所内には高度な医療設備を持つクリニックがある。リイナはそこで治療を受ければ済むこと」とした。この意見には多くの国会議員らも賛成している。

またマフィアによる連続爆破事件の一つである1993年の「フィレンツェ・ウフィッツィ博物館爆破事件被害者の会」も、最高裁の裁定に深い衝撃を受けた、信じられない、として判決を強く批判している。

一方、「全国受刑者支援の会」のマウロ・パルマ氏は、「最高裁が何よりも人間の尊厳を重視する原則を披瀝したのは極めて喜ばしい」と表明した。また「イタリア刑事弁護士会」は「刑罰のゴールは復讐であってはならない」として、最高裁の仁慈裁定を支持する旨のコメントを出した。

その残忍凶暴さから“野獣”とも呼ばれるリイナは、マフィアの頂点に君臨して1000人余りの殺害に関わったとされる。この数字の根拠は、1981年から83年にかけてのマフィア間の血の闘争、いわゆる第2次マフィア戦争で1000人余が殺害されたが、当時マフィアのトップにいたリイナが、NO2のプロヴェンツァーノとともに命令を下したことにある。

リイナ自身は100人余の殺害を実際に行ったと見られている。また1996年に逮捕されて司法協力者になった元マフィアNO3のジョヴァンニ・ブルスカは、「自分は100人~200人を殺害したが正確な数字は分からない」と自白した。それも全てリイナの指示によっていた。

リイナは情け容赦のない手段でライバルのマフィアや司法関係者、一般市民などを殺害していった。また彼以前のマフィアのボスがタブーと見なしていた「女性や子供の殺害」もためらわずに指示した。リイナは犯罪組織の攻撃手法のみならず、その意識もより非情残虐な方向へと改悪していったのである。

1992年には、シチリアマフィア事件の象徴とも言える「カパーチの悲劇」が起こった。反マフィアの中心人物ファルコーネ判事が高速走行中の車ともども爆破されたのだ。この事件の実行犯はブルスカだが、殺害指示を出して主導したのはやはりトップのリイナだったことが、実行犯のブルスカ自身を始めとする多くの証言で裏付けられている。

彼自身も残虐な殺人鬼だったブルスカは、1996年に逮捕された後に寝返って司法協力者となり、多くの貴重な情報をもたらした。彼はその功績によって、終身刑の身でありながら、2004年以降は45日ごとに刑務所を出て家族とともに一週間を過ごすことを認められている。

彼の獄中での模範的な行動と、なによりも司法への情報提供に対する褒賞である。そのことを知った被害者家族からは警察への非難の声が上がった。が、犯罪者が司法に協力することで利を得る司法取引とはそういうものだから、納得のいく顛末ではないかと思う。

リイナの弁護士は、あるいはブルスカの例なども考慮してリイナの釈放を要請したのかもしれない。しかし、リイナは逮捕後も秘密を明かさず口も割らず、むろん司法への協力も拒み続けている。彼もまた-元反マフィア検事で現上院議長のピエトロ・グラッソ氏がいみじくも指摘したように-プロヴェンツァーノと同じく「多くの秘密を抱えたまま長い血糊の帯を引きずって墓場に行く」ことが確実だ。

イタリアの司法制度は厳罰主義を取らない。そこにはキリスト教の「赦し」の教義が強く反映している。「人は間違いを犯すものであり、間違いは許されるべきである」という寛容と慈愛に満ちたその哲学を、僕は深く敬仰し支持する。しかし、リイナの赦免に対しては違和感を覚えざるを得ない。

リイナ並みの重罪犯であるプロヴェンツァーノは、昨年83歳で獄死したが、死の直前の彼の健康状態は今のリイナよりも重篤だった。だが彼は終身刑を解かれることはなく獄中で死んだ。リイナだけがなぜ放免されなければならないのか、僕はやはり強い不審を抱かずにはいられない。

リイナには10件以上の終身刑が科されている。つまりもしもイタリアに死刑制度があったならば、飽くまでも象徴的な例えだが、10回以上も刑死を執行されなければならない猛悪凶徒なのである。司法に協力をせず、反省も謝罪もなく、秘密も明かさない言わば「悪の確信犯」の彼は、プロヴェンツァーノ同様に刑務所内で生を全うするべき、と断ずるのは酷だろうか。



英総選挙、米コミー証言、伊マフィアをきょろきょろ見回しながら



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世界は今日も激しく動いている。

ちょうど一ヶ月前、ぼくはこのブログで「仏大統領選の結果を待ちながら」、というタイトルの記事を書いた。

あの時も世界は激しく動いていて、その動きの先にあるものは予測がつかない状況だった。

一ヵ月後の今は、表面の流動的な情勢は同じに見えるが、実は大きな方向性は固まりつつある、と僕は思っている。

つまり、世界はポピュリズムあるいはトランプ主義の大流行を脱して、安全な方向に進み出している。少なくともそこに向かう兆候が見える、と僕は考えるのである。

それはフランスでマクロン大統領が誕生したことで明確になった。もっと言えば、極右国民戦線のルペン氏の敗北によって確実になった。

ポピュリズム退潮の兆しは、フランスの前のオランダ総選挙、そのさらに前のオーストリア大統領選でうっすらと見え始め、仏総選挙で姿がはっきりした。

その流れは今日の英国総選挙にも続いていると思う。

ハードBrexitを目指すメイ首相の保守党が、EUとのより強い絆を残存させてEU離脱を唱える、労働党に追い上げられているのがその表れである。

当初、地滑り的な大勝利を収めると見られていた保守党は、おそらく敗北はしないものの、メイ首相が願ったほどの強い政権基盤を獲得するには至らない、と見られている。

選挙キャンペーン中の変化は、テロなどによる偶然が大きく影響したようにも見えるが、実はそれは偶然ではなく、前述のポピュリズムの退潮の大波がもたらしているものだと思う。

なぜならテロの頻発は、リベラルな労働党よりも治安に強硬手段を用いることを厭わない保守党に有利に働くことが普通だ。

それが逆に影響しているのは、Brexitをもたらしたポピュリズムに英国民が疲れ、当初はEU残留派だった保守党の、特にメイ首相の対EU強硬姿勢に、英国民が不安を覚え始めていることの証だ。

ポピュリズムの勝利は英国のEU離脱決定で決定的になり、米トランプ大統領の誕生で最高潮に達して、ついに世界中がその洪水に飲み込まれていくのではないか、と恐れられた。

だが実は、トランプ大統領の誕生がポピュリズムのまさにピークであり、投げた石が上昇し切った後には必ず落下するように、ポピュリズムの弱体化が始まった、と僕は思うのである。

理想的には今日の総選挙を機に英国の状況が一変して、「Brexitをひっくり返してEU残留を決める」ことである。

しかし、それは奇跡が起こって、たとえ労働党が勝利しても、今のところは無理な話である。

だが、将来は分からない。僕は分からない将来に、英国のEU残留の芽があることを願う。

アメリカではトランプ大統領に突然解任されたコミー前FBI長官が今日、議会で証言する。

コミー氏は「大統領は捜査対象ではない」とトランプ氏に告げたことを確認しつつも、トランプ大統領がロシアゲートの捜査を中止し、自分に忠誠を誓うように暗に促した、とも証言するという。

「忠誠を誓え」と迫るのは、要するにコミー氏への脅迫ではないのか。

トランプ大統領のその言動が、違法なものであるかどうかを証明するのは難しいだろう。しかし、ロシアゲート捜査への介入が証明されれば、トランプ大統領は十中八九アウトだろう。

イタリアでは前倒しの総選挙を目指して、「壊し屋」のレンツィ前首相が得意の権謀術策に奔走している。だが今日のイタリアが驚愕しているのは、それとは別の大きな「事件」である。

イタリア最高裁が、マフィアのボスの中のボス、トト・リイナにも「尊厳死」の権利があるとして、彼の赦免を審議するように拘留再審裁判所に命じたのである。

イタリアは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

実は僕はそのことを書いているのだが、筆の遅い無能が災いして、英国総選挙とコーミー証言が重なる今日までだらだらと続いてしまった。

ブログはニュースではなく意見開陳の場、と僕は考えているので時事ネタをあわてて書くのは邪道、とみなしている。それでも今日のような重大イベントについてはやはりひとこと言いたい思いがする。

そこでこのエントリーをまず優先させて、ほぼ書き上げつつある「マフィア話」は次に投稿することにした。




トランプ“フェイク”大統領の弾劾が待ち遠しい



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テロに見舞われたロンドンのサディク・カーン市長が:
"Londoners will see an increased police presence today and over the course of the next few days. No reason to be alarmed."
“ロンドンには今日から数日間に渡って警官の数が増えるが、市民はそのことを心配する必要はない”

と発言したことを受けて

トランプ米大統領は次のようにツィートした:
"At least 7 dead and 48 wounded in terror attack and Mayor of London says there is 'no reason to be alarmed!'"
“テロで少なくとも7人が死に48人がケガをしたのに、ロンドン市長は何も心配する必要はないと言っている!!”

ロンドン市長の言葉を意図的に曲解して、ツイートで非難するこの男は、本当にアメリカ合衆国の大統領なのだろうか?

残念ながらそうだ。

だが彼は大統領ではない。彼が“フェイクニュースを流すフェイクメディア”と激しく攻撃するメディアと同じか、それよりもはるかに下劣な“フェイク”大統領だ。

市民保護策を講じるなどのテロ後の仕事に忙殺されているカーン市長は、トランプ氏の非難を「コメントするに値しない。ほかにやることがたくさんある」として無視した。

するとトランプ“フェイク”大統領は、「カーン市長の哀れな言い訳だ。‘心配する必要はない’発言に大急ぎで説明をしなきゃならなかった。主要メディアは躍起になって彼の言葉を拡散している」

とまた曲解と嘘にまみれたフェイク発言をした。

トランプ“フェイク”大統領のカーン市長への攻撃は、人種差別&宗教差別意識に根ざした卑劣な言動である。

カーン市長はイスラム教徒である。“フェイク”大統領はそのことを捉えて市長を罵倒しているのだ。いくらなんでもまともではありえない。

カーン市長は、トランプ“フェイク”大統領が選挙期間中に「ムスリムのアメリカ入国を禁止する」と主張したとき、彼のムスリム観は無知で英国や米国の安全保障に有害だと批判した。

トランプ氏は彼の中に元々あったムスリム差別意識に加えて、批判者を頭ごなしに否定する性癖を十二分に発揮し、カーン市長への憎悪を募らせている。

英国メイ首相は、6月3日のロンドンテロを受けて“enough is enough もうたくさんだ”と演説したが、トランプ“フェイク”大統領に向けてももうたくさんだ、と言ってほしいものだ。

僕は米国史上初の大統領弾劾“罷免”が待ち遠しい。

罷免まで行かずとも、“フェイク”大統領にニクソン元大統領並の終止符が打たれることを期待したい。




イタリアのFemicide(女性殺害)は「アモーレ(愛情)過多が原因」という荒唐無稽



被害者ヴァヌッキさんと犯人400
被害者ヴァヌッキさんと犯人


先月末、イタリア・トスカーナ州のルッカで、元愛人(女性)にガソリンを浴びせて着火殺害した男に30年の禁固刑が言い渡された。犯行はそれより10ヶ月前に行われた。

パスクアレ・ルッソ(46)は、愛人だったヴァニア・ヴァヌッキさん(46)に別れ話を持ち出されて激昂。ストーカー行為を続けた後の2016年8月2日、彼女を呼び出して犯行に及んだ。

遅滞で悪名高いイタリアの司法が、ほとんど奇跡的とも言える迅速さで判決を言い渡したのは、女性への暴力沙汰が後を絶たないことへの危機感があると見られる。検察は終身刑を要求していた。

夫や元夫、また恋人や元恋人などが相手の女性を殺害する事件を、殺人(homicide)になぞらえて女性(FemininまたはFemale)と合わせFemicide(伊語Femicidio)と呼ぶ。女性殺し、というようなニュアンスである。

世界の殺人事件の被害者は、およそ8割が男性である。そのため一般的ではない女性被害者にことさらに焦点を当てるFemicide論争はおかしい、という見解も根強くある。

しかし、Femicideの根底にあるのは深い女性差別の心理であり、男による女性支配願望等である。Femicideの被害者は、ただ「女性であること」が理由で殺される。それは必ず是正されるべきだ。

イタリアでは、Femicideの被害者が2000年~2012年の12年間で
2200人に上った。これは1年に平均171人。またはほぼ2日に1人のペースである。

数字は年々減る傾向にあり、2014年:136人、2015年:128人、2016年は12月現在で116人程度だった。それでも毎年100人を優に超す人数の女性がFemicideに遭っている。

世界全体では毎年6万6千人の女性がFemicideで殺害される。最も多いのは中南米の国々。またインドやアラブ諸国も多く、米国では1日に平均4人の女性がfemicideに遭う。

イタリアのfemicideの件数は欧州で最も多いのではない。発生率も異様に高くはなく、平均的といってもかまわない数字である。

欧州で発生件数が多いのはドイツ。少し古い統計だが例えば2010年はドイツが387件で最も多く、2位がトルコの334人、3位が英国の195人。イタリアはその年は169人で4位。

イタリアのfemicideの件数は前述したように年々減少し、毎年スペインなどと順位が入れ替わるような形で推移している。なお、人口比率でのfemicideの数字は欧州ではキプロスが最も高く、オーストリア、フィンランド、チェコなどが続く。

イタリアの特異さは、femicideが軽視される傾向にあることだ。男が主として愛情のもつれから女性を殺害するのは、「相手女性を愛し過ぎているから」という暗黙の了解、見方が厳然としてある。

いわゆる痴話喧嘩の極端なケースがfemicideである。そして痴話喧嘩は極めて個人的な事案であり、痴話喧嘩には他人は口を出すべきではない、という心理がイタリア人には強く働くと言われている。

まさにアモーレ(愛)の国ならではの在りようだが、被害になる女性はたまったものではないだろう。だからこそイタリアでも、女性に対する暴力を何とかしなければならない、という気運が高まってはいる。

しかしこの国では、2013年に女性への暴力を厳しく取り締まる特別な法律も成立したが、成果が非常に上がっているとは言いがたい。

イタリアでは、女性の殺害には至らないものの、顔や体に大きな損傷を受ける酸攻撃の被害者なども少なくない。たとえば今年1月には、ジェシカ・ノターロさん(27)が元恋人の男に酸を浴びせられて顔を大きく損傷。

前:塩酸被害顔Gessica Notaro200

事件前のノターロさんと事件後

後:塩酸被害顔Gessica Notaro200

ノターロさんはミスユニバースのイタリア代表選で最終選考まで残り、歌手としても知られた存在。事件から2ヶ月後に敢えてテレビ出演をして、破壊された顔をテレビにさらし「私をこんな姿にしたのは断じてアモーレ(愛)などではない」と訴えて、視聴者の心を震撼させた。

女性の権利意識が高い欧州の中で、イタリアはどちらかというと後進地域の一つであり続けている。そこには保守傾向が強いバチカンを抱えた特殊な事情等がある。だがそのイタリアに於いてさえ、「愛にかこつけた女性への暴力」の愚劣を根絶しよう、という動きが遅まきながら高まっている。


ザ“ヨッパライ”と酔っぱらい


ヨッパライと酔っぱらい
前の“ヨッパライ”と後ろの酔っぱらい


ウイスキーやスピリッツなどの、いわゆるスーパーアルコール(蒸留酒)類は全くといって良いほど飲まないが、僕は醸造酒を一杯やるのが好きである。

イタリアに住むようになってからは特にワインが好きになった。そのワインを飲むとき、飲み仲間がイタリア人なら僕はほとんど酔わない。

これまでもあちこちで書いたり言ったリしていることだが、イタリア人は酒に酔わない。酔うことを忌み嫌う。

一般におおらかで明るい彼らは酔っぱらいにも寛大そうに見えるが、現実はまったく逆なのである。

酔っぱらいに厳しい欧州社会の中でも、イタリア人は酔漢にもっとも不寛容に見える。ワイン大国らしく彼らは飲酒には寛大だ。が、「酒に飲まれる」者を蔑む。

「いやあ、ゆうべは飲み過ぎてしまって」酔っぱらい&ヨッパライ
「いやいや、お互い様。また近いうちに飲(や)りましょう」
とノンベエ同志が無責任なあいさつを交わし合い、それを見ている周囲の人々が、
「しょうがないな。ま、酒の上のことだから・・」
と苦笑しながら酒飲みを許してやっている日本的な光景はここには存在しない。

酒に酔って一度ハメをはずしてしまうと、よほど特殊な状況でもない限りその人はもう翌日からまともな人間としては扱ってもらえない。

ならばイタリアには酔っぱらいは存在しないのかというと、そんなことはなくて、たくさんいる。それどころか「イタリア国民は誰もがヨッパライ」というのが僕の持論である。

しかし、彼らは酒に酔った本物の酔っぱらいではなく、精神的なあるいは性格的な“ヨッパライ”だ。

酔えば人は楽しくなる。陽気になる。やたらと元気が出て大声でしゃべりまくる。上司も部下も社長も平社員も関係がなくなって、皆平等になり一緒になって騒ぐ。仕事仕事とガツガツしない。むしろ仕事など投げ出して、ますます遊びに精を出す。

そうした酔っぱらいの特徴は、そのまま全てイタリア人に当てはまる。酒飲みも下戸も、男も女も子供も老人もドロボーも警察官も、そして夜も昼も関係がない。彼らは生まれながらにして、誰もが等しく酔っぱらいならぬ“ヨッパライ”なのだ。

可愛いヨッパライ&酔っぱらいその“ヨッパライ”の典型が僕の友人のフランコ(写真)だ。高校の教師をしている彼は、イタリア人にも結構多い大酒飲みだ。だが決して酔わない。なぜか。彼は飲まずして既にヨッパライだからだ。

寝ても覚めても歩行中も、陽気で明るくて声がデカイ彼は実にうるさい。おまけに彼のイタリア語は、ナポリ風ラッツオ訛りが色濃くて僕にはよく判らないことも多い。そしてなにかというとワインだビールだ、とのべつ幕なしに飲んでいる。

でも朝起きた瞬間から既に“ヨッパライ”の彼は、死者が決して死なないように断じて酔わない。大騒ぎをしたまま僕と酒を酌み交わして、大騒ぎをしたまま宴を終える。酔いっぱなしだから、いまさら酔うことがないのである。

ヨッパライの彼は、酔客が僕の酔いに気づかないように、飲むほどに彼の殷賑の域に達しつつある僕の変化に気づかない。気づいても気にしない。だから僕は安心して酔いに身を任せることができる。

フランコ以外のイタリア人と酒席を共にするときは、僕はしかし、酔人に眉をひそめる彼らに嫌われないように意識して、酒にだらしない自分を律しようと緊張しまくる。だからほとんど酔わない。

ところが、相手が日本人だと同量の酒で僕はあっという間に酔っぱらってしまう。日本人同士で飲むときは、たとえ酔っても許してもらえるという安心感というか、甘えがどこかにある。だから一気に酔っぱらってしまう。

ヨッパライ&酔っぱらい2人どupその酔いのスピードは、友人のフランコと飲む場合よりもはるかに早いようである。これはどうしたことかと考えてみると、どうも相方のフランコの極端な賑やかさが原因のようだ。

つまり彼と飲むときには、どうやら僕も彼の“ヨッパライ”ぶりに影響されて少し“ヨッパライ”になっていて、自らの酔いに気づかないのである。

飲んべえのずるさやだらしなさを棚に上げてあえて言えば、酒とはかくの如く心のありようが大きくかかわる実にデリケートな代物である。

それではフランコ以外の、イタリア人の友人らと緊張しながら飲む酒はつまらないかというと、そんなことは断じてないのである。

酔っぱらってはいけない、と自分に言いきかせながら飲むときには、酔いに一方的に身をまかせられない分、酒そのものの味を見極めようとする気持ちが自然に働く。

つまり、ただ酔うのではなく、ワインを主とする酒の味を楽しもうとする飲み方になる。

で、僕はそうやってワインの味見をしているうちに量を過ごして、やがて元の木阿弥の「日本風のいつもの酔っぱらい」になって、イタリアの友人たちのヒンシュクを買う羽目に陥ったりもするのである。

友人のフランコは“ヨッパライ”キャラを学生に大いに愛されていて、飲みっぷりもますます快調だ。暑くなるこれからの季節は、近所に住む彼を呼んでわが家の庭で《サラミ&ビール=酔っぱらいX2》の日々を楽しみまくる計画である。




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