霧憂いあるいは霧ブルー


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書斎からブドウ園を望む。奥に高い壁があるが全く見えない


2017年2月22日朝、ミラノからほど近いわが家の周りは深い霧に包まれた。翌23日はさらに濃い霧が立ち込めた。

12月ごろから2月ごろのミラノと周辺は、ひんぱんに深い霧に閉ざされる。霧は冬の、特に晴れた日に発生する、いわゆる放射霧。

若いころ住んでいたロンドンにもよく霧がかかった。「霧の街ロンドン」と昔から言われる。が、ミラノの霧に比較するとロンドンの霧は、僕のイメージの中では子供だましに等しい

それでも霧は、ミラノ市内では幽玄に見えないこともない。いくら深くても街の灯りに淡いベールのようにからんで、霞みとなって、いうにいわれぬ風情がある。

しかし郊外に出ると霧はたちまち怖い障害物になる。車の運転に支障をきたして、時には死の恐怖さえもたらすとんでもない代物になる。

僕は自分の事務所のあるミラノでは車ざんまいの暮らしをしてきた。郊外にある自宅との行き来も常に車だが、霧はいうまでもなく運転の大敵である。

霧は街なかよりも、人家や明かりの少ない郊外ではさらに濃くなって、行く手を阻む。

ひどい時は前後左右がまったく見えず、車のドアを開けて路上のセンターラインを確かめながらそろそろと走ることさえある。

霧中での運転にあまり自信がない僕は20数年前、霧が発生して車での帰宅が覚束なくなるときのために、ミラノ市内に小さなマンションを一軒買ったほどである。

年月とともに霧の中での運転にも少しは慣れていったが、霧の夜の運転は依然として不安だ。仕事柄、僕は夜遅い帰宅が多い。番組編集などがあるとなおさらだ。

高速道路で霧に出くわすと、一般道よりもさらに運転の危険が増す。

視界を遮られた霧の中では、恐怖から車を止めたくなるが、「死にたくなければ絶対に停車するな」というのが鉄則である。

みだりに停止すると視界のきかない後方車がたちまち激突しかねない。

だからといって高速で走ればもっと危ない。

霧の怖さやそれに対する心構えは当然イアタリア人は良く知っている。それにもかかわらずに彼らは、濃霧の中でも高速走行をしたがる。

運転に自信があるのだ。事実、イタリア人は一般的に運転がうまい。もっと正確にいえば、高速走行時の運転がうまい。言葉を替えれば乱暴である。

すべての車が止まらずに走り続ければ玉突き事故は起こらない、というのが彼らの言い分だが、そんなばかな話はあるはずもなく、霧中の高速運転は容易に事故を呼ぶ。

結果、数十台、時には何百台もの車が巻き込まれる玉突き事故さえ起きる。

事故の原因はいつも同じ。スピードの出し過ぎである。今さらのような言い方だが、イタリア人はスピード狂が多いのだ。

視界が閉ざされた高速道路で一台が玉突き事故を起こすと、玉突きはドミノ式に次々に起こって、結果多くの車を巻き込む壮大な事故になる。

そんな現実を見ると僕はイタリア人が分からなくなり、この国に住んでいること自体が怖くなったりすることさえある。

同時に、学生時代のロンドンの霧がひたすらロマンチックに見えたのは、車を持つ余裕などない貧しさのおかげだったのだ、とこれまた今さらながら気づいたりもするのである。



新カテゴリ 「投稿し忘れたこと」また「掲載し遅れたこと」について


則UP200pic


このブログのカテゴリにも置いている「書きそびれたこと」や「書き遅れたこと」はアイデアであったり数行のメモであったりの、「まだ書いていないテーマ」のことである。

ところが僕のPCには、そこから一歩先に行った「ある程度書き進んだネタ」や
「ほぼ書き上げて後は推敲するだけのテーマ」などというものが結構ある。

それらは時事ネタである場合がほとんどである。つまり、「書きそびれたこと」や
「書き遅れたこと」と同じだ。しかし、書き進んだテーマにはその時々の自分の思いが既にきっちりと現れている。

そこで、「投稿し忘れたこと」あるいは「掲載し遅れたこと」というカテゴリでそうした事案も公表してみようと考え付いた。自分なりのあらたなトライである。

僕はこれまで自分がかかわってきたテレビ主体の映像媒体や、紙媒体とは違う可能性や面白さを感じて、このネットメディアを活用している。

可能性および面白さの一つは、周知のように、SNSの基本コンセプトである自らが『テレビ局になり出版社や新聞社になる』ことである。もう一つは『そこでは何でもトライできる』ことである。

そんなわけで、たとえば《過ぎた時事ネタを今振り返る》みたいなコンセプトでトライしてみようと思う。つまらなければさっさとやめるつもりで。

手始めに次のエントリーで、韓国のパク・クネ大統領にまつわる「投稿し忘れたこと」を掲載してみたい。

PCの前にも10年


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則 by KAnakasone

2011年3月2日、僕はこのブログを始めた。

それからわずか9日後に東日本大震災が発生した。

衝撃の中で僕はわけも分からないまま、震災への思いを思いのままに書いた。

わけも分からないが、ブログとは日記のことで、従って毎日なにかを書くべきだと理解していた。

なので、当時は毎日なにかを書こうとし、また書かなければならないと思った。

そうやって懸命に震災にまつわる思いや、出来事や、またそれとは関係のないことを書き続けた。

その頃の僕の本気の願いは「毎日ブログを更新する」ことだった。

だが毎日書くことは時間的にもまた気分的にも無理だった。

今になってみると、その願いは笑い話だ。

毎日なにかを書けるなら書けばいい。

でも毎日書かなくちゃ、と脅迫観念に捉われるのは愚の骨頂だ。

毎日書かなくちゃ、ではなく、毎日書くことがあって、一心不乱に書くうちに気づいたら毎日書いていた、という風になれば良いのだと気づいた。

葛藤しながら書いているうちにいくつかの論壇に寄稿する機会も得た。

そうやって「則ブログ」の記事は公けにも活字になった。

公けになると、記事によっては個人ブログよりも多くの読者に出会うケースも出てきた。

そのあたりから自分の文章のスタイルが変わった。

大上段に構えるテーマや思いが多くなり、文体も硬くなったと感じる。

反省。

ブログの良さとは、書く側と読む側の親密な関係なのではないか、と今さらながら考えるようになった。

親密な関係とは、日常茶飯事も伝え合える「私的」関係ではないか。

小説でいえば「私小説」。

私小説はぶっちゃけつまらない、と最近の僕は思う。昔はいわゆる純文学とともに私小説も好きだった。純文学系には私小説的なものも多い。

私小説がつまらないのは、想像力の欠落とも取れる「スケールの小ささ」が特徴だからだ。あるいは「重箱の隅をほじくり返す」的なディティールのうっとうしさ。

しかも私小説の「私」を読者である僕はほとんど知らない。ツーか全く知らない。有名作家の場合は知っているような錯覚に陥るが、実は知らないのだ。

その点Facebookの友達の場合は、個人的なことはほとんど知らないが、「表現」という人間だけが欲求する道具(SNS)を共有する意識でつながっている。これは人類のコミュニケーションの歴史の中では極めて重大な事件である。

それを大事にしてみようと考えるようになっている。しかし、それだけでは物足りない。つながっている人の絶対数が少ないからだ。そこで個人ブログをあらためて気を入れて見直すことにした。

つまり、公私にわたるテーマを、さらに真剣に自分のスタイルで、できる限り多く書き綴って行ってみようと考えている。

ここから最低10年を目処に進もうと思う。僕はブログの開始当初から最低10年の継続を目指していて、そう宣言もしたりした。

ブログ開始から丸5年以上を経て、いろいろな体験も経て僕は再び「ここから10年」、と考えている。残された半分の5年ではなく10年だ。

一応、その目標を立てたが、今現在の気分としては「飽きがくるまで」が正確である。

その気分が変わらなければ、これから10年後に再三「ここから10年」と宣言しようと思う。

僕はやっぱりブログ、またSNSという表現手段全体が好きなのである。それでなければ何度も「ここから10年」、などと書き続ける期間を延ばしたりはしないだろう。

新聞、雑誌、文芸誌などにも書いてきて、紙媒体への愛着も依然としてある。

同時に今のところは、発見したこのWEB媒体の可能性も追い続けたい。

グワンバルぞ~



私刑(リンチ)殺人を招いたイタリア司法の稚拙

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ディ・レッロ&ロベルタ夫妻

2016年7月1日夕刻、イタリア・アブルッツォ州ヴァストの交差点で、ヤマハのスクーターに乗った女性が、赤信号を無視して交差点に侵入してきたフィアット車に撥ねられ、単車ごと信号機に激突した。女性はすぐに病院に運ばれたが同日の夜死亡した。女性の名はロベルタ・スマルジャッシ(33歳)。加害者はイタロ・デリーザ(22歳)。

それからちょうど7ヶ月後の2017年2月1日、事故のあったヴァスト市内の一軒のカフェ前の路上で、事故加害者のイタロ・デリーザは1人の男に至近距離から拳銃で撃たれて即死した。撃ったのはファビオ・ディ・レッロ(34歳)。デリーザの車に撥ねられて亡くなったロベルタ・スマルジャッシの夫である。彼は妻を殺された報復に4発の銃弾を若者に浴びせたのだった。

若者を殺害したディ・レッロ は、その足で墓地に向かい、妻の墓前に供え物でもするように拳銃を置いた。それから警察に自首した。ディ・レッロ は妻の死後、毎日亡き彼女の墓に参っては悲嘆に暮れていた。その行為の仕上げとして、彼は復讐を遂げたあと墓前に拳銃を安置したのである。

交通事故の加害者を被害者(の家族)が私刑で殺害する、という耳を疑うようなこの事件は、イタリア司法制度の最大の欠陥のひとつ、審理の遅滞と混乱が引き起こした悲劇である。同時に、イタリア司法制度の長所の一つである厳罰回避主義も関係しているのが皮肉だ。

加害者から一転して被害者になったイタロ・デリーザは、交差点で赤信号を無視して死亡事故を起こしたにもかかわらず、裁判所の審理を待つ間、ほとんど何の制約も受けずにヴァストの町を自由に動き回っていた。そこは人口3万8千人の町。住人の全てがお互いに顔見知りのような関係だった。

何事もなかったかのように振舞うデリーザの噂を聞くのは、ディ・レッロにとっては耐えがたい苦痛だった。彼は裁判の迅速化を主張し、人々に働きかけ、SNSでも同様の投稿を繰り返した。町の住民の多くも妻を殺されたディ・レッロに味方をした。

町には動きの遅い裁判所への批判が高まった。「速く裁判をしろ!ロベルタに正義を!」という抗議デモまで起こった。それは同時に、重大事故を起こしながら自由を謳歌しているデりーザへの問責でもあった。デリーザへの風当たりはそうやって日ごとに強くなった。

2017年2月21日には公判が予定されていたが、加害者のデリーザは恐らく刑務所に入ることもない軽い刑罰で済み、結審後もほぼ自由であろうことが予想された。なぜならイタリアの法律では、交通事故の犯人は酒気帯び、麻薬摂取、あるいは轢き逃げのような悪質なケースを除いて、刑罰が極めて軽くなるからである。

その観測が妻を殺されたディ・レッロのトラウマとなっていた。事故のことを謝ろうともしないデリーザへの怒りも募った。そんな折、彼はデリーザと道で行き逢った。デリーザは、事故後に乗り回すようになったバイクのエンジンをこれ見よがしに噴かして、彼に挑むような態度に出た。

その出来事がディ・レッロに重大な決意をさせた。デリーザを殺害してしまおうと心に誓ったのだ。恐らく町の人々がディ・レッロに同情し、事故加害者のデリーザを非難する風潮にも触発されたのだろう。ディ・レッロはその時まで拳銃を扱ったことはなかったが、密かに一挺を手に入れて襲撃の準備を始めた。

彼は犯行に及ぶ直前、Facebookに映画グラディエーターの主人公マキシマス・デシマス・メレディウス の写真と共に、彼の有名なセリフ“~And I will have my vengeance...in this life or the next=~私は必ず復讐を果たす・・この世か、あるいはあの世で”と投稿した。そして事件は起きた。

この不幸な出来事には、いかにもイタリアらしいエピソードや、多くの偶然や必然や不運や誤解などが複雑に絡まっている。だが実はそれは、イタリアに限らずどこにでも起こり得る事件であり、真相は「藪の中」にしか存在しない人間劇だと僕には見える。

ここからはその人間劇について少し言及しておこうと思う。

ディ・レッロは妻の死後、毎日彼女の墓に参っては悲嘆に暮れていた。それは愛情の深さを物語るエピソードに違いないが、7ヶ月にも渡って連日墓に出向いては涙に暮れる、というのは少し異様で、彼の思い込みの強さを語るエピソードという感じがしないでもない。

その行為はFacebookにグラディエーターの一場面の模様を投稿したことや、復讐を果たした後にピストルを妻の墓前に手向けた事実などと共に、少し芝居がかっていて、やはり違和感を覚えずにはいられない。犯罪心理の専門家などが分析を試みたがる案件のようでもある。

銃撃犯のディ・レッロは、前述したように、彼にとっては妻を殺した憎むべき犯人であるデリーザが、まるで挑発するように町で行き逢った彼に対してバイクのエンジンを吹かした、と主張している。それは事実らしいがそこに至るまでには伏線がある。

デリーザの家族の言い分によると、彼は死亡事故を起こした後、強いトラウマに襲われて苦しんでいた。そこに彼を非難する町の住民の声が重なって、当人の心的苦痛はいよいよ高まった。そうした異常な精神状態にあったため、デリーザはディ・レッロと遭遇した際、思わず反抗的な態度に出たのだという。

つまりふてぶてしく生きているように見えたデリーザは実は、「普通に」死亡事故を起こした責任感に苛まれていた。罪悪感で押しつぶされそうになっていた彼に世論のバッシングが重なって、彼はますます追い詰められていった、というある意味で尋常な加害者の心理劇がそこにはあったのである。

また、デリーザは事故後に、共通の友人を介して亡くなったロベルタ・スマルジャッシの家族に謝罪をしたいと申し出たが、彼女の家族は「今はとても謝罪を受けられる心理状態ではない。時間がほしい」と拒否したとされる。

ところがこの点に関しても、前述したようにディ・レッロは逆に、デリーザから一言の謝罪の言葉もなかったと憤っている。ということはもしかすると、彼と亡くなった妻の家族との間には何らかの行き違いがあって、情報が共有されていなかったのだろうか。又は何らかの確執でもあったのだろうか。

ディ・レッロと妻の家族との関係がどうあろうとこの際は関係のない事かもしれない。しかし、デリーザが彼に謝罪しなかったことも、ディ・レッロが凶行に走った動機の一つになっているのだから、被害者が実は謝罪を申し出ていたというのは、無視できないエピソードのように見える。

デリーザ側の主張には、普通の感覚では中々受け入れがたいものも多くある。たとえば彼らは、「交差点での事故の際、ヤマハのスクーターに乗っていたロベルタ・スマルジャッシはヘルメットを被っていなかった。これは彼女の過失である」と言い張った。

また「責任を取れ。反省しろ」という街の人々の非難に対しても「デリーザは事故時には一滴の酒も飲んでいなかったし、麻薬常習者でもない。また事故後は逃げも隠れもしないで被害者の救護にも当たった。いったい何を反省し何の責任を取るのか」と開き直ったりもしている。

それらの主張は、少なくとも僕にとっては、首を傾げたくなるような強弁にしか聞こえない。加害者が信号を無視して交差点に突っ込み被害者を死亡させた厳然たる事実は、被害者のヘルメットの有無によってキャンセルしたり矮小化したりできるものでは断じてない。

飲酒や麻薬使用の有無、また事故後に救護活動をしたか否か、などの主張もやはり強弁の類であり本末転倒の議論のように思う。自らの立場を明確にしてそれを主張することが善とされる西洋的メンタリティーではOKなのだろうが、少なくとも日本人の僕には分かりづらい。

しかし、だからといって、ディ・レッロはもちろん個人的にあだ討ちなどをするべきではなかった。彼は犯行に至る前には一貫して「ロベルタの悲劇は2度とあってはならない」と亡き妻の写真と共にSNSに繰り返し投稿していた。ところが彼は不幸にも妻の悲劇を繰り返してしまった。被害者の名前が妻ロベルタからデリーザと変わりはしたものの。

僕には亡くなった2人の男はいずれもイタリアの司法制度の被害者に見える。
「人は間違いを起こす存在である」という哲学によって、厳罰主義を否定するイタリアの司法の精神はすばらしい。飲酒や麻薬や轢き逃げに当たらない「普通の」死亡事故の加害者を許そうとするベクトルが働くのも、その考え方故だ。

しかし、司法の遅滞は重大問題だ。デリーザが死亡事故を起こした時点で司法による素早い介入があったならば、彼は被害者の家族も住む小さな街で自由に動くことはなく、従って加害者のディ・レッロと行き逢うこともなかった。

精神つまりソフトは優秀だが、時として実体つまりハードが稚拙な「イタリア的な仕組み」の一端がここでも発揮されたのだと思う。ハードの遅れた司法の鈍感と無神経と無能のせいで、事故の加害者と被害者が日常的に顔を合わせるという苦しくも残酷な状態が生まれ、やがて悲惨な結末が訪れたのである。


やっぱり退屈なオバケ番組「サンレモ音楽祭」

会場ヒキ+パネル400pic


2017年2月11日、5日間に渡って開催されたサンレモ音楽祭が幕を閉じた。

先日、紅白歌合戦にからめて同音楽祭のことをいろいろ言った手前、今年は頑張ってTV生中継を見ようと決めた。

しかし、いつものように挫折した。つまらぬ、好かぬ、たまらぬ、の3拍子がそろっていたのだ。「つまらぬ」のはエントリーしている楽曲。「好かぬ」のは番組の内容。「たまらぬ」のは放送時間のムチャクチャな長さである。

つまり、「いつもの理由」で、僕はサンレモ音楽祭を放送するRAIの番組視聴を貫徹することができなかった。貫徹どころか、最初は「さぁ、見るぞ」と始めたものの、たちまちウンザリしてチャンネルを替えた。

その後は「我慢して見つづけよう」と自分に言い聞かせては、やはりチャンネルを替えたり、テレビの前から立ち去ることを繰り返した。

サンレモ音楽祭は応募曲の優劣を決める音楽コンテストである。優勝曲はほぼ間違いなくイタリア国内でヒットし、欧州全体さらには世界的なヒットになる可能性もある。

それでいながら参加曲の多くが、どれも良く似た凡庸なものであるのも現実だ。カンツォーネは日本でいえば演歌(あるいは歌謡曲的な演歌)なのだから、それも仕方がない。

そこでは似たような印象のメロディー、リズム、歌詞の歌を、これまた似たような印象の歌い方をする歌手が絶唱する、というイメージである。それは僕にとっては極めて退屈だ。

もっとも演歌でなければ楽しいのか、といえば決してそうではない。演歌を「歌謡曲」や「ニューミュージック(死語?)」などを含むJ-POP(ポップス)と置き換えても事情は同じ。どのジャンルでも面白い歌は少なく、つまらない歌は盛りだくさんだ。

それらの歌の合間に、ゲストと称される有名人のダベリや、司会との掛け合い、多くがお笑い系の芸人のパフォーマンス、時の人や事物の紹介、外国人ゲストの歌やパフォーマンス等々が、これでもか、これでもかとばかりに執拗に挿入される。

実を言えば、それらの賑やかで多彩で大量のエピソードの合間に、コンテストにかけられる歌が歌われる、という方が正しい。今年はなぜか猿の着ぐるみを着たダンサーが踊りまくる演芸も加わって、例年以上に舞台が濃厚になった。

僕の個人的見解では過剰以外の何ものでもない大量の「バラエティーショー的ネタ」の合間に、陳腐な歌が次々と陳腐に上演されて行く時間の長さと、ネガティブな番組構成要素の総体は、ほとんど恐怖である。もっと言えばずばり「拷問」ですらある。

僕は前述のごとく「いつものように」我慢して番組を見ようとした。そして「いつものように」脱落した。それでも優勝曲の発表がある最終夜は、イライラしながらも懸命に見た。午後8時半に始まった番組は、途中で大量のコマーシャルを挟みつつ延々と続いた。

このコマーシャルも僕の気に触り続けた。というのも番組を流しているRAIはイタリアの公共放送局である。つまりイタリアのNHK。当然視聴料を徴収している。それでいながら大量のCMも流すのだ。きちんと視聴料を支払っている僕は普段からこのことに腹を立てている。RAIは民営化されるべき、と僕が主張する理由の一つだ。

優勝曲の発表の前にも、思わせぶりで脇道に逸れる構成が連綿と続いて、いつまでたっても結論が出ない。且つそこでもCMががんがん流される。やりきれない時間が過ぎて、ようやく優勝曲が発表された時には、日付がとっくに変わって翌日の午前1時半になっていた。

それだけでも疲れたが、もっと残念なことがあった。優勝曲が今年は良くないのだ。サンレモ音楽祭はマンネリ感満載の番組内容とエントリー曲の陳腐が退屈だが、優勝する歌はたいていいいものが多く、ひんぱんに傑作が生まれる。今年に限っては唯一の楽しみである優勝曲も凡庸でつまらない曲で終わった。

その平平とした歌の披露が済んでオンエアが完全に終わったのは1;45分だった。僕は2度とサンレモなど見ないぞ、と悪態をついていた。今後はほんとに2度と見ないつもりだ。優勝曲についてはこれまで通りチェックするとは思うけれど。

などと、呪詛の言葉を吐いているのは、全くの僕の個人的趣味である。イタリアではサンレモ音楽祭は、依然として人々の強い支持を受けている。視聴率や国民の関心度、という観点から言えば、恐らく日本における紅白歌合戦以上の、イタリアのチョー国民的番組なのである。

同番組は、今年も事前の国民の関心度や視聴率が、イタリアで1,2を争うオバケ番組であることを証明した。平均視聴率は50、7%に達し、過去12年間で最も高かった。そうはいうものの同番組は、ほとんど常に40%台後半の数字を稼ぐのだけれど。付け加えれば、今年の優勝曲発表時の瞬間視聴率は、なんと
79、5%に上った。

また年間を通しての国民の関心、という意味では「サンレモ」という語がGoogleの検索エンジンリストの第6位である事実と、音楽祭の開催期間である2月7日~11日が、文化イベント・カレンダーの重要キーワードとして、人々に意識され続けることでもその存在感の大きさが知れる。

もっとも、さらに付け加えれば、そんなオバケ番組ゆえに敵も多い。日本の紅白歌合戦に敵が多いように。僕自身に限っていえば、番組制作者たちの努力と、番組の特に舞台デザインにいつも瞠目しているファンの一人だが、番組の長さとしつこさにはほとんど敵意に近い感情さえ覚える。

しかしそれは、毎年衛星中継でしっかり見ている紅白歌合戦も同じ。紅白歌合戦は昔の2時間番組に戻したほうが僕は今の10倍くらい好きになると思う。またサンレモ音楽祭の場合は、全体が4時間程度の「1日限り」のイベントにしてくれれば、今の100倍くらいは好きになれそうな気がするのだが・・


稀勢の里の横綱昇進にケチをつけるケチ臭さ


400pic北斎漫画相撲縦組み合う


稀勢の里の横綱昇進は甘い、という説がそこかしこにある。大手新聞の論説やトップ漫才師なども言及している。が、彼らは本当に大相撲を見ているのか、と僕は違和感を抱く場合も多い。

僕はイタリアにいて衛星放送で毎場所欠かさず大相撲を観戦している。ロンドンに拠点を置くJSTVが、NHKの大相撲放送を1日3回電波に乗せるのだ。

イタリア時間では朝の9時前後からほぼ生中継で幕内の全取り組みをオンエアする。午後は日本での生放送の時間帯を意識した頃合いに、全取り組みを2時間ほど使って録画再放送する。

さらに、午後11時頃から幕内の全取り組みを再三放映する。その時は番組を大幅に編集して、仕切り部分をほぼ全てカットして一番一番の勝負だけを短く見せる。

僕はほとんどの場合、朝のほぼ生中継を録画しておいて仕事の合間に全取り組みを見る。その時は仕切り部分の絵を飛ばして見ることが多い。時間節約のためだ。

時間に余裕があれば、仕切りの様子も含めて全て見る。本当は常にそうしたいのだが、なにかと多忙で思うようにはいかない。

朝も午後も観戦のチャンスがない場合は、夜11時からの勝負のみのダイジェスト版を見逃さないようにしている。

何が言いたいのかというと、僕は遠いイタリアにいながらもきっちりと大相撲の本場所の状況を把握している。相撲が大好きなのだ。

だから、相撲に言及する人々が実際に取り組みを見て口を挟んでいるか否か、すぐに分かる。あるいは彼らが大相撲ファンかそうでないかが、感覚的に結構分かる。

その伝でいえば、前述の大手新聞の論説執筆者やトップ漫才師は大相撲を逐一見てもいないし大相撲ファンでもない、と感じる。

稀勢の里の横綱昇進は順当だ。彼は横綱昇進の条件である、2場所連続優勝かそれに準ずる成績、という基準を満たしている。

優勝に準ずる、という規定の解釈が人によって微妙に違うが、昇進直前2場所のうち、九州場所は12勝3敗の準優勝、続いて初場所は14勝1敗での優勝だから、僕は妥当だと思う。

甘いという説も理解できないことはない。というのも1990年に旭富士が2場所連続優勝で横綱に昇進して以降、曙、貴乃花、若乃花、武蔵丸、朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜の全力士が連続優勝後に横綱になっている(鶴竜のみ一場所は優勝決定戦で敗れて、優勝力士と同成績)。

しかし、旭富士以前は、今回の稀勢の里のように準優勝に続く優勝、またはその逆の形の成績で横綱に昇進したケースが多い。あの大横綱の千代の富士も準優勝場所の後に優勝して横綱になった。

2場所連続優勝なし、準優勝と優勝同点(決定戦で敗れて)で昇進した三重の海や2場所連続優勝同点で昇進の2代目若乃花というケースなどもあった。優勝なしだから彼らの横綱昇進は稀勢の里より甘いとも言える。

旭富士以降の昇進基準が厳しくなったのは、一度も優勝したことがない双羽黒が横綱に昇進(準優勝と優勝同点)した後、問題を起こして廃業したことへの反省があったからである。

旭富士以前の横綱昇進の条件は「直前の3場所の成績が36勝以上」というものだった。双羽黒の問題以降、横綱昇進の条件は「大関で2場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績」と厳しくなった。

稀勢の里は「直前3場所36勝」制で見た場合は最低ラインの36勝に留まるが、2016年の3、5、7月場所の合計は38勝で十分に規定をクリアし、そこで既に横綱になっていてもおかしくない強さだ。

しかし、懐疑論者たちは満足しない。彼らは稀勢の里の九州場所での準優勝が、優勝より星二つ少ないことを問題にしたがる。準優勝は優勝より勝ち星が一つだけ少ない成績であるべきだ、という訳である。

確かに稀勢の里は、優勝場所の直前の九州場所で鶴竜に次ぐ準優勝ではあったものの、鶴竜の14勝1敗での優勝に対して12勝3敗と星二つ足りなかった。

だが彼は昇進以前に12回にも渡って準優勝という成績を残している。そのうちの3回は横綱昇進直前の2016年の成績だ。加えて2016年は史上初の優勝なしでの年間最多勝も獲得した。

彼に先んじて優勝した同僚大関の琴奨菊と豪栄道が、優勝場所以外ではほとんど常にクンロク大関と呼んでも構わないほどの、不甲斐ない成績に終始している事実とは大違いだ。

稀勢の里の準優勝12回のうち11回は大関での成績である。このうち2013年7月場所、2014年1月と7月場所、2016年5月、7月、9月場所と計6回の綱取り挑戦を経験した。

6回もの綱取り場所がありながら失敗し続けたのは、ここ一番に弱いノミの心臓の持ち主だから、という批判もある。それもまた正鵠を射た意見だ。正直に言えば僕もそこが一番気になる。

しかし、その準優勝12回という数字の意味するところは、稀勢の里が長期に渡って安定した成績を残している、ということでもある。それが彼の強みではないかと思う。強みになってほしい。

長い苦しい体験が彼の横綱人生に強さを付け加えるのか。あるいはやはりプレッシャーに弱いか細い横綱で終わるのかは、いやでも来場所以降に明確になるだろう。

僕は稀勢の里が優勝回数5回前後のまあまあ強い横綱になりそうな気がする。優勝回数5回は柏鵬時代を築いた柏戸などに匹敵し、彼の師匠だった隆の里ほかの横綱を上回る成績である。

グワンバレ稀勢の里!


トランプ入国禁止令に[賛成多数]の衝撃

stara and stripes のスカーフを被ったイスラム女性400pic


トランプ米大統領が、中東・アフリカ7カ国からの人の入国を一時禁止したことなどをめぐり、全米各地で抗議活動が起きている。報道を見る限りでは米国民の大多数が大統領令に反対しているような印象を持つ。

ところが、ロイター通信が行った世論調査によると、入国禁止の大統領令に反対しているのは米国民の41%、一方賛成しているのは49%という数字が出た。この結果に僕は、少し大げさに言えば、衝撃を受けた。

ほぼ同時期に行われたギャラップ社の世論調査の結果では、賛成と反対の数字が42%と55%と逆転している。が、いずれにしても米国民の少なくとも半数が、トランプ大統領の政策を支持していることは間違いない。

選挙戦でもトランプ大統領と民主党のクリントン候補の支持率は拮抗していた。従って7カ国からの入国禁止令をめぐっても賛否がほぼ半々になるのが当たり前、という見方もできるかもしれない。

だが、米国を筆頭に世界中のメディアが連日報道しているのは、大統領令に反発して抗議活動をする人々の動きばかりである。あたかも「大統領令への反対一色」という雰囲気だ。だが現実は違っている。

インターネット、特にSNSの普及によって大手メディアの報道の中身が問われ始め、やがてそれはエスカレートして、ネット住民による「マスゴミ」呼ばわりは過激すぎるにしても、既成メディアへの不信感や懐疑論は膨らみ続ける一方だ。

今ではSNSのツイッターを駆使して世界最強の権力の座に就いたトランプ大統領が、大手メディアのテレビ画面でその大手メディアの記者に向かい、「君たちはフィエクだ。嘘を垂れ流すクズだ」と言い放つ時代になった。

大手メディアをフェイクと断罪するトランプ大統領とその陣営が、実はフェイク・ニュースを垂れ流している虚構であり、危険な嘘で塗り固められた存在、という可能性の方がもちろん依然として非常に高い。

去った選挙戦へのロシアの介入の有無や、オバマ前大統領と現職の就任式の人出の多寡をめぐる言い争い、現政権の報道官の不可解な言動など、など、疑問符満載の状況は時と共に真偽が暴かれ改善されていくだろう。

だが現在進行形で報道されている「事実」と、冒頭で述べた世論調査が示唆する「実証」との間に乖離があるのも明白な「現実」だ。僕は自身もメディアの中で生きてきた人間として、衝撃と共に目からウロコ、という思いにも強く捉われている。

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それはトランプ大統領に賛成するという意味では毛頭ない。いや、むしろ逆だ。それらの「多様な現実」の存在を容認しつつ、僕はここ欧州に跋扈しつつある排外・差別主義者、日本に多い歴史修正論者や「反ポリコレ(ポリティカルコレクトネス)主義者」つまりネトウヨ・ヘイト扇動者、また不寛容志向者や引きこもりの暴力愛好家などに反対する。

「反ポリコレ主義者」に反対するとは、ポリコレ棒を振りかざして言うのではない。ポリコレ棒で他者を殴る者は、差別や偏見をしないという善を盾に言葉狩りの
「独善」に陥って、あらゆるものを糾弾し、多様性を認めるはずが、逆に多様性否定論者と同じになってしまうことが多い。

つまり行き過ぎたポリコレ信者は、自らの差別思想や偏見や不寛容や憎しみを秘匿して、差別用語やヘイト感情をむき出しに他人を攻撃する、「反ポリコレ主義者」と何も変わらない存在になってしまうのだ。

人種、宗教、女性差別などに始まる多くの差別感情と憎しみをあおり続けるトランプ大統領は、どこまでいっても危険なポピュリストだ。人類が多くの犠牲を払って獲得したポリコレの哲学や知恵やコンセプトは、全て無駄でつまらないことだと断定して、世界を後退させようとするネガティブな存在だ。

しかし、大多数の人々がそれを望んでいるとすれば、民主主義を標榜する限りアメリカは、トランプ大統領の目指す方向に引きずられていく可能性が極めて高い。そうなればアメリカは、自由や平等や機会の均等などを高らかに謳う、これまでのアメリカではなくなる。

いやトランプ氏を大統領に選んだ時点で、アメリカはもはや『米国民が理想とするアメリカ』の実現を目指して進む国家、ではなくなったとも言える。それは僕自身もそこに住んで実体験した偉大なアメリカ、つまり人種差別や不平等に苦しみながらも、敢然としてその撤廃に向けて歩み続ける人々の住む国ではなくなった、という意味だ。

僕は選挙戦の初めからトランプ候補の批判者であり続け、今はさらにそうだが、大統領になった彼の極論を歓迎する民衆の姿を見て、自分の立場を少し軌道修正しつつある。つまりアメリカはトランプ主義を即座には撃退できない。撃退どころかますますそれに飲み込まれていく可能性が高い、という悲観論者の立場への傾斜だ。

同時にその悲観論は、トランプ革命によって古い秩序が破壊される結果、これまでは見られなかったポジティブな方向に米国が変わり、それが世界をリードするかもしれない、というかすかな期待とも連動している。言うまでもなくそれは、過去の歴史に鑑みれば、トランプ主義は世界に否定的な打撃をもたらす運命にある、という危惧に比べてとても小さいけれど。

ミラノ北斎展の三つ子の魂 

レアーレ宮北斎ほか看板中ヒキ400pic


昨年9月22日から今年1月29日まで、 イタリア・ミラノで大きな北斎展が開かれている。先日それを見に行った

北斎展は人気の催し物で、200余点の展示品がすばらしく人出も多かった。そこでは展示物の面白さにも負けないくらいの興味深い場面にも出くわした。

おそらく幼稚園児と思われる20名ほどの小さな子供たちが、集団の前後に付き添っている2人の教師に導かれながら、つぶさに作品を鑑賞していたのだ。

グループを先導する女性教師は、どうやら「おじいさんと孫」のストーリーに託して展示物の一つ一つを説明しているらしい。切れ切れに彼女の声が聞こえた。

子供たちは真剣な面持ちで先生の声を聞きながら展示物を「見上げて」いる。文字通りきらきらと輝く瞳を見開いて、北斎の傑作を見つめている彼らの姿はかわいらしく、且つ印象的だった。

同時に彼らはそのつぶらな瞳で一体何を見ているのだろうか、と僕はいぶかった。

会場外北斎看板ヨリ400pic幼い子供にとっての芸術作品は、おそらく学問や教養や学習などとして理解されるものではなく、幼児体験のいわば「不思議」の一つとなって心に残っていくものなのだろう。

子供たちは目の前の北斎作品を理解するのではない。きっと理解できないし理解する必要もない。「良く分からないが、何か美しいもの」として記憶蓄積の中に組みこまれればいいのだ。

大人でも芸術作品を分かる必要はない。知った風な解説や理解は学者や通人にまかせておけばいい。美しいものは「好きか嫌いか」で判断すればいいのだ。

ましてや幼な子は作品の意味や哲学や意図等々に思いを寄せる必要はない。美しいものに接して喜ぶ周囲の人々の呼吸と共に、展示物の「輝き」を心に刷り込めばいいのだ。

三つ子の魂百まで、とは幼児の性格のことをいう諺だが、優れた芸術品に接触した幼な子の体験は、「魂に深く染み込む思い出」となりやすいのではないか、と彼らのいちずな瞳を見て思った。

記憶は心中に沈殿、蓄積し、やがて発酵して、将来どこかで独創力となり花開くのではないか。あるいは少なくとも花開く一助になるのではないか。

イラスト幼児+先生200pic小学校にも上がらないほどの幼い時分に美術展を巡り、鑑賞する子供たちの中からは、次の作家が多く生まれる可能性が高まるに違いない。

芸術の国イタリアには、美術館や博物館が「無数に」という言葉を使いたくなるほど多くある。僕はドキュメンタリー番組の仕事でそこをよく訪ね、いろいろな場所で課外学習や鑑賞ツアーの学生集団に出会った。

その度に優れた芸術作品に容易に接近できる彼らの幸運をうらやましく思った。彼らの中からは、繰り返しになるが、次代の芸術家が生まれ易くなる。芸術品の宝庫であるイタリアは、未来の芸術家の宝庫でもあるのだ。

そうはいうものの、しかし、北斎展で出会った子供たちの幼さは格別だった。僕はそこに独創的と賞賛されるこの国の底力の一つを見みたような気がして、素直に「すごいなぁ」つぶやいた。同時に、ため息も出た。

次代を担う日本の子供たちを思ったのだ。彼らには北斎展で出会ったイタリアの子供たちのような幸運はあるのだろうか、と自問した。きっとあるのだろう。しかし、なぜか受験勉強に忙殺される子供の姿ばかりが頭に浮かんで、僕は再びため息をついたのだった。


ヤ~ッホーッ! きっせのさとおおおおおおお~!!!!


可愛い丸顔


稀勢の里がついに優勝した。本物の優勝だ。つまりマグレではなく、実力での優勝ということだ。

稀勢の里はここ数年横綱を目指しても全くおかしくない成績を上げ続けてきた。昨年は年間最多勝のタイトルまで掴んだ。

ところが初優勝は彼の朋輩大関、琴奨菊と豪栄道に先を越され、彼自身はもう一歩のところで優勝を逃し、従って横綱昇進もままならずに来た。精神力の弱さも指摘されつづけた。

めぐり合わせの不運を怖れる人々も出始めていた、僕もその1人だ。今場所も前半、3横綱と若手の台頭の影に隠れて話題にならないまま勝ち星を積み重ねる彼を、僕は「見て見ぬ振り」で見続けていた。

ブログ記事にも書かなかった。ゲンを担いだのだ。僕が期待したり、表立って期待を口にしたりすると、彼はコケることが多かったからだ。

初場所14日目、つまり昨日、稀勢の里が逸ノ城を破って白鵬の取り組みを待つ場面では、僕は「どうせ白鵬が勝って明日千秋楽の本割で稀勢の里を転がし、優勝決定戦に持ち込んでノミの心臓の稀勢の里は自滅・・」というシナリオを勝手に胸中で描いて諦めていた。

だがそれは本当の諦めではなく、悪く考えることで逆の結果を待ち望む、僕のもう一つのひそかなゲン担ぎだったのだ。

強い力士が好きな、大相撲ファンの僕のその時の本心は、「白鵬が勝って千秋楽で稀勢の里と優勝を賭けて激突。そこで稀勢の里が大横綱を気迫で破って
14勝1敗で初優勝」というシナリオだった。

なぜ14日目で白鵬が負けて稀勢の里の優勝決定、というシナリオを望まなかったのかというと、千秋楽で白鵬を倒すことで稀勢の里に箔をつけてほしかったからだ。

そうすることでノミの心臓と揶揄される気力の弱さを克服し、同時に真に強い力士として認められて初優勝。そして即横綱昇進も決める、という形のほうが今後の彼のためにいい、と考えたからだ。

ところが白鵬は、初顔合わせだった平幕の貴ノ岩に敗れて、千秋楽を待たずに稀勢の里の優勝が決まった。

仕方がない。こうなったら千秋楽で必ず白鵬を蹴散らして、優勝に花を添えて横綱へ昇進となってほしい、とその時はその時でまた思った。

同時に不安が僕の中に芽生えた。もしも千秋楽で白鵬に勝てなかった場合、相撲協会はそこにケチをつけて「もう一場所様子を見たい」とかなんとかの、相撲協会得意の思わせぶりを発揮して、彼の横綱昇進を見送るのではないか、と考えたのだ。

そこで僕は昨晩急いでブログ記事を書き始めた。その内容は次の通りだ。

白鵬に負けても稀勢の里は横綱に推挙されるべきだ。これは僕が日本人横綱を見たいからではなく、また稀勢の里が日本人だからという意味でも断じてない。彼が横綱にふさわしい力量を備えていると客観的に見て思うからだ。

そのことはここ数年の彼の成績を見れば分かることだ。彼はほぼ常に安定した成績を残し、休場もなく、ひんぱんに優勝争いにも加わっている。

幕内優勝次点の成績を過去に何度も収め、前述したように昨年は年間最多勝も獲得した。優勝回数ゼロの力士が年間最多勝のタイトルを獲得したのは大相撲史上初めての快挙だ。

稀勢の里が「めぐり合わせの悪さ故に横綱になれない」ということではマズい。そんなことになったら、幕内最高優勝を5回も果たしながら横綱になれなかった、あの魁皇の悲劇を繰り返すことになる。

横綱でも5回の優勝を成し遂げるのは至難の技だ。比較的最近の歴史を見ても、魁皇と同じ優勝回数5回の横綱は柏戸と琴櫻。また彼以下の優勝回数しかない横綱は、優勝回数4回が若乃花 (2代目)、隆の里、旭富士。3回が三重ノ海と鶴竜。以下大乃国と双羽黒だ。

稀勢の里は、5回もの優勝を果たしながら横綱になれなかった、魁皇に匹敵する強い大関だ。それは前述の幕内優勝次点の成績の多さ、昨年の年間最多勝、また大関としての勝率ダントツ一位(勝率.714 )などの実績を見ても明らかだ。

稀勢の里は十分に横綱に推挙されて然るべき力量を持っている。繰り返すが、彼が横綱に昇進してほしいというのは私的願望ではなく---いや私的願望ももちろんあるが---大相撲の現状に鑑みて極めて妥当なことだと考えるからである。

幸い、そのブログ記事をアップする前に、稀勢の里は千秋楽に白鵬を倒して優勝に花を添えた。同時に横綱昇進も確実なものにした。やっほう~。

いや~メデタイな~、ホントに!!!!!


トランプのトランプによるトランプのための民主主義


トランプ宣誓400pic


トランプ新大統領の就任式の一部始終を衛星生中継で見た。多くの民主党議員が出席をボイコットした異変と、会場外で抗議デモが燃え盛った点などを別にすれば、式次第は通常のものだった

しかしながら、トランプ氏自身の就任演説は、彼の選挙キャンペーンと同じく、人々の分断を助長する可能性が高い、という意味で警戒しなければならない残念な内容だった。

彼は就任演説で「アメリカ・ファースト(第一)」と叫び、アメリカをアメリカ国民のために取り戻す、と宣言した。選挙公約を実行した形だ。自国の利益を優先させることは一国の指導者の当たり前の姿勢だ。それ自体は悪くない。

だがその宣言の真意は、彼の率いる米国が、世界のことは斟酌せずに自国の利益のみを追求し、且つ「他国には厳しい金持ち国家を目指す」というものである。世界に冠たるリーダー国にはふさわしくない寂しい主張だ。

トランプ氏は就任前からツイッターで個別の企業を名指しで脅した。結果、いくつかの企業が恐れをなして彼の思惑通りの「アメリカ・ファースト(第一)」を実践し、国内に雇用を生み出すための投資を行うと発表した。

世界最大・最強の権力、米大統領職の威光を利用しての恫喝が功を奏した形だ。彼の手法は一時的には好結果をもたらすように見える。が、長い目で見れば破滅だ。それは恐怖政治にほかならないからだ。

アメリカ国民がひたすら自国の経済効率ばかりを追い求め、自らの国と世界政治に望む「彼らの理想」と「建国の精神」を忘れて、新大統領に唯々諾々と従うならば、アメリカはもはやアメリカではない。

理念や哲学のない、従って品格のないアメリカなら、米国はただの成金国家であり戦争屋であり尊大で危険な帝国に過ぎない。換言すれば、トランプ大統領が目指す米国は尊敬するに値しない。

企業経営の論法で国家を運営しようとするのは間違いだ。特にその首謀者自身が優秀な企業家である場合はなおさらである。利益相反が生じるからだ。

首謀者らは決まってそのことを否定する。だが経済、つまり金の計算のみで国を操縦しようとする彼らの立場自体が、利益追求に狂奔するだけの事業家のものだから、ヒトと同じく理想や良心や品格も希求するまともな国家のあり様とは矛盾する。

新大統領の本性はただの商売人なのだ。商売人は商売だけをしている限り何も問題はない。また一国の経済をうまく動かすことももちろん重要である。国家経営の手腕を最も問われる能力の一つだ。だがそれだけではダメなのだ。経済力と共に理念や道心も示してこそ、理想的な国家の設計図が完成する。

トランプ大統領は、ここイタリアのベルルスコーニ元首相を反面教師とするべきだ。事業家の元首相はビジネスと同じやり方で国家の舵取りをしようとした。が、私利私欲に走って破綻した。トランプ大統領はその轍を踏まないようにするべきだ。

トランプ大統領には、選挙戦中に指摘され続けたように、品格がまるでないことが大統領就任式であらためて明らかになった。ここでいう品格とは、彼のような億万長者から貧しい者にまで等しく備わっているはずの、「他者を思いやる」心のことだ。

彼は選挙期間中から執拗に他者への攻撃を繰り返してきた。不寛容と憎しみと差別をあおってきた。だがそれは厳しい選挙戦を戦い抜くための方便ではないか、と多くの人が考えたがった。僕もその1人だ。

正直に言おう。トランプ次期大統領は、就任式でそれまでの無残な醜貌をかなぐり捨てて、世界から尊敬される米大統領の品格の片影をみせるのではないか、と僕はひそかに期待した。全ては裏切られた。トランプ氏はやはりトランプ氏でしかなかった。

彼は選挙戦の攻撃の仕上げとして、冒頭で述べた「アメリカ・ファースト(第一)」のスローガンを盾に、彼の政権は事業家である大統領個人がそうであり続けたように、アメリカの利益のみをひたすら追求する、と言い放ったのである。

それでも僕は、一点だけトランプ大統領の就任演説の内容に共感を覚えた。それはイスラム過激派を殲滅する、という彼の宣言だ。そのことについてもここに明記しておきたい。

彼がイスラム教徒ではなく、あくまでも「イスラム過激派」を目の敵にすることには賛成だ。しかし、それとて全面的に賛成できないのが、トランプ氏の異様な「トランプ主義」なのである。

というのも彼は、イスラム過激派の構成員と共に「彼らの家族」も殺害する、と公言してはばからない。それはトランプ氏の狂気振りを示して余りある、不気味な発想だ。テロリストと彼らの家族は別の存在だ。家族には何の罪もない。むしろ家族は被害者である可能性の方が高い。

トランプ氏が犯罪者と家族は同罪だと言い張るのなら、僕は彼にこう聞きたい。「あなたは女性を性的に虐待したと選挙期間中に糾弾されたが、もしもその告発が事実だと証明されてあなたが有罪になった場合、あなたは自身の妻や子供たちにも罪がある、と考えるのですか」と。

言うまでもなく、トランプ氏の罪と家族は関係がない。テロリストも同じだ。彼らの家族まで殲滅するというのは、狂気にも等しいおぞましい考えだ。だがその狂気をもたらす、彼の思想信条らしいものの正体は、もっとさらにおぞましいものだ。

なぜ彼は犯罪者の家族まで罪人に仕立て上げたいのか?それは例えば、敢えて日本の過去の歴史を遡って考えてみれば明らかになる。つまり、中国大陸から伝来して秀吉の統治法に組み込まれた5人組制度が、精神的呪縛となって国中に生き続け、やがて大戦中の隣組制度にまで受け継がれた「連帯責任」思想と同じものなのだ。

中国古代の人権無視、自由抑圧の野蛮な未開思想が、封建社会の日本に受け継がれて権力者に利用されたのは、世界各地でも同様なことが起こったことからも分かる通り、いわば歴史の必然だった。従ってそのこと自体はもちろん責められるべき事案ではない。

日本と世界は戦争や破壊を繰り返しながらも、その後は少しづつ進歩して暗黒の時代から抜け出した。未開思想を無くし克服しようとする意思に支えられて、今もさらに進化を続けている。トランプ氏はそのポジティブな歴史の流れに真っ向から逆らっている。

1人のあるいは一部の集団の責任を全体に押し付けて、これを抹殺しようとするのは未開人の発想だ。まさにISなどのイスラム過激派の思想とそっくり同じなのだ。第45代米国大統領は、そんな過激思想を隠そうともしないまま、超大国の舵取りを始めてしまった・・

ミラノ北斎展~広重と自我と日本人


北斎展入り口縦400pic


昨年9月からイタリア・ミラノで大きな北斎展が開かれている。12月の初めにそれを見に行った。

ミラノでは1999年に大規模な北斎展が行われて以来、かなり頻繁に江戸浮世絵版画展が開かれていて、浮世絵への理解と関心が高いとされている。

展覧会では葛飾北斎のほかに歌川(安藤)広重と喜多川歌麿の作品も展示されていた。合計の展示数は200余り。僕は3巨匠の作品がこれだけの規模で一堂に会した展覧会を見るのは初めてだった。

展示作品は全て素晴らしかったが、僕は今回は特に、北斎の風景画3シリーズ
「富嶽三十六景」「諸国滝廻り」「諸国名橋奇覧」と、広重の「東海道五十三次」が並ぶように展示されているのがひどく面白かった。

北斎と広重をほぼ同時並行に鑑賞しながらあらためて感じたことがる。それは広重をはるかに凌駕する北斎の力量だ。北斎はドライで造形的、広重は叙情的で湿っぽい、とよく言われるが、僕は北斎は精密とダイナミズムで広重に勝り、人物造形でも広重より現代的だと感じた。

作品群の圧倒的な美しさに酔いしれながら、僕は人の顔の描写にも強く気を引かれた。北斎は遠くに見える小さな人物の顔の造作も丁寧に描いているが、広重はほとんどそこには興味を抱いていない。そのために描き方も雑で、まるで子供が描く「へのへのもへじ」と同じレベルにさえ見える。

多くの絵で確認できるが、特に人物が多数描かれているケースでそれは顕著である。例えば「嶋田・大井川」の川越人足の顔は、ほとんど全員が同じ造作で描かれている。子供の落書きじみた文字遊戯の顔のほうが、まだ個性的に見えるほどの、淡白な描き方なのである。

東海道五十三次は全て遠景、つまり引きの絵である。大写しあるいはクローズアップの絵は一枚もない。そこでは人物は常に景観の一部として描かれる。これは当たり前のようだが、実は少しも当たり前ではない。そこには日本的精神風土の真髄が塗り込まれているのだ。

つまり、人間は大いなる自然の一部に過ぎない、という日本人にとってはごく当たり前のコンセプトが、当たり前に提示されている。そこでは、個性や自我というものは、自然の中に溶け込んで形がなくなる。あるいは形がなくなると考えられるほどに自然と一体になる。

その流れで個性や自我の発現機能であるヒトの表情は無意味になり、その結果が広重の人物の表情の「どうでもよい」感満載の表現だと思う。のっぺらぼうより少しましなだけの、「へのへのもへじ」程度の顔の造作を「とりあえず」描き付けたのが、広重の遠景の人物の表情なのだ。

それらの顔の造作は「東海道五十三次画」全体の精密と緊張、考究され尽くされた構成、躍動感を捉えて描き付けた動きや構図、等々に比べると呆気ないほどに粗略で拙い。作品の隅々にまで用いられた精緻な技法は、人物の表情には適応されていないのだ。

厳密な意味では北斎の表情の描き方も広重と大差はない。が、北斎は恐らく画家としての高い力量からくる自恃と精密へのこだわりから、これを無視しないで表情を描き加えている。だがそれとて自我の反映としての表情、つまり感情の露出した顔としてではなく、単なる描画テクニック上の必要性から描き加えたもの、というふうに僕には見える。

従って、広重よりはましとはいうものの、北斎もやはり人物の顔の描写をそれほど重視してはいない。たとえば彼の漫画などの人物の表情の豊かさに比べたら、たとえ遠景の人物の表情とはいえ、どう見ても驚くほどにシンプルだ。表情の描写には、彼の作者としての熱意や思い入れ、といった精神性がほとんど見られないのである。僕はそこに近代精神の要である“自我”の欠落のようなものを発見して、一人でちょっと面白がった。

私という個人の自我意識によって世界を見、判断して、人生を切り開いていく、という現代人の我々にとって当然過ぎるほど当然の価値観は、西洋近代哲学の巨人デカルトが“我思う、故に我あり”というシンプルな命題に託して、それまでの支配観念であった「スコラ哲学」の縛りを破壊した“近代的自我”の確立によって初めて可能になった。

スコラ哲学支配下の西洋社会では、「個人」と「個人の所属する集団と宗教」は
『不可分のもの』であり、そこから独立した個人の存在はあり得なかった。デカルトが発見した“近代的自我”がそのくび木を外し、コペルニクス的転回ともいえる価値観の変化をもたらした。自我の確立によって、西洋は中世的価値観から抜け出し、近代に足を踏み入れたのである。

日本は明治維新以降の西洋文明習得に伴って、遅ればせながら「自我の意識」も学習し、封建社会の精神風土とムラ社会メンタリティーに執拗に悩まされながらも、どうにか西洋と同じ近代化の道を進んできた。欧米を手本にして進み始めて以降の精神世界の変化は、政治・経済はもとより国民の生活スタイルや行動様式など、あらゆる局面で日本と日本人を強く規定している。

しかし、西洋が自らの身を削り、苦悶し、過去の亡霊や因習と戦い続けてようやく獲得した“近代的自我”と、それを模倣した日本的自我の間には越えられない壁がある。模倣は所詮模倣に過ぎないのだ。それは自我と密接に結びついている、個人主義という語にまつわる次の一点を考察するだけでも十分に証明ができるように思う。

個人主義という言葉は日本では利己主義とほぼ同じ意味であり、それをポジティブな文脈の中で使う場合には、たとえば「いい意味での個人主義」のように枕詞を添えて説明しなければならない。その事実ひとつを見ても、日本的自我はデカルトの発見した西洋近代の自我とそっくり同じものではないことが分かる。デカルトの自我が確立した世界では、「個人主義」は徹頭徹尾ポジティブな概念である。「いい意味での~」などと枕詞を付ける必要はないのだ。

自我の確立を遅らせている、あるいは自我を別物に作り変えている日本的な大きな要素の一つが、多様性の欠落である。「単一民族」という極く最近認識された歴史の虚妄に支配されている日本的メンタリティーの中では、他者と違う考えや行動様式を取ることは、21世紀の現在でさえ依然として難しく、人々は右へ倣えの行動様式を取ることが多い。

それは集団での活動をし易くし、集団での活動がし易い故に人々は常にそうした動きを好み、結果、画一的な社会がより先鋭化してさらなる画一化が進む。そこでは「赤信号も皆で渡れば怖くなく」なり「ヘイトスピーチや行動もつるんで拡大」しやすくなる。その上に多様性が欠落しているためにそれらの流れに待ったをかける力が弱く、社会の排外志向と不寛容性がさらに拡大するという悪循環になる。

多様性の欠落は「集団の力」を醸成するが、力を得たその集団の暴走も誘発し、且つ、前述したように、まさに多様性の貧困故にそれを抑える反対勢力が発生し難く、暴走が暴走を呼ぶ事態に陥って一気に破滅にまで進む。その典型例が太平洋戦争に突き進んだ日本の過去の姿だ。

江戸時代の北斎や広重にはもちろん近代的な自我の確立はなかった。しかし、彼らは優れた芸術家だった。芸術家としての誇りや矜持や哲学や思想があったはずだ。つまり芸術家の「独創を生み出す個性」である。それは近代的自我に酷似した個人の自由意識であり、冒険心であり、独立心であり、批判精神である。

しかし、社会通念から乖離した個性、あるいは“近代的自我”に似た自由な精神を謳歌していた彼らでさえ、自らの作品の人物に「個性」を付与する顔の造作には無頓着だった。僕は日本を代表する2人の芸術家が提示した美の中に、“近代的自我”を夢見たことさえないかつての日本の天真爛漫の片鱗を垣間見て、くり返しため息をついたり面白がったりしたのである。

イタリアの紅白歌合戦「サンレモ音楽祭」の陳腐な凄さ


紅白歌合戦に言及したついでに、僕が勝手に「イタリアの紅白歌合戦」と呼んでいるサンレモ音楽祭についても少し触れておくことにした。

紅白歌合戦とサンレモ音楽祭には多くの共通点がある。両者ともに公共放送が力を入れる歌番組で、60年以上の歴史を誇る超長寿番組である。

どちらも1951年のスタート(NHKは1945年開始という説も成り立つ)。当初はNHK、RAI共にラジオでの放送だったが、NHKは1953年から又RAIは1955年からテレビ番組となった。

国民的番組の両者は、近年はマンネリ化が進んで視聴率も下がり気味だが、依然として通常番組を凌ぐ人気を維持。また付記すると、最近のRAIの番組の視聴率はNHKのそれよりも高い傾向にある。

両者ともにほとんど毎年番組の改革を試みて、たいてい不調に終わるが、不調に終わるそのこと自体が話題になってまた寿命が延びる、というような稀有な現象も起こる。

その稀有な現象自体が実は両番組の存在の大きさを如実に示している。先月の紅白歌合戦は大改革を試みて失敗した(と僕は思う)が、来月7日から始まるサンレモ音楽祭はどうだろうか。

2者はまた似て非なるものの典型でもある。両陣営は相似よりも実は差異のほうがはるかに大きい。

紅白歌合戦は既存の歌を提供する番組。一方サンレモ音楽祭は新曲を提供する。あるいは前者は歌を消費するが後者は歌を創造する。サンレモ音楽祭は音楽コンテストだからだ。

紅白歌合戦がほぼ100%日本国内のイベントであるのに大して、サンレモ音楽祭は国際的な広がりも持つ。つまり、そこでの優勝曲はグラミー賞受賞のほか、しばしば国際的なヒット曲にもなってきた。

古い名前だが、例えばジリオラ・チンクエッティの音楽祭での優勝曲は国際的にもヒットしたし、割と新しい歌手ではアンドレア・ボッチェッリなどの歌もある。個人的には1991年の大賞歌手リカルド・コッチャンテなども面白いと思う。

またサンレモ音楽祭は、欧州全体を股にかけたヨーロッパ最大の音楽番組「ユーロ・ビジョン・ソング・コンテスト」のモデルになるなど、特に欧州での知名度が高い。同時に世界的にも名を知られている。

周知のように紅白歌合戦は大晦日の一回のみの放送だが、サンレモ音楽祭は5日間にも渡って放送される。しかも一回の放送が4時間も続く。つまり紅白歌合戦が5日連続で電波に乗るようなものだ。

好きな人にはたまらないだろうが、僕などはサンレモ音楽祭のこの放送時間の膨大にウンザリするほうだ。しかも番組は毎晩夜中過ぎまで続く。宵っ張りの多いイタリアではそれでも問題にならない。

僕は紅白歌合戦とサンレモ音楽祭の根強い人気とスタッフの努力に敬意を表している。が、紅白歌合戦は日本との時差をものともせずに衛星生中継で毎年見ているものの、サンレモ音楽祭はそれほどでもない。

その大きな理由は、毎日ほぼ4時間に渡って5日間も放送される時間の長さに溜息が出るからだ。しかも翌日にまで及ぶ時間帯に対する疲労感も決して小さくない。

もう一つ僕にとっては重大な理由がある。そこで披露される歌の単調さである。カンツォーネはいわば日本の演歌だ。どれこれも似通っている。そこが時には恐ろしく退屈だ。

もちろんいい歌もある。優勝曲はさすがにどれもこれも面白いものが多い。ところがそこに至るまでの選考過程が長すぎると感じるのだ。

演歌は陳腐なメロディーに陳腐な歌詞が乗って、陳腐な歌い方の歌手が陳腐に歌うところに救いようのない退屈が作り出される場合も多い。カンツォーネも同じだ。

誤解のないように言っておきたいが、僕は演歌もカンツォーネも好きである。いや、良い演歌や良いカンツォーネが好きである。ロックもジャズもポップスも同様だ。あらゆるジャンルの歌が好きなのである。

しかし、つまらないものはすべてのジャンルを超えて、あるいはすべてのジャンルにまたがってつまらない。優れた歌は毎日毎日その辺に転がっているものではない。99%の陳腐があって1%の面白い曲がある。

サンレモ音楽祭も例外ではない。毎日4時間Ⅹ5日間、20時間にも渡って放送される番組のうちの大半が歌で埋まる。だがその90%以上は似たような歌がえんえんと続く印象で、僕にはほとんど苦痛だ。

それでもサンレモ音楽祭はりっぱに生き延びている。批判や罵倒を受けながらも多くの視聴者の支持を得ている。それは凄いことだ。僕は一視聴者としては熱心な支持者ではないが、同じテレビ屋としてサンレモ音楽祭の制作スタッフを尊敬する。

創作とは何はともあれ、「作るが勝ち」の世界だ。番組のアイデアや企画は、制作に入る前の段階で消えて行き、実際には作られないケースが圧倒的に多いからだ。一度形になった番組は、制作者にとってはそれだけで成功なのだ。

そのうえでもしも番組が長く続くなら、スタッフにとってはさらなる勝利だ。なぜなら番組が続くとは、視聴率的な成功にほかならないからだ。サンレモ音楽祭も紅白歌合戦も、その意味では連戦連勝のとてつもない番組なのである。






続: 紅白歌合戦は大丈夫?


紅白歌合戦を批判した前記事に対しては、「仲宗根さんは紅白が嫌いなんですね、悲しいです」という便りもいただいた。読者の方からのコメントは、いつもとても勉強になる。勉強にならなくても示唆に富んでいて、考えるヒントになることが多い。何よりもコメントを下さるということは、僕の下手クソな文章をその方なりにきちんと読んでくれた証拠だから、いつも有難く嬉しい。

しかし「紅白歌合戦が嫌いなんですね」というコメント内容にはちょっと参った。嫌いどころか、僕は紅白歌合戦は好きだからだ。そのことは記事の中でも「~紅白歌合戦は衛星放送で毎年見ている 」「番組の支持者の僕が~」などの表現を筆頭に、論考の随所に示した積もりだった。

2016年の紅白歌合戦に関する僕の批判は、視聴者としてよりも、テレビ番組を作るプロのテレビ屋の立場からの批評だった。それでいながら、あたかも「視聴者の立場からの不満」でもあるような書き方もしてしまったようだ。そこは撤回させていただくと同時にお許しを請いたい。

ここで前記事の批判を一言にまとめれば、要するに「良いアイデアが時間や制作費などの首木のせいできちんと実現されていない。それを知りながら、僕の見解では「知らない振り」で、あるいは「視聴者は気づかないだろう」という、見方によっては思い上がりとも取られかねない心で、「番組を構成し実践した過誤」ということだ。

要するに演出スタッフは、彼らが思いついたすばらしいアイデアである「ゴジラを(紅白歌合戦の)歌で退治する」というコンセプトを、バカになって子供のように純粋に、明るく楽しくバカバカしく提供することができなかった。つまり、繰り返しになるが、「バカになり切れていなかった」ということだ。

また、タモリ&マツコは、そこに「置物」として置いておいても面白いマツコを、タモリと共に「ブラタモリ」させることで受けを狙ったものの、恐らくリハーサルに多くを割けなかった時間の制約と、「一体何を見せたいのだろう?」と最後まで疑問が残った、設定の根本的な誤りでコケた。

ブラタモリは歩いて色々なことを「発見」するのに、コウハクタモリは番組の外で
「迷子」になった。それは2人が紅白会場に入れなったという設定のことではなく、シークエンスの全体が場違いで、木に竹を継いだ形の深刻な構成上の失敗、という意味だ。換言すれば台本が熟(こな)れていなかった。

あれこれといいたいことを言ってきたが、何事につけ実際に制作をすることと批評は別物だ。テレビでも文章でも映画でも、あらゆる創作は難しい。それを批評するのは、引退した平幕力士が横綱大関の相撲を上から目線で解説するのに似て、ちょっと悲しく滑稽でもある。

大相撲の解説者よりは現役力士のほうが大変だ。テレビ番組の批評家よりは制作現場のスタッフのほうが苦しい。現実に作っているからだ。そしてあらゆる創作は「作った者の勝ち」、というのが実際に制作現場に立ってきた僕の実感だ。

批評家がいなくても制作者は存在できるが、制作する者がいなければ批評家は生きていけない。批評する対象がないからだ。そういう意味では批評家ほど軽い悲しい存在はない。しかし、批評家はまた、制作者を褒めたりけなしたりすることで創作を鼓舞する、創作周りの重要な「創作構成要素」でもあり得る。

僕は紅白歌合戦という大番組が、毎回毎回懸命に進化を試みる姿に頭が下がる思いでいる。2016年は特に懸命さが際立っていた。テレビに関しては、僕は実作者で批評家ではないが、微力且つ僭越ながらあるいは次の進化の試みに資するかもしれない、と考え批評じみたものを書いてみた。

ここからは僕が紅白歌合戦を好きな証拠を挙げて、冒頭の読者の方の疑問に応えたい。

マンネリといわれる紅白歌合戦は、僕にとっては実はいつも新しい部分がある。つまり日本の今の音楽シーンに疎い僕は、大晦日の紅白歌合戦を見て今年のヒット曲や流行歌を知る、ということが多いのだ。例えば先日の紅白歌合戦では、混成(?)AKB48やRADIO FISHや桐谷健太などを初めて知った。

その流れでいえば、過去にはPerfume、いきものがかり、ゴルデンボンバー、きゃりーぱみゅぱみゅ、斉藤和義なども紅白歌合戦で初めて見て、「ほう、いいね」と思い、それ以後も機会があると気をつけて見たり聞いたりしたくなるアーティストになった。

数年前はこんなこともあった。たまたま録画しておいた紅白での斉藤和義「やさしくなりたい」を、僕の2人の息子(ほぼ100%イタリア人だが日本人でもある)に見せた。すると日本の歌にはほとんど興味のない2人が聞く先から「すごい」と感心し、イタリア人の妻も「面白い」と喜んだ。それもこれも紅白歌合戦のおかげだ。

また、懐メロという言葉はもはや死語かもしれないが、かつてのヒット曲や歌い手をあらためて見、聞くというのも疑いようのない紅白の楽しみの一つだ。極めて個人的なことをいえば、若いころはほとんど興味がなかった演歌の良さを知ったのも、僕の場合は紅白歌合戦だ。

先日の紅白歌合戦でも歌の部分は例年通りに楽しんだ。好きな歌はじっくり聴き、そうでもない場合は流して眺めた。何事もないいつも通りの年末なら一杯やりながら紅白を楽しみ、ゆく年くる年を見て一年を終える、という陳腐なパターンが僕の大晦日の習わしでもある。実に日本的なのだ。

世界各国の日本人移民の間には、日本の伝統や文化が日本以上によく残っていることが多い。故国日本への思慕が深いからだ。紅白を楽しむ僕の中にも、そんな移民メンタリティーが育ちつつあるのかもしれない。だから紅白の“新しい試み”だった「ゴジラ企画」と「タモリ&マツコ」に違和感を覚えたのかも、とも考える。



グワンバレNHK~でも紅白歌合戦は大丈夫?


2016年大晦日、朝の11時過ぎから日本と同時放送のNHK紅白歌合戦を見た。日本と8時間の時差があるイタリアでは、衛星を介しての生中継はそんな時間になるのだ。

見ている途中も、見終わってからも、「紅白歌合戦、大丈夫?」と思った。

僕は紅白歌合戦をよくイタリアの「サンレモ音楽祭」に重ね合わせて見る。2者はマンネリ感と時代遅れ感がよく似ていて、視聴率も下がり気味だが、依然として決して無視できない人気を保っている。

また僕は両者をそれなりに評価していて、サンレモ音楽祭はあまり見ないものの紅白歌合戦は衛星放送で毎年見ている。でも、NHK大丈夫?と心配になったのは今回が初めてだ。

番組の支持者の僕が不安になったということは、それを強烈に支持した人もまたきっと多かったに違いない。そこに期待しつつ、圧倒的にネガティブな感想を持った自分の意見を書いておくことにした。

僕は「シン・ゴジラ企画」と「タモリ&マツコ」の2要素がひどく気になった。特にゴジラのシークエンスでは僕の頭の中に「?」マークが幾つも点灯した。作っているスタッフが、その場面を信じていない、あるいは愛していない、と感じたのだ。

紅白歌合戦はエンターテイメントなのだから、バカになるなら真剣にバカになるべきだ。あるいはスペクタクルを目指すなら、批判を覚悟で制作費をどんと使って大イベントを演出するべきだ。成功すれば批判は必ず賞賛に変わるのだから。

ゴジラのエピソードにはそのどちらもなかった。スタッフは真剣ではなく、制作費もお粗末なものであろうことが分かった。

スタッフは、もちろんプロとして真剣に仕事をした。だが彼らはゴジラが渋谷に向かって進攻していて、歌でやっつけることができる、というコンセプトを信じてなどいなかった。つまり本気でバカになり切っていなかった。だからその部分では真剣ではなかった。

そのためにゴジラの場面はアイデアだけが先走って、出てきたものはアマチュアの演劇並みの稚拙なシーンの連なりになった。言い換えれば「クサイ話」になった。視聴者はたぶん僕と同じく「?」マークを覚えながら、NHKがやることだから理解できない自分が悪いのだろう、と思って目をつぶったのではないか。

何もかもが中途半端で、結果、みすぼらしくなった。演出スタッフに「照れ」があり「気取り」があるのが最大の失敗だった。言葉を変えれば演出スタッフ(特にディレクターとその周りのプロデュサー)は、荒唐無稽な話を荒唐無稽な話、と意識したままエピソードを作っていた。

あるいは(こんなバカ話は実は俺たちは信じていない)という思いがありありと出ていた。制作者自身が信じていない話を、視聴者が信じるわけがない。しかしポイントは視聴者がその内容を信じることではなく、「制作者がバカ話を真剣にバカになって作っている」と視聴者が感じるかどうかだ。

制作者がバカ話を真剣に捉えて、誠心誠意、気持ちを込めて真剣に作っていることが分かれば視聴者は納得し、面白がり、心を揺さぶられる。バカ話であればあるほどスタッフは「真剣にバカになる」必要がある。バカ話をふざけた軽い気持ちで作ってはならないのだ。

つまり、「すばらしい歌を聴くとゴジラは死ぬ(ゴジラのパワーがなくなる)」というコンセプトをスタッフは、特に演出家は、腹から信じて真剣に作らなければ道半ばになって失敗する。ゴジラが歌で破壊される、というアイデアが信じられないなら演出をするべきではない。信じなければうまく演出ができないからだ。

スタッフの「照れ」はなかったが、「タモリとマツコ」も制作コンセプトが徹底しない大失策だったと思う。面白くしたい、という作り手の強い思いは十分に伝わってきた。同時に「どうだ面白いだろう」という彼らのドヤ顔もそこに見えるようでシラけた。

それらのシーンは恐らく、打ち合わせやリハーサルの段階では面白かったのだろう。タモリとマツコのやり取りに、もしかすると、出演者も制作スタッフも結構笑ったのではないか。それで彼らは自信をもってあの恐ろしくも退屈で、場違いで、未成熟なシーンを電波に乗せてしまった。

下手くそなディレクターである僕の、大して多くもない似たような演出の体験から言わせてもらえば、制作現場でスタッフが笑い転げるコメディーのシーンは、実際に電波に乗るとたいていコケる。スタッフが楽しんでしまって視聴者が見えなくなるのだ。視聴者を笑わせたり楽しませたいなら、スタッフは現場で笑ったり楽しんではならない。苦しむべきだ。制作の真剣とはそういうことだ。

NHKの優秀なスタッフがそのことを知らない筈はない。だが彼らは見事にその落とし穴にはまったようだ。スタッフは、あるいは現場で、タモリのカリスマ性に催眠状態にさせられたのだろうか。そうでもなけれなあれだけつまらないシーンやエピソードが、あれだけ自信たっぷりに放送されるわけがない、と感じた。

念のために言っておくが僕はNHKのファンである。ファンとはプロのテレビ屋としても、また一視聴者としても、という意味である。僕は下手くそなディレクターながら仕事でもNHKには大いにお世話になった。

だから言うのではないが、NHKは世界の公共放送の中でも優れた番組を作る優れた放送局の一つだ。報道ドキュメンタリー系の番組は、イギリスのBBCに肉薄するものも多いと思うし、ドラマも面白い。エンターテイメントも質の良いものが多い。

一方NHKは、たとえば先ごろ退任が決まった籾井さんのようなトンでも会長がいたり、BBCとは違って政権に臆することなく物申すことができなかったり、予算の問題で批判を浴びるなど、もちろん課題も多い。しかし、例えばここイタリアの公共放送RAIなどに比べればはるかに良心的だ。

僕はRAIの民営化には賛成だが、NHKの民営化には反対の立場でさえある。RAIはドキュメンタリーや文化番組が極端に少なく、トークショーやバラエティ番組が異様に多い。また視聴者に受信料を課しながらCMもがんがん流す、といういい加減な公共放送局だ。その部分ではNHKには比ぶべくもない。

また、民放がたくさんある日本で、もう一つの民放などいらない、というのも僕がNHKの民営化に反対する理由だ。NHKは民放の持つしがらみから自由だからこそ価値がある。ある種の人々からの強い批判を覚悟で断言するが、NHKは日本の宝だ。BBCが英国の宝であるように。

そこを確認した上で言いたい。紅白歌合戦は開き直って徹底した改革ができないのなら、規模を縮小しターゲットも絞って再出発したほうが良いと思う。たとえば番組のコンセプトを若者向けか年配者向けかに決め、それに合わせて演歌や懐メロ三昧なり、ポップス系なりの歌番組に徹底するなどの方法だ。

多様性が進んだ今の時代に、「国民の大多数」によく受ける歌番組なんてある筈がない。存在しないコンセプトを追いかけて規模を無理に広げるのは苦しい。ここイタリアの紅白歌合戦、前述の「サンレモ音楽祭」も時代遅れになった。改革は失敗しつづけ、老舗番組は「ただ存続しているだけ」、というふうになった。

紅白歌合戦も、毎年姑息な「変化努力」で誤魔化すことはやめて、思い切って番組を縮小し、前述したようにターゲットを視聴者の一定層に絞り込んで出直したらどうだろうか。中途半端な改革は結局、必ず中途半端な番組しか生み出さないのだから。

珍説:マフィアがイタリアのテロを防ぐ Ⅱ



イタリアでイスラム過激派によるテロが発生していないのは、イタリア警察が頑張っているからである。マフィアがテロを防いでいるなどという説は、イタリア=マフィアという先入観に毒されたテンプラに過ぎない。

そのことを確認した上で、いくつかの所感あるいは疑問点も、ここに記録しておこうと思う。

イタリアはもう長い間イスラム過激派からテロの脅迫を受け続けている。それでも一度も事件が起きないのは、あるいはイタリアには攻撃するだけの価値がない、とテロリストが見なしているからかも知れない。

つまり、パリやロンドンやブリュッセル、あるいはベルリンを攻撃するほどの「宣伝価値」がない、と彼らが考えていることだ。ローマを始めとするイタリアの多くの有名観光都市は、政治的に見て価値が低い、と彼らが独自の評価をしていないとは誰にも言えない。

次は幸運な偶然が重なってテロが避けられている可能性。たとえば12人が死亡し50人近くが重軽傷を負ったベルリンのトラック・テロ犯、アニス・アムリは、5日後にイタリア北部の街セスト・サン・ジョヴァンニで警官に射殺された。

ミラノ近郊のセスト・サン・ジョヴァンニは、共産党の勢力が強いことからかつて
「イタリアのスターリングラード 」とも呼ばれた街だ。現在は中東やアフリカからの移民が多く住む多文化都市になっている。大きなムスリム共同体もある。

そこにはミラノ発の地下鉄の終着駅があり、南イタリア各地とモロッコ、スペイン、アルバニアなどへの長距離国際バスの発着所もある。いわば交通の要衝都市だ。アニス・アムリは2011年にチュニジアからイタリアに入り、投獄の経験などを経て北欧に向かった。

ベルリンでの犯行後、フランス経由でイタリアに戻った彼は、セスト・サン・ジョヴァンニ駅近くで職務質問をされて、警官に向かって発砲。銃撃戦の末に死亡した。彼はムスリム共同体のあるセスト・サン・ジョヴァンニで仲間と接触しようとしたと見られる。

テロリストはそこで何らかの準備をした後、セスト・サン・ジョヴァンニからバスでモロッコに出て、故国のチュニジアに逃亡しようとしたのかも知れない。あるいは前述したように、イタリアでのテロを画策していたのが射殺されて潰えたのかもしれない。

アムリの死によって彼が計画していたイタリアでのテロが未然に阻止されたなら、それは偶然以外の何ものでもない。そしてもしかすると、同じようなことがそこかしこで起こっているかもしれない。おかげでイタリアはテロから免れている。

イタリアならではの次のようなシナリオの可能性も皆無ではない、と僕は考えている。イタリア共和国と警察当局が、彼らの対テロ作戦にマフィアを組み込んでうまく利用している。その場合はマフィア以外の組織、つまりンドランゲッタやカモラなどのネットワークも使っているかもしれない。

1980年代、マフィアはイタリア国家を揺るがす勢いで凶悪犯罪を重ねた。彼らは国家を脅迫し、国家との間に犯罪組織を優遇する旨の契約を結んだとさえ言われた。だが90年代に入ると形勢は逆転。最大のボスであるトト・リイナを始めとする多くの幹部も次々に逮捕されて弱体化した。

それでもマフィアは健在である。しかし、現在は国家権力が彼らの優位に立っているのは疑いようがない。したたかな権力機構は、80年代とは逆にマフィアを脅迫、あるいはおだてるなりの手法も使って、組織を対テロ戦争の防御壁として利用している可能性もある。

そこには、かつてマフィアと国家権力との間に結ばれた、契約なり約束に基づいた了解事項あるだろう。それが何かは分からないが、かつて2者の間に何らかの合意があった、という説は執拗に生きている。ナポリターノ前大統領は「イタリア共和国とマフィアとの間には約定はない」と公式に表明しなければならないほどだった。

合意そのもの、あるいはその名残のようなものの存在の是非はさて置くとしよう。もしもテロ対策に長けたイタリア治安当局が、マフィアに何らかの便宜を図る司法取引を持ちかけて、密かに彼らをイスラム過激派との戦いに組み入れているのならば、それはイタリア国家と警察機構の狡猾と有能を示す素晴らしい動きだ。

イタリア警察はここまでテロを未然に防いできた。だが今後はどうなるかは誰にも分からない。前述の作戦が秘密裏に展開されているなら、「国家と犯罪組織の共謀」という大いなる不都合にはしばらく目をつぶって、テロの封じ込めを優先させるべき、と考えるのは不謹慎だろうか?

珍説:マフィアがイタリアのテロを防ぐ


僕のブログの読者の方から「イタリアでテロが起きないのはマフィアがいるから、と聞きましたが本当でしょうか。できたらそのことについて書いてください」という連絡をいただいた。

僕はおどろき、苦笑しつつその情報の出所を探したがよく分からなかった。よく分からないが、イタリア=マフィアという、いつものステレオタイプに根ざしたヨタ話の類であろうことは想像ができる。

先ず一番考えやすいのは、テロ=犯罪(犯罪組織)=マフィアという図式から導き出す浮薄な論考である。犯罪組織であるマフィアは同じ犯罪組織であるテログループ、あるいはテロ犯がイタリアに侵入するのを嫌ってこれを殲滅する、という主張あたりだろうか。

イタリアには3大犯罪組織がある。マフィア(コーザノストラ)、カモラ、ンドランゲッタである。これにサクラ・コローナ・ウニタを加えて4大組織と考える場合もある。それらの犯罪集団は全て経済的に貧しいナポリ以南の各地を拠点にしている。ローマに根を張る別の組織もある。

彼らはそれぞれをの縄張りを互いに尊重し合い、縄張り外に進出する場合も基本的には衝突を避ける形でしのぎを削っている、とされる。だがその実態は正確には分からない。ライバル組織同士がぶつかる、といった事件がほとんど無い事実がその推測を呼ぶのである。

さて、マフィアがテロを防ぐ、という時のマフィアとは歴史や勢力図などから見て、シチリア島が拠点の「本家マフィア」のことだろう。それは最も勢力が大きく、アメリカのマフィアとも親戚筋にあたる。彼らは欧州にも世界各地にも根を張っている。そのマフィアがテロを阻止している、ということなのだろう。

だがそれはお門違いの論法だ。なぜならマフィアはむしろテロ組織との共謀を模索している、と見るほうが妥当だからだ。マフィアはテロが横行して国が混乱する方が嬉しいのだ。それだけ彼らの悪行が成就しやすくなり、彼らに対する官憲の追及もテロ対策に忙殺されて緩む。

事実、イタリア国家と治安機関がISを始めとするイスラム過激派組織の台頭に最も神経を尖らせるのは、彼らのイタリアへの直接攻撃はもちろんだが、テロ組織とマフィアなどの犯罪組織が手を結んで社会を混乱させ、利益を挙げようと画策することである。

マフィアがテロ組織と手を結びたくなるインセンティブは、イタリア国内での犯罪・利権漁りに留まらない。彼らはテロ組織と共謀して、主に北アフリカの国々に勢力を拡大したいと渇望している。そこにはリビアやチュニジアなどを筆頭に、歴史的にイタリアと関係が深いアラブ諸国が幾つも存在する。

それらの国々の多くは、イスラム過激派やテロ組織の巣窟でもある。彼らがマフィアの手助けをする見返りに、マフィアはテロ犯の動きをイタリア国内で助ける、という図式が警察当局の最も恐れるものなのだ。マフィアはテロを阻止するのではなく、むしろ鼓舞するのである。

イタリアの犯罪組織の中では、シチリアを拠点にするマフィアが圧倒的に強かったが、近年は半島南部のプーリア州に興ったンドランゲッタが急速に勢いを増している。マフィアも押され気味だ。ンドランゲッタは北部イタリアのミラノなどでは、マフィアを凌ぐ勢力になったのではないか、とさえ見られている。

加えてイタリアがEU(欧州連合)の一員であるために、欧州全域からのマフィアへの風当たりが強くなって、そこでもマフィアは四苦八苦している。そんな折だから、マフィアはイスラム過激派と組んで、彼らの得意な麻薬密売や密貿易や恐喝、また無差別殺戮の爆弾テロなどを縦横に遂行したい気持ちが山々なのだ。

イタリアの官憲は「イタリアらしく」のんびりしていて厳密さに欠ける、というステレオタイプな見方がある。ステレオタイプには得てして一面の真実が含まれる。だがテロ抑止に関しては、彼らはきわめて有能でもある。それがここまでイタリアにテロが発生していない理由だ。

具体的に見てみよう。カトリックの総本山バチカンを擁するイタリアは、これまでに繰り返しイスラム過激派から名指しでのテロ予告や警告を受けてきた。それにもかかわらず、未だに何事も起こっていない。2015年には、半年にも渡って開催されたミラノ万博の混乱も無事に乗り切った。

また万博終了直後から今年11月20日までのほぼ一年間渡って催された、バチカンのジュビレオ(特別聖年)祭の警備も無難にこなした。ジュビレオでは2000万人余りのカトリックの巡礼者がバチカンを訪れた。そこに通常の観光客も加わって混雑したローマは、テロリストにとっては絶好の攻撃機会であり続けた。が、何事もなく終わったのだ。

また、国際的にはほとんど報道されることはないが、軍警察を中心とするイタリアの凶悪犯罪担当の治安組織は、実は毎日のようにイスラム過激派の構成員やそれに関連すると見られる容疑者を洗い出し、逮捕し、国外退去処分にしている。このあたりは警察を管轄するシチリア出身のアンジェリーノ・アルファーノ前内務大臣の功績が大きい、と僕は個人的に考えている。

イタリアの官憲は、たとえば車で言えばアルファロメオだと僕は思う。イタリアの名車アルファロメオは、バカバカしいくらいに足が速くて、レースカーのようにスマートで格好がいい。ところがこの車には笑い話のような悪評がいつもついてまわる。いわく、少し雨が降るとたちまち雨もりがする。いわく、車体のそこかしこがあっという間にサビつく、云々。「突出しているが抜けている」のである。

イタリアの官憲もそれに似ている。テロを見事に防いでいるのがアルファロメオの抜群の加速性であり美しいボディーだ。一方、追い詰めたコソ泥やマフィアのチンピラに裏をかかれて慌てふためいたりする様子は、雨漏りや車体のサビとそっくりだ。幸いこれまでのところは官憲の突出部分だけが奏功して、イタリアにはテロが起こっていない。

そこには本当にマフィアの功績はないのか、と言えば実は大いにある。つまりイタリア警察は、長年に渡るマフィアとの激しい戦いのおかげで、彼らの監視、捜査、追及、防止等々の重要な治安テクニックを飛躍的に発展させることができた。その意味では「マフィアがイタリアのテロを防いでいる」という主張も、あながち間違いではない、と言えるかも知れない。


クリスマスに仏教を思い神々を思う幸い


今年のクリスマスも静かに過ぎた。

クリスマスの朝は、久しぶりに家族とともに教会のミサに出かけた。最近、地区の教会の主任司祭(神父)が20年ぶりに替わった。そこで新任の神父さんにできればお目通りを、と考えたのである。

人が多過ぎたので神父との直接の顔合わせはかなわなかった。しかし、何かの行事で近いうちに必ず会うことになるだろうから、一向にかまわない。その日はすぐに帰宅した。

ミサの間中、とはいわないが、大半の時間を神父の講話内容とは別の物思いにふけって過ごした。もっともそこは教会なので、神や宗教と自分のことを考えるのは全て関連性がある、とも言える。

クリスマスにはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもする。それはしかし僕にとっては、困ったときの神頼み、的な一過性の思惟ではない。  

僕は信心深い人間では全くないが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考える。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいだろう。クリスマスのミサの最中の考え事も、そんな僕の習癖のひとつに過ぎない。

上の息子が中学に上がるか上がらないかの年頃だったと思う。同じ教会における何かの折のミサの途中で、彼が「お父さんは日本人だけど、ここ(教会)にいても大丈夫?」と僕にささやいた。

大丈夫?とはクリスチャンではない(日本人)のに、お父さんはここにいては疲れるのではないか。あるいはもっと重く考えれば、クリスチャンではないお父さんはここにいて孤独感を覚えているのではないか、という息子から僕への気遣いである。

僕は成長した息子におどろいた。気遣いをよくする子供だから気遣いそのものにはおどろかなかった。だが、そこにあるかもしれない教会+信者と、信者ではない者との間の「齟齬の可能性」に気づいた息子におどろいたのだ。  

僕は彼に伝えた。「全然大丈夫だよ。イエス・キリストは日本人、つまりキリスト教徒ではない僕をいつも受け入れ、抱擁してくださっている。だからお父さんはここにいてもOKなんだ」それは僕の嘘偽りのない思いだった。

イエス・キリストは断じて僕を拒まない。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからだ。もしもそこでキリスト教徒ではない僕を拒絶するものがあるとするなら、それは教会であり教会の聖職者であり集まっている信者である。

だが幸い彼らも僕を拒むことはない。拒むどころか、むしろ歓迎してくれる。僕が敵ではないことを知っているからだ。僕は僕で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っている。

僕はキリスト教徒ではないが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きている。従ってこの国に住んでいる限りは、一年を通して身近にあるキリスト教のあらゆる儀式や祭礼には可能な範囲で参加しようと考え、またそのように実践してきた

人はどう思うか分からないが、僕はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚している。言葉を変えれば僕は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのである。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンである。同時に僕は、仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」である。その状態を指して僕は自分のことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼ぶ。

なぜキリスト教系や神道系ではなく仏教系無神論者なのかといえば、僕の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来る。だが僕は先祖崇拝者ではない。先祖は無論「尊重」する。それはキリスト教会や聖職者や信者を「尊重」するように先祖も尊重する、という意味である。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味だ。僕にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではない。

僕が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体だ。教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設である。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践する。また寺は仏陀を、神社は神々を同様に解釈し規定し実践する。

それらの実践施設は人々が作ったものだ。だから人々を尊重する僕はそれらの施設や仕組みも尊重する。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではない。僕が信奉するのは人々が解釈する対象自体なのだ。

そういう意味では僕は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があるとも考えている。だが前述したようにイエスも、また釈迦も自然も僕を拒絶しない。僕だけではない。彼らは何ものをも拒絶しない。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然である。だから僕はそれらに帰依するのである。

言葉を変えれば僕は、全ての宗教を尊重する「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり、「釈迦を信奉する仏教徒」である。同時に「自然あるいは八百万神を崇拝する者」つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもある。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろう。

僕はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかならない。


申し訳ないが今のところ「中国が嫌いなイタリア」は割りと好きです


2年前、アメリカの調査機関が世界44カ国で行った世論調査で、中国が嫌いな国民のトップ3が日本の91%、ベトナム78%、そして3位が意外にもイタリアの70%と出た。

それを見て僕は、われながら大人気ないと思いつつ「中国が嫌いなイタリアが好き」とあらためて感じ、その趣旨でブログ記事を書き出した。が、やはりひどく「大人気ない」と感じて途中でやめた。

ところが先日、中国政府が大都市住民を地方に移住させる計画を立てて、「市民の意思にはお構いなく家を壊しては人々を追い立てている」という事実を知り、忘れていた中国への不信感がよみがえった。

そこで2年前と同じ調査機関のリサーチを覗いてみた。すると中国が嫌いな国の1位は、2016年もやはり日本で86%。2位はフランスとイタリアの61%。続いてドイツの60%などとなっている。

イタリアの中国嫌い度は70%から下がったが、それでもかなり高い数字だ。フランスは2014年は53%で10位だったが、今年は中国嫌いの人が増えた。またドイツは、2014年時も中国が嫌いな人が64%にのぼっていた。

ところで今年は、中国を好きと答えた国々もギリシャやオーストラリアでは50%を越え、オランダ、カナダ、ハンガリーでも40%を越えたことは付け加えておきたい。

僕は中国という多くの優れた思想文化や実学・技術文明を生み出した国を尊敬している。同時に近年は、増長したのか覇権主義に走ったり、人権を踏みにじりつつ詭弁を弄して立ち回ったりする姿には失望も覚える。

そんな折の2年前、日本国民の91%とべトナム国民の78%に続いて、イタリア国民の70%が中国に嫌悪感を抱いているという数字に接し、胸中で「さもありなん」と呟いたものだ。

日本やベトナムは中国の覇権主義の直截あるいは潜在的な脅威にさらされている。従って両国の国民が中国への不信感を募らせるのは理解できることだ。だが中国から遠い欧州に位置しているイタリア国民の、強い「嫌中国」感情は一見奇妙だ。

イタリア国民が中国を疎ましく思うのは、実は中国移民への負の感情によるところが大きい。イタリアには国中に中国人移民が溢れている。ところが彼らは圧倒的な人数でこの国に押し寄せているにも関わらず、全くと言ってよいほどイタリア社会に溶け込まない。

たとえばミ ラノには華僑が集中するチャイナタウンがある。そこは中国人が固まって好き勝手に生きる無法地帯としてイタリア人の不評を買うことも多い。チャイナタウンをミラノ郊外に丸ごと移転さ せようとする計画さえあるぐらいだ。

イタリア政府は世界のあらゆる国々と同様に、中国の経済力を無視できずに彼の国に擦り寄る態度も時々見せる。しかし国民は、ミラノに限らずイタリアの多くの街や地域で増え続ける、中国人移民に恐れをなしているのも事実だ。

世界には中国人移民が多く進出している。イタリアも例外ではない。今言ったミラノを筆頭におびただしい数の中国人が流入して、合法・違法を問わずに住み着き、就労し、商売をしている。

ところが彼らは、前述したように、全くと言って良いほどイタリア社会に溶け込んでいない。その努力をしている気配さえあまり感じられない。彼らだけの閉鎖社会内で寄り添って群れている印象が強い。

中国人移民のほとんどは、社会参画あるいは市民相互の融合という意味では、たとえば僕もその一人である「日本人移民」と比べても分かりにくい存在だ、と多くのイタリア人知己や友人らが言うのも事実だ。

それはひとえに、日本人が多くの場合イタリア社会に溶け込んでいるのに比べ、彼らがそうしないことに由来している。日本人も同胞同士で固まることはもちろんある。だが同時にイタリア社会にも馴染んでいるのが普通だ。

現地社会とほぼ完全に没交渉でありながら彼らは、全ての移民がそうであるように、イタリア社会の恩恵にも浴して生きている。つまりこの国に住まい、商売をし仕事をして、社会保障の恩恵も享受する。それでいながら税金は払わないなどの不都合も目立つ、とも陰口される。

それが事実ならイタリア市民が怒るのも無理はないだろう。もっともそうした悪口には、法に則って居住しビジネスを行い、納税などの義務もきちんと果たしている多くの中国人の存在が、すっぽり抜け落ちている、というのが定番だけれど。

ところで、アメリカの調査機関による分析でイタリア人の反中国感情が高いのは、イタリア国民が持つ日本への共感の裏返し或いは反映ではないか、という意見もよく聞く。しかし、それは見当違いな考え方だろうと思う。

イタリア人の大多数は日本人が好きだし、日本国とイタリア共和国も友誼に富む良好な関係にある。が、彼らの中国嫌いの心情は、飽くまでもイタリア人自身の中国への直接な思いであって、日本との関連はないと見るべきだ。

また、かつてのいわゆる日独伊三国同盟の名残からイタリア人が日本人の肩を持つ、という考えも的を射ているとは言い難い。そんな歴史にロマンを感じる風潮がイタリアに皆無とは言えないが、それは先の大戦を経験した極く少数の老人などが持つ稀な感情である。

イタリア人の日本への好感は、戦後の平和主義とそれに伴う経済成長と謙虚な国民性などによるものである。それがあるからイタリアファシズムという悪と日本軍国主義という悪が手を結んで戦った恥辱の歴史もほぼ帳消しになって、未来志向のポジティブな関係また感情が構築されてきた。

現在イタリア人が持つ日本へのネガティブなイメージは、他の多くの欧米諸国同様に、右カーブ一辺倒の政策を続ける安倍政権への危惧ぐらいのものだ。それとて安倍首相個人を極右に近いナショナリストと見なして監視している、というのが実情で日本国民への好感度は相変わらず高い。

閑話休題

アメリカの調査機関が導き出すイタリア国民の中国観には違和感もある、というのが実は僕の正直な思いである。イタリア人は古代ローマ帝国以来培ってきた自らの長い歴史文明に鑑みて、中国の持つさらに古い伝統文明に畏敬の念を抱いているのが普通だ。

言葉を換えれば彼らは、ローマ帝国の師とも言える古代エジプトにも匹敵する叡智を生んだ中国の歴史に親近感を抱いている。それが突然「嫌中国」感情一色に変わったように見えるのは不思議だ。にわかには信じ難い現象だと思った。だがそれが現実なのである。

イタリアの巷に溢れる中国人移民の動静に加えて、彼らの故国、「中国の国のあり方」もイタリア国民の眉をひそめさせる。つまり国際慣例や法令をないがしろにしたり、覇権主義に走って国際秩序を乱したりしがちな、今この時の中国の実態である。

放埓な共産主義国家と移民のイメージは残念ながら、偉大な世界文明の一つを紡いだ中国の長い輝かしい歴史を否定し、忘れさせるに十分な程のインパクトを持っている。しかもそれはイタリアに限らず欧州の殆どの国々にも当てはまる現実なのだ。

それらの嫌中国、反中国人感情はあってはならない残念なものだ。中国政府と中国国民は、人の良いイタリア人でさえ彼らを嫌悪するケースが多々ある、という深刻な事態にそろそろ気づくべきだ。気づいてそれを修正するべく適切な道を模索するべきだ。

これは決して偽善から言うのではない。そうすることが中国の為になることであり、ひいては日本の利益にもなり、イタリアそして世界全体にも資することになるのだ。中国が大国としての尊敬を集めたいのであれば、そんな当たり前の真実にしっかりと目を向けるべきだ。

このままだと中国は世界からそっぽを向かれかねない。あるいはそっぽを向かれ続ける。そして世界には、日本の極右陣営を始めとして、そうあることを強く望んでいる勢力が多々ある。中国が彼らを利することを潔しとしないなら、その旨しっかりと道を定めて進むべきだ。

似て非なるソックリさん~トランプ&ベルルスコーニ

鏡絵の二人

オワコンvsトレンド

トランプ米次期大統領とイタリアのベルルスコーニ元首相の間には共通点が少なくない。前者はこれから昇り竜の勢いで恐らく世界を席巻し、後者は自らが前者に例えられることを喜んでいる事実からも察せられるように、すでに終わった人と見なしても構わないと思う。それでも、たとえば12月4日に行われたイタリア国民投票のように、紛糾する同国の政局に於いては、依然として影響力を行使政する治家である。事態の是非や好悪の念は別にして、何かと話題になる2人について少し考えてみたい。

ベルルスコーニ元首相への評価は、約20年に渡ってイタリア政界を牛耳り、3回計9年間も首相を務めた時間の重さの割には、極めて低いと言わざるを得ない。将来の歴史家がどこかで違う評価を下す可能性は常にあるが、彼が自らの刑事訴訟を回避する法律を作ったり、巧妙に所有企業への便宜を図るなど、私利私欲のために立ち回った政治スタンスと、裁判沙汰や未成年者買春疑惑などを始めとするスキャンダルの多さは、あまたの批判を喚起するのが普通だ。

一方のトランプ氏は、政治家としてしてはまだ何も成就しておらず、選挙キャンペーン中に彼が提示した政策は、政策と呼ぶには程遠い罵詈雑言やヘイトスピーチや誹謗中傷の類だった。従って2人は政治家としても、また政策上でも相似点や異なる点は今のところは何もない。彼らが似ているのは、政治の世界に乗り出したきっかけや背景や人となりや思想信条などである。それでも政治的にはほぼ終わったベルルスコーニ氏をつぶさに見ることで、トランプ氏の政治家としての未来を占うことはできるかもしれない。

2人の共通点:実業家

共に成功した実業家で大金持ち。どちらも政治家としては未知数、という状況でそれまでのビジネスでの成功を頼みに政治の世界に殴り込みをかけた。それでいながら、ベルルコーニ氏は政界入りから間もない速さで政権を奪取、また周知のようにトランプ氏は、不可能にも見えた共和党大統領候補の座を射止めるや否や、アメリカ大統領へと一気に駆け上っていった。

双方とも建設業を足がかりに、ベルルスコーニ氏はテレビ網や出版また新聞社などを所有してメディア王と呼ばれるようになり、トランプ氏は不動産王と称される事業家になると同時に、テレビタレントとしても成功した。前者はメディアの中でも特にテレビを重視。自らも頻繁にテレビに出演して、討論や演説で自説を開陳しまくった。2人共にテレビに深い縁を持ち、視聴者ひいては世論を味方につけるメディア操作術を得意とする。

艶福家&偏好発言

文学的(?)に言えば性愛好き。つまり好色家。女性蔑視と見られても仕方のない行状や暴言やジョークを連発して、顰シュクを買いつつも少しも悪びれず、むしろそれを特技に変えてしまうかのような悪運の強さがある。トランプ氏は3回結婚。ベルルスコーニ氏も2回の離婚歴があり、御ン年80歳の現在はほぼ50歳年下の婚約者と同棲している。

漁色が高じて、ベルルスコーニ氏は少女買春疑惑を始めとするセックススキャンダルにまみれ、私邸での「ブンガブンガ」乱交パーティーは流行語にもなった。またトランプ氏は選挙期間中に多くの女性への性的虐待疑惑が明るみに出るなど、両人とも女好きでありながら同時に女性の精神性や能力を蔑視するような、いわゆるミソジニストの側面を持っていると批判される。

2人とも反移民の立場を取り、人種差別主義者、また特にイスラム教徒への偏見が強い宗教差別者と見なされることも多い。しかしトランプ氏が、特に選挙期間中にあからさまな表現で人種差別や宗教差別、また移民への偏見や女性蔑視をあらわにしたのと比べて、ベルルスコーニ氏はおおっぴらにそうした主張をすることは少ない。それでいて、イスラム教徒は1400年代と同じメンタリティーに縛られていると口にしたり、オバマ大統領は日焼けしているなど、本人はジョークのつもりの人種差別まがいの失言にも事欠かない。

利害対立と政治手法

両者はビジネスを成功させた手腕をそのまま用いて、国家の経済をうまく機能させられると考え、そう主張する。しかし実際に権力を握ったベルルスコーニ氏は、首相の座に就いていた間もそうでない時も、国民を思って景気を良くしようと努力することはほとんどなかった。それどころか政権の最後には、自らの利益のために立ち回って国家経済を停滞させた責任を取らされ、辞任した。

公益のために身を粉にして活動するには、元首相は余りにも多くの個人資産や事業を抱え込んでいたのだ。いわゆる(公私の)利害衝突だ。元首相と同じビジネス大君のトランプ氏は、同じ轍を踏まない努力をするべきだが、ここまでの動きを見る限りでは、元首相と似た手法を用いて国家経済を牽引できないか、と模索しているふしがある。危ういことこの上もない。

また両氏は正統主義とはほぼ逆の政治手法、つまり体制に反旗を翻すと見せかけた動きで民衆の支持を取り付けるのがうまい。いわゆるポピュリズムの扇動者。彼らが使う言葉が往々にして野卑であり、挑戦的であり、かつ怒りに満ちているように見えるのは、民衆の不満の受け皿としての政治的スタンスを最大限に利用するためである。その場合彼らは具体的な政策や解決法を示さないことも多く、時には嘘も厭うことなく織り込んで、主流派と呼ばれる社会層を声高に批判し、民衆の喝采を受けることに長けている。

子供の放言~元首相を擁護する訳ではないが

2人には巨大かつ根本的な違いもある、というのが僕の意見である。つまりベルルスコーニ氏は、トランプ氏のように剥き出しで、露骨で無残な人種偏見や、宗教差別やイスラムフォビア(嫌悪)や移民排斥、また女性やマイノリティー蔑視の思想を執拗に開陳したりすることはなかった。或いはひたすら人々の憎悪を煽り不寛容を助長する声高なヘイト言論も決してやらなかった。また今後もやらないであろうということだ。

言うまでもなく彼には、オバマ大統領を日焼けしている、と評した前述の言葉を始めとする愚劣で鈍感で粗悪なジョークや、数々の失言や放言も多い。また元首相は日本を含む世界の国々で、欧州の国々では特に、強く批判され嫌悪される存在である。僕はそのことをよく承知している。それでいながら僕は、彼がトランプ米次期大統領に比べると良心的であり、知的(!)でさえあり、背中に歴史の重みが張り付いているのが見える存在、つまり「トランプ主義のあまりの露骨を潔しとはしない欧州人」の一人、であることを微塵も疑わない。

言葉をさらに押し進めて表現を探れば、ベルルスコーニ氏にはいわば欧州の
“慎み”とも呼ぶべき抑制的な行動原理が備わっている、と僕には見える。再び言うが彼のバカげたジョークは、人種差別や宗教偏見や女性蔑視やデリカシーの欠落などの負の要素に満ち満ちている。だが、そこには本物の憎しみはなく、いわば子供っぽい無知や無神経に基づく放言、といった類の他愛のないものであるように僕は感じる。誤解を恐れずに敢えて言い替えれば、それらは実に「イタリア人的」な放言や失言なのだ。

あるいはイタリア人的な「悪ノリし過ぎ」から来る発言といっても良い。元首相は基本的にはコミュニケーション能力に優れた楽しい面白い人だ。彼は自分のその能力を知っていて、時々調子に乗ってトンデモ発言や問題発言に走る。しかしそれらは深刻な根を持たない、いわば子供メンタリティーからほとばしる軽はずみな言葉の数々だ。いつまでたってもマンマ(おっかさん)に見守られ、抱かれていたいイタリアの「コドモ大人」の一人である「シルビオ(元首相の名前)ちゃん」ならではの、おバカ発言なのである。

似て非なる2人

トランプ氏にはベルルスコーニ氏にあるそうした抑制がまるで無く、憎しみや差別や不寛容が直截に、容赦なく、剥き出しのまま体から飛び出して対象を攻撃する、というふうに見える。トランプ氏の咆哮と扇動に似たアクションを見せた歴史上の人物は、ヒトラーと彼に類する独裁者や専制君主や圧制者などの、人道に対する大罪を犯した指導者とその取り巻きの連中だけである。トランプ氏の怖さと危険と醜悪はまさにそこにある。

最後にベルルスコーニ氏は、大国とはいえ世界への影響力が小さいイタリア共和国のトップに過ぎなかったが、トランプ次期大統領は世界最強国のリーダーである。拠って立つ位置や意味が全く異なる。世界への影響力も、イタリア首相のそれとは比べるのが空しいほどに計り知れない。その観点からは、繰り返すが、トランプ氏のほうがずっと危険な要素を持っている。

トランプ氏が大統領の座に就けば、これまでの暴言や危険思想やヘイト言動が軌道修正されて「まとも」な方向に進む、という考えは楽観的に過ぎると思う。またたとえそうなったとしても、それは彼が変わったのではなく、政権の周囲がそうさせるに過ぎない。彼の本質は永久に変わらない、と見るのが妥当だ。その変わらない本質を秘めたまま、トランプ次期大統領は地上最大・最強の権力者の座に就こうとしている。


イラストby kenji A nakasone




ジェンティローニ内閣の課題



イタリア首相にはジェンティローニ外相が昇格。彼は辞任したレンツィ首相に最も近い閣僚だった。その意味ではマタレッラ大統領も同じ。この人事は将来のレンツィ復権をにらんだものかもしれない。

というのもマタレッラ大統領は、テクノクラート内閣ではないなら、パドアン財務大臣かグラッソ上院議長のどちらかを首班に指名して組閣要請をする、とされていたのが突然変わったからだ。

パドアン財務大臣は欧州ひいては世界経済への悪影響を少しでも抑えるために、また党派色の薄いグラッソ上院議長は政治危機を乗り切るための挙国一致内閣に相応しい、と見られていた。

マタレッラ大統領と辞任したレンツィ首相の間に、密約、とは言わないまでも、将来への含みを持たせた話し合いと合意があった、と見るのはそれほど突飛な発想ではないだろう。

ジェンティローニ、マタレッラ、レンツィの3氏は、今後強く連携し、助け合いながら2018年の総選挙でのレンツィ氏のカムバックを目指すのではないか。

むろん、ジェンティローニ内閣が信任され、政権が船出して、かつ権力を得たジェンティローニ首相がレンツィ氏にいつまでも忠誠を尽くす、というあり得そうもない話があった場合の物語だけれど・・

文字通り魑魅魍魎たちが跋扈する政局は、相変わらず複雑で見ていて面白くもありウンザリもする。ウンザリするなら放っておけばいい、というのが筋である。

しかし、それらの魑魅魍魎は、自らにも関わる政治決定や決断や取り決めをする権力をゆだねられているのだから、やっぱり監視をしていたい。いや、監視をしていなければならない。

もっとふざけたやわらかい話や、ノーテンキな発想や、エロやナンセンスやバカバナシというものが僕は好きで、またそういう人間だと思っているので、そこに集中したいというのが本心だけれど・・

ともあれ、ジェンティローニ首相のさしあたっての難題は- 彼の組閣が信任されたと仮定しての話だが- 世界最古でイタリア第3の規模の「モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ」銀行の救済策。

経営難に陥っている同銀行は、莫大な不良債権を抱えて倒産の危機にある。国民投票の影響でEU(欧州連合)が支援に難色を示して、問題がさらに深刻化しているのだ。

危機のただ中のイタリアは右も左も問題だらけ。誰が政権を担っても国の舵取りは順風満帆からは程遠い・・



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