2012年05月

書きそびれたことども



書こうと思いつつ流れてしまった時事ネタは多い。そこで、できれば将来どこかで言及したいという意味を込めて、自分にとって引っかかる出来事の幾つかを列記しておくことにした。

  

マフィア関連

 

四日前の2012年5月23日は、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事がシチリアのカパーチでマフィアに爆殺された、20年目の記念日。

 

マフィアは1992年5月23日、パレルモのプンタライジ空港から市内に向かって時速140km以上のスピードで走るファルコーネ判事の車を、遠隔操作の爆破装置で正確に破壊した

 

ほぼ2ヶ月後の7月19日、彼の朋友で反マフィア急先鋒のパオロ・ボルセリーノ判事もパレルモ市内で爆殺される。

 

それらの事件には、収監中のマフィアのトップ、ボス中のボスと言われるトト・リイナ及びNo2のプロヴェンツァーノ、実行犯のジョヴァンニ・ブルスカらが深く関わっていた。

 

トト・リイナが逮捕された後、マフィア組織のトップに君臨していたのは、ベルナルド・プロヴェンツァーノ。彼は2006年に逮捕されて収監中。

 

今月10日、プロヴェンツァーノは刑務所内でプラスチック袋を頭に被って自殺未遂をした。袋が一体どこから彼の手元に渡ったかは不明。いつものマフィアがらみの謎。

 

話が前後するが、

 

2011年9月、トト・リイナの息子サルヴッチョが、8年10ヶ月の刑期を終えて出獄。罪状は「マファアとの連結・相関及び恐喝」だった。

出所後は就職も決まっていたが、世紀の悪人「トト・リイナ」の姓「リイナ」という現代イタリア最大の悪名がたたって、あちこちから拒絶反応が起きてしまい、生まれ故郷のシチリア島コルリオーネ村に送還される。そこでも村長が「良からぬ人物の居住は困る」と公式に発言。とても先進国とは思えない魔女狩りのようなイタリア社会の偏狭固陋な実態が明らかになる。

それを受けて、いくらなんでも罪を償い出所した男を差別し過ぎるという声と、大ボス「リイナ」の息子で本人もマフィアの構成員らしい男への当然の仕打ち、という声がぶつかりあう。犯罪者にも人権があるのかどうか、という古くて新しい議論だが、そんなもの人権があるに決まっている。それを認めなければ犯罪者を裁く行為も違法になるのではなかろうか。

またそれから3ヶ月後の12月7日には、ナポリの犯罪組織「カモッラ」の大ボスで
16年間も逃亡生活を送っていたミケーレ・ザガリア容疑者が逮捕された。彼は逮捕されるときイタリア人らしい名言を吐いた。即ち:
「わかった。国家の勝ちだ(・・・
Ha Vinto lo Stato)」。

日本人ならこんな言葉はまず思いつかないだろう。せいぜい「くそ、サツの勝ちだ」とか「サツに負けた・・」とか、目一杯ゆずって「検察の勝ちだ・・」などとでも言うところではないか。

ザガリアの呟きは、各地方が独立国家のように存在を主張してツッパリあっているイタリアならではの愉快発言、と僕には見える。つまり彼はイタリア人である前に、イタリア共和国内の心情的独立国家「ナポリ国のナポリ人」なのである(笑)。

 

再び話が前後するが、今月初め、93歳のイタリアの終身上院議員、ジュリオ・アンドレオッティが心臓病のため緊急入院。いったん事なきを得たが、老齢のため先行きが危ぶまれている。

アンドレオッティは3回7期に渡って首相を務め、隠れマフィアの一員と見なされて起訴、有罪、逆転無罪を勝ち取るなど、真っ黒に近い灰色政治家。
現在93歳の彼が亡くなればマフィアの一時代も確実に終わる。でも一時代が終わるだけで、マフィアの息の根を止めるのはまだ難しいだろう。

 

ウサギのこと


昨年、うちの庭に放たれたあと姿が見えなくなっていたウサギが、生きていることが判明。隣のパオロが家から200メートルほど離れた空き地で彼を見かけたのだ。僕も早速行ってみたが発見できなかった。でも動物好きのパオロの話では間違いなくうちのウサギだという。

そこで僕は彼に「トーボー君(fuggitivopiccolo)」という名前をつけた。マフィアの欠席裁判ならぬ「欠席命名」だ(笑)。帰って来てくれれば何よりだが、たとえ逃亡を続けても生きていることが分かっただけで嬉しい。空き地周りには畑なども多いので、きっと食べ物には困らない。誰かが捕らえて丸焼きにでもしない限り生きながらえるだろう。よかった・・


その他

 

4月3日、ロータリークラブに依頼されて講演をした。テーマは何でもいいという話だったので、日伊テレビ(番組)比較論でもしゃべろうかと思った。が、普段からイタリアのテレビ、特に公共放送のRAIが、ドキュメンタリー制作の伝統をほとんど持たないことに不満を抱いている自分は、しゃべるうちに頭に血が上って罵詈雑言を吐きそうな気がしたので止めた。

テレビ局がドキュメンタリー制作の伝統や文化を持たないのは、視聴者であるイタリア国民があまりそれを見たがらないからだ。だからテレビを罵倒するのはイタリア人を罵倒することだ。そう思って止めたのである。

その代わりに、素直に日本文化について自分なりの考えを話した。途中で「日本人にとっての自然とは、皆さんにとっての宗教に近い重要なものです」というひと言を入れたら、案の定、特に高齢者のメンバーの人たちが明らかに目をシロクロさせた。予想通りの反応がとても面白かった。一神教のドグマに縛られている人たちには、そういう話は永遠に理解できないのだ。

 

 

地震大国イタリアに生きる-東日本大震災がもたらしたもの-



5月20日未明、ヨーロッパの地震大国、ここイタリアでまたもや死傷者の出る地震があった。

震源は北イタリアのボローニャ市近郊。午前四時過ぎのことだったが、かなりの揺れを感じて飛び起き、家の中でもっとも厚い壁に体を寄せて難を避けた。自宅建物は石造りの古い大きな建築物である。


身を寄せた壁は1メートル近い厚みがある。建物の中心を端から端に貫き、さらに一階から三階を経て屋根にまで至る、いわば家の背骨。大黒柱ならぬ「大黒壁」。地震の際は一番安全ということになっている。

だが、それはもちろん比較の問題に過ぎない。巨大な石造りの建物が崩れ落ちたらかなり危険なことになるだろう。揺れに身をゆだねながら僕は死を覚悟した。これは誇張ではない。

昨年、東日本大震災の巨大な不幸を、遠いイタリアで苦しく見つめ続けた。大津波が家も車も船も畑も何もかも飲みこんで膨れ上がっていく驚愕の地獄絵図を目の当たりにして、人は無常観の根源にある自然の圧倒と死を、歴史上はじめて共有・実体験した、と言っても過言ではないだろう。

3月11日以降の日々に感じた恐怖や悲しみは僕の中に深く沈殿し、その反動のような心の力学が働いてでもいるのか、自分の中で何かが大きく変わってしまったと感じる。あえて言えば、それは自分自身が強くなったような、或いは開き直った、とでもいうような不思議な確信に近いものである

これまでにも繰り返し地震はあった。今回のような揺れを感じたこともある。その度に家の中心にある壁際に身を寄せた。僕は臆病者なので、その時はいつもパニックに陥り、怖れ、不安になった。同時に心のどこかで「何が起きても大丈夫。自分だけは絶対に死なない」と根拠のない「空確信」にもすがりつきつつ、ひたすらうろたえるばかりだった。

ところが今回僕はひどく落ち着いていた。隣で恐慌に陥っている妻をかばいながら冷静に死を思い、覚悟した。そんな反応は東日本大震災の記憶なしにはあり得ない。

マグニチュード9の大震災とマグニチュード6の今回のイタリア地震を比較するのは馬鹿げているかもしれない。 しかし、強い揺れのさ中ではマグニチュードの大小は分からない。加えてこの国では、地震の度に日本では考えられないような建築物の崩落が起きたりもする。

古い石造りの建築物の中には、何世紀にも渡って生きのびる、いわば究極の耐震構造物と形容してもいいような強靭なものもある。それと同時に、地動に弱く一気に崩壊する建物もまた多いのだ。

しかし、石造りの建物が崩壊する恐怖を差し引いても、そこで死を覚悟するなんて滑稽だ、と今になっては思う。でも、揺れのただ中では、僕は確かにそこに死を見ていたのだ。あるいは死に至るなにかを冷静に待ち受けていた。

「死の覚悟」なんて僕はこれまで断じて経験したことがない。東日本大震災が僕の人生観を永遠に変えてしまったのだ、と心の奥の深みで今、痛切に思う。

 

ワンダーランド「君府」の魅力~その光と影~



君府とはトルコのイスタンブールの古い呼び名の一つである。先日、その君府のグランドバザール他でロケをした。仕事にかこつけて、ロケの前後の日々には街を大いに探索した。この記事のタイトルは「ワンダーランド・イスタンブールの魅力-その光と影-」というタイトルでも良かったが、ちょっと目先を変えて「君府」と書いてみた。


西洋と東洋がクロスオーバーする君府は激しく魅惑的な街である。そこには常に西風と東風が吹き込んでいる。風はぶつかり、主張し、逆巻き、やがて相互に受容しながら融和して、涼風になって街の通りに吹き募る。ヨーロッパとアジアが出会う街、イスタンブールを下手な文学調で表現するとそんな感じだろうか。

ヨーロッパの街並みの中にブルーモスクをはじめとするアラブ文化が存在を主張している。6本のミナレット(尖塔)が凛として天を突くブルーモスクはひたすら美しい。

イスタンブールは街の景観が既に複雑な美となって旅人を魅了する。古代ローマ帝国の版図の中で栄え、15世紀以降はオスマン帝国の支配下でオリエント文明の中心地として花開いた街。キリスト教の教会とイスラム教のモスクが併存する、楽しいワンダーランドである。

景観もさることながら、イスタンブールは特に街の「心」が複雑に入り組み、もつれ、綾(あや)なし、紛糾しているように見える。が、それは少しも不快なものではなく、活気にあふれたもの珍しい風となって旅人の頬を撫でて過ぎる。僕の目にはそれが君府の魅惑の根源と映る。

ヨーロッパの街並以外の何ものでもない旧市街を抜けて、グランドバザールの中に足を踏み入れると、そこは純粋の中東世界。そこからさらに足を伸ばすと、えんえんと続く市場通りに、布で髪を隠したヒジャブ姿のムスリム女性が行き交う。全身黒ずくめのニカーブを装ったムスリム女性も多く、むしろ普通の洋装の女性を探すのが難しいくらいの印象である。

そこで目までおおい隠すブルカ姿の女性を見たときは、さすがに強烈な違和感を覚えた。ブルカはタリバンによってアフガニスタン女性が着用を強要された服装、というのが定説だが、暑くて乾燥した気候や強烈な日差しから肌身を守る意味があったという考え方もないではない。でも、もっとも重大な意味を持つのはやはり、それらの装いが女性を一定の価値観の中に縛りつける道具であるという点である。

僕がなぜそうした女性の服装にこだわるのかというと、そこにイスラム教社会の執拗な女性差別の象徴を見る思いがするからである。イスラム教に限らず、いかなる宗教であれ僕は深い敬意を表する。しかし、あからさまな女性差別に関しては、宗教であれ国であれ社会であれ、強い嫌悪感を覚えずにはいられない。それは僕が信奉する民主主義に対するの最大の脅威であり障害だと思うからである。そこで僕は、差し出がましいことを承知で、あらゆる場所や機会を捉えて女性差別を批判したり、修正を要求したり、開明を願うことをいとわない。

トルコ共和国は、建国の父アタテゥルコの強烈な西欧化政策によって近代国家となった。同国の最終目標はEU(欧州連合)への加盟である。だがトルコ共和国悲願のEU加盟交渉は遅々として進んでいない。

その原因の主なものは共和国が抱えるクルド問題やキプロス問題、さらにアルメニア人虐殺問題であるという説明が良くなされる。それは事実である。だが、それよりもさらに大きな障害は、キリスト教国であるEU加盟各国の反イスラムの感情だ。トルコはイスラム世界初の世俗主義国家ではあるが、国民のほとんどがムスリムつまりイスラム教徒であることには変わりがない。

そしてヨーロッパの人々が、イスラム教社会のもっとも大きな問題の一つと見なすのが、女性差別意識なのである。トルコの女性解放は進んでいるがまだ十分ではない、と人々は考え、それがEU加盟国家間の暗黙の了解になっている。 僕は伝統衣装を着てイスタンブールの街を行き交う多くのムスリム女性を見ながら、しきりとトルコのEU加盟問題を思い起したりもしていた。

ヨーロッパとアジアが出あう街とは言葉を替えれば、ヨーロッパでもありアジアでもあるということであり、或いはヨーロッパでもアジアでもない、ということでもある。唐突に聞こえるかもしれないが、そういうイスタンブールの複雑なたたずまいは、日本にも似ていると僕は感じる。西洋化された東洋。景観が西洋化されたように見えるが、内実はがんがんとして東洋のトルコであり同じく東洋の日本であるという共通性。

激しく切なく欧米を恋い慕い、模倣し、ついに追いついたものの、表面はどうであれ決して欧米そのものにはなれないことに気づき、疎外され、傷つき、やがて開き直って、自身のアイデンティティーに目覚める。アイデンティティーに目覚めてそれの追求を始めて、独自の文化・ルーツへの自信も深めながら、依然として欧米への恋心も抱き続けている純真な者たち。それがイスタンブールでありトルコであり日本なのかもしれない。

矛盾と闊達と自信がみなぎっている魅惑の街、君府・イスタンブール。。。

僕はそんなイスタンブールに郷愁にも似た強い親しみを覚えるのである。

国の中心はわが街、わが美しい邦



イタリア共和国には首都は存在しない。あるいは、イタリア共和国には首都が無数にある。ローマがイタリアの首都だと思いこんでいるのは、当のローマ市民と日本人に代表される外国人くらいのものである。

イタリアが統一国家となったのは、今から150年前のことに過ぎない。それまでは海にへだてられたサルデニア島とシチリア島は言うまでもなく、半島の各地域が細かく分断されて、それぞれが独立国家として勝手に存在を主張していた。それは統一から150年が経った今も、実はまったく変わっていない。

国土面積が日本よりも少し小さいこの国の中には、周知のようにバチカン市国とサンマリノ共和国という二つのれっきとした独立国家があるが、それ以外の街や地域もほとんど似たようなものなのである。ミラノはミラノ、ベニスはベニス、フィレンツェはフィレンツェ、ナポリはナポリ、シチリアはシチリア・・・と、イタリアは今もってたくさんの小さな独立国家を内包して一つの国を作っている。

もちろん正式にはローマが統一国家イタリアの首都だから、国家レベルの政策決定や立法や対外政策というのはローマで成されるし、国会や大統領府もローマに置かれている。このことを指摘するとローマ人は「その通り!」と胸を張る。ところがローマ以外の土地の人々は「アッローラ?(だから何なの)」と、バカにしきった顔で肩をすくめて見せたりする。

古代ローマ帝国が滅亡して以来、ローマ市は法皇が支配する小さな一教会国の首都に過ぎなかった。その間他の地域は、共和国や公国や王国や自由都市として独立し、ローマを圧倒するほどの力と文化を持ち続けるものがいた。その中でも良く知られている例が、ルネッサンスを生み出したフィレンツェであり、東方貿易と海運業で栄えたベニスであリ、あるいは同じ海洋国家のジェノヴァである。
 
そういう歴史があるために、150年前に国家が統一され、それからさらに10年後の1871年にローマが統一国家の首都となっても、人々は少しも納得しない。ローマはイタリアの首都かも知れないが国の中心ではない。国の中心はあくまでもわが街だと言い張って、ローマに同調するどころかお互いに反目し合ってばかりいる。

実際にイタリアを旅して回ると、人々の言い分が強い根拠に基づいたものであることを思い知らされる。ベニスやフィレンツェやナポリやミラノやシチリア、そして当のローマは言うまでもなく、古い歴史を持つイタリアの都市や地域はすべて独自の文化や町並や気候風土や生活様式を持っている。食も違い建物も違い、人々の気風も違えば言葉も違う。

それぞれが一家を成す個性派ぞろいの都市や地域が一堂に集まって、イタリアという統一国家の名のもとに政治、経済、立法、対外政策その他の一切を基準化しようというのだから、ローマに居を構えた中央政府は大変である。まとまる物もまとまらない。普通の国の政府なら、一つの勢力が右と言えばすぐに左と叫ぶグループがいて、2者が話し合って妥協案を見つけるけれど、この国には右と言う声に呼応して左はおろか前後縦横上中下、東西南北天地海山松竹梅、欲しがりません勝つまでは!と議論が百出していつも大騒ぎになる。

その結果、内閣が回転式のドアみたいにくるくると変わったり、マフィアに国を乗っ取られそうになっても、それに対抗する強力な国家権力機構が中々できなかったりもする。イタリア共和国が国家権力の名のもとにマフィアを封じこむことができたのは、イタリア政府が唯一安定した時期、つまりムッソリーニのファシズム政権の間だけなのである。

そういうマイナス面はあるが、しかし、それだからこそ今あるイタリアの良い面もまた存在する。つまり誰もが自説を曲げずにわが道を行こうと頑張る結果、カラフルで多様な行動様式と、あっとおどろくような独創的なアイデアが国中にあふれることになるのだ。

そして最も肝心な点は、イタリア人の大多数が国家としてのまとまりや強力な権力機構を持つことよりも、各地方が多様な行動様式と独創的なアイデアを持つことの方が、この国にとってははるかに重要だと考えている事実である。

言葉を変えれば、彼らは「それぞれの意見は一致しないし、また一致してはならない」という部分でみごとに意見が一致する。この国ではあくまでも「違うこと」が美しいのだ。

外から眺めると混乱の極みに見えるイタリアという国には、そういう訳で実は混乱はない。そこにはただ“イタリア的な秩序”があるだけなのである。つまり国がまとまらないことを承知で、なおかつわが街わが邦の独自性を死守しようとするイタリア的な秩序が。

困ったことにその秩序は、イタリア人一人ひとりの対人関係においてもしっかりと生きている。だからイタリアは国も国民もいつも騒がしい。外から見るとそれがまた混乱に見える・・・。

夏まで、の


トルコではイスタンブールのロケのついでに、その魅惑的な街をたっぷりと堪能し、さらに世界遺産のカッパドキアまで足をのばした。

イタリアに戻ってからは、撮影素材の少しの編集作業と多くのチャリティー事業及びその準備に忙殺されている。


先週金曜日からの4日間は、ガルダ湖畔の伯爵家で催されるガーデン祭りに参加。祭りは地域振興が目的のイベント

伯爵家の人々が亡くなったり老いたりして参加しないので、仕事が妻と僕の肩に重くのしかかってくる。少し疲れ気味。

3週間後にはガルダ湖とほぼ同じ趣旨の祭りが僕の住む村でも行なわれる。湖のそれよりもはるかに規模が大きい祭りでは、わが家も会場の一部になる。


毎年2月頃にはじまる祭りの準備は今がピーク。


それは昨年も同じだったのだが、同時に東日本大震災チャリティーコンサートの準備もあったため、僕の頭の中ではそっちの方が優先されていて、ほとんど覚えていない。


今年は東日本大震災チャリティーコンサートに協力してくれた村の人々への感謝も込めて、気を入れて準備作業を手伝っている。たいしたことはできないけれど・・


6月になると、これまた例年のマトグロッソ主催のチャリティーコンサートもわが家で開かれる。マトグロッソは有名な慈善団体。

昨年はマトグロッソの友人たちも東日本大震災チャリティーコンサートに集中してくれた。感謝。


今年は普通に戻って、南米の子供たちを支援するためのコンサートを行なう。イタリア在住の日本人にも参加してほしいが、これは少し難しいだろう。

ガルダ湖の家も含めて、今年もまたそうやってチャリティー事業の多い夏がやって来る。


疲れないわけではないが、どうせ逃げられないのだから、振り向いてこちらから積極的に立ち向かって行こうと思う。


仕事や義務というのは、不思議なことに、逃げれば逃げるほど重圧を増してのしかかって来るものだから。

そして

逃げずにアクティブにかかわるのが何事につけ成功のコツなのだから・・

  

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