2012年01月

樹氷とウサギとアルプスと



ミラノ郊外にあるわが家はブドウ園の中にある。あるいは屋敷に付随する形でブドウ園が広がっている。

 

ブドウ園の脇にある2本のエノキの大木には、最近は樹氷の花が咲くことが多い。その右手の門柱の外には、一本の巨大なシナノキが冬枯れてそびえている。そこにも白く輝く樹氷がこびりつく。

 

わが家の二つの巨大な樹氷の塊(かたまり)の間に、もう一つ大きな雪の群らがりが見える。標高およそ2千メートルのカンピオーネ山の遠景である。

 

日帰りのスキーも楽しめるその山を見ながら北東に向かってしばらく車を走らせると、そこはもう3千メートル級の山がそびえるアルプスである。空気の澄んでいる日にはわが家からアルプス・チロルの山々の連なりが鮮やかに見える。

そうやって今年もまた雪山の景色が美しい時間が来た。でも寒い。僕はこの時期は、アルプスやプレアルプス(前アルプス)の山々の雪景色と樹氷のコラボにうっとりと見とれながら、南方の暖かい国や島の情景なども強く意識するのが常である。

 

今日は日差しがなく空はどんよりと雲っている。風も眺望も山水も空気も、何もかもが雪をはらんで重く滞っているようである。

 

三階にある僕の書斎兼仕事場から見下ろすブドウ園も、冷気の中に横たわっている。とっくに収穫が済んで葉がすっかり枯れ落ちたブドウの木々は、幹だけが寒そうに並んで立って春に向けての剪定(せんてい)を待っている。

 

ブドウの畝(うね)に沿って生えている下草は、青色と枯れ葉の褐色のまだら模様を描いて、何列にも渡って続いている。草は毎朝、まっ白な厚い霜におおわれるが、日ざしを受けて午前中にはほとんどが元通りのまだら模様に戻る。

 

ブドウ園と邸内の草地を自由に行き来して生きているはずのウサギのカテリーナを想って、僕は連日早朝にぶどう園の草の状態を確かめずにはいられない。

 

間もなく2月。今が一番の寒さ。ブドウ園の下草は、さすがに色あせてはいるが十分に青いものも多い。ウサギの餌としてはあり余るほどだと素人目にも分かる。

 

庭師のグイドは、彼が食用に飼っているウサギのために、せっせとブドウ畑や庭園の草を刈っている。干し草がたくさんあるが、新鮮な草も与えた方がウサギはより元気に大きく育つそうだ。

 

雪が降れば庭や畑の草の多くは枯れるだろうが、それでもカテリーナ1匹には充分すぎるほどの青草は残る。青草がなくてもウサギは枯れ草を食べ、それもなくなれば木の実や樹皮や昆虫まで食べる。だからカテリーナは春までにはさらに丸々と太るだろう、とグイドは笑いながらいつもの自説を説く。僕はそれを聞いてさらに安心する。

 

それにしても一年で一番寒いこの時期になっても、庭や畑に青草がかなりあることには驚く。霜や雪や氷の世界が一面に広がる印象の真冬には、このあたりでは針葉樹を除くほとんどの野生植物が枯れてしまう、と思い込んでいたのが不思議である。

 

人は虫歯になってはじめて歯痛の辛さを知る。それまでは無関心だ。ウサギを放し飼いにしてはじめて僕は冬の植物の生態に関心を持った。ありがとう、カテリーナ!(笑)

 

最低気温が氷点下10度前後だった一週間ほど前の寒さを経ても、青草はそうやってけっこう繁っている。そうとは知らずに僕がカテリーナの餌を心配したのはほとんど笑い話だし、草むらに逃げた番(つがい)のウサギが数年で100匹近くにまで繁殖したという話も、今なら「なるほど」と心からうなずけるのである。
 

 

‘違うこと’は美しい



僕はここイタリアではミラノにある自分の事務所を基点にテレビの仕事をして来たが、これまでの人生ではイギリスやアメリカにも住まい、あちこちの国を旅し、学び、葛藤し、そしてもちろん大いに仕事もこなして来た。そんな外国暮らしの日々は、いつの間にか僕が大学卒業まで暮らした故国日本での年月よりも長くなってしまった。長い外国暮らしを通して僕はいろいろなことを学んだが、その中で一つだけ大切なものを挙げてみろといわれたら、それは”違い”を認める思考方法と態度を、自分なりに身につけることができたことだと思っている。

国が違えば、人種が違い言葉が違い文化も習慣も何もかも違う。当たり前の話である。ある人は、人間は全ての違いがあるにもかかわらず、結局は誰も皆同じであると言う。またある人は逆に、人間は人種や言葉や文化や習慣などが違うために、お互いに本当に理解し合うことはできないと主張する。それはどちらも正しく且つどちらも間違っている。なぜなら人種や言葉や文化や習慣の違う外国の人々は、決してわれわれと同じではあり得ず、しかもお互いに分かり合うことが可能だからである。

世界中のそれぞれの国の人々は他の国の人々とは皆違う。その「違う」という事実を、素直にありのままに認め合うところから真の理解が始まる。これは当たり前のように見えて実は簡単なことではない。なぜなら人は自分とは違う国や人間を見るとき、知らず知らずのうちに自らと比較して、自分より優れているとか、逆に劣っているなどと判断を下しがちだからである。

他者が自分よりも優れていると考えると人は卑屈になり、逆に劣っていると見ると相手に対してとたんに傲慢になる。たとえばわれわれ日本人は今でもなお、欧米人に対するときには前者の罠に陥り、近隣のアジア人などに対するときには、後者の罠に陥ってしまう傾向があることは、誰にも否定できないのではないか。

人種や国籍や文化が違うというときの”違い”を、決して優劣で捉えてはならない。”違い”は優劣ではない。”違い”は違う者同士が対等であることの証しであり、楽しいものであり、面白いものであり、美しいものである。

僕は今、日本とは非常に違う国イタリアに住んでいる。イタリアを「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ」の国と語呂合わせに呼ぶ人々がいる。三つのイタリア語は周知のように「食べ、歌い、愛する」という意味だが、僕なりにもう少し意訳をすると「イタリア人はスパゲティーやピザをたらふく食って、日がな一日カンツォーネにうつつを抜かし、女のケツばかりを追いかけているノーテンキな国民」ということになる。それらは、イタリアブームが起こって、この国がかなり日本に知れ渡るようになった現在でも、なおかつ日本人の頭の中のどこかに固定化しているイメージではないだろうか。

ステレオタイプそのものに見えるそれらのイタリア人像には、たくさんの真実とそれと同じくらいに多くの虚偽が含まれているが、実はそこには「イタリア人はこうであって欲しい」というわれわれ日本人の願望も強く込められているように思う。つまり人生を楽しく歌い、食べ、愛して終えるというおおらかな生き方は、イタリア人のイメージに名を借りたわれわれ自身の願望にほかならないのである。

そして、当のイタリア人は、実は誰よりもそういう生き方を願っている人々である。願うばかりではなく、彼らはそれを実践しようとする。実践しようと日々努力をする彼らの態度が、われわれには新鮮に映るのである。

僕はそんな面白い国イタリアに住んでイタリア人を妻にし、肉体的にもまた心のあり方でも、明らかに日伊双方の質を持つ二人の息子を家族にしている。それはとても不思議な体験だが、同時に家族同士のつき合いという意味では、世界中のどこの家族とも寸分違わない普通の体験でもある。

日本に帰ると「奥さんが外国人だといろいろ大変でしょうね」と僕は良く人に聞かれる。そこで言う大変とは「夫婦の国籍が違い、言葉も、文化も、習慣も、思考法も、何もかも違い過ぎて分かり合うのが大変でしょうね」という意味だと考えられる。しかし、それは少しも大変ではないのである。僕らはそれらの違いをお互いに認め合い、受け入れて夫婦になった。違いを素直に認め合えばそれは大変などではなく、むしろ面白い、楽しいものにさえなる。

日本人の僕とイタリア人の妻の間にある真の大変さは、僕ら夫婦が持っているそれぞれの人間性の違いの中にある。ということはつまり、僕らの大変さは、日本人同士の夫婦が、同じ屋根の下で生活を共にしていく大変さと何も変わらないのである。なぜなら、日本人同士でもお互いに人間性が違うのが当たり前であり、その違う二人が生活を共にするところに「大変」が生じる。

僕らはお互いの国籍や言葉や文化や習慣や何もかもが違うことを素直に認め合う延長で、人間性の違う者同志がうまくやって行くには、無理に“違い”を矯正するよりも「違うのが当然」と割り切って、お互いを認め合うことが肝心だと考え、あえてそう行動しようとする。

それは一筋縄ではいかない、あちこちに落とし穴のある油断のならない作業である。が、僕らは挫折や失敗を繰り返しつつ“違い”を認める努力を続け、同時に日本人の僕とイタリア人の妻との間の、違いも共通点も全て受け継いで、親の欲目で見る限り中々良い子に育ってくれた息子二人を慈しみながら、日常的に寄せる喜怒哀楽の波にもまれて平凡に生きている。

そして、その平凡な日常の中で僕は良く独(ひと)りごちるのである。

――日本とイタリアは、この地球上にたくさんある国のなかでも、たとえて言えば一方が南極で一方が北極というくらいに違う国だが、北極と南極は文字通り両極端にある遠い大違いの場所ながら、両方とも寒いという、これまた大きな共通点もあるんだよなぁ・・・――

と。

 

 

 

ギリシャのまぶしい憂うつ(Ⅰ)

【加筆再録】

 

言うまでもなくギリシャ危機は今年も続いていて、経済の専門家の皆さんの解説や分析や情報も巷にあふれている。そこで僕は少し違う、ゆるいギリシャ情報をここに書いてみたいと思う。

 

僕は基本的にギリシャ危機に対しても、また僕が住んでいるこの国、イタリア危機に関しても楽観的な見方をしている。両国が財政破綻に陥って世界経済が混乱する可能性は十分にあり、それはもちろん重苦しく悲観的な未来図だが、それでも、さらにその先にある世界の様相はそんなに暗いものではないという気がするのである。それは実際に危機の渦中にあるイタリアに住み、同じく問題を抱えているギリシャを旅しての感想でもある。

 

昨年6月、財政危機で暴動が起きたりしているギリシャを旅した。僕は1年に1度の割合で地中海を巡る旅を続けている。ヨーロッパに長く住み、ヨーロッパを少しだけ知った現在、西洋文明の揺籃となった地中海世界をじっくりと見て回りたいと思い立ったのである。去年が4度目の旅だった。そのときのギリシャ旅行では、エーゲ海の島々に渡る前に首都アテネに寄った。

 

アテネでは緊縮財政策に抗議する若者らが国会前で警官隊と衝突して、投石を繰り返すなどの騒ぎがあった。でも僕は不思議と危険は感じなかった。

 

これが今同じように騒動が頻発しているシリアをはじめとする中東の国々なら、極めて物騒なイメージを持ったに違いない。が、ギリシャに関してはヨーロッパの民主主義国家という安心感がある。その違いはやはり大きかった。

 

ギリシャ本土を取材するのはそのときが初めてだった。僕は先ず、地中海にちりばめられているギリシャの島々とは違う、アテネの喧騒とカオスにひどくおどろかされた。

 

古代ギリシャの象徴、アクロポリスの上に建つパルテノン神殿とその周辺のわずかな地域を除くと、アテネの市街地は無秩序に開発拡張されていった現代都市という印象が強い。

 

スラム街と呼ぶのはさすがに言い過ぎだろうが、そういう言葉さえ連想させるほどの混沌が街じゅうを支配している。

 

僕はアテネの猥雑な建物群と、雑多な人種が行き交う通りを眺め、またその雑踏の中に足を踏み入れて自ら人ごみと一体になったりしながら、しきりにある言葉を想った。

即(すなわ)ち、

 

国破れて山河あり・・

 

いうまでもなくその杜甫の詩の意味は

「国は戦火によって破壊されつくしたが、山や川などの自然は、元のままの姿で変わらずそこにある」

ということである。

 

栄華を極めた古代ギリシャ国家は滅び去り、その滅び去ったものの残骸が、アクロポリスの麓(ふもと)に広がる現代アテネの無原則な市街地のようである。そして、市街地の上方、アクロポリスの丘の上におごそかにそびえ立つ、パルテノン神殿などの古代遺跡が、本来のギリシャの国の形、つまり山や川などの変わらない自然と同じもの・・というふうに見えたのである。

 

繁栄の絶頂にあった古代ギリシャは、ローマ帝国に征服され、あるいはそれと融合しながら歴史を刻み続けて行ったが、以来ギリシャは現代に至るまで、パルテノン神殿が建設された時代の栄光を取り戻したことは一度もない。

 

それどころか近代国家としてのギリシャは、1830年に独立するまではオスマン帝国の支配を長く受け、独立後もトルコとの戦争や2度の世界大戦に巻き込まれるなど、苦難の道が続いた。第2次大戦後のギリシャの政情は安定し、経済もそれなりに発展したが、内戦や軍部の独裁政治がそれに続くなど、現代国家としてのギリシャは古代の輝きからは遠い存在であり続けている。

 

そうした歴史と、今目の前に広がるアテネの混沌とした風景が錯綜して、僕に不思議な幻想をもたらし、僕は唐突に(国破れて山河あり・・)という感慨を覚えたりしたのだろうと思う。

 

それではアテネは、憂うつな悲しい不快な街なのかというと、まるっきりの逆なのである。

 

首都は明るく活気にあふれている。国会前で連日行われていた抗議デモも、そこを少し離れるとまったく気にならなかった。財政破綻の危険などどこ吹く風である。そんなアテネの明るさは、どうも地中海の輝かしい陽光のせいばかりではなさそうだ。

 

街が人種のるつぼとなって、大きくうごめいていることが、アテネの殷賑(いんしん)の一番の原因のように僕には見えた。

ギリシャ人に加えて、アラブ、アフリカ、インド、アジアなどの人々が、通りを盛んに行き交っている。ギリシャ人とあまり区別がつかないが、そこにはギリシャ以外の欧米人も多く混じっている。

 

古代ギリシャでは、アフリカのエジプトやアラブやトルコなどと交易をする中で、それらの地域の人々とギリシャ人との混血が進んだ。また後にはバルカン半島のスラブ人やアルバニア人、ローマ人を始めとするラテン人などとの混血も絶え間なく続いたことが分かっている。

 

アテネの喧騒を見ていると、まるで古代からの混血の習わしが今もしっかりと生きているような錯覚をさえ覚える。少なくともギリシャ人が、外国からの移民と見られる人々に対して、とても寛容であることがはっきりと分かる。

 

古代地中海域の十字路として、隆盛を誇ったギリシャのグローバルな精神は、アテネの路地や通りや街なかに連綿として受け継がれているように見える。

 

それは僕がかつて住んでいた、ロンドンやニューヨークなどの国際都市とそっくりの雰囲気をかもし出していた。

アテネがそれらの街と比較して、経済的に明らかに貧しい点を除けば・・

 

中東危機こぼれ話


【加筆再録】


テレビ屋でありながら僕はネット情報をひんぱんに利用し、日英伊3ヶ国語の新聞や雑誌などにも注意しているが、24時間衛星放送を主体とするテレビからももちろん目を離さない。それらの情報網を観察・吟味・分析するのは仕事であると同時に大いなる楽しみでもある。

 

テレビに限って言えば、中東問題が大きくなった昨年以来、僕はCNNよりも衛星放送のアルジャジーラ・インターナショナルを見ることが多くなった。アラビア語は分からないが、完璧な英語放送なので付いて行くことができる。

アルジャジーラは中東カタールに本拠を置く衛星局だから、現地の情勢に詳しく、24時間体制で流れる情報の多くに臨場感がある。イタリアで見ている同局の英語放送はドーハから発信されているが、ロンドンからの放送かと見まがうくらいに洗練されていて、かつ力強い。僕が知る限り中東現地からの生中継は、例えばイギリスのBBCインターナショナルよりもはるかに量が多く、新情報の発信速度もわずかばかり速いようである。BBCインターナショナルもCNNと共に普段から僕が良く覗いている衛星チャンネルである。

少し古い話になるが、例えばエジプト危機の最中にムバラク元大統領の息子が政府の要職を辞任したニュースを、僕はアルジャジーラの画面テロップで最初に見た。しかし、直後にチャンネルを回したBBCにはまだ出ていなかった。僕が見逃したのでなければ、恐らくアルジャジーラが世界で最初にその情報を発信したのだろうと思う。

ただ情報発信の速度に関して言えば、今や世界中の放送局が様ざまな情報ネットワークを駆使してしのぎを削っていて、あまり大きな差はないと言える。

BBCインターナショナルのほかに、NHKのニュースも衛星放送で日本と同時に見ているが、アルジャジーラやBBCが現地からの生中継でえんえんと伝えている中東の主だった動きについては、ほぼ間違いなく取り上げていて遅滞感はない。速度ばかりではなく、その時々で現地情勢を掘り下げて詳しく伝える手法もNHK独特のものがあって、それなりに見ごたえがある。

イタリア公共放送RAIのニュースももちろん見ているが、時差の関係でこちらは速さや臨場感ではあまり頼りにしていない。イタリアにいてRAIの「時差」というのも変だが、こういうことである。

まず朝のうちにアルジャジーラやBBCの24時間体制に近い中東中継を見る。気が向けばCNNも覗く。その後NHKの午後7時のニュースを日本とのリアルタイムで見る。イタリア時間の午前11時である。そこまで見ると、少なくとも中東情勢に関しては充分。13時半に始まるRAIの昼のニュースは見なくても間に合う、というのが実感である。

それでもやはりイタリアの放送局のニュースも見る。中東がらみのイタリアの報道では、特に難民問題が重い。今はかなり落ち着いたが、アフリカ北岸に近い南イタリアのランペドゥーサ島には昨年、中東からかなりの難民が押し寄せた。当初はチュニジア人が主流だったが、やがてリビアからの難民も加わってイタリア国内には緊張が高まった。着の身着のままで島に上陸する多くの難民を見ると、中東の混乱はイタリアのすぐ隣で起こっているのだとあらためて痛感させられたものである。

リビアがイタリアの植民地だった歴史的ないきさつとは別に、両国は近年きわめて友好的な関係を築きつつあった。特に2009年のリビア革命40周年記念式典に、当時のベルルスコーニ・イタリア首相が植民地支配の謝罪と賠償約束のために同国を訪問して以来、友好関係は促進された。イタリアがリビアの石油の主要な輸出国である事実なども相俟って、ベルルスコーニ前首相と故カダフィ大佐は個人的にも親交を深めていたほどである。

それだけにカダフィ大佐は、リビアを攻撃するEU主体の多国籍軍にイタリアが参加した事実に激昂した。彼は「ローマに裏切られた。地中海沿いのイタリアの街を火の海にする」などと宣言して、イタリアへの恨みを募らせた。しかしイタリア政府が真に恐れていたのは、瀕死の独裁者のそうした脅迫などではなかった。

南イタリアのランペドゥーサ島には、慢性的に北アフリカからの難民や不法移民が流入し続けている。2005年から2010年までを見ると、その数は年平均で2万人弱である。ところが昨年は1月からの3ヶ月間で、島に上陸した中東危機の難民は既に3万人近くにのぼり、8月過ぎには5万人に迫ろうとする勢いだった。さらにその頃カダフィ大佐は、1万人以上の囚人を難民に仕立て上げてイタリアに向かって放つ計画を持っていた。イタリア政府がもっとも恐れていたのは、砂漠の猛獣とも狂犬とも呼ばれたリビアの独裁者のそうした動きだったのである。

中東危機を逃れて流入して来る難民の増大に悲鳴を上げたイタリアは、EU(欧州連合)に助けを求める一方で、人道的措置として昨年1月1日から4月5日までの間にイタリアに上陸した難民2万人に、一律に6ヶ月間の滞在許可証を与えた。そこまでは良かったのだが、滞在許可証はいわゆるシェンゲン協定に基づいてEU内を自由に移動することができる、としたためフランスやドイツを始めとする国々が難色を示して騒ぎになった。EU加盟国の多くは不法移民や不法滞在者の増大に神経を尖らせているから、フランスやドイツの反応はある意味当たり前だった。マルタを除く加盟国の全てが、イタリアの決定に反対したことを見てもそれは分かる。

EUはイタリアの滞在許可証を認めない、と正式にこの国に通告した。

それに対して今度はイタリアが怒った。中東問題はEU全体の課題であり難民問題もそのうちの一つだ。それにも関わらずイタリアだけがひとり取り残されて難民を押し付けられるなら、EUに加盟している意味はないとして連合からの離脱をほのめかしたり、EU諸国と足並みをそろえて国外に派遣している兵士を召還して、難民排除のための国境警備に就かせると主張したりした。意外に思えるかもしれないが、イタリアはアフガニスタンを筆頭にコソボ、ボスニア、イラク、レバノン、バーレーン等々、世界の30の国と地域に軍隊を派遣している。EUが移民問題でイタリアを見捨てるなら、イタリアはEUとの強調派兵を止めるというのである。

難民問題に関するEU内の混乱は、その後大きくなったギリシャ・イタリアに端を発するヨーロッパ財政危機の前に影をひそめる形で見えにくくなっている。しかし、未だ国家の形を成していないリビアは言うまでもなく、チュニジアやエジプトなどの政治体制も理想の民主主義とはほど遠い。いつ再び混乱が始まってもおかしくない情勢である。さらにシリアやイエメンなどの政情も依然として混沌としている。中東からイタリアへ、そして他のEU諸国へと流入する難民のマグマは、いつ再噴火を開始してもおかしくないのである。

イタリアに押し寄せる中東難民を見る時、僕はいつもの癖でどうしても日本のことを考えずにはいられない。

もしも中東の混乱或いは変革が、中国や北朝鮮にまで波及した場合、日本にも難民の波が押し寄せる日が来るかも知れない。イタリアの現実を見ていると、それは決して荒唐無稽な妄想ではないような気がする。

多くの難民は先ず陸続きの韓国に流れるだろうが、日本にも必ずやってくると考えるのが自然だろう。ろくなエンジンも搭載しない北朝鮮の小さな漁船が、冬の日本海の荒波をかいくぐって日本沿岸まで到達できるのだから、切羽詰った難民が少し大きめの船に鈴なりになって何艘も、そして繰り返し押し寄せる様子は想像に難くない。リビアやチュニジアからイタリアに押し寄せる難民がそうであるように。

わが国は彼らの隣人として、また責任ある先進国として、その時どう行動するべきか考えておく必要があるのではないか。

そうしておいて、もしもそれが杞憂に終わった場合はそれで良しとするが、そこで考えたことは、将来高い確率でやって来るであろう、移民と日本人との共存社会の構築に役立てることもできるはずである・・

 

 

イタリア危機です。でも・・正月だもんね。



イタリアにいても、又たまに日本に帰っても「イタリアのクリスマスや正月はどんな感じですか」とよく人に聞かれる。その質問に僕は決まって次のように答える。

 

「イタリアのクリスマスは日本の正月で、正月は日本のクリスマスです」と。

 

祝う形だけを見ればイタリアのクリスマスは日本の正月に酷似している。ここでは毎年クリスマスには家族の全員が帰省して水入らずでだんらんの時を過ごす。他人を交えずに穏やかに、楽しく、かつ厳かな雰囲気の中でキリストの降誕を祝うのがイタリアのクリスマスである。

 

カトリックの総本山バチカンを抱える国だけあって、アメリカやイギリスといったプロテスタントの国々と比較しても、より伝統的で荘厳な風情に満ちていると言える。たとえば日本のクリスマスのように家族の誰かが外出したり、飲み会やパーティーを開いて大騒ぎをしたりすることは普通はまずないと断言してもいい。

 

 

ところが正月にはイタリア人も、他のキリスト教国の人々と同じように、家族だけではなく友人知己も集まって飲めや歌えのにぎやかな時間を過ごす。それが大みそか恒例のチェノーネ(大夕食)会である。食の国イタリアだけに、クリスマスイブの夕食会にもチェノーネと呼ばれるほどの豊富な料理が供されるが、大勢の友人が集まって祝うことが圧倒的に多い大みそかのチェノーネは、クリスマスよりもはるかにカラフルでにぎやかで、かつクリスマスよりもさらに巨大な夕食会、というふうになるのが一般的である。

 

チェノーネはたいてい大みそかの夜の9時前後から始まり、新年をまたいで延々と続けられる。年明けと同時にシャンパンが勢い良く開けられて飛沫(しぶき)の雨が降り、花火が打ち上げられ、爆竹が鳴り響く中で人々は乾杯を繰り返す。そしてひたすら食い、また食う。食いつつ喋り、歌い、哄笑する。新年を祝う意欲にあふれたチェノーネは、にぎやかさを通り越してほとんど「うるさい」と形容してもいいくらいである。

 

あえて言えば、チェノーネで供される食材がイタリアのお節料理ということになる。チェノーネにはお節料理のように決まった「型」の類いはほとんどないが、それに近い決まりのようなものはある。それは食事の量がムチャクチャに多い、ということである。チェノーネ(大夕食)という名前はまさにそこからきている。

 

イタリア料理のフルコースというのは、もともと日本人には食べきれないと言い切っても良いほど大量だが、チェノーネで供される食事の量はそれの2倍3倍になることもまれではない。とにかくはんぱじゃない量なのである。

 

チェノーネではまず「サルミ」と総称される生ハムやサラミなどの加工肉類と、魚介のサラダなどにはじまる前菜がテーブル狭しと並べられる。小食の人はこの前菜だけで腹いっぱいになることは間違いがない。

 

そこにパスタ類が運ばれる。パスタは通常は一食一種類だが、チェノーネではスパゲティ、マカロニ、手打麺など、何種類も並ぶことも多い。

 

次に来るメインコースがすごい。大量の肉料理の山である。魚も入る。コントルノ(つけ合せ)と呼ばれる野菜類も盛大にテーブルを飾る。

 

それが終わると果物とデザート。食事の最後になるこの二つも普通は一方を食べるだけである。チェノーネでは両方出ると考えてほぼ間違いない。

 

この間に消費されるワインも大量になる。午前0時を回ると同時に開けられたシャンパンは言うまでもなく、ワインや食後酒のグラッパやウイスキー等々の強い酒もどんどん飲み干される。酔っ払いを毛嫌いするイタリア人だが、この日ばかりは酔って少々ハメをはずしても許されることが多い。

 

それは各家庭だけではなく、レストランなどの夕食も同じ。大みそかにはほとんどのレストランも、そのものずばり「チェノーネ」という特別メニューを設定して大量の料理で客を迎える。もちろん料理の嵩(かさ)に応じて値段も普通より高くなるが、新年を祝う催しだから客も気前よく金を払う。

 

イタリア財政危機が叫ばれる今回の年末年始では、イタリア全国でチェノーネに費やされた飲食費は、残念ながら前年と比較して20%余り低かったことが分かっている。

 

前述したようにチェノーネには、日本のお節料理のように決まった形というものはないが、地方によって食材の定番というものはある。良く知られているのはカピトーネと呼ばれるナポリの料理である。カピトーネは大ウナギを豪快に切断して油で揚げたもの。その脂っこい料理には必ずレンズ豆が添えられる。

 

レンズ豆はお金に似ているということで、カピトーネに限らず新年の料理には付け合せとしてよく添えられる食材である。お金が儲かって豊かになれますように、という願いがこもった縁起物なのである。そればかりではない。レンズ豆は脂っこい食材を淡白にする効果がある。だからえらく脂っこいウナギ料理の付け合せとしても最適なのである。

 

わが家のチェノーネにはよくザンポーネが出る。僕が好きでできるだけ出してもらうようにしている。ザンポーネは豚の足をくりぬいて皮だけにして、そこに肉や脂身をミンチにして詰めて煮込んだものである。味はどちらかというとスパム(SPAM・ポークランチョンミート)に近いが、スパムよりもこってりとしていて、かつイタメシだけにスパムよりもうまい。

 

ザンポーネの中身を食べた後の皮は普通は捨ててしまうが、そこの脂っこさが好きでわざわざ食べる人もいる。僕も一度だけ味見をしてみた。味は不味くはないが脂っこさと匂いに辟易して一口以上は食べられなかった。ザンポーネの付け合せもレンズ豆が定番。レンズ豆はやっぱり、縁起がいいだけではなく脂っこいものに強いのである。

 

北イタリアの厳しい寒さの中で食べるザンポーネはとても美味しい。カロリーの高い食べ物だが、きっとカロリーが高いからこそ寒さの中で最も美味しく感じられるものなのだろう。ダイエットさえ気にしなければ、脂っこさにもかかわらず幾らでも食べられそうに思えるのが、ザンポーネのすごいところだと僕は勝手に感心している。

 

 

「時には娼婦のように」の革命的愉快



なかにし礼作詞・作曲の「時には娼婦のように」は次のような歌詞である。

 

『時には娼婦のように 淫らな女になりな 

真赤な口紅つけて 黒い靴下をはいて
大きく脚をひろげて 片眼をつぶってみせな 

人さし指で手まねき 私を誘っておくれ

バカバカしい人生より バカバカしいひとときが 

うれしい ム・・・・・


時には娼婦のように たっぷり汗を流しな 

愛する私のために 悲しむ私のために
時には娼婦のように 下品な女になりな 

素敵と叫んでおくれ 大きな声を出しなよ


自分で乳房をつかみ 私に与えておくれ 

まるで乳呑み児のように むさぼりついてあげよう

バカバカしい人生より バカバカしいひとときが 

うれしい ム・・・・・


時には娼婦のように 何度も求めておくれ 

お前の愛する彼が 疲れて眠りつくまで』

 

この歌が発表された時、僕は東京の大学の学生だった。歌詞の衝撃的な内容に文字通り目をみはった。歌謡曲詞の革命だとさえ思った。今もそう思っている。「時には娼婦のように」について書こうと思ったのは、実はそのことに尽きる。

 

でも歌詞を書き出したとたんにがっくりときた。何か気のきいたことを書けないかと思ったのだがまるでダメだ。この歌詞の偉大さの前には自分が何を言っても空しいと感じる。

 

かつて三島由紀夫は詩が書けないから小説を書くんだと言った。詩とはそれほど卓越したものである。そして音楽とともに存在する歌詞もまた詩の一種だ。エライものなのである。

 

なかにし礼という作詞家は、亡くなった阿久悠と共に日本歌謡詞界の双璧であるのは、今さら僕ごときが指摘しなくても周知の事実だと思うが、「時には娼婦のように」を生み出した分、なかにし礼の方が少し上かなと僕は考えている。それほどこの歌詞はすごいと思う。

 

歌詞に限らず、あらゆる創造的な活動とは新しい発見であり発明である。新しい考え、新しい見方、新しい切り口、新しい哲学、新しい表現法などなど、これまで誰も思いつかなかったものを提示するのが創造である。

 

「時には娼婦のように」はそういう創造性にあふれた歌詞である。際どい言葉の数々を駆使しながらポルノにならず、「歌詞」という型枠を嵌められた「詞」でありながら、自由詩の大きさや凄みの域に達していると思うのである。

 

男の下賎な妄想である「昼は貞淑、夜は娼婦」という女の理想像を、歌謡曲という子供も女性たちも誰もが耳にする可能性のある普遍的な表現手段に乗せて、軽々とタブーを跨(また)ぎ越えて世の中に広めてしまった。ウーむ、マイッタ。

 

もう一方の天才・阿久悠は、名曲「津軽海峡冬景色」を

<上野発の夜行列車おりた時から 青森駅は雪の中~>

と始めて、短い表現で一気に時間を飛ばし、東京の上野駅と青森駅を瞬時に結んでドラマを構築した。よく知られた分析だが、こちらもまたすごいので一応言及しておこうと思う。
 

作詞家なかにし礼はそのほかにも多くの創造をしたけれど、新人の頃には「知りたくないの」という訳詞でも物議をかもした。エルビス・プレスリーも歌った英語の名曲「I really don't want to know」を「あなたの過去など知りたくないの~」という名調子で始めたのだが、歌い手の菅原洋一が「過去」という語はよくないとゴネたという。でも彼は信念を押し通して、そのおかげで今ある名訳詞が世の中に出回ることになった。ヨカッタ。

 

僕の独断と偏見による意見では、イタリアにも「なかにし礼」はいる。ファブリツィオ・デアンドレというシンガーソングライターである。

10年余り前に亡くなった彼は、歌詞でも音楽でも圧倒的な存在感を持っている。あえて日本の歌手にたとえれば、小椋佳と井上陽水を合わせて、さらに国民的歌手に作り上げた感じ、とでも言おうか。実力人気ともに超がつく名歌手、名作詞家、名作曲家である。

 

デアンドレもよく娼婦の歌を作り歌った。彼は娼婦に対してとても親和的な考えを持っていた。娼婦を不幸な汚れた存在とは見ずに、明るく生命力にあふれた女として描いた。

 

娼婦や娼婦に似せた女を歌うタブーは、デアンドレの活動期の頃のイタリアには存在しなかったから、禁忌を勇敢に破って世に出た「時には娼婦のように」とデアンドレの歌を同列には論じられないかもしれない。

でも、僕はどうしても両者の「歌詞」の一方を聞くたびに、片方を思い起こしてしまうのである。

 

あとまわしの理由



いろいろと書きたいことがあるのに、そのテーマがどんどん後回しになっていく。とても不思議な気分。

 

たとえば少しづつ書いていくと自分に約束した「今のところは・・」の幾つかの項目、サッカーのこと、これまでに出会い共に仕事をした名のある人たちのこと、ロケや取材の話、貴族たちの話、マフィアにまつわるあれこれ、オッパイの話、ワインのこと、島のことetc、etc・・さらにetc、etc・・

 

それらはある意味テーマが決まっている事がらである。その気になって時間があればすぐにでも書ける。

 

ところが、やはりどうしても時事話が自分の中では先行して、そちらがブログの優先事項にもなる。同時に実は、読んでくれている皆さんもどちらかというときっとそっちの方を期待しているのではないか、という思いもある。

 

1日1本の記事を書くという決意もまったく成就できない。あれこれと忙しく、時間が足りなくて無理だ。だから書くべきことがどんどん後回しになる。でもいつか最低1日1本を書く、というふうにはなりたい。

 

最近、ネット論壇にも寄稿したりして、ますます時間の余裕がない。このブログと同じ記事を掲載してもらう場合でも、いろいろと時間を取られるのだ。

 

いや、ホントのことを言うと、ネット論壇に書いた記事をここにも転載する、という場合が多い。理由はネット論壇は「よそ行き」の雰囲気があって肩が張り文体にも違いが出る。だから書くのに時間がかかる。いきおいそっちの方が気分的にも時間的にも重くなる、ということが起きる。

 

ネット論壇とこのブログで文体が違う、というのはなるべくあってはならないことである。二重スタンダードだしヘタ丸出しだ。でも今のところはそれが現実。どちらも自分の文章だしスタイルだが、向こうは気が張ってこちらはリラックスできる。

 

そして僕はリラックスしている方こそホントの自分であろうと考えている。従って、リラックスできないネット論壇は、今のところはオッカナビックリというふうな感じで書いている。多分自分の性格からして、いつまでもリラックスできなければさっさとやめてしまう方向に向かうだろう。でもリラックスするつもり・・・

 

てな感じで、書きたい題材がますます、またまた遠のいていくという訳である。

 

ま、書くことがあるということは、恐らくこのブログがまだ続いていくという証でもあるから、焦らず前進しよう、というのが新年の抱負。

 

実はこの稿では「名前、又はニックネームのこと?」でたまたま言及してしまった、なかにし礼さんの「時には娼婦のように」について書くつもりだった。

なにかの拍子で言及したことが気になって仕方がなかったり、そこから妄想がふくらんでしまって書かずにはいられなくなる、というのも僕の悪い癖である。そこから文章がどんどん先に進んでしまうことも。今のように。

 

という具合に長くなってしまったので「時には娼婦のように」は次の稿に回すことにする。

 

それでないとたとえば「9月、秋はじめと仕事はじめの期の時のように、テーマが分散して自分としては不満の多い記事になってしまう・・

 

 

バクチャーたちの熱い正月



渋谷君

僕の友人の自称投資家の男が、彼の幼なじみのギャンブラーに宛てて書いた年賀状を見せてくれました。というか、メールで送ってきました。ちょっと面白いので、友人の許しを得て君にも送信します。君のところの銀行なども、最近ギャンブルばっかりやってないかい?(笑)
 

――――――――――――――――――――――

バクチャーのタイガー直人クンよ、友よ。


まだ生きているか。それともバクチで身を滅ぼしてもうこの世にはいないのか。


なんとかまだ生きているなら「新年おめでとう」。


今年こそバクチから足を洗って清く正しく生きなさい。現代の博徒、つまりバクチャーは、大金持ちも君のような貧乏人も皆一様に暗い


君は子供時代や若い頃は明るい人間だったのに、暗いオヤジになってしまったのはバクチのせいだから、さっさとやめるように。


バクチャーはなぜ暗いか。


仕事をしないから生産性がないから怠け者だからなどなど・・・、世間ではいろいろと分析される。それには一理あると思うが、俺はバクチャーの暗さは刹那(せつな)的だからとスルドく見通しておるよ。


刹那的とは今だけを大事にする生き方だから、ある意味ではカッコいいと言える。そう、バクチャーはカッコいい存在ではあるが暗いのだ。


バクチに負けて暗いのは納得できるが、勝っても暗いのはなぜか。


それはやっぱ刹那的だからなのよ。今だけを生きているから将来もなければ過去もない。将来も過去も無い存在は人間としてはまともじゃない。だから暗いのよ。分かるかね?


で、エラソーに分析した後で告白するが、

俺は今、はたから見たらバクチャーみたいに暗い顔をしているんじゃないかと自分で気にしておる。

というのも去年一年FXで大負けをしたのだ。負けるのは仕方ないが、負け方がまずい。バクチのような相場の張り方をして負け続けたのだ。


FXは確かにバクチの要素も多いが投機や投資の要素も強い。


バクチは一度賽(さい)が振られたら丁半が出るまで何もできないが、FXは自由意志で途中でやめることができる。つまり負けを限定管理できるんだ。そこが純粋のバクチとは違う。


負けを管理し続けていればいつかは金が残る。だから投資になる・・・と十分わかっていて勉強もしているんだが、大きく勝とうとして勝った分を次々に全額投入しては負ける、の繰り返しだったのだ。つまり大いなるバクチなのよ。


だからきっと俺も、バクチャーの君のように暗い顔になっているんじゃないかと心配しておる。このまま自分をコントロールできなくなると、俺の本性は君よりももっともっと激しいバクチャーだから身の破滅だ。もうやめようかと思っている。そうするとギャルの心を買う金も稼げなくなるから悲しいが・・

あ、ここでひと言。君は以前に「女の心は金では買えない」とノタマッタが、それを世間では負け犬、つまり貧乏人の遠吠えと呼んでおる。

金さえあれば女の心もギャルの心も、この世に金で買えないものなどないのよ。体という当たり前の嬉しいものばかりではなく「お心」まで買えるのが金のすばらしさだ。


嘘だと思うなら億単位の金をバクチで稼いで、女やギャルに見せびらかしてみな。それでなびかない者がおったら、その女やギャルは心が病んでおるから二度と近づかないように。


そうやってトライしてみて、俺のスルドい分析が正しいか間違っておるか、必ず教えてくれよ。なにしろ俺は大金などつかめそうにないから、従って女やギャルに対する自分のシャープな見通しの正否について、実際に確認する術がないのよ。よろしく頼むぞ。


だがその前に、たった今言ったことと矛盾するようだが、君もどうせバクチでは大儲けできないだろうから、この際そんな仕事はやめて、幸いにも今ある持ち家を売っぱらって、その金で南の島に小さなマンションでも買って楽しく生きたらどうだ?という考えもあるな。


ところで、石垣島のダイビングショップ経営のヒロ坊が脳溢血で倒れたのは言ったっけ?彼は俺達と同い年だ。仕事ももうできないらしい。

ヒロ坊に代わって君が向こうでダイビングショップでも出さない限り、俺はこのままでは石垣島ではもう海遊びもできない。


困った・・・






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