2012年03月

スーパーマリオ、イタリア・モンティ首相に乾杯!



イタリア、モンティ首相の日本訪問は予想以上に成果があったのではないか。

 

日本との経済協力関係強化とか友好関係の強化とかいうことではなくて、前首相ベルルスコーニがまき散らしたイタリアの負のイメージの払拭(ふっしょく)という意味で。

 

欧州連合の信奉者で優れた経済学者でもあるモンティ首相率いる現政権は、ドイツ並みの固さと精密と実直で、ゆるみ切ったイタリア財政の改革を進めていて欧州各国から高い評価を受けている。

 

その政策は首相の人となりとも重なる。

 

今回の日本訪問では、モンティ首相の真面目で実直で落ち着いた物腰や考え方が、NHKのインタビューなどを通して日本国民に知れ渡ったように見える。

 

日伊の友好や経済関係は、今さら強化するまでもなく良好なものだと思う。

 

それでも

前首相ベルルスコーニが、いい加減で不誠実な言動や少女買春容疑などで不評を買い、イタリアのイメージを大きく損ねたことは否めない。

 

その前首相の失点を、モンティ首相が今回の日本訪問である程度回復したように見えるのは嬉しい限りである。

 

第二の母国とも言えるほどに長く住んでいるこの国を、僕は故国日本に対するのと同じように時には批判もし怒ったりもするが、日本と同様に深く愛している。だから、イタリアが外から悪く見られるのは悲しい。

 

ましてやそれが日本からの批判や罵倒だったりすると、悲しいを通り越してほとんどつらい思いさえする。

 

だから、

 

スーパーマリオ、すなわち仕事師マリオ・モンティ首相バンザイ、という心境なのである。

 

ただ、


ここまで話したことと完全に矛盾するようだが、真面目で堅物でどちらかというとドイツ人的なモンティ首相を見ていると、ベルルスコーニさんが懐かしく見えたりもするから、おかしなものである。

 

以前の記事<スケベで嘘つきで怠け者のイタリア人?>でも書いたように、僕は明るくていい加減で遊び好きなイタリア人が好きなので、堅苦しいだけの人を見るとちょっとつらい。

 

からかったり茶化したくなって、しまいには避けたくなる。

それはきっと、自分がいい加減でノーテンキな人間だからに違いない・・

 

 


ミモザがはこび来る春



去った3月8日は、イタリア人がミモザの花を女性に贈りあるいは贈られて華やぐ「女性の日」。

当日なぜミモザが主役になるのかというと、それが木に咲く花(草ではなく)としては春一番だから、という程度の意味らしい。

 

確かに、冬から春に向かう寒い時期にも見られる草花というものはあるが、初春に木の枝に咲く花、というのはミモザあたりが先ず思い浮かぶ。

 

他にもあるのかも知れないが、鮮やかな黄色が目にまぶしいミモザがやっぱり一番目立つようだ。

 

日本で言えば梅の花とでもいうところか。

もっともミモザは、梅の花の楚々としたたたずまいに比べると、華やかな雰囲気が少し勝るように思うが。

 

ミモザが表舞台から姿を消すと、同じ黄色のレンギョウの花がそこら中に咲き乱れる。

レンギョウも木に咲く花。今が盛りでミモザよりももっと色鮮やかである。

 

僕の仕事場から見下ろすブドウ園の周囲の壁際にも、そこかしこにレンギョウの黄色い花の盛り上がりが立っている。

 

花の季節の先陣を切ってミモザが咲き誇り、つづいてレンギョウが花開くと、堰を切ったように多くの草花が咲き競う、春爛漫。そのスタートダッシュの時が今なのである。

 

去った日曜日には友人宅で早咲きのソメイヨシノも見物した。

イタリアも今年の冬は寒かったので、桜の開花は遅れると思い込んでいて花見の期待はしなかったのだが、3月半ば過ぎから勢いよく春めいて、早咲きの桜はもう満開。

 

いつもながら、イタリアの季節の変化は急激で、めりはりがきいていて面白い。


鯨は家畜ですか?シーシェパード暴力との訣別法



最近メディアでの論争が少なくなっていますが、捕鯨に対する世界の目は日本に対して決してあたたかいものではありません。以前、ミラノの自分の事務所で翻訳の仕事を頼んだ日本語ぺらぺらの外国人女性に「ノルウェーの捕鯨は文化だから許せるが、日本の捕鯨はそうじゃない。野蛮なだけだ」と言われたことがあります。彼女は日本語習得のために日本に住んだことがあり、その間に捕鯨についての情報を得たということでしたが、無知と人種差別感情が丸出しなだけの呆れたコメントに、僕は少し大げさに言えば、殺意に近いほどの怒りを覚えたことを白状します。


あれから随分時間が経ちましたが、鯨を捕らえてその肉を食べる日本人を疎ましく思う人々が世界には依然として多くいます。それに反発して、鯨肉と牛肉のどこが違う?とか、豚は殺してもいいが鯨を殺すなというのは偽善であり言いがかりだ、などと主張する人々もまた少なからずいます。しかしそうした議論や反論には、僕はいつも違和感を覚えます、

人間が生きるとは殺すことです。われわれは人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きています。肉や魚を食べない菜食主義者の人々でさえ、植物という生物を殺して食べていることに変りはありません。

もしもそれが悪であり犯罪であるなら、われわれ人間は一人残らず悪人であり罪人です。乳飲み子でさえそうです。なぜなら赤子は、生物を食べて生きる母親が与える母乳を頼りに生存しています。従って人類は、シーシェパードの活動家も、鯨肉大好き人間も赤子も、誰も彼もが皆悪人であり罪人である、という同じ土俵に立っています。

それはつまり、何かを殺して食べること自体を否定したり非難したりするのは無意味だということです。シーシェパードの活動家が鯨肉を食う者を非難するのも、またこれに反論して牛肉食いや豚肉食いをあれこれ言うのも同じく意味がありません。われわれは誰もが悪く、あるいは誰もがちっとも悪くないのです。人間は皆等しく他の生命を糧に生きている生命であるだけです。

そうして見ると、シーシェパードなどが非難しているのは食べる行為よりも殺す行為であるらしいことが分かります彼らがそのことを意識しているかどうかは定かではありませんがかも殺す対象が野生の生物であることを彼らは問題にしているようです。だから絶滅危惧種かもしれない野生の鯨を殺すのは悪で、生育可能な家畜である牛や豚を殺すのは構わない、という理屈なのでしょう。

ならば、シーシェパードをはじめとする反捕鯨論者を論駁し、黙らせる方法が一つだけあります。言うまでもなく、鯨を養殖する、つまり家畜化してしまうことです。子鯨を捕らえて育てる蓄養ではなく、人工的に育てた鯨に子供を生ませてこれを食用として育てる、完全養殖ならぬ完全家畜化です。

鯨を人工的に繁殖させて食肉として利用すれば、それは牛や豚と同じになって野生の絶滅危惧種とは言えなくなり、シーシェパードなどが環境保護を主な拠り所に捕鯨船を攻撃したり、日本人を批判する理由がなくなります。

しかし

さて、鯨の完全家畜化に成功して大手を振って鯨肉を食べられるようになったとします。実はそれでもシーシェパード率いる反捕鯨論者たちの日本批判や攻撃は止むことはありません。なぜなら彼らは、環境保護や動物愛護の精神から捕鯨に反対していると同時に、彼らの好き嫌いの感情に従って反捕鯨を叫んでいる可能性が高いからです。

つまり、愛犬家が犬肉を食べる者を憎むように、鯨が大好きな彼らは鯨を殺すな、食べるなと叫んでいる可能性がある。嗜好は言うまでもなく主観的なものです。従って彼らを黙らせるのは多分不可能に近い。しかし、だからこそ日本は、鯨を養殖し完全家畜化することで、環境破壊はやっていないとはっきりと主張するべきです。それでも彼らが非難を続けるなら、その時こそ「鯨と同じ家畜である牛や豚を殺すあなたたちとわれわれのどこが違うのか」と反論すればいいのです。

え?そうは言っても、鯨の完全養殖や家畜化はコストがかかり過ぎるですって?

ならばコストパフォーマンスに見合うだけの顧客を世界中に求めればいいだけの話です。当たり前の企業努力ですね。しかし、そうなれば鯨肉好きな日本人へのバッシングがさらに熾烈になるでしょう。鯨肉を商品にしたい皆さんはそれを覚悟で前進しなければなりません。もしそれがいやなら、いっそのこと「鯨は食べません」と世界中に宣言してしまえば済むことです。

そうなのです。捕鯨問題を解決する最善の道は、もう捕鯨なんてやめた、と世界に向かって表明してしまうことです。捕鯨は割に合いません。捕鯨はかつて日本人が生きていくために必要不可欠なものでした。しかし今は事情が違います。豊かな日本は捕鯨が、つまり鯨肉がなくてももはや飢えることはない。だから絶滅が危惧される鯨をあえて殺す必要はありません。またたとえ鯨は絶滅危惧種ではないとしても、世界中の多くの人々が嫌悪感を抱く捕鯨や鯨肉食を続けるのは、われわれにとって少しも良いことではないと思うのです。

捕鯨は日本の伝統であり、鯨を食べることは日本の重要な食文化の一つであることは疑う余地がありません。しかし時代は変ったのです。残念ながらそれらは、時代変化とともに伝統ではなく、グローバル社会の中で「因習」と見なされるものになってしまった可能性があります。それは好むと好まざるとに関わらず、時代が進み世界が狭くなって、日本が国際社会の中に投げ出された時点で必然的に起こったことです。仕方のないことです。

日本がいま捕鯨を完全にやめた場合、捕鯨を生業にしたり、そこから派生する仕事で生活を支えている人々が困窮するという問題はあるでしょう。が、わが国は国際社会から鯨を保護し環境に配慮するように求められている先進国の一員です。その地位に相応しく捕鯨を全面禁止にして、それによって職を失う人々を国の責任で救済するなどの処置を取るべき時が、もうそろそろ来ているのではないでしょうか。

ギリシャのまぶしい憂うつ(Ⅱ)


【加筆再録】

ギリシャ危機はいったん回避されて、ヨーロッパには少し平穏が戻りつつある。ギリシャの国家財政は病んだままだから、いつ再び問題が起きても不思議ではないが、財政危機に陥ったEU自体が、問題児のギリシャを切り捨てかねない、という経済効率のみの視点からの論は間違っていたことが証明されたのである。それは少しも偶然ではない。

「ヨーロッパとは何か」と問うとき、それはギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教を根源に展開する壮大な歴史文明、という答え方ができるのは周知のことである。ということはつまり、現世を支配している欧米文明の大本(おおもと)のすべてが、地中海世界にあるということになる。なぜなら、南北アメリカやオーストラリアやニュージーランドでさえ、天から降ったものでもなければ地から湧き出たものでもない。そこを支配している文明はヨーロッパがその源である。


また近代日本は欧米を模倣することで現在の繁栄を獲得し、現代中国も欧米文明の恩恵を受けて大きく発展し続けている。世界中の他の地域の隆盛も同じであることは言うまでもない。

ヨーロッパの核を形成した3大要素の中でもギリシャは、地中海の十字路として沿岸各地の異文化や文明を吸収し融合させ発展させたことで特に重要なものだった。多大な変転や衝突や紆余曲折を繰り返しながらも、古代ギリシャに始まる壮大な文明を共有し連綿と受け継いできたヨーロッパ、つまりEUが、経済動向だけを拠り所にギリシャを切り捨てるとは、経済以外の自らの大きな根源を切り捨てる行為でもあるから、EUはそう易々とはできないのである。

EUとは言うまでもなく経済を核に形成された運命共同体ではあるが、加盟国間の絆がそれだけに留まらない事実もまた言うに及ばないない。EUがギリシャを切り捨てる確率は今後も、同じEUが彼らにとっては宗教的に「異邦人」のトルコを、連合に組み入れる確率よりも低いのではないか。

西洋文明の揺籃となった地中海は場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っている。イタリア半島から見ると、西にアルボラン海があり、東にはアドリア海がある。北にはリグリア海があって、それは南のティレニア海へと続き、イタリア半島とギリシャの間のイオニア海、そしてエーゲ海へと連なっていく。またそれらの海に、トルコのマルマラ海を組み入れて、地中海を考えることがあるのは周知のことであろう。

昨夏、僕はギリシャ本土を訪ねた後に、エーゲ海に浮かぶミロス島とサントリーニ島を旅した。エーゲ海はイオニア海とともに南地中海を構成するギリシャの碧海(へきかい)である。

地中海の日光は、北のリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達する。

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空がある。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がっているのである。

そこにはしばしば強い風が吹きつのる。海辺では強風に乗ったカモメが蒼空を裂くように滑翔(かっしょう)して、ひかり輝く鋭い白線を描いては、また描きつづける。

何もかもが神々(こうごう)しいくらいに白いまばゆい光の中に立ちつくして、僕はなぜこれらの島々を含む地中海世界に現代社会の根幹を成す偉大な文明が起こったのかを、自分なりに考えてみたりした。

ギリシャ文明は、大ざっぱに言えば、メソポタミア文明やエジプト文明あるいはフェニキア文明などと競合し、あるいは巻き込み、あるいはそれらの優れた分野を吸収して発展を遂げ、やがて古代ローマ帝国に受け継がれてキリスト教と融合しながらヨーロッパを形成して行った。

その最大の原動力が地中海という海ではなかったか。中でもエーゲ海がもっとも重要だったのではないか。

現在のギリシャ本土と小アジアで栄えた文明がエーゲ海の島々に進出した際、航海術に伴なう様々な知識技術が発達した。それは同じく航海術に長(た)けたフェニキア人の文明も取り込んで、ギリシャがイタリア南部やシチリア島を植民地化する段階でさらに進歩を遂げ、成熟躍進した。

エーゲ海には、思わず「無数の」という言葉を使いたくなるほどの多くの島々が浮かんでいる。それらの距離は、お互いに遠からず近からずというふうで、古代人が往来をするのに最適な環境だった。いや、彼らが航海術を磨くのにもっとも優れた舞台設定だった。

しかもその舞台全体の広さも、それぞれの島や集団や国の人々が、お互いの失敗や成功を共有し合えるちょうど良い大きさだった。失敗は工夫を呼び、成功はさらなる成功を呼んで、文明は航海術を中心に発展を続け、やがてそれは彼らがエーゲ海よりもはるかに大きな地中海全体に進出する力にもなっていった。

例えば広大な太平洋の島々では、島人たちの航海の成功や失敗が共有されにくい。舞台が広過ぎて島々がそれぞれに遠く孤立しているからだ。だから大きな進歩は望めない。また逆に、例えば狭い瀬戸内海の島々では、それが共有されても、今度は舞台が小さ過ぎるために、異文化や文明を取り込んでの飛躍的な発展につながる可能性が低くなる。

その点エーゲ海や地中海の広がりは、神から与えられたような理想的な発展の条件を備えていた・・

イタリアからギリシャ本土へ、そしてギリシャ本土から島々へ、あるいは島から島へと移動する飛行機の中から見下ろすエーゲ海には、その美しさと共に悠久の歴史を思わずにはいられない魅惑的な光が満ちあふれている。

光の中の島々は、ギリシャ危機、イタリア危機、さらにはEU危機の混乱の中で脱税の巣窟のような見方をされ、僕自身も島々を訪ねる際にそうした考えにとらわれて感慨に耽ったりもした。

が、

島々には経済の憂うつに伴なう暗い影はなく、ただひたすらにまぶしい光が爛漫と踊り狂っているばかりなのである。

 

 

「夫婦の寝床」と「夫婦のベッド」の違い



少しこだわり過ぎに見えるかもかもしれないが、実は日伊ひいては日欧(米)の文化の根本的な違いにまでかかわる事象の一つとも考えられるので、あえて書いておくことにした。

 

この前の記事に書いたファブリツィオ・デアンドレの「バーバラの唄」の歌詞

 

「♪~あらゆる夫婦のベッドは

  オルティカとミモザの花でできているんだよ ~♪」

 

をイタリア語で書くと、

 

「♪~ ogni letto di sposa

e’ fatto di ortica e mimosa ~♪」

 

となり、そのうち「夫婦のベッド」に当たるのは「letto di sposa」である。

 

前回、なぜ僕がその部分を直接に「夫婦の寝床」とか「夫婦の褥(しとね)」あるいは「夫婦の布団」などと訳さずに「夫婦のベッド」と訳して、それをさらに日本語では「夫婦の寝床」とか「夫婦の褥(しとね)」とするのが正しい、みたいな回りくどい言い方をしたのかというと、イタリア語をそのまま日本語にすると「letto di sposa」の持つ「性的な意味合い」だけが突然強調されて、その結果、原詩が強く主張している(夫婦の)人生や生活や暮らし、というニュアンスが薄くなると考えたからである。ポルノチックになりかねないと書いたのもそういう意味だった。

 

だが、そうではあるものの、二次的とはいえ「letto di sposa」には性的な含蓄も間違いなくあって、それらの微妙なバランスがイタリア語では「艶っぽい」のである。

 

日本語とイタリア語の間にある齟齬やずれは、性あるいは性的なものを解放的に語ったり扱ったりできるかどうか、という点にある。イタリア語のみならず欧米語ではそれができるが日本語では難しい。

 

言葉が開放的である、とは思考や行動が開放的である、ということである。そう考えれば性的表現における欧米の開放感と日本の閉塞感の違いが説明できる。性や性表現が閉鎖的だから、日本にはそのはけ口の一つとして「風俗」という陰にこもった性産業が生まれた、とも考えられるのである。

 

人生の機微や結婚生活の浮き沈みの中には、夫婦の性の営みも当然含まれていて、欧米文化の方向性はそのことも含めて直視しようとする。日本文化の方向性はそこから目をそらせる。あるいは見て見ぬ振りをする。あるいはぼかして捉える。そこには日本文化の奥ゆかしさに通じる美もあるが、内向して「風俗」的な執拗につながる危うさもあるように思う。

 

良くしたもので、日本語には都合の悪い表現を別の言い回しでうまく切り抜ける方法がある。それが外来語である。

 

たとえば日常の会話の中ではちょっと言いづらい「性交」という言葉を「セックス」と言い換えると、たちまち口に出しやすくなるというようなこと。僕がバーバラの唄の「letto di sposa」を「夫婦の寝床」と訳さずに、あえて下線まで引いて「夫婦のベッド」と表現したのもそれと同じことである。

 

ベッドはもはや、日本語と言っても良いほどひんぱんに使われる言葉だが、夫婦の「寝床」や「褥」や「布団」に比べると、まだまだ日本語のいわば血となり肉となっている言葉ではない。だから「性交」に対する「セックス」という言葉のように、生々しい表現のクッションの役を果たして、それらの直截的な言い回しをぼかす効果があるように思う。

 

そればかりではなく、日本の家の中には「夫婦のベッド」なんて存在しないのが普通である。夫婦のベッドとは巨大なダブルベッドのことである。だから狭い家にはなじまない。

また例えそれを用いていても、ベッドはあくまでもベッド、あるいは寝台であって、朝になれば畳まれて跡形もなくなる「寝床」や「褥」や「布団」ではないのだ。

 

そんな具合に日本の家においては「ベッド」は、やっぱりまだ特別なものであり、日本語における特別な言葉、つまり外来語同様に特別なニュアンスを持つ家具なのである。だから夫婦の「寝床」や「褥」や「布団」と言わずに「夫婦のベッド」と表現すると、この部分でも恥ずかしいという感じがぐんと減って、耳に心地よく聞こえるのである。

 

もっと言えば、日本語では「夫婦の寝室」「や「夫婦の寝間」などと空間を広げて、つまりぼかして言うことは構わないが「夫婦の寝床」とピンポイントで言ってしまうと、微妙に空気が変わってしまう。そこがまさに日本語のつまり日本文化の面白いところであり、ひるがえってそこと比較したイタリア語やイタリア文化、あるいは欧米全体のそれの面白さの一つなのだと思う。



大震災、女性の日、ミモザ・・



今日(38日)は女性の日。ここイタリアでは、黄色い球形の小さな花が蝟集(いしゅう)して、枝からこぼれるように咲き乱れる様子が美しい、ミモザの花がシンボルである。女性祭り、ミモザ祭りなどとも言う。

 

昨年311日、僕はイタリアにおける女性の日についてブログに書こうと考えて「3日遅れのミモザ祭り」とか「フェミニズムとミモザの花」とか「ミモザって愛のシンボル?闘争のシンボル?」・・などなど、いつものようにノーテンキなことを考えながらPCの前に座った。

 

そこに東日本大震災のニュースが飛び込んだ。衛星テレビの前に走った僕は、東北が大津波に飲み込まれる惨劇の映像を日本とのリアルタイムで見た。息を呑む、という言葉が空しく聞こえる驚愕のシーンがえんえんと続いた・・

 

そうやって38日の女性の日は、僕の中で、日付が近いという単純な話だけではない理由から東日本大震災と重なり、セットになって住み着くことになってしまった。おそらく永遠に(僕が生きている限りという意味で)。

 

女性の日は元々、女性解放運動・フェミニズムとの関連が強い祭りである。20世紀初頭のニューヨークで、女性労働者たちが参政権を求めてデモを行なったことが原点である。

 

それが「女性の政治参加と平等を求める」記念日となり、1917年にはロシアの二月革命を喚起する原因の一つにさえなって、1975年には国連が38日を「国際婦人デー(日)」と定めたいきさつがある。

 

しかし、この「国際婦人デー(日)」が、目に見える形で今でもしっかり祝福されているのは、僕が知る限りどうもロシアとイタリアだけのようである。

 

ロシアでは革命後、38日を女性解放の日と位置づけて祝ったらしいが、今ではフェミニズム色は薄れて女性を讃え、愛し、女性に感謝する日として贈り物をしたりしてことほぐ日になった。

 

ロシアの状況はイタリアにも通じるものがある。

 

イタリアでは38日には、ミモザの花を女性が女性に送るとされ、それには女性たちが団結してフェミニズムを謳歌する、という意味合いがある。

 

が、実際にはそう厳密なものではなく、ロシア同様にその日は女性を讃え、愛し、女性に感謝をする意味で「誰もが女性に」ミモザの花をプレゼントする、というふうである。

 

男が女にミモザの花を贈るという習わしは実は、元々イタリアにあったものである。そのせいだと思うが、女性の日をフェミニズムに関連付けて考える人は、この国にはあまり多くないように見える。

 

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デアンドレは彼の名作の一つ「バーバラの唄」の中で

 

「♪~あらゆる夫婦のベッドは

 オルティカとミモザの花でできているんだよ

 バーバラ~♪」

 

と歌った。オルティカは触れると痛いイラクサのこと。

 

結婚生活は山あれば谷あり、苦楽でできているんだよバーバラ、と言う代わりに「夫婦のベッドはイラクサとミモザで作られているんだよ、バーバラ」と艶っぽく表現するところがデアンドレの才能だけれど、そういう言い回しができるのがイタリア語の面白さだとも考えられる。

 

だって、これを正確な日本語で言い表すと「夫婦の褥(しとね)は~でできている」とか「夫婦の寝床は~でできている」とかいうふうになって、とたんにポルノチックな雰囲気が漂い出しかねない・・

 

ミモザは前からそんなふうに僕に多くのことを考えさせる花だったが、そこに東日本大震災のイメージが重なって、いよいよ複雑な感情移入をしないではいられない「なにか」になってしまった。

東日本大震災一周年、誇りの再生あるいは確認の時



イタリア最大の週刊誌「パノラマ(panorama)」の最新号が、3月11日を待たずに東日本大震災一周年記念特集を組んだ。1日に発売された同紙の表紙はまるで日章旗そのもののデザイン。白地に大きな日の丸を描き、その中心に「奇跡の日本-以前よりもさらに力強く」と大きくタイトルを打っている。さらにキャプションで地震と津波と原発事故の3重苦に見舞われた日本は、危機的状況に長く留まるであろうという大方の予想を覆して、わずか1年で立ち上がり復興に向けて力強く歩みだした、と説明している。
15ページにも及ぶ「パノラマ」の特集記事は先ず、宮城県の女川市と仙台空港の地震直後、3ヶ月後、さらに6ヵ月後の定点撮影写真を掲載しながら、災害現場から瓦礫が取り除かれ整理されていく様子を紹介して、復興への着実な歩みを印象付ける構成になっている。定点撮影写真の手法は、いろいろな震災報告で使われていて目新しさはないが、瓦礫の山が消えてすっきりしていく様子は、何度見てもやはり、日本人ならではの迅速かつ正確な仕事振りが一目瞭然で感慨深い。

特に行政の仕事が大ざっぱで遅いことが多いここイタリアでは、紹介された一連の写真を見ただけで驚く読者が相当数いるに違いない。なにしろ2009年に起きたイタリア中部地震の瓦礫の整理さえまだ完全には終わっていないし、最近ではナポリのゴミの山の問題が、人々の気持ちを深く落ち込ませたりもしているお国柄だから。

言うまでもなく東北の被災地の瓦礫処理作業はまだ道半ばであり、パノラマの記事でも、2253万トンにものぼる被災地の瓦礫(イタリア全体が一年で出すゴミの約73%に相当する)のうち、2012年2月現在で5.2%が最終処分されただけに過ぎない、と説明することを忘れてはいない。しかし、東北が蒙った圧倒的な被害規模を考慮すればそれでも、日本の作業の進み具合はほとんど奇跡に近い、とこの国の人々が考えても何ら不思議はないのである。

続けて特集記事は、高速道路や鉄道などのインフラ復旧の早さと効率の良さを紹介したあと、大まかに論点を3つに絞って考察を展開している。それは、1)我慢強い国民性、2)産業力の圧倒的な強さ、3)政治の怪物的な無能ぶり、の3点である。そこには日本への真摯な賞賛が溢れている。特に1)と2)に対する思い入れは強く、ほとんど絶賛と言っても良いほどの論陣を張っている。3)の政治の無能を指摘することでさえ、1)と2)の素晴らしさを際立たせるための道具、というような書き方なのである。

パノラマは言う。日本経済の牽引車である自動車産業は今年1月の時点で18.8%の伸び率を示し、東北の部品メーカーの停滞で落ち込んだ昨年の実績が嘘のようにエンジン全開となった。2012年、イタリアを含むEUが債務危機のあおりで-0.5%という厳しい経済成長率を予測されているのに対して、日本経済はなんと、1、7%の成長率が見込まれる(IMF予測)。日本経済の長い間の低迷と大災害に見舞われた昨年の-0、5%の成長率は、今年見込まれる1.7%という大きなジャンプへの助走にしか過ぎなかった。それは決して偶然の出来事ではない。自動車に限らず、付加価値を付ける能力に長けた日本の産業は大震災のあとも健在である。例えばロボット作りもその一つ。経済大国になった中国ではロボットへの需要が急速に大きくなったが、最先端技術であるロボットは日本人にしか作れない。中国人は日本に頭を下げるしかないのだ。

事ほど左様に、日本経済が過去20年に渡って停滞し続けたという経済統計は、単なる伝説であることが明らかになりつつある。日本はヒロシマとナガサキの悲劇を乗り越え、数々の地震災害を撥ね返し、多発する火山の憤怒に打ち勝ち、そして今東日本大震災の3重苦を克服しようとしている。そうした奇跡は、原発の停止によって発生した電力供給能力の急激な低下を、火力と水力に切り替えることで成し遂げられたのだが、原発を素早く他の発電機能に置き換えて電力を確保してしまうこと自体もまた、驚嘆するべき能力であり日本経済の揺るぎない底力を示している。

返す刀でパノラマはわが国の政治の蒙昧も厳しく指摘する。

被災地救済の特別予算こそ与野党一致で通したものの、日本の政治家は国難を尻目に国会で喧嘩ばかりしている。政府はあってないようなもの。首相はこの6年間で6回変わり、有権者の46%が総理大臣なんて誰がなっても同じ。何も期待しない、と答えた。日本は政治の脳死状態の中にあるが、国民と産業界と地方自治体から成る健全優秀な肉体は、何の問題もなく動き続けている、とたたみかける。

パノラマが、しかし、さらに持ち上げて強調するのは日本の国民性である。わざわざ『我慢』という漢字まで文中に実際に使って、被災地の皆さんをはじめとする日本国民の自己犠牲の精神と、忍耐と、強靭な連帯意識の尊さを、これでもかこれでもかとばかりに誉めたたえている。僕は記事を読みながら、まるでエズラ・ヴォーゲルの著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にはじめて接した時のような、こそばゆい思いさえしたほどだ。

同時に僕は当然、震災直後から世界中の人々が寄せ続けた日本への好意と大きな賞賛も思っていた。そしてあの時と今とは一体何が同じで何が変わっているのか、見極めようとした。震災直後に世界から日本に送られたエールの数々は、ある意味で当たり前のことだった。未曾有の災害に見舞われた国民に同情しない者などいる筈もなく、大震災が起こった直後から世界は日本をあたたかい目で見つめ続けた。

あの時もわれわれ日本人は自らを誇らしく思った。日本人が当然のこととして考え、行う行為が、かけがえのない尊いものであることを外国人の目を通してはじめて気づいたりもした。また、特にパノラマの記事が指摘するような「我慢」や「忍耐」の精神が、世界を驚かせることに驚いたりもした。我慢は自己犠牲の心に通じ、連帯感を芽生えさせ、お互いに助け合い頑張ろう、という強い意志の発露ともなる。しかもそうした覚悟や行動様式は日本人の場合、外に向かって大きくうねりを上げて突き進んでいくものではなく、内に秘めた静かな強い芯のようなものになって体内に沈殿する、と僕には感じられる。それは慎みになり謙遜を誘い節度を生む。日本人の真の美質である「日本的なもの」の完成である。それはまさしく、パノラマがわざわざ日本語の漢字を印刷してまで指摘した『我慢』の中に脈々と波打っているもの、と断定してもあながち過言ではないように思う。われわれはきっとパノラマの賛美を素直に喜んでいいのだ。

これから先しばらくは、おそらく世界中のメディアが競って東日本大震災の一周年特集を組むだろう。そしてその多くが、パノラマと同じように日本に対して肯定的な意見や主張を展開するのではないか。もしそうなれば、それは世界の人々のわが国に対する応援であり、好意であり、そして何よりも忌憚のない賛辞である。われわれはその事実を斜に構えることなく、照れず、真っすぐに受け止めて内なる力となし、さらに謙虚になって前進するべきである。巨大な不幸から一年が経った今、一年を頑張り抜いた被災者の皆さんに深い敬意を表すとともに、われわれ自らをもあらためて見つめ直し、鼓舞し、誇りにするべきなのである。

「中東のダイアナ妃」の化けの皮



欧米のメディアが「中東のダイアナ妃」「砂漠の薔薇」などと呼んで賞賛してきた、シリアのアスマ・アサド大統領夫人の化けの皮がはがれようとしている。いや、もうはがれてしまったと言ってもいいだろう。

 

先月、イギリスの新聞「タイムズ」は“アサドの妻、沈黙を破る”という見出しで、アスマ夫人の公開状を掲載した。シリア危機の発生後、表舞台から姿を消して沈黙を続けていた彼女は、同じタイムズ紙が「アスマ・アサド大統領夫人は、弾圧によって多くのシリア国民が犠牲になっている現実をいったいどう考えているのだろうか」と問いかけた公開状に答える形で、同紙に連絡をしたのである。

「アサド大統領夫人は」と、3人称形式で綴られたメール書簡の中で、彼女は「大統領の夫を支持する」と述べ、「国内の抗争を解消するための対話の構築に腐心し」「暴動に巻き込まれた犠牲者市民の遺族の救済に力を尽くしている」という内容の主張を行なった。

人々は、アスマ夫人が夫の弾圧政策を支持すると明確に述べたことに驚き、且つ対立する国内勢力間の対話の構築に奔走し、暴力の犠牲者遺族の救済に力を尽くしている、という真っ赤な嘘にさらに驚愕した。

イギリスで生まれ育ったアスマ夫人は、シリア騒乱の勃発までは同国内で慈善事業に邁進する進歩的な女性と見なされ、欧米メディアから「中東のダイアナ妃」という愛称さえ与えられていた。そればかりか、騒乱発生から間もない昨年3月には、ファッション雑誌ヴォーグが彼女を「砂漠の薔薇」と讃えてしまい、世界世論の顰蹙(ひんしゅく)を買ったりする事件も起きた。ロンドン生まれの若くて美貌の独裁者の妻は、そうやって多くの欧米メデァアを惑わせてきたのである。

なぜ欧米のメディアはアスマ・アサド大統領夫人を持ち上げ、注目しつづけてきたのか?

それは彼女がアラブ革命の希望の星だったからである。アラブ革命の本質とは言うまでもなく、民主化であり抑圧からの解放である。それには必ず女性解放が伴なう。逆に言えば、女性解放を伴なわない民主化は決して真の民主化ではない。

 

多くのシリア国民が殺害され、弾圧が続き、内戦勃発さえ懸念される状況の前では、大統領夫人の動向などどうでもいいことのようにも見えるが、アスマ夫人を巡るメディアのこだわりの裏には、アラブ革命の根幹の一つを成す「女性解放」という重大なコンセプトが存在するのである。


欧米が勝手に思い込んだことではあるが、人々は彼女にチュニジア・エジプト・リビア・イエメンなどの独裁者の妻や家族とはまったく違う役割を期待してきた。具体的に言えば、独裁者の夫を説得して弾圧をやめさせる。あるいは夫の横暴に反旗を翻して国際世論に訴える。あるいは国外脱出を試みる。あるいは亡命する・・などなど。

 

シリア危機発生前までの彼女の姿が真実なら、夫人は必ずそういう行動に出るはずだった。そして彼女の反抗がたとえ失敗に終わっても、いや失敗に終わった時こそ欧米メディアは、夫のアサド大統領をさらに苛烈に指弾して国際世論を盛り上げ、ついには権力の座から引き摺り下ろすことが可能になるかも知れない。誰言うとなくそんなシナリオが描かれていたように思う。しかし、アスマ夫人が選んだのは「沈黙」という期待はずれの動きだったのである。

ロンドン生まれでイギリス国籍を有し、民主主義大国の教育を大学まで一貫して受け、JPモルガンに勤務した経験もある極めて進歩的な女性、アスマ・アサド大統領夫人。女性の地位向上のためにねばり強く活動をつづけるファーストレディ。3人の子供の母親で慈愛深く、身分を隠して貧民街を歩いては人助けをする・・・などなど、まるで聖女そのものような彼女のイメージは、1年近い沈黙の間に大きく傷ついた。シリア国内の反政府活動家らの告発もあって、独裁者の夫に寄り添う弾圧の共犯者、という見方が徐々に強まったのである。

それでも英国を中心とする欧米のメディアはアスマ夫人への期待を完全に捨て去ることはなかった。

 

「アスマ大統領夫人は夫と同罪の抑圧者であり巨大な権力と金を握っている」と主張する反政府側に対して、欧米は「夫人は無理やり沈黙を強いられているばかりか移動の自由さえ奪われている。また彼女は優雅な生活や贅沢が好きなだけであり、例えば国家の富の大半を盗んだと批判されるエジプト前大統領夫人のスザンヌ・ムバラクなどとは違う」と弁護したりもした。

 

嘘で固められた夫人の公開状を掲載したタイムズ紙に至っては「われわれはアスマ夫人に返答を督促(とくそく)したことはないが(彼女が自主的に公開状を送ってきた・・)≪( )内は筆者注≫」とまるで未練たっぷりにも見える但し書きまで付けたほどである。

だが、夫人が沈黙を守っている間に、シリア国内外の反政府運動家たちによって、彼女の裏の顔は徐々に暴かれていったのであり、このタイムズ紙の弁護は笑止でさえある。

英国籍を持つ彼女は現在では、イギリスにいる実家の家族と結託して大きく財を蓄えつつあり、カタール首長夫人と共同で高級ホテルチェーンを経営したりもしているという。

 

夫人はそうした噂に対抗して、タイムズ紙を通して自らの立場を表明してみたものらしい。しかし、国民を殺戮する夫の立場を支持する、と述べた愚かな声明は致命的なミスだった。

 

人々は今では彼女に対して何の希望も期待も持たなくなり、黒い噂はたちまち真実になって一人歩きを始めた。夫人の今をあえて感傷的に表現するなら、さしずめ「地に落ちた中東のダイアナ妃」あるいは「血にまみれた砂漠の薔薇」とでもいうところか。

僕自身の考えを言えば、アスマ夫人はバッシャール・アサド大統領と結婚した頃まではまさしく、民主的に開けた考えを持つ女性であったろうと思う。彼女のみならず夫のアサド大統領も当初はそうだったのではないか。バッシャール・アサドは、シリアの民主化も視野に入れた進歩的な考えを持って権力の座に就いたフシがあるのである。

 

妻のアスマは夫以上にシリアの民主化を願い後押しをする積もりでいたに違いない。しかし、権力と金と特権はしばしば人を狂わせる。シリアの最高権力者とその妻は時間と共にその罠に嵌まって行った。

 

バッシャールは徐々に独裁者の様相を強め、アスマ夫人もまた同じ道をたどった。間もなく、シリア危機勃発によってその傾向は決定的になって、2人はもはや後戻りができないところまで行ってしまった。僕にはそういう風にも見えるのである。


独裁とはほとんどの場合ファミリービジネスである。2人はこの先も権力の掌握にこだわる一方で、国外送金を含めた蓄財にやっきになって行くに違いない。権力の座からすべり落ちたときは、頼りになるのは金だけである。

 

アサド政権が崩壊する可能性も見つめて、また奇跡的に権力にしがみつくことに成功した場合にはなおさら、彼らは国家から盗み出す莫大な金を死守するべくあらゆる方策を練って行くだろう。それはエジプトやリビアの例を持ち出すまでもなく、アラブの春の動乱の中でこれまで何度も繰り返されてきたことである。

 

そして、シリア国内からの外国送金をはじめとする金の操作を国際的に自由にできるのは、欧米の規制を受け易いシリア国籍のアサド大統領やその側近ではなく、イギリス国籍を有するアスマ夫人その人なのである。


 

 

ルーチョ・ダッラを知ってるかい?



天才シンガーソングライターのルーチョ・ダッラが亡くなった。69歳の誕生日を前にしての訃報。スイスでのコンサートツアー中に心臓発作に見舞われてしまった。

 

僕は彼とは仕事をしていない。友だちとも言えないかもしれないが、でも彼はいつも僕の心の中にいた。

 

1994年の夏、僕はシチリアのリパリ島でルーチョに会った。マグロを追いかけるドキュメンタリーの撮影中のことだった。

 

僕はシチリア本島のメッシーナから遠出をした猟師たちと共に船で寝泊りをして、連日マグロ漁の撮影をしていた。

 

ルーチョはリパリ島で船上のバカンスを過ごしていて、港で一緒になったのだ。

 

彼は僕が行動を共にしている猟師たちと友だちで、よくこちらの漁船にやって来ては夕食を一緒に食べた。カジキマグロを中心にした猟師料理は抜群の美味しさで、彼はリパリ島にいるときはひんぱんに猟師の船に招かれて食事をするのだという。

 

ルーチョはシンプルで自然体で優しい人だった。僕はそこで彼と親しくなり、いつか一緒にドキュメンタりー番組を作りましょうと話した。ルーチョは快くOKしてくれた。

 

その機会はないまま時間は過ぎた。僕の作るドキュメンタリー番組は実は、市井の人々を取り上げるのがほとんどだ。有名人は追いかけないし、あまり興味もない。

 

この世の中に存在する一人一人の人間の生きざまは全てドラマチックである、というのが僕の持論である。従ってあらゆる人々の人生はドキュメンタリーになりうる。

 

有名歌手のルーチョ・ダッラの日々は、市井の人々のそれよりも既に激しく劇的である。でもそれはいわば劇場劇とも言える特殊な劇で、劇場の外の広い巷間に展開される劇とは違うものである。有名人という名の劇場劇と市中劇とは違うのだ。僕が有名人を追いかけるドキュメンタリーに興味がないのはそれが理由である。

 

でも、先のことは分からない。僕はいつか劇場を出たルーチョ・ダッラの人生に行き逢うかもしれない。そのときに、共にドキュメンタリーが作れないとは誰にも言えないのである。

 

シチリア島で出会ったあと、ルーチョ・ダッラとは猟師たちを介して消息を尋ねる程度の付き合いしかなかった。それは付き合いというよりも、天才歌手への僕という一ファンの思い入れ、いう方があるいはふさわしい関係ではあったかもしれないが、僕は彼と仕事をする「可能性」を片時も疑ったことはなかったのである。

 

その機会がないまま時間が過ぎてルーチョは亡くなってしまった。

 

実は僕はファッションデザイナーのジャンフランコ・フェレとも全く同じような体験をしている。NHKの中継番組で一緒に仕事をした時、いつか一緒にドキュメンタリーを撮りましょうと約束したものの、実現しないまま天才デザイナーも亡くなってしまった。

 

彼らの人生は、僕が作るささやかなドキュメンタリーの枠組みなどからは大きく逸脱した、輝くばかりの劇場劇の連続だったのだから、それはそれでまったく問題ないのだけれど。

 

ルーチョ・ダッラを知らない人のためにユーチューブのリンクを一つ。自身のマスターピース『カルーソ』をヴィタスと共に歌うルーチョ・・

 

 

 

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